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び・び・びのびいすけ

びいすけとお父さんと時々もっちゃん

廃校を訪ねて.............岩山小学校跡   (2015年6月11日)(千葉県山武郡芝山町) 

6月11日  公休日

この日は、芝山町の廃校巡りに出かけました。

昭和50年に廃校となった芝山町の岩山小学校を色々とネットで調べていましたが
結局わからずじまいで、教育委員会の方にお聞きしたら
丁寧に廃校跡地を教えて頂きました。
さすがは教育委員会の職員さん。
と言うか、数多くの町の(市の)教育委員会にお邪魔して
廃校に関する事を聞いたりしましたが、興味のない職員が多い中、
芝山町の教育委員会の職員さんは勉強熱心な印象を受けました。

と言うことで、東小学校をあとにして向かった先は...............

芝山町立岩山小学校跡


岩山小学校は

明治5年        岩山村と朝倉村を学区として岩山小学校設立される。
明治9年        岩山小学校、法橋寺の仮校舎に移転する
明治16年        岩山小学校、岩山村椎木谷1495番地に新校舎建設。
明治22年        千代田村設立により、池田尋常小学校と岩山尋常小学校が合併し
             千代田村立千代田尋常小学校となる。
             なお、岩山尋常小学校は分校となる
明治25年       岩山分校が岩山尋常小学校となる
昭和22年       千代田村立岩山小学校と改称
昭和30年       千代田村と二川村が合併して芝山町誕生。
             芝山町立岩山小学校と改称。
昭和50年       千代田小学校と岩山小学校が統合し、岩山小学校は廃校となる。


と、このような沿革となっています。



この坂の上が岩山小学校跡。

      0150611岩山小学校17


成田空港に近い工業団地の一角に、岩山小学校があった台地が
ぽつんと取り残された感じで更地になっています。

現在は、サテライト成田(場外馬券売り場)の臨時駐車場になっています。

      0150611岩山小学校13



教育委員会の方の話では、『更地になって何もありませんよ』と言う話でしたので
正直、全く期待しておりませんでした。

ところか、視界に入ってきたのは、こちら↓

      0150611岩山小学校05

何と、門柱と『岩山小学校跡』の碑です。


こちらが碑。

      0150611岩山小学校04


裏面には、簡略すぎる沿革。

      0150611岩山小学校07

せっかく立派な石碑を造ったんだから
もうちょっと沿革も刻んでいこうよ!とおもうのは私だけ?(笑)



門柱には、往時のモノと思われる表札。

      0150611岩山小学校03


その門柱は昭和8年に造られたモノのようです。

      0150611岩山小学校08

( 昭和8年って刻まれているけれど見辛いかなぁ? )




岩山小学校の遺構は、この門柱ぐらい。
門柱と石碑の一画以外は、完全な駐車場。

      0150611岩山小学校06


      0150611岩山小学校09


      0150611岩山小学校10




駐車場の片隅には、子安神社。

      0150611岩山小学校12




子安神社からフェンス越しに駐車場を歩けば最奥に2基の石碑。

      0150611岩山小学校16


かなり年代物の石碑。
やはり書体は旧体で読み辛い。

『中川先生之碑』とあるから、岩山小学校の関係者でしょうか?

      0150611岩山小学校14

まあ、政治家でも先生って言われるし、
地元のちょっとした名士なら先生になっちゃうのかな?





こちらは、まったくもって読めない(判読できない)。
岩山小学校関連じゃないのかなぁ?

      0150611岩山小学校15




頭上を大きなジェット音。
成田空港は目と鼻の先。

      20150611岩山小学校01


時間帯にもよるけれど、ちょうど出発便が重なった時間帯なのか?
5分間隔ぐらいで飛行機が頭上を飛び去って行く。

      0150611岩山小学校02


 
成田空港の開港が昭和53年だから、
開港の3年前に廃校になったことになる。    

      0150611岩山小学校11


ひょっとしたら、成田空港が開港するから騒音等の問題で千代田小学校と統合して、
東小学校へ移って行ったのだろうか?

大人のドス黒い思惑の中で、子供たちが踊らされてしまったのだろうか...............?




