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び・び・びのびいすけ

ぼく と 父さん と時々 もっちゃん

大戸関所跡 (2019年8月22日)(群馬県吾妻郡東吾妻町) 

8月22日

8月22日〜23日に1泊2日で群馬県〜長野県に遊びに行って来ました。

群馬県と言っても広い。
今回は、吾妻地区の東吾妻町を中心に巡ります。


萩生教場をあとにして、向かった先は................大戸関所跡


江戸時代には、江戸幕府や諸藩が、軍事・警察上の必要から関所を設置しました。
主な関所には、東海道の箱根関所や新居関所、中山道の碓氷関所や木曽福島関所、
甲州街道の小仏関所、日光街道・奥州街道の房川渡中田関所などがありました。

宝暦14年(1764年)に、通行手形の発行された関所は、
上州の新郷、川俣、五料、杢橋、碓氷、横川、大戸、大笹、猿ヶ京。
相州の箱根、根府川。
総州の小岩、市川、関宿。
越後の関川。
遠州の今切、荒井。
信州の福島(木曽福島)。
武州の房川渡(栗橋・中田)、小仏(駒木根)の17ヵ所が指定されたそうです。
ちなみに江戸時代の関所は、幕末には46あったとされています。

その中のひとつ、大戸関所は近世初頭の寛永8年(1632年)に
信州街道の要点をおさえる重要な関所として、
江戸幕府によって設置されました。

あの国定忠治が子分の仇をとるため、
手下30人余りをひき連れ信州へ向かった際、
大戸関所を破ったため関所破りの罪で手配され捕縛され、
はりつけの刑に処せられた場所だとされています。



こちらが、大戸関所跡。

      20190822大戸関所跡01

この門構えが、いかにも関所って言う面構え。



でも関所跡と言っても、この門と標柱、そして説明板と碑が在るのみ。

      20190822大戸関所跡02



こちらが標柱。

      20190822大戸関所跡03



そして、説明板と碑。

      20190822大戸関所跡04


      20190822大戸関所跡05



関所跡から100mほど離れた場所には、
加部安左衛門関連の遺構が残されています。

      20190822大戸関所跡06

加部安左衛門は江戸時代から明治時代にかけて、
信州から江戸への物資輸送、草津温泉、川原湯温泉などを往来する交通の要衝だった旧大戸村で、
代々世襲されてきた加部家当主です。

加部家は農業のかたわら、酒造業や鉱山業、金融業、麻の仲買商などを営み、
長年にわたって大戸関所の関守(せきもり=関所の番人)を務めたほか、
地域社会にも献身的に貢献し、「加部安(かべやす)」と称され、多くの人に親しまれました。
上州(現在の群馬県)の三大尽(だいじん=お金持ち)として、
「一加部、二佐羽、三鈴木」と呼ばれ、その筆頭に挙げられたそうです。

特に、7代・安左衛門重実、8代・安左衛門光重が商売に成功し、
1783(天明3)年の浅間山大噴火、
1784(天明4)年の冷害・凶作などの際は財産を惜しまず使い、
被災した吾妻川流域の多くの住民を救ったと言われています。

その加部家の12代嘉重の生家跡。

      20190822大戸関所跡07



残された住居の一部と井戸が町指定史跡となっています。

      20190822大戸関所跡08



大戸の関所から700mほどの所に、関所破りの罪で処刑された刑場があります。
上州佐波郡国定村に生まれた忠治は、天明の大飢饉の際に
餓死する庶民を見るに忍びず、岩鼻代官を殺害して蓄米倉を開放し、赤城山にこもりました。
さらに大戸の関所を破り、反逆の罪でこの地で磔刑されました。

稀代の仁侠人である忠治を慕い、忠治地蔵尊が建てられ、
その冥福を祈って訪れる人もかつては多かったそうです。



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2019/09/13 Fri. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

白河の関 (2018年4月27日)(福島県白河市) 

4月27日

御朱印を拝受するために訪れた白河神社。

実は、白河神社が鎮座する地は、白河の関跡になります。
白河の関は、鼠ヶ関(ねずがせき)・勿来関(なこそのせき)とともに、
奥州三関の一つに数えられる関所です。
都から陸奥国に通じる東山道の要衝に設けられた関門として史上名高い関です。
その設置の年代は不明ですが、奈良時代から平安時代頃に機能していた国境の関で、
蝦夷の南下や人、物資の往来を取り締まる機能を果たしていたと考えられています。

関の廃止の後、その遺構は長く失われて、その具体的な位置も分からなくなっていましたが、
寛政12年(1800年)、白河藩主の松平定信が、文献による考証を行い、
その結果、白河神社の建つ場所をもって、白河の関跡であると論じたそうです。

その白河の関。
そこには、城郭遺構が残されています。
関所と言うからには、番人も居ただろうし、
役人の居住地(館)があってもおかしくない。
ましてや、奈良時代や平安時代初期ともなれば
防御機能を備えた空堀や土塁があってもおかしくない。
と、言うわけでいつものように、
余湖さんのHPから縄張り図をお借りしました。

白河の関館跡の縄張り図。

      白河の関 縄張り図


こちらが、城址碑ならぬ、関所跡の碑。
『白河関跡』の碑。

      
20180427白河の関01



『白河の関』の説明板。

      20180427白河の関02



白河の関の発掘調査の説明板。

      20180427白河の関03

1960年代の発掘調査を行った結果、
土塁や空堀を設け、それに柵木を巡らせた古代の防禦施設を検出しました。
その後、昭和41年に「白河関跡」として国の史跡に指定されたそうです。



松平定信による古関蹟の碑。

      20180427白河の関04

白河藩主である松平定信(楽翁)が寛政12年(1800)年8月に、
ここが白河関跡であることを断定し、建立した碑です。



白河神社の脇にある空堀。

      20180427白河の関05


      20180427白河の関06



空堀手前に鎮座する祠。

      20180427白河の関07



土橋。

      20180427白河の関08



土橋脇の土塁。

      20180427白河の関09


土橋の先は、1の郭。

      20180427白河の関10

郭の周囲を土塁が取り囲んでいます。



郭そのものは約30m四方な方形。

      20180427白河の関11



白河神社脇の空堀はぐるっと郭の周りを巡っています。

      20180427白河の関12



この辺りの空堀は埋め戻されているようです。

      20180427白河の関13



敷地内に建つ句碑。

      20180427白河の関14



この地は、西山国師遺跡霊場の札所でもあるようです。

      20180427白河の関15



こちらは、従二位の杉。

      20180427白河の関19
      20180427白河の関20



鎌倉前期の歌人である従二位藤原宮内卿家隆が手植し、
奉納したと伝えられる古木だそうです。
推定樹齢は約800年、周囲約5メートルの巨木です。

      20180427白河の関21




こちらは、旗立の桜

      20180427白河の関22

治承4年(1180)源義経が平家追討のため平泉を発し、
この神社に戦勝を祈願するため旗揃えをした際に、
この桜に源氏の旗を立てたと伝えられています。



午前中に訪れた小峰城が近代的な城郭としたら
この白河の関は、仮に居館跡としても土の城。

      20180427白河の関16



空堀と土塁しか残っていないけれど、
それらが中世の城郭だと改めて認識させてくれます。

      20180427白河の関17


      20180427白河の関18


御朱印巡りで訪れた白河神社でしたか、白河市ではメジャーな観光地でもあり
それが、中世の城郭でもある。
個人的には1粒で2度おいしい、グリコのキャラメルのような白河の関でした...............。



2018/06/14 Thu. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

箱根関所跡   (2014年10月28日)(神奈川県足柄下郡箱根町) 

10月28日

伊豆旅行の2日目。
伊豆から箱根に移動し、箱根を楽しんでいます。

恩賜箱根公園をあとにして、徒歩にて数分。
しきちが隣接する 箱根関所跡 に立ち寄ってみました。


箱根って私の中では、ずっ〜と旅行の通過点であり、
目的地ではありませんでした。

高校生の頃は、350ccのオートバイで国道1号線を走り
箱根越えをしたものです。

まともに箱根観光するのって、ひょっとしたら初めてかも?


そんな私でも、箱根の関所のことは知っておりました。

『入鉄砲と出女』

すなわち、江戸に鉄砲が入ってくるのを抑えるのと
各大名の奥方、子女が江戸から逃げ出さないようにと設けられたものだと
遠い昔の日本史で習った覚えがあります。

正式には『箱根関』と呼び、
江戸幕府によって元和5年(1619年)から明治2年(1869年)まで、
相模国足柄下郡箱根(現箱根町箱根)の芦ノ湖湖畔に設置された
東海道の箱根関所(はこねせきしょ)を指す。

明治2年に廃止され、跡地は国の史跡とされ
平成19年に大番所・上番休息所、京口御門、厩[うまや]が
完全復元されたそうです。


こちらが、箱根関所跡。

      20141028 箱根関所跡01


      20141028 箱根関所跡02



てっきり、石碑と説明板があるだけかと思っていたら
立派な復元施設となっておりました。

おまけに入場料500円も徴収されます。

箱根の通行料は安くないぞ!?


おまけに施設内(建物内)はワンコNG。

つまんないから、帰ろうとしたら、

『建物内に入らなくて、関所を通過するならワンコも通れますよ。
料金も要りません』

嬉しい言葉を頂きました。


では、遠慮がちに関所を通過させて頂きましょう。


こちらが、江戸口御門。

      20141028 箱根関所跡03

京口御門の対面側にあります。
高麗門という形式の門で、その高さは6.1mで、
大番所・上番休息所をしのいでいます。
屋根や外観は「栩葺」、「渋墨塗り」です。
江戸方面から来た場合には、この門から中が箱根関所の構内で、
西へ向う旅人はこの門の前で身支度を整え、関所の中へと入ったそうです。




江戸口御門から中に入り、さっさっさぁ〜と通り抜けます。

とは言いながらも、カメラはしっかりと活用します。



こちらが大番所・上番休息所

      20141028 箱根関所跡06

関所の一番主要な建物です。
二棟が継がれている建物で、街道側が大番所、
湖側が上番休息所と呼ばれています。
共に栩葺(とちぶき)と言われるうすく割いた杉板を重ねた屋根を持ち、
また外観は、渋墨で塗られた黒い建物です。




こちらが、足軽番所。

      20141028 箱根関所跡07

大番所・上番休息所の次に大きな建物で、
大番所・上番休息所の向かい側、江戸口御門の脇にあります。
昼間は足軽が控えていたり、夜は足軽が寝ていた場所です。
建物内には足軽のための部屋や休息所、不審な武士などを留め置く「揚屋(あがりや)」、
関所破りをした罪人などを一時的に拘置する獄屋(牢屋)などがあります。
屋根は大番所と同様に杉板を薄く割って重ねた「栩葺(とちぶき)」で、
外壁は壁板を「渋墨(しぶすみ)」で黒く塗られています。
特に、「獄屋」は格子で囲まれており、とても頑丈に造られています。




そして、こちらが遠見番所。

      20141028 箱根関所跡08

箱根関所で唯一の二階建ての建物です。
四方に開かれた大きな窓から二名の足軽が昼夜を問わず交代で、
芦ノ湖や街道沿いを見張っていたそうです。




そして、こちらが京口御門

      20141028 箱根関所跡04

江戸口御門の対面側にあります。
高麗門という形式の門で、その高さは6.1mで、
大番所・上番休息所をしのいでいます。
屋根は外観は「栩葺(とちぶき)」「渋墨塗り(しぶすみぬり)」です。
京都方面から来た旅人は、この門から中が箱根関所の構内で、
旅人はこの門の前で身支度を整え、関所の中へと入ったそうです。





江戸時代には通行するのに大変な思いをした箱根関所。

平成のこの時代には、いとも簡単に素通り(?)出来てしまう箱根関所。




いつの世にも手配された人相書きがあるものです。

      20141028 箱根関所跡05


平成の人相書きは、こんな感じです(笑)。










2014/11/26 Wed. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

小仏の関  (2013年12月16日)(東京都八王子市) 

12月16日 公休日


八王子市には旧甲州街道があります。
その旧甲州街道の駒木野宿にかつての関所跡があります。

実は、その関所は浅川小学校上長房分校のすぐ近くにあり、
せっかく近くに来たのだからと、立ち寄った先は

          小仏の関跡


車を運転して高速の中央道の渋滞情報で
小仏トンネルから何km渋滞ってよく聞きますが
その小仏トンネルの近く、小仏峠を越えさせないための関所が
小仏の関でした。


小仏の関とは

江戸時代、甲州道中でもっとも堅固と言われた関所です。
天正年間(1573から92)に北条氏照が武蔵国と相模国境の要衝として小仏峠の頂上に築いたのがはじまりと言われ、その後麓に下ろされ、更に北条氏滅亡後(1590年)に関東に入った徳川家康によって、現在地に移設され整備されたといわれています。
江戸時代の絵図によると、関所には東西に門が設けられ、敷地の北側に番所が設けられていました。東門の外には川が流れ、駒木野橋が架けられていました。関所周辺には竹矢来が組まれ、川底も深くして通行人の往来を規制していました。
関所の警備は一時三人だったこともありますが、概ね四人体制で専従の関守が置かれていました。関守達は関所付近に屋敷地を貰い、江戸との繋がりも深く、地域の文化を担う文化人でもありました。
全国の関所は、明治2年(1869)の太政官布告により廃止されます。小仏関も例外ではなく、建物は取り壊されてしまいました。現在は建物の前にあった、通行人が手形を置いた手形石と吟味を待っている間に手をついていた手付石が残っています。
明治21年(1888)に甲州街道は小仏峠を通る道から、現在の大垂水を越える道へ路線変更されました。その後旧道を保存しようという気運が高まり、関所跡は昭和3年に国の史跡に指定されました。
現在は旧道の面影を残し、また梅の名所としても知られ、ハイキングの人たちで賑わいます。

                           (八王子市HPより抜粋)



江戸時代、東海道の箱根、中山道の碓氷と並んで「関東の三関」の一つとされた
甲州道中「小仏の関」の関所跡です。

国の史跡に指定されているだけあって
しっかりと立派な説明看板が準備されています。

      20131216小仏の関01



こちらは八王子の教育委員会が建てた説明看板

      20131216小仏の02



さらには、立派な石碑もありました

      20131216小仏の関03



江戸時代に江戸の防衛のため、首都の出入門として
人々の通行を厳しく取り締まったといわれています。
特に「入り鉄砲に出女」は最も警戒され、江戸への武器の持ち込みと、
人質として江戸住まいさせている諸大名の妻妾たちの脱出を厳しく監視したそうで、
関所破りははりつけの極刑に処されるほど、厳重な取り締まりが行われていたそうです。


地面に置かれた二つの自然石は、
一つは手形を置く手形石で、
もう一つは通行人が手を付き頭を下げるための手付石。

      20131216小仏の関04

石碑の前に置かれた自然石は、奥が手形石で手前が手付石。




      20131216小仏の関05


こんな立派な碑もあって、ここはまさしくかつての甲州街道駒野宿。

      20131216小仏の関06


      20131216小仏の関07



かつての関所の建屋があったであろう跡地は削平地。
現在は公園化していて、ちょっとしたベンチもあって
この日も老人ベンチに座って日向ぼっこをしていました。


      20131216小仏の関08


広場(?)の周りに桜の木が何本もあるから
きっと春には綺麗な桜が咲くことでしょう。

      20131216小仏の関09


      20131216小仏の関10


      20131216小仏の関11




自然の地形を利用したと思われる関所跡
今は枯れて水も流れていませんが、
かつては、この川も天然の堀として生かされていたのでしょう。

      20131216小仏の関12


小仏の関は住所で言えば八王子市裏高尾町。
高校の時の同級生がこの近くに住んでいて、
彼の家には高校生の時に何度か遊びに行ったことがあります。
もう数十年前のことで、かつてはまばらに建っていた民家も
今やすっかり様変わりして、多くの民家が建っていて
彼の家がどこにあったか分からなくなっていた。
当時は畑の中にポツンと建っていたからすぐ分かったんだけれど.......

休日だったら、無理してでも人に尋ねて探しても良かったけれど
平日だったから留守な確率は高いので諦めました。
もう何十年も会っていないけれど、元気でやっているのかな?

そんな思いを胸にこの地をあとにすることに................。




 
 
 

2014/01/01 Wed. 03:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit