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び・び・びのびいすけ

ぼく と 父さん と時々 もっちゃん

妙見神社 《多古・島》  (2014年3月16日)(千葉県香取郡多古町) 

3月16日 公休日


この日は多古町に出掛けていました。

志摩城址をあとにして向かった先は
島集落に鎮座する 妙見神社


多古町はその昔、千田庄と称し、平安時代末期には千葉氏の領地でありました。
室町時代には千葉宗家の争いで、千葉城(亥鼻城)を追われた千葉胤直・胤宣父子が自刃し
千葉宗家が滅亡した地でもあります。

そのせいでしょうか?

多古町には妙見神社が数社あるようです。

そもそも千葉氏は築城する際に、城郭の一画(鬼門に当たる北東部)に妙見神社を建て
武運を祈願していたと言われています。
そのため、千葉一族の城には妙見神社が残されていることが多く見受けられます。


こちらが妙見神社。

      20140316 妙見神社 多古島01



鳥居には 妙見菩薩 の神額が掲げられていました。


      20140316 妙見神社 多古島02




厳密に言えば、

1868年、明治政府は「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、
神道国教化の方針を採用し、それまで広く行われてきた神仏習合(神仏混淆)を禁止するため、
神仏分離令を発しました。
政府は、神仏分離令により、神社と寺院を分離してそれぞれ独立させ、
神社に奉仕していた僧侶には還俗を命じたほか、
神道の神に仏具を供えることや、「御神体」を仏像とすることも禁じました。


と言うことで、多くの妙見宮が御神体であった『妙見菩薩』から
天之御中主大神を祭神とし、神社そのものの名前を変えたりしました。


しかし、こちらは思い切り『妙見菩薩』としているところが潔い。

神仏分離令なんぞ、クソ喰らえ!といった感じでしょうか?


      20140316 妙見神社 多古島03


こちらが本殿。

      20140316 妙見神社 多古島04


      20140316 妙見神社 多古島06



御神体の妙見菩薩は切り出された木片?

      20140316 妙見神社 多古島05



本殿脇の小さな石碑。
書いてある文字が読み取れませんでしたが
それなりの歴史を感じさせます。

      20140316 妙見神社 多古島07

      20140316 妙見神社 多古島08




志摩城址も近いと言うことで、千葉氏の家紋でも残されているかと
ほんの少し期待していましたが、何もありませんでした。

残念でした..............。

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2014/03/29 Sat. 17:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

志摩城址  (2014年3月16日)(千葉県香取郡多古町) 

3月16日 公休日

この日は多古町に出掛けていました。


多古城址をあとにして、向かった先は      志摩城址


志摩城は
築城時期、主な城主は不明とされています

現在の多古町はその昔、千田荘と称し、平安時代末期には千葉氏の領地でありました。
千葉氏の一族、円城寺氏らの所領と思われ、その一族の城館だったものと思われます。

室町時代には、鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉氏との争いで、千葉一族が分裂します。
関東管領上杉氏側に付いた千葉宗家の千葉胤直。
鎌倉公方足利成氏側に付いた一門の原胤房、馬加康胤に本拠の亥鼻城を急襲され、
千田荘に逃れ父・胤直は志摩城に逃れ、子・胤宣は多古城に逃れました。
しかし原胤房、馬加康胤に攻められ多古城も志摩城も落城してしまいます。
千葉宗家の千葉胤直・胤宣父子は自刃し、この千田荘で千葉宗家は滅びてしまいます

志摩城のその後、そして廃城の時期等、詳細は不明とされています。



こちらが志摩城の縄張り図

      志摩城址縄張り図

            (余湖くんのホームページ  よりお借りしました)



志摩城は現在の島集落の東端部に築かれていました。
かつて、この辺りは大小多数の湖沼が点在する大湿地帯であったとされており、
「島」の名が示す通り、湿地帯に浮かんだ島のようであったと言われています。

集落の東端部にある台地が「塙台」と呼ばれていて、こちらが志摩城址となります。

現在は農業公園として整備され、駐車場まで完備されています。


駐車場の片隅に建っている説明看板。

      20140316志摩城址01


以前はありませんでしたが
平成24年に建てられたようです。

多古町も史跡や文化財の保存・管理に力を入れるようになったのでしょうか?

      20140316志摩城址02


ただ残念なのは多古城址同様に、
この志摩城址も遺構はほとんど残されていません。

      20140316志摩城址03



城塁のように見えますが、後世の耕地整理の名残りかもしれません。


      20140316志摩城址04



こうやって見てみると、郭跡に見えなくもない。


      20140316志摩城址05



台地の北東、いわゆる鬼門にあたる場所に鎮座する神社。


      20140316志摩城址06

妙見神社かと思いきや、八幡神社でした。


こちらが八幡神社の拝殿。

      20140316志摩城址07



主郭跡は完全に耕地化され、一面の畑。

      20140316志摩城址08


      20140316志摩城址09


この辺りは、かつての城塁。

      20140316志摩城址10


一部公園化されているから、こんなベンチや四阿もあります。

      20140316志摩城址11



このアングルが1番城郭っぽく見えるみたいです。

緑が映える城塁。
草の緑が映える季節になってきたようです。

      20140316志摩城址12

この西側が「二ノ台」で二郭とみられています。
やはり開墾されていることもあり、
現状では明確に城郭遺構と判断できるようなモノは余り残っていないようです。

二郭から眺める主郭。

      20140316志摩城址13

こうやって眺めてみると、やはり城址だと思える遺構は少ないようです。


まぁ、ネットで事前に調べていたから、覚悟と言うか
心構えはあったけど、やはり千葉宗家の終焉の地だと言うのに
この状態はちょっぴり寂しい気がします..............。






2014/03/29 Sat. 03:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit