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び・び・びのびいすけ

志津城址  (2014年4月21日)(千葉県佐倉市) 

4月21日 公休日

個人的な連休2日目

この日は午後から天気が崩れる予報だったので
雨が降り出す前に佐倉市内の城郭・城館跡巡りをして来ました。

以前から気になっていたけれど、近いから(同じ市内だから)いつでも来れるって思って
ついつい訪れる機会を逸していた城郭跡に出かけました。

訪れたのは.........志津城址



志津城は、
千葉一族で臼井昌胤の次男である志津次郎胤氏の居城とされています。
臼井城主であり、兄である臼井祐胤が正和3年(1314)に病没したため、
祐胤の生前の頼みで、志津胤氏が、竹若丸を養育し、成人するまで後見していくことになった。
胤氏は遺児竹若丸の補佐役を務めていたが、実権掌握のために竹若丸を殺そうとした。
それを知った岩戸胤安は竹若丸を鎌倉に逃がして、
自らは胤氏の兵に攻められ岩戸城で討死しています。


鎌倉で成長した竹若丸は元服し臼井興胤と名乗り、
足利尊氏の配下として活躍し、尊氏に従い、臼井氏の惣領と認められ、
暦応元年(1338)、臼井城を安堵されます。

志津胤氏は臼井氏惣領の興胤に従うことになったものの内心は面白くはなく、
興胤に対して非礼な態度が多かった。
興胤は胤氏追討を決意し、暦応3年(1340)8月に臼井城の修築を口実として
胤氏の家臣たちを臼井城に集め、その隙を衝いて志津城を攻略した。
胤氏は自害したが、夫人は夫の亡骸を埋葬し、
城に火をかけた後に自ら長刀を振るって戦い、命を絶ったそうです。
この後に志津城は廃されたと言われています。




こちらが、志津城の縄張り図。


      志津城縄張り図

     (余胡くんのホームページ よりお借りいたしました)



志津城の城郭の多くが民家として宅地化され
天御中主神社のある辺りが、城址の面影を残しています。
と言うのも天御中主神社も志津城の一部であったと言われています。

こちらが天御中主神社


      20140421志津城址01



神社のある一画が高台となっており
この石段を登れば境内となります


      20140421志津城址14


      20140421志津城址15


      20140421志津城址16


      20140421志津城址17



こちらが天御中主神社の境内


      20140421志津城址03


そして、こちらが本殿
意外にこじんまりとしています。


      20140421志津城址06




境内には樹齢600年の大ケヤキの木があります。


      20140421志津城址04



しかし、この大ケヤキには焼け跡が残り
伝承に残る志津胤氏の夫人が城に火をかけた証でしょうか?


      20140421志津城址05




境内の奥にはさらなる高台があり、疱瘡神や浅間社を祀っています。
この高台が物見台(櫓台)であったようです。


      20140421志津城址10



こちらが、その櫓台


      20140421志津城址07


      20140421志津城址08


櫓台から覗き見る空堀。
かなり深く広い。


      20140421志津城址09



空堀に降りてみると、そこは竹林。


      20140421志津城址11



空堀から見上げる櫓台。


      20140421志津城址12



空堀の他にこんな水堀もあります。


      20140421志津城址13



逆アングルからの水堀


      20140421志津城址02


周辺はすっかり宅地化されて、
この天御中主神社の一画しか見所はありませんが
いい感じで神社のある台地一帯が残されているのが救いです。

空堀脇も整地されて、分譲住宅を
まさにこれから建てるような雰囲気ですが
この一画だけは、このまま遺されることを期待します。




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2014/05/13 Tue. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit