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び・び・びのびいすけ

伊東氏居館跡    (2014年9月26日)(静岡県伊東市) 

9月26日 公休日

伊豆旅行の2日目。

9時半にサンロードをチェックアウトして、向かった先は............

       伊東氏居館跡


そもそも伊東市は、方角地名で「伊豆の東の意味から付けられたと言われています。
また別説では「伊東祐親」という平安時代後期の伊豆を統括していた武将の名前も
地名の由来のひとつであると言われています。

伊東 祐親(いとう すけちか)は
平安時代末期の伊豆国伊東(現・静岡県伊東市)の武将・豪族。
藤原南家の流れを汲む伊東祐家の子。
伊東荘を領する工藤祐隆の嫡男であった父・祐家が早世すると、
祖父・祐隆(法名寂心)は、後妻の連れ子である祐継を嫡子として本領の伊東荘を与え、
嫡孫の祐親を次男として河津荘を与えました。
総領の地位を奪われた事に不満を持つ祐親は
祐継の死後にその子・祐経から伊東荘を奪ってしまいます。
これを恨んだ祐経は安元2年(1176年)10月、祐親の嫡男・河津祐泰を狩りの場で射殺し
これがのちに祐親の孫たちが起こす曾我兄弟の仇討ちの原因となります。

東国における親平家方豪族として平清盛からの信頼を受け、
平治元年(1159年)の平治の乱に敗れて伊豆に配流されてきた源頼朝の監視を任されます。
しかし祐親が大番役で上洛している間に、娘の八重姫が頼朝と通じ、
子・千鶴丸を儲けるまでの仲になってしまいます。
祐親はこれを知って激怒し、平家の怒りを恐れ千鶴丸を松川に沈めて殺害し、
さらに頼朝自身の殺害を図りました。
頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた次男の祐清が頼朝に知らせ、
頼朝は夜間馬に乗って熱海の伊豆山神社に逃げ込み、
北条時政の館に匿われて事なきを得たと言われています。
また、頼朝が平家打倒のために伊豆で挙兵すると
大庭景親(3000騎の兵)らと協力して、
石橋山の戦いにて300騎の兵で頼朝を敗退させます。

そんな伊藤祐親を輩出した伊東氏の居館跡が
伊東市役所周辺にあったとされています。



こちらが伊東市役所

      20140926伊東氏居館跡03


市役所の裏側には腰曲輪でしょうか?
明らかに人の手が加わったお湯に見える削平地があります

      20140926伊東氏居館跡01


市役所に隣接する物見塚公園整備時に手が加わったものでしょうか....?

      20140926伊東氏居館跡02



現在は、物見塚公園として整備されている伊東氏居館跡


      20140926伊東氏居館跡04



公園のシンボルとでも言うべきか?
伊藤祐親の像が建っています。

      20140926伊東氏居館跡05


      20140926伊東氏居館跡06

石橋山の戦いでは頼朝の敵方となり
歴史上では、頼朝の敵方だったため、さも悪者のように感じてしまいますが
伊東市民にとっては郷土の偉人だったようですね。



伊藤祐親像の脇には、伊東氏居館跡の碑。

      20140926伊東氏居館跡07

元々、この地には『物見の松』と言う立派な松の木があったらしい。
物見塚公園の名前の由来もそのあたりからと言うことらしい。


物見の松は昭和57年に枯れてしまい、現在は何もありません。

      20140926伊東氏居館跡08



少し離れた場所に、三代目の物見の松が植えられています。

      20140926伊東氏居館跡09



こちらが、三代目の物見の松。

      20140926伊東氏居館跡11


公園は、一部がゲートボール場となっていて
近隣のお年寄りの憩いの場となっているようです。

      20140926伊東氏居館跡10



あくまでも、伝承である伊東氏居館跡。
いくつかの推定地があるようですが、
正確な場所は未だに分かっていないそうです。

私は、この場所が伊東氏居館跡だと信じたい。
いや、信じることに致します............。


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2014/10/20 Mon. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit