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び・び・びのびいすけ

ぼく と 父さん と時々 もっちゃん

丸山城址 (2015年9月30日)(静岡県伊豆市) 

9月30日 公休日

9月30日〜10月2日まで個人的な3連休。
この3連休を利用して2泊3日で伊豆へ出かけました。


旅人岬をあとにして、向かった先は...............丸山城址


丸山城は築城時期等は不明ですが、
小田原北条氏に属した西伊豆の豪族・富永氏の居城とされています。
そもそも富永氏の本城は同じ土肥地区の高谷城と考えられていて、
丸山城はその支城とされています。
しかしながら、入り江を抱き込む水軍基地と船着場を有していることから
西伊豆の北条水軍の拠点というレベルではかなりの重要性を持った城でありました。
特に武田勝頼や豊臣秀吉など駿河湾の西からやって来る諸勢力と対峙した北条氏にとって、
丸山城は重要な海上拠点の一つとなっていました。
天正18(1590)年の豊臣秀吉の小田原攻めの際、豊臣水軍の襲来を受け、
一族の富永山随(康景弟・政範)が同城を守ったが、落城したと言われています。


こちらが丸山城の縄張り図

      丸山城縄張り図

      ( 余湖さんの お城のページ  よりお借りいたしました  )



丸山城は丸山スポーツ公園脇の台地に在り、本城と出城に分かれていて
ちょうどR136で分断されるような形になっています。

丸山スポーツ公園の駐車場に車を置かせてもらって攻城開始です。


駐車場の隅にひっそりと建つ城址案内板。

      20150930丸山城址01


縄張り図も記載されています。

      20150930丸山城址02

こちらの縄張り図では、『出城』『本城』『詰めの城』と3つの郭群が連なって
丸山城は構成されているようです。


説明板によれば、丸山スポーツ公園のテニスコートやグランドのある場所は、
かつては海。北条水軍の要、船溜まり場だったらしい。

      20150930丸山城址40



こちらが出城。

      20150930丸山城址03


そして、こちらが本城。

      20150930丸山城址04



まずは、出城から攻めてみましょう。

      20150930丸山城址05



こちらが、出城への登城路。

      20150930丸山城址06


何やら、ガサガサと地面から音がする。
よ〜く見ると、カニでした。
海が近いって言えば近いけど、
でもちょっと離れているんだけどなぁ。

      20150930丸山城址07



主郭に向かう登城路。
虎口近くには、こんな石積みがあります。

      20150930丸山城址08



こちらが主郭虎口。

      20150930丸山城址09



主郭はこんな感じで削平地。

      20150930丸山城址10



こんな説明看板も建っています。

      20150930丸山城址11


      20150930丸山城址12



説明看板の横に建っている城址碑(標柱)。

      20150930丸山城址13


      20150930丸山城址14



こちらは、搦め手口の虎口。

      20150930丸山城址15



その虎口の土塁。

      20150930丸山城址17


そして土塁の脇に鎮座する社。

      20150930丸山城址16



出城の主郭から眺める相模湾。

      20150930丸山城址18


出城から下山。
本城へと向かいます。

      20150930丸山城址19



こちらが本城への登城路。
やはり、こちらもハイキングコースになっています。

      20150930丸山城址20


狭いハイキングコースとなっている登城路の脇には幾つもの段郭。
そして石積みがあります。

      20150930丸山城址21


こちらの段郭は椎茸の栽培をしているようです。

      20150930丸山城址22


こちらの段郭は人の手も入らず、かなり荒れています。

      20150930丸山城址23



無造作に置かれたものなのか?
はたまた、倒れてしまったものなのか?
出城に比べると本城には石積みが多い。

      20150930丸山城址24





こちらが、本城の主郭。

      20150930丸山城址25



こちらの主郭は完全に耕作地と化しています。

      20150930丸山城址26


      20150930丸山城址27



この先に人が通った形跡はありますが
さすがに、この藪状態の中へ進んで行く勇気はありません。

      20150930丸山城址28



主郭の石積み。

      20150930丸山城址29



主郭から詰めの城へは、ハイキングコースを歩きます。
ハイキングコースだけあって、主郭近くに四阿があります。

      20150930丸山城址34


四阿の前にあるパンフレット入れ

      20150930丸山城址35



残念ながら、中身は空っぽ。

      20150930丸山城址36



四阿の前にも、丸山城址の説明看板。

      20150930丸山城址33


四阿から眺める主郭。

      20150930丸山城址32



四阿の裏手にある おこり石 。

この石を踏んだりゆすったりすると悪いことが起きる、
という言い伝えがあるそうです。

      20150930丸山城址31


      20150930丸山城址30



四阿の更に先から眺める相模湾。

      20150930丸山城址37


詰めの城は、もうすぐそこ。


こちらが詰めの城。

      20150930丸山城址38



広い削平地。
今や果樹園となっているようです。

      20150930丸山城址39


出城、本城、詰めの城と3つの郭群が連なっている丸山城址。
丸いのは出城だけで、本城と詰めの城はかなり縦長になっています。

この日は天気が良かったから、汗もいっぱいかきました。
今夜のビールが美味いぞ!っと思いながら
次なる場所を目指すべく、台地を下りて行くのでありました...............。









     
2015/10/12 Mon. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

旅人岬 (2015年9月30日)(静岡県伊豆市) 

9月30日 公休日

9月30日〜10月2日まで個人的な3連休。
この3連休を利用して2泊3日で伊豆へ出かけました。


富永氏館跡をあとにして、向かった先は...............旅人岬


旅人岬は直木賞作家・笹倉明氏の作品に由来する夕日の美しい岬です。
断崖の上に位置する階段状のテラスから駿河湾を一望でき
運が良ければ対岸の清水、静岡を眺めることもできるらしい。
水平線に沈む夕日の美しさは筆舌に尽くしがたいほどの最高のパノラマだそうです。


元々、旅人岬の存在さえ知りませんでした。
偶然と言うべきか、たまたま県道17号の路肩(空き地)に車を停めていて
戸田方面へUターンする場所を探していたら、目に入ったのがこの看板。


      20150930旅人岬03

まあ、何ともお洒落な名称。
当初の予定には無かったけれど、立ち寄ることにいたしました。

      20150930旅人岬01



芝生でご機嫌な(?)びいすけ 。

      20150930旅人岬02



さすが景勝地。
駐車場からでも景色が良いのがわかります。

      20150930旅人岬04



この階段を上れば展望台。

      20150930旅人岬05


旅人岬の名の由来となった小説『旅人岬』の碑。

      20150930旅人岬06



夕陽の名所らしく、夕陽の季節ごとの時間帯と方向が案内されてます。

      20150930旅人岬07



そして、展望台の真ん中には男女を象った「家族」と名のつくブロンズ像があります。

      20150930旅人岬08



1998年春に土肥町(当時)が岬から180度以上のパノラマが拡がり、
海越しの夕日を臨む絶好のポイントとなっているところから
恋人岬にあやかって町の新しい名所にしようと、旅人岬と名づけられたそうです。

その時に展望台も整備されたのでしょう。
20年近く経っていますが、
綺麗に維持管理されている所は好感が持てます。

      20150930旅人岬09


      20150930旅人岬10


      20150930旅人岬12


      20150930旅人岬13


この岬と言うか、台地が視界を遮るから
富士山は残念ながら眺めることは出来ないようです。

      20150930旅人岬11


展望台からちょっと離れた場所ですが
磯場に降りていける階段があるようです。

      20150930旅人岬14


      20150930旅人岬15

せっかくだから、磯場にも降りてみましょう。


磯場に降りる階段から見た旅人岬。

      20150930旅人岬16



ゴツゴツとした大きな岩がある磯場。

      20150930旅人岬17


滑りやすいから、転ばないように気をつけましょう。

      20150930旅人岬18



陽射しも暖かいと言うか、むしろ暑い。
海からの潮風が心地良い。

      20150930旅人岬19


      20150930旅人岬20


      20150930旅人岬21


本当は夕陽が沈む時間帯に来れれば最高なんだけど
こればっかりは仕方ない。
いつか、夕陽を観に来ることにしよう。

思いがけなく見つけた景勝地。
ちょっぴり得した気分です。



2015/10/11 Sun. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

富永氏館跡 (2015年9月30日)(静岡県伊豆市) 

9月30日 公休日

9月30日〜10月2日まで個人的な3連休。
この3連休を利用して2泊3日で伊豆へ出かけました。


高谷城址をあとにして、向かった先は...............富永氏館跡


富永氏館は

土肥館とも言い、小田原北条氏の重臣で五家老の一人でもある富永三郎左衛門政辰とその子山城守政家の居館であったとされています。
館跡には現在、光源寺と言う寺が建てられ、その門前の市街地一帯も舘跡とされています。

背後に山地を控えた谷戸に構えられており、
御殿・馬出・小門・堀小路等の地名が伝承されていますが、
市街化されて遺構は完全に湮滅しています。
富永氏は、江戸城代や栗橋城主などを務めたため、小田原城や江戸城に居住し、
この地にいることは殆ど無かったと思われます。
しかし、その一族や家臣団が、この地に壮大な館を構えていたと思われます。
富永氏一族は、この地を拠点として駿河湾の制海権を掌握し、
土肥金山の経営で北条氏の治世を支えていたとされているようです。



光源寺と言うお寺を探しますが、
小さなお寺なのでなかなか見つけられません。

隣接する高級(?)旅館が大きくて...............
この白い壁も実は旅館の建物です。

      20150930富永氏館跡01


旅館の本館(?)と別館(?)と民家の間にひっそりと建つ光源寺。

      20150930富永氏館跡02


こちらが、本堂に掲げられている扁額。

      20150930富永氏館跡03



思っていたよりもかなり小さなお寺。

      20150930富永氏館跡04



境内も猫の額と言ったところでしょうか?

      20150930富永氏館跡05



その猫の額のように狭い境内でじっとしている びいすけ 。

      20150930富永氏館跡06


本堂の背後の山が詰めの城だったのだろうか?

      20150930富永氏館跡07


今は、墓地となっているが、本堂の裏は明らかに人の手による削平地。

      20150930富永氏館跡08


富永氏の菩提寺は土肥小学校の隣にある清雲寺であり、
この光源寺ではありません。
光源寺は土肥金山奉行市川助右衛門尉によって建てられたと言うことです。

      20150930富永氏館跡09



かつてこの辺り一帯に富永一族が壮大な舘を構えていただろうが
今は隣接する旅館が、あまりにも立派すぎて
逆にその旅館が富永一族な流れを汲み、かつての舘跡だと勘違いをしてしまいそうです。
一度で良いから、その立派な旅館に泊まってみたいものです...............(笑)。







2015/10/11 Sun. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

高谷城址 (2015年9月30日)(静岡県伊豆市) 

9月30日 公休日

9月30日〜10月2日まで個人的な3連休。
この3連休を利用して2泊3日で伊豆へ出かけました。


東名高速を沼津ICで降り、R1〜R135と国道をひた走り
土肥の町(現在は伊豆市土肥町)にやって来ました。
向かった先は...............高谷城址


高谷城は
築城時期は不明ですが、南北朝時代に伊豆の豪族であった富永備前守という武士が、
土肥に築いた水軍の城が高谷城といわれています。
富永備前守の子孫も代々土肥に住み、やがて勢力を伸ばしていきます。
しかし、延徳3年(1491)小田原北条家の始祖である、伊勢新九郎盛時(北条早雲)が伊豆に侵攻すると
富永三郎左衛門尉政直は、いち早く呼応して挙兵し以後北条家臣となって活躍します。
北条水軍の幹部として各地の合戦に出陣し、江戸城の城代や栗橋城の城代に任ぜられています。
政直の子・政辰も、関東各地の合戦で活躍しましたが、
安房の里見氏との戦いである永禄7年(1564)の下総・国府台の合戦で戦死してしまいます。

政辰の子・政家は山城守と称し、北条家五家老に列せられ、
西伊豆の井田、戸田、小土肥、土肥、八木沢、小下田、宇久須の七ヶ村のほか、
相模、武蔵、上総などに領地を持つ北条家の重臣でした。
そのため政家は、小田原や江戸に在住することが多かったそうです。
城下には居館があり(富永氏館)、また水軍の船溜りが附設されていたとされています。
支城である丸山城を築き、北条水軍の要として土肥地区に勢力を覇した富永氏でしたが
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に小田原北条家と運命を共にして没落してしまいます。
当主の富永政家は、慶長12年(1607)死亡。その子・直則は徳川氏に従い
関ヶ原の戦いにも従軍して、後に徳川家旗本として家名を残したとされています。




こちらが高谷城の縄張り図

      高谷城縄張り図

      ( 余胡さんの お城のページ よりお借りしました )



高谷城址は土肥地区の北部、土肥小学校裏山附近から東に海に向かった台地一帯とされ
南麓にある諏訪神社の脇から登城するようになっているようです。

こちらご諏訪神社。

      20150930高谷城址01


      20150930高谷城址02



こちらが神社脇の登城路。

      20150930高谷城址03


いざ、参らん!
高谷城の攻略開始です。

      20150930高谷城址04


とにかく、山城だからひたすら登るだけ。 余胡さんの縄張り図だけが頼りです。

      20150930高谷城址05


      20150930高谷城址06



如何にも!って感じの登城路。
明らかに人の手による道で、とても自然のモノではない。

      20150930高谷城址07



この先が主郭虎口になるのか?

      20150930高谷城址08



主郭虎口と思われる箇所。

      20150930高谷城址09


この先は藪。
ちょっぴり躊躇して...............
でもやっぱり、この先は諦めます。

      20150930高谷城址10



こちらが主郭。

      20150930高谷城址11

やっぱり藪。
当然、潔く先への進軍は諦めます。



尾根伝いに西に移動すると、主郭と二郭を隔てる大堀切。

      20150930高谷城址12



とにかく、先に道はないので大堀切に降りてみます。

      20150930高谷城址13


この時点でどうやら道に迷ったようで...............
(って言うか、そもそも主郭から二郭、三郭へと移動する道がない)

二郭へと直上、頑張って登って行きます。

こちらが二郭。

      20150930高谷城址14



尾根伝いに歩くように二郭奥へと進軍すれば、やがて竹藪。

      20150930高谷城址15


竹藪は多少管理されていたようで、わずかに間引きの伐採の跡があり、
人が通った形跡もある。
何とか竹藪を抜け(台地を下り)、ハイキングコースに降りることが出来ました。

ハイキングコースから振り返る、今降って来た竹藪。

      20150930高谷城址16


二郭と三郭を隔てるようにハイキングコースがあり
ハイキングコースは戸田方面へと続いているようです。


ハイキングコースから眺める三郭。

      20150930高谷城址17

雑草が生い茂っている中、段郭が確認出来ます。


主郭から二郭と徘徊のごとく道に迷い山を下るのに
ちょっぴり苦労して汗ダクダク。頭は蜘蛛の巣だらけ。
さすがに三郭へとチャレンジする元気はありませんでした。

1日は始まったばかり。
この後の予定も詰まっている。
ここは体力温存とばかりに一気に台地を下りて行きます。


高谷城址遠景。

      20150930高谷城址18



台地東端に鎮座する弁天神社。

      20150930高谷城址19


この神社の裏手にあるのが出城と言われているようです。

      20150930高谷城址20

余胡さんの縄張り図では三郭に記載せれています
先ほど断念した段郭に当たるようです。


とにかく城域は広い。
道に迷いながら額に汗を浮かべ
頭には蜘蛛の巣をくっつけて..............
チョッピ悪戦苦闘した攻城でした。





2015/10/10 Sat. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

東名高速(下り)足柄SAドッグラン (2015年9月30日)(静岡県駿東郡小山町) 

9月30日 公休日


9月30日〜10月2日まで個人的な連休。
この連休を利用して2泊3日で伊豆へ旅行に出かけました。

平日の通勤渋滞を避けるため、朝5時に自宅を出発。
東関道佐倉ICから高速に乗り、渋滞前の首都高を快調に走り
都内を抜け、東名高速を順調に西下して行きます。

休憩するには、ちょうど良い距離と時間帯。


いつものように足柄SAに車を入れます。

      20150930足柄PAドッグラン01


いつもはそんなに長居はしないから駐車場から近い小型・中型犬用のドッグランを利用しますが
今回は大型犬用のドッグランを利用してみました。

      20150930足柄PAドッグラン02



大型犬エリアと言うだけあって、中・小型犬エリアに比べればずっと広い。

      20150930足柄PAドッグラン07




ドッグランと言っても、 びいすけ は走り回るわけでもないし、
高速道路移動のおしっこ休憩にはちょうど良い。

当然、ドッグラン内の匂いを嗅ぎまわり、気になる所でマーキング。

      20150930足柄PAドッグラン03


      20150930足柄PAドッグラン04



そして、再びドッグラン内を匂いを嗅ぎながら徘徊します。

      20150930足柄PAドッグラン05



Aフレームに向かって徘徊して行く びいすけ 。

      20150930足柄PAドッグラン06



せっかくだから、Aフレームに乗ってみましょう。

Aフレームは苦手ではない びいすけ 。
オヤツを貰えると思って頑張ります。

      20150930足柄PAドッグラン13


確かに、昔 すいらん でオヤツで釣ってAフレームを克服出来たから
得意って言えば、得意になるのかな?

      20150930足柄PAドッグラン14


オヤツを貰えると思って大人しくしています。

      20150930足柄PAドッグラン15


      20150930足柄PAドッグラン16


      20150930足柄PAドッグラン17


      20150930足柄PAドッグラン18


      20150930足柄PAドッグラン19


      20150930足柄PAドッグラン20


頑張ってポーズを取っていたから(?)
当然、オヤツを貰います。



そろそろ車に乗って戻ろうか?と思っていた矢先に
びいすけ の視線が一点に集中します。

      20150930足柄PAドッグラン08


どうやら、ドッグランに来場者。

      20150930足柄PAドッグラン10


地元の方だろうか?
明らかに旅の途中に立ち寄ったと言う雰囲気ではないジャックラッセルテリアが来場。

なぜか、びいすけ の匂いが気になるのか?
はたまた、良い匂いでもするのか?

やたらと びいすけ の匂いを嗅ぎまくります。

      20150930足柄PAドッグラン09

      

徘徊する びいすけ のお尻の匂いを嗅ぎながら
あとを付いてまわるジャックラッセルテリア。

      20150930足柄PAドッグラン11


慣れているからって言うのもあるし、
格別 びいすけ も嫌がっている訳じゃないから
しばらくは見守ることに...............

      20150930足柄PAドッグラン12


当然、あわよくば一緒に走り回ってくれないかな?
そんな秘かな期待もあったりして...............。

      20150930足柄PAドッグラン21

結局のところ、付かず離れずの状態が続き、そろそろ本日の第一目的地ペット向けて
出発する時間となりました。

まだまだ先は遠い。
安全運転で旅は続きます。
(って言うか、始まったばかりだし...............)(笑)



2015/10/10 Sat. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

びいすけ と買い物@ジョイフル本田 千葉ニュータウン店 (2015年9月25日)(千葉県印西市) 

9月25日 公休日

天気が良ければ、九十九里の海岸にでも出かけようかとも思っていた休日。
朝から生憎の雨。
午前中はウダウダしていたけれど、外に出たがる びいすけ を連れて
買い物に出かけました。

びいすけ と一緒に買い物が出来る所って、
必然的に限られてしまいます。

と言うことで、出かけた先は...............ジョイフル本田 千葉ニュータウン店

      20150925びいすけと買い物01



ペット専用のカートに乗り込みます。

      20150925びいすけと買い物


それでは店内に入りましょう。

      20150925びいすけと買い物03


今日の目的は2階のクラフトコーナー。

エスカレーターで向かいます。

      20150925びいすけと買い物04


      20150925びいすけと買い物05



革製品のコーナー。

      20150925びいすけと買い物06


端切れの20mm幅の革バンド(なぜかレースと呼ぶらしい)を探しに来ました。

      20150925びいすけと買い物07


30mm幅と40mm幅はいっぱい有るのに
なぜか20mm幅はない。
以前はいっぱい置いてあったのに、20mm幅は人気なのかなぁ。

棚の奥を覗き込み、奥に隠れていた白の革バンドを発見。

      20150925びいすけと買い物08



白のチョーカーも びいすけ には似合うかも知れない。

      20150925びいすけと買い物09



お買い上げ決定。
レジへと向かいます。

      20150925びいすけと買い物10



レジで会計を済ませ、車に戻ります。

なぜかご機嫌な びいすけ 。
カートに箱乗りです。

      20150925びいすけと買い物11


      20150925びいすけと買い物12



さすがに下りエスカレーターでは大人しくしていましたが...............

      20150925びいすけと買い物13



1階に降りれば再び箱乗り。

      20150925びいすけと買い物14


ホームセンターのショッピングカートに乗るのが大好きな びいすけ です。





2015/10/09 Fri. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて...........太田小学校  (2015年9月21日)(茨城県行方市) 

9月21日  公休日

この日は、茨城県の行方市に出かけました。


大和第三小学校をあとにして、
向かった先は...............行方市立太田小学校


太田小学校は

明治10年     八幡村に八幡小学校設立。
明治12年     石神村に石神小学校開設。
          根小村に根小屋小学校開設。
明治22年     町村制施行により石神村、根小屋村、八幡村が合併して太田村誕生。太田村誕生。
          太田尋常小学校石神分教場となる
明治28年     太田第一尋常小学校、 太田第二尋常小学校となる。
明治43年     太田尋常高等小学校となる
大正14年     太田尋常小学校と太田第二尋常小学校が統合する
昭和22年     学制改革により太田村立太田小学校と改称する。
昭和30年     太田村、大和村、小高村、行方村が合併して麻生町が誕生。
          麻生町立太田小学校と改称する。
平成17年     麻生町、玉造町、北浦町が合併して行方市が誕生。
          行方市立太田小学校と改称する。
平成25年     大和第一小学校、大和第二小学校、大和第三小学校、太田小学校が統合し、
          新たに麻生東小学校が発足し、廃校となる。

と、このような沿革となっています。


ナビに案内されて辿りついた太田小学校。

日も暮れかかり、辺りは次第に暗くなって来ます。
それに輪をかけて、暗い気分になってしまいました。



こちらが太田小学校の正門。

      20150921太田小学校01



門柱には、しっかりと太田小学校の名の入った表札が掲げられています。

      20150921太田小学校02



しかしながら、その隣にはこんな看板がありました。

      20150921太田小学校03


『 なに〜! ここもか? 』

どうやら、解体工事が始まってしまったようです。
確かに、重機の唸る音が学校内から聞こえて来ます。


特に、立ち入り禁止とは表示されていないので
邪魔にならないように遠慮がちに見学させてもらいましょう。




こちらが校庭。

      20150921太田小学校04

どうやら校舎は2棟あり、まだ解体されていないようです。



奥の方で重機が独特の音を立てて動いているようです。

      20150921太田小学校05



ズームで寄ってみましょう。(270mm)

      20150921太田小学校06



どうやら、太田小学校。敷地内にあり隣接して建っていた保育園の建物を解体しているようです。

      20150921太田小学校07


プールも底が剥がされ、いずれ解体されてしまうのでしょう。

      20150921太田小学校08



体育館も外部はまだ残っていますが、内部は床が剥がされ
いずれ建物も解体されてしまうのでしょう。

      20150921太田小学校09



校舎はまだ手付かずの状態。

      20150921太田小学校10


いずれ解体されてしまうのか?
それとも校舎は残るのか?

      20150921太田小学校11



校舎前の校庭。

      20150921太田小学校12


      20150921太田小学校13



このサッカーゴールに対座するもう一つのゴール付近では
少年サッカーの活動が行われていて、どうやら立ち入り禁止ではないようです。
でも、少年サッカーと解体工事の邪魔にならない様に心がけましょう。

      20150921太田小学校14




校舎前の朝礼台。

      20150921太田小学校15



校舎前の創立百周年の記念碑。

      20150921太田小学校16


      20150921太田小学校17



裏面には沿革が刻まれています。

      20150921太田小学校18


校庭隅(解体工事脇)の遊具。

      20150921太田小学校19

遊具の多くは解体工事の邪魔になるから撤去されてしまったのだろうか?


ひとしきり、邪魔にならない様にぐるっと回ってみたけれど
二ノ宮像や廃校記念碑はありませんでした。

時間もそれなりにいい時間になってきたので
日暮れで暗くなる前に帰りましょう。

最後に校庭でパチリ☆。

      20150921太田小学校20



大和第三小学校に続いて解体の始まっていた太田小学校。
どこまで解体されるのかは分かりませんが不幸中の幸いとでも言うか、
まだ校舎も解体されてなく、校庭もそれなりに緑が映え
解体工事の看板を見て気落ちしたけれど、救われた気がします。

何事もタイミングとも言うけれど、あと1年早く訪れていれば
きっと違った感想になっていたんだろうなぁ。
残念が2回続くと、『世の中はこんなもんだ』と思ってしまう。
タイミングの悪い人生なのかなぁ...............?







2015/10/08 Thu. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて...........大和第三小学校  (2015年9月21日)(茨城県行方市) 

9月21日  公休日

この日は、茨城県の行方市に出かけました。


大和第二小学校をあとにして、
向かった先は...............行方市立大和第三小学校



大和第三小学校は

明治8年       白浜小学校と称して開校。
明治19年      小学校教育令の改正により、小牧尋常小学校白浜分教場と改称する。
明治22年      町村制施行により、白浜村、杉平村、籠田村、宇崎村、青沼村、小牧村、岡村、
            蔵川村、天掛村、四鹿村、板嶺村、新宮村が合併して大和村誕生。
明治25年      大和第三尋常小学校と改称する。
昭和22年      学制改革により、大和村立大和第三小学校と改称する。
昭和30年      太田村、大和村、小高村、行方村が合併して麻生町が誕生。
            麻生町立大和第三小学校と改称する。
平成17年      麻生町、玉造町、北浦町が合併して行方市誕生。
            行方市立大和第三小学校と改称する。
平成25年      大和第一小学校、大和第二小学校、大和第三小学校、太田小学校が統合し、
            新たに麻生東小学校が発足し、廃校となる。

と、このような沿革となっています。



大和第三小学校に近づくと、明らかに工事関係者と思われる車が
びっしりと小学校の周りに停まっています。

      20150921大和第三小学校01

何か嫌な予感..............................。


この先が大和第三小学校の正門ですが、
嫌な予感は的中。

      20150921大和第三小学校02


何と大和第三小学校(跡地)は工事中。

      20150921大和第三小学校03



校門の門柱には、まだ大和第三小学校の校名の表札が掲げられています。

      20150921大和第三小学校04


関係者の出入りのための通行エリアがカラーコーンで確保されています。

      20150921大和第三小学校05



校門前に貼られていた工事現場の案内図。

      20150921大和第三小学校06


監督官庁の許可証及び確認証。

      20150921大和第三小学校07

これらの許可証から東京にある食品会社が、なめがたファーマーズビレッジという法人にて
「焼き芋ミュージアム」と言う名称の田植えや収穫など土と触れ合う農業体験型テーマパークとして、
大和第三小学校跡地を再利用するようです。


いやぁ、来るのが遅かった。
今年の2月2月行方市の廃校巡りをした時に立ち寄れば良かった。
ひょっとしたら、その時はまだ工事が始まってなかったかもしれない。


工事関係者で溢れ、工事も終盤を迎えているような感じで
とても中に入って行ける雰囲気じゃない。

      20150921大和第三小学校08


指を咥えて、校門前で工事の状況を眺めているしかない。

こちらは、校舎に隣接する新たに建てられた建物のようです。

      20150921大和第三小学校09


校舎は解体せずに、そのまま流用されるみたいです。

      20150921大和第三小学校10



校門脇にある築山?
奥にジャングルジムが残っているようです。

      20150921大和第三小学校11



とにかく、中に入れないから学校遺構が残っているのか?否か?
確認のしようがない。

二ノ宮像は残っているのか?
廃校記念碑はあるのか?

工事が終わって、農業体験型テーマパークがオープンして暫くしたら
そっと確認に来てみようかな..............................。


2015/10/07 Wed. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて...........大和第二小学校  (2015年9月21日)(茨城県行方市) 

9月21日  公休日

この日は、茨城県の行方市に出かけました。


大和第一小学校をあとにして、
向かった先は...............行方市立大和第二小学校



大和第二小学校のHPによれば

明治21年     小牧小学校派出所として開校。
明治22年     小牧小学校分教場と改称。
明治25年     小牧第二尋常小学校と改称。
昭和22年     学制改革により、大和村立大和第二小学校と改称する。
昭和30年     太田村、大和村、小高村、行方村が合併して麻生町が誕生。
           麻生町立大和第二小学校と改称する。
平成17年     麻生町、玉造町、北浦町が合併して行方市が誕生。
           行方市立大和第二小学校と改称する。
平成25年     大和第一小学校、大和第二小学校、大和第三小学校、太田小学校が統合し、
           新。たに麻生東小学校が発足し、廃校となる。

と、このような沿革となっています。




こちらが大和第二小学校の正門

      20150921大和第二小学校01


門柱には、まだ校名の記された表札が残されていました。

      20150921大和第二小学校02


校門をくぐって眺める大和第二小学校の全景。

      20150921大和第二小学校03


      20150921大和第二小学校04



校門脇のイチョウの木。

      20150921大和第二小学校05


どうやら、このイチョウの木は大和第二小学校のシンボルツリーのようです。

      20150921大和第二小学校06



大きなイチョウの木が二本並んでいます。

      20150921大和第二小学校07



では、遠慮がちに校内を見学してみましょう。

ある程度の田舎(?)に来ると小学校に隣接して保育園が設置されている事が多い。
この行方市(旧麻生町)もそのパターンで、かつては大和第二小学校の敷地内に保育園が在ったようです。

保育園跡の脇に咲くキバナコスモス。

      20150921大和第二小学校08


秋を感じますねぇ〜。

      20150921大和第二小学校09



校舎前、木々の中に隠れるようにして鎮座していた二ノ宮像。

      20150921大和第二小学校10


      20150921大和第二小学校11



こちらが校庭。

      20150921大和第二小学校12

ちょうど少年サッカーの練習をしていたので邪魔にならないようにします。




こちらが校舎。

      20150921大和第二小学校13



校舎正面玄関。
庇には校章を取り外した跡がくっきりと残っています。

      20150921大和第二小学校14



校舎玄関前に建つ記念碑(校歌の碑)。

      20150921大和第二小学校15



こちらが体育館。

      20150921大和第二小学校16



校庭に残されている遊具類。

      20150921大和第二小学校17


      20150921大和第二小学校18


      20150921大和第二小学校19



廃校記念碑を探してみましたが見つかりませんでした。
どうやら、こちらの小学校では廃校記念碑を建てなかったようですね。

いつまてこの校舎が残り、体育館が残るか?わからないけれど
もし解体されて、更地になるような事になったら
校庭跡の隅にでも廃校記念碑、又は小学校跡地の碑が建てられたら良いなぁ。






2015/10/06 Tue. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて...........大和第一小学校  (2015年9月21日)(茨城県行方市) 

9月21日  公休日

この日は、茨城県の行方市に出かけました。


旧・北浦村立 旧・三和小学校跡をあとにして、
向かった先は...............行方市立大和第一小学校



大和第一小学校のHPによれば

明治19年    三光寺本堂を仮校舎として開校。
          小牧尋常小学校と称す。
明治43年     高等科を併置し,大和第一尋常高等小学校と改称する。
昭和22年    大和村立大和第一小学校と改称する。
昭和30年    地方行政区画改正により大和村は麻生町と合併し,麻生町となる。
           麻生町立大和第一小学校と改称する。
平成17年    麻生町、玉造町、北浦町が合併して行方市誕生。
          行方市立大和第一小学校と改称する。
平成25年    大和第一小学校、大和第二小学校、大和第三小学校、太田小学校が統合し、
          新たに麻生東小学校が発足し、廃校となる。

と、このような沿革となっています。



県道からきつい坂を登って行くと、大和第一小学校。

こちらが、大和第一小学校の正門。

      20150921大和第一小学校01



しっかりと大和第一小学校の表札も残っています。

      20150921大和第一小学校02



こちらが校舎。

      20150921大和第一小学校03


      20150921大和第一小学校04


校舎の前には記念碑。

      20150921大和第一小学校12

大和第一小学校の校訓でしょうか?

健康でがんばりのきく子
礼儀正しく豊かな子
進んで学び考へる子
力を合わせみんなの為になる子


いゃあ、こんな子供で居たかったなぁ(笑)




雑草に埋もれかけている創立百周年の記念碑。

      20150921大和第一小学校05


      20150921大和第一小学校06



記念碑の裏には沿革が刻まれています。

      20150921大和第一小学校07


校庭の遊具(鉄棒)。

      20150921大和第一小学校08


校庭には遊具らしきモノは鉄棒のみ。
実は校庭は地域のパークゴルフ場として利用されているようです。

      20150921大和第一小学校15


その影響でしょうか?
さほどグランドは荒れていなくて、余分な雑草も少ない。

      20150921大和第一小学校20




そして朝礼台。

      20150921大和第一小学校09



朝礼台の びいすけ があらぬ方向を見つめています。

      20150921大和第一小学校10



視線の先には野良猫。

      20150921大和第一小学校11

どうやら、こちらに住み付いているようですね。




こちらはプール。

      20150921大和第一小学校13

今や、誰も泳ぐことはありません。


そして、だれも使わない体育館。

      20150921大和第一小学校14


     
ネコの匂いが満ち溢れているのか?
広い校庭(パークゴルフ場)の匂いを嗅ぎ回る びいすけ 。

      20150921大和第一小学校16


      20150921大和第一小学校19



しつこい位、匂いを嗅ぎ回る びいすけ 。

      20150921大和第一小学校17


『 お〜い! びいすけ。 そろそろ帰るよ! 』

      20150921大和第一小学校18


びいすけ に声を掛けて、大和第一小学校をあとにするのでありました...............。










2015/10/05 Mon. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて...........旧・三和小学校  (2015年9月21日)(茨城県行方市) 

9月21日  公休日

この日は、茨城県の行方市に出かけました。


行方市立 羽生城址をあとにして、
向かった先は...............旧・北浦村 旧・三和小学校跡


三和小学校は

明治15年      三和村に三和小学校を開設する。
明治22年      三和村が小貫村・次木村・両宿村・内宿村・長野江村・成田村・と合併し、
武田村が発足。武田尋常小学校三和分教場となる
明治25年      三和分教場を廃し、武田第二尋常小学校と改称。
明治29年      武田第一尋常小学校と統合する。
明治30年      武田第二尋常小学校として復活開校する。
昭和22年      武田村立武田第三小学校と改称する。
昭和30年      武田村が津澄村・要村とともに合併し、北浦村が発足。
           北浦村立三和小学校と改称する。
平成9年       北浦村が町制施行し、北浦町となる。
           北浦町立三和小学校と改称する。
平成17年      北浦町が麻生町、玉造町と合併し行方市が誕生。
           行方市立三和小学校と改称する。
平成24年      武田小学校へ統合され廃校となる。

とこのような沿革となっています。


平成24年に廃校となった校地は
この場所よりちょっと離れた場所にあります
(  その時の訪問記事は  こちら  )


この沿革には記載されていませんが、廃校となった三和小学校は
昭和56年に新校舎が建設され移転しています。
すなわち、明治15年から昭和56年まで別の地に三和小学校は在りました。


こちらが、その旧・三和小学校跡地。

正門になります。

      20150921旧三和小学校跡01


この地に小学校がなくなって既に34年。
門柱には往時の校名の記された表札が残されています。

      20150921旧三和小学校跡02


      20150921旧三和小学校跡03



この校門は地元の方の寄贈によるものです。

      20150921旧三和小学校跡04



校舎は既に取り壊され、現在は校舎跡と思われる場所に
金上集落センターと言う地域の公民館(?)が建てられています。

往時もこんな感じで校舎が建っていたのでしょうか?

      20150921旧三和小学校跡05


      20150921旧三和小学校跡06


      20150921旧三和小学校跡07



校庭だったと思われる現在の中庭は、ゲートボール場となっています。

      20150921旧三和小学校跡08


      20150921旧三和小学校跡09


学校跡地の碑や遊具などはありません。
三和小学校の名残りを残すモノはほとんど残っていません。

校庭の隅に立つ桜の木が学校跡をわずかに彷彿させてくれます。

      20150921旧三和小学校跡10



集落センターの裏手にある井戸跡。
三和小学校の時に使用されていたモノでしょうか?

      20150921旧三和小学校跡11


校庭の隅にあるお地蔵さん。
往時の子供たちの健康と安全を見守っていたのでしょう。

      20150921旧三和小学校跡12


小学校が在った時に記念植樹の際に建てられた標柱。
かなり朽ちかけていて、文字も読めません。

      20150921旧三和小学校跡13




この地から500mほど離れた場所に移転した三和小学校が在りましたが
平成24年に廃校となり、校舎も解体され現在は更地となっています。
近くに廃校跡地が2つも残されているけど、何となく寂しい気がするのは気のせいなんだろうか...............?






2015/10/04 Sun. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

羽生城址  (2015年9月21日)(茨城県行方市) 

9月21日 公休日

この日は、茨城県の行方市に出かけました。


行方市立 玉造城址をあとにして、
向かった先は...............羽生城址


玉造城址からR355を北上すると、2年前に廃校となった羽生小学校があります。
羽生小学校に隣接する萬福寺の建つ台地一帯が羽生城址と言われています。

そもそもこの辺りは、平安時代の荘園「橘郷」の地であり、
承安4年(1174)佐衛門佐兼押領使高階朝臣(経仲)が宰吏安穏、国土豊饒を祈願して
鹿島社大称宣中臣則親に橘郷を寄進したといい、
中臣氏の一族がこの地に来て、城を築き、羽生氏を名乗ったと言われています。

戦国時代になると、羽生氏は近隣の芹沢氏などと領地を巡り抗争していたようです。
しかしながら、常陸国を掌握しようと画作する佐竹氏により秀吉の小田原の役の功労もあり
常陸国を領有することを認められると鹿島・行方地区の南方三十三館と同様に
天保19年(1590年)佐竹氏の侵攻により、羽生城は落城し廃城となりました。







こちらが羽生城の縄張り図。

      羽生城縄張り図


            (  余胡くんのお城のページ  よりお借りしました  )



実は羽生小学校には、今年の2月に訪れていますし、
城址の一部である萬福寺にも訪れています。
( その時の記事 羽生小学校訪問記は こちら
( 萬福寺の訪問記は こちら


こちらが萬福寺。


山門の仁王門と阿弥陀堂は茨城県の指定文化財となっています。


こちらが仁王門。

      20150921羽生城址01


      20150921羽生城址02


そして、阿弥陀堂。

      20150921羽生城址03


萬福寺の奥にある墓地。

      20150921羽生城址04

こうやって眺めてみるとそれらしい雰囲気はあります。


墓地から台地先端(主郭となる城山)を目指しますが
墓地の先は果樹園となり、墓地の奥へは進軍できません。

      20150921羽生城址05



仕方ないので、墓地の脇から台地を下り、途中から藪の切れ間を探して
台地奥へと進軍をチャレンジしてみます。

      20150921羽生城址06


木々の切れ目を進軍しますが、やはり行く手には藪が待ち構え
やむなく断念。

      20150921羽生城址07


      20150921羽生城址08

台地伝いに主郭(城山制覇)は諦め、台地を下って谷津伝いに台地をぐるっと回ってみることにします。


台地先端部。
この台地の頂部か主郭である城山にあたります。

      20150921羽生城址09


      20150921羽生城址10


何やら看板らしき白い物体。
近づいてみると羽生城址(羽生館跡)の説明板でした。

      20150921羽生城址11


説明板なんて建っているなんて事前情報では知らなかったから
この説明板を見つけた時は嬉しかったなぁ...............。

      20150921羽生城址12


結局、主郭(城山)へのアプローチはできず
いわゆる本丸(主郭)へは辿り着くことは出来ませんでした。

台地をぐるっと回って、萬福寺に戻ります。


お彼岸のど真ん中の9月21日。
萬福寺に墓参りに来られる方々も多い。

その方々を受け入れるかのように咲き誇る彼岸花(曼珠沙華)。

偶然にも彼岸花に飛び交う黒アゲハ。

      20150921羽生城址14


やっぱり秋の仏閣には彼岸花が似合いますなぁ...............。


主郭である城山にアプローチ出来ずに
遺構らしきものを確認ことができなかった羽生城址ですが
平成21年に玉造郷土文化研究会の名のもとに
新たな説明看板も設置されたことを良しといたしましょう。










2015/10/03 Sat. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

玉造城址  (2015年9月21日)(茨城県滑川市) 

9月21日  公休日

この日は、茨城県の行方市に出かけました。


行方市立 旧・玉造小学校をあとにして、
向かった先は...............玉造城址



玉造城は大掾氏一族の玉造氏の居城でありました。
城主である玉造氏は、大掾氏の分家吉田氏の流れを汲む行方景幹の四男四郎幹政が
玉造の地に居を構えたことに始まります。
玉造城は1170頃に築いたとされています。

そもそも行方の地を領したのは行方氏です。
行方氏を語る上で、行方一族の四頭を記せばなりません。

大掾忠幹の子景幹は行方太郎刑部大輔と称して、
平安末期から鎌倉初期にかけて活動しました。
景幹は行方郡地頭に任じられ、中世を通じて行方郡内に一大勢力を誇りました。
すなわち、行方氏の基盤を確立した人物です。

景幹の四子は長男行方太郎為幹、次男島崎太郎高幹、
三男麻生三郎家幹、四男玉造四郎幹政でありました。
それぞれ、行方・島崎・麻生・玉造の各氏の祖となりました。

長男為幹は行方氏の惣領を継ぎ、のちに、小高へ築城して移動したので、
小高氏を称するようになりました。
  ( 小高城址攻城記は  こちら )

次男島崎太郎高幹は、島崎城を築き、島崎氏を称しました。
  ( 島崎城攻城記は こちら  )

三男麻生三郎家幹は、麻生城を築き、麻生氏を称しました。
  ( 麻生城攻城記は  こちら  )

四男玉造四郎幹政は、玉造城を築き、玉造氏を称しました。

すなわち、行方氏(のちの小高氏)、麻生氏、島崎氏、玉造氏は「行方四頭」と呼ばれ
そして、この四子は景幹の開発地や特権を分割譲与されて、
行方郡内の諸郷村の地頭として発展していきます。

しかし、天正十九年(1591)、大掾氏一族の領地は佐竹義重・義宣父子に与えられ、
玉造重幹ら行方・鹿島両郡のいわゆる「南方三十三館」と呼ばれる諸領主が
太田城に招かれ、殺害されてしまいます。(南方三十三館の謀殺)
玉造城は佐竹氏家臣に攻められ、城主なき城はまもなく落城し、
そのまま廃城となりました。





こちらが玉造城の縄張り図。

      玉造城縄張り図

          (  余胡くんのお城のページ  よりお借りしました  )






行方市の玉造地区(旧・玉造町)の中心部に近い茨城県指定文化財の大塲家住宅の背後にある台地が
玉造城址となります。

大塲家住宅が休館日だったので、ちゃっかり駐車場に車を停めさせていただきました。
ついでだから、大塲家の門の前で記念撮影。
どうせなら犬連れは中に入れないから休館日の方が良いかも?

      20150921玉造城址01


      20150921玉造城址02


      20150921玉造城址03

大塲家は桓武平氏の流れをくみ、常陸大掾氏の支族である玉造氏の家老として仕えました。
佐竹氏支配の時代を経て、江戸時代には玉造近郷の村々を統括し、
水戸藩有林御立山を管理する「大山守」職を世襲し、代々水戸藩の大山守を務め、
二十数か村の藩有林を管理するとともに広域にわたる藩行政に携わってきました。
また光圀が巡見の時に宿泊所としたと言われています。



大塲家の脇を通り、裏山である玉造城址を目指します。


主郭手前の腰曲輪にあたる辺りが、かつての水戸藩校である
『玉造郷校』の跡らしい。

      20150921玉造城址04


      20150921玉造城址05

水戸藩主・徳川斉昭は、藩政改革の一環で、
水戸城内に藩校「弘道館」を設置しました。
そして、水戸藩領地の各所に、「郷校」を設置したそうです。
この玉造郷校(文武館)は、1858(安政5)年、水戸藩領で一番最後に設置された郷校です。
郷校では尊王攘夷主義の教育と武術の訓練が中心だったそうです。

この玉造郷校が後々の玉造小学校へと変遷していきました。
要するに、この地が玉造小学校発祥の地になるんですね。




説明板の裏手の石段を上がっていくと、こんな標柱も建っています。

      20150921玉造城址06


      20150921玉造城址07


ちょうど畑と化している郭で野良作業をしていたご老人に聞いたら、
この郭に郷校があったようです。

      20150921玉造城址08



二郭下の腰曲輪に建っている神社。
玉造城の守護神か何かだったのでしょうか?

      20150921玉造城址09



腰曲輪の下の空堀は埋められ、通路と化しているようです。
裏を返せば、通路が空堀跡だと分かります。

      20150921玉造城址10


こちらは三郭。
耕作地と化しています。

      20150921玉造城址12


      20150921玉造城址13


こちらは二郭。
ちょうど神社の真裏辺り。
こちらは果樹園と化しているようです。

      20150921玉造城址14


主郭の城塁。
一画に石像類が建ち並んでいます。

      20150921玉造城址15



主郭城塁に建つ玉造城址説明板。

      20150921玉造城址16


      20150921玉造城址17


      20150921玉造城址18



主郭と二郭を隔てていた空堀は、私道となっているようですが
主郭の城塁は見事に尽きる。

      20150921玉造城址19



主郭虎口辺りに無造作に転がっていた看板。

      20150921玉造城址20


近くの木に立て掛けて記念撮影、パチリ☆。

      20150921玉造城址21



おそらく、この辺りが主郭虎口。

しかしながらら、凄い藪状態。

      20150921玉造城址24

さすがにこの先に進軍する勇気はありません。


以前は下草も刈られ、管理が行き届いていたらしいのですが
平成の大合併で玉造町が行方市になり、自治体が大きく、広くなるに従って
文化財を含め管理するための予算は以前に比べて少なくなってくるらしい。
玉造町から行方市になって良くなったこともあるとは思うけれど
ここにも町村合併の弊害が現れているようです。

合理化の名の下に、玉造町域にあった6つの小学校も一つになっちゃったし...............


行方市はどうなっちゃうんだろう..............................?










2015/10/02 Fri. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて..........旧・玉造小学校  (2015年9月21日)(茨城県行方市) 

9月21日  公休日

この日は、茨城県の行方市に出かけました。


鳥名木館跡をあとにして、向かった先は...............行方市立 旧・玉造小学校



玉造小学校の詳しい沿革は不明ですが
平成26年に旧玉造町域にあった6つの小学校が統合して
新たに出来た玉造小学校のHPniよれば

明治7年 玉造村に水戸藩郷校文武場をもって開校。
明治22年  玉造村が玉造町になる
昭和22年  玉造町立玉造小学校と改称する
昭和30年  玉造町が手賀村・立花村・玉川村・現原村と合併し、
       改めて玉造町が発足。
平成17年  麻生町、玉造町、北浦町が合併し行方市が発足。
       行方市立玉造小学校と改称する
平成26年  旧・玉造町域の6つの小学校(玉造、玉造西、手賀、羽生、現原、玉川)が統合し
       新たに玉造小学校として開校する、


小学校の統廃合の際、旧校地を利用して新たな校舎を建設したり
旧校舎をそのまま利用するということも多いのですが
玉造小学校は新たな地に新たな校舎を建てたそうです。



こちらが、平静26年3月まで子供たちが通った旧・玉造小学校の正門。

      20150921旧玉造小学校01



門柱には、まだ校名の看板が掲げられています。

      
20150921旧玉造小学校02


      20150921旧玉造小学校03




校門をくぐれば、ガランとした校庭。

      20150921旧玉造小学校04


      20150921旧玉造小学校05



そして、その校庭に残された遊具類。

      20150921旧玉造小学校06


      20150921旧玉造小学校11


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      20150921旧玉造小学校15


そして、築山

      20150921旧玉造小学校12




こちらが校舎。

      20150921旧玉造小学校07


      20150921旧玉造小学校08



校舎の玄関の庇に掲げられた校章。

      20150921旧玉造小学校20



校舎の前に建つ玉造小学校の校歌の碑。

      20150921旧玉造小学校09

こちらは創立百周年の記念に建てられました。



校庭の隅にひっそりと建つ、創立五十周年の記念碑。

      20150921旧玉造小学校10




もう一つの校門。
駐車場へと続くから通用門として使われていたのでしょう。

      20150921旧玉造小学校16


さすがに、この張り紙を見るとドキッとしますが
もう廃校だから、関係ないでしょう。

      20150921旧玉造小学校17



見渡す限り、体育館が無いから、以前はここに体育館が建っていたのでしょうか?
解体されて駐車場になっているようです。

      20150921旧玉造小学校18



校舎の二階の屋根から滑り台?

      20150921旧玉造小学校19

これも遊具の一生だったのでしょうか?



小学校の敷地内には教材として廃丸ポストが置かれている事が多い。
こちらの玉造小学校にもありました。

      20150921旧玉造小学校21



そして、やっと見つけました!

      20150921旧玉造小学校22


      20150921旧玉造小学校23


やっぱり小学校には、これがなくっちゃ!

雑草に埋もれるかのように、校庭の隅にあった二ノ宮像。

      20150921旧玉造小学校24


学校は新天地に移転したのに
この二ノ宮像は置いていかれちゃったんですね。

      20150921旧玉造小学校25



地域の人がこの二ノ宮像を忘れてしまっても
私と びいすけ だけは忘れないようにしよう。

      20150921旧玉造小学校26


      20150921旧玉造小学校27



新天地に移転してしまった玉造小学校。
6つの小学校が統合して新しい場所に移転しました。
とは言いながら、名前だけ継承して実質は廃校のようなもの。
どうせなら統合後の新小学校は玉造小学校ではなく
別な名前の小学校にした方が良かったのかも...............?






2015/10/01 Thu. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit