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び・び・びのびいすけ

ぼく と 父さん と時々 もっちゃん

三増合戦場跡 (2013年11月23日)(神奈川県愛甲郡愛川町) 

11月23日 公休日

この日は公休日。
神奈川県の愛川町に足を伸ばしてみました。


愛川町の三増地区には愛川町指定の史跡あります。
戦国時代にある時には同盟を結び、
またある時には敵対関係にあった相模国と甲斐国。
ご存知、小田原北条氏と甲斐・武田氏である。
その両氏が壮絶な戦いを行なったのが三増合戦。

三増合戦跡地 に訪れてみました。


三増から半原に向かう県道を走っていると
いきなり、広大な平地が広がります。
そこが三増合戦跡。

道路沿いに、いきなり大きな史跡碑が現れます。

      20131123三増合戦場跡02


      20131123三増合戦場跡03


合戦の陣立図も建てられています。

      20131123三増合戦場跡04


すぐ近くには、やはり愛川町が新たに建てた標柱も建てられています。

      20131123三増合戦場跡01

愛川町の史跡や文化財に対するこういう姿勢って好きだなぁ。


とは言いながらも、やたらと碑や説明看板の輩が多い(笑)。

      20131123三増合戦場跡05


      20131123三増合戦場跡06


      20131123三増合戦場跡07


      20131123三増合戦場跡08


      20131123三増合戦場跡09




そもそも、三増合戦とは

戦国期に領国を接する武田氏と北条氏は武田信虎・北条氏綱期には甲斐都留郡において抗争を続けていたが、やがて両者は和睦して甲相同盟が結ばれ、これに駿河今川氏との同盟を結び甲相駿三国同盟の締結に至り、武田氏は信濃侵攻を行い北信地域において越後の長尾景虎(上杉謙信)と抗争し、北条氏は北関東侵攻を行い同じく越後上杉氏と抗争し、両者は相互に協調して上杉氏に対抗していた。

武田氏の信濃侵攻は、5回の川中島の戦いを契機に収束し、武田氏は方針を転換し永禄11年(1568年)12月には同盟を破棄して駿河今川領国へと侵攻を行う(駿河侵攻)。武田氏の駿河侵攻は甲相同盟の破綻をも招き、北条氏は上杉氏と越相同盟を締結し、武田氏に対抗した。

翌永禄12年(1569年)1月に北条氏政は駿河薩埵峠へ着陣し、興津において武田勢と対峙している[2]。同年8月24日に武田信玄は2万の軍勢を率いて甲府を出立、滝山城などの北条方の拠点を攻撃したのち10月1日には北条氏康の小田原城を囲んだ。当時の小田原城は有名な惣構えが着工前であったが、かつて上杉謙信が10万以上の兵力で落とせなかった堅城であった為、城攻めはせず小田原城を包囲し3度にわたって挑発した。しかし北条側は小田原城を出ることはなかった。武田軍は包囲を開始して4日後の10月5日に城下に火を放ち軍勢を引き上げた。

北条氏は後詰めであった甲州街道守備軍の北条氏照、秩父方面守備軍の北条氏邦の軍勢2万[3]が要所である三増峠(相模原市緑区根小屋 - 愛甲郡愛川町三増)に着陣し、甲斐に帰国しようとする武田軍相手に有利に戦端を開いた。さらに北条氏政が2万余りを率いて氏照・氏邦の部隊と武田軍を挟撃、殲滅する作戦であった。10月6日には武田軍と北条軍が対陣することになった。


氏政本隊は到着前であったが、氏照・氏邦の部隊は先手を打って奇襲攻撃を仕掛けようとしていた。これを察知した信玄は部隊を3隊に分けた。北条軍の攻撃を正面に受けつつ他の2部隊は山中に隠れ北条軍を横から急襲する作戦であった。10月8日に両軍は本格的な交戦を開始する。緒戦では北条軍有利に合戦は経過した。そのため武田軍は損害を受け、北条綱成が指揮する鉄砲隊の銃撃により左翼の浅利信種や浦野重秀が討ち死にしている[4]。

しかし、志田峠 (三増峠南西約1km) に機動した山県昌景率いる武田の別働隊が、より高所から奇襲に出ると戦況は一気に武田に傾いた。北条軍は背後の津久井城守備隊の内藤隊などの予備戦力が、武田軍別働隊に抑えられて救援に出なかったこともあり、大きな被害を受けている。大将である浅利が戦死した左翼では、軍監であった曽根昌世が代わりに指揮をとり、綱成の軍勢を押し戻すことに成功している。緒戦では苦戦したものの、終わってみれば武田軍の大勝であった。

また、武田軍が千葉氏が在陣しているところに向かって「千葉氏と言えばかつて北条と対し、互角に渡り合った衆であろう。それが北条に僕として扱われることに不満はござらんのか」と大声で呼びかけ、これにより千葉氏が勢いを鈍らせたとも言われている。

合戦が終わる頃、小田原から追撃してきた氏政の北条本隊2万は荻野(厚木市)まで迫っていたが自軍の敗戦を聞きつけ進軍を停止、挟撃は実現しなかった。もし氏政の部隊が到着していた場合、武田軍は挟撃されて逆に大敗していた可能性もあった。

自軍の勝利を見た信玄は軍勢を反畑(相模原市緑区)まで移動させ、そこで勝ち鬨を挙げた。その後武田軍は甲斐に撤退した。

(Wikipedia より引用)



こちらが志田峠。
武田方の総大将、武田信玄が陣をとったと言われています。

      20131123三増合戦場跡10


牧場跡?とも勘違いしそうな平原。

      20131123三増合戦場跡11


数百年前、戦国時代に兵(つわもの)どもが争った地を
平和な平成の時代に臭いを嗅ぐ びいすけ 。

      20131123三増合戦場跡12


志田峠を背後に立つ びいすけ 。

      20131123三増合戦場跡13


いにしえの古戦場跡の草の匂いを嗅いで
びいすけ は何を感じるのだろうか?

      20131123三増合戦場跡14


      20131123三増合戦場跡15


壮絶であったであろう戦から450年近く経った今、
時代は戦国時代から、平和な平成になった。

こうやって、 びいすけ と古城や古戦場を巡ることが出来るのは
この平和な世のおかげだと思っています。

この時代に生まれ、この時代に育ち、
この時代を生きていることに改めて感謝しなくっちゃ………。



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2013/12/12 Thu. 17:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて 三増学校跡 (2013年11月23日)(神奈川県愛甲郡愛川町) 

11月23日 公休日


この日は公休日
神奈川県の愛川町に足を伸ばしてみました。

愛川町三増には明治時代に存続した学校跡があると聞き
訪れたのは........三増学校跡


明治6年   当時の三増村に棟岩院を仮校舎として創設
明治11年   桜山に移転  
明治22年   三増村が角田村と合併し高峰村が発足
明治27年   角田学校と統合され、高峰小学校が創設され廃校となりました


愛川町三増にある棟岩院の門前にかつてこの地が学校跡であった証である
愛川町が建てた標柱が建っています。
      

      20131123三増学校跡04



こちらが、その標柱


      20131123三増学校跡01


      20131123三増学校跡02


側面には沿革が記されています。


      20131123三増学校跡03


棟岩院
正確には 曹洞宗大恵山棟岩院 と言うらしい


      20131123三増学校跡12



こちらが本堂


      20131123三増学校跡08



そして、梵鐘


      20131123三増学校跡09


本堂を仮校舎としたのか?
それとも境内の敷地内に仮の校舎を設けたのか?
詳しいことは分かりませんが.........

現在、駐車場と化している平地

      20131123三増学校跡10


そして、敷地内になるのか?
荒れた畑と化している平地


      20131123三増学校跡11

このあたりに仮校舎が建てられていたのでしょうか.....?


棟岩院の境内には、こんな標柱も建てられています。

時代を感じさせる大クスの木です。

      20131123三増学校跡05


      20131123三増学校跡06

時代を感じさせる大クスの木です。

いずれも推定樹齢100年。
と言っても、それはこの標柱が建てられた時だから
今では、何年になるのだろうか?

標柱が建てられた時期をしっかりチェックしてくれば良かった…………

      20131123三増学校跡07


いずれにしても、この地に明治11年まで学校があったのは事実であり、
それは135年も前の三増村時代のことである。

合併等で自治体が変遷していくと、メジャーでない文化資産等はおざなりになり
いつの間にか忘れ去られてしまうけれど、
愛川町ってこんな立派な石柱を残し、いつまでも後世に語り継いで行こうとする方針に
個人的には好感が持ててしまいます。



2013/12/12 Thu. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit