FC2ブログ

07 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 09

び・び・びのびいすけ

ぼく と 父さん と時々 もっちゃん

廃校を訪ねて................上野原市棡原小学校沢渡分校       (2013年8月7日)(山梨県上野原市) 

8月7日 公休日



六藤分校をあとにして、向かった先は


   上野原市棡原小学校沢渡分校跡



この分校跡も、西原の郵便局へ丸ポストを探しに行き途中で見つけました。
先を急いでいたので、六藤分校同様、帰りに立ち寄ることにしていました。



棡原と書いて 「ゆずりはら」 と読みます。


棡原小学校佐渡分校も歴史がありました

明治7年3月   棡原小学校の分教場として設立されました。
昭和22年4月に 棡原村立棡原小学校沢渡分校と改称
昭和30年4月に 町村合併により上野原町立棡原小学校佐渡分校と改称
昭和42年3月に 本校である棡原小学校と統合し、廃校となりました。


当時は木造校舎が建っていたようですが解体され
校舎跡地は上野原消防署譲原出張所となっています。


      20130807大沢分校01


      20130807大沢分校02


      20130807大沢分校03



校庭跡の片隅に、当時の鉄棒が残っていました。


     20130807大沢分校04

きっとこの鉄棒で逆上がりの練習をしていたんだろうなぁ.......



細い道路を挟んだ反対側が講堂

建物はそのまま残されていました。


      20130807大沢分校05



何やら右側に傾いているように見えますが
ちょっとカメラのアングルが右下がりなのと
急な斜面に建てられているだけで、
とくに倒れそうではありません(笑)


      20130807大沢分校08


      20130807大沢分校06


      20130807大沢分校07


校門も表札も何もなく、学校跡なのか?どうかも不安でしたが
消防署の出張所の方に聞いたら

「学校名はわからないけれど、小学校の分校跡だよ」

と、教えてくれました。


近くの民家のオバアちゃんに尋ねたら

「譲原小学校大沢分校」って教えてくれましたが
ネットで調べたら、大沢分校ではなくて、沢渡分校のようですね。




講堂跡脇には立派な木が残されています。


      20130807大沢分校09




こうやって見ると、本当に山深い集落のようです


      20130807大沢分校10



ネットでこの分校のことを調べてる時に
棡原のことも調べてみた。


昭和の初め、この棡原(当時は棡原村)は長寿の村として有名だったらしい。
と言うのも、昭和28年に県道が開通するまで陸の孤島のような地区で
住民は自給自足のような暮らしぶりだったらしい。

鶴川沿いの山あいの集落のため
棡原は水田がなく、きびやあわ、そば、麦、芋類が主食となります。
これに野菜、山菜、川魚が添えられた素朴な食事がで長寿の秘訣だったようです。
また家や畑が急な傾斜地にあるため、日常的に坂道を歩くので
自然に足腰が鍛えられ、それが健康につながり、長寿につながったようです。

県道の開通で上野原の町との交流も栄え
町から米や魚、そして肉やバター、乳製品など
都市部の食品が手に入るようになり、
街へのバスでの移動もできるようになった。

住民の生活環境が一気に変わり、青年・壮年層にその影響が出て
住民の構成が逆ピラミッド状態となり
数十年経って、かつての長寿の村は過疎化と相まって
住民が一気に少なくなってしまった..................。




う~ん、やっぱり粗食が健康の秘訣なんだろうか.......?

質素な食事と毎日の散歩(運動)
やっぱり、これが長生きの秘訣なんだろうな..................。




 
 


スポンサーサイト



2013/08/23 Fri. 22:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて............上野原市西原小学校六藤分校         (2013年8月7日)(山梨県上野原市) 

8月7日 公休日



阿寺沢の滝を出て、向かった先は.............


      上野原市西原小学校六藤分校跡 



西原郵便局の丸ポストを探しに行く途中
明らかに廃校跡のような場所で気になっていた。
先を急いでいたから、帰りにじっくり見ることにしていました。



西原小学校六藤(むそうじ)分校は歴史も古く

明治8年8月 西原小学校の六藤分教場として設立されました。

昭和22年4月に 西原村立西原小学校六藤分校と改称
昭和30年4月に 町村合併により上野原町立西原小学校六藤分校と改称
昭和55年3月に 本校の西原小学校と統合し、廃校となりました。



廃校となっても、木造の校舎は長らくそのままの状態で残されていましたが
現在は、その校舎も解体され、更地となっています。


      20130807六藤分校02


      20130807六藤分校03



どうやら地域の避難場所となっているようです


      20130807六藤分校01

この看板に分校だった証が残されていました。




県道からの入口だったのでしょう
この階段を上った先が分校

おそらく階段を上った両脇に校門があったんじゃないのかな?


      20130807六藤分校09



      20130807六藤分校07



おそらく、この位置からバァ~ンと木造校舎が見えたことでしょう


      20130807六藤分校08





在りし日の 六藤分校

   ※ 下の2枚の画像は
     トキミチさんのブログ 廃墟の王子様 からお借りしました 

    木造校舎


      六藤分校


   こちらは講堂


      六藤分校02






平成23年~24年にかけて解体されたようです
(上野原市の平成23年度予算で執行されたようです)

過疎化が進む西原地区
何とか観光施設か何かで2次利用ができなかったんだろうか......?







余談ですが.........

ネットでこの分校のことを調べていたら

民主党の輿石東氏(74)は、
都留短大を卒業して神奈川県で5年間教諭をした後、
1963年、山梨県の教諭となった。
初任地は上野原町立(現上野原市立)西原(さいはら)小学校六藤(むそうじ)分校。
20歳代だった輿石氏は、スポーツ好きな熱血先生で、
休日はよく教え子を山菜採りに連れて行った。
児童は率先して、先生のために薪(まき)を割って官舎で風呂を沸かした

                        (2010年8月15日 読売新聞 山梨版 より抜粋)


いやぁ~、いい話ですね。
山奥の分校の若き熱血教師と子供たちとの交流
なんとなく、その光景が浮かんできます..........。










この位置から見えたであろう校舎は、もうありません


      20130807六藤分校06



この位置から見えたであろう講堂も、もうありません


      20130807六藤分校04





校庭の隅にある木も中途半端に伐採され
過疎の進む集落の分校跡の悲しさをちょっぴり感じてしまいました


      20130807六藤分校05



解体される前に、この地を訪れたかったなぁ................





 
 
 
2013/08/23 Fri. 16:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit