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び・び・びのびいすけ

ぼく と 父さん と時々 もっちゃん

小田代城址 (2013年4月22日)(千葉県夷隅郡大多喜町) 

4月22日 公休日



大多喜町の外れ
どちらかというと、養老渓谷に近い大多喜町小田代地区
老川小学校裏手の山が小田代城址と言うことで訪れてみました。

大多喜町の中心街から近いと思っていたら
意外や意外、結構な距離を車で走ることになってしまいました(笑)


今回も 余湖くんのホームページ の縄張り図を
散策の参考とさせていただきました。




こちらが登城口
二又の真ん中の道を入っていけば小田代城となります

 
      20130422小田代城址01


城址入口の腰曲輪


      20130422小田代城址02



主郭の虎口の塚

三峰社が祀られています


      20130422小田代城址09


以前はこの辺りに大多喜町が建てた説明版があったそうですが
朽ち果てて捨てられてしまっようです


う~ん、残念


      20130422小田代城址03



こちらが主郭
現在は畑となっています
害獣防止のネットが張られていました。


      20130422小田代城址04



ネット越しにぐるっと1周してみようとしたら
半周したところで養蜂の巣箱を見つけ、慌てて逃げました

蜂に刺されたら大変です(笑)


      20130422小田代城址05



主郭入口の土塁
高さ2mほどの立派な土塁です


      20130422小田代城址06


      20130422小田代城址08



堀切跡
かつては、かなりの深さを誇っていたようですが
現在はかなり埋められてしまって、空堀っぽく見えてしまいます


      20130422小田代城址07




主郭側から見る腰曲輪

二段腰曲輪の下段になります


      20130422小田代城址10



こちらは上段の腰曲輪


      20130422小田代城址11


      20130422小田代城址12



登城路手前の堀切
山城の雰囲気満載です

      20130422小田代城址13




小田代城遠景
中央の木々の奥が城址となります


      20130422小田代城址14



工務店の作業場の庭先を入っていくような感じで
遠慮がちに散策させてもらいました

民家の脇を通ったり、今回のように作業場の脇を通る時に
意外に飼われているワンちゃんに吠えられうことが多いのですが
今回はワンちゃんもいなくて、静かなものでした(笑)


大多喜町のHPを覗いても、この小田代城址については触れていないし
ネットでいろいろ調べても、小田代城址についてはHITしない。
千葉氏の一族である東胤頼が築城したということらしいが、
天文年間(1532~1553)にこの地に進出した里見氏の家臣・正木氏によって
支配されていた城ということらしい


こうなると、朽ち果てて捨てられてしまった大多喜町が設置したという説明看板。
どんなことが書かれていたのか? 気になるところです

大多喜町よ、
もう一度、説明看板を設置していただけないものでしょうか.....?



 
 
 
 
 
 
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2013/05/02 Thu. 20:00 | trackback: -- | 本文: 0edit

大多喜根古谷城址 (2013年4月22日)(千葉県夷隅郡大多喜町) 

4月22日 公休日



大多喜城址から北に1.5kmぐらいの距離に大多喜根古谷城址があります。

水田地帯に面した低い台地上に築かれたもので、
台地上は宅地化が進んでいて、遺構はほとんど残されいないのが現状です

その台地の一角に 3mほどの高さの櫓台のような高台があり
そこが大多喜根古谷城址です


      20130422大多喜根古谷城址01



10m四方の高台には城址碑しか残っていません。


      20130422大多喜根古谷城址03


こちらが城址碑


      20130422大多喜根古谷城址04


大多喜根古屋城の地は永正、大永のころ、
上総真里谷城主武田信興の勢力範囲であったので、
当時武田氏と対抗していた房州の里見氏は
かねてから東上総方面を侵略しようと図っていた。
信興は里見氏の侵略に備えて、次男信清をして上総小多喜の郷に根古屋城を築城し、
里見氏に備えた。これが根古屋城の始まりである。

武田氏は二代続いたが二代目朝信は天文十三年里見氏の将、正木大膳亮時茂と
上総苅谷原で戦い大敗して自害し、時茂は根古屋城に入城、
東上総は里見氏の勢力下に入った。

其の後、時茂は里見軍に従って相州の北条氏と戦い、
勇名房総になりひびき鬼大膳といわれた勇将となった。
正木氏は憲時、時尭と三代続き、天正十八年時尭の時、
徳川家康の名将本多忠勝と戦って落城、
時尭は伯耆倉吉に移り正木氏は三代にして亡びた。

家康は忠勝に対し大多喜根古屋城十万石をあたえた。
忠勝は根古屋城の防備が近代戦にそわないと考え、
その西南1.5キロの地を選定、精細な城郭図をそえて築城を願い出た。
家康は戦功顕著な忠勝に対して心よく許可したので、
近世大多喜城が築城され中世大多喜根古屋城は廃城となった。


                          (現地 城址碑銘文より)





周りは水田地帯


      20130422大多喜根古谷城址07



水田地帯の奥の台地が近世・大多喜城址


      20130422大多喜根古谷城址05



望遠レンズで覗く、復刻天守閣


      20130422大多喜根古谷城址06



城址牌には、本多忠勝がこの地に来るまで、
ここが大多喜城だったと記されていますが
上総の名門、正木氏がかつて居城していたというには
あまりにも小さいと言うか、城としての防備力に乏しい気もします。

やっぱり、栗山あたりが中世の大多喜城(小多喜城)とする説が
正しいような気がしてきます..........


 
 
2013/05/02 Thu. 00:00 | trackback: -- | 本文: 0edit