      








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2015/06/30 Tue. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて.............東小学校 《千代田小学校跡》   (2015年6月11日)(千葉県山武郡芝山町) 

6月11日 公休日

この日は芝山町の廃校を巡っていました。

池田学校跡をあとにして向かった先は........芝山町立東小学校



東山小学校は、
池田小学校、千代田小学校、東小学校と変遷をしています。


明治6年       飯櫃村・池田利左衛門が私財を投じ、池田小学校設立。
明治11年      池田小学校が蓮福寺へ校舎を移転する。
明治20年      池田尋常小学校と大里尋常小学校が合併し池田尋常小学校となる。
            池田尋常小学校、池田栄亮の寄付により新校舎落成
明治22年      千代田村設立により、池田尋常小学校と岩山尋常小学校が合併し、
            千代田村立千代田尋常小学校となる。
            なお、岩山尋常小学校は分校となる。
昭和8年       千代田尋常小学校、稲葉(現東小学校跡地)に校舎移転。
昭和22年       千代田村立千代田小学校と改称する。
昭和30年       千代田村と二川村が合併して芝山町誕生。
             芝山町立千代田小学校と改称する。
昭和50年       千代田小学校と岩山小学校が統合し、岩山小学校は廃校となり
             芝山町立東小学校と改称する。
平成27年       芝山小学校に統合され、廃校となる。


と、このような沿革となっています。





こちらが、東小学校の正門。

      20150611東小学校01



古い石造りの門柱。

      20150611東小学校03

     

年季の入った表札です。

       20150611東小学校02




今年の3月に廃校となった東小学校。
廃校からまだ3ヶ月しか経っていません。


校舎の前に建つ像。

      20150611東小学校04

『健康』
直前に訪れた池田学校で足を痛めてしまったから
やけにその言葉が滲みます(笑)。




こちらは、二ノ宮像。

      20150611東小学校06


やっぱり、廃校にはコレがなくっちゃ!

      20150611東小学校07







こちらは、遊具類。

たった3ヶ月で雑草に埋れかかりそうです。

      20150611東小学校05


      20150611東小学校12


      20150611東小学校13      


      20150611東小学校14


      20150611東小学校15






こちらは校庭。
     
      20150611東小学校08

やはり、校庭も雑草が伸び放題。



校庭から眺める校舎。

      20150611東小学校09


      20150611東小学校11




そして、体育館。

      20150611東小学校10



校舎から体育館への通路脇にあった『大望』と刻まれた碑。

      20150611東小学校16


昭和40年の製作だから、千代田小学校時代の遺構になりますね。

      20150611東小学校17


実は、千代田小学校の事をネットで色々調べていたんだけれど
その沿革が不明で詳細がわかりませんでした。
この春に東小学校が廃校になって、東小学校の沿革がネットに載って
初めて千代田小学校跡に東小学校ができたのを知りました。



先ほどの正門の門柱。
裏側から見てみると..............................

      20150611東小学校18


何と、千代田小学校の表札が残っていました。

      20150611東小学校19

文字はかすれていますが、紛れもなく千代田小学校の文字が確認できます。

      20150611東小学校20


敢えてこの表札を外さなかったのは
千代田小学校関係者のは意地?
それともこだわりだったのでしょうか?




外来用駐車場脇にある百葉箱。

      20150611東小学校21


そして、正門脇には埴輪のオブジェ?

      20150611東小学校23

確かに、芝山町は埴輪の町だから町興しでこう言うモノも必要なんだろうか?


竹下政権時の『ふるさと創生一億円』は、こうやって使われたんですね。

      20150611東小学校24


頭上で大きなジェット音。
見上げれば旅客機。

      20150611東小学校25


成田空港も近い芝山町。
東小学校の子供たちもこの飛行機の音を聞きながら
授業を受けていたのだろうか..............................?



2015/06/29 Mon. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて.............池田学校跡   (2015年6月11日)(千葉県山武郡芝山町) 

6月11日  公休日

この日は芝山町に出かけました

芝山町で、今年の春に新たに2つの小学校が廃校になりました。
芝山町立東小学校、芝山町立菱田小学校)
昭和50年代にも廃校になった小学校も2校あり、
芝山町立千代田小学校、芝山町立岩山小学校)
詳しい場所を確認するために、芝山町の教育委員会を訪れてみました。
色々と話を聞いたら、明治時代の小学校の廃校跡が蓮福寺にあり、
校舎はないけれど、学校創立者の頌徳碑が建っている事を教えて頂き、
まずは、そちらの学校跡から訪ねてみる事にしました。

訪れたのは...............池田学校跡



池田学校は


明治6年    飯櫃村・池田利左衛門が私財を投じ、池田小学校設立。
明治11年   池田小学校、蓮福寺へ校舎を移転。
明治20年   池田尋常小学校と大里尋常小学校が 合併。
         名称は池田尋常小学校となる。
         池田尋常小学校、池田栄亮の寄付によ り新校舎落成
明治22年   千代田村設立により、池田尋常小学校 と岩山尋常小学校が合併し、
         千代田村立千代田尋常小学校となる。
          なお、岩山尋常小学校は分校となる。
昭和8年    千代田尋常小学校、稲葉(現東小学校 跡地)に校舎移転する。


と、このような沿革を経て後の千代田小学校、東小学校へと変遷していきます。



こちらが、蓮福寺。

      20150611池田学校11


      20150611池田学校12


確かに色々な小学校の沿革を調べていると
江戸時代の寺子屋の名残りだろうか?
明治初期に創立された学校はお寺や神社の一角に創立されたものが多い。

境内の何処かに頌徳碑があるものと信じこみ、
ひたすら境内を探し捲りますが見つかりません。
境内をぐるぐる回っていると、やがて住職の奧さんらしき人が現れたので
お話をさせて頂き、学校跡地を教えてもらいました。


山門脇の杉木立の林。
こちらが、池田学校跡となります。

     20150611池田学校01



林の奥を目を凝らして注視すると、
大きな石碑が2基並んで建っているのが確認出来ます。

      20150611池田学校02



しかし、石碑までは雑草が生い茂り、滅多に人も訪れないから道もありません。

      20150611池田学校04



石碑まで鎌で草を刈って道を作ろうか?と奧さんは言ってくれましたが
さすがに申し訳ないので、丁重にお断りをして
雑草の中を進んで行きます。


苦労して辿りついた頌徳碑。

      20150611池田学校03


明治時代に建てられた石碑だから、書体も古くて読み辛い。

      20150611池田学校05

正直言って、何て書いてあるかもいまいち理解出来ていません。


しかしながら、教育委員会の方から聞いていたのは
私財を投げ打って学校を創立した池田先生(?)を称えて、
地元の人が建てた碑らしい。

明治6年創立時の池田利左衛門氏の頌徳碑と
明治20年の校舎新築時の池田栄亮氏の頌徳碑になるのでしょう。

      20150611池田学校06


      20150611池田学校07



      20150611池田学校08


今は、2基の碑が建ち並ぶ何もない林の中ですが
紛れもなく、この地に明治6年から昭和8年までの60年間
学校があった場所になります。

      20150611池田学校09


さぁ、報徳碑の写真も撮ったし
これと言った学校遺構もないから引き上げましょう。

      20150611池田学校10




急ぎ足で雑草の海原(?)を抜けようと思ったら
雑草に隠れていた大きな石(石碑の台座の一部?)に足をぶつけ激痛。
思わず涙が出ました。

実は、自宅に帰ったら凄い事になっていましたが
それはまた何かの折にでも触れましょう。



痛い右足を引きずりながら、住職さんの奧さんにお礼の声を掛けます。

近くに飯櫃城址もあるし、山門脇にはこんな土塁があるから
ひょっとして、ここ(蓮福寺)も何かの城跡かと思い、聞いてみました。

      20150611池田学校13


      

この蓮福寺は元々、多古にあったお寺らしい。
その昔、飯櫃城の山室氏と多古の牛尾氏との合戦があり、山室氏が勝ったことから
多古から飯櫃へ蓮福寺を移したそうです。
山室氏は北条方についたため秀吉の関東制圧の際に、
後の信州高遠城主保科弾正に激戦の末敗れ飯櫃城は落城してしまいます。
その際に蓮福寺も諸堂伽藍ことごとく焼失することとなります。
その時の住職が勇猛果敢な僧で、大長刀を手に敵に向かい、
伽藍が燃えさかる中、山室氏の正室のお藤の方と嫡男で梅千代丸山室勝延を
隣村の稲葉の西光院に逃がしたと言うことです。

いゃあ、池田学校もさることながら
この蓮福寺の歩んできた歴史も凄いものがらあるなぁ..............................。


その蓮福寺から発祥した池田学校も千代田小学校、そして東小学校へと変遷して行きます。
東小学校については、また明日にでも..............................。







2015/06/28 Sun. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

花菖蒲@佐倉城址公園  (2015年6月10日) 

6月10日 公休日

6月13日(土)・14日(日) の両日が今年の『佐倉城下町 菖蒲まつり』ですが
あいにく、両日とも仕事のため、ちょっぴり早いかな?と思いながらも
佐倉城址公園の花菖蒲を見に行ってきました。

      20150610佐倉城址公園11

この看板の先が菖蒲園。

例年6月上旬~中旬が見ごろの城址公園の花菖蒲。
紫・黄・白など色とりどりの花菖蒲約9,000株が美しく咲き誇るそうです。


散策路越しに、菖蒲の花が綺麗に咲いているのが分かります。

      20150610佐倉城址公園10




しばし、菖蒲園の菖蒲の鑑賞いたしましょう。

      20150610佐倉城址公園04


      20150610佐倉城址公園03


      20150610佐倉城址公園05


      20150610佐倉城址公園06


      20150610佐倉城址公園07




せっかくだから、菖蒲の花をバックに びいすけ を撮りまくりましょう。

      20150610佐倉城址公園01


      20150610佐倉城址公園02


      20150610佐倉城址公園08


      20150610佐倉城址公園09


      20150610佐倉城址公園12


      20150610佐倉城址公園13


      20150610佐倉城址公園14


      20150610佐倉城址公園15


      20150610佐倉城址公園16


      20150610佐倉城址公園17


      20150610佐倉城址公園18



菖蒲園から城址公園の中へと向かいます。

姥ヶ池へ向かいながら、今一度菖蒲園を振り返ってみます。

      20150610佐倉城址公園19





姥ヶ池はほぼ一面スイレンに覆われています。

      20150610佐倉城址公園20


この日城址公園に訪れたのは夕方。
朝の早い時間なら、スイレンの白い花を見ることが出来るようです。

      20150610佐倉城址公園21



佐倉城は土の城。
石垣は全くなく、空堀と土塁で防御していました。
そのため、土塁は立派です。

      20150610佐倉城址公園22



この先は三郭(三の丸)。

      20150610佐倉城址公園23



三の丸にて。

      20150610佐倉城址公園24


      20150610佐倉城址公園25


      20150610佐倉城址公園26



三の丸の土橋。

      20150610佐倉城址公園27



土橋の上から見る三の丸の空堀。

      20150610佐倉城址公園28

この時期の三の丸の空堀の緑の絨毯が
この佐倉城趾で一番好きな場所。


いつ来ても、佐倉城趾公園はやっぱりいいなぁ...............。





2015/06/27 Sat. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

虚空蔵陣場跡  (2015年6月5日)(千葉県富津市) 

6月5日 公休日

この日は、富津市に出かけました。


小久保陣屋跡をあとにして、向かった先は...............虚空蔵陣場跡


虚空蔵陣場は
永禄10(1567)年の三舟山合戦で、三舟山に陣取った北条軍に対して、
里見義弘が陣を置いたのが、ここ虚空蔵山であったと言われています。
虚空蔵山は三舟山のすぐ南側に向かい合っていて、
泉汲寺のすぐ南側にそびえている山稜です。
その虚空蔵山に陣を置き、里見軍は障子谷の泥田地帯に北条軍をおびき寄せます。
地勢をわきまえた里見軍の攻撃に遭って北条軍は敗退します。
これによって里見氏は劣勢を回避し、再び上総での覇権を回復することができました。



こちらが虚空蔵陣場跡の縄張り図

      虚空蔵陣場縄張り図

          (  
余胡くんのお城のページ  よりお借りいたしました )




虚空蔵山の麓にある泉汲寺

      20150605虚空蔵陣場跡01


      20150605虚空蔵陣場跡02


泉汲寺の奥から虚空蔵山に上がって行く道があるものと思い
境内奥へと向かいますが、厳しい斜面に遮られます。

      20150605虚空蔵陣場跡03



仕方がないので、泉汲寺から反時計回りに虚空蔵山の麓を移動し
登城口(登城路)を探します。

      20150605虚空蔵陣場跡04

右手の民家の裏あたりから、山へ上って行けそうですが
庭先で飼っている犬に激しく吠えられ、やむなく諦めます。

びいすけ を連れているから、なおさら犬は吠えますね(笑)。


さらに先へと進みますが、畑となり鉄線が張られその先へは行けません。

この山の上が陣場跡なんだけど
行く手を阻まれてしまっています。

      20150605虚空蔵陣場跡05

仕方ないので、南側からの登城は諦めます。

      20150605虚空蔵陣場跡06



再び泉汲寺に戻り、登城路を探しますが見つかりません。

この台地の上が陣場跡なんですけどねぇ。

      20150605虚空蔵陣場跡07



結局、登城路は見つからず、虚空蔵陣場跡の要な部分には行くことが出来ず
時刻も15時を回ったので、やむなく撤収することに...............。

虚空蔵陣場跡の遠景。

      20150605虚空蔵陣場跡08

右端に見えるのが泉汲寺。



北条氏政率いる北条軍を敗北せしめた里見軍の陣跡。
遺構らしきものはあまり無いとのことですが
北条ファンとしては、敵ながら北条軍を破った里見軍に敬意を表して
その陣跡を見ておきたかったのだか、残念です。

三船山の合戦では、八幡山にも里見軍は陣を張ったと言われているので
機会があれば、そちらの陣場跡も見に行ってみたいものです。


2015/06/26 Fri. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

小久保陣屋跡  (2015年6月5日)(千葉県富津市) 

6月5日 公休日

この日は、富津市に出かけました。


飯野陣屋跡をあとにして、向かった先は...............小久保陣屋跡



小久保陣屋は
明治維新期の短期間、上総国に存在した小久保藩の藩庁です。
1868年に遠江相良藩の田沼家が移封され、小久保藩(1万石)を立藩しました。
1871年の廃藩置県まで存続しました。

小久保陣屋は、富津市中央公民館敷地一帯に築かれていました。 
この辺りは、少し高台になった地形で、公民館駐車場内には弁天山古墳があり、
この古墳を取り囲むように陣屋が築かれていました。

古墳上部への登り口脇に古墳の案内板と陣屋の石碑が立てられいます。 
また、藩庁の屋敷にあった庭園の一部が駐車場南側にあり、
その案内板が立てられています。



こちらが小久保陣屋跡の縄張り図

      小久保陣屋縄張り図

          ( 余胡くんのお城のページ  よりお借りいたしました )



まずは、お目当の『小久保陣屋跡』の碑。

      20150605小久保陣屋跡01


      20150605小久保陣屋跡02


碑の裏面には小久保陣屋について書かれています。

      20150605小久保陣屋跡04




そして、小久保藩邸と藩校についての説明看板。

      20150605小久保陣屋跡03



石碑の前は中央公民館と市役所支所の駐車場。

      20150605小久保陣屋跡05

なぜか、この日は駐車場が満車。
地元の人も車が停められず、驚いていました。
何か、特別な行事でもあったのでしょうか?



そして、こちら弁天山古墳。

      20150605小久保陣屋跡06


まるで土塁のような古墳。
古墳の一部が城塁を兼ねていたようです。

      20150605小久保陣屋跡07


弁天山古墳の碑。

      20150605小久保陣屋跡08



せっかくだから、古墳の上に上がってみましょう。

      20150605小久保陣屋跡09



古墳頂部にて

      20150605小久保陣屋跡11


      20150605小久保陣屋跡12


古墳と言うよりは土塁に見えてしまうのは
城郭ファンだからかな?

      20150605小久保陣屋跡13



駐車場の先には、東京湾が見えたりする。

      20150605小久保陣屋跡10



陣屋跡地に建つ中央公民館。

実は、この地には小久保藩の藩校も建っており
それが後々の大貫小学校へと変遷していきます。

すなわち、大貫小学校発祥の地と言うことです。

      20150605小久保陣屋跡14


      20150605小久保陣屋跡15



現在の中央公民館。

      20150605小久保陣屋跡16

おそらく、小久保藩の藩校も大貫小学校も
こんな感じで建っていたのだろうか?




駐車場の南側には、小久保藩庁と藩主邸があったようです。

      20150605小久保陣屋跡17


こちらが、その縄張り図。

      20150605小久保陣屋跡18


      20150605小久保陣屋跡19



古びた井戸も残っています。

      20150605小久保陣屋跡20



この辺りに藩主邸があったようです。

      20150605小久保陣屋跡21



なぜか、藩主邸のエリアまで車が停められています。

      20150605小久保陣屋跡22



動乱の幕末を経て、明治維新へと新しい時代を迎え
あらたに立藩した小久保藩と小久保陣屋。

たった3年と言う短い期間だったようですが
しっかりとその跡をこの地に残しているようです。



2015/06/25 Thu. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて........番外編   飯野中学校跡   (2015年6月5日)(千葉県富津市) 

6月5日 公休日

この日は、富津市に出かけました。

飯野陣屋跡を捜している時に偶然にも、ある石碑を見つけました。
石碑には、『飯野中学校跡』と刻まれています。

基本的には、小学校の廃校廃校跡地を巡るのが好きですが、
偶然見つけた廃校跡地(?)。
これも何かの縁でしょう。

と、言うわけで番外編にはなりますが.............
偶然見つけたのは、旧・飯野村立 飯野中学校




飯野中学校は
昭和23年 新学制6・3制実施に伴い飯野村立飯野中学校として開校する。
昭和30年 飯野村が富津町、青堀町と合併し、改めて富津町を新設。同日飯野村廃止。
富津町立飯野学校と改称する。
昭和42年 富津中学校に統合して廃校となる。

ざっと、このような沿革のようです。



目に入った石碑がこちら。

      20150605飯野中学校跡01

最初は飯野陣屋関連の石碑かと思っていたら、思い切り違ってました。



廃校時には、富津町立飯野中学校でしたが、
敢えて、『飯野村立飯野中学校跡』としたところに
旧・飯野村の地元の心意気を感じます。

      20150605飯野中学校跡02



こちらは、『飯野中学校記念誌発行記念』の碑。

      20150605飯野中学校跡03


似たような石材が2基でセットなっていると言うことは
ひょっとしたら、飯野中学校の門柱を記念碑にしているのだろうか?

      20150605飯野中学校跡04



これらは、昭和25年度の卒業生によって寄贈されたモノらしい。

      20150605飯野中学校跡06




石碑の背後に建つのは、公民館。

      20150605飯野中学校跡08


山王公民館原分館 と看板がありますが
果たして、現在も公民館として使われているのだろうか?

      20150605飯野中学校跡07




元々は、飯野陣屋の二郭(二の丸)に建てられた飯野中学校。
廃校からすでに48年の月日が流れ、校舎も無くなっています。

      20150605飯野中学校跡05



だだっ広い空き地状態。

      20150605飯野中学校跡09




これなら、飯野陣屋の二の丸跡と言う雰囲気は感じ取れます。

      20150605飯野中学校跡10


小学校と違い、中学校には遊具など最初からなく
学校遺構などと言うモノは皆無に等しい。
先ほどの碑がなければ、とても廃校跡地には見えない。


これらの木々が学校跡地を彷彿させてくれるのか?

      20150605飯野中学校跡11


      20150605飯野中学校跡16


先ほどの碑から10mほど離れた位置にあるコンクリートの残骸。
ひょっとしたら、かつての校門跡?
それとも何かの礎石跡だろうか?

      20150605飯野中学校跡15




逆に、城郭遺構として残っている堀

      20150605飯野中学校跡13


      20150605飯野中学校跡14



そして、二の丸の虎口や土橋が飯野陣屋を彷彿させてくれます。

      20150605飯野中学校跡12



 
中世や近世の城郭が廃城後、明治の学令以降に学校に改変した事例は数多くあり、
その学校が廃校になったという事例も多い。
この飯野中学校跡地もそんな歴史歩んできたようです..............................。




    




2015/06/24 Wed. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

飯野陣屋跡    (2015年6月5日)(千葉県富津市) 

6月5日 公休日

この日は、富津市に出かけました。

富津陣屋跡をあとにして、向かった先は...............飯野陣屋跡



飯野陣屋は、若狭敦賀陣屋・周防徳山陣屋と共に日本三大陣屋の一つに数えられ、
江戸時代の姿が完存している貴重な史跡でもあります。

基本的には横長の長方形で三条塚古墳を陣屋内に取り込み、
一部古墳の周濠を陣屋の濠として利用しています。 
陣屋を囲繞する濠と土塁が完存していて、北東隅辺りには折れの遺構が見られる。
虎口は、3ヶ所に開かれていいて、東側に開かれた大手口には内枡形の遺構も残っている。

かつては陣屋内には、「本丸」・「二の丸」・「三の丸」と土塁によって区分され、
まるで城そのもののようでした。 
西側の周濠の外側に「外邸」があり、その外側を狭いが濠が囲んでいたそうです。

そもそも飯野陣屋は、慶安2年に保科正貞によって築かれました。 
正貞は、高遠城主保科正直の三男(後に会津若松城主となる保科正之は兄正光の養子)です。
大坂定番となり加増されて17000石を領して大名に列しました。
正貞没後、2代正景が弟正英に2千石分与して15000石となりますが、
延宝5年に正景が大坂定番となり5千石加増され、以後8代続いて正益の時に明治を迎えました。

明治4年、廃藩置県によって飯野藩は消滅し、飯野県が成立します。
飯野陣屋は飯野県県庁となり陣屋は廃されました。




こちらが、飯野陣屋の縄張り図。

      飯野陣屋縄張り図

          ( 余胡くんのお城のページ よりお借りしました )



縄張り図を見ても分かるように、陣屋としてはその敷地はかなり広い。


実は郭内の入口が分からず、結果的には内邸を囲む外濠を
ほぼ一周する羽目になったのですが、車でぐるっと廻ってもかなりの距離があります。


こちらは、比較的新しく建てられた説明板。

      20150605飯野陣屋跡01



本丸西側の堀沿いに建てられています。

      20150605飯野陣屋跡02


こちらが、本丸西側の堀。

      20150605飯野陣屋跡03

流れが淀んでいるのか濁っていて、お世辞でも綺麗とは言えません。

      20150605飯野陣屋跡04



先ほどの説明板には、縄張り図も載っています。

      20150605飯野陣屋跡05




こちらが、大手口。

      20150605飯野陣屋跡18

大手口には、石碑が建ち並んでいます。


説明看板と飯野陣屋跡の石碑。

      20150605飯野陣屋跡16

説明看板の背後にある石碑は、飯野神社の石碑。



こちらが、『飯野陣屋跡』の碑。

      20150605飯野陣屋跡17
     


堀も健在。

      20150605飯野陣屋跡19





主郭跡(本丸跡)は宅地化されて、その名残りを探すのが難しい。

まるで普段の散歩のように闊歩する びいすけ 。

      20150605飯野陣屋跡14


      20150605飯野陣屋跡15



二郭(二の丸)は、現在は何もない空き地。
実は最初に、二の丸に車を乗り入れ、目に入った石碑を見たら
飯野陣屋の石碑ではなくて、学校跡地の石碑でした。
こちらの廃校については、明日にでもこのブログで触れることにいたしましょう。



三郭(三の丸)の一角は、飯野神社。

      20150605飯野陣屋跡06


こちらの境内にも飯野陣屋についての説明看板があります。

      20150605飯野陣屋跡07

こちらは、地元の飯野地区の有志によって建てられたようです。



由緒ある飯野神社。

その拝殿。

      20150605飯野陣屋跡08



そして、本殿。

      20150605飯野陣屋跡09


飯野神社の奥にある三条塚古墳の説明看板。

      20150605飯野陣屋跡10


三条塚古墳そのものは、6世紀末に造られたと推定される墳丘長122メートルの前方後円墳。

飯野陣屋があった時代には、物見台として活用されていたようです。

      20150605飯野陣屋跡11



そして、三条塚古墳前の平場(削平地)は、かつての飯野藩の藩校があったらしい。

      20150605飯野陣屋跡12



この辺りが藩校跡らしいが、これと言った案内板や石碑はないようです。

     20150605飯野陣屋跡13


日本3大陣屋跡と言うことで、かなり期待をしていましたが
正直名前負け、前触れに負けた!って言う感じです。
この『日本3大』って言ったのが微妙な表現で、
今回は面積(敷地)が3大と言うことだろう。

大きさ(外観)よりも中身(質)で3大と言う表現を用いて欲しいなぁと感じるのは、
はたして、私だけなんだろうか..............................?







    


     






2015/06/23 Tue. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて...........番外編   富津中学校跡     (2015年6月5日)(千葉県富津市) 

6月5日 公休日

この日は、富津市に出かけました。

富津陣屋跡を捜している時に偶然にも、ある石碑を見つけました。

      20150605富津中学校跡01

石碑には、『富津中学校跡』と刻まれています。

基本的には、小学校の廃校や廃校跡地を巡るのが好きですが、
偶然見つけた廃校跡地(?)。
これも何かの縁でしょう。

と、言うわけで番外編にはなりますが.............
偶然見つけたのは、富津市立 旧・富津中学校跡



富津中学校は、

昭和23年 新学制6・3制実施に伴い飯野村立飯野中学校、
青堀町立青堀中学校、富津町立富津中学校として
三校それぞれ開校する。
昭和26年   富津射城旧兵舎跡に新校舎を建立。   
昭和30年 町村合併により富津町立飯野中学校、富津町立青堀中学校、
富津町立富津中学校と改称する。
昭和42年 三校を統合して富津町立富津中学校として開校する。
昭和45年   新校舎建設のため移転する。
昭和46年 三町(天羽、大佐和、富津)合併し、市制施行により富津市立富津中学校と改称する。

そして現在に至るという沿革になっています
(富津中学校は廃校ではありません)




すなわち、偶然見つけたこの地が
昭和26年から45年までの19年間、富津中学校があった場所になります。


学校跡地の碑の脇にあるのは、往時の校門でしょうか?

      20150605富津中学校跡02



往時のモノかは分かりませんが、校門前にて。

      20150605富津中学校跡03



学校跡地の碑の裏面には、富津中学校の校歌が刻まれています。

      20150605富津中学校跡14


      20150605富津中学校跡15



校門をくぐり、敷地内に入ってみます。

      20150605富津中学校跡04



昭和45年に校地が移転して、すでに45年の月日が流れ、
更地と言うか、空き地と言うか、広場になっています。

      20150605富津中学校跡06



さらに奥にはグランド(野球場)があるようです。

      20150605富津中学校跡05


    
ロングリードを装着しているから、この広場を走り回るかな?って、思っていたけれど 
どうやら びいすけ には、走り回る気は無いみたいです。 

      20150605富津中学校跡07


カメラの前でポーズ。

      20150605富津中学校跡08


モデル(?)に専念です(笑)。

      20150605富津中学校跡09


      20150605富津中学校跡10



さらに奥に進めば、こんな残骸も...............。

富津中学校の校舎か何かの一部だったのでしょうか?

      20150605富津中学校跡11



グランドのフェンスには、こんな看板が掲げられています。

      20150605富津中学校跡12

海に近い、漁業の盛んな町なんだなぁと実感します。



最近、ある程度の広さのある遊休地でよく見かける太陽光発電。
ここにも多くのソーラーパネルが並んでいました。

      20150605富津中学校跡13


昭和45年に中学校が移転した後、具体的に有効利用されずに月日だけが流れて行った...............
そんな感じの旧・富津中学校跡でした..............................。







2015/06/22 Mon. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

富津陣屋跡  (2015年6月5日)(千葉県富津市) 

6月5日 公休日

この日は、富津市に出かけました。

富津台場跡をあとにして、向かった先は...............富津陣屋跡



富津陣屋は、
文化7年(1810)白河藩主松平定信が幕府から江戸湾の防備を命じられると
文政5年(1822)館山の波佐間から陣屋が移され、新たに富津陣屋ができました。
以後富津村の領主は幕府代官、武蔵忍藩、陸奥会津藩、筑後柳河藩、
陸奥二本松藩、上野前橋藩、と引き継がれ領内の行政や
海防の拠点として使用されてきました。

幕末の慶応4(1868)年、前橋藩は上野へ領地替えとなり、
富津陣屋は飯野藩領となり富津陣屋は廃されました。




富津陣屋跡は、市街地の仲区公民館辺りだと聞いていたので
まずは、その公民館から探します。

車のナビでは、公民館が出てこないので中学校跡地に車を停めて
周辺を探します。

地元のご老人に道を尋ねると、この辺りらしい。

      20150605富津陣屋跡01


どうやら、奥の鉄筋の建物が公民館らしい。

      20150605富津陣屋跡16


こちらが公民館。

      20150605富津陣屋跡04

てっきり、公民館の敷地内に石碑とか説明板があるのかな?って思っていたら
何もない!。
と、言うよりも公民館の周りは完全な住宅地。
陣屋跡とは思えない。


確か、富津陣屋跡の石碑があるとのことなので
周辺を探索してみます。


確かに、それらしい雰囲気のある場所もある

土塁の一部か?

      20150605富津陣屋跡02

すぐ近くにも土塁の跡?のような土盛り。

      20150605富津陣屋跡03


      20150605富津陣屋跡05

でも、探している石碑はありません。


ロングリードの びいすけ を先に行かせ、視線は石碑探し。

      20150605富津陣屋跡14

画面右側の茂みが怪しい?


こちらが、その茂み。

      20150605富津陣屋跡13



茂みの奥に何かがあるようです。

      20150605富津陣屋跡12



説明看板と石碑があるようです。

      20150605富津陣屋跡11


探していた『富津陣屋跡』の碑と説明看板です。

      20150605富津陣屋跡07   



こちらが、説明看板。

      20150605富津陣屋跡06


石碑は3基。

まずは、『富津陣屋跡』の碑。

      20150605富津陣屋跡08



こちらは、『白井宣左衛門の自刃の地』の碑。

      20150605富津陣屋跡09


そして、こちらは『小河原多官自刃の地』の碑。

      20150605富津陣屋跡10



幕末の慶応4(1868)年、旧幕勢力の請西藩主林忠宗らが
前橋藩の富津陣屋を包囲しました。
前橋藩は旧幕勢に陣屋を明け渡し、兵士、武器、食料を与えてしまいました。
しかし、前橋藩廃の藩を免れるためにその責任を負って、
家老小河原多官、陣屋総括者白井宣左衛門は陣屋にて自刃いたします。
その両名の碑がしっかりと建っていました。



石碑の建っている場所の近くの用水。
往時の堀跡なのでしょうかか?

      20150605富津陣屋跡15


幕末の東京湾警備のために重要な位置づけであった富津陣屋。
その陣屋跡は、周辺が住宅地に変わってしまい、地元の方々が建立した石碑も
今では茂みの中に埋もれてしまっている。
民地なのか?公有地なのかは判りませんが
もうちょっと富津市にも保存に力を入れて欲しいところですが
以前には無かった説明看板が建てられているだけでも
良しとしなければいけないのかなぁ..................?




     



2015/06/21 Sun. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit