廃校を訪ねて..................山ノ荘小学校 (2019年9月21日)(茨城県土浦市)
9月21日
この日は、茨城県の土浦市に出かけました
土浦市は平成18年に旧新治村を編入しましたが
平成30年春に、旧・新治t村域の3小学校が統合され
廃校となってしまいました。
今回、その廃校を巡ってきました。
土浦市の廃校ツアー、次なる廃校は............土浦市立山ノ荘小学校。
山ノ荘小学校は、
明治5年 学制が発布。沢辺小学校が開校。
明治8年 永井小学校が開校。
明治16年 小野小学校が開校。
明治41年 沢辺小学校が廃校。沢辺小学校の児童は小野小学校へ通学。
大正8年 沢辺の児童は、斗利出小学校へ通学、
昭和27年 永井小学校、小野小学校が統合し、山ノ荘村立山ノ荘小学校が開校する。
昭和30年 町村合併により、新治村が成立。新治村立山ノ荘小学校となる。
平成18年 新治村が土浦市に合併し土浦市となる。
土浦市立山ノ荘小学校とな改称する。
平成30年 児童数の減少により、市内の藤沢小学校・斗利出小学校・新治中学校と合併して
「新治学園義務教育学校」が開校する。
山ノ荘小学校は閉校となる。
66年の歴史に幕を下ろす。閉校時の児童数は86人。
と、このような沿革となっています。
こちらが、山ノ荘小学校の正門。

左右の門柱にはそれぞれ表札が残る。


こちらは、校舎側の校門。

石造りの古い門柱ですが表札はない。
かつては、こちらが正門だったようですが
駐車場もあるから、近年は通用門として利用されていたんでしょう。
校舎全景。

別アングルからの校舎。



校舎正面玄関。

その庇に掲げられた校章。

校舎前の国旗掲揚ポール。

鉄筋コンクリートの校舎の脇には木造の平屋建ての建物。

以前は校舎として利用されていたんでしょう。
今は倉庫か何かに利用されていたようです。
その壁面。



こちらは、体育館。


体育館の玄関前に二宮像。

でも、びいすけ は、芝生にスリスリと転がっている。
気持ちよさそうに背中を芝生に擦りつけている。

こちらが、二宮像。


校庭。

校庭に残る遊具類。



古くて危険防止のために撤去された遊具は、
校庭の隅にまとめて置かれている。

トーテムポール。

百葉箱。

朝礼台。

水飲み場。

校庭隅には頌徳碑。

古くて文字がよく読めない何かの記念碑。

校訓の碑。

その碑を取り囲むように並べられたレンガのブロック。

昭和60年の卒業生の作品。
こちらも、卒業制作品。



こちらは、閉校記念のパネル。

在校生たちの、それぞれの思いが貼り出されています。
校庭の一角には、シンボルツリー。

多くの子供たちがこの木を見ながら通ったんでしょう。
山ノ荘小学校は、沢辺小学校、小野小学校、永井小学校の流れを汲み
地域のその歴史を引き継いできたから、やっぱり廃校は残念ですね。
この日は、茨城県の土浦市に出かけました
土浦市は平成18年に旧新治村を編入しましたが
平成30年春に、旧・新治t村域の3小学校が統合され
廃校となってしまいました。
今回、その廃校を巡ってきました。
土浦市の廃校ツアー、次なる廃校は............土浦市立山ノ荘小学校。
山ノ荘小学校は、
明治5年 学制が発布。沢辺小学校が開校。
明治8年 永井小学校が開校。
明治16年 小野小学校が開校。
明治41年 沢辺小学校が廃校。沢辺小学校の児童は小野小学校へ通学。
大正8年 沢辺の児童は、斗利出小学校へ通学、
昭和27年 永井小学校、小野小学校が統合し、山ノ荘村立山ノ荘小学校が開校する。
昭和30年 町村合併により、新治村が成立。新治村立山ノ荘小学校となる。
平成18年 新治村が土浦市に合併し土浦市となる。
土浦市立山ノ荘小学校とな改称する。
平成30年 児童数の減少により、市内の藤沢小学校・斗利出小学校・新治中学校と合併して
「新治学園義務教育学校」が開校する。
山ノ荘小学校は閉校となる。
66年の歴史に幕を下ろす。閉校時の児童数は86人。
と、このような沿革となっています。
こちらが、山ノ荘小学校の正門。

左右の門柱にはそれぞれ表札が残る。


こちらは、校舎側の校門。

石造りの古い門柱ですが表札はない。
かつては、こちらが正門だったようですが
駐車場もあるから、近年は通用門として利用されていたんでしょう。
校舎全景。

別アングルからの校舎。



校舎正面玄関。

その庇に掲げられた校章。

校舎前の国旗掲揚ポール。

鉄筋コンクリートの校舎の脇には木造の平屋建ての建物。

以前は校舎として利用されていたんでしょう。
今は倉庫か何かに利用されていたようです。
その壁面。



こちらは、体育館。


体育館の玄関前に二宮像。

でも、びいすけ は、芝生にスリスリと転がっている。
気持ちよさそうに背中を芝生に擦りつけている。

こちらが、二宮像。


校庭。

校庭に残る遊具類。



古くて危険防止のために撤去された遊具は、
校庭の隅にまとめて置かれている。

トーテムポール。

百葉箱。

朝礼台。

水飲み場。

校庭隅には頌徳碑。

古くて文字がよく読めない何かの記念碑。

校訓の碑。

その碑を取り囲むように並べられたレンガのブロック。

昭和60年の卒業生の作品。
こちらも、卒業制作品。



こちらは、閉校記念のパネル。

在校生たちの、それぞれの思いが貼り出されています。
校庭の一角には、シンボルツリー。

多くの子供たちがこの木を見ながら通ったんでしょう。
山ノ荘小学校は、沢辺小学校、小野小学校、永井小学校の流れを汲み
地域のその歴史を引き継いできたから、やっぱり廃校は残念ですね。
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2019/11/03 Sun. 15:00 |
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廃校を訪ねて..................小野小学校 (2019年9月21日)(茨城県土浦市)
9月21日
この日は、土浦市に出かけました。
この日訪れた小野に鎮座している日枝神社。
この日枝神社の境内にかつての小野小学校があったという事です。

小野小学校は、
明治16年 日枝神社境内に小野小学校開校。
明治41年 沢辺小学校が廃校となり、その児童が小野小学校に通学する。
昭和22年 学制改革により、山ノ荘村立小野小学校と改称する。
昭和27年 永井小学校、小野小学校が統合し、新たに山ノ荘村立山ノ荘小学校が設立
小野小学校は廃校となる。
と、このような沿革だったようです。
こんかい、日枝神社の宮司さんとお会いして
小野小学校の事をお訊きして、
校地だった場所を教えていただきました。
称号標近く、参道入口の右側。
丁度、社号標から県道を挟んだ更地の場所が
かつての小野小学校の校地でした。

参道入口。

参道右側。
ここがかつての小野小学校。
この場所に校門が有ったのだろうか?

校地。

昭和27年廃校だから、当然往時の校舎は解体済み。
現在は更地状態。


日枝神社の宮司さんの話では、
4月の流鏑馬祭りの際に、馬の待機所として使用しているけれど
普段は特に何にも利用していないそうです。

廃校遺構(学校遺構)を探したけれど
流石に何もない。

いっしゅん、朝礼台に見えたけれど.................

危険防止で井戸を覆う枠と言うか蓋のようなものでした。
この木は、小野小学校がここに在った時から、
この場所にあったのだろうか?

その木の根元から改めて校地を眺めます。

廃校から既に60年以上の月日が流れている。
その内、ここが学校跡だったことも、忘れられちゃうんだろうなぁ。
この日は、土浦市に出かけました。
この日訪れた小野に鎮座している日枝神社。
この日枝神社の境内にかつての小野小学校があったという事です。

小野小学校は、
明治16年 日枝神社境内に小野小学校開校。
明治41年 沢辺小学校が廃校となり、その児童が小野小学校に通学する。
昭和22年 学制改革により、山ノ荘村立小野小学校と改称する。
昭和27年 永井小学校、小野小学校が統合し、新たに山ノ荘村立山ノ荘小学校が設立
小野小学校は廃校となる。
と、このような沿革だったようです。
こんかい、日枝神社の宮司さんとお会いして
小野小学校の事をお訊きして、
校地だった場所を教えていただきました。
称号標近く、参道入口の右側。
丁度、社号標から県道を挟んだ更地の場所が
かつての小野小学校の校地でした。

参道入口。

参道右側。
ここがかつての小野小学校。
この場所に校門が有ったのだろうか?

校地。

昭和27年廃校だから、当然往時の校舎は解体済み。
現在は更地状態。


日枝神社の宮司さんの話では、
4月の流鏑馬祭りの際に、馬の待機所として使用しているけれど
普段は特に何にも利用していないそうです。

廃校遺構(学校遺構)を探したけれど
流石に何もない。

いっしゅん、朝礼台に見えたけれど.................

危険防止で井戸を覆う枠と言うか蓋のようなものでした。
この木は、小野小学校がここに在った時から、
この場所にあったのだろうか?

その木の根元から改めて校地を眺めます。

廃校から既に60年以上の月日が流れている。
その内、ここが学校跡だったことも、忘れられちゃうんだろうなぁ。
2019/11/03 Sun. 00:00 |
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