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び・び・びのびいすけ

廃校を訪ねて...............岡田小学校女化分校                           (2014年3月19日)(茨城県牛久市) 

3月19日  公休日

この日は茨城県の牛久市に出掛けてきました。

牛久市には廃校となった小学校が5校あるそうです。


その中の1校、廃校当時の木造校舎を残す分校跡を訪れてみました。



訪れたのは 旧・牛久町立岡田小学校女化分校


女化分校は、

明治26年   私学校として女化尋常小 学校が創立し、
        一時廃校になりましたが、再び設置 され、
明治40年   村立の学校となり、
明治42年   岡田第四尋常小 学校と改称しました。
昭和13年   岡田第一から第四尋常小学校が統合して 岡田尋常小学校となり、
         女化分校が開校しました。、
昭和14年   新校舎(現在の建物)が完成。
昭和16年   岡田国民学校、
昭和22年   岡田村立岡田小学校に改称し、
         この年から4年生までは女化分校で学び、
         5・6年生は本校へ通うことになり ました。
昭和29年   町村合併で牛久町立岡田小学校女化分校と改称され、
昭和47年   本校の岡田小学校に統合され閉校となりました。

と沿革はざっとこんな感じですが、
この沿革だけでは語れない物語もあります。



明治の初め、この女化の地に徳島から47名の開拓者が入りました。
元々作物が育たない不毛の地というところへやってきた開拓者たちが
この地を開拓していったのです。

開拓の中心人物が杉本民蔵という人物でした。
当時、この女化の地には学校がなく、
国の尋常小学校まで4kmほど離れていたそうです。
読み書きのできる学校を立てたいと、
明治24年(1891)に「化成学館」という学校を建てました。
校長1名、先生1名の小さな学校で、近所の子供たちに読み書きソロバンを教えました。
しかしキリスト教の教えを説いていたので反発され、
学校は2年後に廃止されてしまったそうです。
しかし、民蔵は諦めずに寄付を集めて、
明治26年、私立の尋常小学校を建てました。
やがて明治40年(1907)にこの学校が正式に国の小学校の分校となり、
昭和47年まで続いてきたと言います。
実に民蔵の想いは約70年も形として残されたんですね。






こちらが女化分校の正門。

      20140319女化分校01


校門に往時の名残り、校名の表札を確認しましたが
残念ながらありませんでした。

      20140319女化分校02



こちらが木造の校舎。

      20140319女化分校03


真正面の玄関。
建物の顔ですね。


      20140319女化分校05



校舎全景。


      20140319女化分校06


逆アングルから

      20140319女化分校08


      20140319女化分校07


      20140319女化分校09




そして、こちらが校庭。


      20140319女化分校04



      20140319女化分校10



校庭の隅には、かつて子供たちが遊んだ遊具。
と言っても残っているのは、この スベリ台のみ。

      20140319女化分校11



木造校舎の裏手に回れば、裏庭はゲートボール場。

      20140319女化分校12


地域の年配者が利用しているのでしょうね。

実は、この女化分校跡地は
女化青年研修所として残され活用されているようです。


炭焼きの実習でも行なっているのでしょうか?
校舎の裏手、ゲートボール場の隣には炭焼き小屋?

      20140319女化分校13


そして、炭の材料なのか?
周りの雑木林で切り出した木々がいっぱいです。

      20140319女化分校14


      20140319女化分校15




以前、ネットでこの分校跡の事を知り、
木造校舎も残されているとのことで、
いつかは訪れたいと思ってました。

この日に訪れることが出来て良かった。

      20140319女化分校16


そんな父さんの気持ちを察しているんだろうか?

女化分校の木造校舎の前で、
びいすけ もいつになく凛々しい顔付きをしているように見えるのは
単なる気のせいなんだろうか...............?



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2014/03/31 Mon. 18:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

千田城址  (2014年3月16日)(千葉県香取郡多古町) 

3月16日 公休日


この日は多古町に出掛けていました。


水戸谷城址をあとにして、向かった先は 千田城址


現在の多古町はその昔、千田荘と称し、平安時代末期には千葉氏の領地でありました。
古くからこの地に栄えていた千田荘の押さえとして、千葉一族の千田氏が築いた城であるとされています。
しかしながら、詳しい文献等も残されていなく、築城時期、廃城時期等、詳細は不明です。

千田は現在では芝山町との境界の小さな集落になっていますが、かつては広大な領域を有していた。
千田台遺跡とも呼ばれ、県の発掘調査では中近世遺構として、
溝や土坑、掘立柱建物跡などが確認されたそうです。

現在はフェンスで囲まれた立入禁止の平地となっています。

 
 
こちらが千田城址。

      20140316千田城址01


残念ながら、ここが城郭だったことは城址碑はもとより
説明看板、案内看板などの類いが全く無く、
判りようがありません。

      20140316千田城址02


千田台遺跡としてフェンスが張られているとの事ですが、
千田台遺跡の案内や説明もありません。

そしてフェンスも朽ち始め、簡単に中に入れてしまいます。

      20140316千田城址03


フェンス内を軽く散策(探索)してみましたが
城郭遺構らしきモノも確認出来ませんでした。



まぁ正確に言えば、ウム?と思える箇所はあったのですが..............



例えば、こちら。
真ん中の土壇が何なのか?    

      20140316千田城址07

さすがに土壇の手前から藪状態。
勇気を持って突入する元気とパワーを今日の私と びいすけ は
もはや、持ち合わせていませんでした。


      20140316千田城址04




それならば、せめてもの記念写真。

      20140316千田城址05


      20140316千田城址06



森へと続く藪。
藪の中は未確認ですが、先人(この場合は城郭ファン)のHPの記述を信じるならば
何も無い! と言うことらしい。

      20140316千田城址08


      20140316千田城址09
 

ここが千田城址だとは誰も気づくまい。
せめて、説明看板か、案内看板ぐらい建てて下さいな。
これじゃあ、どこかの森でしょ?と言われてもわかりません。

そんな訳で
千田城址からは撤収となりました.................。






2014/03/31 Mon. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

水戸谷城址  (2014年3月16日)(千葉県香取郡多古町) 

3月16日 公休日

この日は多古町に出掛けていました。


島集落の妙見神社をあとにして、向かった先は 水戸谷城址


水戸谷城は

城主は水戸谷蔵人景賢であったと言われています。
小田原の役の際には、北条方として小田原城の湯本口で防戦をしていたとされ、
井田因幡守に従って小田原城に籠城していたと言われています。
 
小田原の役後は武蔵多摩郡萩久保村(現在の杉並区荻窪)に隠棲して、
井川氏を名乗るようになったと言われています。

おそらく、水戸谷城は秀吉の小田原の役の際、下総の諸城と同じように
家康の別働隊によって攻められ、廃城になったものと思われます




こちらが水戸谷城址の縄張り図

      水戸城址縄張り図


          (余胡くんのホームページ よりお借りしました。)




県道沿いの水戸地区集会所の駐車場に車を停め、
水戸谷城址の散策開始です。



この道を登って行けば、城址に突き当たります。

      20140316水戸城址01



坂の途中にある城址碑。

      20140316水戸城址02



水戸谷城主の子孫の方が建てられたそうです。

      20140316水戸城址03

確かに、多古町にはこう言った城址碑って言うのが殆ど無い。
町役場とか教育委員会よりも個人(子孫)の方々の方が
史跡や文化財に対する価値観が高いんでしょうね。



この坂は、主郭へと続きます。

      20140316水戸城址04


こちらが、主郭虎口。


      20140316水戸城址16


主郭はすっかり耕地化され、一面の畑となっています。

      20140316水戸城址14

      20140316水戸城址15



主郭虎口手前の三叉路を右方向に行けば、
雷電神社に突き当たります。


雷電神社への導線はまるで空堀跡のようです。

      20140316水戸城址05



雷電神社手前の郭。
位置的に三郭になるようです。

      20140316水戸城址06


こちらが雷電神社。

      20140316水戸城址07


      20140316水戸城址08



こちらが鳥居に掲げられた神額。

      20140316水戸城址09

なかなか粋なデザインって言うか、
珍しさもあって新鮮に感じます。



本殿は覆本殿。
中は暗くてよく見えませんでした。

      20140316水戸城址10



神社と三郭の間の登城路。

      20140316水戸城址11


こちらが本来の登城路かもしれません。

腰曲輪と思われる削平地もあります。

      20140316水戸城址12


      20140316水戸城址13


城郭遺構は、ほとんど残されてはいませんが
多古町には珍しい城址碑を見ることが出来たから良しとしましょう。

願わくば、多古町の教育委員会あたりが
雷電神社辺りに、城址の説明看板などを建ててくれれば
もう、言うことはないんだけどなぁ...............。











2014/03/30 Sun. 00:01 | trackback: -- | 本文: -- | edit

妙見神社 《多古・島》  (2014年3月16日)(千葉県香取郡多古町) 

