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び・び・びのびいすけ

びいすけとお父さんと時々もっちゃん

石橋山古戦場跡     (2014年9月25日)(神奈川県小田原市) 

9月25日 公休日

9月25日〜26日は個人的な連休。

この連休を利用して、伊豆へ旅行に出掛けました。



明神分校をあとにして、向かった先は............

          石橋山古戦場跡


石橋山古戦場とは

平安時代の末期、地方には私有地である荘園が増え、
律令制度は徐々に崩壊していきました。
荘園を開発した地方の豪族すなわち武士たちは、東国の武蔵・相模に多く、
小田原地方には曽我氏、大友氏、小早川氏、中村氏、河村氏、松田氏などの一族がいました。

西国の武士を従えた桓武平氏は、
保元の乱(保元元年(1156))、平治の乱(平治元年(1159)) における朝廷内部の争いを利用して
勢力を広げ政権を握りました。
これに対し東国武士に信望のあった清和源氏は、
治承4 年(1180)高倉宮以仁王の平氏追討の令旨をかかげて、
源頼朝が伊豆で挙兵しました。

伊豆・相模の武将の援軍を得て300 余騎を従えた頼朝は、
鎌倉に向かう途中の石橋山で前方を大庭景親の3,000余騎に、
後方を伊東祐親の300騎に挟まれて大苦戦となりました。
これが「石橋山の合戦」です。

頼朝方の先陣・佐奈田与一義忠が敵将の俣野景久と対戦したのを発端として戦闘に入りましたが、
10倍を越える敵の軍勢に頼朝方は破れ、
箱根山中に逃れた後、真鶴から海路で安房(千葉県) へ向かいました。


石橋山の合戦で、頼朝方の佐奈田与一義忠は敵将の俣野五郎景久を組み伏せたが、
与一の刀は血糊がこびりついて抜けず、その間に敵の長尾新六に討ち取られてしまいました。

その与一の遺骸を葬ったのが与一塚で、
その傍らには、佐奈田霊社が建っています。
この霊社は、与一が景久と組み討ち中、
味方からの問いかけに対し「たん」がからんで声が出ず、
そうこうしているうちに、敵に討たれてしまったという伝承にちなんで、
たん、咳、ぜんそく、声に霊験があるとして知られます。
このため、芸能関係者の参詣も数多くあります。

与一が俣野五郎景久を組み伏せた畑が、
今でも「ねじり畑」として残っていますが、
戦の後この畑の作物はみなねじれてしまうということから、
この名になったといわれています。


              ( 小田原市HP より引用 )



小田原からR135を走り、西湘バイパスの早川ICを過ぎて
しばらく熱海方面へ走ると、右側に斜面を上がって行く細い道があります。

この細い道を走り、案内看板に導かれ、佐奈田霊社の駐車場に車を停めます。

      20140925石橋山合戦場01


実は、この佐奈田霊社こそが石橋山古戦場跡になります。

佐奈田霊社入口にある説明看板。


      20140925石橋山合戦場02



こちらは社号標。

      20140925石橋山合戦場03


石段を上がり、佐奈田霊社の境内に入ります。


こちらが、拝殿。

      20140925石橋山合戦場04



こちらは、観音堂。

      20140925石橋山合戦場05


観音堂の前にも、手書きの説明看板。
しっかりと石橋山古戦場の事や佐奈田与一について触れています。


      20140925石橋山合戦場06


こちらが、佐奈田与一の手附石。

      20140925石橋山合戦場07


なぜか、人の手の形の窪みがありますが
明らかに削ったような気がするんですが............(笑)。

      20140925石橋山合戦場08


      20140925石橋山合戦場09



こちらが、与一塚。

      20140925石橋山合戦場10


      20140925石橋山合戦場11



与一塚の前にも立派な説明看板。
しかも2枚。
かなり、小田原市もこの石橋山古戦場に力を入れているようです。

      20140925石橋山合戦場12


      20140925石橋山合戦場13


小降りになって来たものの、雨はまだ止まず
時折、レンズに雨が当たるようです。


      20140925石橋山合戦場14



佐奈田霊社の境内から参道を下って行きます。


      20140925石橋山合戦場15


      20140925石橋山合戦場16



参道を下った所に建つ案内板。
文三堂に向かいます。


      20140925石橋山合戦場17



こちらは、『ねじり畑』。
佐奈田与一が討ち取られてしまった場所です。


      20140925石橋山合戦場18

確かに、完全な畑。
この畑で採れる作物はねじれてしまうと言う伝承が有るらしい。



さらに、その先には『文三堂』


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佐奈田与一の家来であり、
与一が討ち取られると敵方に突っ込み、
平家方に討ち取られてしまった文三家安を祀ったお堂です。

      20140925石橋山合戦場20



文三堂からは駐車場へと歩いて行きます。

ちょうど、この石橋山古戦場の真下を東海道線が走っています。


      20140925石橋山合戦場21


      20140925石橋山合戦場22



東海道線の電車と相模湾。
天気が良ければ、それなりのロケーションだと思うのですが............


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      20140925石橋山合戦場24




トンネルの上の山の中腹にある古戦場の碑。


      20140925石橋山合戦場25


      20140925石橋山合戦場26


『源頼朝 挙兵の地』とありますが
治承4年(1180年)8月17日、頼朝の命で北条時政らが
韮山にある兼隆の目代屋敷を襲撃して兼隆を討ち取ったことから
流刑の地とされている伊豆国の蛭ヶ小島(ひるがこじま)が挙兵の地じゃないんだろうか.....?


そんな疑問を頭に浮かべながらも
小雨も上がり、ちょっぴり気持ちも晴れ、
次なる場所へと移動するのでありました..................。




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2014/10/12 Sun. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit