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び・び・びのびいすけ

ぼく と 父さん と時々 もっちゃん

多賀谷城址  (2020年2月10日)(茨城県下妻市) 

2月10日

この日は、茨城県の下妻市に出かけました。

宗任神社をあとにして、、向かった先は.............多賀谷城址。

多賀谷城は、常陸国関郡下妻庄に在ったことから別名を下妻城と称しますが、
多賀谷氏の居城であったことから多賀谷城と呼ぶのが一般的なようです。

康正元年(1455年)から多賀谷氏家が下妻荘に築城を開始し、
6年後の寛正2年(1461年)完成したとされ、
下妻荘を含む関三十三郷と大名の地位を得ました。

15世紀中頃は東西両館からなり、
東館を本丸とする2廓の単純な構造でした。
その後、多賀谷氏の勢力拡大に伴い城を北方向へ拡張していき、
16世紀から17世紀初頭の多賀谷氏7代・多賀谷重経の頃には、
城は館沼によって東西に分断され、
沼の東側に本城(本丸)・中城(二の丸)・三の丸・北城・南館(姫曲輪)を、
沼の西側に西城を置き、城域は南北1500m×東西900mと言う広大なモノでした。

この時代の下妻は常陸国西部最大の都市であり、
城郭・城下町の規模や充実度の面でも優れ、
その下妻に君臨する多賀谷氏は、常陸国屈指の存在でもあったようです。



こちらが、多賀谷城の縄張り図。

     多賀谷城址縄張り図

   ( 余湖さんのHPからお借りしました。 )



広大な広さを誇った多賀谷城址。
城郭は広大で旧・真壁郡下妻町の領域がすっぽりと収まるほどであり、
1950年代までは曲輪・濠・土塁跡が残っていたと言う事です。
1961年(昭和36年)に始まった都市計画事業を経て、
現在では、多賀谷城跡公園内にわずかに痕跡を残すのみとなってしまいました。


こちらが、その多賀谷城跡公園。

     20200210多賀谷城址01


     20200210多賀谷城址02



せめてもと、多賀谷城跡公園でその痕跡を探します。

     20200210多賀谷城址03


 
さすがに市街地に整備されて出来た公園。
なかなか、城跡の痕跡は見つかりません。
    
     20200210多賀谷城址04


     20200210多賀谷城址05


     20200210多賀谷城址06


     20200210多賀谷城址07


     20200210多賀谷城址08



公園の隅っちょ。
ちょっとした土壇があります。

     20200210多賀谷城址09



土壇の前には『多賀谷城本丸跡』と記された標柱。

     20200210多賀谷城址10



石段を挟んだ先には、『多賀谷城本丸跡』の説明板。

     20200210多賀谷城址11


     20200210多賀谷城址12



この土壇周辺が僅かに痕跡を残す場所のようです。

     20200210多賀谷城址13


     20200210多賀谷城址14


     20200210多賀谷城址15


     20200210多賀谷城址16


土壇の脇には平和塔。

     20200210多賀谷城址17

第二次世界大戦の戦没者慰霊の塔ですね。
かつての下妻の城郭は昭和の時代になっても
この地区のランドマークだったんですね。





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2020/03/22 Sun. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit