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び・び・びのびいすけ

ぼく と 父さん と時々 もっちゃん

村田城址   (2020年1月30日)(千葉県成田市) 

1月30日

この日は、成田市に出かけました。

村田集落にある大須賀小学校第二分教場から
向かって先は..................村田城址。


村田城の築城時期等は不詳ですが、
村田城跡とされるこの地は、中世には大戸庄村田郷と呼ばれ、
国分一族の所領であり、国分氏一族の村田氏の居城と言われています。

村田郷の国分一族が文献史料に見られるのは15世紀初め(応永年間)までであり、
現在見ることの出来る遺構は、戦国末期のものと思われるため、
戦国期には大須賀氏が自己の領域を守るために築いた境目の城であったと考えられます。
大須賀保の北に接する大戸庄を領して大きな勢力を持っていた国分氏に対する城郭として
重要視されたとものと思われるそうです。


成田市の村田集落。
村田城址への目標は、集落に鎮座する妙見神社。


こちらが、村田城の縄張り図。

      20200130村田城址縄張り図

( 余湖さんのHPよりお借りしました )



集落奥の小高い台地。
この台地が村田城址。

      20200130村田城址01


いざ、村田城址へ出陣です。

      20200130村田城址02



民家の脇に建つ城址の標柱。

      20200130村田城址03


以前は無かったようですが、大栄町が成田市と統合して
成田市に変わってから建てられたようです。

      20200130村田城址04


      20200130村田城址05


標柱の先を進みます。

      20200130村田城址06


堀底道が、否が応でも雰囲気を醸し出します。

      20200130村田城址07


久々に戦国時代の土の城に訪れたと言う感が広がります。

      20200130村田城址08

 

こちらが三郭。
   
      20200130村田城址09


削平地ではあるけれど、成長した木々に覆われ、下草も多い。

      20200130村田城址20



堀底道は三郭から右に曲がり二郭へと繋がっている。

      20200130村田城址21



二郭の虎口。

      20200130村田城址22



虎口の土塁。

      20200130村田城址23


二郭の土塁。

      20200130村田城址24


二郭には、妙見神社が鎮座しています。

      20200130村田城址25



こちらが妙見神社。

      20200130村田城址26


      20200130村田城址27


そもそも城主であった村田氏は国分一族。

平安時代末期の惣領である千葉常胤には7人の男子がおり、
庶子にもそれぞれ所領を分与しました。
五男の千葉胤通は、下総国葛飾郡国分寺領(現在の千葉県市川市国分)を分与され、
国分氏を称しました。

胤通、及びその子孫は、下総北部香取郡を中心に発展し、
大戸氏、村田氏、矢作氏などの有力庶流を分出しました。

要するに村田氏も広い意味で言えば千葉一族。
千葉一族の城郭には鬼門である北東に妙見神社を置く事が多い。
この村田城も鬼門として妙見社を置いたようです。


妙見神社の手前には土壇。

      20200130村田城址28


土壇(土塁?)の上には、祠が数基鎮座する。

      20200130村田城址29



土壇の上から眺める妙見社。

      20200130村田城址30

ひょっとしたら、この土壇は見張り台のような役目をしていたのでしょうか?



主郭も削平地ではあるが、木々が繁り、下草も多く
その先に進軍する気にはなれない。

      20200130村田城址31


現在は、成田市ではあるけれど、
旧・大栄町域には、国分氏系統の家臣たちの城郭が
ネットワークのように点在されているらしい。

一気には無理だけど、少しづつそんな城郭を訪れてみたいモノです。




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2020/03/11 Wed. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて...............大須賀小学校第二分教場  (2020年1月30日)(千葉県成田市) 

1月30日  

この日は、成田市に出かけました。

磐裂神社をあとにして、向かった先は......... 旧・大栄町立大須賀小学校第二分教場。

大須賀小学校第二分教場は、明治24年に創立した村田小学校がその始まりとされています。

明治24年  村田耕田寺傍地に村田小学校設立。
明治41年  伊能小学校、桜田小学校、奈土小学校、
       村田小学校が統合され
       新たに大須賀尋常高等小学校が設立される。
       村田小学校は第三分教場となる。
大正2年   第一分教場(旧・伊能小学校)を廃止し、
       第三分教場は、第二分教場と改称する。
昭和22年  学制改革により、大須賀村立大須賀小学校第二分教場と改称する。
昭和30年  大須賀村が町村合併により大栄町となり、
       大栄町立大須賀小学校第二分教場と改称する。
昭和31年  第三分教場(旧・櫻田小学校)が分離独立して、大栄町立櫻田小学校となる
昭和40年  櫻田小学校に統合され、廃校となる。

と、このような沿革となっているようです。


この第二分教場については、大須賀小学校のHPでその存在を知りましたが詳細は不明。
学区が村田地区だったことから、村田集落にある『ふれあいセンター』に当たりを付けて訪れました。
公民館のような施設。
確かに学校跡の雰囲気はあるけれど、学校遺構がないから確証はない。
近くの民家の御婦人に訊いてみたら違っていました。

第二分教場は、離れた場所にある公園になっていました。



こちらが、第二分教場の正門跡。

      20200130村田分校01



門柱に表札が残っていれば良かったんですが
残念ながら外されていました。

      20200130村田分校02



裏面には、『昭和33 二分学区 城之内工』と刻まれています。

      20200130村田分校03

おそらく、第二分教場 学校区 と言う意味なんでしょう。
城の内 は、元々村田城が近くにあるから城の内とでも呼ばれていたのでしょうか?



こちらは、県道側の公園出入口。

      20200130村田分校04



現在は、村田街区公園と言うみたいです。

      20200130村田分校05



約55年前に廃校となった分教場跡。
当然、校舎は解体されています。

      20200130村田分校06


公園といっても小さな公園。

      20200130村田分校07


      20200130村田分校09


      20200130村田分校10

門柱以外に、学校跡だと彷彿させるモノはない。




遊具もブランコ1基。


さすがに55年以上も前の事ですから
このブランコは、分教場時代のモノではないでしょう。

      20200130村田分校08



公園に残る木々。

      20200130村田分校11


      20200130村田分校12

これらは、ここが分教場の頃から根付いていたモノでしょう。
これらの木々を懐かしむ人もいるんだろうなぁ。


2020/03/11 Wed. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit