廃校を訪ねて............... 紫尾小学校 (2020年2月17日)(茨城県桜川市)
2月17日
この日は、茨城県の桜川市に出かけました。
椎尾山薬王院をあとにして、向かった先は...............桜川市立紫尾小学校。
紫尾小学校は、
明治7年 椎尾神社妙光寺の境内に広明小学校が創立する
明治8年 椎尾小学校と改称する。
明治16年 中等椎尾小学校と改称する。
明治22年 羽鳥村・椎尾村・東山田村・酒寄村が合併し紫尾村が誕生。
椎尾尋常小学校と改称し、酒寄分校を設置する。
明治23年 羽鳥分校を設置する。
明治26年 紫尾村立尋常高等小学校と改称する。
昭和22年 学制改革により、紫尾村立紫尾小学校と改称する。
昭和29年 紫尾村が真壁町、谷貝村、樺穂村と合併して新たな真壁町が誕生。
真壁町立紫尾小学校と改称する。
昭和33年 羽鳥分校が真壁小学校に統合される。
昭和53年 酒寄分校が本校に統合される。
平成17年 真壁町が岩瀬町、大和村と合併して桜川市が誕生。
桜川市立紫尾小学校と改称する。
平成30年 紫尾小学校、真壁小学校、桃山中学校統合して、
小中一貫校『桃山学園』が発足する。
紫尾小学校は廃校となる。
と、このような沿革となっています。
こちらが紫尾小学校の正門。
門柱には大きな表札が掲げられています。
紫尾小学校校舎。
鉄筋コンクリート2階建の校舎。
正面玄関。
正面玄関の庇に掲げられた校章。
正面玄関に掲げられた表札。
この校舎は昭和53年に建てられたモノのようです。
と言う事は、建ってから43年。
いずれ解体と言うことになってしまい
その姿を見る事が出来なくなってしまうのだろうか?
校舎の前庭には二宮像。
こちらは、トーテムポール。
今では見る事も少なくなりました。
そのトーテムポールは、昭和57年度の卒業生の贈り物のようです。
校歌の碑。
こちらは、昭和44年度と昭和53年度の卒業生の贈り物のようです。
前庭には、碑やモニュメントが幾つか残っている。
こちらは、体育館。
校舎の裏手に広い校庭。
校庭に残る遊具類。
校庭の片隅には朝礼台。
校舎と校庭の間には、もう一つ別な校舎。
こちらは一的には東側になるから東門?
門柱に残る表札。
そして、正門との間にもう一つの門。
石造りの古い門柱だから、こちらがかつての正門だったのでしょう。
いずれにしても、この校舎がいつまで残っているのか?
廃校記念碑や学校跡碑が無いから、
出来れば校舎をずっと残しておいて欲しいと思うのは私だけ.........?
この日は、茨城県の桜川市に出かけました。
椎尾山薬王院をあとにして、向かった先は...............桜川市立紫尾小学校。
紫尾小学校は、
明治7年 椎尾神社妙光寺の境内に広明小学校が創立する
明治8年 椎尾小学校と改称する。
明治16年 中等椎尾小学校と改称する。
明治22年 羽鳥村・椎尾村・東山田村・酒寄村が合併し紫尾村が誕生。
椎尾尋常小学校と改称し、酒寄分校を設置する。
明治23年 羽鳥分校を設置する。
明治26年 紫尾村立尋常高等小学校と改称する。
昭和22年 学制改革により、紫尾村立紫尾小学校と改称する。
昭和29年 紫尾村が真壁町、谷貝村、樺穂村と合併して新たな真壁町が誕生。
真壁町立紫尾小学校と改称する。
昭和33年 羽鳥分校が真壁小学校に統合される。
昭和53年 酒寄分校が本校に統合される。
平成17年 真壁町が岩瀬町、大和村と合併して桜川市が誕生。
桜川市立紫尾小学校と改称する。
平成30年 紫尾小学校、真壁小学校、桃山中学校統合して、
小中一貫校『桃山学園』が発足する。
紫尾小学校は廃校となる。
と、このような沿革となっています。
こちらが紫尾小学校の正門。
門柱には大きな表札が掲げられています。
紫尾小学校校舎。
鉄筋コンクリート2階建の校舎。
正面玄関。
正面玄関の庇に掲げられた校章。
正面玄関に掲げられた表札。
この校舎は昭和53年に建てられたモノのようです。
と言う事は、建ってから43年。
いずれ解体と言うことになってしまい
その姿を見る事が出来なくなってしまうのだろうか?
校舎の前庭には二宮像。
こちらは、トーテムポール。
今では見る事も少なくなりました。
そのトーテムポールは、昭和57年度の卒業生の贈り物のようです。
校歌の碑。
こちらは、昭和44年度と昭和53年度の卒業生の贈り物のようです。
前庭には、碑やモニュメントが幾つか残っている。
こちらは、体育館。
校舎の裏手に広い校庭。
校庭に残る遊具類。
校庭の片隅には朝礼台。
校舎と校庭の間には、もう一つ別な校舎。
こちらは一的には東側になるから東門?
門柱に残る表札。
そして、正門との間にもう一つの門。
石造りの古い門柱だから、こちらがかつての正門だったのでしょう。
いずれにしても、この校舎がいつまで残っているのか?
廃校記念碑や学校跡碑が無いから、
出来れば校舎をずっと残しておいて欲しいと思うのは私だけ.........?
2020/04/01 Wed. 00:00 |
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廃校を訪ねて.............. 上妻小学校大木分教場 (2020年2月10日)(茨城県下妻市)
2月10日
この日は、茨城県の下妻市に出かけました。
砂沼をあとにして、向かった先は.........上妻小学校大木分教場。
大木分教場は、明治6年に創設された大木小学校が
その始まりとされています。
明治6年 大木小学校創立。
明治34年 大木小学校を上妻尋常高等小学校の分教場とする。
昭和22年 学制改革により、上妻村立上妻小学校大木分教場と改称。
昭和34年 本校に統合して大木分教場は廃校となる。
と、このような沿革となっているようです。
大木集落の幹線道路沿いにある分教場跡地。
現在は、『大木農村集落センター』として地域の集会所のような施設となっています。
廃校から既に60年。
校舎はとっくに解体され、
赤い屋根の農村集落センターが建てられています。
最初は、分教場時の建物(校舎)かと思いましたが
考えたら60年前に廃校の分教場。
とても60年+αの建物には見えません。
廃校記念碑かと思ったら、大きく『大木農村集落センター』と刻まれた碑。
敷地内に残る桜の古木が2本。
分教場時代のモノでしょう。
アスファルトで固められてしまった敷地ですが
分校時は土の地面を子供達が走り回っていたのでしょう。
定番の消防倉庫は見当たりませんでしたが
古紙回収、保管用の倉庫が置かれていました。
地方の廃校跡だと、地域の資源ゴミの回収場所に利用されることも多い。
この大木分校も集会所としての顔を持ち、
資源ゴミの回収場所としての顔も持つ分教場跡地でした。
この日は、茨城県の下妻市に出かけました。
砂沼をあとにして、向かった先は.........上妻小学校大木分教場。
大木分教場は、明治6年に創設された大木小学校が
その始まりとされています。
明治6年 大木小学校創立。
明治34年 大木小学校を上妻尋常高等小学校の分教場とする。
昭和22年 学制改革により、上妻村立上妻小学校大木分教場と改称。
昭和34年 本校に統合して大木分教場は廃校となる。
と、このような沿革となっているようです。
大木集落の幹線道路沿いにある分教場跡地。
現在は、『大木農村集落センター』として地域の集会所のような施設となっています。
廃校から既に60年。
校舎はとっくに解体され、
赤い屋根の農村集落センターが建てられています。
最初は、分教場時の建物(校舎)かと思いましたが
考えたら60年前に廃校の分教場。
とても60年+αの建物には見えません。
廃校記念碑かと思ったら、大きく『大木農村集落センター』と刻まれた碑。
敷地内に残る桜の古木が2本。
分教場時代のモノでしょう。
アスファルトで固められてしまった敷地ですが
分校時は土の地面を子供達が走り回っていたのでしょう。
定番の消防倉庫は見当たりませんでしたが
古紙回収、保管用の倉庫が置かれていました。
地方の廃校跡だと、地域の資源ゴミの回収場所に利用されることも多い。
この大木分校も集会所としての顔を持ち、
資源ゴミの回収場所としての顔も持つ分教場跡地でした。
2020/03/23 Mon. 00:00 |
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廃校を訪ねて...............蚕養小学校 (2020年2月10日)(茨城県下妻市)
2月10日
この日は、茨城県の下妻市に出かけました。
淡島神社をあとにして、向かった先は...............下妻市立蚕養小学校。
蚕養小学校は、
明治6年 豊田郡鯨村に呑舟学校が開設。
鯨村華蔵院をもってこれに充てる。
明治22年 蚕養尋常小学校てなり華蔵院を仮校舎とする。
明治44年 現在地に移転する。
大正9年 蚕養尋常高等小学校と改称する
昭和22年 学生改革により、蚕養村立蚕養小学校と改称する。
昭和30年 宗道村、蚕飼村、大形村が合併して千代川村が発足。
千代川村立蚕養小学校と改称する。
平成18年 千代川村が下妻市に編入される。
下妻市立蚕養小学校と改称する。
平成26年 宗道小学校に統合され廃校となる。
と、このような沿革となっています。
淡島神社、甲神社からもいずれも徒歩圏内にある蚕養小学校。
淡島神社の狭い境内に車を停めて、徒歩で向かいます。
県道沿いの正門。
コンクリート製の門柱には鋳鉄製の表札が残る。
蚕養小学校校舎。
別アングルから。
校舎正面玄関。
玄関の庇に掲げられた校章。
校舎の前には、『蚕養小学校学び舎の碑』。
いわゆる、廃校記念碑の類いになりますね。
裏面には校歌が刻まれています。
="450" height="298" />
こちらも校歌の碑。
結果的に、校歌の碑がダブっちゃったんですね。
残念ながら二宮像はありませんでした。
その代わりにこんな像が校舎が前に残っています。
鉄筋校舎とは別に、小さいながらも木造の校舎が残っていました。
校庭。
校庭に残された遊具類。
校庭の隅には大イチョウ。
蚕養小学校の歴史を見届けてきた大イチョウ。
こちらも負けず劣らず立派な樹。
これこそ、シンボルツリーと呼ぶに相応しい。
敷地から細い道を一本挟んで体育館。
体育館の前には朽ちた百葉箱。
そして、その脇には緯度経度な座標が刻まれたプレート。
明治初期に創設された蚕養小学校。
歴史のある学校だった蚕養小学校。
廃校から既に5年の月日が流れてしまいました。
この緯度経度の示す場所には学び舎は無くなってしまいました。
この日は、茨城県の下妻市に出かけました。
淡島神社をあとにして、向かった先は...............下妻市立蚕養小学校。
蚕養小学校は、
明治6年 豊田郡鯨村に呑舟学校が開設。
鯨村華蔵院をもってこれに充てる。
明治22年 蚕養尋常小学校てなり華蔵院を仮校舎とする。
明治44年 現在地に移転する。
大正9年 蚕養尋常高等小学校と改称する
昭和22年 学生改革により、蚕養村立蚕養小学校と改称する。
昭和30年 宗道村、蚕飼村、大形村が合併して千代川村が発足。
千代川村立蚕養小学校と改称する。
平成18年 千代川村が下妻市に編入される。
下妻市立蚕養小学校と改称する。
平成26年 宗道小学校に統合され廃校となる。
と、このような沿革となっています。
淡島神社、甲神社からもいずれも徒歩圏内にある蚕養小学校。
淡島神社の狭い境内に車を停めて、徒歩で向かいます。
県道沿いの正門。
コンクリート製の門柱には鋳鉄製の表札が残る。
蚕養小学校校舎。
別アングルから。
校舎正面玄関。
玄関の庇に掲げられた校章。
校舎の前には、『蚕養小学校学び舎の碑』。
いわゆる、廃校記念碑の類いになりますね。
裏面には校歌が刻まれています。
="450" height="298" />
こちらも校歌の碑。
結果的に、校歌の碑がダブっちゃったんですね。
残念ながら二宮像はありませんでした。
その代わりにこんな像が校舎が前に残っています。
鉄筋校舎とは別に、小さいながらも木造の校舎が残っていました。
校庭。
校庭に残された遊具類。
校庭の隅には大イチョウ。
蚕養小学校の歴史を見届けてきた大イチョウ。
こちらも負けず劣らず立派な樹。
これこそ、シンボルツリーと呼ぶに相応しい。
敷地から細い道を一本挟んで体育館。
体育館の前には朽ちた百葉箱。
そして、その脇には緯度経度な座標が刻まれたプレート。
明治初期に創設された蚕養小学校。
歴史のある学校だった蚕養小学校。
廃校から既に5年の月日が流れてしまいました。
この緯度経度の示す場所には学び舎は無くなってしまいました。
2020/03/20 Fri. 00:00 |
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廃校を訪ねて...............大須賀小学校第二分教場 (2020年1月30日)(千葉県成田市)
1月30日
この日は、成田市に出かけました。
磐裂神社をあとにして、向かった先は......... 旧・大栄町立大須賀小学校第二分教場。
大須賀小学校第二分教場は、明治24年に創立した村田小学校がその始まりとされています。
明治24年 村田耕田寺傍地に村田小学校設立。
明治41年 伊能小学校、桜田小学校、奈土小学校、
村田小学校が統合され
新たに大須賀尋常高等小学校が設立される。
村田小学校は第三分教場となる。
大正2年 第一分教場(旧・伊能小学校)を廃止し、
第三分教場は、第二分教場と改称する。
昭和22年 学制改革により、大須賀村立大須賀小学校第二分教場と改称する。
昭和30年 大須賀村が町村合併により大栄町となり、
大栄町立大須賀小学校第二分教場と改称する。
昭和31年 第三分教場(旧・櫻田小学校)が分離独立して、大栄町立櫻田小学校となる
昭和40年 櫻田小学校に統合され、廃校となる。
と、このような沿革となっているようです。
この第二分教場については、大須賀小学校のHPでその存在を知りましたが詳細は不明。
学区が村田地区だったことから、村田集落にある『ふれあいセンター』に当たりを付けて訪れました。
公民館のような施設。
確かに学校跡の雰囲気はあるけれど、学校遺構がないから確証はない。
近くの民家の御婦人に訊いてみたら違っていました。
第二分教場は、離れた場所にある公園になっていました。
こちらが、第二分教場の正門跡。
門柱に表札が残っていれば良かったんですが
残念ながら外されていました。
裏面には、『昭和33 二分学区 城之内工』と刻まれています。
おそらく、第二分教場 学校区 と言う意味なんでしょう。
城の内 は、元々村田城が近くにあるから城の内とでも呼ばれていたのでしょうか?
こちらは、県道側の公園出入口。
現在は、村田街区公園と言うみたいです。
約55年前に廃校となった分教場跡。
当然、校舎は解体されています。
公園といっても小さな公園。
門柱以外に、学校跡だと彷彿させるモノはない。
遊具もブランコ1基。
さすがに55年以上も前の事ですから
このブランコは、分教場時代のモノではないでしょう。
公園に残る木々。
これらは、ここが分教場の頃から根付いていたモノでしょう。
これらの木々を懐かしむ人もいるんだろうなぁ。
この日は、成田市に出かけました。
磐裂神社をあとにして、向かった先は......... 旧・大栄町立大須賀小学校第二分教場。
大須賀小学校第二分教場は、明治24年に創立した村田小学校がその始まりとされています。
明治24年 村田耕田寺傍地に村田小学校設立。
明治41年 伊能小学校、桜田小学校、奈土小学校、
村田小学校が統合され
新たに大須賀尋常高等小学校が設立される。
村田小学校は第三分教場となる。
大正2年 第一分教場(旧・伊能小学校)を廃止し、
第三分教場は、第二分教場と改称する。
昭和22年 学制改革により、大須賀村立大須賀小学校第二分教場と改称する。
昭和30年 大須賀村が町村合併により大栄町となり、
大栄町立大須賀小学校第二分教場と改称する。
昭和31年 第三分教場(旧・櫻田小学校)が分離独立して、大栄町立櫻田小学校となる
昭和40年 櫻田小学校に統合され、廃校となる。
と、このような沿革となっているようです。
この第二分教場については、大須賀小学校のHPでその存在を知りましたが詳細は不明。
学区が村田地区だったことから、村田集落にある『ふれあいセンター』に当たりを付けて訪れました。
公民館のような施設。
確かに学校跡の雰囲気はあるけれど、学校遺構がないから確証はない。
近くの民家の御婦人に訊いてみたら違っていました。
第二分教場は、離れた場所にある公園になっていました。
こちらが、第二分教場の正門跡。
門柱に表札が残っていれば良かったんですが
残念ながら外されていました。
裏面には、『昭和33 二分学区 城之内工』と刻まれています。
おそらく、第二分教場 学校区 と言う意味なんでしょう。
城の内 は、元々村田城が近くにあるから城の内とでも呼ばれていたのでしょうか?
こちらは、県道側の公園出入口。
現在は、村田街区公園と言うみたいです。
約55年前に廃校となった分教場跡。
当然、校舎は解体されています。
公園といっても小さな公園。
門柱以外に、学校跡だと彷彿させるモノはない。
遊具もブランコ1基。
さすがに55年以上も前の事ですから
このブランコは、分教場時代のモノではないでしょう。
公園に残る木々。
これらは、ここが分教場の頃から根付いていたモノでしょう。
これらの木々を懐かしむ人もいるんだろうなぁ。
2020/03/11 Wed. 00:00 |
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廃校を訪ねて.............大須賀小学校第一分教場 (2020年1月30日)(千葉県成田市)
1月30日
この日は、成田市に出かけました。
成田豊住熊野神社をあとにして、向かった先は......... 旧・大栄町立大須賀小学校第一分教場。
この日、成田市に向かった本命は、
ズバリ、こちらの分教場を訪れることでした。
大須賀小学校第一分教場は、明治15年に創立した奈土小学校がその始まりとされています。
明治15年 奈土昌福寺の敷地を借用して奈土小学校設立
明治41年 伊能小学校、桜田小学校、奈土小学校、村田小学校が統合され、
新たに大須賀尋常高等小学校が設立される。
奈土小学校は第二分教場となる。
大正2年 第一分教場(旧・伊能小学校)を廃止し、
第二分教場は、第一分教場と改称する。
昭和22年 学制改革により、大須賀村立大須賀小学校第一分教場と改称する。
昭和30年 大須賀村が町村合併により大栄町となり、
大栄町立大須賀小学校第一分教場と改称する。
昭和49年 本校に統合され、廃校となる。
と、このような沿革となっているようです。
こちらが、正門跡。
石造りの古い門柱が残っています。
門柱には表札が掲げられています。
よく見ると、『大須賀小学校第一分校』と刻まれています。
大須賀小学校のHPを覗くと、沿革には『第一分教場』と記されています。
表札は『第一分校』。
どっちが正しいのか?
こちらでは、HPに重きを置いて、『第一分教場』と表記します。
昭和10年に作られた門柱のようです。
今から約45年前に廃校となった第一分教場。
当然、往時の校舎は既に解体されています。
跡地には、奈土公民館が建てられています。
お約束とでも言うべきか?
敷地の一角には、消防倉庫。
廃校跡地の定番活用ですね。
地域の公民館であるから、リサイクルゴミの集積所にもなっているようです。
成田市のHPを見ると、本校でもある成田市立大須賀小学校も少子化で
近い内に近隣の他校と統合して、小中一貫校に統合されるようです。
旧・大栄町域も小中一貫校が1校のみになってしまうようです。
寂しいものですね。
この日は、成田市に出かけました。
成田豊住熊野神社をあとにして、向かった先は......... 旧・大栄町立大須賀小学校第一分教場。
この日、成田市に向かった本命は、
ズバリ、こちらの分教場を訪れることでした。
大須賀小学校第一分教場は、明治15年に創立した奈土小学校がその始まりとされています。
明治15年 奈土昌福寺の敷地を借用して奈土小学校設立
明治41年 伊能小学校、桜田小学校、奈土小学校、村田小学校が統合され、
新たに大須賀尋常高等小学校が設立される。
奈土小学校は第二分教場となる。
大正2年 第一分教場(旧・伊能小学校)を廃止し、
第二分教場は、第一分教場と改称する。
昭和22年 学制改革により、大須賀村立大須賀小学校第一分教場と改称する。
昭和30年 大須賀村が町村合併により大栄町となり、
大栄町立大須賀小学校第一分教場と改称する。
昭和49年 本校に統合され、廃校となる。
と、このような沿革となっているようです。
こちらが、正門跡。
石造りの古い門柱が残っています。
門柱には表札が掲げられています。
よく見ると、『大須賀小学校第一分校』と刻まれています。
大須賀小学校のHPを覗くと、沿革には『第一分教場』と記されています。
表札は『第一分校』。
どっちが正しいのか?
こちらでは、HPに重きを置いて、『第一分教場』と表記します。
昭和10年に作られた門柱のようです。
今から約45年前に廃校となった第一分教場。
当然、往時の校舎は既に解体されています。
跡地には、奈土公民館が建てられています。
お約束とでも言うべきか?
敷地の一角には、消防倉庫。
廃校跡地の定番活用ですね。
地域の公民館であるから、リサイクルゴミの集積所にもなっているようです。
成田市のHPを見ると、本校でもある成田市立大須賀小学校も少子化で
近い内に近隣の他校と統合して、小中一貫校に統合されるようです。
旧・大栄町域も小中一貫校が1校のみになってしまうようです。
寂しいものですね。
2020/03/10 Tue. 00:00 |
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廃校を訪ねて...............旧・岩瀬町立南飯田小学校門毛分校 (2020年1月4日)(茨城県桜川市)
1月4日
この日は、茨城県の笠間市・桜川市へと出かけました。
二所神社をあとにして、向かった先は......... 旧・岩瀬町立 南飯田小学校門毛分校。
門毛分校は、明治6年12月に創設された門毛小学校がその始まりとされています。
明治6年 門毛村の洞源寺本堂に門毛小学校創立。
明治9年 亀岡村の亀岡小学校の分校となる。
明治19年 南飯田尋常小学校の分教場となる。
明治23年 北那珂尋常小学校の分教場となる。
昭和22年 学制改革により北那珂村立南飯田小学校門毛分校と改称する。
昭和30年 北那珂村が岩瀬町、東那珂村と合併し新たな岩瀬町が発足。
岩瀬町立南飯田小学校門毛分校と改称する。
昭和60年 本校に統合されて廃校となる。
と、このような沿革となっています。
こちらが、正門跡。
二所神社からはすぐそこ。
距離にしたら200mぐらいでしょうか?
実は、二所神社には駐車場がなかったので
こちらに車を停めて二所神社に参拝していました。
石造りの古い門柱。
残念ながら、表札は残っていません。
この門柱は大正4年に建立されたモノのようです。
正面に聳える古木。
きっとシンボルツリーだったんでしょうね。
学校関連の石碑かと思ったら違っていました。
集会所建築の寄付金の芳名碑でした。
門毛分校は廃校後、門毛多目的集会施設と称する施設となっています。
いわゆる、公民館ですね。
芳名碑が建立されたのは昭和61年。
分校の廃校は昭和60年。
つまり、廃校の翌年に校舎は解体されて
多目的集会所が建てられたんですね。
こちらの碑も学校とは関係ない碑。
どうやら、正門の門柱以外には学校遺構は無いようですね。
多目的集会施設の建物。
きっと、往時の分校の校舎もこんな感じで建っていたんでしょう。。
遊具もない校庭跡。
勿論、二宮像や廃校記念碑などありません。
昨年の秋の対台風で倒れたんでしょうか?
大きな木が切り刻まれています。
集会所の前に置かれた錆びついた小さな椅子。
きっと分校時代の椅子なんでしょうね。
この椅子を見ると、遠い思い出、ここに在り。
そんな事を思ってしまう人がいるんだろうなぁ................
この日は、茨城県の笠間市・桜川市へと出かけました。
二所神社をあとにして、向かった先は......... 旧・岩瀬町立 南飯田小学校門毛分校。
門毛分校は、明治6年12月に創設された門毛小学校がその始まりとされています。
明治6年 門毛村の洞源寺本堂に門毛小学校創立。
明治9年 亀岡村の亀岡小学校の分校となる。
明治19年 南飯田尋常小学校の分教場となる。
明治23年 北那珂尋常小学校の分教場となる。
昭和22年 学制改革により北那珂村立南飯田小学校門毛分校と改称する。
昭和30年 北那珂村が岩瀬町、東那珂村と合併し新たな岩瀬町が発足。
岩瀬町立南飯田小学校門毛分校と改称する。
昭和60年 本校に統合されて廃校となる。
と、このような沿革となっています。
こちらが、正門跡。
二所神社からはすぐそこ。
距離にしたら200mぐらいでしょうか?
実は、二所神社には駐車場がなかったので
こちらに車を停めて二所神社に参拝していました。
石造りの古い門柱。
残念ながら、表札は残っていません。
この門柱は大正4年に建立されたモノのようです。
正面に聳える古木。
きっとシンボルツリーだったんでしょうね。
学校関連の石碑かと思ったら違っていました。
集会所建築の寄付金の芳名碑でした。
門毛分校は廃校後、門毛多目的集会施設と称する施設となっています。
いわゆる、公民館ですね。
芳名碑が建立されたのは昭和61年。
分校の廃校は昭和60年。
つまり、廃校の翌年に校舎は解体されて
多目的集会所が建てられたんですね。
こちらの碑も学校とは関係ない碑。
どうやら、正門の門柱以外には学校遺構は無いようですね。
多目的集会施設の建物。
きっと、往時の分校の校舎もこんな感じで建っていたんでしょう。。
遊具もない校庭跡。
勿論、二宮像や廃校記念碑などありません。
昨年の秋の対台風で倒れたんでしょうか?
大きな木が切り刻まれています。
集会所の前に置かれた錆びついた小さな椅子。
きっと分校時代の椅子なんでしょうね。
この椅子を見ると、遠い思い出、ここに在り。
そんな事を思ってしまう人がいるんだろうなぁ................
2020/02/10 Mon. 15:00 |
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廃校を訪ねて...............旧・稲田小学校跡 (2020年1月4日)(茨城県笠間市)
1月4日
この日は、茨城県の笠間市に出かけました。
佐志能神社(笠間城址)をあとにして、向かった先は...............笠間市立 旧・稲田小学校跡。
《始めにお断り》
稲田小学校は、現存する小学校で廃校ではありませんが、
かつての稲田小学校だった校地を訪れました。
明治18年(1885年)に旧・稲田小学校が誕生しました。
昭和54年に旧・稲田小学校と福原小学校が統合して、
新たに笠間市立稲田小学校として新校舎を新校地に建設して移転しました。
すなわち、昭和54年までこの地に稲田小学校が在ったと言うことになります。
こちらが、旧・稲田小学校の正門。
石造りの門柱に表札は埋め込み式ではなく、ぶら下げられていたんですね。
正門の先には、大きな2本の木。
シンボルツリーだっんでしょう。
その木の下に碑らしきモノがある。
てっきり、旧・稲田小学校関連の碑だと思ったら
『いなだ保育園』と表札が埋め込まれでいました。
どうやら、校地移転後、この場所は『いなだ保育園』として利用されていたようです。
保育園の園舎。
園庭。
雑草が伸びて、枯れた状態。
園庭が、きちんと管理されていないみたい。
ひょっとしたら、廃園になっているのか?
ネットで笠間市のHPを見ても『いなだ保育園』、『いなだ保育所』では
この住所ではヒットしないようです。
隣接する建物は『稲田公民館』。
公民館の前はゲートボール場。
でも、久しく使われていないようです。
公民館の駐車場がかつての校庭の一部になるのでしょう。
ゲートボール場の脇に、碑がありました。
旧・稲田小学校の校歌の碑です。
昭和49年度の卒業生から贈られたモノのようです。
その近くには、別な碑。
そして、敷地の片隅に申し訳なさそうに建つ消防倉庫。
やっぱり、笠間市の廃校、学校跡には、コレがなくっちゃ!!(笑)。
この日は、茨城県の笠間市に出かけました。
佐志能神社(笠間城址)をあとにして、向かった先は...............笠間市立 旧・稲田小学校跡。
《始めにお断り》
稲田小学校は、現存する小学校で廃校ではありませんが、
かつての稲田小学校だった校地を訪れました。
明治18年(1885年)に旧・稲田小学校が誕生しました。
昭和54年に旧・稲田小学校と福原小学校が統合して、
新たに笠間市立稲田小学校として新校舎を新校地に建設して移転しました。
すなわち、昭和54年までこの地に稲田小学校が在ったと言うことになります。
こちらが、旧・稲田小学校の正門。
石造りの門柱に表札は埋め込み式ではなく、ぶら下げられていたんですね。
正門の先には、大きな2本の木。
シンボルツリーだっんでしょう。
その木の下に碑らしきモノがある。
てっきり、旧・稲田小学校関連の碑だと思ったら
『いなだ保育園』と表札が埋め込まれでいました。
どうやら、校地移転後、この場所は『いなだ保育園』として利用されていたようです。
保育園の園舎。
園庭。
雑草が伸びて、枯れた状態。
園庭が、きちんと管理されていないみたい。
ひょっとしたら、廃園になっているのか?
ネットで笠間市のHPを見ても『いなだ保育園』、『いなだ保育所』では
この住所ではヒットしないようです。
隣接する建物は『稲田公民館』。
公民館の前はゲートボール場。
でも、久しく使われていないようです。
公民館の駐車場がかつての校庭の一部になるのでしょう。
ゲートボール場の脇に、碑がありました。
旧・稲田小学校の校歌の碑です。
昭和49年度の卒業生から贈られたモノのようです。
その近くには、別な碑。
そして、敷地の片隅に申し訳なさそうに建つ消防倉庫。
やっぱり、笠間市の廃校、学校跡には、コレがなくっちゃ!!(笑)。
2020/02/08 Sat. 15:00 |
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廃校を訪ねて...............旧・大原小学校跡 (2020年1月4日)(茨城県笠間市)
1月4日
この日は、茨城県の笠間市に出かけました。
小原神社をあとにして、向かった先は............... 旧・友部町立 旧・大原小学校跡
大原小学校は、廃校ではなく現在は笠間市立大原小学校として現存する小学校です。
明治5年小原小学校として、保呂輪山千手院に仮校舎として創立します。
大正11年 大原尋常小学校となり、この地に校地を移転。小原に分教場を設置する。
昭和22年 学制改革により、大原村立大原小学校と改称する。
昭和30年 大原村が宍戸町、北川根村が合併して友部町となる。
友部町立大原小学校と改称する。
昭和43年 小原分校を統合する。
昭和45年 新校舎建設、校地を移転する。
その後、平成18年に友部町は岩間町と共に笠間市と合併して
新たな笠間市が誕生します。
大原小学校も笠間市立大原小学校と改称し、今日に至ります。
畑の中にある小さな碑。
小原分校でも目にした碑ですね。
碑文は『大原尋常高等小学校跡地之碑』。
大正11年から昭和45年まで
この地に大原小学校が在ったんですね。
この碑は、平成4年に大原小学校創立120周年を記念して
建立されたモノのようです。
碑は建っているものの、周りは畑。
しかも、一部は耕作されているものの、殆どが休耕地のようです。
50年前に移転しているから、校舎はとっくに解体されているけれど
学校跡を全く感じさせない。
学校跡地って、公共の施設とかに転用される事が多いけれど
耕作地になったと言うことは、元々の校地は借地だったんだろうか?
色んなことを考えてしまうけれど、
あの碑が無ければ、誰もこの場所が学校だったなんて思わないでしょう.............。
この日は、茨城県の笠間市に出かけました。
小原神社をあとにして、向かった先は............... 旧・友部町立 旧・大原小学校跡
大原小学校は、廃校ではなく現在は笠間市立大原小学校として現存する小学校です。
明治5年小原小学校として、保呂輪山千手院に仮校舎として創立します。
大正11年 大原尋常小学校となり、この地に校地を移転。小原に分教場を設置する。
昭和22年 学制改革により、大原村立大原小学校と改称する。
昭和30年 大原村が宍戸町、北川根村が合併して友部町となる。
友部町立大原小学校と改称する。
昭和43年 小原分校を統合する。
昭和45年 新校舎建設、校地を移転する。
その後、平成18年に友部町は岩間町と共に笠間市と合併して
新たな笠間市が誕生します。
大原小学校も笠間市立大原小学校と改称し、今日に至ります。
畑の中にある小さな碑。
小原分校でも目にした碑ですね。
碑文は『大原尋常高等小学校跡地之碑』。
大正11年から昭和45年まで
この地に大原小学校が在ったんですね。
この碑は、平成4年に大原小学校創立120周年を記念して
建立されたモノのようです。
碑は建っているものの、周りは畑。
しかも、一部は耕作されているものの、殆どが休耕地のようです。
50年前に移転しているから、校舎はとっくに解体されているけれど
学校跡を全く感じさせない。
学校跡地って、公共の施設とかに転用される事が多いけれど
耕作地になったと言うことは、元々の校地は借地だったんだろうか?
色んなことを考えてしまうけれど、
あの碑が無ければ、誰もこの場所が学校だったなんて思わないでしょう.............。
2020/02/06 Thu. 15:00 |
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廃校を訪ねて...............大原小学校小原分校 (2020年1月4日)(茨城県笠間市)
1月4日
この日は、茨城県の笠間市に出かけました。
来栖神社をあとにして、向かった先は............... 旧・友部町立 大原小学校小原分校
大正10年 大原尋常小学校の分教場として創立される。
昭和22年 学制改革により、大原村立大原小学校小原分校と改称する。
昭和30年 大原村が宍戸町、北川根村が合併して友部町となる。
友部町立大原小学校小原分校と改称する。
昭和43年 本校に統合されて廃校となる。
と、このような沿革となっています。
こちらが、小原分校の正門跡。
門柱は年季の入った石造りですが、表札は取り外されていて無い。
門柱の脇に建つ小さな碑。
碑文には、『大原村立大原尋常高等小学校 小原分校 小原学校 跡地之碑』と刻まれています。
大正11年から昭和45年まで、
この地が学校跡だったと記されています。
どうやら、大原小学校の創立120周年の記念事業として
この碑は建てられたモノのようです。
廃校は今から、約50年前の事。
校舎は既に無い。
現在は、『小原農村公園』となっています。
敷地の一角には、地域の集会所。
こんな感じで、往時は校舎が建っていたんでしょうか?
敷地に残る遊具類。
分校時代のモノなのか?
はたまた、農村公園になってから設置されたモノなんだろうか?
地面に埋められた古タイヤは小学校の定番遊具。
これらの古タイヤは、きっと小原分校時代のモノでしょう。
山間部に近い農村地区の分校と名が付くけれど
笠間市内の他の廃校と敷地の広さはさほど変わらない。
って言うか、むしろ広く感じたりする。
少し離れた位置から、びいすけ に声を掛けてみます。
元気良く、こちらに向かって走って来ます。
びいすけ、10歳。
今年の夏には11歳。
まだまだ、元気です!!
この日は、茨城県の笠間市に出かけました。
来栖神社をあとにして、向かった先は............... 旧・友部町立 大原小学校小原分校
大正10年 大原尋常小学校の分教場として創立される。
昭和22年 学制改革により、大原村立大原小学校小原分校と改称する。
昭和30年 大原村が宍戸町、北川根村が合併して友部町となる。
友部町立大原小学校小原分校と改称する。
昭和43年 本校に統合されて廃校となる。
と、このような沿革となっています。
こちらが、小原分校の正門跡。
門柱は年季の入った石造りですが、表札は取り外されていて無い。
門柱の脇に建つ小さな碑。
碑文には、『大原村立大原尋常高等小学校 小原分校 小原学校 跡地之碑』と刻まれています。
大正11年から昭和45年まで、
この地が学校跡だったと記されています。
どうやら、大原小学校の創立120周年の記念事業として
この碑は建てられたモノのようです。
廃校は今から、約50年前の事。
校舎は既に無い。
現在は、『小原農村公園』となっています。
敷地の一角には、地域の集会所。
こんな感じで、往時は校舎が建っていたんでしょうか?
敷地に残る遊具類。
分校時代のモノなのか?
はたまた、農村公園になってから設置されたモノなんだろうか?
地面に埋められた古タイヤは小学校の定番遊具。
これらの古タイヤは、きっと小原分校時代のモノでしょう。
山間部に近い農村地区の分校と名が付くけれど
笠間市内の他の廃校と敷地の広さはさほど変わらない。
って言うか、むしろ広く感じたりする。
少し離れた位置から、びいすけ に声を掛けてみます。
元気良く、こちらに向かって走って来ます。
びいすけ、10歳。
今年の夏には11歳。
まだまだ、元気です!!
2020/02/05 Wed. 14:00 |
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廃校を訪ねて...............南山内小学校 (2020年1月4日)(茨城県笠間市)
1月4日
この日は、茨城県の笠間市に出かけました。
上加賀田小学校をあとにして、向かった先は...............笠間市立南山内小学校。
南山内小学校の詳しい沿革は不明ですが、
明治7年に南山内村に創立しました。
昭和57年に南山内小学校、本戸小学校、来栖小学校の一部と統合して
笠間市立南小学校が開校。
南山内小学校は廃校となりました。
と、簡単ですがこのような沿革となっているようです。
こちらが、南山内小学校の正門。
石造りの古い門柱。
その門柱には往時の表札が残る。
古い御影石の門柱に残る小学校の表札と言えば、
白い表札が多いけれど、こちらは黒い表札。
ちょっぴり珍しい。
門柱脇、茂みに隠れて見づらいけれど、校歌の碑。
南山内小学校の創立八十周年の記念に建てられたモノのようです。
廃校から約38年。
校舎は無く、跡地に公民館が建てられています。
公民館前には国旗掲揚ポール。
こちらは、南山内小学校時代のモノだろうか?
そして、そのポールの脇には池の跡。
おそら、南山内小学校時代のモノでしょう。
今朝の寒さで霜の降りた校庭跡。
遊具なども無く、殺風景。
でも、遊具など必要のない奴がここに居る。
そんな敷地を匂い嗅ぎに専念する びいすけ 。
敷地の一角に見覚えのある建物。
この独特のフォルムは、幾度となく見てきた笠間市の消防倉庫。
やっぱり、笠間市の廃校、学校跡には、コレがなくっちゃ!
この日は、茨城県の笠間市に出かけました。
上加賀田小学校をあとにして、向かった先は...............笠間市立南山内小学校。
南山内小学校の詳しい沿革は不明ですが、
明治7年に南山内村に創立しました。
昭和57年に南山内小学校、本戸小学校、来栖小学校の一部と統合して
笠間市立南小学校が開校。
南山内小学校は廃校となりました。
と、簡単ですがこのような沿革となっているようです。
こちらが、南山内小学校の正門。
石造りの古い門柱。
その門柱には往時の表札が残る。
古い御影石の門柱に残る小学校の表札と言えば、
白い表札が多いけれど、こちらは黒い表札。
ちょっぴり珍しい。
門柱脇、茂みに隠れて見づらいけれど、校歌の碑。
南山内小学校の創立八十周年の記念に建てられたモノのようです。
廃校から約38年。
校舎は無く、跡地に公民館が建てられています。
公民館前には国旗掲揚ポール。
こちらは、南山内小学校時代のモノだろうか?
そして、そのポールの脇には池の跡。
おそら、南山内小学校時代のモノでしょう。
今朝の寒さで霜の降りた校庭跡。
遊具なども無く、殺風景。
でも、遊具など必要のない奴がここに居る。
そんな敷地を匂い嗅ぎに専念する びいすけ 。
敷地の一角に見覚えのある建物。
この独特のフォルムは、幾度となく見てきた笠間市の消防倉庫。
やっぱり、笠間市の廃校、学校跡には、コレがなくっちゃ!
2020/02/04 Tue. 00:00 |
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廃校を訪ねて...............上加賀田小学校 (2020年1月4日)(茨城県笠間市)
1月4日
ここ何年、(もう10年ぐらいになるのか?)毎年、元旦は休みでしたが、
今年は三ヶ日しっかりと働きました。
この日が今年初めての公休日。
茨城県の笠間市・桜川市へと出かけました。
向かった先は...............笠間市立上加賀田小学校。
上加賀田小学校の詳しい沿革については不明ですが、
明治6年 上加賀田村に小学校が創立する。
昭和57年 南山内小学校、本戸小学校、来栖小学校の一部と
統合して笠間市立南小学校が開校。
上加賀田小学校は廃校となりました。
と、簡単ながらこのような沿革だったようです。
こちらが、上加賀田小学校の正門。
石造りの古い門柱には、往時の表札。
フェンスの奥には学校跡の碑。
フェンス越しだと見づらいので、ちょっとだけ位置を変えてみます。
昭和58年廃校。
今から約38年前。
校舎は無く、更地の公園っぽい空き地。
重機が置かれていて、残土置き場になっているのか?
ブルーシートがいかにも残土っぽい雰囲気になっている。
敷地の一角は、地域のリサイクルゴミ置き場。
空き缶などの一時的なゴミ置き場となっているようです。
残念ながら遊具等も無く、学校遺構は門柱と先ほどの学校跡碑のみ。
敷地の周りに植えられていた桜の木々が
学校跡を彷彿させてくれる。
笠間市の場合、学校跡地が公民館や消防倉庫に転用される事が多いけれど
残土置き場(?)って言うのは、ちょっぴり残念ですね。
ここ何年、(もう10年ぐらいになるのか?)毎年、元旦は休みでしたが、
今年は三ヶ日しっかりと働きました。
この日が今年初めての公休日。
茨城県の笠間市・桜川市へと出かけました。
向かった先は...............笠間市立上加賀田小学校。
上加賀田小学校の詳しい沿革については不明ですが、
明治6年 上加賀田村に小学校が創立する。
昭和57年 南山内小学校、本戸小学校、来栖小学校の一部と
統合して笠間市立南小学校が開校。
上加賀田小学校は廃校となりました。
と、簡単ながらこのような沿革だったようです。
こちらが、上加賀田小学校の正門。
石造りの古い門柱には、往時の表札。
フェンスの奥には学校跡の碑。
フェンス越しだと見づらいので、ちょっとだけ位置を変えてみます。
昭和58年廃校。
今から約38年前。
校舎は無く、更地の公園っぽい空き地。
重機が置かれていて、残土置き場になっているのか?
ブルーシートがいかにも残土っぽい雰囲気になっている。
敷地の一角は、地域のリサイクルゴミ置き場。
空き缶などの一時的なゴミ置き場となっているようです。
残念ながら遊具等も無く、学校遺構は門柱と先ほどの学校跡碑のみ。
敷地の周りに植えられていた桜の木々が
学校跡を彷彿させてくれる。
笠間市の場合、学校跡地が公民館や消防倉庫に転用される事が多いけれど
残土置き場(?)って言うのは、ちょっぴり残念ですね。
2020/02/03 Mon. 15:00 |
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廃校を訪ねて...............海上小学校安須分教場 (2019年12月10日)(千葉県市原市)
12月10日
この日は、市原市に出かけました。
ある方のブログを見ていたら、今秋の台風15号の強風で
市原市のとある神社の鎮守の森が凄い事(酷い事)になっていると知り
その状況を目で見て確認しようと思い、市原市に出かけました。
その神社に向かう道すがら、兼ねてからそれらしい場所に見当を付けていた
廃校跡を探しに行きました。
向かった先は...............市原市立海上小学校安須分教場(分校)。
安須分校は、明治初期に創設された安須小学校がその始まりとされています。
明治7年 安須小学校が創設される。
明治25年 安須尋常小学校と改称する。
大正14年 海上尋常小学校安須分教場となる。
昭和22年 学制改革により海上村立海上小学校安須分教場と改称する。
昭和31年 海上村が三和町に編入され、三和町立海上小学校安須分教場と改称する。
昭和38年 三和町が市原町、五井町、姉崎町、市津町と合併して市原市が誕生する。
市原市立海上小学校安須分教場と改称する。
昭和40年 本校に統合されて廃校となる。
と、このような沿革となっているようです。
市原市の五井駅から上総中野駅まで房総半島中央部を走る小湊鉄道。
その小湊鉄道の上総山田駅からさほど離れていない安須集落。
その集落にある安須公民館にあたりをつけて訪れましたが
どうやらそこは、学校跡ではありません。
周辺をぐるっと廻って分からなかったら諦めて帰ろうと思っていたら
目の前にこんな風景が飛び込んできた。
門柱に桜の木。
どう見ても、それっぽく見える。
近寄ってみると、紛れもなく正門跡。
しっかりと表札まで残っている。
文字はカスれているけれど、
しっかりと海上小学校安須分校って読める。
あれ!?
ここでちょっとした疑問。
海上小学校のHPの沿革では、
「昭和40年安須分教場廃校」と記載されている。
分教場では無かったのか?
でもこの際、細かいことは気にしない。
目的の廃校跡が見つかったから、良しとしよう。
でも、海上小学校のHPの沿革を尊重して、
この場では分教場と言う表現にいたします。
廃校後、市原市安須児童公園として活用されて(?)いるようです。
とは言え、廃校から既に54年。
校舎もとっくに解体され、学校遺構もほとんど残っていない。
敷地の端には2本のイチョウの木。
きっとシンボルツリーだったのでしょう。
イチョウの木の奥の小さな建物はお寺の施設のようです。
敷地に残る遊具類。
50年以上前のモノだろうか?
児童公園になった時に設置されたモノかもしれない。
成寿院と言う寺院の施設。
ぱっと見、公民館っぽくも見える。
成寿院の脇からの分教場跡。
そして、裏手の高台からの分教場跡。
いずれにしても諦めかけていた中で見つける事が出来た廃校跡。
これはコレで、記憶に残る廃校跡になりました。
この日は、市原市に出かけました。
ある方のブログを見ていたら、今秋の台風15号の強風で
市原市のとある神社の鎮守の森が凄い事(酷い事)になっていると知り
その状況を目で見て確認しようと思い、市原市に出かけました。
その神社に向かう道すがら、兼ねてからそれらしい場所に見当を付けていた
廃校跡を探しに行きました。
向かった先は...............市原市立海上小学校安須分教場(分校)。
安須分校は、明治初期に創設された安須小学校がその始まりとされています。
明治7年 安須小学校が創設される。
明治25年 安須尋常小学校と改称する。
大正14年 海上尋常小学校安須分教場となる。
昭和22年 学制改革により海上村立海上小学校安須分教場と改称する。
昭和31年 海上村が三和町に編入され、三和町立海上小学校安須分教場と改称する。
昭和38年 三和町が市原町、五井町、姉崎町、市津町と合併して市原市が誕生する。
市原市立海上小学校安須分教場と改称する。
昭和40年 本校に統合されて廃校となる。
と、このような沿革となっているようです。
市原市の五井駅から上総中野駅まで房総半島中央部を走る小湊鉄道。
その小湊鉄道の上総山田駅からさほど離れていない安須集落。
その集落にある安須公民館にあたりをつけて訪れましたが
どうやらそこは、学校跡ではありません。
周辺をぐるっと廻って分からなかったら諦めて帰ろうと思っていたら
目の前にこんな風景が飛び込んできた。
門柱に桜の木。
どう見ても、それっぽく見える。
近寄ってみると、紛れもなく正門跡。
しっかりと表札まで残っている。
文字はカスれているけれど、
しっかりと海上小学校安須分校って読める。
あれ!?
ここでちょっとした疑問。
海上小学校のHPの沿革では、
「昭和40年安須分教場廃校」と記載されている。
分教場では無かったのか?
でもこの際、細かいことは気にしない。
目的の廃校跡が見つかったから、良しとしよう。
でも、海上小学校のHPの沿革を尊重して、
この場では分教場と言う表現にいたします。
廃校後、市原市安須児童公園として活用されて(?)いるようです。
とは言え、廃校から既に54年。
校舎もとっくに解体され、学校遺構もほとんど残っていない。
敷地の端には2本のイチョウの木。
きっとシンボルツリーだったのでしょう。
イチョウの木の奥の小さな建物はお寺の施設のようです。
敷地に残る遊具類。
50年以上前のモノだろうか?
児童公園になった時に設置されたモノかもしれない。
成寿院と言う寺院の施設。
ぱっと見、公民館っぽくも見える。
成寿院の脇からの分教場跡。
そして、裏手の高台からの分教場跡。
いずれにしても諦めかけていた中で見つける事が出来た廃校跡。
これはコレで、記憶に残る廃校跡になりました。
2020/01/25 Sat. 00:00 |
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廃校を訪ねて...............福原小学校 (2019年11月16日)(茨城県笠間市)
11月16日
この日は、茨城県の笠間市に出かけました。
常陸国出雲大社をあとにして、向かった先は.................笠間市立福原小学校。
福原小学校はの詳しい沿革については不明ですが
明治6年 開校。
昭和54年 稲田小学校に統合されて廃校となる。
と言った沿革のようです。
こちらが、福原小学校の正門跡。
門柱は壊れてしまったのか?
基礎部分だけ残っている。
少し離れた場所に置かれた(放置された?)門柱。
危険だから、門柱は撤去されたのかもしれませんね。
廃校後、校舎は解体されて、
跡地には公民館が建てられたようです。
敷地の一角に記念碑等がまとめられて置かれています。
二宮像。
校歌の碑。
運動場拡張記念碑。
正門跡の脇には、シンボルツリー?
枝は落とされていますが、立派なイチョウの木。
そのイチョウの根元にも卒業の記念碑。
公民館の前に遊具は移設されたのか?
校庭には遊具は無い。
何も無いだけ、広く感じる校庭。
視界の先に見えるのは................
先ほど訪れた常陸国出雲大社。
ズームで撮った拝殿。
なかなか、ロケーション的には好立地なんだけど
少子化の波には勝てなかったんですね。
この日は、茨城県の笠間市に出かけました。
常陸国出雲大社をあとにして、向かった先は.................笠間市立福原小学校。
福原小学校はの詳しい沿革については不明ですが
明治6年 開校。
昭和54年 稲田小学校に統合されて廃校となる。
と言った沿革のようです。
こちらが、福原小学校の正門跡。
門柱は壊れてしまったのか?
基礎部分だけ残っている。
少し離れた場所に置かれた(放置された?)門柱。
危険だから、門柱は撤去されたのかもしれませんね。
廃校後、校舎は解体されて、
跡地には公民館が建てられたようです。
敷地の一角に記念碑等がまとめられて置かれています。
二宮像。
校歌の碑。
運動場拡張記念碑。
正門跡の脇には、シンボルツリー?
枝は落とされていますが、立派なイチョウの木。
そのイチョウの根元にも卒業の記念碑。
公民館の前に遊具は移設されたのか?
校庭には遊具は無い。
何も無いだけ、広く感じる校庭。
視界の先に見えるのは................
先ほど訪れた常陸国出雲大社。
ズームで撮った拝殿。
なかなか、ロケーション的には好立地なんだけど
少子化の波には勝てなかったんですね。
2020/01/13 Mon. 00:00 |
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廃校を訪ねて...............本戸小学校 (2019年11月16日)(茨城県笠間市)
11月16日
この日は、茨城県の笠間市に出かけました。
友部小学校跡をあとにして、向かった先は............笠間市立本戸小学校。
本戸小学校は、
明治7年 富田藤右ヱ門氏宅を借用し、本戸小学校として創立する。
明治9年 広洞院庫裡 松本昌安氏宅を買収し校舎とする。
明治19年 本戸尋常小学校となる。
明治19年 稲田尋常小学校本戸分教場となる。
明治23年 南山内尋常小学校本戸分校となる。
明治25年 南山内村立本戸尋常小学校と改称する。
明治41年 現在地に校舎新築し移転。
昭和22年 学制改革により南山内村立本戸小学校と改称する。
昭和30年 笠間町・北山内村、大池田村が合併し新たな笠間町となる。
笠間町立本戸小学校と改称する。
昭和33年 笠間町が市制施行して笠間市となる。
笠間市立本戸小学校と改称する。
昭和57年 稲田小学校と南小学校とに地区別に分かれて統合されて廃校となる。
と、このような沿革となっています。
こちらが、本戸小学校の正門。
門柱には、往時の表札が掲げられています。
廃校後、校舎は解体され、跡地は公民館が建てられたようです。
また、敷地の一部はゲートボール場として利用されているようです。
敷地の一角に石碑類が建ち並んでいます。
校歌の碑。
裏面には沿革が刻まれています。
大変参考になりました。
創立百周年の碑。
本戸善光寺の由来の碑。
碑文によれば、元々、この地には善光寺如来が祀られて居たけれど
所有者である西光寺の藤枝氏から寄進されたものだったけれど、
管理等の維持が困難となり、藤枝家の了承を得て売却することになったそうです。
後世にその事を残すために、この碑を建てたそうです。
こちらは、本戸小学校閉校記念碑。
創立百周年記念植樹の碑。
農村公園の門柱。
現在は、公民館が建てられていますが、
廃校直後は農村公園として利用されていたようです。
敷地の一角には消防倉庫。
廃校から37年。
校庭には遊具類は残っていない。
しかしながら、校庭に残る古い桜の木々は
学校跡を感じさせてくれます。
その校庭を徘徊する びいすけ 。
気になる臭いがあって、それを体に擦り付けたいのか?
はたまた、枯れ草を芝生と勘違いしているのか?
転がって体を地面に擦り付ける びいすけ 。
よっぽど気持ちが良いんだろうか...........?
この日は、茨城県の笠間市に出かけました。
友部小学校跡をあとにして、向かった先は............笠間市立本戸小学校。
本戸小学校は、
明治7年 富田藤右ヱ門氏宅を借用し、本戸小学校として創立する。
明治9年 広洞院庫裡 松本昌安氏宅を買収し校舎とする。
明治19年 本戸尋常小学校となる。
明治19年 稲田尋常小学校本戸分教場となる。
明治23年 南山内尋常小学校本戸分校となる。
明治25年 南山内村立本戸尋常小学校と改称する。
明治41年 現在地に校舎新築し移転。
昭和22年 学制改革により南山内村立本戸小学校と改称する。
昭和30年 笠間町・北山内村、大池田村が合併し新たな笠間町となる。
笠間町立本戸小学校と改称する。
昭和33年 笠間町が市制施行して笠間市となる。
笠間市立本戸小学校と改称する。
昭和57年 稲田小学校と南小学校とに地区別に分かれて統合されて廃校となる。
と、このような沿革となっています。
こちらが、本戸小学校の正門。
門柱には、往時の表札が掲げられています。
廃校後、校舎は解体され、跡地は公民館が建てられたようです。
また、敷地の一部はゲートボール場として利用されているようです。
敷地の一角に石碑類が建ち並んでいます。
校歌の碑。
裏面には沿革が刻まれています。
大変参考になりました。
創立百周年の碑。
本戸善光寺の由来の碑。
碑文によれば、元々、この地には善光寺如来が祀られて居たけれど
所有者である西光寺の藤枝氏から寄進されたものだったけれど、
管理等の維持が困難となり、藤枝家の了承を得て売却することになったそうです。
後世にその事を残すために、この碑を建てたそうです。
こちらは、本戸小学校閉校記念碑。
創立百周年記念植樹の碑。
農村公園の門柱。
現在は、公民館が建てられていますが、
廃校直後は農村公園として利用されていたようです。
敷地の一角には消防倉庫。
廃校から37年。
校庭には遊具類は残っていない。
しかしながら、校庭に残る古い桜の木々は
学校跡を感じさせてくれます。
その校庭を徘徊する びいすけ 。
気になる臭いがあって、それを体に擦り付けたいのか?
はたまた、枯れ草を芝生と勘違いしているのか?
転がって体を地面に擦り付ける びいすけ 。
よっぽど気持ちが良いんだろうか...........?
2020/01/12 Sun. 00:00 |
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廃校を訪ねて...............旧・ 友部小学校跡 (2019年11月16日)(茨城県笠間市)
11月16日
この日は、茨城県の笠間市に出かけました。
宍戸城址をあとにして向かった先は...........旧・友部町立 友部小学校跡。
お断り: 友部小学校は現役の小学校であり、廃校ではありません。
友部小学校は、
明治34年 宍戸尋常小学校の分教場として開校する。
明治37年 友部尋常小学校として開校する。
昭和22年 学制改革により、宍戸町立友部小学校と改称する。
昭和30年 宍戸町・大原村・北川根村と鯉渕村の一部が合併して友部町が誕生。
友部町立友部小学校と改称する。
昭和48年 校地を移転する。
と、このような沿革となっています。
跡地は、JR友部駅近く,
友部駅前児童公園となっているようです。
確かに、学校跡の雰囲気を感じなくはない。
しかしながら、記念碑等の学校跡を示すものは無い。
でも、敷地境界のフェンス沿いの桜の木々が学校跡を彷彿されてくれる。
確固たる証しが無いから、『ここが本当に学校跡か?』と疑問符が浮かぶ中、
お孫さんを連れて、この公園に遊びにきた御老人がいた。
失礼を承知で、地元の人か?と訊ねると
地元の人だと言う。
その方に訊いてみると、間違いなくこの場所が
かつての友部小学校跡だと言う事です。
今は、近隣の避難場所でもある。
昭和48年に移転だから、今から46年前の事。
約半世紀前に移転したことになる。
友部町も平成18年に旧・笠間市と岩間町と合併して新しい笠間市となり
今は令和の時代を迎えることとなった。
この場所が学校だった事、
そして、かつては友部町と呼ばれていた事も
いつしか、忘れ去られてしまうんでしょうね。
この日は、茨城県の笠間市に出かけました。
宍戸城址をあとにして向かった先は...........旧・友部町立 友部小学校跡。
お断り: 友部小学校は現役の小学校であり、廃校ではありません。
友部小学校は、
明治34年 宍戸尋常小学校の分教場として開校する。
明治37年 友部尋常小学校として開校する。
昭和22年 学制改革により、宍戸町立友部小学校と改称する。
昭和30年 宍戸町・大原村・北川根村と鯉渕村の一部が合併して友部町が誕生。
友部町立友部小学校と改称する。
昭和48年 校地を移転する。
と、このような沿革となっています。
跡地は、JR友部駅近く,
友部駅前児童公園となっているようです。
確かに、学校跡の雰囲気を感じなくはない。
しかしながら、記念碑等の学校跡を示すものは無い。
でも、敷地境界のフェンス沿いの桜の木々が学校跡を彷彿されてくれる。
確固たる証しが無いから、『ここが本当に学校跡か?』と疑問符が浮かぶ中、
お孫さんを連れて、この公園に遊びにきた御老人がいた。
失礼を承知で、地元の人か?と訊ねると
地元の人だと言う。
その方に訊いてみると、間違いなくこの場所が
かつての友部小学校跡だと言う事です。
今は、近隣の避難場所でもある。
昭和48年に移転だから、今から46年前の事。
約半世紀前に移転したことになる。
友部町も平成18年に旧・笠間市と岩間町と合併して新しい笠間市となり
今は令和の時代を迎えることとなった。
この場所が学校だった事、
そして、かつては友部町と呼ばれていた事も
いつしか、忘れ去られてしまうんでしょうね。
2020/01/11 Sat. 15:00 |
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廃校を訪ねて................岩間第一小学校第一分校 (2019年11月16日)(茨城県笠間市)
11月16日
この日は、茨城県の笠間市に出かけました。
羽梨山神社をあとにして、向かった先は..........旧・岩間町立 岩間第一小学校第一分校
第一分校は、
明治37年 岩間尋常小学校第一分校設立
昭和22年 学制改革により岩間町立岩間小学校第一分校と改称する。
昭和29年 岩間町立第一小学校第一分校と改称する。
昭和58年 第一分校が廃校となる。
と、このような沿革となっています。
こちらが、正門跡。
こんな看板が建てられています。
廃校後、『岩間体験学習館』となっているようです。
校庭側から覗いてみましょう。
平屋建ての木造校舎ですね。
校舎全景。
別アングルから。
校舎をいろんな角度から眺めてみましょう。
廃校から36年。
他の施設に流用されているからとは言え
こうやって木造校舎が残っていてくれると
やっぱり嬉しいものです。
でも、校舎をグルッと一回りしても、
二宮像や廃校記念碑の類いは残っていない。
内部はこんな感じ。
校庭。
残念ながら、校庭にも二宮像や記念碑等は無い。
そして、遊具類も残っていない。
確認できるのは、桜の木々。
お約束とも言える消防倉庫はあるんですね。
取っ手が無く、壊れたまま放置されたローラー。
学校らしいと言えば、コレぐらい。
岩間体験学習館と言う事だけど、どうも使われている感じがしない。
結局、避難場所としてしか使われないのだろうか.............?
この日は、茨城県の笠間市に出かけました。
羽梨山神社をあとにして、向かった先は..........旧・岩間町立 岩間第一小学校第一分校
第一分校は、
明治37年 岩間尋常小学校第一分校設立
昭和22年 学制改革により岩間町立岩間小学校第一分校と改称する。
昭和29年 岩間町立第一小学校第一分校と改称する。
昭和58年 第一分校が廃校となる。
と、このような沿革となっています。
こちらが、正門跡。
こんな看板が建てられています。
廃校後、『岩間体験学習館』となっているようです。
校庭側から覗いてみましょう。
平屋建ての木造校舎ですね。
校舎全景。
別アングルから。
校舎をいろんな角度から眺めてみましょう。
廃校から36年。
他の施設に流用されているからとは言え
こうやって木造校舎が残っていてくれると
やっぱり嬉しいものです。
でも、校舎をグルッと一回りしても、
二宮像や廃校記念碑の類いは残っていない。
内部はこんな感じ。
校庭。
残念ながら、校庭にも二宮像や記念碑等は無い。
そして、遊具類も残っていない。
確認できるのは、桜の木々。
お約束とも言える消防倉庫はあるんですね。
取っ手が無く、壊れたまま放置されたローラー。
学校らしいと言えば、コレぐらい。
岩間体験学習館と言う事だけど、どうも使われている感じがしない。
結局、避難場所としてしか使われないのだろうか.............?
2020/01/10 Fri. 00:00 |
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廃校を訪ねて................岩間第一小学校第二分校 (2019年11月16日)(茨城県笠間市)
11月16日
この日は、茨城県の笠間市に出かけました。
笠間市は平成18年に旧・笠間市と友部町、岩間町が合併して誕生しました。
今回は、その岩間町、友部町を中心に巡ってみました。
向かった先は...............旧・岩間町立 岩間第一小学校第二分校。
第二分校は、
明治37年 岩間尋常小学校第二分校設立
昭和22年 学制改革により岩間町立岩間小学校第二分校と改称する。
昭和29年 岩間町立第一小学校第二分校と改称する。
昭和54年 岩間町立第三小学校が開校となり、第ニ分校が廃校となる。
と、このような沿革となっています。
岩間駅に向かう県道沿いに
こんな案内板が建っています。
県道から200m入ったところにある広場。
こちらが、第二分校跡です。
正門跡。
時代を感じさせる石造りの門柱。
広場というだけあって、本当に広い(笑)。
校舎は解体されていて何も無い。
門柱以外、遺構が無い。
記念碑らしきモノが無い。
敷地の境界線には桜の木。
分校時代の名残りでしょうか?
廃校後、野球か何かのグランド、あるいは運動場として利用されていたのでしょうか?
椅子が並んで、見学できるようになっている。
やっと見つけた遺構らしきモノ。
レンガで作られた焼却炉。
もう長い事使われていないので、草に覆われている。
これは第二分校の時のモノだったのだろうか.............?
この日は、茨城県の笠間市に出かけました。
笠間市は平成18年に旧・笠間市と友部町、岩間町が合併して誕生しました。
今回は、その岩間町、友部町を中心に巡ってみました。
向かった先は...............旧・岩間町立 岩間第一小学校第二分校。
第二分校は、
明治37年 岩間尋常小学校第二分校設立
昭和22年 学制改革により岩間町立岩間小学校第二分校と改称する。
昭和29年 岩間町立第一小学校第二分校と改称する。
昭和54年 岩間町立第三小学校が開校となり、第ニ分校が廃校となる。
と、このような沿革となっています。
岩間駅に向かう県道沿いに
こんな案内板が建っています。
県道から200m入ったところにある広場。
こちらが、第二分校跡です。
正門跡。
時代を感じさせる石造りの門柱。
広場というだけあって、本当に広い(笑)。
校舎は解体されていて何も無い。
門柱以外、遺構が無い。
記念碑らしきモノが無い。
敷地の境界線には桜の木。
分校時代の名残りでしょうか?
廃校後、野球か何かのグランド、あるいは運動場として利用されていたのでしょうか?
椅子が並んで、見学できるようになっている。
やっと見つけた遺構らしきモノ。
レンガで作られた焼却炉。
もう長い事使われていないので、草に覆われている。
これは第二分校の時のモノだったのだろうか.............?
2020/01/06 Mon. 15:00 |
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廃校を訪ねて 番外編 《 偶然見つけた学校跡 》 (2019年11月12日)(茨城県取手市)
11月12日
この日は、茨城県の取手市に出かけました。
取手市のマンホールカードを手に入れた後、利根川の堤防に向かって
八坂神社の脇を歩いていました。
八坂神社を過ぎたあたりで、目の前に石碑が現れました。
碑文を見て、びっくり!!。
そこには、『取手小学校発祥の地』 と刻まれています。
この場所には、こんな建物が建っていて、こんな看板がありました。
どうやら、取手市役所取手市支所と福祉会館が建っているようです。
Google MAPで確認すると、取手市民会館でもあるようですね。
取手小学校について調べてみると..........
明治6年3月 里仁小学校開設
明治8年2月 取手小学校と改称
昭和33年4月 学校統合(第一小,第二小)により,取手第一小学校を取手小学校と改称。
現在地に校舎を建設。
と、沿革に記されています。
すなわち、昭和33年まで、この地に取手小学校が在ったと言うことになります。
現在は、取手市民会館、取手市福祉会館、取手市役所取手支所と
公共施設が混在していて、学校跡を彷彿させるものは無い。
おまけに敷地内には、新たな建物も建設工事中?
益々、ココが学校跡地だったなんて分からなくなってしまいます。
せめてもの想いが、この碑がこの場所に建っていてくれる事ですね。
たまたま通りかかった道沿いに碑を見つけ
偶然に旧校跡(学校跡地)を見つける事ができました。
コレも日頃の行い故の結果なんだろうか?
神様がご褒美をくれたんだと思うことにしよう。
この日は、茨城県の取手市に出かけました。
取手市のマンホールカードを手に入れた後、利根川の堤防に向かって
八坂神社の脇を歩いていました。
八坂神社を過ぎたあたりで、目の前に石碑が現れました。
碑文を見て、びっくり!!。
そこには、『取手小学校発祥の地』 と刻まれています。
この場所には、こんな建物が建っていて、こんな看板がありました。
どうやら、取手市役所取手市支所と福祉会館が建っているようです。
Google MAPで確認すると、取手市民会館でもあるようですね。
取手小学校について調べてみると..........
明治6年3月 里仁小学校開設
明治8年2月 取手小学校と改称
昭和33年4月 学校統合(第一小,第二小)により,取手第一小学校を取手小学校と改称。
現在地に校舎を建設。
と、沿革に記されています。
すなわち、昭和33年まで、この地に取手小学校が在ったと言うことになります。
現在は、取手市民会館、取手市福祉会館、取手市役所取手支所と
公共施設が混在していて、学校跡を彷彿させるものは無い。
おまけに敷地内には、新たな建物も建設工事中?
益々、ココが学校跡地だったなんて分からなくなってしまいます。
せめてもの想いが、この碑がこの場所に建っていてくれる事ですね。
たまたま通りかかった道沿いに碑を見つけ
偶然に旧校跡(学校跡地)を見つける事ができました。
コレも日頃の行い故の結果なんだろうか?
神様がご褒美をくれたんだと思うことにしよう。
2020/01/04 Sat. 00:00 |
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廃校を訪ねて................旧・藤代小学校跡 (2019年11月12日)(茨城県取手市)
11月12日
この日は、茨城県の取手市に出かけました。
向かった先は................旧・藤代町立 旧・藤代小学校跡。
お断り: 藤代小学校は廃校ではなく、現役の小学校です。
藤代小学校は、
明治6年 和順学校創立
明治8年 宮和田小学校と改称
明治17年 宮和田尋常小学校と改称
明治22年 相馬尋常小学校と改称
明治25年 相馬高等小学校を創立
昭和22年 相馬町立相馬小学校と改称
昭和30年 相馬町が山王村、六郷村、高須村の一部、
久賀村の一部と合併して藤代町が誕生。
藤代町立藤代小学校と改称。
平成17年 藤代町が取手市に編入され
取手市立藤代小学校と改称する。
と、このような沿革となっていますが
明治27年から昭和53年までこの場所が学びの舎でした。
実は、こちらは取手市藤代図書館。
図書館の敷地には、こんな碑も建てられています。
碑の銘文には、平成15年、当時の藤代町長の名で
この地が藤代小学校跡地であった事が記されています。
どうやら、藤代小学校が移転した後、一時期は藤代保育園になっていたようですが
その後に図書館となったようです。
校舎は、当然解体済み。
現在は近代的なデザインの立派な図書館が建っています。
隣接する藤代武道場。
ひょっとしたら、こちらも小学校の敷地だったのかも知れない。
意外に、体育館跡だったりして...............
ネットでいろいろ調べてはみたんですが
廃校でもないから、詳しい情報は載っていませんねぇ............。
この日は、茨城県の取手市に出かけました。
向かった先は................旧・藤代町立 旧・藤代小学校跡。
お断り: 藤代小学校は廃校ではなく、現役の小学校です。
藤代小学校は、
明治6年 和順学校創立
明治8年 宮和田小学校と改称
明治17年 宮和田尋常小学校と改称
明治22年 相馬尋常小学校と改称
明治25年 相馬高等小学校を創立
昭和22年 相馬町立相馬小学校と改称
昭和30年 相馬町が山王村、六郷村、高須村の一部、
久賀村の一部と合併して藤代町が誕生。
藤代町立藤代小学校と改称。
平成17年 藤代町が取手市に編入され
取手市立藤代小学校と改称する。
と、このような沿革となっていますが
明治27年から昭和53年までこの場所が学びの舎でした。
実は、こちらは取手市藤代図書館。
図書館の敷地には、こんな碑も建てられています。
碑の銘文には、平成15年、当時の藤代町長の名で
この地が藤代小学校跡地であった事が記されています。
どうやら、藤代小学校が移転した後、一時期は藤代保育園になっていたようですが
その後に図書館となったようです。
校舎は、当然解体済み。
現在は近代的なデザインの立派な図書館が建っています。
隣接する藤代武道場。
ひょっとしたら、こちらも小学校の敷地だったのかも知れない。
意外に、体育館跡だったりして...............
ネットでいろいろ調べてはみたんですが
廃校でもないから、詳しい情報は載っていませんねぇ............。
2020/01/01 Wed. 15:00 |
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廃校を訪ねて................強瀬小学校 (2019年11月7日)(山梨県大月市)
11月7日
この日は、山梨県の大月市に出かけました。
この日の大月市廃校巡り、その最終章は.................大月市立強瀬小学校。
強瀬小学校は、
明治6年 安楽寺を教場として創立。
明治7年 都留郡第九区強強瀬学校と称する。
明治8年 浅利村・奥山村・畑倉村・岩殿村・強瀬村が合併して賑岡村となる。
明治25年 強瀬尋常小学校となる。
岩殿分教場を置く。
昭和5年 強瀬尋常高等小学校と改称する。
昭和22年 学制改革により賑岡村立強瀬小学校と改称する。
昭和29年 大月町・七保町・猿橋町・梁川村・笹子村・初狩村・賑岡村と合併して大月市が発足する。
大月市立強瀬小学校と改称する。
平成28年 大月東小学校に統合されて廃校となる。
こちらが、校門跡。
門柱。
門柱の表札。
校舎全景。
別アングルから。
校庭の一角にまとめられた石碑群。
経緯土標。
校歌の碑。
少年と少女の像。
タイトルは『元気な子』。
『 真心 』の碑。
そして、こちらが閉校記念碑。
裏面には、しっかりと沿革も刻まれています。
こちらが体育館。
校舎前の国旗掲揚ポール。
校舎の壁には、校章。
校庭の遊具類。
朝礼台。
ポツンと置かれた机。
そして、百葉箱。
こちらは、防災収納庫。
そして、避難場所の案内板。
こちらも地域の避難場所に指定されているようです。
地域の避難場所としてしか、活路がないみたいな感じで
ちょっぴり残念です。
この日は、山梨県の大月市に出かけました。
この日の大月市廃校巡り、その最終章は.................大月市立強瀬小学校。
強瀬小学校は、
明治6年 安楽寺を教場として創立。
明治7年 都留郡第九区強強瀬学校と称する。
明治8年 浅利村・奥山村・畑倉村・岩殿村・強瀬村が合併して賑岡村となる。
明治25年 強瀬尋常小学校となる。
岩殿分教場を置く。
昭和5年 強瀬尋常高等小学校と改称する。
昭和22年 学制改革により賑岡村立強瀬小学校と改称する。
昭和29年 大月町・七保町・猿橋町・梁川村・笹子村・初狩村・賑岡村と合併して大月市が発足する。
大月市立強瀬小学校と改称する。
平成28年 大月東小学校に統合されて廃校となる。
こちらが、校門跡。
門柱。
門柱の表札。
校舎全景。
別アングルから。
校庭の一角にまとめられた石碑群。
経緯土標。
校歌の碑。
少年と少女の像。
タイトルは『元気な子』。
『 真心 』の碑。
そして、こちらが閉校記念碑。
裏面には、しっかりと沿革も刻まれています。
こちらが体育館。
校舎前の国旗掲揚ポール。
校舎の壁には、校章。
校庭の遊具類。
朝礼台。
ポツンと置かれた机。
そして、百葉箱。
こちらは、防災収納庫。
そして、避難場所の案内板。
こちらも地域の避難場所に指定されているようです。
地域の避難場所としてしか、活路がないみたいな感じで
ちょっぴり残念です。
2019/12/26 Thu. 00:00 |
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廃校を訪ねて................旧・七保小学校 (2019年11月7日)(山梨県大月市)
11月7日
この日は、山梨県の大月市に出かけました。
大月市の廃校・旧校巡り、その第10弾は..............大月市立 旧・七保小学校。
お断り; 七保小学校は未だ現役の小学校で廃校ではありません。
七保小学校は明治7年に創設された葛野学校がその始まりとなっています。
明治7年 葛野学校創設。
(下和田・葛野・林・奈良子・瀬戸・駒宮・浅川の7村を所属とし、葛野村に本校を置く)
明治8年 下和田村・葛野村・林村・奈良子村・駒宮村・浅川村・瀬戸村が合併して七保村となる。
明治19年 七保尋常小学校と改称する。
下和田と浅川に分校を設置する。
明治25年4月 七保尋常小学校を分割し、葛野尋常小学校と改称し、各分校を独立校とする。
同年5月 下和田尋常小学校、浅川尋常小学校が創設され、奈良子に分校が設置される。
明治26年 葛野尋常高等小学校と改称する。
昭和22年 学制改革により七保村立葛野小学校と改称する。
昭和29年4月 七保村が町制施行して七保町となる。
七保町立葛野小学校と改称する。
同年8月 七保町が、大月町・猿橋町・梁川村・笹子村・初狩村・賑岡村と合併して大月市が発足する。
大月市立葛野小学校と改称する。
昭和40年 浅川小学校、浅川小学校奈良子分校を統合する。
大月市立七保小学校と改称する。
平成21年 上和田小学校、瀬戸小学校を統合する。
新校舎竣工、現校地に移転する。
と言う沿革です。
すなわち、平成21年まで、この地が学び舎でありました。
かつての正門の門柱には、表札が残っています。
この門柱は昭和47年の卒業生から贈られたモノのようです。
校舎全景。
別アングルから。
正面玄関にも立派な表札が残っている。
ピロティって言うんだっけ?
玄関の庇も立派。
学校の玄関って言うよりも病院の玄関みたい。
校舎を覗き込むと、そこは放送室だったようです。
校舎前の国旗掲揚ポール。
少年と少女のモニュメント。
経緯土標。
創立百周年の記念碑。
こちらに、七保小学校の沿革が刻まれています。
こちらは、体育館。
校庭。
これと言った遊具は残っていない。
新しい校地に持っていってしまったんでしょうか?
地面に埋められた古タイヤ。
確認できた遊具はこれのみ。
プール。
新しい校地は、この場所から100mほど離れた場所。
すぐ近くの場所になるけど、旧校地がこのまま使われていないのも
もったいない気がするんだけど................
この日は、山梨県の大月市に出かけました。
大月市の廃校・旧校巡り、その第10弾は..............大月市立 旧・七保小学校。
お断り; 七保小学校は未だ現役の小学校で廃校ではありません。
七保小学校は明治7年に創設された葛野学校がその始まりとなっています。
明治7年 葛野学校創設。
(下和田・葛野・林・奈良子・瀬戸・駒宮・浅川の7村を所属とし、葛野村に本校を置く)
明治8年 下和田村・葛野村・林村・奈良子村・駒宮村・浅川村・瀬戸村が合併して七保村となる。
明治19年 七保尋常小学校と改称する。
下和田と浅川に分校を設置する。
明治25年4月 七保尋常小学校を分割し、葛野尋常小学校と改称し、各分校を独立校とする。
同年5月 下和田尋常小学校、浅川尋常小学校が創設され、奈良子に分校が設置される。
明治26年 葛野尋常高等小学校と改称する。
昭和22年 学制改革により七保村立葛野小学校と改称する。
昭和29年4月 七保村が町制施行して七保町となる。
七保町立葛野小学校と改称する。
同年8月 七保町が、大月町・猿橋町・梁川村・笹子村・初狩村・賑岡村と合併して大月市が発足する。
大月市立葛野小学校と改称する。
昭和40年 浅川小学校、浅川小学校奈良子分校を統合する。
大月市立七保小学校と改称する。
平成21年 上和田小学校、瀬戸小学校を統合する。
新校舎竣工、現校地に移転する。
と言う沿革です。
すなわち、平成21年まで、この地が学び舎でありました。
かつての正門の門柱には、表札が残っています。
この門柱は昭和47年の卒業生から贈られたモノのようです。
校舎全景。
別アングルから。
正面玄関にも立派な表札が残っている。
ピロティって言うんだっけ?
玄関の庇も立派。
学校の玄関って言うよりも病院の玄関みたい。
校舎を覗き込むと、そこは放送室だったようです。
校舎前の国旗掲揚ポール。
少年と少女のモニュメント。
経緯土標。
創立百周年の記念碑。
こちらに、七保小学校の沿革が刻まれています。
こちらは、体育館。
校庭。
これと言った遊具は残っていない。
新しい校地に持っていってしまったんでしょうか?
地面に埋められた古タイヤ。
確認できた遊具はこれのみ。
プール。
新しい校地は、この場所から100mほど離れた場所。
すぐ近くの場所になるけど、旧校地がこのまま使われていないのも
もったいない気がするんだけど................
2019/12/25 Wed. 15:00 |
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廃校を訪ねて................奈良子分校 (2019年11月7日)(山梨県大月市)
11月7日
この日は、山梨県の大月市に出かけました。
大月市の廃校巡り、その第9弾は............大月市立浅川小学校奈良子分校。
奈良子分校は、
明治25年 浅川尋常小学校が創立。その分校として奈良子分校が創設される。
昭和22年 学制改革により七保村立浅川小学校奈良子分校と改称する。
昭和29年 七保村が町制施行して七保町となる。
七保町立浅川小学校奈良子分校と改称する。
同年8月 七保町が、大月町・猿橋町・梁川村・笹子村・初狩村・賑岡村と合併して大月市が発足する。
大月市立浅川小学校奈良子分校と改称する。
昭和40年 葛野小学校に統合されて廃校となる。
こちらが奈良子分校跡地。
廃校後、奈良子保育所として再利用されたようですが
その保育所も現在では廃止されてしまいました。
敷地は、地域の避難場所に指定されているようです。
山間の分校だけあって、敷地はそんなに広く無い。
校舎も平屋の小さな校舎が二棟。
玄関は保育所開設の時に改装されたみたいです。
時代を感じさせる木造校舎。
色々なアングルから眺めてみましょう。
手前の校舎は、外観の塗装も保育所時代に施されているようですね。
狭い校庭には、遊具も残されている。
元々、山間の集落でそんなに多くの世帯数もなかったとおもわれる奈良子集落。
分校も保育所も廃校、廃所となってしまうのは時代の流れ、
定めだったのかもしれない。
この地に学校ができることなんて、もう無いんだろうなぁ...................
この日は、山梨県の大月市に出かけました。
大月市の廃校巡り、その第9弾は............大月市立浅川小学校奈良子分校。
奈良子分校は、
明治25年 浅川尋常小学校が創立。その分校として奈良子分校が創設される。
昭和22年 学制改革により七保村立浅川小学校奈良子分校と改称する。
昭和29年 七保村が町制施行して七保町となる。
七保町立浅川小学校奈良子分校と改称する。
同年8月 七保町が、大月町・猿橋町・梁川村・笹子村・初狩村・賑岡村と合併して大月市が発足する。
大月市立浅川小学校奈良子分校と改称する。
昭和40年 葛野小学校に統合されて廃校となる。
こちらが奈良子分校跡地。
廃校後、奈良子保育所として再利用されたようですが
その保育所も現在では廃止されてしまいました。
敷地は、地域の避難場所に指定されているようです。
山間の分校だけあって、敷地はそんなに広く無い。
校舎も平屋の小さな校舎が二棟。
玄関は保育所開設の時に改装されたみたいです。
時代を感じさせる木造校舎。
色々なアングルから眺めてみましょう。
手前の校舎は、外観の塗装も保育所時代に施されているようですね。
狭い校庭には、遊具も残されている。
元々、山間の集落でそんなに多くの世帯数もなかったとおもわれる奈良子集落。
分校も保育所も廃校、廃所となってしまうのは時代の流れ、
定めだったのかもしれない。
この地に学校ができることなんて、もう無いんだろうなぁ...................
2019/12/25 Wed. 00:00 |
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廃校を訪ねて................瀬戸小学校 (2019年11月7日)(山梨県大月市)
11月7日
この日は、山梨県の大月市に出かけました。
大月市の廃校巡り、まだまだ続きます。
上和田小学校をあとにして、向かった先は........大月市立瀬戸小学校。
瀬戸小学校は、
明治8年 葛野学校から独立。瀬戸学校地蔵堂に開設する。
明治20年 瀬戸尋常小学校と改称する。
明治25年 和田分校を設置する
明治42年 瀬戸村宮原に新築校舎建設移転。
大正7年 七保高等尋常小学校瀬戸分教場を設置。
昭和2年 瀬戸尋常高等小学校と改称する。
昭和22年 学制改革により七保村立瀬戸小学校と改称する。
昭和29年4月 七保村が町制施行して七保町となる。
七保町立瀬戸小学校と改称する。
同年8月 七保町が、大月町・猿橋町・梁川村・笹子村・初狩村・賑岡村と合併して大月市が発足する。
大月市立瀬戸小学校と改称する。
昭和39年 和田分校が大月市立上和田小学校として独立する。
平成21年 七保小学校に統合されて廃校になる
と、このような沿革となっています。
こちらが、正門跡。
赤煉瓦を使った門柱だったようです。
往時の表札もしっかりと残っています。
こちらも地域の避難場所に指定されているようです。
廃校から既に10年。
校舎は解体されていて、更地に近い状態。
実は、2年前の秋。
ここからさらに山間に進んだ深城ダムを訪れた時に
瀬戸小学校が在る事は(その存在は)知っていました。
記憶がまちがいなければ、
その時はまだ校舎が在ったような気がするんだけど............
ここ2年間で解体されてしまったのでしょうか?
体育館は残っていますが、老朽化はかなり激しい。
なにせ、カマボコ型の屋根の体育館ですからね。
建てられてから、相当な月日が経っているんでしょう。
夜間照明の設備もあるから、少年野球のグランドとして活用されているのか?
校庭の一角に、記念碑がまとめられています。
閉校記念碑。
裏面には沿革がくざまれていて、大変参考になりました。
こちらは、創立百周年記念碑。
無造作に置かれた記念碑。
少し離れた場所に、七保第二中学校の碑も在りました。
かつて、この場所には中学校も併設されていたんですね。
そして、別な一角には遊具類がまとめられていました。
こちらは、大月市の備蓄倉庫。
ネット先にはゲートボール場。
いずれ、体育館も解体されることになるでしょう。
ちょっと山間になってしまう土地だけに、
更地になっても有効活用できるのだろうか?
ちょっぴり気になっちゃいますね。
この日は、山梨県の大月市に出かけました。
大月市の廃校巡り、まだまだ続きます。
上和田小学校をあとにして、向かった先は........大月市立瀬戸小学校。
瀬戸小学校は、
明治8年 葛野学校から独立。瀬戸学校地蔵堂に開設する。
明治20年 瀬戸尋常小学校と改称する。
明治25年 和田分校を設置する
明治42年 瀬戸村宮原に新築校舎建設移転。
大正7年 七保高等尋常小学校瀬戸分教場を設置。
昭和2年 瀬戸尋常高等小学校と改称する。
昭和22年 学制改革により七保村立瀬戸小学校と改称する。
昭和29年4月 七保村が町制施行して七保町となる。
七保町立瀬戸小学校と改称する。
同年8月 七保町が、大月町・猿橋町・梁川村・笹子村・初狩村・賑岡村と合併して大月市が発足する。
大月市立瀬戸小学校と改称する。
昭和39年 和田分校が大月市立上和田小学校として独立する。
平成21年 七保小学校に統合されて廃校になる
と、このような沿革となっています。
こちらが、正門跡。
赤煉瓦を使った門柱だったようです。
往時の表札もしっかりと残っています。
こちらも地域の避難場所に指定されているようです。
廃校から既に10年。
校舎は解体されていて、更地に近い状態。
実は、2年前の秋。
ここからさらに山間に進んだ深城ダムを訪れた時に
瀬戸小学校が在る事は(その存在は)知っていました。
記憶がまちがいなければ、
その時はまだ校舎が在ったような気がするんだけど............
ここ2年間で解体されてしまったのでしょうか?
体育館は残っていますが、老朽化はかなり激しい。
なにせ、カマボコ型の屋根の体育館ですからね。
建てられてから、相当な月日が経っているんでしょう。
夜間照明の設備もあるから、少年野球のグランドとして活用されているのか?
校庭の一角に、記念碑がまとめられています。
閉校記念碑。
裏面には沿革がくざまれていて、大変参考になりました。
こちらは、創立百周年記念碑。
無造作に置かれた記念碑。
少し離れた場所に、七保第二中学校の碑も在りました。
かつて、この場所には中学校も併設されていたんですね。
そして、別な一角には遊具類がまとめられていました。
こちらは、大月市の備蓄倉庫。
ネット先にはゲートボール場。
いずれ、体育館も解体されることになるでしょう。
ちょっと山間になってしまう土地だけに、
更地になっても有効活用できるのだろうか?
ちょっぴり気になっちゃいますね。
2019/12/24 Tue. 15:00 |
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廃校を訪ねて................上和田小学校 (2019年11月7日)(山梨県大月市)
11月7日
この日は、山梨県の大月市に出かけました。
大月市の廃校巡り、その第7弾.は................大月市立上和田小学校。
上和田小学校は、
明治25年 瀬戸尋常小学校和田分校として設立される。
昭和22年 学制改革により、七保村立瀬戸小学校和田分校と改称する。
昭和29年4月 七保村が町制施行して七保町となる。
七保町立瀬戸小学校和田分校と改称する。
同年8月 七保町が、大月町・猿橋町・梁川村・笹子村・初狩村・賑岡村と合併して大月市が発足する。
大月市立瀬戸小学校和田分校と改称する。
昭和39年 瀬戸小学校より独立、大月市立上和田小学校となる。
平成21年 七保小学校に統合されて廃校になる
と、このような沿革となっています。
こちらが、かつての正門。
コンクリート製の門柱には往時の表札が残っています。
この門柱は昭和41年の卒業生から贈られたモノのようです。
こちらも地域の避難場所に指定されています。
大月市の場合、避難場所に旧・小学校名が記されていたりするから
他に転用されずに更地になっても、学校跡地をさ探し易いような気がする。
こちらが、校舎。
もともと、丹波山村の方へと抜ける県道と葛野川沿いの
敷地を利用した校地だから、そんなに広くは無い。
別アングルからの校舎。
この辺りのデザインはちょっと凝っている。
とても山深き場所に在る小学校の建物には見えない。
玄関庇には校名が掲げられている。
そして、壁面には校章が掲げられている。
窓ガラスには、閉校時に貼られた感謝の気持ちを示した張り紙が
日焼けしながらも、その想いを今も伝えている。
こちらは、用具室?
それとも、旧・校舎?
僅かに残る遊具類。
そして、使われることのない赤錆びたローラー。
校舎の前には、ポツンと小さな机が置かれている。
廃校から10年。
10ねんか、この机は雨風に晒されてきたのだろうか..............?
この日は、山梨県の大月市に出かけました。
大月市の廃校巡り、その第7弾.は................大月市立上和田小学校。
上和田小学校は、
明治25年 瀬戸尋常小学校和田分校として設立される。
昭和22年 学制改革により、七保村立瀬戸小学校和田分校と改称する。
昭和29年4月 七保村が町制施行して七保町となる。
七保町立瀬戸小学校和田分校と改称する。
同年8月 七保町が、大月町・猿橋町・梁川村・笹子村・初狩村・賑岡村と合併して大月市が発足する。
大月市立瀬戸小学校和田分校と改称する。
昭和39年 瀬戸小学校より独立、大月市立上和田小学校となる。
平成21年 七保小学校に統合されて廃校になる
と、このような沿革となっています。
こちらが、かつての正門。
コンクリート製の門柱には往時の表札が残っています。
この門柱は昭和41年の卒業生から贈られたモノのようです。
こちらも地域の避難場所に指定されています。
大月市の場合、避難場所に旧・小学校名が記されていたりするから
他に転用されずに更地になっても、学校跡地をさ探し易いような気がする。
こちらが、校舎。
もともと、丹波山村の方へと抜ける県道と葛野川沿いの
敷地を利用した校地だから、そんなに広くは無い。
別アングルからの校舎。
この辺りのデザインはちょっと凝っている。
とても山深き場所に在る小学校の建物には見えない。
玄関庇には校名が掲げられている。
そして、壁面には校章が掲げられている。
窓ガラスには、閉校時に貼られた感謝の気持ちを示した張り紙が
日焼けしながらも、その想いを今も伝えている。
こちらは、用具室?
それとも、旧・校舎?
僅かに残る遊具類。
そして、使われることのない赤錆びたローラー。
校舎の前には、ポツンと小さな机が置かれている。
廃校から10年。
10ねんか、この机は雨風に晒されてきたのだろうか..............?
2019/12/24 Tue. 00:00 |
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廃校を訪ねて................畑倉小学校 (2019年11月7日)(山梨県大月市)
11月7日
この日は、山梨県の大月市に出かけました。
大月市の廃校巡り、その第6弾は...................大月市立畑倉小学校。
畑倉小学校の詳しい沿革は残念の事に不明です。
って言うか、現地に在った閉校記念碑の裏面に沿革が刻まれていたんですが
転記する事なく、写真を撮って後で見ればなんて思っていたら
撮った写真がピンボケ。
唯一わかっていることは、
明治7年創立。
平成20年大月東小学校に統合されて廃校となったと言う事です。
こちらが、かつての正門。
石造りの門柱には往時の表札が残っています。
こちらも地域の避難場所に指定されています。
正門の門扉は閉ざされていますが
脇から中に入れるので、ちょっぴり失礼して見学いたしましょう。
どうやら、校舎は既に解体されてしまったようです。
と言っても、廃校から既に11年経っていますからね。
利用はされていないようですが
体育館は未だに残っています。
カマボコ型の屋根が時代を物語っています。
敷地の一角に記念碑等がまとめられています。
二宮像。
昭和53年に建立された記念碑。
畑倉小学校創立百周年記念碑。
顕彰碑。
畑倉小学校跡地の碑。
要するに閉校記念碑のようなモノですね。
裏面にはしっかりと沿革が刻まれているんだけど...............
ピンボケ写真じゃ、確認も出来ない。
こちらは、校歌の碑。
遊具は全く残っていない校庭。
その割には、残り香が気になる びいすけ 。
匂い嗅ぎには余念がありません。
何も無い分、広く感じる校庭。
取り残されたようにポツンと放置された、
赤錆びたローラーが印象的でした.................。
この日は、山梨県の大月市に出かけました。
大月市の廃校巡り、その第6弾は...................大月市立畑倉小学校。
畑倉小学校の詳しい沿革は残念の事に不明です。
って言うか、現地に在った閉校記念碑の裏面に沿革が刻まれていたんですが
転記する事なく、写真を撮って後で見ればなんて思っていたら
撮った写真がピンボケ。
唯一わかっていることは、
明治7年創立。
平成20年大月東小学校に統合されて廃校となったと言う事です。
こちらが、かつての正門。
石造りの門柱には往時の表札が残っています。
こちらも地域の避難場所に指定されています。
正門の門扉は閉ざされていますが
脇から中に入れるので、ちょっぴり失礼して見学いたしましょう。
どうやら、校舎は既に解体されてしまったようです。
と言っても、廃校から既に11年経っていますからね。
利用はされていないようですが
体育館は未だに残っています。
カマボコ型の屋根が時代を物語っています。
敷地の一角に記念碑等がまとめられています。
二宮像。
昭和53年に建立された記念碑。
畑倉小学校創立百周年記念碑。
顕彰碑。
畑倉小学校跡地の碑。
要するに閉校記念碑のようなモノですね。
裏面にはしっかりと沿革が刻まれているんだけど...............
ピンボケ写真じゃ、確認も出来ない。
こちらは、校歌の碑。
遊具は全く残っていない校庭。
その割には、残り香が気になる びいすけ 。
匂い嗅ぎには余念がありません。
何も無い分、広く感じる校庭。
取り残されたようにポツンと放置された、
赤錆びたローラーが印象的でした.................。
2019/12/23 Mon. 15:00 |
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廃校を訪ねて................浅利小学校 (2019年11月7日)(山梨県大月市)
11月7日
この日は、山梨県の大月市に出かけました。
大月市の廃校巡り、その第5弾は...................大月市立浅利小学校。
浅利小学校の詳しい沿革は不明です。
現地に在った閉校記念碑によれば
明治7年創立。
平成20年に大月東小学校に統合されて廃校となりました。
地域から福祉関係の事業者に活用して欲しいとの要望を受けて、
平成25年に福祉施設を運営する社会福祉法人に売却され
平成26年春、介護、障害者デイサービス施設となりました。
こちらが、浅利小学校跡。
たまたま、介護・障害者デイサービス施設の職員の方と話が出来て
小学校の事を尋ねたら、5年前までは校舎も全くそのまま残っていたそうです。
5年前に校舎の外観は、ほぼそのままで
内部をリノベーションされたそうです。
確かに、校舎っぽく見える。
こちらも地域の指定避難場所。
現在の介護、障害者デイサービス施設の名称のあとに
(旧・浅利小学校)としているのは、地元のこだわりでしょうか?
先ほどの職員の方に敷地内に記念碑が残っていると教えてもらい
見学させてもらいました。
流石に犬連れで中に入るのは気が引けます。
びいすけ は車の中でお留守番。
こちらが、閉校記念碑。
こちらは、校歌の碑。
校舎の建っていた場所より一段と高い場所にプール。
県道を挟んだ先の駐車場。
この場所に体育館が在ったらしい。
残念ながら体育館は解体されてしまったようです。
この日は、山梨県の大月市に出かけました。
大月市の廃校巡り、その第5弾は...................大月市立浅利小学校。
浅利小学校の詳しい沿革は不明です。
現地に在った閉校記念碑によれば
明治7年創立。
平成20年に大月東小学校に統合されて廃校となりました。
地域から福祉関係の事業者に活用して欲しいとの要望を受けて、
平成25年に福祉施設を運営する社会福祉法人に売却され
平成26年春、介護、障害者デイサービス施設となりました。
こちらが、浅利小学校跡。
たまたま、介護・障害者デイサービス施設の職員の方と話が出来て
小学校の事を尋ねたら、5年前までは校舎も全くそのまま残っていたそうです。
5年前に校舎の外観は、ほぼそのままで
内部をリノベーションされたそうです。
確かに、校舎っぽく見える。
こちらも地域の指定避難場所。
現在の介護、障害者デイサービス施設の名称のあとに
(旧・浅利小学校)としているのは、地元のこだわりでしょうか?
先ほどの職員の方に敷地内に記念碑が残っていると教えてもらい
見学させてもらいました。
流石に犬連れで中に入るのは気が引けます。
びいすけ は車の中でお留守番。
こちらが、閉校記念碑。
こちらは、校歌の碑。
校舎の建っていた場所より一段と高い場所にプール。
県道を挟んだ先の駐車場。
この場所に体育館が在ったらしい。
残念ながら体育館は解体されてしまったようです。
2019/12/22 Sun. 15:00 |
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廃校を訪ねて................大月西小学校 (2019年11月7日)(山梨県大月市)
11月7日
この日は、山梨県の大月市に出かけました。
大月市の廃校巡り、その第4弾は..................大月市立大月西小学校。
大月西小学校の詳しい沿革は不明です。
現地に在った閉校記念碑によれば
明治6年に創立され、
平成28年に大月東小学校に統合されて廃校となり
142年の歴史に幕を降ろしました。
こちらが、正門。
石造りの古い門柱には、まだ表札が掲げられています。
地域の避難場所に指定されているようです。
校舎全景。
別アングルから。
玄関庇には、校章が掲げられています。
校舎前の国旗掲揚ポール。
そして、その足元には記念碑が建ち並ぶ。
閉校記念碑。
実はこの記念碑の裏側を覗くのを忘れていました。
ひょっとしたら、沿革が刻まれていたかもしれません。
こちらは、校舎竣工記念碑。
山梨県学童野球大会の優勝記念碑。
おそらく地元選出の議員さんが贈られた石碑。
『誠心』『努力』『信念』
最近、忘れがちな言葉ですね。
こちらは、標高を示す碑。
こちらは、体育館。
校庭の遊具類。
朝礼台。
明治6年に創立した伝統のある小学校。
歴史のある小学校が、ここでも廃校になったんですね。
この日は、山梨県の大月市に出かけました。
大月市の廃校巡り、その第4弾は..................大月市立大月西小学校。
大月西小学校の詳しい沿革は不明です。
現地に在った閉校記念碑によれば
明治6年に創立され、
平成28年に大月東小学校に統合されて廃校となり
142年の歴史に幕を降ろしました。
こちらが、正門。
石造りの古い門柱には、まだ表札が掲げられています。
地域の避難場所に指定されているようです。
校舎全景。
別アングルから。
玄関庇には、校章が掲げられています。
校舎前の国旗掲揚ポール。
そして、その足元には記念碑が建ち並ぶ。
閉校記念碑。
実はこの記念碑の裏側を覗くのを忘れていました。
ひょっとしたら、沿革が刻まれていたかもしれません。
こちらは、校舎竣工記念碑。
山梨県学童野球大会の優勝記念碑。
おそらく地元選出の議員さんが贈られた石碑。
『誠心』『努力』『信念』
最近、忘れがちな言葉ですね。
こちらは、標高を示す碑。
こちらは、体育館。
校庭の遊具類。
朝礼台。
明治6年に創立した伝統のある小学校。
歴史のある小学校が、ここでも廃校になったんですね。
2019/12/22 Sun. 00:00 |
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廃校を訪ねて................間明野分校(2019年11月7日)(山梨県大月市)
11月7日
この日は、山梨県の大月市に出かけました。
大月市には、廃校・学校跡地が20近くあり
以前から、その全てを巡って見たいと思っていました。
何年か前に、大月市内の幾つかの廃校を巡りましたが
まだまだ制覇できておりません。
今回、再チャレンジで大月市内の廃校巡り。
その第3弾は............大月市立大月西小学校間明野分校。
間明野分校の沿革は不明です。
って言うか、その存在もWikipediaを見るまでは知りませんでした。
とうぜん、その場所も分かりません。
Wikipediaによれば、昭和39年に廃校となっています。
いつものように、場所が解らない時は、『間明野』と言う字名を頼りに
その地区の公民館や集会所にあたりを付けて
あとは現地でご年配の人を探して尋ねてみる。
今回もこの作戦で、『間明野集会所』にあたりを付けて、
国道20号の真木交差点から、山の方へと進路を決めて進みます。
こちらが、間明野集会所。
この地区の指定避難所にもなっています。
近くで大工仕事をしていた初老の男性に訊いてみると
間明野集会所の建っている敷地が、かつての分校跡地と言うことです。
こんな感じで校舎が建っていたのでしょうか?
当時の校舎は解体されて、今は集会所が建てられています。
集会所の建物の前に石碑が建っています。
分校跡碑と思ったら違っていました。
後藤伊作先生の頌徳碑でした。
地域に貢献した教育関連の方でしょうか?
残念ながら、学校関連の碑は無く、
門柱や二宮像などの学校遺構も残っていない。
これらの遊具は往時のモノだろうか?
廃校から55年。
流石に往時のモノじゃないんでしょうね。
敷地の裏にあたる場所には古い桜の木。
毎年花を咲かせ、子供たちを迎え入れていたんでしょうね。
この日は、山梨県の大月市に出かけました。
大月市には、廃校・学校跡地が20近くあり
以前から、その全てを巡って見たいと思っていました。
何年か前に、大月市内の幾つかの廃校を巡りましたが
まだまだ制覇できておりません。
今回、再チャレンジで大月市内の廃校巡り。
その第3弾は............大月市立大月西小学校間明野分校。
間明野分校の沿革は不明です。
って言うか、その存在もWikipediaを見るまでは知りませんでした。
とうぜん、その場所も分かりません。
Wikipediaによれば、昭和39年に廃校となっています。
いつものように、場所が解らない時は、『間明野』と言う字名を頼りに
その地区の公民館や集会所にあたりを付けて
あとは現地でご年配の人を探して尋ねてみる。
今回もこの作戦で、『間明野集会所』にあたりを付けて、
国道20号の真木交差点から、山の方へと進路を決めて進みます。
こちらが、間明野集会所。
この地区の指定避難所にもなっています。
近くで大工仕事をしていた初老の男性に訊いてみると
間明野集会所の建っている敷地が、かつての分校跡地と言うことです。
こんな感じで校舎が建っていたのでしょうか?
当時の校舎は解体されて、今は集会所が建てられています。
集会所の建物の前に石碑が建っています。
分校跡碑と思ったら違っていました。
後藤伊作先生の頌徳碑でした。
地域に貢献した教育関連の方でしょうか?
残念ながら、学校関連の碑は無く、
門柱や二宮像などの学校遺構も残っていない。
これらの遊具は往時のモノだろうか?
廃校から55年。
流石に往時のモノじゃないんでしょうね。
敷地の裏にあたる場所には古い桜の木。
毎年花を咲かせ、子供たちを迎え入れていたんでしょうね。
2019/12/21 Sat. 15:00 |
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廃校を訪ねて................旧・初狩小学校 (2019年11月7日)(山梨県大月市)
11月7日
この日は、山梨県の大月市に出かけました。
大月市には多くの廃校や学校跡地があり、その廃校巡りにやって来ました。
大月市の廃校巡り、その第2弾..................大月市立 旧・初狩小学校跡 。
初めにお断りしておきますが.................
廃校を訪れに来ていますが、初狩小学校は廃校ではなく
現役の小学校です。
初狩小学校の詳しい沿革は不明ですが
明治6年10月に下初狩・中初狩・白野・阿弥陀海・黒野田の五か村組合小学校が、
白野地区宝林寺境内の禅堂を仮校舎として開校しましたのが始まりのようです。
(第一大学区第四十五中学区、第二番白の小学校と称する。)
しかし、明治6年11月に笹子地区と初狩地区がそれぞれの地区のお寺に分離します。
明治40年に初狩地区はこの地に校舎建て、
明治42年に笹子地区は笹子小学校の場所に校舎を建てたそうです。
それから時は流れ、分離した笹子小学校と初狩小学校は
平成22年に笹子小学校が初狩小学校に統合されて、再び一緒になりました。
そして、平成27年、旧・大月第一中学校の敷地に新たな校舎を建て移転しました。
甲州街道(国道20号線)沿いに建つ門柱。
かつての正門です。
向かって左側の門柱。
初狩小学校の表札が掲げられています。
向かって右側の門柱。
こちらには、初狩中学校の表札が掲げられています。
初狩中学校もすでに廃校。
昭和62年に笹子中学校と統合して大月第一中学校になりました。
その大月第一中学校も平成26年に大月東中学校に統合されて廃校となり
その跡地に翌年の平成27年に初狩小学校が移転しました。
今から4年前までは、この地が初狩小学校でした。
校舎全景。
別アングルから。
正面玄関。
玄関には木製の大きな表札も残っている。
校舎の脇には、初狩中学校の学校跡碑。
そう言えば、笹子小学校にも笹子中学校跡の碑があった。
この辺りでは小学校と中学校が併設されていたんですね。
戦前の尋常高等小学校の名残りでしょうか?
こちらは、体育館。
朝礼台。
唯一、確認できた遊具。
他の遊具は全て新しい校地に持って行ってしまったんでしょうか?
廃校や学校跡地ではお約束とも言える防災倉庫。
ここにもしっかり在りました。
廃校では無いけれど、学校跡地。
でも、初狩中学校としてみれば、廃校になる。
いずれにしても。この先この地はどうなってしまうんでしょうか?
この日は、山梨県の大月市に出かけました。
大月市には多くの廃校や学校跡地があり、その廃校巡りにやって来ました。
大月市の廃校巡り、その第2弾..................大月市立 旧・初狩小学校跡 。
初めにお断りしておきますが.................
廃校を訪れに来ていますが、初狩小学校は廃校ではなく
現役の小学校です。
初狩小学校の詳しい沿革は不明ですが
明治6年10月に下初狩・中初狩・白野・阿弥陀海・黒野田の五か村組合小学校が、
白野地区宝林寺境内の禅堂を仮校舎として開校しましたのが始まりのようです。
(第一大学区第四十五中学区、第二番白の小学校と称する。)
しかし、明治6年11月に笹子地区と初狩地区がそれぞれの地区のお寺に分離します。
明治40年に初狩地区はこの地に校舎建て、
明治42年に笹子地区は笹子小学校の場所に校舎を建てたそうです。
それから時は流れ、分離した笹子小学校と初狩小学校は
平成22年に笹子小学校が初狩小学校に統合されて、再び一緒になりました。
そして、平成27年、旧・大月第一中学校の敷地に新たな校舎を建て移転しました。
甲州街道(国道20号線)沿いに建つ門柱。
かつての正門です。
向かって左側の門柱。
初狩小学校の表札が掲げられています。
向かって右側の門柱。
こちらには、初狩中学校の表札が掲げられています。
初狩中学校もすでに廃校。
昭和62年に笹子中学校と統合して大月第一中学校になりました。
その大月第一中学校も平成26年に大月東中学校に統合されて廃校となり
その跡地に翌年の平成27年に初狩小学校が移転しました。
今から4年前までは、この地が初狩小学校でした。
校舎全景。
別アングルから。
正面玄関。
玄関には木製の大きな表札も残っている。
校舎の脇には、初狩中学校の学校跡碑。
そう言えば、笹子小学校にも笹子中学校跡の碑があった。
この辺りでは小学校と中学校が併設されていたんですね。
戦前の尋常高等小学校の名残りでしょうか?
こちらは、体育館。
朝礼台。
唯一、確認できた遊具。
他の遊具は全て新しい校地に持って行ってしまったんでしょうか?
廃校や学校跡地ではお約束とも言える防災倉庫。
ここにもしっかり在りました。
廃校では無いけれど、学校跡地。
でも、初狩中学校としてみれば、廃校になる。
いずれにしても。この先この地はどうなってしまうんでしょうか?
2019/12/21 Sat. 00:00 |
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廃校を訪ねて................笹子小学校 (2019年11月7日)(山梨県大月市)
11月7日
この日は、山梨県の大月市に出かけました。
大月市には、現在5つの小学校がありますが
かつては分校を含めると20近くの小学校が在りました。
多くの小学校が統合により廃校となってしまいました。
今回、その統廃合された廃校、学校跡地巡ってみました。
その第一弾..................大月市立笹子小学校。
笹子小学校は、
明治6年 宝林寺に白野小学校を開設する。
その後、阿弥陀堂に移り吉久保小学校と改称する。
明治8年 黒野田村・吉ヶ久保村・白野村が合併して笹子村となる
明治20年 笹子尋常小学校と改称する。
明治45年 笹子尋常高等小学校と改称する。
昭和22年 学制改革により、笹子村立笹子小学校と改称する。
昭和29年 笹子村が・大月町・七保町・猿橋町・梁川村・初狩村
・賑岡村と合併して大月市が発足する。
大月市立笹子小学校と改称する。
平成22年 初狩小学校に統合されて廃校となる。
と、このような沿革となっています。
正門跡。
石造りの古い門柱。
門柱には、往時の表札が掲げられています。
校舎全景。
校舎は二棟あります。
こちらは、ちょっと高台になる位置の校舎。
一段下がった位置の校舎。
でも、校庭と同じレベルの位置だから
元々の校舎はこちらになるのでしょう。
別アングルからの校舎。
こちらは、体育館。
時代を感じさせるカマボコ屋根。
校舎の前には閉校記念碑。
裏面には、校歌と沿革が刻まれています。
笹子小学校創立百周年の記念碑。
この形の創立百周年記念碑は山梨県の学校に多い。
こちらは、笹子中学校の跡碑。
高台の校舎の前に建っていました。
同じ敷地に中学校も在って、
高台の校舎が中学校の校舎だったようですね。
経緯度に記された碑。
これも山梨県の学校に多い。
校庭。
廃校から9年。
遊具らしきモノは残っていない。
木製の長椅子。
朝礼台。
校庭のフェンス沿いには桜の木が立ち並ぶ。
学校のとしての機能は無くなったけれど
地域の避難場所とされている。
大月市の初狩地区では台風19号で甲州街道(国道20号)の一部が通行止め。
もう少しで陸の孤島となるところだったみたい。
でも避難場所として現実に活用される事がない事を祈りたい。
この日は、山梨県の大月市に出かけました。
大月市には、現在5つの小学校がありますが
かつては分校を含めると20近くの小学校が在りました。
多くの小学校が統合により廃校となってしまいました。
今回、その統廃合された廃校、学校跡地巡ってみました。
その第一弾..................大月市立笹子小学校。
笹子小学校は、
明治6年 宝林寺に白野小学校を開設する。
その後、阿弥陀堂に移り吉久保小学校と改称する。
明治8年 黒野田村・吉ヶ久保村・白野村が合併して笹子村となる
明治20年 笹子尋常小学校と改称する。
明治45年 笹子尋常高等小学校と改称する。
昭和22年 学制改革により、笹子村立笹子小学校と改称する。
昭和29年 笹子村が・大月町・七保町・猿橋町・梁川村・初狩村
・賑岡村と合併して大月市が発足する。
大月市立笹子小学校と改称する。
平成22年 初狩小学校に統合されて廃校となる。
と、このような沿革となっています。
正門跡。
石造りの古い門柱。
門柱には、往時の表札が掲げられています。
校舎全景。
校舎は二棟あります。
こちらは、ちょっと高台になる位置の校舎。
一段下がった位置の校舎。
でも、校庭と同じレベルの位置だから
元々の校舎はこちらになるのでしょう。
別アングルからの校舎。
こちらは、体育館。
時代を感じさせるカマボコ屋根。
校舎の前には閉校記念碑。
裏面には、校歌と沿革が刻まれています。
笹子小学校創立百周年の記念碑。
この形の創立百周年記念碑は山梨県の学校に多い。
こちらは、笹子中学校の跡碑。
高台の校舎の前に建っていました。
同じ敷地に中学校も在って、
高台の校舎が中学校の校舎だったようですね。
経緯度に記された碑。
これも山梨県の学校に多い。
校庭。
廃校から9年。
遊具らしきモノは残っていない。
木製の長椅子。
朝礼台。
校庭のフェンス沿いには桜の木が立ち並ぶ。
学校のとしての機能は無くなったけれど
地域の避難場所とされている。
大月市の初狩地区では台風19号で甲州街道(国道20号)の一部が通行止め。
もう少しで陸の孤島となるところだったみたい。
でも避難場所として現実に活用される事がない事を祈りたい。
2019/12/20 Fri. 15:00 |
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廃校を訪ねて................穴山小学校 (2019年10月25日)(山梨県韮崎市)
10月25日
1泊2日の山梨旅行。
その2日目、清里から韮崎市へと向かいます。
昨日、ほぼ一日韮崎市を巡っていましたが
当初の予定から行きそびれてしまった廃校があり
急遽、韮崎市へと向かいました。
向かった先は................韮崎市立穴山小学校。
穴山小学校の詳しい沿革は不明です。
現地に創立百周年の記念碑があったので、
そちらに沿革が記されていて、参考になりました。
敷地には、明治11年の校舎新築記念として植樹した
『ヒイラギ』の木があるそうです。
明治6年泉竜寺を仮校舎として穴山小学校が開設する。
明治11年藤村様式の新校舎が竣工する。
明治25年高等科を併置する。
大正11年現在地に校舎を新築し移転。
昭和16年火災により校舎消失。
昭和18年新校舎竣工。
昭和22年学制改革により穴山小学校と改称する。(昭和26年まで穴山中学校を併設する)
昭和26年新府中学校が開設され、穴山小学校単独となる。
昭和29年韮崎市立穴山小学校と改称する。
平成2年藤井小学校、中田小学校、穴山小学校が統合し
新たに韮崎市立北東小学校が開校する。
穴山小学校は廃校となる。
と、このような沿革となるようです。
こちらが、正門跡。
石造りの古い門柱です。
廃校後、校舎は解体されてしまったようです。
敷地の一部に『穴山町ふれあいホール』と言う施設が平成9年に建てられてそうです。
いわゆる、地域のコミュニティセンターですね。
体育館は健在と言うか、その姿を遺しています。
雨の廃校。
校庭は水たまり状態。
体育館の前に、国旗掲揚ポール。
カマボコ屋根の体育館。
時代を感じさせる形ですね。
昔は体育館の屋根って言う言ったら、
このカマボコ屋根が定番だったんだよねぇ。
体育館の前には碑が並ぶ。
創立百周年の記念碑。
その裏面。
刻まれているのは沿革でした。
こちらは、『穴山小学校閉校之碑』
一応、閉校記念の碑なんだから『記念』って言う二文字が欲しいよね。
こちらは経緯度標柱。
山梨県の小学校では、よく見かけます。
タイムカプセルの碑。
埋められたのは1972年のようです。
2000年に開ける と碑文が刻まれている。
もう開封されちゃったんでしょね。
こちらは、校歌の碑。
こちらは、明治百年の記念碑。
体育館は明治百年の記念で建てられたもののようです。
石膏の像。
朝礼台。
校庭には遊具も残る。
校庭の片隅には小さな碑。
卒業生の作詞者であり、童謡詩人である『権藤はなよ』の碑です。
明治11年の校舎新築記念として植樹した『ヒイラギ』の木。
校舎は無くなっても、このヒイラギの木は
いつまでも、この地に残る事でしょう。
1泊2日の山梨旅行。
その2日目、清里から韮崎市へと向かいます。
昨日、ほぼ一日韮崎市を巡っていましたが
当初の予定から行きそびれてしまった廃校があり
急遽、韮崎市へと向かいました。
向かった先は................韮崎市立穴山小学校。
穴山小学校の詳しい沿革は不明です。
現地に創立百周年の記念碑があったので、
そちらに沿革が記されていて、参考になりました。
敷地には、明治11年の校舎新築記念として植樹した
『ヒイラギ』の木があるそうです。
明治6年泉竜寺を仮校舎として穴山小学校が開設する。
明治11年藤村様式の新校舎が竣工する。
明治25年高等科を併置する。
大正11年現在地に校舎を新築し移転。
昭和16年火災により校舎消失。
昭和18年新校舎竣工。
昭和22年学制改革により穴山小学校と改称する。(昭和26年まで穴山中学校を併設する)
昭和26年新府中学校が開設され、穴山小学校単独となる。
昭和29年韮崎市立穴山小学校と改称する。
平成2年藤井小学校、中田小学校、穴山小学校が統合し
新たに韮崎市立北東小学校が開校する。
穴山小学校は廃校となる。
と、このような沿革となるようです。
こちらが、正門跡。
石造りの古い門柱です。
廃校後、校舎は解体されてしまったようです。
敷地の一部に『穴山町ふれあいホール』と言う施設が平成9年に建てられてそうです。
いわゆる、地域のコミュニティセンターですね。
体育館は健在と言うか、その姿を遺しています。
雨の廃校。
校庭は水たまり状態。
体育館の前に、国旗掲揚ポール。
カマボコ屋根の体育館。
時代を感じさせる形ですね。
昔は体育館の屋根って言う言ったら、
このカマボコ屋根が定番だったんだよねぇ。
体育館の前には碑が並ぶ。
創立百周年の記念碑。
その裏面。
刻まれているのは沿革でした。
こちらは、『穴山小学校閉校之碑』
一応、閉校記念の碑なんだから『記念』って言う二文字が欲しいよね。
こちらは経緯度標柱。
山梨県の小学校では、よく見かけます。
タイムカプセルの碑。
埋められたのは1972年のようです。
2000年に開ける と碑文が刻まれている。
もう開封されちゃったんでしょね。
こちらは、校歌の碑。
こちらは、明治百年の記念碑。
体育館は明治百年の記念で建てられたもののようです。
石膏の像。
朝礼台。
校庭には遊具も残る。
校庭の片隅には小さな碑。
卒業生の作詞者であり、童謡詩人である『権藤はなよ』の碑です。
明治11年の校舎新築記念として植樹した『ヒイラギ』の木。
校舎は無くなっても、このヒイラギの木は
いつまでも、この地に残る事でしょう。
2019/12/15 Sun. 00:00 |
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廃校を訪ねて................高根北小学校 (2019年10月25日)(山梨県北杜市)
10月25日
清里旅行の2日目。
清里旅行と銘打つからには、清里で何か足跡を残しましょう。
大門ダムをあとにして、向かった先は............北杜市立高根北小学校。
高根北小学校は、
明治6年 長沢寺にて授業開始
明治8年 長沢学校創設
明治13年 現在地に移転 校舎新築
明治18年 玉那学校の分校となる
明治20年 安都尋常小学校の分校となる
明治25年 長沢尋常小学校となる
大正12年 安都尋常小学校長沢分校となる
昭和22年 学制改革により安都玉村立安都小学校長沢分校と改称する
昭和29年 安都玉村・安都那村・熱見村・甲村が合併して高根村が発足。
高根村立高根東小学校長沢分校と改称する
昭和31年 独立して高根村立高根北小学校となる。
昭和37年 高根村が町制施行して高根町となる。
高根町立高根北小学校と改称する。
平成16年 須玉町・長坂町・白州町・大泉村・武川村・明野村と合併して北杜市が発足。
北杜市立高根北小学校と改称する。
平成31年 高根東小学校に統合されて廃校となる。
と、このような沿革となっています。
正門跡。
校舎全景。
別アングルからの校舎。
校舎前には国旗掲揚ポール。
校舎の庇には、校章が掲げられている。
フェンスには、こんな看板が貼られている。
びいすけ にはちょっとの間、外で待機してもらいましょう。
校舎前には閉校記念碑。
こちらは児童憲章の碑。
二宮像かと思ったら違っていた。
ロダンの『考える人』。
草に埋もれかけている校歌の碑。
校庭の片隅には、創立九十周年の碑。
普通、こう言う記念碑ってキリの良い百周年じゃないの?
皇紀二千年(?)の記念碑。
安都小学校の同窓会とあるから、かなり古い碑ですね。
雨に煙る校庭。
校庭の片隅には、熊(?)のオブジェ。
校庭の遊具類。
朝礼台。
この小学校も歴史のあった学校でした。
こう言った歴史のある学校が廃校になっていくのは寂しいモノですね。
清里旅行の2日目。
清里旅行と銘打つからには、清里で何か足跡を残しましょう。
大門ダムをあとにして、向かった先は............北杜市立高根北小学校。
高根北小学校は、
明治6年 長沢寺にて授業開始
明治8年 長沢学校創設
明治13年 現在地に移転 校舎新築
明治18年 玉那学校の分校となる
明治20年 安都尋常小学校の分校となる
明治25年 長沢尋常小学校となる
大正12年 安都尋常小学校長沢分校となる
昭和22年 学制改革により安都玉村立安都小学校長沢分校と改称する
昭和29年 安都玉村・安都那村・熱見村・甲村が合併して高根村が発足。
高根村立高根東小学校長沢分校と改称する
昭和31年 独立して高根村立高根北小学校となる。
昭和37年 高根村が町制施行して高根町となる。
高根町立高根北小学校と改称する。
平成16年 須玉町・長坂町・白州町・大泉村・武川村・明野村と合併して北杜市が発足。
北杜市立高根北小学校と改称する。
平成31年 高根東小学校に統合されて廃校となる。
と、このような沿革となっています。
正門跡。
校舎全景。
別アングルからの校舎。
校舎前には国旗掲揚ポール。
校舎の庇には、校章が掲げられている。
フェンスには、こんな看板が貼られている。
びいすけ にはちょっとの間、外で待機してもらいましょう。
校舎前には閉校記念碑。
こちらは児童憲章の碑。
二宮像かと思ったら違っていた。
ロダンの『考える人』。
草に埋もれかけている校歌の碑。
校庭の片隅には、創立九十周年の碑。
普通、こう言う記念碑ってキリの良い百周年じゃないの?
皇紀二千年(?)の記念碑。
安都小学校の同窓会とあるから、かなり古い碑ですね。
雨に煙る校庭。
校庭の片隅には、熊(?)のオブジェ。
校庭の遊具類。
朝礼台。
この小学校も歴史のあった学校でした。
こう言った歴史のある学校が廃校になっていくのは寂しいモノですね。
2019/12/14 Sat. 00:00 |
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廃校を訪ねて................高根清里小学校 (2019年10月25日)(山梨県北杜市)
10月25日
清里旅行の2日目。
清里旅行と銘打つからには、清里で何か足跡を残さなきゃ!
という事で、マッキンをチェックアウトして、
向かった先は............北杜市立高根清里小学校。
高根清里小学校は、
明治6年に開校した津金学校清里分校を前身とする高根東北小学校と
昭和15年に開校した清里小学校八ヶ岳分教場を前身とする八ヶ岳小学校が
昭和49年に合併して誕生した小学校です。
明治 6年 津金学校清里分校を千福寺( 樫山)で開校する
昭和15年 清里尋常小学校に八ヶ岳分教場(念場ヶ原) を開設する
昭和22年 学制改革により、清里小学校( 同校八ヶ岳分教場)と改称する
昭和31年 町村合併により、高根東北小学校( 同校八ヶ岳分教場) と改称する
昭和34年 高根東北小学校八ヶ岳分教場は、本校より分離し八ヶ岳小学校( 現在地) として独立する
昭和49年 高根東北小学校と八ヶ岳小学校を統合し高根清里小学校( 旧八ヶ岳小学校跡地) となる
平成16年 7ヶ町村が合併して「北杜市」が誕生「北杜市立高根清里小学校」となる
平成31年 高根東小学校に統合されて廃校となる
と、このような沿革となっています。
こちらが、高根清里小学校の正門。
今年に春に廃校になった小学校。
まだ、廃校になって1年も経っていない。
門柱には表札が残っています。
校門の先には校舎正面玄関。
特徴のある玄関ですね。
正面庇には校名と校章が掲げられています。
生憎の天気。
小雨の高根清里小学校。
校舎全景。
ちょっとだけ寄ってみる。
校舎全景と びいすけ 。
別アングルの校舎。
校舎前には、国旗掲揚ポール。
校舎の定礎盤。
昭和49年竣工。
玄関のデザインといい、当時としては画期的なデザインだったのでしょう。
この奥に図面等が隠されているんでしょうか?
こちらは、体育館。
校庭。
降りしきる雨で足元もぐちゃぐちゃ。
校庭に残る遊具類。
朝礼台。
百葉箱。
緯度経度の碑。
韮崎市の廃校にも多かったけれど
実は山梨県の小学校には、緯度経度を示す標柱や碑が設置されている事が多い。
上野原市や道志村の廃校にも多かったような記憶があります。
玄関の脇に置かれたオブジェ。
これって馬ですよね?
子供たちの作品なんだろうか?
それとも先生が作ったものだろうか?
ちょっぴり気になります。
清里旅行の2日目。
清里旅行と銘打つからには、清里で何か足跡を残さなきゃ!
という事で、マッキンをチェックアウトして、
向かった先は............北杜市立高根清里小学校。
高根清里小学校は、
明治6年に開校した津金学校清里分校を前身とする高根東北小学校と
昭和15年に開校した清里小学校八ヶ岳分教場を前身とする八ヶ岳小学校が
昭和49年に合併して誕生した小学校です。
明治 6年 津金学校清里分校を千福寺( 樫山)で開校する
昭和15年 清里尋常小学校に八ヶ岳分教場(念場ヶ原) を開設する
昭和22年 学制改革により、清里小学校( 同校八ヶ岳分教場)と改称する
昭和31年 町村合併により、高根東北小学校( 同校八ヶ岳分教場) と改称する
昭和34年 高根東北小学校八ヶ岳分教場は、本校より分離し八ヶ岳小学校( 現在地) として独立する
昭和49年 高根東北小学校と八ヶ岳小学校を統合し高根清里小学校( 旧八ヶ岳小学校跡地) となる
平成16年 7ヶ町村が合併して「北杜市」が誕生「北杜市立高根清里小学校」となる
平成31年 高根東小学校に統合されて廃校となる
と、このような沿革となっています。
こちらが、高根清里小学校の正門。
今年に春に廃校になった小学校。
まだ、廃校になって1年も経っていない。
門柱には表札が残っています。
校門の先には校舎正面玄関。
特徴のある玄関ですね。
正面庇には校名と校章が掲げられています。
生憎の天気。
小雨の高根清里小学校。
校舎全景。
ちょっとだけ寄ってみる。
校舎全景と びいすけ 。
別アングルの校舎。
校舎前には、国旗掲揚ポール。
校舎の定礎盤。
昭和49年竣工。
玄関のデザインといい、当時としては画期的なデザインだったのでしょう。
この奥に図面等が隠されているんでしょうか?
こちらは、体育館。
校庭。
降りしきる雨で足元もぐちゃぐちゃ。
校庭に残る遊具類。
朝礼台。
百葉箱。
緯度経度の碑。
韮崎市の廃校にも多かったけれど
実は山梨県の小学校には、緯度経度を示す標柱や碑が設置されている事が多い。
上野原市や道志村の廃校にも多かったような記憶があります。
玄関の脇に置かれたオブジェ。
これって馬ですよね?
子供たちの作品なんだろうか?
それとも先生が作ったものだろうか?
ちょっぴり気になります。
2019/12/13 Fri. 00:00 |
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廃校を訪ねて................多麻小学校 (2019年10月24日)(山梨県北杜市)
10月24日
10月24日〜25日の1泊2日で清里方面へ旅行に出かけました。
初日の24日。
この日は、韮崎市を中心に巡り、その後に北杜市へと移動します。
岩下小学校をあとにして、向かった先は.............旧・須玉町立 多麻小学校。
多麻小学校もネットで調べても、創立時期等の詳細は不明でしたが、
現地の校歌の碑に簡略した沿革が記載されていました。
校名の由来となった多麻村の沿革も一緒に紐解けはば.............
明治23年 豊田村と東向村が合併して多麻村となる。
中小倉に民家を借りて尋常小学校とした。
大正4年 現在地に校舎を新築して開校。
大正5年 高等科を設置して多麻尋常高等小学校となる。
昭和22年 学制改革により多麻村立多麻小学校と改称する。
昭和30年 多麻村が若神子村、穂足村、津金村と合併して須玉町となる。
須玉町立多麻小学校と改称する。
昭和60年 旧・須玉町の6つの小学校(江草小学校、津金小学校、岩下小学校、
穂足小学校、多麻小学校、若神子小学校)が統合して、旧・若神子小学校敷地に
新たに須玉町立須玉小学校が開校し、多麻小学校は廃校となる。
と、このような沿革になるようです。
こちらが、かつての正門。
石造りの門柱は健在ですが、表札はありません。
多麻小学校は廃校後、校舎は解体され
その敷地は、多麻公民館として活用されているようです。
その公民館。
校庭は、地域のグランドとして利用されているのか?
思ったほど荒れてはいないようです。
公民館の建物から数十m離れた所に建つ校歌の碑。
実は、この校歌の碑の裏面に沿革が刻まれています。
たいへん参考になりました。
公民館脇には忠魂碑。
野ざらしに置かれているローラー。
敷地のフェンス沿いには古い桜の木が並ぶ。
校庭の奥には赤茶色に錆びた朝礼台。
雑草もなく、適度に管理されている(と思われる)校庭跡。
残念ながら遊具類は残っていない。
学校遺構は、門柱と校歌の碑と朝礼台ぐらいしか残っていない。
二宮像を期待したんだけど....................
でも沿革が刻まれた校歌の碑があったから、良しとしなくちゃね。
10月24日〜25日の1泊2日で清里方面へ旅行に出かけました。
初日の24日。
この日は、韮崎市を中心に巡り、その後に北杜市へと移動します。
岩下小学校をあとにして、向かった先は.............旧・須玉町立 多麻小学校。
多麻小学校もネットで調べても、創立時期等の詳細は不明でしたが、
現地の校歌の碑に簡略した沿革が記載されていました。
校名の由来となった多麻村の沿革も一緒に紐解けはば.............
明治23年 豊田村と東向村が合併して多麻村となる。
中小倉に民家を借りて尋常小学校とした。
大正4年 現在地に校舎を新築して開校。
大正5年 高等科を設置して多麻尋常高等小学校となる。
昭和22年 学制改革により多麻村立多麻小学校と改称する。
昭和30年 多麻村が若神子村、穂足村、津金村と合併して須玉町となる。
須玉町立多麻小学校と改称する。
昭和60年 旧・須玉町の6つの小学校(江草小学校、津金小学校、岩下小学校、
穂足小学校、多麻小学校、若神子小学校)が統合して、旧・若神子小学校敷地に
新たに須玉町立須玉小学校が開校し、多麻小学校は廃校となる。
と、このような沿革になるようです。
こちらが、かつての正門。
石造りの門柱は健在ですが、表札はありません。
多麻小学校は廃校後、校舎は解体され
その敷地は、多麻公民館として活用されているようです。
その公民館。
校庭は、地域のグランドとして利用されているのか?
思ったほど荒れてはいないようです。
公民館の建物から数十m離れた所に建つ校歌の碑。
実は、この校歌の碑の裏面に沿革が刻まれています。
たいへん参考になりました。
公民館脇には忠魂碑。
野ざらしに置かれているローラー。
敷地のフェンス沿いには古い桜の木が並ぶ。
校庭の奥には赤茶色に錆びた朝礼台。
雑草もなく、適度に管理されている(と思われる)校庭跡。
残念ながら遊具類は残っていない。
学校遺構は、門柱と校歌の碑と朝礼台ぐらいしか残っていない。
二宮像を期待したんだけど....................
でも沿革が刻まれた校歌の碑があったから、良しとしなくちゃね。
2019/12/12 Thu. 00:00 |
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廃校を訪ねて................岩下小学校 (2019年10月24日)(山梨県北杜市)
10月24日
10月24日〜25日の1泊2日で清里方面へ旅行に出かけました。
初日の24日。
この日は、韮崎市を中心に巡り、その後に北杜市へと移動します。
塩川ダムをあとにして、向かった先は.............旧・須玉町立 岩下小学校。
岩下小学校もネットで調べても、創立時期等の詳細は不明でしたが、
現地にあった記念碑に簡略な沿革が刻まれていました。
岩下小学校は明治6年に開校した江草小学校の分校として
明治8年に開校しました。
明治11年に分校は廃止されますが、地元の強い要望に寄り
明治12年に第一大学区第四十三番中学区第百二十六番小学 岩下小学校として開校します。
明治25年 岩下尋常小学校と改称
昭和22年 学制改革により、江草村立岩下小学校と改称する。
昭和31年 江草村が須玉町に編入され、須玉町立岩下小学校と改称する。
昭和60年に旧・須玉町の6つの小学校(江草小学校、津金小学校、岩下小学校、
穂足小学校、多麻小学校、若神子小学校)が統合して、旧・若神子小学校敷地に
新たに須玉町立須玉小学校が開校し、岩下小学校は廃校となりました。
廃校後、建物の一部は岩下公民館として活用され
また、敷地の多くの部分は民間会社の太陽光発電の研究施設となっているようです。
こちらが、かつての正門跡付近。
背後は、往時の校舎と思われる木造校舎。
現在は、民間会社が使用しています。
こちらの建物が岩下公民館。
岩下小学校の講堂だったのでしょうか?
公民館出入り口。
公民館の庭先に記念碑が建つ。
岩下小学校の創立百周年記念碑。
裏面に簡略された沿革が刻まれているようですが
石の腐食が激しくて読み辛い。
でも解らなかった沿革がおぼろげに解ってきた。
その脇には校歌の碑。
もう一つ校歌の碑。
こちらには2番と3番の歌詞が刻まれている。
公民館になっている校舎(講堂?)の背面。
古い机が野ざらしで放置。
下駄箱と階段。
校舎から移動して来たら、ここで靴を履き替えていたんでしょうか?
手前が公民館、奥が民間会社。
校舎は、こんな感じで往時から並んでいたんでしょうね。
残念ながら、校庭へはフェンスがあって門扉も閉まっていて、
中に入ることはできません。
民間会社が太陽光発電の実験か、もしくは測定等で校庭を使用しているようですが
この日は平日だけど、誰もいない。
ひょっとしたら、今はもう使われていない研究施設なのかもしれませんね。
いずれにしても、山奥の無人の建物。
怪しまれても嫌なので、早々に撤収いたしました。
10月24日〜25日の1泊2日で清里方面へ旅行に出かけました。
初日の24日。
この日は、韮崎市を中心に巡り、その後に北杜市へと移動します。
塩川ダムをあとにして、向かった先は.............旧・須玉町立 岩下小学校。
岩下小学校もネットで調べても、創立時期等の詳細は不明でしたが、
現地にあった記念碑に簡略な沿革が刻まれていました。
岩下小学校は明治6年に開校した江草小学校の分校として
明治8年に開校しました。
明治11年に分校は廃止されますが、地元の強い要望に寄り
明治12年に第一大学区第四十三番中学区第百二十六番小学 岩下小学校として開校します。
明治25年 岩下尋常小学校と改称
昭和22年 学制改革により、江草村立岩下小学校と改称する。
昭和31年 江草村が須玉町に編入され、須玉町立岩下小学校と改称する。
昭和60年に旧・須玉町の6つの小学校(江草小学校、津金小学校、岩下小学校、
穂足小学校、多麻小学校、若神子小学校)が統合して、旧・若神子小学校敷地に
新たに須玉町立須玉小学校が開校し、岩下小学校は廃校となりました。
廃校後、建物の一部は岩下公民館として活用され
また、敷地の多くの部分は民間会社の太陽光発電の研究施設となっているようです。
こちらが、かつての正門跡付近。
背後は、往時の校舎と思われる木造校舎。
現在は、民間会社が使用しています。
こちらの建物が岩下公民館。
岩下小学校の講堂だったのでしょうか?
公民館出入り口。
公民館の庭先に記念碑が建つ。
岩下小学校の創立百周年記念碑。
裏面に簡略された沿革が刻まれているようですが
石の腐食が激しくて読み辛い。
でも解らなかった沿革がおぼろげに解ってきた。
その脇には校歌の碑。
もう一つ校歌の碑。
こちらには2番と3番の歌詞が刻まれている。
公民館になっている校舎(講堂?)の背面。
古い机が野ざらしで放置。
下駄箱と階段。
校舎から移動して来たら、ここで靴を履き替えていたんでしょうか?
手前が公民館、奥が民間会社。
校舎は、こんな感じで往時から並んでいたんでしょうね。
残念ながら、校庭へはフェンスがあって門扉も閉まっていて、
中に入ることはできません。
民間会社が太陽光発電の実験か、もしくは測定等で校庭を使用しているようですが
この日は平日だけど、誰もいない。
ひょっとしたら、今はもう使われていない研究施設なのかもしれませんね。
いずれにしても、山奥の無人の建物。
怪しまれても嫌なので、早々に撤収いたしました。
2019/12/11 Wed. 15:00 |
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廃校を訪ねて................円野小学校 (2019年10月24日)(山梨県韮崎市)
10月24日
10月24日〜25日の1泊2日で清里方面へ旅行に出かけました。
初日の24日。
この日は、韮崎市を中心に巡ります。
中田小学校をあとにして、向かった先は.............韮崎市立円野小学校。
円野小学校の沿革も事前にネットでは調べる事は出来ませんでしたが
現地に建てられていた閉校記念碑によれば..............
明治6年 第一大学区第四十三番中学区第七十番公立小学円井学校として設置される。
明治8年 円野村設立により円野小学校と改称する。
明治9年 校舎を下円井区大字下河原に新築し移転する。
明治20年 円野尋常小学校と改称する。
明治33年 円野尋常高等小学校と改称する。
明治40年 釜無川が未曾有の洪水により校舎流失。
明治41年 現在地に校舎を新設し移転。
昭和22年 学制改革により円野村立円野小学校と改称する。
昭和29年 韮崎町、穂坂村、藤井村、清哲村、神山村、大草村、竜岡村、 旭村、中田村、穴山村、円野村が合併して韮崎市が発足。
韮崎市立円野小学校と改称する。
昭和53年 円野小学校、清哲小学校、神山小学校が統合して、
新たに韮崎市立北西小学校が開校。
円野小学校は廃校となる。
と、このような沿革となっているようです。
ふぇんすの奥にあるのはかつての門柱。
でも、この場所が正門跡だったようではなさそうで
後から、この場所に移設されたようです。
石造りの古い門柱。
表札は文字がカスれたのか?
はたまた消されたのか?
校名は残っていない。
こちらも廃校後、校舎はかいたいされ、現在は更地状態。
グランドとして利用されているのか?
雑草がないと言うことは、それなりに管理されているようです。
そのグランド(?)の一部に、それっぽい場所がある。
近づいてみると、碑がありますね。
円野小学校之記念碑
いわゆる廃校記念碑ですね。(学校跡碑の方が正解かも?)
嬉しいことに、裏面には沿革が刻まれています。
こちらは、二宮像。
タイムカプセルと記された小さな碑。
この下に埋められているんでしょうね。
こちらは元標と記されている。
よくみると、夜間照明施設も完備されている。
やっぱり、グランドとし利用されているようですね。
ちょっぴり荒れ気味に見えるのは、今年の大きな台風のせいでしょうか?
誰もいないグランドを びいすけ は気ままに徘徊。
それを見守る もっちゃん 。
近くにあまり民家は無いから、犬の散歩コースでは無いようだけど
匂いが気になる びいすけ 。
野生の動物でも出てくるんでしょうか?
先ほどの門柱の脇には、土に埋もれかけたローラー。
赤茶色に錆び付いているのが、古さを物語る。
一体、いつからこの場所で野ざらしになっていたんだろう...................
10月24日〜25日の1泊2日で清里方面へ旅行に出かけました。
初日の24日。
この日は、韮崎市を中心に巡ります。
中田小学校をあとにして、向かった先は.............韮崎市立円野小学校。
円野小学校の沿革も事前にネットでは調べる事は出来ませんでしたが
現地に建てられていた閉校記念碑によれば..............
明治6年 第一大学区第四十三番中学区第七十番公立小学円井学校として設置される。
明治8年 円野村設立により円野小学校と改称する。
明治9年 校舎を下円井区大字下河原に新築し移転する。
明治20年 円野尋常小学校と改称する。
明治33年 円野尋常高等小学校と改称する。
明治40年 釜無川が未曾有の洪水により校舎流失。
明治41年 現在地に校舎を新設し移転。
昭和22年 学制改革により円野村立円野小学校と改称する。
昭和29年 韮崎町、穂坂村、藤井村、清哲村、神山村、大草村、竜岡村、 旭村、中田村、穴山村、円野村が合併して韮崎市が発足。
韮崎市立円野小学校と改称する。
昭和53年 円野小学校、清哲小学校、神山小学校が統合して、
新たに韮崎市立北西小学校が開校。
円野小学校は廃校となる。
と、このような沿革となっているようです。
ふぇんすの奥にあるのはかつての門柱。
でも、この場所が正門跡だったようではなさそうで
後から、この場所に移設されたようです。
石造りの古い門柱。
表札は文字がカスれたのか?
はたまた消されたのか?
校名は残っていない。
こちらも廃校後、校舎はかいたいされ、現在は更地状態。
グランドとして利用されているのか?
雑草がないと言うことは、それなりに管理されているようです。
そのグランド(?)の一部に、それっぽい場所がある。
近づいてみると、碑がありますね。
円野小学校之記念碑
いわゆる廃校記念碑ですね。(学校跡碑の方が正解かも?)
嬉しいことに、裏面には沿革が刻まれています。
こちらは、二宮像。
タイムカプセルと記された小さな碑。
この下に埋められているんでしょうね。
こちらは元標と記されている。
よくみると、夜間照明施設も完備されている。
やっぱり、グランドとし利用されているようですね。
ちょっぴり荒れ気味に見えるのは、今年の大きな台風のせいでしょうか?
誰もいないグランドを びいすけ は気ままに徘徊。
それを見守る もっちゃん 。
近くにあまり民家は無いから、犬の散歩コースでは無いようだけど
匂いが気になる びいすけ 。
野生の動物でも出てくるんでしょうか?
先ほどの門柱の脇には、土に埋もれかけたローラー。
赤茶色に錆び付いているのが、古さを物語る。
一体、いつからこの場所で野ざらしになっていたんだろう...................
2019/12/10 Tue. 15:00 |
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廃校を訪ねて................中田小学校 (2019年10月24日)(山梨県韮崎市)
10月24日
10月24日〜25日の1泊2日で清里方面へ旅行に出かけました。
初日の24日。
この日は、韮崎市を中心に巡ります。
新府城址をあとにして、向かった先は.............韮崎市立中田小学校。
中田小学校は、現地に在った閉校記念碑に刻まれた沿革によれば
明治6年 中条村中央に第一大学区第四十三番中学区
第四十五番小学 中条学校として改称する。
明治8年 中条村と小田川村が合併して中田村が発足。
中田学校と改称する。
明治20年 学令改革により中田学校は廃止され、中条区は高麗尋常小学校、
小田川区は孔丘尋常小学校に分類される。
明治22年 再び中田尋常小学校が開校する。
大正9年 高等科を設置し、中田尋常高等小学校となる。
昭和22年 学制改革により中田村立中田小学校と改称する。
昭和29年 韮崎町、穂坂村、藤井村、清哲村、神山村、大草村、竜岡村、
旭村、中田村、穴山村、円野村が合併して韮崎市が発足。
韮崎市立中田小学校と改称する。
平成2年 藤井小学校、中田小学校、穴山小学校が統合されて
新たに韮崎市立北東小学校が開校。
中田小学校は廃校となる。
と、このようになっています。
かつての正門跡。
地域の避難場所に指定されています。
廃校後、校舎は解体され跡地は、新たに公民館が建てられ、
中田公民館として活用されています。
公民館の建物の前にはこれと言ったモノは無い。
唯一、それらしきモノは、経緯度の記された標柱。
敷地の多くの部分は仮囲いされている。
と言うのも、新たに体育館が建設工事中。
工事現場の仮囲いされた敷地の中に、
記念碑らしき石碑が並んでいる。
工事関係者にお断りをして、敷地内の石碑を確認します。
その一つ。
閉校記念碑。
嬉しいことに、裏面には詳しい沿革が刻まれています。
いやぁ、大変参考になりました。
こちらは、創立百周年記念碑。
こちらの裏面にも簡略な沿革が刻まれていました。
逆に、校歌が刻まれていないのが珍しく感じてしまいます。
こちらは、戦没者の碑のようですね。
敷地の一部は公園としてりようされいたのか?
ベンチも置かれているけれど、
工事のダンプカーや重機車が出入りするからか、
厚い鉄板が敷かれいる。
遊具らしきモノは無さそうです。
子供たちがボールを投げて遊んでいたコンクリート製の塀。
側面には『新府技能◯組合.........』と刻まれているけれど
一部が落書きで読み取れない。
こんな所にも不届き者がいる。
落書きをして何が楽しいんだろう?
悲しい人たちですね。
10月24日〜25日の1泊2日で清里方面へ旅行に出かけました。
初日の24日。
この日は、韮崎市を中心に巡ります。
新府城址をあとにして、向かった先は.............韮崎市立中田小学校。
中田小学校は、現地に在った閉校記念碑に刻まれた沿革によれば
明治6年 中条村中央に第一大学区第四十三番中学区
第四十五番小学 中条学校として改称する。
明治8年 中条村と小田川村が合併して中田村が発足。
中田学校と改称する。
明治20年 学令改革により中田学校は廃止され、中条区は高麗尋常小学校、
小田川区は孔丘尋常小学校に分類される。
明治22年 再び中田尋常小学校が開校する。
大正9年 高等科を設置し、中田尋常高等小学校となる。
昭和22年 学制改革により中田村立中田小学校と改称する。
昭和29年 韮崎町、穂坂村、藤井村、清哲村、神山村、大草村、竜岡村、
旭村、中田村、穴山村、円野村が合併して韮崎市が発足。
韮崎市立中田小学校と改称する。
平成2年 藤井小学校、中田小学校、穴山小学校が統合されて
新たに韮崎市立北東小学校が開校。
中田小学校は廃校となる。
と、このようになっています。
かつての正門跡。
地域の避難場所に指定されています。
廃校後、校舎は解体され跡地は、新たに公民館が建てられ、
中田公民館として活用されています。
公民館の建物の前にはこれと言ったモノは無い。
唯一、それらしきモノは、経緯度の記された標柱。
敷地の多くの部分は仮囲いされている。
と言うのも、新たに体育館が建設工事中。
工事現場の仮囲いされた敷地の中に、
記念碑らしき石碑が並んでいる。
工事関係者にお断りをして、敷地内の石碑を確認します。
その一つ。
閉校記念碑。
嬉しいことに、裏面には詳しい沿革が刻まれています。
いやぁ、大変参考になりました。
こちらは、創立百周年記念碑。
こちらの裏面にも簡略な沿革が刻まれていました。
逆に、校歌が刻まれていないのが珍しく感じてしまいます。
こちらは、戦没者の碑のようですね。
敷地の一部は公園としてりようされいたのか?
ベンチも置かれているけれど、
工事のダンプカーや重機車が出入りするからか、
厚い鉄板が敷かれいる。
遊具らしきモノは無さそうです。
子供たちがボールを投げて遊んでいたコンクリート製の塀。
側面には『新府技能◯組合.........』と刻まれているけれど
一部が落書きで読み取れない。
こんな所にも不届き者がいる。
落書きをして何が楽しいんだろう?
悲しい人たちですね。
2019/12/10 Tue. 00:00 |
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廃校を訪ねて................韮崎小学校祖母石分校 (2019年10月24日)(山梨県韮崎市)
10月24日
10月24日〜25日の1泊2日で清里方面へ旅行に出かけました。
初日の24日。
この日は、韮崎市を中心に巡ります。
清哲小学校をあとにして、向かった先は.............韮崎市立韮崎小学校祖母石分校。
『祖母石』と書いて『うばいし』と読むそうです。
祖母石分校は、
昭和22年 城前寺を仮教室にし、韮崎町立韮崎小学校祖母石分校を開校。
昭和24年 新校舎完成。現在地へ移転する。
昭和29年 韮崎町、穂坂村、藤井村、清哲村、神山村、大草村、竜岡村、旭村、中田村、
穴山村、円野村が合併して韮崎市が発足。
韮崎市立韮崎小学校祖母石分校と改称する。
昭和34年 台風7号の襲来により校舎流出。
昭和35年 再建新築工事が完成。
昭和38年 本校に統合されて廃校となる。
と、このような沿革となっています。
祖母石分校そのものの情報が乏しく、その場所さえ分かりませんでした。
いつものように、『祖母石』と言う地名を頼りに
祖母石公民館にあたりを付け、とりあえず向かって見ます。
こちらが、祖母石公民館。
学校跡らしき雰囲気は感じられるけれど確証は無い。
門柱や、二宮像、廃校記念碑、学校跡碑と言ったモノがあれば良いんですが
そういった類のものは一切ありません。
公民館の敷地でお弁当を広げていた御老人がいたので、訊いて見たら
『地元の人間ではないので分からない』と言われちゃいました。
確かに、地元民じゃ無いと分からない。
そうしているうちに軽トラックが一台入ってきて、
御老人が隣の家の中に入っていった。
すぐさま追いかけてその御老人に尋ねてみると
この場所が祖母石分校跡で間違い無いとの事でした。
分校跡地を探し出したけれど
残念ながら学校遺構が全く残っていない。
おそらく校庭跡と思われる広場。
旧道沿いのフェンスに沿って立ち並ぶ桜の木が
唯一の分校の面影を残しているようです。
敷地にある遊具類は先ほどの御老人の話では、
分校時代の遊具では無いそうです。
確かに廃校から既に56年。
半世紀以上が経っていますからね。
小学校の分校の規模ではちょっと大きすぎる気もするが
ひょっとしたら分校時代の朝礼台?
そんな淡い期待を抱いたりして..............
おそらく、地元の御年配の方しか記憶の中にない祖母石分校。
あと数年もしたら、そんな分校の存在さえも
忘れ去られてしまうのかもしれませんね.............。
10月24日〜25日の1泊2日で清里方面へ旅行に出かけました。
初日の24日。
この日は、韮崎市を中心に巡ります。
清哲小学校をあとにして、向かった先は.............韮崎市立韮崎小学校祖母石分校。
『祖母石』と書いて『うばいし』と読むそうです。
祖母石分校は、
昭和22年 城前寺を仮教室にし、韮崎町立韮崎小学校祖母石分校を開校。
昭和24年 新校舎完成。現在地へ移転する。
昭和29年 韮崎町、穂坂村、藤井村、清哲村、神山村、大草村、竜岡村、旭村、中田村、
穴山村、円野村が合併して韮崎市が発足。
韮崎市立韮崎小学校祖母石分校と改称する。
昭和34年 台風7号の襲来により校舎流出。
昭和35年 再建新築工事が完成。
昭和38年 本校に統合されて廃校となる。
と、このような沿革となっています。
祖母石分校そのものの情報が乏しく、その場所さえ分かりませんでした。
いつものように、『祖母石』と言う地名を頼りに
祖母石公民館にあたりを付け、とりあえず向かって見ます。
こちらが、祖母石公民館。
学校跡らしき雰囲気は感じられるけれど確証は無い。
門柱や、二宮像、廃校記念碑、学校跡碑と言ったモノがあれば良いんですが
そういった類のものは一切ありません。
公民館の敷地でお弁当を広げていた御老人がいたので、訊いて見たら
『地元の人間ではないので分からない』と言われちゃいました。
確かに、地元民じゃ無いと分からない。
そうしているうちに軽トラックが一台入ってきて、
御老人が隣の家の中に入っていった。
すぐさま追いかけてその御老人に尋ねてみると
この場所が祖母石分校跡で間違い無いとの事でした。
分校跡地を探し出したけれど
残念ながら学校遺構が全く残っていない。
おそらく校庭跡と思われる広場。
旧道沿いのフェンスに沿って立ち並ぶ桜の木が
唯一の分校の面影を残しているようです。
敷地にある遊具類は先ほどの御老人の話では、
分校時代の遊具では無いそうです。
確かに廃校から既に56年。
半世紀以上が経っていますからね。
小学校の分校の規模ではちょっと大きすぎる気もするが
ひょっとしたら分校時代の朝礼台?
そんな淡い期待を抱いたりして..............
おそらく、地元の御年配の方しか記憶の中にない祖母石分校。
あと数年もしたら、そんな分校の存在さえも
忘れ去られてしまうのかもしれませんね.............。
2019/12/09 Mon. 00:00 |
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廃校を訪ねて................清哲小学校 (2019年10月24日)(山梨県韮崎市)
10月24日
10月24日〜25日の1泊2日で清里方面へ旅行に出かけました。
初日の24日。
この日は、韮崎市を中心に巡ります。
若宮八幡宮をあとにして、向かった先は.............韮崎市立清哲小学校
清哲小学校の詳しい沿革も不明です。
昭和53年に清哲小学校、円野小学校、神山小学校の3校が統合して
新たに韮崎市立北西小学校が開校して
清哲小学校は廃校となりました。
いずれにしても他の小学校同様、
明治期に創設された歴史ある小学校だと思われます。
ちなみに校名の『清哲』とは、明治7年に発足した清哲村から由来します。
水上村・青木村・折居村・樋口村が合併して清哲村となりました。
水上村の『氵』、青木村の『青』、折井村の『折』、樋口村の『口』
それぞれの村の漢字を部主として組み合わせた『清哲』という造語が
村名になったそうです。。
廃校後、校舎は解体されて、
跡地は清哲会館と言う地域の公民館になっています。
清哲会館入口。
この辺りが正門跡になるんでしょうか?
残念ながら門柱は残されていない。
正門跡の脇、フェンス沿いに清哲小学校関連の碑が建ち並ぶ。
こちらは、創立百周年記念碑。
今まで巡ってきた他の廃校同様で、韮崎市の創立百周年記念碑は、ほぼ形が共通。
裏面には沿革らしきモノが刻まれているようですが
正直言って、読めない。
こちらは、閉校記念碑。
こちらは、『郷土愛』と刻まれた碑。
広い敷地の一角に建つ清哲会館。
清哲小学校の校舎も、こんな感じで建っていたのだろうか?
校庭の端のフェンス沿いには古い桜の木が並ぶ。
この風景は学校跡を十分に感じさせてくれる。
だれも居ない校庭跡で戯れる もっちゃん と びいすけ 。
ヒソヒソと内緒話?
『お父さんがオヤツくれるよ!』なんて言ったのでしょうか?
一目散にダッシュで、こちらに向かって来ます(笑)。
ネコでも見かけたのか?
やたらと周りを気にする びいすけ。
とにかく、この辺りが気になるようです。
ちょっと先には忠魂碑。
やっぱり、古き歴史のある小学校だったようです。
ここまて、巡ってきた4つの廃校。
いずれも詳しい沿革が分からず残念と言えば残念です。
10月24日〜25日の1泊2日で清里方面へ旅行に出かけました。
初日の24日。
この日は、韮崎市を中心に巡ります。
若宮八幡宮をあとにして、向かった先は.............韮崎市立清哲小学校
清哲小学校の詳しい沿革も不明です。
昭和53年に清哲小学校、円野小学校、神山小学校の3校が統合して
新たに韮崎市立北西小学校が開校して
清哲小学校は廃校となりました。
いずれにしても他の小学校同様、
明治期に創設された歴史ある小学校だと思われます。
ちなみに校名の『清哲』とは、明治7年に発足した清哲村から由来します。
水上村・青木村・折居村・樋口村が合併して清哲村となりました。
水上村の『氵』、青木村の『青』、折井村の『折』、樋口村の『口』
それぞれの村の漢字を部主として組み合わせた『清哲』という造語が
村名になったそうです。。
廃校後、校舎は解体されて、
跡地は清哲会館と言う地域の公民館になっています。
清哲会館入口。
この辺りが正門跡になるんでしょうか?
残念ながら門柱は残されていない。
正門跡の脇、フェンス沿いに清哲小学校関連の碑が建ち並ぶ。
こちらは、創立百周年記念碑。
今まで巡ってきた他の廃校同様で、韮崎市の創立百周年記念碑は、ほぼ形が共通。
裏面には沿革らしきモノが刻まれているようですが
正直言って、読めない。
こちらは、閉校記念碑。
こちらは、『郷土愛』と刻まれた碑。
広い敷地の一角に建つ清哲会館。
清哲小学校の校舎も、こんな感じで建っていたのだろうか?
校庭の端のフェンス沿いには古い桜の木が並ぶ。
この風景は学校跡を十分に感じさせてくれる。
だれも居ない校庭跡で戯れる もっちゃん と びいすけ 。
ヒソヒソと内緒話?
『お父さんがオヤツくれるよ!』なんて言ったのでしょうか?
一目散にダッシュで、こちらに向かって来ます(笑)。
ネコでも見かけたのか?
やたらと周りを気にする びいすけ。
とにかく、この辺りが気になるようです。
ちょっと先には忠魂碑。
やっぱり、古き歴史のある小学校だったようです。
ここまて、巡ってきた4つの廃校。
いずれも詳しい沿革が分からず残念と言えば残念です。
2019/12/08 Sun. 15:00 |
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廃校を訪ねて................神山小学校 (2019年10月24日)(山梨県韮崎市)
10月24日
この日は、山梨県に出かけました、
山梨県と言っても広い。
今回は、韮崎市を中心に北杜市の一部にも立ち寄ってきました。
南宮大神社をあとにして、向かって先は...............韮崎市立神山小学校。
神山小学校の詳しい沿革も不明です。
おそらく明治期に創設された歴史ある小学校だと思われます。
昭和53年に神山小学校、円野小学校、清哲小学校が統合され、
新たに韮崎市立韮崎北西小学校が開校して、
神山小学校は廃校となりました。
こちらが神山小学校の正門跡。
石造りの門柱が神山小学校の歴史を感じさせます。
正門脇の掲示板。
廃校から既に41年。校舎は解体されています。
体育館は地域の体育館として残されたのでしょうか?
しかしながら、昭和40年代とか50年代に建てられた体育館って
かまぼこ屋根に建物が多いけど、こちらは立派な直方体。
ひょっとしたら、校舎跡に建てられたのかもしれない。
びいすけ の立っている辺りのアスファルトの敷地は
神山小学校の校地であるけれど、現在は武田の里駐車場。
すぐ近くには武田八幡宮もあって、この辺りは武田氏発祥の地でもあるらしい。
駐車場の一角に建つ、神山小学校の校歌の碑。
裏面に沿革が刻まれていないかと期待したけれど
裏面にも校歌が刻まれている。
校歌の碑の脇に建つのは、経緯度の標柱。
体育館の正面玄関。
何となくお洒落な感じのする玄関。
玄関の向かい、正門脇の茂みの奥に
隠れるように建つ記念碑。
創立百周年の記念碑。
龍岡小学校、大草小学校でも同じような流線型の石碑で
ひょっとしたら、その当時の韮崎市のトレンドだったのかもしれない。
いずれにしても、年季の入った百周年の記念碑。
少なくても、41年前には百周年を迎え終えていたわけだから
140年以上前の創立と言う歴史のある学校になるわけですね。
この記念碑をじっくり見たかったけれど
蜘蛛の巣が茂みにあって、近寄ることはパス。
こちらは、忠魂碑。
この忠魂碑がある事自体、神山小学校の長い歴史を彷彿させる。
正門前、細い道路を挟んだ先は一段低くなり
そちらが、校庭だったようです。
遊具も何も残されてはいないけれど
校庭跡の雰囲気は感じ取れる。
誰もいない校庭跡。
気ままに闊歩する びいすけ 。
気ままな闊歩を満喫出来たかな?
この日は、山梨県に出かけました、
山梨県と言っても広い。
今回は、韮崎市を中心に北杜市の一部にも立ち寄ってきました。
南宮大神社をあとにして、向かって先は...............韮崎市立神山小学校。
神山小学校の詳しい沿革も不明です。
おそらく明治期に創設された歴史ある小学校だと思われます。
昭和53年に神山小学校、円野小学校、清哲小学校が統合され、
新たに韮崎市立韮崎北西小学校が開校して、
神山小学校は廃校となりました。
こちらが神山小学校の正門跡。
石造りの門柱が神山小学校の歴史を感じさせます。
正門脇の掲示板。
廃校から既に41年。校舎は解体されています。
体育館は地域の体育館として残されたのでしょうか?
しかしながら、昭和40年代とか50年代に建てられた体育館って
かまぼこ屋根に建物が多いけど、こちらは立派な直方体。
ひょっとしたら、校舎跡に建てられたのかもしれない。
びいすけ の立っている辺りのアスファルトの敷地は
神山小学校の校地であるけれど、現在は武田の里駐車場。
すぐ近くには武田八幡宮もあって、この辺りは武田氏発祥の地でもあるらしい。
駐車場の一角に建つ、神山小学校の校歌の碑。
裏面に沿革が刻まれていないかと期待したけれど
裏面にも校歌が刻まれている。
校歌の碑の脇に建つのは、経緯度の標柱。
体育館の正面玄関。
何となくお洒落な感じのする玄関。
玄関の向かい、正門脇の茂みの奥に
隠れるように建つ記念碑。
創立百周年の記念碑。
龍岡小学校、大草小学校でも同じような流線型の石碑で
ひょっとしたら、その当時の韮崎市のトレンドだったのかもしれない。
いずれにしても、年季の入った百周年の記念碑。
少なくても、41年前には百周年を迎え終えていたわけだから
140年以上前の創立と言う歴史のある学校になるわけですね。
この記念碑をじっくり見たかったけれど
蜘蛛の巣が茂みにあって、近寄ることはパス。
こちらは、忠魂碑。
この忠魂碑がある事自体、神山小学校の長い歴史を彷彿させる。
正門前、細い道路を挟んだ先は一段低くなり
そちらが、校庭だったようです。
遊具も何も残されてはいないけれど
校庭跡の雰囲気は感じ取れる。
誰もいない校庭跡。
気ままに闊歩する びいすけ 。
気ままな闊歩を満喫出来たかな?
2019/12/06 Fri. 15:00 |
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廃校を訪ねて................大草小学校 (2019年10月24日)(山梨県韮崎市)
10月24日
この日は、1泊の山梨への旅行。
初日は韮崎市周辺を巡ります。
穂見神社をあとにして、向かった先は..............韮崎市立大草小学校。
と言いながら、穂見神社をでて、用水沿いの狭い道を走っていて、
前方から地元ナンバーの軽自動車。
運転手は御老人。
可能な限り左に寄せてやり過ごすと、その直後にトラックが来た。
どうみても離合は厳しいでしょ?
仕方ないから左にハンドルを切って、ちょっと前に出た瞬間、
左前方でガリガリって嫌な音。
思い切り左前フェンダーをガードレールに擦ってしまい
大きな傷が出来ちゃいました。
テンションが一気に下がったのは言うまでもありません。
気を取り直して、大草小学校へと向かいました。
大草小学校の詳しい沿革も分かりません。
おそらく、龍岡小学校同様、明治期に創設された学校だと思われます。
昭和58年に旧・甘利山小学校と龍岡小学校と大草小学校は統合され
新たに甘利山小学校が開校し、大草小学校は廃校となりました。
おそらく、廃校後に移設されたであろう正門。
石造りの古い門柱。
廃校後、校舎は解体され、新たに大草公民館と甘利児童センターが建てられたようです。
こちらが、大草公民館。
公民館の建物裏には、閉校記念碑。
裏面には校歌が刻まれています。
その隣には、緯度経度標。
おそらく、公民館の建つ場所に校舎が建っていたんでしょうね。
公民館から一本細い道を挟んだ先には体育館。
さらに50mほど先には、統合校である甘利山小学校がある。
統合校として、36年前に新たな敷地を入手して建てられたらしい。。
って言う事は、旧・甘利山小学校は別な場所に在ったってことになる。
でも、色々とネットで調べても分からないんだよなぁ。
そして、こちらが甘利児童センター。
いずれにしても、校庭の敷地の一部に児童センターは建てられたんでしょう。
見た感じ、保育園っぽい建物にも感じてしまうのは気のせい?
校庭も何となく保育園の園庭っぽく見えたりもする。
敷地内の遊具は往時のモノだろうか?
こちらは、校庭の隅に建っていた碑。
てっきり忠魂碑かと思ったら、『大草小学校創立百周年記念碑』。
そう言えば、龍岡小学校にも同じ形の創立百周年記念碑が在ったのを思い出しました。
敷地の外周のブロック塀には、平成11年に子供たちが造ったレリーフが
各学年ごとに埋め込まれています。
こちらは、1年生の作品。
2年生の作品。
3年生の作品。
4年生の作品。
5年生の作品。
6年生の作品。
敷地のフェンス沿いには、桜の古木。
学校跡って言うのが良く分かりますね。
大草小学校跡は南宮大神社という神社に隣接している
その境界線に設けられたコンクリートの建造物。
名前を何と言うのか知らないけれど、ボールを投げて楽しむコンクリートの壁。
昭和49年の卒業生が寄贈したものでした。
この時代って王・長嶋の時代ですよね。
未来の王・長嶋を夢見て、この壁にボールを投げていた少年も
今はどうしているんだろうか.....................?
この日は、1泊の山梨への旅行。
初日は韮崎市周辺を巡ります。
穂見神社をあとにして、向かった先は..............韮崎市立大草小学校。
と言いながら、穂見神社をでて、用水沿いの狭い道を走っていて、
前方から地元ナンバーの軽自動車。
運転手は御老人。
可能な限り左に寄せてやり過ごすと、その直後にトラックが来た。
どうみても離合は厳しいでしょ?
仕方ないから左にハンドルを切って、ちょっと前に出た瞬間、
左前方でガリガリって嫌な音。
思い切り左前フェンダーをガードレールに擦ってしまい
大きな傷が出来ちゃいました。
テンションが一気に下がったのは言うまでもありません。
気を取り直して、大草小学校へと向かいました。
大草小学校の詳しい沿革も分かりません。
おそらく、龍岡小学校同様、明治期に創設された学校だと思われます。
昭和58年に旧・甘利山小学校と龍岡小学校と大草小学校は統合され
新たに甘利山小学校が開校し、大草小学校は廃校となりました。
おそらく、廃校後に移設されたであろう正門。
石造りの古い門柱。
廃校後、校舎は解体され、新たに大草公民館と甘利児童センターが建てられたようです。
こちらが、大草公民館。
公民館の建物裏には、閉校記念碑。
裏面には校歌が刻まれています。
その隣には、緯度経度標。
おそらく、公民館の建つ場所に校舎が建っていたんでしょうね。
公民館から一本細い道を挟んだ先には体育館。
さらに50mほど先には、統合校である甘利山小学校がある。
統合校として、36年前に新たな敷地を入手して建てられたらしい。。
って言う事は、旧・甘利山小学校は別な場所に在ったってことになる。
でも、色々とネットで調べても分からないんだよなぁ。
そして、こちらが甘利児童センター。
いずれにしても、校庭の敷地の一部に児童センターは建てられたんでしょう。
見た感じ、保育園っぽい建物にも感じてしまうのは気のせい?
校庭も何となく保育園の園庭っぽく見えたりもする。
敷地内の遊具は往時のモノだろうか?
こちらは、校庭の隅に建っていた碑。
てっきり忠魂碑かと思ったら、『大草小学校創立百周年記念碑』。
そう言えば、龍岡小学校にも同じ形の創立百周年記念碑が在ったのを思い出しました。
敷地の外周のブロック塀には、平成11年に子供たちが造ったレリーフが
各学年ごとに埋め込まれています。
こちらは、1年生の作品。
2年生の作品。
3年生の作品。
4年生の作品。
5年生の作品。
6年生の作品。
敷地のフェンス沿いには、桜の古木。
学校跡って言うのが良く分かりますね。
大草小学校跡は南宮大神社という神社に隣接している
その境界線に設けられたコンクリートの建造物。
名前を何と言うのか知らないけれど、ボールを投げて楽しむコンクリートの壁。
昭和49年の卒業生が寄贈したものでした。
この時代って王・長嶋の時代ですよね。
未来の王・長嶋を夢見て、この壁にボールを投げていた少年も
今はどうしているんだろうか.....................?
2019/12/05 Thu. 15:00 |
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廃校を訪ねて..................龍岡小学校 (2019年10月24日)(山梨県韮崎市)
10月24日
この日は、山梨県に出かけました、
山梨県と言っても広い。
今回は、韮崎市を中心に北杜市の一部にも立ち寄ってきました。
前日の夜、千葉の佐倉市を移動。
八王子の実家に向かいますが、何と首都高速が大々的に通行止め。
いつもなら首都高速7号線を走り、錦糸町料金所から両国JCT、
箱崎JCT、江戸橋JCT、竹橋JCT、三宅坂JCTと走り、
首都高速4号線から中央道に移動しますが、
この日ふ、内閣府主催の天皇即位関連の祝賀会が開催され、
各国の要人の警護のため、首都高速では都心部を通過出来ない。
湾岸線に迂回するものの大渋滞。大井JCTからC2を走らされ
慣れない道を走り、どっと疲れました。
朝、5時半に八王子の実家を出発。
助手席に 妹のもっちゃん リヤシートの荷台に ケージに入った びいすけ 。
2人と1匹の山梨旅行の始まりです。
最初に向かった先は...............韮崎市立龍岡小学校。
龍岡小学校の沿革は分かりません。
おそらく明治期に創設された歴史ある小学校だったと思われます。
昭和58年に甘利小学校、大草小学校、龍岡小学校が統合して、
新たに韮崎市立甘利小学校が開校となり、
龍岡小学校は廃校となりました。
こちらが、正門跡。
門柱。
特に門柱には表記もない。
もう1本の門柱は、10mほど離れた場所に移動。
そちらの門柱には、表札がしっかりと残っていました。
廃校から既に36年。
校舎は解体され、平成2年に龍岡体育館が建てられました。
校庭は、地域のご老人たちの社交場。
ゲートボール場としても使われているようで
この日も10人近いご老人が集まっていました。
敷地の一角には、公民館も建てられています。
正門脇の植え込みの一角に石碑が並んでいました。
見ずらいですが、龍岡小学校の閉校記念碑。
裏面に沿革が刻まれているかと期待しましたが
裏面には校歌が刻まれていました。
こちらは、創立百周年の記念碑。
ひょっとしたら、この碑の裏に沿革が刻まれていたかもしれないが
碑の前に大きな蜘蛛の巣があって、碑に近づくのを躊躇してしまいました。
そして、二宮像。
少し離れた場所に建つ碑。
殉国と言った単語が確認できるから忠魂碑のようなモノでしょう。
忠魂碑って、歴史のある小学校に残っている事が多いから
龍岡小学校も歴史のある学校だったみたいですね。
残念ながら遊具類は残っていなくて
子ども達の憩いの場ではなさそうです。
やっぱり、ご老人たちに優先されているみたいですね。
そんな中で見つけたオブジェ。
卒業記念に子供たちが造作ったものでしょう。
廃校から36年。
おそらく4〜50年経ったものでしょう。
これを作った子供たちも、きっといい大人になっているんですね。
この日は、山梨県に出かけました、
山梨県と言っても広い。
今回は、韮崎市を中心に北杜市の一部にも立ち寄ってきました。
前日の夜、千葉の佐倉市を移動。
八王子の実家に向かいますが、何と首都高速が大々的に通行止め。
いつもなら首都高速7号線を走り、錦糸町料金所から両国JCT、
箱崎JCT、江戸橋JCT、竹橋JCT、三宅坂JCTと走り、
首都高速4号線から中央道に移動しますが、
この日ふ、内閣府主催の天皇即位関連の祝賀会が開催され、
各国の要人の警護のため、首都高速では都心部を通過出来ない。
湾岸線に迂回するものの大渋滞。大井JCTからC2を走らされ
慣れない道を走り、どっと疲れました。
朝、5時半に八王子の実家を出発。
助手席に 妹のもっちゃん リヤシートの荷台に ケージに入った びいすけ 。
2人と1匹の山梨旅行の始まりです。
最初に向かった先は...............韮崎市立龍岡小学校。
龍岡小学校の沿革は分かりません。
おそらく明治期に創設された歴史ある小学校だったと思われます。
昭和58年に甘利小学校、大草小学校、龍岡小学校が統合して、
新たに韮崎市立甘利小学校が開校となり、
龍岡小学校は廃校となりました。
こちらが、正門跡。
門柱。
特に門柱には表記もない。
もう1本の門柱は、10mほど離れた場所に移動。
そちらの門柱には、表札がしっかりと残っていました。
廃校から既に36年。
校舎は解体され、平成2年に龍岡体育館が建てられました。
校庭は、地域のご老人たちの社交場。
ゲートボール場としても使われているようで
この日も10人近いご老人が集まっていました。
敷地の一角には、公民館も建てられています。
正門脇の植え込みの一角に石碑が並んでいました。
見ずらいですが、龍岡小学校の閉校記念碑。
裏面に沿革が刻まれているかと期待しましたが
裏面には校歌が刻まれていました。
こちらは、創立百周年の記念碑。
ひょっとしたら、この碑の裏に沿革が刻まれていたかもしれないが
碑の前に大きな蜘蛛の巣があって、碑に近づくのを躊躇してしまいました。
そして、二宮像。
少し離れた場所に建つ碑。
殉国と言った単語が確認できるから忠魂碑のようなモノでしょう。
忠魂碑って、歴史のある小学校に残っている事が多いから
龍岡小学校も歴史のある学校だったみたいですね。
残念ながら遊具類は残っていなくて
子ども達の憩いの場ではなさそうです。
やっぱり、ご老人たちに優先されているみたいですね。
そんな中で見つけたオブジェ。
卒業記念に子供たちが造作ったものでしょう。
廃校から36年。
おそらく4〜50年経ったものでしょう。
これを作った子供たちも、きっといい大人になっているんですね。
2019/12/04 Wed. 15:00 |
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廃校を訪ねて..................箱田小学校 (2019年10月7日)(茨城県東笠間市)
10月7日
この日は、茨城県の笠間市に出かけました。
金剛寺をあとにして、向かった先は.............笠間市立箱田小学校。
箱田小学校は、
明治6年 石井村と箱田村の共同で石井校として開校する。
明治22年 町村制か実施され、八ヶ村をもって北山内村を編成。
北山内村尋常小学校として発足。
明治42年 現在地に北山内第一尋常小学校として創立。
昭和22年 学制改革により北山内村立第一小学校と改称する。
昭和30年 北山内村が笠間町・大池田村・南山内村と合併し、改めて笠間町が発足。
笠間町立箱田小学校と改称する。
昭和33年 笠間町が市制施行で笠間市となる。笠間市立箱田小学校と改称する。
平成27年 笠間小学校に統合されて廃校となる。
と、このような沿革となっています。
こちらが、箱田小学校の正門。
石造りの古い門柱。
表札は平成8年度の卒業生の寄贈品。
卒業生の寄贈品だから、廃校になったからと言って
無下に扱えませんから、このまま掲げられるんでしょうね。
こちらは、校舎脇の校門。
通用門として使われていたのか?
こちらも石造りの門柱。
昭和24年に校舎の新築記念に建立されたモノのようです。
正門からの校舎。
校舎前に碑が建っています。
その碑は、校歌の碑。
第28回卒業記念に建てられたモノですね。
玄関には、凝った表札?
それともモニュメント?
玄関庇には校章。
正門脇には、閉校記念碑。
裏面には沿革も刻まれていて、参考になりました。
その隣には、校訓の碑。
さらに、その奥には二宮像。
こちらが校舎。
別アングルからの校舎。
校舎とシンボルツリー。
校舎全景。
校舎前の国旗掲揚ポール。
校庭。
残念ながら、校庭には遊具類は残っていない。
朝礼台。
水飲み場。
なぜか、校庭に土俵がある。
こちらが、体育館。
体育館の脇に建つ碑。
『男の友情』の歌碑。
笠間市で生まれた作詞家・高野公男の功績を称えた碑。
作曲家・船村徹とのコンビで名曲を作ったらしい。
確か、『男の友情』の碑って、栃木県の『道の駅しおや』にも在ったような気がする。
そして、場違いな獣の捕獲用の檻。
ここに猪でも来るのだろうか。
傍らには、捕獲用の檻が数基置かれている。
笠間市も野生動物による農作物の被害が多いのだろうか?
数年前まで学校だった場所に、捕獲用の檻が置かれるなんて............
ちょっぴり、いや、かなり衝撃的でした。
この日は、茨城県の笠間市に出かけました。
金剛寺をあとにして、向かった先は.............笠間市立箱田小学校。
箱田小学校は、
明治6年 石井村と箱田村の共同で石井校として開校する。
明治22年 町村制か実施され、八ヶ村をもって北山内村を編成。
北山内村尋常小学校として発足。
明治42年 現在地に北山内第一尋常小学校として創立。
昭和22年 学制改革により北山内村立第一小学校と改称する。
昭和30年 北山内村が笠間町・大池田村・南山内村と合併し、改めて笠間町が発足。
笠間町立箱田小学校と改称する。
昭和33年 笠間町が市制施行で笠間市となる。笠間市立箱田小学校と改称する。
平成27年 笠間小学校に統合されて廃校となる。
と、このような沿革となっています。
こちらが、箱田小学校の正門。
石造りの古い門柱。
表札は平成8年度の卒業生の寄贈品。
卒業生の寄贈品だから、廃校になったからと言って
無下に扱えませんから、このまま掲げられるんでしょうね。
こちらは、校舎脇の校門。
通用門として使われていたのか?
こちらも石造りの門柱。
昭和24年に校舎の新築記念に建立されたモノのようです。
正門からの校舎。
校舎前に碑が建っています。
その碑は、校歌の碑。
第28回卒業記念に建てられたモノですね。
玄関には、凝った表札?
それともモニュメント?
玄関庇には校章。
正門脇には、閉校記念碑。
裏面には沿革も刻まれていて、参考になりました。
その隣には、校訓の碑。
さらに、その奥には二宮像。
こちらが校舎。
別アングルからの校舎。
校舎とシンボルツリー。
校舎全景。
校舎前の国旗掲揚ポール。
校庭。
残念ながら、校庭には遊具類は残っていない。
朝礼台。
水飲み場。
なぜか、校庭に土俵がある。
こちらが、体育館。
体育館の脇に建つ碑。
『男の友情』の歌碑。
笠間市で生まれた作詞家・高野公男の功績を称えた碑。
作曲家・船村徹とのコンビで名曲を作ったらしい。
確か、『男の友情』の碑って、栃木県の『道の駅しおや』にも在ったような気がする。
そして、場違いな獣の捕獲用の檻。
ここに猪でも来るのだろうか。
傍らには、捕獲用の檻が数基置かれている。
笠間市も野生動物による農作物の被害が多いのだろうか?
数年前まで学校だった場所に、捕獲用の檻が置かれるなんて............
ちょっぴり、いや、かなり衝撃的でした。
2019/11/23 Sat. 15:00 |
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廃校を訪ねて..................佐城小学校 (2019年10月7日)(茨城県東笠間市)
10月7日
この日は、茨城県の笠間市に出かけました。
飯田ダムをあとにして、向かった先は............笠間市立佐城小学校。
左城小学校は、
その前身は、明治31年に開校した寺崎小学校と
明治6年に開校した高田小学校とされています。
昭和51年 寺崎小学校と高田小学校が統合して新たに左城小学校が開校する。
平成27年 笠間小学校に統合されて廃校となる。
と、沿革となっています。
県道沿いに建つ正門。
残念ながら、表札は既に外されている。
昭和52年建立の門柱。
開校の翌年に建てられたんですね。
廃校後、敷地は公立幼稚園となりましたが
近年、民間の幼稚園になったようです。
門柱脇には、閉校記念碑。
沿革も刻まれています。
裏面には、こんな碑文。
確かに、この場所に佐城小学校が在りました。
その隣には碑が並ぶ。
『さしろっ穂』の碑。
校歌の碑。
全国花いっぱいコンクールの入賞記念の碑。
校訓の碑。
こちらが敷地内の建物。
幼稚園の建物です。
こちらが体育館。
幼稚園の前のブロンズ像。
幼稚園には似合わない。
左城小学校時代のモノでしょう。
体育館前にもブロンズ像。
校庭。
残念ながら遊具類は残っていない。
このひは、シルバーの方々が草刈りをしていました。
じっくりと敷地内を見て行きたかったんだけど
流石に平日の幼稚園の敷地内。
犬連れの怪しそう(?)なおじさんがウロウロしていると
パトカーが赤橙回して来ちゃいそうだから.................
早々に撤収いたしました。
この日は、茨城県の笠間市に出かけました。
飯田ダムをあとにして、向かった先は............笠間市立佐城小学校。
左城小学校は、
その前身は、明治31年に開校した寺崎小学校と
明治6年に開校した高田小学校とされています。
昭和51年 寺崎小学校と高田小学校が統合して新たに左城小学校が開校する。
平成27年 笠間小学校に統合されて廃校となる。
と、沿革となっています。
県道沿いに建つ正門。
残念ながら、表札は既に外されている。
昭和52年建立の門柱。
開校の翌年に建てられたんですね。
廃校後、敷地は公立幼稚園となりましたが
近年、民間の幼稚園になったようです。
門柱脇には、閉校記念碑。
沿革も刻まれています。
裏面には、こんな碑文。
確かに、この場所に佐城小学校が在りました。
その隣には碑が並ぶ。
『さしろっ穂』の碑。
校歌の碑。
全国花いっぱいコンクールの入賞記念の碑。
校訓の碑。
こちらが敷地内の建物。
幼稚園の建物です。
こちらが体育館。
幼稚園の前のブロンズ像。
幼稚園には似合わない。
左城小学校時代のモノでしょう。
体育館前にもブロンズ像。
校庭。
残念ながら遊具類は残っていない。
このひは、シルバーの方々が草刈りをしていました。
じっくりと敷地内を見て行きたかったんだけど
流石に平日の幼稚園の敷地内。
犬連れの怪しそう(?)なおじさんがウロウロしていると
パトカーが赤橙回して来ちゃいそうだから.................
早々に撤収いたしました。
2019/11/21 Thu. 15:00 |
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廃校を訪ねて..................高田小学校 (2019年10月7日)(茨城県笠間市)
10月7日
この日は、茨城県の笠間市に出かけました。
朝早くから、笠間市内の廃校を巡っています。
笠間市の廃校巡り、その第5弾は..............笠間市立高田小学校。
高田小学校の情報は乏しく、当初は沿革もわかりませんでした。
笠間小学校のHPに統廃合された各校の流れが記載されていたの参考になりなした。
明治6年 瑞穂小学校として開校。
明治13年 福田小学校となる。
明治17年 初等福田小学校となる。
明治19年 大橋尋常小学校福田分教場となる。
明治34年 大池田第三尋常小学校となる。
昭和22年 学制改革により、大池田村立大池田第三小学校と改称する。
昭和30年 大池田村が笠間町・南山内村・北山内村と合併し、改めて笠間町が発足。
笠間町立高田小学校と改称する。
昭和33年 笠間町が市制施行で笠間市となる。
笠間市立高田小学校と改称する。
昭和51年 寺崎小学校と統合して、新たに笠間市立左城小学校が開校する。
高田小学校は廃校となる。
と、このような沿革となっています。
とは言え、情報が乏しいので、その場所すらわからず、
いつものように、それらしき場所にあたりを付けて訪れてみます。
今回は、高田公民館にあたりをつけてみました。
遠目からでも見た感じ、学校跡っぽく見える。
この雰囲気は、学校跡っぽい。
門柱が残っていれば、確定なんだけど..............
置かれていたのは、『作業中』の看板とカラーコーン。
ざっとみて、学校遺構は残されてはいないようです。
こちらが、公民館の建物。
公民館の裏手が地域のゴミ捨て場になっていて
たまたまゴミ捨てに来た中年女性に訊いてみたら高田小学校の跡ということです。
ただし、他の場所から嫁に来た方のようで、高田小学校のことは知らず無いけれど
御主人が高田小学校の卒業生だったそうです。
廃校後、校舎は解体され公民館が建ち
その後、敷地も造成されて運動場(グランド)が造られたようです。
元々の校地は駐車場になってしまったのでしょうか?
せめて、記念碑が残っていれば.............
公民館の前の古い桜の木が、学校跡を彷彿させてくれるだけ。
こちらが、高田運動公園。
そして高田公民館の隣には、例の消防倉庫。
やっぱり、犬の顔............
いや、ペンギンの顔に見えなくもないな(笑)。
この日は、茨城県の笠間市に出かけました。
朝早くから、笠間市内の廃校を巡っています。
笠間市の廃校巡り、その第5弾は..............笠間市立高田小学校。
高田小学校の情報は乏しく、当初は沿革もわかりませんでした。
笠間小学校のHPに統廃合された各校の流れが記載されていたの参考になりなした。
明治6年 瑞穂小学校として開校。
明治13年 福田小学校となる。
明治17年 初等福田小学校となる。
明治19年 大橋尋常小学校福田分教場となる。
明治34年 大池田第三尋常小学校となる。
昭和22年 学制改革により、大池田村立大池田第三小学校と改称する。
昭和30年 大池田村が笠間町・南山内村・北山内村と合併し、改めて笠間町が発足。
笠間町立高田小学校と改称する。
昭和33年 笠間町が市制施行で笠間市となる。
笠間市立高田小学校と改称する。
昭和51年 寺崎小学校と統合して、新たに笠間市立左城小学校が開校する。
高田小学校は廃校となる。
と、このような沿革となっています。
とは言え、情報が乏しいので、その場所すらわからず、
いつものように、それらしき場所にあたりを付けて訪れてみます。
今回は、高田公民館にあたりをつけてみました。
遠目からでも見た感じ、学校跡っぽく見える。
この雰囲気は、学校跡っぽい。
門柱が残っていれば、確定なんだけど..............
置かれていたのは、『作業中』の看板とカラーコーン。
ざっとみて、学校遺構は残されてはいないようです。
こちらが、公民館の建物。
公民館の裏手が地域のゴミ捨て場になっていて
たまたまゴミ捨てに来た中年女性に訊いてみたら高田小学校の跡ということです。
ただし、他の場所から嫁に来た方のようで、高田小学校のことは知らず無いけれど
御主人が高田小学校の卒業生だったそうです。
廃校後、校舎は解体され公民館が建ち
その後、敷地も造成されて運動場(グランド)が造られたようです。
元々の校地は駐車場になってしまったのでしょうか?
せめて、記念碑が残っていれば.............
公民館の前の古い桜の木が、学校跡を彷彿させてくれるだけ。
こちらが、高田運動公園。
そして高田公民館の隣には、例の消防倉庫。
やっぱり、犬の顔............
いや、ペンギンの顔に見えなくもないな(笑)。
2019/11/20 Wed. 00:00 |
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廃校を訪ねて..................大橋小学校 (2019年10月7日)(茨城県東笠間市)
10月7日
この日は、茨城県の笠間市に出かけました。
東小学校をあとにして、向かった先は..............笠間市立大橋小学校。
大橋小学校は、
明治6年 吉田神社拝殿を仮校舎にして處仁小学校として開校する。
その後、大橋小学校と称する。
明治15年 権現台に校舎を建設移転。
西茨城郡第一学区大橋小学校と称する。
明治17年 中等大橋小学校と称する。
明治19年 大橋尋常小学校と改称する。
明治22年 大橋村が池野辺村・福田村・飯田村が合併し大池田村が発足。
大池田尋常小学校と改称する。
明治34年 池野辺分校、飯田分校が独立。
大池田第一尋常小学校と改称する。
明治44年 現在地に校地移転。
明治45年 高等科を設置し、大池田尋常高等小学校と改称する。
昭和22年 学制改革により、大池田村立第一小学校と改称する。
昭和30年 大池田村が笠間町・南山内村・北山内村と合併し、改めて笠間町が発足。
笠間町立大橋小学校と改称する。
昭和33年 笠間町が市制施行で笠間市となる。
笠間市立大橋小学校と改称する。
昭和58年 池野辺小学校と統合し、新たに笠間市立東小学校が誕生。
大橋小学校は廃校となる。
と、このような沿革となっています。
こちらが、大橋小学校の正門。
正門奥に見えるには消防倉庫。
こちらが、大橋小学校の校舎。
昭和58年の廃校だから、もう既に36年が経っているが
校舎は解体される事なく、その姿を残している。
別アングルからの校舎。
廃校後、敷地は大橋公民館として利用され
校舎も公民館として活用されている。
校舎の2階の庇に掲げられている校章。
校庭。
芝生は綺麗に刈り上げられ、
ゲートボール場としても利用されているようです。
その校庭の一角に碑が並ぶ。
こちらが、『笠間市立大橋小学校跡』碑。
前面には、校歌の板碑も置かれている。
裏面には沿革も刻まれています。
大変参考になりました。
創立百周年の記念碑。
『彰往考来』(しょうおうこうらい)。
過去をあきらかにして未来を考えるという意味です。
こちらは卒業製作のモニュメント。
昭和50年度の卒業生の作品のようです。
違う年度のモノもありました。
廃校には定番の消防倉庫。
やっぱり犬の顔に見えちゃうんだけどなぁ(笑)。
この日は、茨城県の笠間市に出かけました。
東小学校をあとにして、向かった先は..............笠間市立大橋小学校。
大橋小学校は、
明治6年 吉田神社拝殿を仮校舎にして處仁小学校として開校する。
その後、大橋小学校と称する。
明治15年 権現台に校舎を建設移転。
西茨城郡第一学区大橋小学校と称する。
明治17年 中等大橋小学校と称する。
明治19年 大橋尋常小学校と改称する。
明治22年 大橋村が池野辺村・福田村・飯田村が合併し大池田村が発足。
大池田尋常小学校と改称する。
明治34年 池野辺分校、飯田分校が独立。
大池田第一尋常小学校と改称する。
明治44年 現在地に校地移転。
明治45年 高等科を設置し、大池田尋常高等小学校と改称する。
昭和22年 学制改革により、大池田村立第一小学校と改称する。
昭和30年 大池田村が笠間町・南山内村・北山内村と合併し、改めて笠間町が発足。
笠間町立大橋小学校と改称する。
昭和33年 笠間町が市制施行で笠間市となる。
笠間市立大橋小学校と改称する。
昭和58年 池野辺小学校と統合し、新たに笠間市立東小学校が誕生。
大橋小学校は廃校となる。
と、このような沿革となっています。
こちらが、大橋小学校の正門。
正門奥に見えるには消防倉庫。
こちらが、大橋小学校の校舎。
昭和58年の廃校だから、もう既に36年が経っているが
校舎は解体される事なく、その姿を残している。
別アングルからの校舎。
廃校後、敷地は大橋公民館として利用され
校舎も公民館として活用されている。
校舎の2階の庇に掲げられている校章。
校庭。
芝生は綺麗に刈り上げられ、
ゲートボール場としても利用されているようです。
その校庭の一角に碑が並ぶ。
こちらが、『笠間市立大橋小学校跡』碑。
前面には、校歌の板碑も置かれている。
裏面には沿革も刻まれています。
大変参考になりました。
創立百周年の記念碑。
『彰往考来』(しょうおうこうらい)。
過去をあきらかにして未来を考えるという意味です。
こちらは卒業製作のモニュメント。
昭和50年度の卒業生の作品のようです。
違う年度のモノもありました。
廃校には定番の消防倉庫。
やっぱり犬の顔に見えちゃうんだけどなぁ(笑)。
2019/11/19 Tue. 15:00 |
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廃校を訪ねて..................東小学校 (2019年10月7日)(茨城県東笠間市)
10月7日
この日は、笠間市に出かけました。
池野辺小学校をあとにして、向かった先は...............笠間市立東小学校。
東小学校は、明治6年に創立された大橋小学校と
明治8年に創立された池野辺小学校がその前身になります。
昭和58年大橋小学校・池野辺小学校を統合して笠間市立東小学校として開校する。
平成27年笠間小学校に統合されて廃校となる。
と、簡単ながらこのような沿革となっています。
こちらが東小学校の正門。
立派な門柱には、東小学校の表札。
反対側(向かって左側)には、校章が掲げられていました。
この門は、創立五周年の記念として、
昭和62年に建立されたモノのようです。
正門脇に脇から敷地内に入ります。
鉄筋コンクリート3階建の校舎。
校庭からの校舎。
校舎全景。
別アングルからの校舎。
校舎玄関。
玄関の庇に掲げられた校章。
国旗掲揚ポール。
こちらは、体育館。
校庭に残る遊具類。
校庭隅の築山。
なぜか、校内に土俵もある。
校庭の隅、でも正門からすぐ目に入る場所には
東小学校閉校記念碑。
表面には沿革が刻まれている。
そして、裏面には校歌が刻まれている。
その脇には、校訓の碑が並ぶ。
校庭は、雑草も少なく、砂が多くて走りやすそう。
なんて思っていたら、突然走り出した びいすけ 。
考えることは同じか?
暫し、簡易ドッグラン。
気持ち良さそうに走って、こちらに戻ってくる びいすけ 。
東小学校を堪能してくれたかな?
この日は、笠間市に出かけました。
池野辺小学校をあとにして、向かった先は...............笠間市立東小学校。
東小学校は、明治6年に創立された大橋小学校と
明治8年に創立された池野辺小学校がその前身になります。
昭和58年大橋小学校・池野辺小学校を統合して笠間市立東小学校として開校する。
平成27年笠間小学校に統合されて廃校となる。
と、簡単ながらこのような沿革となっています。
こちらが東小学校の正門。
立派な門柱には、東小学校の表札。
反対側(向かって左側)には、校章が掲げられていました。
この門は、創立五周年の記念として、
昭和62年に建立されたモノのようです。
正門脇に脇から敷地内に入ります。
鉄筋コンクリート3階建の校舎。
校庭からの校舎。
校舎全景。
別アングルからの校舎。
校舎玄関。
玄関の庇に掲げられた校章。
国旗掲揚ポール。
こちらは、体育館。
校庭に残る遊具類。
校庭隅の築山。
なぜか、校内に土俵もある。
校庭の隅、でも正門からすぐ目に入る場所には
東小学校閉校記念碑。
表面には沿革が刻まれている。
そして、裏面には校歌が刻まれている。
その脇には、校訓の碑が並ぶ。
校庭は、雑草も少なく、砂が多くて走りやすそう。
なんて思っていたら、突然走り出した びいすけ 。
考えることは同じか?
暫し、簡易ドッグラン。
気持ち良さそうに走って、こちらに戻ってくる びいすけ 。
東小学校を堪能してくれたかな?
2019/11/19 Tue. 00:00 |
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廃校を訪ねて..................池野辺小学校 (2019年10月7日)(茨城県東笠間市)
10月7日
この日は、茨城県の笠間市に出かけました。
来栖小学校をあとにして、向かった先は...............笠間市立池野辺小学校。
池野辺小学校は、
明治8年 杉崎小学校池野辺分教場として創設され、
後に独立して池野辺小学校となる。
明治17年 大橋小学校池野辺分校となる。
明治18年 初等池野辺小学校となる。
明治20年 大橋小学校に統合される。
明治25年 大池田尋常小学校池野辺分校となる。
明治34年 大池田第二尋常小学校となる。
昭和22年 学制改革により、大池田村立第二小学校と改称する。
昭和30年 大池田村が笠間町・南山内村・北山内村と合併し、改めて笠間町が発足。
笠間町立池野辺小学校と改称する。
昭和33年 笠間町が市制施行で笠間市となる。笠間市立池野辺小学校と改称する。
昭和58年 大橋小学校と統合した新たに笠間市立東小学校が誕生。
池野辺小学校は廃校となる。
と、このような沿革となっています。
こちらが池野辺小学校の正門。
石造りの門柱の正門。
残念ながら池野辺小学校の表札は既に無い。
廃校後校舎は解体されて、敷地は池野辺公民館として利用されています。
学校跡地を意識して建てたのか?
公民館の建物も校舎っぽく見えなくも無い。
校庭跡。
残念ながら、遊具類も無い。
実際はそんなに広くはないけれど
何も無い分だけ、広く感じてしまう。
唯一、遊具と言えるのが地面に埋められた古タイヤ。
小学校の校庭には定番なモノ。
正門脇に建つ、『池野辺小学校跡』の碑。
碑には沿革が刻まれていて、大変参考になりました。
校庭の水飲み場跡。
蛇口も取り外されています。
校庭のフェンス沿いには桜の木々。
春には綺麗な花を咲かせる事でしょう。
廃校から既に36年。
毎年色付くこの銀杏の木も、
きっと今年も黄色い風景を醸し出すのでしょう。
この日は、茨城県の笠間市に出かけました。
来栖小学校をあとにして、向かった先は...............笠間市立池野辺小学校。
池野辺小学校は、
明治8年 杉崎小学校池野辺分教場として創設され、
後に独立して池野辺小学校となる。
明治17年 大橋小学校池野辺分校となる。
明治18年 初等池野辺小学校となる。
明治20年 大橋小学校に統合される。
明治25年 大池田尋常小学校池野辺分校となる。
明治34年 大池田第二尋常小学校となる。
昭和22年 学制改革により、大池田村立第二小学校と改称する。
昭和30年 大池田村が笠間町・南山内村・北山内村と合併し、改めて笠間町が発足。
笠間町立池野辺小学校と改称する。
昭和33年 笠間町が市制施行で笠間市となる。笠間市立池野辺小学校と改称する。
昭和58年 大橋小学校と統合した新たに笠間市立東小学校が誕生。
池野辺小学校は廃校となる。
と、このような沿革となっています。
こちらが池野辺小学校の正門。
石造りの門柱の正門。
残念ながら池野辺小学校の表札は既に無い。
廃校後校舎は解体されて、敷地は池野辺公民館として利用されています。
学校跡地を意識して建てたのか?
公民館の建物も校舎っぽく見えなくも無い。
校庭跡。
残念ながら、遊具類も無い。
実際はそんなに広くはないけれど
何も無い分だけ、広く感じてしまう。
唯一、遊具と言えるのが地面に埋められた古タイヤ。
小学校の校庭には定番なモノ。
正門脇に建つ、『池野辺小学校跡』の碑。
碑には沿革が刻まれていて、大変参考になりました。
校庭の水飲み場跡。
蛇口も取り外されています。
校庭のフェンス沿いには桜の木々。
春には綺麗な花を咲かせる事でしょう。
廃校から既に36年。
毎年色付くこの銀杏の木も、
きっと今年も黄色い風景を醸し出すのでしょう。
2019/11/18 Mon. 15:00 |
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廃校を訪ねて..................来栖小学校 (2019年10月7日)(茨城県東笠間市)
10月7日
この日は、笠間市に出かけました。
訪れたのは...................笠間市立来栖小学校。
来栖小学校の詳しい沿革は分かりません。
昭和55年に開校した笠間市立南小学校のHPによれば
明治8年5月17日創立と言うことです。
また、笠間小学校のHPには、
各校が笠間小学校に統合されていくまでの
各校の変遷が記載されていましたので
そちらを参考にすると.............
明治8年 来栖小学校開校。
明治12年 連合・来栖小学校(飯合、下稲田地区と連合)となる。
明治18年 来栖小学校となる。
明治19年 北吉原尋常小学校分教場となる。
明治22年 南山内尋常小学校分教場となる。
明治25年 来栖尋常小学校となる。
昭和22年 学制改革により南山内村立南山内小学校来栖分校と改称する。
昭和30年 南山内村が笠間町・大池田村・北山内村と合併し、改めて笠間町が発足。
笠間町立来栖小学校となる。
昭和33年 笠間町が市制施行で笠間市となる。笠間市立来栖小学校と改称する。
昭和57年 南小学校、笠間小学校に分割されて廃校となる。
と、このような沿革となるようです。
廃校後、敷地は来栖公民館として利用されているようです。
来栖小学校時代の正門。
石造りの門柱が建っています。
現在は公民館の表札が掲げられています。
見づらいと言うか、ピントがボケていて読めませんが
大正12年に建立されたモノのようです。
校舎はとっくに解体されて、
跡地には公民館の建物と消防倉庫が建てられています。
残念ながら、遊具類はない。
おそらく、公民館と建物が建っている辺りに校舎が建っていたのでしょうね。
敷地の一角に建つ校歌の碑。
しかし、ピンぼけで碑文が読めない(判読出来ない)。
創立百周年で建てられたモノのようです。
消防倉庫の裏手に、石碑っぽいのがあるけれど
かつての中庭の石か何かだろうか?
こちらが消防倉庫。
廃校には定番と言うか、
学校跡地には消防倉庫や防災倉庫が置かれているのが多い。
この消防倉庫、 犬の顔のように見えてしまったのは気のせいでしょうか.........?
この日は、笠間市に出かけました。
訪れたのは...................笠間市立来栖小学校。
来栖小学校の詳しい沿革は分かりません。
昭和55年に開校した笠間市立南小学校のHPによれば
明治8年5月17日創立と言うことです。
また、笠間小学校のHPには、
各校が笠間小学校に統合されていくまでの
各校の変遷が記載されていましたので
そちらを参考にすると.............
明治8年 来栖小学校開校。
明治12年 連合・来栖小学校(飯合、下稲田地区と連合)となる。
明治18年 来栖小学校となる。
明治19年 北吉原尋常小学校分教場となる。
明治22年 南山内尋常小学校分教場となる。
明治25年 来栖尋常小学校となる。
昭和22年 学制改革により南山内村立南山内小学校来栖分校と改称する。
昭和30年 南山内村が笠間町・大池田村・北山内村と合併し、改めて笠間町が発足。
笠間町立来栖小学校となる。
昭和33年 笠間町が市制施行で笠間市となる。笠間市立来栖小学校と改称する。
昭和57年 南小学校、笠間小学校に分割されて廃校となる。
と、このような沿革となるようです。
廃校後、敷地は来栖公民館として利用されているようです。
来栖小学校時代の正門。
石造りの門柱が建っています。
現在は公民館の表札が掲げられています。
見づらいと言うか、ピントがボケていて読めませんが
大正12年に建立されたモノのようです。
校舎はとっくに解体されて、
跡地には公民館の建物と消防倉庫が建てられています。
残念ながら、遊具類はない。
おそらく、公民館と建物が建っている辺りに校舎が建っていたのでしょうね。
敷地の一角に建つ校歌の碑。
しかし、ピンぼけで碑文が読めない(判読出来ない)。
創立百周年で建てられたモノのようです。
消防倉庫の裏手に、石碑っぽいのがあるけれど
かつての中庭の石か何かだろうか?
こちらが消防倉庫。
廃校には定番と言うか、
学校跡地には消防倉庫や防災倉庫が置かれているのが多い。
この消防倉庫、 犬の顔のように見えてしまったのは気のせいでしょうか.........?
2019/11/18 Mon. 00:00 |
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廃校を訪ねて..................圷小学校 (2019年10月2日)(茨城県東茨城郡城里町)
10月2日
この日は、茨城県の城里町に出かけました。
那珂西城址をあとにして、向かった先は.............城里町立圷小学校
圷小学校の詳しい沿革は不明ですが、圷小学校の学区は
平成17年に城里町が誕生する以前は、旧・桂村でした。
その旧・桂村域を学区とする岩船小学校、圷小学校、北方小学校の3校が
平成23年に統合して城里町立桂小学校が誕生して
圷小学校は廃校となりました。
廃校後、跡地の再利用を色々と検討した結果、特別養護老人ホームとして
利用されることとなり、平成31年に特別養護施設が開設されました。
通常、他の施設に流用される際は、校舎をリノベーションするなりして
開設されることが多いけれど、こちらは、校庭跡に立派な施設を建設したようです。
圷小学校時代の校門。
この場所に門が在ったのかは判らないけれど、石造りの門柱。
背後の建物が新しく建てられた特養施設。
その全容。
この一画にも門柱が置かれています。
表札が残っているから、正門に使われていた門柱でしょう。
昭和48年に、創立百周年の記念に建立されたモノのようです。
と言うことは、明治6年に創設された歴史のある学校だったんですね。
敷地の片隅、雑草に隠れるように置かれた二宮像。
こちらは、圷小学校の校舎。
立派な特養施設の建物奥に隠れるように残っていました。
先ずは、取り壊されずに済んで良かった。
校舎の前の芝生で戯れる びいすけ 。
校舎玄関。
どうやら、校舎は茨城県埋蔵文化財センター収蔵庫として利用されているようです。
それで解体されなかったようですね。
『希望』と記された台座。
おそらくブロンズ像が建っていたのだと思うんだけど...................
こちらは、オブジェのようです。
横に転がっている球体は、碑の上部のくぼみに乗っていたのでしょうか?
こちらは、体育館。
フェンスに描かれた子供たちの絵。
卒業制作のひとつでしょう。
雑草に埋もれかけている校訓の碑。
『強く 正しく 美しく』
遠い昔に忘れ去ってしまった言葉のようで
今の私には禁句だったりして.....................(笑)
この日は、茨城県の城里町に出かけました。
那珂西城址をあとにして、向かった先は.............城里町立圷小学校
圷小学校の詳しい沿革は不明ですが、圷小学校の学区は
平成17年に城里町が誕生する以前は、旧・桂村でした。
その旧・桂村域を学区とする岩船小学校、圷小学校、北方小学校の3校が
平成23年に統合して城里町立桂小学校が誕生して
圷小学校は廃校となりました。
廃校後、跡地の再利用を色々と検討した結果、特別養護老人ホームとして
利用されることとなり、平成31年に特別養護施設が開設されました。
通常、他の施設に流用される際は、校舎をリノベーションするなりして
開設されることが多いけれど、こちらは、校庭跡に立派な施設を建設したようです。
圷小学校時代の校門。
この場所に門が在ったのかは判らないけれど、石造りの門柱。
背後の建物が新しく建てられた特養施設。
その全容。
この一画にも門柱が置かれています。
表札が残っているから、正門に使われていた門柱でしょう。
昭和48年に、創立百周年の記念に建立されたモノのようです。
と言うことは、明治6年に創設された歴史のある学校だったんですね。
敷地の片隅、雑草に隠れるように置かれた二宮像。
こちらは、圷小学校の校舎。
立派な特養施設の建物奥に隠れるように残っていました。
先ずは、取り壊されずに済んで良かった。
校舎の前の芝生で戯れる びいすけ 。
校舎玄関。
どうやら、校舎は茨城県埋蔵文化財センター収蔵庫として利用されているようです。
それで解体されなかったようですね。
『希望』と記された台座。
おそらくブロンズ像が建っていたのだと思うんだけど...................
こちらは、オブジェのようです。
横に転がっている球体は、碑の上部のくぼみに乗っていたのでしょうか?
こちらは、体育館。
フェンスに描かれた子供たちの絵。
卒業制作のひとつでしょう。
雑草に埋もれかけている校訓の碑。
『強く 正しく 美しく』
遠い昔に忘れ去ってしまった言葉のようで
今の私には禁句だったりして.....................(笑)
2019/11/13 Wed. 15:00 |
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