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び・び・びのびいすけ

獅子吼城址 (2014年7月30日)(山梨県北杜市) 

7月30日 公休日

この日は山梨県北杜市城址巡りをしていました。

若神子城址に続き、北杜市城址巡り第2弾。

           獅子吼城址



獅子吼城(ししくじょう)は

山梨県北杜市(旧北巨摩郡須玉町)にあった山城(やまじろ)。
城は同市江草の根古屋神社の背後の山(地元では城山と呼ばれている)にあった。
甲信国境近くに位置していたため国境監視とともに、
当時から佐久甲州街道(現在の国道141号線)の裏街道として知られていた若神子から
長野県佐久市に至る道が通っていたことから、この街道を押さえる城としても機能した。

築城は鎌倉時代末期に遡り、信田氏が居城としていたともいわれるが、
築城時期、築城者および築城の経緯はわかっていない。

応永年間(1394~1428年)には江草兵庫助信泰(または信康、甲斐武田氏13代の武田信満の三男)が
居城としていたといわれるが、その後、甲斐武田氏の一族の今井氏が居城とした。

1530年(享禄3)、甲斐守護で信玄の父の武田信虎が扇谷上杉朝興と結び、
朝興の叔母で山内上杉憲房後室を側室に迎えようとしたことから、
今井信是・信元は信虎と対立し、翌年に飫富兵部少輔らと甲府を出奔して
大井信業・栗原氏ら甲斐の有力国人領主や信濃・諏訪の諏訪頼満(碧雲斎)を
巻き込んだ大規模な反乱へと発展した。
諏訪氏と今井氏ら反信虎勢力は信虎が整備した笹尾塁を陥落させて甲府へと進軍したが、
同年2月2日と3月3日の合戦で信虎に敗れた。

その後、今井信元は居城の獅子吼城に拠って信虎に抵抗したものの、
同年9月に信虎に城を明け渡して降伏した。
これにより信虎による甲斐統一が達成された。
1541年(天文10)、信虎の嫡男・晴信(のちの信玄)は信虎を駿河に追放して家督を相続したが、
晴信は信州峠、甲州佐久街道を押さえる要所として獅子吼城を整備した。
信玄が整備した狼煙台の一つとしても機能していたようである。

その後、1575年(天正3)の長篠の戦い(設楽ヶ原の戦い)で
武田氏に壊滅的な打撃を与えた織田信長と徳川家康の連合軍は、
1582年(天正10)に甲斐に侵攻して武田氏は滅亡。
織田信長配下の河尻秀隆が甲府に入ったものの、同年6月2日の本能寺の変で信長が死去すると
甲斐に一揆が起こり、河尻秀隆は討ち死にした。

その後の武田氏の遺領をめぐって徳川家康と北条氏直が対立して
両者が争奪戦(天正壬午の乱、甲斐における戦国時代最後の戦い)を繰り広げたが、
徳川家康が新府城(韮崎市)を本陣としたのに対し、北条氏直は若神子城(北杜市)を本陣とし、
獅子吼城も北条氏の拠点となった。

同年9月、徳川家康配下の服部半蔵と旧武田氏遺臣の津金衆・小尾衆らは、
北条勢の籠もる獅子吼城に夜襲をかけて陥落させている。

その後、徳川氏と北条氏との間に和睦が成立して、徳川氏による甲斐支配が確定したが、
その後間もなく獅子吼城は廃城となった。

麓の根古屋神社境内に獅子吼城の案内板があり、城山の山頂に至る登山道が延びている。
山頂には主郭(本丸)跡が、山腹には平らな石を積み上げた石垣で区画された多数の曲輪や
斜面を掘削してくつられた堅堀や石塁、堀切、虎口などの遺構が残っている。
城跡の石塁の多さが目を引くが、これらは北条氏の時代につくられたともいわれている。

                  ( Kotobank より引用 ) 
                      


こちらが、獅子吼城の縄張り図


      獅子吼城址縄張り図


          ( 余胡くんのホームページ  よりお借りいたしました )



須田町江草にある旧・松屋商店のお婆ちゃんに道を聞いたから
その案内通りに進むと、案内板を発見。
迷わず、獅子吼城址へと導いてくれます。


      20140730 獅子吼城址01

駐車場にはちょっと困りましたが、
路肩のちょっとしたスペースに失礼させていただきました。



こちらが獅子吼城址の説明看板。


      20140730 獅子吼城址02


説明看板の背後から城址へと進んでいきます。
階段ではなく、右側の細い道が城址への登城路となります。


      20140730 獅子吼城址03


人が一人歩いていくのがいっぱいくらいの狭い道。

進行方向右側は深い谷。

      20140730 獅子吼城址04



振り返るとこんな感じ。


      20140730 獅子吼城址05




城址入口の説明看板の脇の階段を上がれば土壇となります。
物見台か何かに利用していたのでしょうか?

その背後の腰曲輪。


      20140730 獅子吼城址06



こちらが、その土壇。


      20140730 獅子吼城址07



登城路をさらに進みます。

こちらは、堀切。
この辺りだけ、なぜか陽が差してきます


      20140730 獅子吼城址08



さらに進めば、別な堀切


      20140730 獅子吼城址09



空堀が行く手を遮り、右方向に迂回するように登城路は続きます。


      20140730 獅子吼城址10



やがて、主郭へと向かう厳しい上り。
数段の腰曲輪には明らかに人の手が加わった石塁。


      20140730 獅子吼城址11


      20140730 獅子吼城址12



画像では見にくいのですが、三段の腰曲輪全てに石塁が施されています。


      20140730 獅子吼城址13

これが、北条氏直が手を入れた跡なのでしょうか?





こちらが主郭


      20140730 獅子吼城址14




塩川流域に点在する狼煙台の説明板。


      20140730 獅子吼城址15

戦国時代に武田氏が築いた烽火台の大伝達網(ネットワーク)。
武田信玄は川中島へ出陣のときには若神子城で幾度か陣を張ったと言われます。
塩川流域は長野県(信濃)へ通じるルートに位置し、両岸が山地のような地形が
烽火台設置に適していたコースだったようです。
さらに、烽火台のある山の後方には高い山や大きな森などが背景となって
遠方からでも白い煙がよく見えやすいように配慮がなされていたようです。




主郭に祀られた祠
これは、きっと後世のものでしょう。


      20140730 獅子吼城址16


      20140730 獅子吼城址17



祠裏に残る土塁。


      20140730 獅子吼城址18




こちらは主郭の建てられた説明板


      20140730 獅子吼城址19


奥に見える白いものは何だろうと?
帰ってから調べたら烽火台。

煙突式の烽火台で塔の下の部分で火をたいて煙を出します。 
NHKの大河ドラマ「武田信玄」の関連番組のときにこの場所に造られたそうです。


     20140730 獅子吼城址20



こちらにも、狼煙台の説明版。
獅子吼城は武田信玄の烽火台の大伝達網(ネットワーク)の要の地だったようです。


     20140730 獅子吼城址21



こちらが主郭西側の虎口


      20140730 獅子吼城址22



そして、こちらが主郭をぐるっと取り巻く帯曲輪。
 

     20140730 獅子吼城址23



帯曲輪から一気に下山することにします。

やはり、この獅子吼城は中世の関東の城では見られない石塁が見所でしょう。

こちらが腰曲輪の石塁。

見事な三段お石塁です。


      20140730 獅子吼城址24


その分岩や石がゴロゴロしていて、足元は要注意。


      20140730 獅子吼城址25


戦国時代の雄・武田信玄。
病に倒れ、天下取りの夢も果たせず
そして織田信長との戦いに敗れ、滅亡していった甲斐・武田氏。

しかし、彼ら一族の残した足跡はあまりにも広大で
今なお、この地にその姿を残している。

う~む、武田氏もやっぱり侮れません..................。





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2014/08/20 Wed. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit