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び・び・びのびいすけ

ぼく と 父さん と時々 もっちゃん

府中城址  (2013年2月23日)(茨城県石岡市) 

2月23日 公休日


石岡の中心街と言うか、石岡小学校が府中城址と言うことで、
府中城址に立ち寄りました。

私も認識不足と言うか、不勉強だったのですが
遠い昔から、茨城県の中心街は水戸地区だと思ってましたが
どうやらそれは間違いで、かつて茨城の中心はここ石岡だったと言うことです。

奈良時代にこの石岡に常陸国の国府が置かれていたということです。


そもそも国府とは........


   国府(こくふ、こう)は、日本の奈良時代から平安時代に、
   令制国の国司が政務を執る施設(国庁)が置かれた都市。

   国府付近には国庁のほかにも国分寺・国分尼寺、総社(惣社)が設置され、
   各国における政治的中心都市であるとともに司法・軍事・宗教の中心部であった
 
                            ( Wikipedia より抜粋)


  
府中城は由緒あるこの地に貞和2年(1346年)大掾詮国によって
築かれたと言われています。
大掾氏は桓武平氏・平良望が常陸国大掾となって下向したことによって始まり、
職名から大掾氏と称するようになりました。
代々、大掾氏の居城でありましたがたが、豊臣秀吉の小田原攻めに協力しなかったため、
小田原落城後の天正18年(1590年)佐竹義宣によって攻略され、
城主・大掾浄幹は自大掾清幹は自刃しました。
その後、常陸国を支配する佐竹氏の領となります。
佐竹義宣の弟の佐竹義尚が城主となりましたが、
慶長7年(1602年)佐竹氏が出羽国久保田へ転封となります。
代わって六郷政乗が一万石で入城。この時に常陸府中藩が成立します
元和9年(1623年)には六郷政乗が出羽本庄に移り、皆川広照が一万石で入城します。
皆川氏は広照の孫・成郷の死後は嗣子が無く、府中領は一時幕府の天領となりますが、
元禄13年(1700年)に徳川光圀の弟・松平播磨守頼隆が二万石で入城すると、
この地に府中陣屋を置き、水戸藩の支藩となりました。



このような歴史を持った府中城址は

常陸国府跡 でもあり 府中陣屋跡 でもあります。




石岡小学校に隣接する石岡市民会館の駐車場には
石岡の陣屋門跡の石碑があります


      20130223府中城址01




石岡と呼ばれるようになったのは1869年(明治2年)
版籍奉還により 常陸府中藩が石岡藩と改称し、
合わせて城下町の府中も石岡と呼ばれるようになったそうです。

本来であれば府中陣屋と呼ぶのが正解ではないのかな?(笑)




現在の住所は 石岡市総社 ですが
昔はこの辺りは 元真地(もとまち)と呼ばれていたそうです。



      20130223府中城址02



こちらが 府中陣屋の陣屋門


      20130223府中城址03


そして、陣屋門の説明看板


      20130223府中城址04



陣屋門裏手には府中城時代の土塁が残っています。
これがその説明看板


      20130223府中城址05



そして、これがその土塁


      20130223府中城址06


      20130223府中城址07


      20130223府中城址08



こちらは、常陸府中国府跡 の石碑


      20130223府中城址09




小学校の校庭の奥には、かつての空堀跡でしょうか?
遺構っぽく見えてしまいます


      20130223府中城址10




石岡小学校に隣接する 常陸国総社宮


      20130223府中城址11


      20130223府中城址12



この辺りは、ひょっとしたら往時の面影を残しているのでしょうか?


      20130223府中城址13






小学校の校庭の奥、そして幼稚園に隣接する削平地
この辺りは二郭にあたる場所。

民地として分譲されていました。
数年後には宅地として利用されてしまっていることでしょう。

 
 
      20130223府中城址14



小学校の駐車場から見上げる府中城址の土塁
やっぱり見事です


      20130223府中城址15


      20130223府中城址17



土塁の上に建つ 常陸のみやこ一千年 の石碑


      20130223府中城址16



1000年月日が経って、この辺りもかなり変わってしまったことだろう
奈良時代の常陸の都も今は.........

かつて、江戸時代に下総(千葉北総地区)の中心であった佐倉が
明治以降衰退していったように、この石岡も衰退していったのだろう

時代の流れは、かくも儚いものなのだろうか.....?


そんなことを、ふと感じてしまった石岡の府中城址でした..............。



 
 
 
 
 
 
 


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2013/03/10 Sun. 12:00 | trackback: -- | 本文: 0edit

有明の松  (2013年2月23日)(茨城県石岡市) 

2月23日 公休日


石岡市の丸ポストを探しているとき
移動中の車のナビがチ地図上に史跡のマークを示した。


「有明の松」..........?



なんだそれ?


私が育った愛知県知立市の近隣に有松町というのがあった。
(現在の愛知県名古屋市緑区有松町)

なんとなく気になって、ナビがその近くになるのを
(車がその近くになるのを)心待ちにした。



その場所に到着すると、県道脇に小さな台地が(と言うよりも土盛り?).....
すぐ脇にはバス停があり 「有明」 と記されている。


どうやらここがその有明の松らしい。


石碑にもしっかりと記されています。


      20130223有明の松03



小さな台地には説明看板と一本の小さな松の木があります。


      20130223有明の松04


残念ながら説明看板は文字が掠れてほとんど読めません。
何とか読める字から文面を推測すると..........

どうやら昔、このあたりで戦があったらしい



自宅に帰ってから詳しくネットで調べてみた。

南北朝時代末期1387年、今から700年以上も前に起きた出来事です。

1380年南朝方の小山義政が難台山中に城郭を造り、
足利軍と合戦して破れ、
さらに、1387年、小田五郎藤綱と義政の子・若犬丸が、
再度、難台山に陣を構え、北朝足利方の上杉朝宗と合戦し、
8か月に及ぶ籠城、攻防の末、食糧供給の道を遮断され、食料が尽き落城してしまいました。
藤綱は城を焼いて自害し、若犬丸は逃亡、
小田五郎は郎党百名あまりとともに討ち死にしたと伝えられています。

この時に、難台城の婦女子が夜を徹して難台山を逆に登り裏山を下って、
この松の下に集まり、夜を明かしました。
その時に見た夜明けの空が大変すばらしかったので
将来を明るく見ようと「有明の松」と名付けられたと伝えられています。



      20130223有明の松01


      20130223有明の松02



しかしながら、700年前の松にしては小さすぎる.......?

      20130223有明の松05



それもそのはず、往時の松は県の天然記念物に指定されていたが、
松くい虫に侵されたため昭和五十五年に伐採されて、今は無い。

その松(親木)から採取した種子を発芽させたものであるとのことだが
2代目の松も数年前に枯れ果ててしまたようで
現在の松は三代目らしい。


      20130223有明の松06


      20130223有明の松07


      20130223有明の松08


      20130223有明の松09



右手後方に見えるのが難台山
この山に難台山城があり茨城県の文化財として指定されているそうです。


      20130223有明の松10




有明とは元来、夜明けを意味しています。

難台山城の悲話ですが、悲しい中にも明日への期待
未来に対する希望も垣間見れて、生きる希望を感じられます。


この小さな松の木も私たちの希望を糧に大きく育ってほしいものです。




 
 
 
 
 
 
 

2013/03/10 Sun. 00:00 | trackback: -- | 本文: 2edit