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び・び・びのびいすけ

ぼく と 父さん と時々 もっちゃん

堀之内大台城址 (2013年6月29日)(茨城県潮来市) 

6月29日



鹿島城址を出たあとに向かった先は........


   堀之内大台城址 




天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原北条攻め(小田原の役)に際し、
常陸国行方郡にその領地を配していた大掾一族の諸領主は、
宗家大掾氏とともに豊臣秀吉のもとへ参陣しませんでした。
北条氏滅亡、そして秀吉の天下統一の後、大掾氏一族の領地は佐竹氏に与えられ、
佐竹義重・義宣父子は行方・鹿島両郡のいわゆる「南方三十三館」と呼ばれる諸領主を
太田城に花見と称し招き入れ誘殺した。。(南方三十三館の仕置)
佐竹氏は、軍を南下させ、主なき両郡の諸城を次々と落としていった。
           
文禄元年(1592)、佐竹義宣は常南支配の新たな拠点として、
大掾氏の有力氏族・島崎氏の居城であった島崎城の隣地に新城の築城を開始した。
これが堀之内大台城であると言われています。

慶長元年(1596)に完成し、
小貫頼久を城代としたとされますが
徳川政権下の徳川幕府の時代になって、
城の完成からわずか6年後の慶長7年(1602)、
佐竹氏が秋田(出羽国)へ転封となり、
堀之内大台城も廃城となったと言われています。


現在、堀之内大台城址は牛堀中学校の敷地となっています。

昭和50年代に中学校建設に先立ち、発掘調査が実施されたそうです。
その結果、豊臣大名として確固たる地位を築いた佐竹義宣が
中央文化を取り込んだ近代的な城郭であることが判明したそうです。
当然、有識者が中心となって学校建設を中止して
保存をするべきとする声が高まったが、
建設は強行され城は破壊されてしまったそうです。



行政側も申し訳ないと思ったのでしょうか....?
牛掘中学校正門脇に立派な城址碑が建っています。


      20130629堀之内大台城址01


      20130629堀之内大台城址02



城址牌には堀之内大台城の由緒も記されています


      20130629堀之内大台城址03




牛掘中学校建設時に元々の台地の1/3ほどの高さまで
表面をげっそりと削り取られてしまったため
往時の面影は全く残されていないそうです。

当然、遺構も全くと言っていいほど残されていないようです。




牛掘中学校正門付近


      20130629堀之内大台城址04


      20130629堀之内大台城址05



城址に建つ立派な校舎。


      20130629堀之内大台城址06




中学校の建つ台地の外れに八坂神社が建っています。
佐竹氏になにか関連があるのでしょうか.......?


      20130629堀之内大台城址07


      20130629堀之内大台城址08



この地に侵略者である佐竹氏は地元での評判が悪く、4
00年の歳月を経て、その復讐を受けたとでも言うべきか?
地元(と言っても行政主導ではないかと思われるけれど.....)の開発によって
見事に城址は破壊され、仇討ちを取られたと言ってもいいほどのようです。

堀之内大台城から1kmほどの距離にある旧領主の居城だった島崎城が
今も大切に保存されているのとは雲泥の差のようです。
また、昭和50年代の発掘調査により明らかになった堀之内大台城の主殿が
なぜか坂東市の逆井城に復元されているそうです。
なぜ、堀之内大台城の復元主殿が遠く離れた坂東市の逆井城址に.....?
大いな疑問も湧きますが、ここまで地元から嫌悪されている城郭も珍しいと思われます。


いつか、逆井城址にも訪れてみたいものです............。



 
 
 


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2013/07/17 Wed. 00:00 | trackback: -- | 本文: 0edit

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