3月16日 公休日


この日は多古町に出掛けていました。

志摩城址をあとにして向かった先は
島集落に鎮座する 妙見神社


多古町はその昔、千田庄と称し、平安時代末期には千葉氏の領地でありました。
室町時代には千葉宗家の争いで、千葉城(亥鼻城)を追われた千葉胤直・胤宣父子が自刃し
千葉宗家が滅亡した地でもあります。

そのせいでしょうか?

多古町には妙見神社が数社あるようです。

そもそも千葉氏は築城する際に、城郭の一画(鬼門に当たる北東部)に妙見神社を建て
武運を祈願していたと言われています。
そのため、千葉一族の城には妙見神社が残されていることが多く見受けられます。


こちらが妙見神社。

      20140316 妙見神社 多古島01



鳥居には 妙見菩薩 の神額が掲げられていました。


      20140316 妙見神社 多古島02




厳密に言えば、

1868年、明治政府は「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、
神道国教化の方針を採用し、それまで広く行われてきた神仏習合(神仏混淆)を禁止するため、
神仏分離令を発しました。
政府は、神仏分離令により、神社と寺院を分離してそれぞれ独立させ、
神社に奉仕していた僧侶には還俗を命じたほか、
神道の神に仏具を供えることや、「御神体」を仏像とすることも禁じました。


と言うことで、多くの妙見宮が御神体であった『妙見菩薩』から
天之御中主大神を祭神とし、神社そのものの名前を変えたりしました。


しかし、こちらは思い切り『妙見菩薩』としているところが潔い。

神仏分離令なんぞ、クソ喰らえ!といった感じでしょうか?


      20140316 妙見神社 多古島03


こちらが本殿。

      20140316 妙見神社 多古島04


      20140316 妙見神社 多古島06



御神体の妙見菩薩は切り出された木片?

      20140316 妙見神社 多古島05



本殿脇の小さな石碑。
書いてある文字が読み取れませんでしたが
それなりの歴史を感じさせます。

      20140316 妙見神社 多古島07

      20140316 妙見神社 多古島08




志摩城址も近いと言うことで、千葉氏の家紋でも残されているかと
ほんの少し期待していましたが、何もありませんでした。

残念でした..............。

2014/03/29 Sat. 17:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

志摩城址  (2014年3月16日)(千葉県香取郡多古町) 

3月16日 公休日

この日は多古町に出掛けていました。


多古城址をあとにして、向かった先は      志摩城址


志摩城は
築城時期、主な城主は不明とされています

現在の多古町はその昔、千田荘と称し、平安時代末期には千葉氏の領地でありました。
千葉氏の一族、円城寺氏らの所領と思われ、その一族の城館だったものと思われます。

室町時代には、鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉氏との争いで、千葉一族が分裂します。
関東管領上杉氏側に付いた千葉宗家の千葉胤直。
鎌倉公方足利成氏側に付いた一門の原胤房、馬加康胤に本拠の亥鼻城を急襲され、
千田荘に逃れ父・胤直は志摩城に逃れ、子・胤宣は多古城に逃れました。
しかし原胤房、馬加康胤に攻められ多古城も志摩城も落城してしまいます。
千葉宗家の千葉胤直・胤宣父子は自刃し、この千田荘で千葉宗家は滅びてしまいます

志摩城のその後、そして廃城の時期等、詳細は不明とされています。



こちらが志摩城の縄張り図

      志摩城址縄張り図

            (余湖くんのホームページ  よりお借りしました)



志摩城は現在の島集落の東端部に築かれていました。
かつて、この辺りは大小多数の湖沼が点在する大湿地帯であったとされており、
「島」の名が示す通り、湿地帯に浮かんだ島のようであったと言われています。

集落の東端部にある台地が「塙台」と呼ばれていて、こちらが志摩城址となります。

現在は農業公園として整備され、駐車場まで完備されています。


駐車場の片隅に建っている説明看板。

      20140316志摩城址01


以前はありませんでしたが
平成24年に建てられたようです。

多古町も史跡や文化財の保存・管理に力を入れるようになったのでしょうか?

      20140316志摩城址02


ただ残念なのは多古城址同様に、
この志摩城址も遺構はほとんど残されていません。

      20140316志摩城址03



城塁のように見えますが、後世の耕地整理の名残りかもしれません。


      20140316志摩城址04



こうやって見てみると、郭跡に見えなくもない。


      20140316志摩城址05



台地の北東、いわゆる鬼門にあたる場所に鎮座する神社。


      20140316志摩城址06

妙見神社かと思いきや、八幡神社でした。


こちらが八幡神社の拝殿。

      20140316志摩城址07



主郭跡は完全に耕地化され、一面の畑。

      20140316志摩城址08


      20140316志摩城址09


この辺りは、かつての城塁。

      20140316志摩城址10


一部公園化されているから、こんなベンチや四阿もあります。

      20140316志摩城址11



このアングルが1番城郭っぽく見えるみたいです。

緑が映える城塁。
草の緑が映える季節になってきたようです。

      20140316志摩城址12

この西側が「二ノ台」で二郭とみられています。
やはり開墾されていることもあり、
現状では明確に城郭遺構と判断できるようなモノは余り残っていないようです。

二郭から眺める主郭。

      20140316志摩城址13

こうやって眺めてみると、やはり城址だと思える遺構は少ないようです。


まぁ、ネットで事前に調べていたから、覚悟と言うか
心構えはあったけど、やはり千葉宗家の終焉の地だと言うのに
この状態はちょっぴり寂しい気がします..............。






2014/03/29 Sat. 03:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

多古城址  (2014年3月16日)(千葉県香取郡多古町) 

3月16日 公休日

この日は多古町に出かけていました


多古陣屋跡をあとにして向かった先は  多古城址


多古城は

築城時期、主な城主は不明とされています

現在の多古町はその昔、千田荘と称し、平安時代末期には千葉氏の領地でありました。
千葉氏の一族、円城寺氏らの所領と思われ、その一族の城館だったものと思われます。

室町時代には、鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉氏との争いで、千葉一族が分裂します。
関東管領上杉氏側に付いた千葉宗家の千葉胤直。
鎌倉公方足利成氏側に付いた一門の原胤房、馬加康胤に本拠の亥鼻城を急襲され、
千田荘に逃れ父・胤直は志摩城に逃れ、子・胤宣は多古城に逃れました。
しかし原胤房、馬加康胤に攻められ多古城も志摩城も落城してしまいます。
千葉宗家の千葉胤直・胤宣父子は自刃し、この千田荘で千葉宗家は滅びてしまいます

戦国末期、飯土井氏が居城していましたが、
原氏の一族牛尾胤仲が攻め落とし居城としました。
その後北条氏の意に沿わなかった為、
飯櫃城の山室氏に攻められ落城したと言われています。






こちらが多古城の縄張り図


        多古城址縄張り図


          (余胡くんのホームページ   からお借りしました。)



古陣屋跡のすぐ近く、直線距離にしても数百mの距離に多古城址はあります。
とは言っても、説明板や城址碑のたぐいは全くなく
城郭ファンのHPの画像を頼りに散策します

しかし、この多古城址のある台地(多古台)は、かなり改変されていて
 



こちらは縄張り図にある古墳

おそらく物見台として利用されていたのでしょう。



      20140316多古城址01



古墳の下には神社がありますが
神社の手前が削平地。
まるで腰曲輪のようです。


      20140316多古城址02


      20140316多古城址03


      20140316多古城址04


      20140316多古城址05


神社と言うか祠から台地を下り、旧道沿いに台地を眺めるように散策してみます


旧道を多古第一小学校方面に向かって歩き、切通バス停のある辺りで、
切通集会所へ入って行く小道を歩きます。
集会所の奥に、いかにも!って感じの道が現れます。


どうやら、搦め手口のようです。

      20140316多古城址07


竹林の間の細い道を登って行きます。

      20140316多古城址08


      20140316多古城址09



しばらくすれば、虎口が現れます。


      20140316多古城址06



こちらが、台地の削平地。
かなりと言うか、完全に耕地されて周辺は畑。
おまけに大きな携帯電話用のアンテナまで建っています。

しかし、この辺りが主郭であったのでしょう。


      20140316多古城址10



確かに、多古城址は耕地化され、また開発によって西側は見事な迄に削られ
とても城郭跡には見えそうにありません。


      20140316多古城址12 



辛うじてこの辺りが、かつての郭跡に見えなくもない。


      20140316多古城址11



千葉氏内紛による千葉宗家の終焉の地でもあるのに
城址として(史跡)として管理されていないのは残念な気がします。

せめてもの救いは、搦め手口が辛うじて残されていることだろうか..............。





2014/03/28 Fri. 23:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

多古陣屋跡  (2014年3月16日)(千葉県香取郡多古町) 

3月16日 公休日

この日は、多古町に出掛けていました。


多古町には、かつての陣屋跡があると言うことで
訪れたのは、 多古陣屋跡


現在の多古第一小学校のある台地一帯が多古陣屋跡と言われています。


多古陣屋は

天正18年(1590年)、徳川家康の関東入部に伴い、
家臣・保科正光が多胡に多古に一万石を与えられ入封し、
多古城に隣接して陣屋を構えました。
慶長11年(1606年)正光は一万五千石を加増され、
旧領の信濃国高遠に転封となり、多古藩は廃藩となります。

保科正光の転封後、しばらくして土方雄久が加賀野々市から入封したが、
次の雄重の時に陸奥に転封となり再び廃藩となります。

嘉永12年(1635年)八千石の旗本(久松)松平勝義は、下総・上総の一部を領有し、
多古で陣屋を構えていましたが、
正徳3年(1713年)松平勝以は大坂定番となり、摂津国にて三千石の加増を受け、
一万二千石となり大名となり多古藩を立藩します。
以後、多古の地は松平氏が領有し、多古藩は明治まで在藩しました。





こちらが多古陣屋の縄張り図


      多古陣屋跡縄張り図

          (余胡くんのホームページ   からお借りしました。)



現在の多古第一小学校のある台地一帯が多古陣屋跡と言われています。


かつての城郭が時代の流れの中で、学校になっている。
城址に学校が建てられているって言うパターンは意外に多く
この多古陣屋跡も正にそのパターン。

こういう場所って、平日には授業があるから訪れにくい。
しかし、この日は日曜日。小学校も休み。

一応、当直の先生に声を掛けて許可を頂き、
大きな顔して陣屋跡の見学(散策)と相成ります。

(これでも、結構気を使っているんですよ!)


せっかく小学校の敷地内に入ったのだから
まずは、二ノ宮さんにご挨拶(笑)。


      20140316多古陣屋跡19


職員室のある校舎からグランドに移動。
さらに、その奥にある旧・校門を目指します。

こちらが、旧・校門。

      20140316多古陣屋跡01



この校門脇に、多古陣屋の石垣が残っています。

      20140316多古陣屋跡02



旧・校門前の高野前神社の入り口に多古陣屋跡の案内があります。


      20140316多古陣屋跡03


高野前神社の拝殿の裏手にある土塁。

      20140316多古陣屋跡04


同じく、高野前神社の裏手にある石垣。

      20140316多古陣屋跡05


高野前神社の境内にある石碑には
多古陣屋(松平家)について記載されています。


      20140316多古陣屋跡06



こちらが、高野前神社


      20140316多古陣屋跡07




もう一度、小学校の敷地内に戻ります。

こちらが第一グランドに残された石垣。

      20140316多古陣屋跡08


      20140316多古陣屋跡09



そして、こちらが第一グランドの隅にある土塁。

      20140316多古陣屋跡10


      20140316多古陣屋跡11


      20140316多古陣屋跡12


      20140316多古陣屋跡13



第一グランド脇の裏山(台地)に登ってみます。

      20140316多古陣屋跡4


物見台にも見える土壇。

      20140316多古陣屋跡15


その土壇の下方には太平洋戦争の慰霊碑。

      20140316多古陣屋跡16

以前からあった陣屋跡の土壇に建てたようです。


      20140316多古陣屋跡17



慰霊碑の下には、削平地。

      20140316多古陣屋跡18

郭跡にも見えなくない。

明らかに人の手の入った削平地。
一瞬、多古城址の城郭遺構かとも思いましたが
多古城址はもうちょっと離れているから、
おそらく陣屋跡の何かだろう。






第一グランドの石垣と一部の土塁しか遺構は残されていないと言うことで、
見所は少ないと思っていた多古陣屋跡だけれど、
意外や意外。この辺りもそれなりの見所があるようです。


百聞は一見にしかず


そんな言葉を思い出しました..........。






 




2014/03/28 Fri. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

妙見神社 《多古.・南借当》  (2014年3月16日)(千葉県香取郡多古町) 

3月16日 公休日

この日は多古町に出掛けていました。

北中の妙見神社をあとにして、向かった先は
南借当地区にある 妙見神社 。

ナビにも妙見神社は載っていないので、
iPhoneの地図アプリでおおよその場所に当たりを付け、
妙見神社を探します。



どうやら、この台地の上に鎮座しているようです。


      20140316 妙見神社 多古南別当01


台地に上る石段を登って行きます。
びいすけ 頑張れ!

      20140316 妙見神社 多古南別当02


台地の上に鎮座していた妙見神社。

      20140316 妙見神社 多古南別当03


鳥居には神額は掲げられていません。

      20140316 妙見神社 多古南別当04



拝殿には扁額も掲げられていない。
本当にここが妙見神社なんだろうか?


      20140316 妙見神社 多古南別当05




本殿は覆本殿。


      20140316 妙見神社 多古南別当08



本殿を覗きこんでみます。

      20140316 妙見神社 多古南別当06



本殿の屋根に『月星紋』を発見!

      20140316 妙見神社 多古南別当07


まさしく、ここは妙見神社のようです。



改めて、拝殿の屋根を確認してみます。

鬼瓦には『九曜紋』かと思ったら、ちょっと違う?

      20140316 妙見神社 多古南別当12


屋根の神紋も『九曜紋』とは、ちょっと違う。

      20140316 妙見神社 多古南別当13



自宅に戻ったあと、ネットで調べたら『七曜紋』と言うらしい。
千葉氏の家紋は『月星紋』『九曜紋』が有名ですが、
多曜紋と言って『七曜紋』や『八曜紋』、『十曜紋』もあるらしい。





確かに、こちらの妙見神社の裏手は城址の雰囲気が満載。


土塁に見える土壇が数多く見受けられます。


      20140316 妙見神社 多古南別当09


      20140316 妙見神社 多古南別当10


      20140316 妙見神社 多古南別当11


      20140316 妙見神社 多古南別当14


 
この地がかつて城館だったと言うことは判らないし、詳しい文献も残されていないようで、
詳細は不明ですが、千葉氏所縁の豪族が居を構えていたかもしれない。

推測の域から出ることは出来ないが、千葉氏の家紋が本殿に残されていると言うことは、
きっと千葉氏末裔の氏子さんたちに守られてきた神社なんだろう。

千葉氏の『月星紋』に出会えたことは、
ホンのちょっぴりですが、嬉しいことでした..............。


2014/03/27 Thu. 17:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

妙見神社 《多古.・北中》                                        (2014年3月16日)(千葉県香取郡多古町) 

3月16日 公休日

この日は多古町へ出かけました。


多古町はその昔、千田翔と称し、平安時代末期には千葉氏の領地でありました。
室町時代には千葉宗家の争いで、千葉城(亥鼻城)を追われた千葉胤直・胤宣父子が自刃し
千葉宗家が滅亡した地でもあります。

そのせいでしょうか?

多古町には妙見神社が数社あるようです。

そもそも千葉氏は築城する際に、城郭の一画(鬼門に当たる北東部)に妙見神社を建て
武運を祈願していたと言われています。
そのため、千葉一族の城には妙見神社が残されていることが多く、
裏を返せば、妙見神社のある辺りは、千葉氏関連の城郭があった可能性もあります。


と言う事で、最初に訪れたのは 北中地区にある 妙見神社。


台地の削平地、畑の中にポツンと妙見神社は鎮座していました。


      20140316 妙見神社 多古北中08



こちらが鳥居。
神額には 妙見社 と記されています。


      20140316 妙見神社 多古北中01

      20140316 妙見神社 多古北中05


こちらが拝殿。

      
20140316 妙見神社 多古北中02


さほど大きくありません。


      20140316 妙見神社 多古北中03


千葉氏の家紋の『月星紋』、『九曜紋』が何処かに無いか?
探してみますがありません。



扁額にも 妙見社 の文字。

      20140316 妙見神社 多古北中04



この妙見神社がある辺りだけ、耕作されずにいるようで
土塁っぽい土壇も残されています。

      20140316 妙見神社 多古北中06


      20140316 妙見神社 多古北中07




周辺を軽く散策してみましたが、台地の外れは民家があったりして
庭先で飼われている犬に吠えられたりして..............。


妙見神社まで戻り、じっくりと眺めてみます。

      20140316 妙見神社 多古北中10


      20140316 妙見神社 多古北中09


確かに、この一画だけが雰囲気が違う。
そして、この削平地が主郭跡に見えてきてしまう(気のせい?)。(笑)


この地が千葉氏関連の豪族が支配していたかは不明ですが
妙見神社がポツンと取り残されているのが、なんとなく謎でした。


2014/03/27 Thu. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて...............多古第二小学校一鍬田分校跡                       (2014年3月16日)(千葉県香取郡多古町)                            

3月16日 公休日

個人的な連休2日目

この日は千葉県香取郡多古町へ出かけてみました



最初に向かったのは、他お待ちの外れ、
成田空港にも近い一鍬田地区。

かつてこの地にあった分校跡を訪ねてみました。


訪れたのは  多古町立第二小学校一鍬田分校跡


      20140316 一鍬田分校01


      20140316 一鍬田分校02



実はこの分校のことを色々ネットで調べてみたのですが
どうにもこうにも情報がありません。
詳しい沿革も判りません。


実は、この分校跡の存在も城郭ファンのHPで知りました。








こちらが正門跡

この階段を上って児童たちは通学していたのですね。


      20140316 一鍬田分校03


      20140316 一鍬田分校04



こちらが正門(校門)


      20140316 一鍬田分校05


古びた木の表札が掲げられていますが
文字は読み取れませんでした。



こちらが廃校跡

校舎はとっくの昔に解体されていて何もありません。


      20140316 一鍬田分校06


      20140316 一鍬田分校07


      20140316 一鍬田分校08


      20140316 一鍬田分校09




正門脇に二ノ宮金次郎の像。


これが廃校の証し。
かつて、この地に学校が存在していた証しです。


      20140316 一鍬田分校10


      20140316 一鍬田分校11



実は、この一鍬田分校跡地は 福泉寺 の一画、


      20140316 一鍬田分校20



こんな立派な梵鐘もあります。


      20140316 一鍬田分校12




地元の方で、たまたま話を聞いてみたら
色々と教えてくださいました。


元々、江戸時代にこの福泉寺で寺子屋をやっていたそうで
福泉寺の敷地内に学校を建て、後に分校となったそうです。
以前は木造平屋の校舎だったのが、成田空港建設に伴い、
昭和40年代に公団が鉄コンクリートの平屋建ての分校校舎を建てたたそうです
成田空港解説に伴い、この地を離れる人も多くなり
少子化の何と重なって児童数が減り、平成になる前に廃校になり
元々、福泉寺の敷地と言うこともあって、校舎を取り壊したそうです。

取り壊された校舎は、現在の墓地のところに建っていたそうです。


ちょうどこの位置あたりに校舎が建っていたのですね。


      20140316 一鍬田分校13





詳しい伝承は残されていませんが.........

この福泉寺のある台地一帯が城郭であったとも言われています。
通称、一鍬田城址は城主、築城年代等不明ですが
確かに周辺は城郭跡らしい雰囲気もあります。


福泉寺脇の土塁と空堀跡
ちょうど分校の二ノ宮金次郎像の裏手になります。


      20140316 一鍬田分校14




台地下の谷津の水田地帯からの登り坂。


城址らしい雰囲気満載です。


      20140316 一鍬田分校15


      20140316 一鍬田分校16


      20140316 一鍬田分校17



この坂を城址の雰囲気を味わいながら
一歩一歩、足に力を込め登っていけば、やがて福泉寺。
そして一鍬田分校跡。


何もない分校跡地ですが
梅の花が近づく春を表現し始めていました。


      20140316 一鍬田分校18


      20140316 一鍬田分校19



春は、すぐそこまでやって来ているようです..............。






 
 
 
2014/03/26 Wed. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit