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び・び・びのびいすけ

ぼく と 父さん と時々 もっちゃん

廃校を訪ねて............南小学校高原分校 (2014年11月25日)(静岡県伊豆の国市) 

11月25日 公休日

11月25日、26日と個人的な連休を利用して伊豆に旅行に行きました。
今回は伊豆の国市を中心に色々と巡ってみました。


守山城址をあとにして、向かった先は.............

   旧・韮山町立 南小学校高原分校



高原分校は

昭和23年 韮山小学校高原分教場として設立。
昭和24年 韮山小学校高原分校と改称。
昭和37年 町制施行により、静岡県田方郡韮山町立韮山小学校高原分校と改称
昭和58年 共和分校が韮山小学校より分離独立して韮山町立南小学校となり
高原分校は韮山町立南小学校高原分校と改称する。
平成17年 本校に統合されて廃校となる。


と、このような沿革となっています。


高原分校は、韮山の韮山反射炉のさらに奥。
山方面に向けて車を走らすこと15分。
うっそうとした森の中を抜け、少し高台の場所から横道にそれると、
そこにひっそりと建てられています。

さっきまで、ポツリ、ポツリと降っていた雨も
降っているんだか?止んでいるんだか?
どうもはっきりしない中、高原分校近くに辿り着きました。


県道沿いに建つ、分校の案内板。
錆びてしまって、文字の確認もままなりません。

      20141125高原分校20



同じく、案内板。
こちらは手作り。
いかにもって感じがアリアリです。

      20141125高原分校21



いずれの案内板も坂の先を行けと言っているようです。
この坂を下って行けば、分校のようです。

      20141125高原分校22



こちらが、高原分校。

      20141125高原分校01


      20141125高原分校02



校舎の壁に掲げられた、韮山南小学校の校章。

      20141125高原分校19



平屋建てですが、鉄筋コンクリートの校舎。

      20141125高原分校03


      20141125高原分校06



時計は既に止まっています。
廃校と同時に時の流れが止まってしまったようです。

      20141125高原分校05



校庭から逆アングルの校舎。

      20141125高原分校07


      20141125高原分校09



校庭の隅には、シンボルツリーとも言える銀杏寝過ぎて樹。

      20141125高原分校08

見事に色付いています。




校庭に残された遊具。

      20141125高原分校10


      20141125高原分校11


      20141125高原分校12




こちらは、校舎前のゲタ箱。

      20141125高原分校13



廃校の碑かと思ったら違っていた。
江川先生への感謝の文面が綴られた石碑でした。

      20141125高原分校14




こちらは、体育館。
校舎や校庭より1段高い台地の上に建ってます。

      20141125高原分校04


      20141125高原分校15


体育館内部。
まだまだ十分に使えます。

      20141125高原分校18



体育館の前にあった百葉箱。

      20141125高原分校16



体育館の台地から眺めた校舎。

      20141125高原分校17



旧・韮山町の山奥にあった分校。
廃校時の平成17年には生徒数5名だったらしい。

廃校記念碑もなく、二ノ宮像も残っていなくて残念です。












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2014/12/17 Wed. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

守山城址 (2014年11月25日)(静岡県伊豆の国市) 

11月25日 公休日

11月25日、26日と個人的な連休を利用して伊豆に旅行に行きました。
今回は伊豆の国市を中心に色々と巡ってみました。


北条氏館跡をあとにして、向かった先は.............守山城址


守山城は

室町時代、将軍足利義政の実弟・政知(堀越公方)が築城したと思われ、
山麓にある堀越御所の詰め城と思われる。
延徳3年(1491)、政知病没後に跡を継いだ茶々丸は、
継母、義弟、重臣らを殺害し混乱状態となった。
そこで、興国寺城の北条早雲が伊豆侵攻を企て、堀越御所を攻めた。
その際、茶々丸は守山城に籠ったが、山麓の願成就院で自刃したといわれる。

その後、早雲を初代とする小田原北条氏は韮山城を伊豆支配の拠点とし、
この守山城も韮山城の支城として利用されたものと思われる。

天正十八年(1590)、豊臣秀吉は小田原の北条攻めに乗り出します。
韮山城には四万四千の大軍が押し寄せた。
豊臣勢は上山田陣城などの付城群を構築して韮山城を完全に包囲したが、
この際に守山城は豊臣勢によって利用されたようです。

山頂の主郭を中心に、北・東・西の三方に伸びた痩せ尾根に小さな郭群を設け
北条氏館跡がある西麓には広い郭が設けられています。


堀越御所跡、北条氏館跡の背後にある守山が城址です。




北条氏館跡に隣接する守山西公園から登城となります。

      20141125守山城址01



守山自然公園遊歩道が登城路となります。

      20141125守山城址02



遊歩道を歩き始めてしばらくすると、西麓の西郭。

      20141125守山城址03


思った以上に広い郭。

おそらく、秀吉の北条攻めの際、韮山城を攻略する際に
この守山城を利用し、広い郭を設け兵糧などを蓄えたのでしょう。

      20141125守山城址04


      20141125守山城址05


      20141125守山城址06





西の郭から主郭を目指して進みます。

目の前に現れたのは、長い階段。

      20141125守山城址07



息を切らしながら上って行きます。

      20141125守山城址08



上り切ったと思ったら、再び上り。

      20141125守山城址09


      20141125守山城址10



さらに上りは続きます。

この遊歩道は後に作られたもののようだから
上りの際にも遺構らしきものには巡り会わない。

      20141125守山城址11



長い階段を上り切った先が尾根。
そして主郭。

主郭は意外に狭い。

      20141125守山城址19




尾根の先端に建つ展望台。

      20141125守山城址12



眼下には狩野川の流れ。

      20141125守山城址13



東方向には韮山城。

      20141125守山城址14



生憎の天候で視界はイマイチ。
雨雲がなく、晴れていれば韮山城もバッチリ見えるはず。

      20141125守山城址15



頑張って展望台まで(主郭まで)上ってきたご褒美をあげましょう。

      20141125守山城址16


      20141125守山城址17


      20141125守山城址18




展望台で休憩したあとは、尾根伝いに東側に移動。


この橋の下は堀切。

きっと往時も、こんな感じで堀切に木橋を掛けていたんでしょう。

      20141125守山城址20



東の尾根伝いに下って行くと、こんな道があったりします。
岩を削って作った道。
まぎれもなく、往時のモノでしょう。

      20141125守山城址21


公園として整備し、遊歩道を設けた時に作られた階段。
その階段の脇に先程の岩を削った道があります。

      20141125守山城址22


そのまま下って行けば、守山の麓の子神社の脇に出ます。

本当は守山八幡宮に下って行きたかったのですが
どうやら下る道を間違えてしまったようです。

下り切った道を上って下り直す元気もありません。

駐車場は守山を挟んだ反対側。
ぐるっと守山の麓を歩いて駐車場に向かいます。


たまたま通りかかった真珠院。

何やら案内板があるのでよんでみると............

伊東の八重姫について書かれています。

      20141125守山城址23


八重姫(やえひめ、生没年未詳)は、平安時代末期の女性で、
伊豆国伊東(現・静岡県伊東市)の豪族・伊東祐親の三女。
源頼朝の最初の妻とされています。
頼朝の初子・千鶴御前(千鶴丸)の母。

『曽我物語』によれば、14歳で伊豆国へ流罪となり、
在地豪族の伊東祐親の監視下で日々を送っていた頼朝は、
祐親が大番役で上洛している間に祐親の三女・八重姫と通じ、
やがて男子を一人もうけて千鶴御前と名付けた。
千鶴御前が3歳になった時、大番役を終えて京から戻った祐親は激怒し、
「親の知らない婿があろうか。今の世に源氏の流人を婿に取るくらいなら、
娘を非人乞食に取らせる方がましだ。平家の咎めを受けたらなんとするのか」
と平家への聞こえを恐れ、家人に命じて千鶴を轟ヶ淵に柴漬にして殺害し、
娘を取り返して同国の住人・江間の小四郎に嫁がせた。
さらに頼朝を討つべく郎党を差し向けたが、
頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた祐親の次男・祐清が
頼朝に身の危険を知らせ、頼朝は祐清の烏帽子親である北条時政の邸に逃れたという。
時政の下で暮らすようになった頼朝は、やがて時政の長女・政子と結ばれることになる。
その後の八重姫については、入水自殺したとも、北条氏や千葉氏と縁を結んだなど、
様々に伝えられる。

(Wikipediaより引用)


頼朝が恋しい八重姫が伊東から山を越え、蛭ケ小島に来てみると
頼朝は政子と夫婦となっていたことを知り、狩野川に入水して命を絶ったと言う。
その入水の地が、真珠院らしい。

ここにも頼朝に関わる伝説(?)があるんですね。

守山地区の中世の史跡、伝承は見応えがある。
やっぱり旧・韮山町は歴史の深い町なんだなぁ..................。




2014/12/17 Wed. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit