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び・び・びのびいすけ

ぼく と 父さん と時々 もっちゃん

鵐の窟(しとどのいわや)                                        (2014年11月26日)(神奈川県足柄下郡真鶴町) 

11月26日  公休日

伊豆旅行の2日目。

千葉の佐倉市へ向けての帰り道。
真鶴町に立ち寄りました。

真鶴岬・三ツ石をあとにして、向かった先は..................鵐の窟



鵐の窟は、
ここ真鶴と湯河原に2つの「しとどの窟」があり、
いずれも治承4年(1180年)の石橋山の合戦で敗れた源頼朝や
土肥実平ら6・7騎ほどの部隊で、敵の追っ手から逃れるために
身を隠した場所であったと伝えられています。

真鶴の『しとどの窟』は『鵐窟』と書きます。
興味深いのは、真鶴も湯河原も史跡としての由来がほとんど同じであり、
いずれも伝承(言い伝え)であることです。




こちらが、鵐の窟。

      20141126しとどの窟03


      20141126しとどの窟08


中を覗きこんでいないから、よく分からないけれど
よくもまあ、こんな狭そうな場所に隠れていたものです。

      20141126しとどの窟09



そして、こちらが説明看板。

      20141126しとどの窟04


鵐の窟(しとどのいわや)
治承4年(1180)8月、源頼朝は源氏再興の為、
伊豆相模の兵300を以て石橋山に陣どり、
平家方大庭景親の兵3000と戦ったが、23日遂に敗北し、
土肥の杉山に逃れ、 28日ようやくこの地に来り、
海路房州に渡りしことは、史実の明らかなことである。
この時、頼朝とともに逃れてくるもの土肥実平、遠平の主従7騎となり、
この岩屋に身をひそめ飢をしのぎ、敵の何をまぬがれし所であると伝える。
頼朝らがこの地にかくれんとした折、
岩屋のうちより鵐(しとど)という鳥が舞い出たといふ所より、
後世この岩屋を鵐窟と伝える。
頼朝は房州に渡ってよりのち、12年たち建久3年志をとけ、
鎌倉幕府を創立するに至ったのであるが、 公の挙兵の当初、石橋山で敗北し、
この岩屋で敵の虎口を脱した開運再生の地として由緒深い所である。

(説明板 原文)



洞窟(?)前に建つ石碑。

      20141126しとどの窟07

文字か読みづらくて文面が判別出来ませんが
やはり、頼朝について触れています。





鵐の窟の脇には、こんな石碑もあります。

『品川台場礎石の碑』

      20141126しとどの窟05



幕府が安政元年(1854年)の冬に完成させた台場です。
品川第2台場が撤去された際、撤去した石垣の一部を
この地に移したモノだそうです。

      20141126しとどの窟06




『品川台場礎石の碑』とは逆側に隣接する貴船神社。

本来の真鶴町ね貴船神社はもう少し山あいの場所だから
分祠が何かでしょうか?

      20141126しとどの窟10


      20141126しとどの窟11



こちらは、貴船神社が建てた『鵐の窟』の碑。

      20141126しとどの窟12



そして、さらに別な『鵐の岩屋』の碑。

      20141126しとどの窟13


      20141126しとどの窟14






鵐の窟のすぐ近くにある真鶴漁港の直売所。

『魚座』(さかなざ)。

      20141126しとどの窟15

一階は、漁港(漁協)の魚市場。

二階には地魚を食べさせてくれお店がらあるようですが、
何と、本日は定休日。
残念!!

      20141126しとどの窟16



魚座前の真鶴漁港。

      20141126しとどの窟01


雨は完全にあがって、波も穏やかです。

      20141126しとどの窟02




同じような由来で二つ存在する『しとどの窟』。
個人的には湯河原の方が真実味が高いような気がしますが..................。


平家の追っ手から逃げている時に潜んだのが、
湯河原の『しとどの窟』。
真鶴の岩海岸から房総半島に船で渡る際に潜んでいたのが
真鶴の『鵐の窟』。

こんな解釈なら双方に角が立たないからいいんじゃないかな?



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2014/12/22 Mon. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit