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び・び・びのびいすけ

水守城址  (2014年3月9日)(茨城県つくば市) 

3月9日 公休日


この日は茨城県のつくば市に出掛けていました。


筑波第一小学校をあとにして、向かった先は       水守城址


水守城のあるこの地は、平将門の乱を描いた「将門記」の中で
平国香の弟の良正が本拠地を置いた「水守営所」があったとされています。

平将門といえば、下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、
やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国衙を襲撃して印鑰を奪い、
京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、
東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となります。
これが世に言う『平将門の乱』です。

将門の乱は藤原秀郷、平貞盛らにより将門が討伐され鎮静されました。

平貞盛の養子・維幹がこの地に移り住み、水守太夫と称して水守城を築き
常陸大掾氏の祖として繁栄を遂げていったと伝えられています。
その後 維幹は北条に多気城を築いて移り住み『多気太郎』と名乗り、
水守城は廃城となったと言われています。

戦国期は常陸国守護職の小田氏の支城として「小田氏治旗下の十二城」の一つとされ、
水守民部が城主であったとも言われています。





こちらが水守城の縄張り図

      水守城址縄張り図

                  (余胡くんのホームページ からお借りしました)




水守城址の中心部である主郭には、田水山小学校が建てられています。




こちらは水守城址の碑


      20140309水守城址01


      20140309水守城址02


城址の碑は主郭の外れ、小学校の北側の土壇の脇にあります。
 
      20140309水守城址03



びいすけ の背後が小学校の校舎。
画面右側が土壇。
古墳の跡を櫓台(物見台)として使われていたようです。


      20140309水守城址04



主郭の城址碑のある土壇の反対側(小学校の南側)にも
土壇があります。こちらも古墳跡なんだろうか?


      20140309水守城址06


その土壇に上り、城址碑のある土壇を眺めます。
 

      20140309水守城址05




小学校の向いの畑の奥にも土壇があります。

画面の右側が、その土壇。
そして、畑のど真ん中に石碑があります。

      20140309水守城址13


何の石碑なのか?
じっくり眺めますが、文字が良く見えません。

      20140309水守城址14






小学校の前の道をさらに進めば、やがて土橋跡に出ます。

こちらが土橋跡。
往時に比べると、道路造成でその幅は拡張されているようです。


      20140309水守城址09



びいすけ が何やら覗きこんでいます。


      20140309水守城址10


竹藪と化しているため見づらい(写真だと判りづらい)ですが、
そこには、しっかりと空堀がありました。


      20140309水守城址11    

      20140309水守城址08



おっ、 びいすけ 。
お前も少しは城址の見所がわかってきたのか?(笑)。





このあと、空堀と平行して伸びる堀切道を歩き、
城址のある台地をぐるっと散策してみました。


 


こちらが、城址遠景。
この森の奥に主郭跡である多水山小学校があります。


      20140309水守城址12



意外なところで(と言っても常陸国だから当たり前か?)平将門に関する史実が
また一つ勉強となりました。
この地に来るまで全く予備知識もなかった水守城址でしたが
時代背景や築城背景を知れば、変わった見方が生まれてきます。

歴史ある城だけど、平安時代からこの平成の時代まで
都はこの地には在らず、時代の流れに乗ることもなく、
そして歴史の動きに踊らされることもなく、
この古城の周りはひっそりと時が流れて行ったのだろう..............。















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2014/03/19 Wed. 18:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit