09 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 11

び・び・びのびいすけ

天保水滸伝の町、笹川を歩く (2015年5月23日)(千葉県香取郡東庄町) 

5月23日 公休日

この日は、東庄町に出かけました。


利根川の下流域にある東庄町。
東庄町は、『天保水滸伝』でも有名な町でもあります。



天保水滸伝は
「利根の川風袂に入れて月に棹さす高瀬舟」
浪曲や講談で有名な「天保水滸伝」は、土地を潤す利根川と共に、昔から語り伝えられてきた東庄が舞台の、笹川繁蔵と飯岡助五郎、二人の侠客の勢力争いの物語です。

「天保水滸伝」のベースとなった物語の舞台は、
大飢饉などで社会不安が増大した天保の時代(1830~44年)。
侠客・笹川繁蔵と飯岡助五郎の確執が緊迫した後、“大利根川の決闘”という紛争に発展。
笹川一家に軍配は上がったものの、やがて繁蔵は助五郎の子分の闇討ちに遭い、
通称ビヤク橋にて絶命してしまう。

そこで親分の仇討を誓った勢力富五郎だったが、
関東取締出役と飯岡一家に追われ、金毘羅山に逃げ込み…。
「勢力富五郎は52日間、捕まらなかったそうです。
金毘羅山に立てこもって、幕府にたてついたわけですが、
この様が梁山泊を舞台にした『水滸伝』と似ていたとされています。

時代が変わって嘉永三年、1850年に江戸の講釈師である宝井琴凌という人がここを訪れた時に、
“大利根川の決闘”のことを調べ、講談として世の中に発表しました。
その時に“水滸伝”というタイトルだったので、それが『天保水滸伝』の始まりになります。
宝井が“水滸伝”を引用した背景には、勢力富五郎が金毘羅山に立てこもったことだけでなく、
“大利根川の決闘”で小勢力の笹川一家が幕府の後ろ盾もある飯岡一家を破ったことにも由来しているそうです。





東庄町を移動していると、『天保水滸伝』に所縁のある地に
ばったりと遭遇したりします。



沼闕城址のある福聚寺の近くには、こんな看板が...............。

      20150523笹川天保水滸伝01


東庄県民の森のつどいの森の更に奥へと続く遊歩道。
『天保水滸伝遺跡遊歩道』と名付けらた遊歩道の終点は
勢力富五郎が立て篭もった金毘羅山でした。

      20150523笹川天保水滸伝02


後世になって、地元の人々が勢力富五郎の碑を建て、
いつしか、勢力山と呼ばれるようになったそうです。

      20150523笹川天保水滸伝03


まるで城郭の郭のような削平地。
この場所に52日間立て篭もっていた場所なのだろうか?

      20150523笹川天保水滸伝04

しかし、この場所は勢力富五郎が自刃した場所です。




続いて、利根川コジュリン公園のすぐ近く。
最初、こちらが利根川コジュリン公園かと勘違いした公園の一角。

ここにも、天保水滸伝の石碑があります。

      20150523笹川天保水滸伝05


『利根の川風袂に入れて月に棹さす高瀬舟』と刻まれています。

      20150523笹川天保水滸伝06

石碑の説明によれば、石碑の文字は田中角栄の書による句碑だそうです。

      20150523笹川天保水滸伝07






続いて、笹川駅近くの諏訪神社に向かいます。
駐車場も完備しているから、笹川町の散策には、こちらの駐車場を利用すると良いでしょう


こちらが諏訪神社

      20150523笹川天保水滸伝32




鳥居の先が境内。

諏訪神社の境内には天保水滸伝遺品館なるものもあります。

      20150523笹川天保水滸伝08


こちらが、天保水滸伝遺品館。
入場料は200円。

      20150523笹川天保水滸伝09

 びいすけ を連れているから中には入れません。
入口脇に掲げられた地図で周辺の所縁の地をチェックします。

      20150523笹川天保水滸伝10


遺品館の隣は、東庄町観光協会。

      20150523笹川天保水滸伝11

こちらでパンフレットを貰うことが出来ます。


観光協会の前には、こんな幟。
どうやら町を挙げて、 天保水滸伝 をPRしているようです。

      20150523笹川天保水滸伝19




まずは諏訪神社の境内を散策いたしましょう。

こちらが神楽殿。

      20150523笹川天保水滸伝12


そして拝殿。

      20150523笹川天保水滸伝13



そして、こちらが土俵。

もともとは飢饉で困窮する農民を救済するために、
繁蔵が花会や奉納相撲を開くために作ったそうです。
諏訪神社には、相撲の神様として有名な野見宿禰命(のみのすくねのみこと)の碑もあります。

      20150523笹川天保水滸伝14

繁蔵が花会や奉納相撲を開くために作った土俵は、
現在、出羽海部屋が使用しているため、日本相撲協会の規定にあわせ、
新たな土俵に様変わりしているそうです。


      20150523笹川天保水滸伝18


諏訪神社の土俵の脇には、相撲の神様として有名な野見宿禰命(のみのすくねのみこと)の碑もあります。

      20150523笹川天保水滸伝15

ちょっぴり、ピンぼけなのはご勘弁願います(笑)。


野見宿禰命の碑の説明板。

      20150523笹川天保水滸伝16



毎年、この地に合宿にやってくる大相撲の出羽海部屋の記念碑。

      20150523笹川天保水滸伝17


そして、こちらが歌手・三波春夫が建立したとされる
三波春夫自筆の『天保水滸伝百三十年の碑』。  

      20150523笹川天保水滸伝33





天保水滸伝遺品館の方に戴いたパンフレット。

      20150523笹川天保水滸伝35


徒歩圏内にある、ゆかりの地のMAPも載っているので
せっかくだから、巡っちゃいましょう。

      20150523笹川天保水滸伝36









諏訪神社から歩いてすぐ、延命寺に向かいます。

こちらが延命寺。

      20150523笹川天保水滸伝20

延命寺には、笹川(岩瀬)繁蔵の墓、平手造酒の墓、勢力富五郎の碑があります。


延命寺の境内に入ってすぐ右側に、墓碑が並んでいます。

      20150523笹川天保水滸伝21

真ん中の大きな碑が、笹川繁蔵の墓碑。
向かって右側が、平手造酒の墓碑。
向かって左側が、勢力富五郎の碑。



笹川繁蔵の墓碑の前には、『天保水滸伝発祥の地』の碑が建っています。

      20150523笹川天保水滸伝22


こちらが、勢力富五郎の碑。

      20150523笹川天保水滸伝23

墓碑は、県民の森の奥にある勢力山にあります。


こちらが、笹川繁蔵の墓碑。

      20150523笹川天保水滸伝25



墓碑の前には、『笹川繁蔵の勝負石の碑』

     20150523笹川天保水滸伝24


     
そして、こちらが平手造酒の墓碑。

      20150523笹川天保水滸伝26

笹川一家の助っ人だった平手造酒。
実は平手造酒の墓碑は、別な場所にもあるらしい。


こちらが、延命寺の本堂。

      20150523笹川天保水滸伝27

思ったよりも小さい。


延命寺の由緒書き。

      20150523笹川天保水滸伝28





延命寺から歩くこと数分。

こちらは八坂神社。
平手造酒は、この近くに住んでいたらしい。

      20150523笹川天保水滸伝31



今は、枯れてしまって二代目となっているが
平手造酒ゆかりの松もあったらしい。

      20150523笹川天保水滸伝29


こちらが、そのゆかりの松。

      20150523笹川天保水滸伝30




八坂神社から歩くこと5分程、道に迷いながらも辿り着いた『平手造酒の塚』。

      20150523笹川天保水滸伝37


塚と言うことですが、実際は墓碑。

      20150523笹川天保水滸伝38

この場所で平手造酒は飯岡勢に斬られたらしい。
すなわち、平手造酒終焉の地と言うことらしい。


     



平手造酒の塚から、諏訪神社の方へ戻ります。

こちらが笹川の花会の場となった 料亭 十一屋跡。
諏訪神社のすぐ近く。

      20150523笹川天保水滸伝34

天保13年(1842年)、笹川須賀山明神の例祭日を利用して、
笹川繁蔵は農民救済のために地元の商人宿・十一屋で
花会(親分衆のみを客とした賭場)を開きました。
繁蔵は関東東海地方で名前の知られる大親分に手当たり次第に回状を送り、
十一屋の花会には、清水次郎長、国定忠治、大前田英五郎なども駆けつけたと伝えています。

現在は廃業して一般の民家となっていますが
門柱の表札にはしっかりと『十一屋』の屋号が掲げられていました。





十一屋から歩くこと、5分程。
現在は建物も無くなっていますが
この辺りが笹川繁蔵の生家(岩瀬家)があったと言われる場所。

      20150523笹川天保水滸伝39


岩瀬家跡から更に住宅地を歩くと、こんな案内板。

      20150523笹川天保水滸伝40



そして、こちらが笹川繁蔵終焉の地。

      20150523笹川天保水滸伝41



この場所(ビヤク橋)で虚無僧に変装した飯岡助五郎の子分3名の闇討ちにあって暗殺されたと言われています。

      20150523笹川天保水滸伝42


一説によれば、繁蔵の遺体は首を切り落とされ、飯岡(現・旭市)に持ち去られてしまいました。
胴体は行方不明となり、持ち去られた首は飯岡助五郎によって、
飯岡の山林に秘密裏に埋葬され「最も大事な客人の墓」と偽って、
自身が死ぬまで香華を絶やさなかったということです。

昭和7年(1932年)8月14日、銚子町(現・千葉県銚子市)が植松町3丁目の道路整備中に、
町有墓地で繁蔵の名が彫られた墓石と利根川に投げ捨てられたといわれていた胴体が発見されました。
首も併せて笹川町に埋葬したいという五十嵐荘太郎・笹川町長(当時)らの申し出を受けた飯岡町では、
助五郎が秘密にしていた首塚を、土地の古老の話をもとに翌昭和8年(1933年)に発見し、首の遺骨を譲渡しました。
同時に助五郎がつけたといわれる繁蔵の戒名「清岩繁勇信士」を刻んだ石碑も発掘されており、
こちらは今も飯岡町定慶寺に残っています。
繁蔵はこうして闇討ち以来86年ぶりに故郷の笹川に戻り、
延命寺の一角に、富五郎と平手造酒の墓石を両脇に控えた場所に葬られたと言うことです。



う〜む、なかなか奥のある逸話(?)です。
墓があると言うことは、笹川繁蔵も飯岡助五郎も実在の人物であったでしょう。

飯岡側から見た『天保水滸伝』、笹川側から見た『天保水滸伝』
いずれも立場が違うから変わってきてしまうけれど、
それぞれの地元の侠客として親しまれて来たんだなぁと感じます。

じっくりと笹川の町を歩いて、一つ見聞が広まった気がして...............

過去幾度と映画化されたと言う『天保水滸伝』。
いつか映画で観てみることにしよう...............。



関連記事
スポンサーサイト
2015/06/16 Tue. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit