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び・び・びのびいすけ

玉造城址  (2015年9月21日)(茨城県滑川市) 

9月21日  公休日

この日は、茨城県の行方市に出かけました。


行方市立 旧・玉造小学校をあとにして、
向かった先は...............玉造城址



玉造城は大掾氏一族の玉造氏の居城でありました。
城主である玉造氏は、大掾氏の分家吉田氏の流れを汲む行方景幹の四男四郎幹政が
玉造の地に居を構えたことに始まります。
玉造城は1170頃に築いたとされています。

そもそも行方の地を領したのは行方氏です。
行方氏を語る上で、行方一族の四頭を記せばなりません。

大掾忠幹の子景幹は行方太郎刑部大輔と称して、
平安末期から鎌倉初期にかけて活動しました。
景幹は行方郡地頭に任じられ、中世を通じて行方郡内に一大勢力を誇りました。
すなわち、行方氏の基盤を確立した人物です。

景幹の四子は長男行方太郎為幹、次男島崎太郎高幹、
三男麻生三郎家幹、四男玉造四郎幹政でありました。
それぞれ、行方・島崎・麻生・玉造の各氏の祖となりました。

長男為幹は行方氏の惣領を継ぎ、のちに、小高へ築城して移動したので、
小高氏を称するようになりました。
  ( 小高城址攻城記は  こちら )

次男島崎太郎高幹は、島崎城を築き、島崎氏を称しました。
  ( 島崎城攻城記は こちら  )

三男麻生三郎家幹は、麻生城を築き、麻生氏を称しました。
  ( 麻生城攻城記は  こちら  )

四男玉造四郎幹政は、玉造城を築き、玉造氏を称しました。

すなわち、行方氏(のちの小高氏)、麻生氏、島崎氏、玉造氏は「行方四頭」と呼ばれ
そして、この四子は景幹の開発地や特権を分割譲与されて、
行方郡内の諸郷村の地頭として発展していきます。

しかし、天正十九年(1591)、大掾氏一族の領地は佐竹義重・義宣父子に与えられ、
玉造重幹ら行方・鹿島両郡のいわゆる「南方三十三館」と呼ばれる諸領主が
太田城に招かれ、殺害されてしまいます。(南方三十三館の謀殺)
玉造城は佐竹氏家臣に攻められ、城主なき城はまもなく落城し、
そのまま廃城となりました。





こちらが玉造城の縄張り図。

      玉造城縄張り図

          (  余胡くんのお城のページ  よりお借りしました  )






行方市の玉造地区(旧・玉造町)の中心部に近い茨城県指定文化財の大塲家住宅の背後にある台地が
玉造城址となります。

大塲家住宅が休館日だったので、ちゃっかり駐車場に車を停めさせていただきました。
ついでだから、大塲家の門の前で記念撮影。
どうせなら犬連れは中に入れないから休館日の方が良いかも?

      20150921玉造城址01


      20150921玉造城址02


      20150921玉造城址03

大塲家は桓武平氏の流れをくみ、常陸大掾氏の支族である玉造氏の家老として仕えました。
佐竹氏支配の時代を経て、江戸時代には玉造近郷の村々を統括し、
水戸藩有林御立山を管理する「大山守」職を世襲し、代々水戸藩の大山守を務め、
二十数か村の藩有林を管理するとともに広域にわたる藩行政に携わってきました。
また光圀が巡見の時に宿泊所としたと言われています。



大塲家の脇を通り、裏山である玉造城址を目指します。


主郭手前の腰曲輪にあたる辺りが、かつての水戸藩校である
『玉造郷校』の跡らしい。

      20150921玉造城址04


      20150921玉造城址05

水戸藩主・徳川斉昭は、藩政改革の一環で、
水戸城内に藩校「弘道館」を設置しました。
そして、水戸藩領地の各所に、「郷校」を設置したそうです。
この玉造郷校(文武館)は、1858(安政5)年、水戸藩領で一番最後に設置された郷校です。
郷校では尊王攘夷主義の教育と武術の訓練が中心だったそうです。

この玉造郷校が後々の玉造小学校へと変遷していきました。
要するに、この地が玉造小学校発祥の地になるんですね。




説明板の裏手の石段を上がっていくと、こんな標柱も建っています。

      20150921玉造城址06


      20150921玉造城址07


ちょうど畑と化している郭で野良作業をしていたご老人に聞いたら、
この郭に郷校があったようです。

      20150921玉造城址08



二郭下の腰曲輪に建っている神社。
玉造城の守護神か何かだったのでしょうか?

      20150921玉造城址09



腰曲輪の下の空堀は埋められ、通路と化しているようです。
裏を返せば、通路が空堀跡だと分かります。

      20150921玉造城址10


こちらは三郭。
耕作地と化しています。

      20150921玉造城址12


      20150921玉造城址13


こちらは二郭。
ちょうど神社の真裏辺り。
こちらは果樹園と化しているようです。

      20150921玉造城址14


主郭の城塁。
一画に石像類が建ち並んでいます。

      20150921玉造城址15



主郭城塁に建つ玉造城址説明板。

      20150921玉造城址16


      20150921玉造城址17


      20150921玉造城址18



主郭と二郭を隔てていた空堀は、私道となっているようですが
主郭の城塁は見事に尽きる。

      20150921玉造城址19



主郭虎口辺りに無造作に転がっていた看板。

      20150921玉造城址20


近くの木に立て掛けて記念撮影、パチリ☆。

      20150921玉造城址21



おそらく、この辺りが主郭虎口。

しかしながらら、凄い藪状態。

      20150921玉造城址24

さすがにこの先に進軍する勇気はありません。


以前は下草も刈られ、管理が行き届いていたらしいのですが
平成の大合併で玉造町が行方市になり、自治体が大きく、広くなるに従って
文化財を含め管理するための予算は以前に比べて少なくなってくるらしい。
玉造町から行方市になって良くなったこともあるとは思うけれど
ここにも町村合併の弊害が現れているようです。

合理化の名の下に、玉造町域にあった6つの小学校も一つになっちゃったし...............


行方市はどうなっちゃうんだろう..............................?










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2015/10/02 Fri. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit