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び・び・びのびいすけ

ぼく と 父さん と時々 もっちゃん

廃校を訪ねて...............岡田小学校女化分校                           (2014年3月19日)(茨城県牛久市) 

3月19日  公休日

この日は茨城県の牛久市に出掛けてきました。

牛久市には廃校となった小学校が5校あるそうです。


その中の1校、廃校当時の木造校舎を残す分校跡を訪れてみました。



訪れたのは 旧・牛久町立岡田小学校女化分校


女化分校は、

明治26年   私学校として女化尋常小 学校が創立し、
        一時廃校になりましたが、再び設置 され、
明治40年   村立の学校となり、
明治42年   岡田第四尋常小 学校と改称しました。
昭和13年   岡田第一から第四尋常小学校が統合して 岡田尋常小学校となり、
         女化分校が開校しました。、
昭和14年   新校舎(現在の建物)が完成。
昭和16年   岡田国民学校、
昭和22年   岡田村立岡田小学校に改称し、
         この年から4年生までは女化分校で学び、
         5・6年生は本校へ通うことになり ました。
昭和29年   町村合併で牛久町立岡田小学校女化分校と改称され、
昭和47年   本校の岡田小学校に統合され閉校となりました。

と沿革はざっとこんな感じですが、
この沿革だけでは語れない物語もあります。



明治の初め、この女化の地に徳島から47名の開拓者が入りました。
元々作物が育たない不毛の地というところへやってきた開拓者たちが
この地を開拓していったのです。

開拓の中心人物が杉本民蔵という人物でした。
当時、この女化の地には学校がなく、
国の尋常小学校まで4kmほど離れていたそうです。
読み書きのできる学校を立てたいと、
明治24年(1891)に「化成学館」という学校を建てました。
校長1名、先生1名の小さな学校で、近所の子供たちに読み書きソロバンを教えました。
しかしキリスト教の教えを説いていたので反発され、
学校は2年後に廃止されてしまったそうです。
しかし、民蔵は諦めずに寄付を集めて、
明治26年、私立の尋常小学校を建てました。
やがて明治40年(1907)にこの学校が正式に国の小学校の分校となり、
昭和47年まで続いてきたと言います。
実に民蔵の想いは約70年も形として残されたんですね。






こちらが女化分校の正門。

      20140319女化分校01


校門に往時の名残り、校名の表札を確認しましたが
残念ながらありませんでした。

      20140319女化分校02



こちらが木造の校舎。

      20140319女化分校03


真正面の玄関。
建物の顔ですね。


      20140319女化分校05



校舎全景。


      20140319女化分校06


逆アングルから

      20140319女化分校08


      20140319女化分校07


      20140319女化分校09




そして、こちらが校庭。


      20140319女化分校04



      20140319女化分校10



校庭の隅には、かつて子供たちが遊んだ遊具。
と言っても残っているのは、この スベリ台のみ。

      20140319女化分校11



木造校舎の裏手に回れば、裏庭はゲートボール場。

      20140319女化分校12


地域の年配者が利用しているのでしょうね。

実は、この女化分校跡地は
女化青年研修所として残され活用されているようです。


炭焼きの実習でも行なっているのでしょうか?
校舎の裏手、ゲートボール場の隣には炭焼き小屋?

      20140319女化分校13


そして、炭の材料なのか?
周りの雑木林で切り出した木々がいっぱいです。

      20140319女化分校14


      20140319女化分校15




以前、ネットでこの分校跡の事を知り、
木造校舎も残されているとのことで、
いつかは訪れたいと思ってました。

この日に訪れることが出来て良かった。

      20140319女化分校16


そんな父さんの気持ちを察しているんだろうか?

女化分校の木造校舎の前で、
びいすけ もいつになく凛々しい顔付きをしているように見えるのは
単なる気のせいなんだろうか...............?



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2014/03/31 Mon. 18:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

千田城址  (2014年3月16日)(千葉県香取郡多古町) 

3月16日 公休日


この日は多古町に出掛けていました。


水戸谷城址をあとにして、向かった先は 千田城址


現在の多古町はその昔、千田荘と称し、平安時代末期には千葉氏の領地でありました。
古くからこの地に栄えていた千田荘の押さえとして、千葉一族の千田氏が築いた城であるとされています。
しかしながら、詳しい文献等も残されていなく、築城時期、廃城時期等、詳細は不明です。

千田は現在では芝山町との境界の小さな集落になっていますが、かつては広大な領域を有していた。
千田台遺跡とも呼ばれ、県の発掘調査では中近世遺構として、
溝や土坑、掘立柱建物跡などが確認されたそうです。

現在はフェンスで囲まれた立入禁止の平地となっています。

 
 
こちらが千田城址。

      20140316千田城址01


残念ながら、ここが城郭だったことは城址碑はもとより
説明看板、案内看板などの類いが全く無く、
判りようがありません。

      20140316千田城址02


千田台遺跡としてフェンスが張られているとの事ですが、
千田台遺跡の案内や説明もありません。

そしてフェンスも朽ち始め、簡単に中に入れてしまいます。

      20140316千田城址03


フェンス内を軽く散策(探索)してみましたが
城郭遺構らしきモノも確認出来ませんでした。



まぁ正確に言えば、ウム?と思える箇所はあったのですが..............



例えば、こちら。
真ん中の土壇が何なのか?    

      20140316千田城址07

さすがに土壇の手前から藪状態。
勇気を持って突入する元気とパワーを今日の私と びいすけ は
もはや、持ち合わせていませんでした。


      20140316千田城址04




それならば、せめてもの記念写真。

      20140316千田城址05


      20140316千田城址06



森へと続く藪。
藪の中は未確認ですが、先人(この場合は城郭ファン)のHPの記述を信じるならば
何も無い! と言うことらしい。

      20140316千田城址08


      20140316千田城址09
 

ここが千田城址だとは誰も気づくまい。
せめて、説明看板か、案内看板ぐらい建てて下さいな。
これじゃあ、どこかの森でしょ?と言われてもわかりません。

そんな訳で
千田城址からは撤収となりました.................。






2014/03/31 Mon. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit