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び・び・びのびいすけ

手子生城址 (2014年3月9日)(茨城県つくば市) 

3月9日 公休日


この日は茨城県のつくば市に出掛けていました。


水守城址をあとにして、向かった先は       手子生城址




『手子生』と書いて、『てごまる』と読みます。
なかなか、一発では読めません。


手子生城は

八田知家の三子、知経が正治年間(1199~1201年)に築いたとされています。
二重の堀をめぐらした平城で、現在はほとんどが農地と宅地化され
その多くが失われているが、わずかに本丸跡周辺の堀が残っています。
八田氏の末裔はこの辺りを支配した小田氏になります。
北条(現在のつくば市北条)から谷田部、土浦から石下、下妻へ通じる要衝地で、
小田氏にとってこの地は非常に重要な場所でした。
手子生城は南北221m、東西201mの規模があったそうです。

手子生城は以後、小田氏の支城となり、建長年間(1249~1256年)には菅谷孝久、
正平年間(1446~1470年)には赤松則実が城主であったと言われています。

1573年、小田氏治が佐竹義宣に攻められ、小田城が佐竹氏によって落城すると、
氏治は土浦城に後退し、手子生城には多賀谷氏家臣・菅谷正光が入ります。
1577年、小田城奪還を志す氏治は、北条氏政の助けを借り、手子生城を奪還し居城とします。
氏治は手子生城・土浦城・木田余城などを拠点に佐竹氏と戦いますが
小田城を落としきることができず撤退しました。

氏治は秀吉の小田原攻めに参陣せず、豊臣方である佐竹氏と戦ったという理由から
秀吉に所領を没収され、大名として小田家は滅亡してしまいました。
一方、小田氏の家臣で土浦城主であった菅谷範政は、
土浦から国替となって手子生城主となりました。
1698年、菅谷氏は遠江に移封となり、手子生城は旗本堀田大五郎の陣屋して存続し、
明治時代に廃城になりました。


手子生は、手子丸、手配と呼ばれており、
菅谷範政が1603(慶長8)年、徳川家康から領地を安堵されたことに伴い、
手子生に改めたと言われています。




こちらが手子生城の縄張り図


      手子生城址縄張り図

                  (余湖くんのホームページ  よりお借りしました)





こちらが手子生城址碑

  
      20140309手子生城址01



畑の中にぽつ~んと碑が建っています。


      20140309手子生城址02



以前は城址碑の隣には黒い石板が立っていましたが、
今はありません

ひょっとしたらひょっとして........

あの地震で倒壊してしまったのでしょうか....?


      20140309手子生城址03




石版がなくなって殺風景なので、かわりに びいすけ を.......


      20140309手子生城址04


      20140309手子生城址05


      20140309手子生城址06





城址碑の建つ主郭の周辺は一面の芝生畑(?)

どうやらこの辺りは芝生の栽培が盛んなようです


      20140309手子生城址07




主郭の東側には水堀が残っています。


      20140309手子生城址08



こちらが水堀。


      20140309手子生城址09





堀には土橋も残っています。


      20140309手子生城址10




小さな祠も残されています。


      20140309手子生城址11




主格北部
こちらは堀が埋められてしまったように見えるって言うか
堀跡のように見えます。


      20140309手子生城址12


この位置から城址碑の建つ方向を眺めると.........

わずかな堀と芝生の畑


      20140309手子生城址13



こちらも芝生の畑


      20140309手子生城址14



売り物の芝生(?)は見事です
まるでドッグランにいるようです


      20140309手子生城址15



ただ残念なのは、やはりこの主郭以外は城郭らしき雰囲気もない。
築城から廃城まで約650年と言う歴史を持った城であるだけに
城郭遺構を数多く残して欲しかった.....................






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2014/03/20 Thu. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit