多古城址 (2014年3月16日)(千葉県香取郡多古町)
3月16日 公休日
この日は多古町に出かけていました
多古陣屋跡をあとにして向かった先は 多古城址
多古城は
築城時期、主な城主は不明とされています
現在の多古町はその昔、千田荘と称し、平安時代末期には千葉氏の領地でありました。
千葉氏の一族、円城寺氏らの所領と思われ、その一族の城館だったものと思われます。
室町時代には、鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉氏との争いで、千葉一族が分裂します。
関東管領上杉氏側に付いた千葉宗家の千葉胤直。
鎌倉公方足利成氏側に付いた一門の原胤房、馬加康胤に本拠の亥鼻城を急襲され、
千田荘に逃れ父・胤直は志摩城に逃れ、子・胤宣は多古城に逃れました。
しかし原胤房、馬加康胤に攻められ多古城も志摩城も落城してしまいます。
千葉宗家の千葉胤直・胤宣父子は自刃し、この千田荘で千葉宗家は滅びてしまいます
戦国末期、飯土井氏が居城していましたが、
原氏の一族牛尾胤仲が攻め落とし居城としました。
その後北条氏の意に沿わなかった為、
飯櫃城の山室氏に攻められ落城したと言われています。
こちらが多古城の縄張り図

(余胡くんのホームページ からお借りしました。)
古陣屋跡のすぐ近く、直線距離にしても数百mの距離に多古城址はあります。
とは言っても、説明板や城址碑のたぐいは全くなく
城郭ファンのHPの画像を頼りに散策します
しかし、この多古城址のある台地(多古台)は、かなり改変されていて
こちらは縄張り図にある古墳
おそらく物見台として利用されていたのでしょう。

古墳の下には神社がありますが
神社の手前が削平地。
まるで腰曲輪のようです。




神社と言うか祠から台地を下り、旧道沿いに台地を眺めるように散策してみます
旧道を多古第一小学校方面に向かって歩き、切通バス停のある辺りで、
切通集会所へ入って行く小道を歩きます。
集会所の奥に、いかにも!って感じの道が現れます。
どうやら、搦め手口のようです。

竹林の間の細い道を登って行きます。


しばらくすれば、虎口が現れます。

こちらが、台地の削平地。
かなりと言うか、完全に耕地されて周辺は畑。
おまけに大きな携帯電話用のアンテナまで建っています。
しかし、この辺りが主郭であったのでしょう。

確かに、多古城址は耕地化され、また開発によって西側は見事な迄に削られ
とても城郭跡には見えそうにありません。
辛うじてこの辺りが、かつての郭跡に見えなくもない。

千葉氏内紛による千葉宗家の終焉の地でもあるのに
城址として(史跡)として管理されていないのは残念な気がします。
せめてもの救いは、搦め手口が辛うじて残されていることだろうか..............。
この日は多古町に出かけていました
多古陣屋跡をあとにして向かった先は 多古城址
多古城は
築城時期、主な城主は不明とされています
現在の多古町はその昔、千田荘と称し、平安時代末期には千葉氏の領地でありました。
千葉氏の一族、円城寺氏らの所領と思われ、その一族の城館だったものと思われます。
室町時代には、鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉氏との争いで、千葉一族が分裂します。
関東管領上杉氏側に付いた千葉宗家の千葉胤直。
鎌倉公方足利成氏側に付いた一門の原胤房、馬加康胤に本拠の亥鼻城を急襲され、
千田荘に逃れ父・胤直は志摩城に逃れ、子・胤宣は多古城に逃れました。
しかし原胤房、馬加康胤に攻められ多古城も志摩城も落城してしまいます。
千葉宗家の千葉胤直・胤宣父子は自刃し、この千田荘で千葉宗家は滅びてしまいます
戦国末期、飯土井氏が居城していましたが、
原氏の一族牛尾胤仲が攻め落とし居城としました。
その後北条氏の意に沿わなかった為、
飯櫃城の山室氏に攻められ落城したと言われています。
こちらが多古城の縄張り図

(余胡くんのホームページ からお借りしました。)
古陣屋跡のすぐ近く、直線距離にしても数百mの距離に多古城址はあります。
とは言っても、説明板や城址碑のたぐいは全くなく
城郭ファンのHPの画像を頼りに散策します
しかし、この多古城址のある台地(多古台)は、かなり改変されていて
こちらは縄張り図にある古墳
おそらく物見台として利用されていたのでしょう。

古墳の下には神社がありますが
神社の手前が削平地。
まるで腰曲輪のようです。




神社と言うか祠から台地を下り、旧道沿いに台地を眺めるように散策してみます
旧道を多古第一小学校方面に向かって歩き、切通バス停のある辺りで、
切通集会所へ入って行く小道を歩きます。
集会所の奥に、いかにも!って感じの道が現れます。
どうやら、搦め手口のようです。

竹林の間の細い道を登って行きます。


しばらくすれば、虎口が現れます。

こちらが、台地の削平地。
かなりと言うか、完全に耕地されて周辺は畑。
おまけに大きな携帯電話用のアンテナまで建っています。
しかし、この辺りが主郭であったのでしょう。

確かに、多古城址は耕地化され、また開発によって西側は見事な迄に削られ
とても城郭跡には見えそうにありません。

辛うじてこの辺りが、かつての郭跡に見えなくもない。

千葉氏内紛による千葉宗家の終焉の地でもあるのに
城址として(史跡)として管理されていないのは残念な気がします。
せめてもの救いは、搦め手口が辛うじて残されていることだろうか..............。
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2014/03/28 Fri. 23:00 |
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多古陣屋跡 (2014年3月16日)(千葉県香取郡多古町)
3月16日 公休日
この日は、多古町に出掛けていました。
多古町には、かつての陣屋跡があると言うことで
訪れたのは、 多古陣屋跡 。
現在の多古第一小学校のある台地一帯が多古陣屋跡と言われています。
多古陣屋は
天正18年(1590年)、徳川家康の関東入部に伴い、
家臣・保科正光が多胡に多古に一万石を与えられ入封し、
多古城に隣接して陣屋を構えました。
慶長11年(1606年)正光は一万五千石を加増され、
旧領の信濃国高遠に転封となり、多古藩は廃藩となります。
保科正光の転封後、しばらくして土方雄久が加賀野々市から入封したが、
次の雄重の時に陸奥に転封となり再び廃藩となります。
嘉永12年(1635年)八千石の旗本(久松)松平勝義は、下総・上総の一部を領有し、
多古で陣屋を構えていましたが、
正徳3年(1713年)松平勝以は大坂定番となり、摂津国にて三千石の加増を受け、
一万二千石となり大名となり多古藩を立藩します。
以後、多古の地は松平氏が領有し、多古藩は明治まで在藩しました。
こちらが多古陣屋の縄張り図

(余胡くんのホームページ からお借りしました。)
現在の多古第一小学校のある台地一帯が多古陣屋跡と言われています。
かつての城郭が時代の流れの中で、学校になっている。
城址に学校が建てられているって言うパターンは意外に多く
この多古陣屋跡も正にそのパターン。
こういう場所って、平日には授業があるから訪れにくい。
しかし、この日は日曜日。小学校も休み。
一応、当直の先生に声を掛けて許可を頂き、
大きな顔して陣屋跡の見学(散策)と相成ります。
(これでも、結構気を使っているんですよ!)
せっかく小学校の敷地内に入ったのだから
まずは、二ノ宮さんにご挨拶(笑)。

職員室のある校舎からグランドに移動。
さらに、その奥にある旧・校門を目指します。
こちらが、旧・校門。

この校門脇に、多古陣屋の石垣が残っています。

旧・校門前の高野前神社の入り口に多古陣屋跡の案内があります。

高野前神社の拝殿の裏手にある土塁。

同じく、高野前神社の裏手にある石垣。

高野前神社の境内にある石碑には
多古陣屋(松平家)について記載されています。

こちらが、高野前神社

もう一度、小学校の敷地内に戻ります。
こちらが第一グランドに残された石垣。


そして、こちらが第一グランドの隅にある土塁。




第一グランド脇の裏山(台地)に登ってみます。

物見台にも見える土壇。

その土壇の下方には太平洋戦争の慰霊碑。

以前からあった陣屋跡の土壇に建てたようです。

慰霊碑の下には、削平地。

郭跡にも見えなくない。
明らかに人の手の入った削平地。
一瞬、多古城址の城郭遺構かとも思いましたが
多古城址はもうちょっと離れているから、
おそらく陣屋跡の何かだろう。
第一グランドの石垣と一部の土塁しか遺構は残されていないと言うことで、
見所は少ないと思っていた多古陣屋跡だけれど、
意外や意外。この辺りもそれなりの見所があるようです。
百聞は一見にしかず
そんな言葉を思い出しました..........。
この日は、多古町に出掛けていました。
多古町には、かつての陣屋跡があると言うことで
訪れたのは、 多古陣屋跡 。
現在の多古第一小学校のある台地一帯が多古陣屋跡と言われています。
多古陣屋は
天正18年(1590年)、徳川家康の関東入部に伴い、
家臣・保科正光が多胡に多古に一万石を与えられ入封し、
多古城に隣接して陣屋を構えました。
慶長11年(1606年)正光は一万五千石を加増され、
旧領の信濃国高遠に転封となり、多古藩は廃藩となります。
保科正光の転封後、しばらくして土方雄久が加賀野々市から入封したが、
次の雄重の時に陸奥に転封となり再び廃藩となります。
嘉永12年(1635年)八千石の旗本(久松)松平勝義は、下総・上総の一部を領有し、
多古で陣屋を構えていましたが、
正徳3年(1713年)松平勝以は大坂定番となり、摂津国にて三千石の加増を受け、
一万二千石となり大名となり多古藩を立藩します。
以後、多古の地は松平氏が領有し、多古藩は明治まで在藩しました。
こちらが多古陣屋の縄張り図

(余胡くんのホームページ からお借りしました。)
現在の多古第一小学校のある台地一帯が多古陣屋跡と言われています。
かつての城郭が時代の流れの中で、学校になっている。
城址に学校が建てられているって言うパターンは意外に多く
この多古陣屋跡も正にそのパターン。
こういう場所って、平日には授業があるから訪れにくい。
しかし、この日は日曜日。小学校も休み。
一応、当直の先生に声を掛けて許可を頂き、
大きな顔して陣屋跡の見学(散策)と相成ります。
(これでも、結構気を使っているんですよ!)
せっかく小学校の敷地内に入ったのだから
まずは、二ノ宮さんにご挨拶(笑)。

職員室のある校舎からグランドに移動。
さらに、その奥にある旧・校門を目指します。
こちらが、旧・校門。

この校門脇に、多古陣屋の石垣が残っています。

旧・校門前の高野前神社の入り口に多古陣屋跡の案内があります。

高野前神社の拝殿の裏手にある土塁。

同じく、高野前神社の裏手にある石垣。

高野前神社の境内にある石碑には
多古陣屋(松平家)について記載されています。

こちらが、高野前神社

もう一度、小学校の敷地内に戻ります。
こちらが第一グランドに残された石垣。


そして、こちらが第一グランドの隅にある土塁。




第一グランド脇の裏山(台地)に登ってみます。

物見台にも見える土壇。

その土壇の下方には太平洋戦争の慰霊碑。

以前からあった陣屋跡の土壇に建てたようです。

慰霊碑の下には、削平地。

郭跡にも見えなくない。
明らかに人の手の入った削平地。
一瞬、多古城址の城郭遺構かとも思いましたが
多古城址はもうちょっと離れているから、
おそらく陣屋跡の何かだろう。
第一グランドの石垣と一部の土塁しか遺構は残されていないと言うことで、
見所は少ないと思っていた多古陣屋跡だけれど、
意外や意外。この辺りもそれなりの見所があるようです。
百聞は一見にしかず
そんな言葉を思い出しました..........。
2014/03/28 Fri. 00:00 |
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