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び・び・びのびいすけ

行方城址   (2015年9月21日)(茨城県行方市) 

9月21日  公休日

世間では9月19日〜23日まで5連休と言うことで
シルバーウイークなどと称して行楽地が混み合っていたようでした。

かく言う私めも21日、22日と個人的な連休となり、
この日は行方市に出掛けました。
   

最初に向かったのは.............行方城址


行方城は中城とも呼ばれ、行方氏の居城でああったとされています。
行方氏は桓武平氏のうちで、常陸国内で発展した常陸大掾氏の流れを汲んでいます。

常陸大掾氏は平国香の孫にあたる維幹を祖として、筑波山麓南西の多気を本拠に勢力ももち、
十二世紀初期の致幹の時代には真壁・下妻・結城・小栗・水戸へ進出しています。
この大掾政幹の弟で、水戸へ進出したのが清幹でした。
清幹は吉田を根拠として吉田次郎と称し、さらに南方の鹿島・行方両郡へ進出しました。
清幹は行方郡内の鹿島社領内に領地を有していました。
清幹には三子があり、その子らは清幹の開発地へ分出します。
長男盛幹は吉田太郎、次男忠幹は行方次郎、三男成幹は鹿島三郎と称して、
それぞれ吉田・行方・鹿島氏の祖となりました。
とくに次男忠幹は行方平四郎とも称して、吉田から行方郡内へ進出ののち、
行方郷に居を構えています。これが行方城になります。

行方氏を語る上で、行方一族の四頭を記せばなりません。

忠幹の子景幹は行方太郎刑部大輔と称して、平安末期から鎌倉初期にかけて活動しました。
景幹は行方郡地頭に任じられ、中世を通じて行方郡内に一大勢力を誇りました。
すなわち、行方氏の基盤を確立した人物です。

景幹の四子は長男行方太郎為幹、次男島崎太郎高幹、三男麻生三郎家幹、四男玉造四郎幹政であった。
それぞれ、行方・島崎・麻生・玉造の各氏の祖となりました。
そして、この四子は景幹の開発地や特権を分割譲与されて、行方郡内の諸郷村の地頭として発展していきます。

このうち、長男為幹は行方氏の惣領を継ぎ、のちに、小高へ築城して移動したので、
小高氏を称するようになりました。      ( 小高城址攻城記は  こちら )

次男島崎太郎高幹は、島崎城を築き、島崎氏を称しました。  ( 島崎城攻城記は  こちら  )
三男麻生三郎家幹は、麻生城を築き、麻生氏を称しました。  ( 麻生城攻城記は  こちら  )
四男玉造四郎幹政は、玉造城を築き、玉造氏を称しました。

行方郡内に一大勢力を誇った行方一族ですが、
やがて玉造氏は島崎氏との間で争いが生じ、
行方一族で抗争をすろという事態になりました。

また、常陸国では鎌倉期には国内北方の一勢力に過ぎなかった佐竹氏が、
小田氏の衰退に代わって常陸国守護に任じられ、
常陸国内の中心的存在とみられるまでに成長しました。
佐竹義宣は、豊臣秀吉から常陸国において二十一万貫の所領を安堵され、
そして江戸氏の拠る水戸城を攻撃し、江戸一族を服属させます。
さらには府中城を攻撃し、大掾氏を服属させて常陸南部においてもその支配を強化します。
そして、鹿島・行方両郡の常陸大掾系の一族を中心とする南方三十三館と称される城主たちが、
天正十九年(1591)二月、佐竹氏の居城である太田城に招かれ、佐竹氏によって謀殺されてしまいます。
これが、佐竹氏の南方三十三館の謀殺と言われています。
主の居なくなった小高、島崎、麻生、玉造の各城は佐竹氏よって攻め落とされ
一大勢力を誇った行方一族は滅びさってしまいました。


話を行方城に戻しましょう。

こちらが行方城の縄張り図

      行方城縄張り図

             (  余胡くんのお城のページ  よりお借りしました  )



実は、この行方城址の場所がよく分からず、たどり着くまでかなり苦労しました。

旧・行方小学校(廃校)からさらに台地奥へと車を走らせ
たどり着いた集落のある台地の奥。
この森の向こうが行方城址になります。

      20150921行方城址01


こちらが大手口になるのか?
この道沿いに進んでいけば城址となります。

      20150921行方城址02


いきなり現れた土塁。
この辺りから二郭になるのだろうか?

      20150921行方城址03



こちらが二郭と思われる削平地。
民家と畑にすっかり改変されています。

      20150921行方城址04



実は行方城の多くの部分は個人の敷地の裏手になっています。
『中城』さんと言う個人宅の敷地内を抜けないと主郭には行けないようです。


まるで中世の城門のような門構え。

      20150921行方城址05


この立派な門構えを見れば、
行方城が別名、中城と呼ばれる理由が分かるような気がします。

      20150921行方城址06


この奥が主郭なんですけど...............
流石に個人宅の敷地内に犬を連れて入っては行けません。

      20150921行方城址07



ならばと、台地を下る道を選び敷地の外周沿いに台地をぐるっと回ってみます。

      20150921行方城址08



台地を下った先は谷津。
ちょうど稲刈りの真っ最中です。

      20150921行方城址09


この台地が行方城址。

      20150921行方城址10


田んぼを回り込むように台地を一周します。

別なアングルからの行方城址。

      20150921行方城址11



谷津から台地へと続く道を発見。
台地へと足を進めます。

      20150921行方城址12


この道は、ちょうど先ほどの立派な門の前に出る私道のようでした。

個人宅の敷地脇を通り、二郭へと続く道のようです。



こちらが主郭と二郭を隔てる空堀。

      20150921行方城址13


主郭は耕作地と化していると言う話ですが
個人宅の敷地内のため、結局は確認出来ず...............

由緒あると言うか、行方一族の発祥の地とも言える城址だけに
じっくりと見学出来なかったのは残念でした。





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2015/09/26 Sat. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit