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び・び・びのびいすけ

ぼく と 父さん と時々 もっちゃん

戸ノ口原古戦場跡 (2018年10月29日)(福島県会津若松市) 

10月29日

1泊2日の福島旅行。
その初日は会津若松市。

強清水の湧水をあとにして、向かった先は...................戸ノ口原古戦場跡



福島県の会津若松市を語る上で、避けて通れないのは戊辰戦争。

戊辰戦争とは、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、
旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦です。
慶応4年(明治元年)の干支が戊辰であることに由来します。

慶応4年、京都の南郊外の鳥羽および伏見において、
薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍と
旧幕府軍は戦闘状態となり、ここに鳥羽・伏見の戦いが開始されました。
両軍の兵力は、新政府軍が約5,000人、旧幕府軍が約15,000人と言われていました。
総兵力で旧幕府軍が上回っていましたが、緒戦の混乱および指揮戦略の不備などにより、
旧幕府軍は苦戦し、京坂地域から敗北撤退し大坂に戻りました。
さらには、大将である徳川慶喜は自軍を捨てて大坂城から少数の側近を連れ、
海路で江戸へ退却してしまいました。

こうして、新政府に反抗した旧幕府軍は朝敵となってしまいます。
特に京都守護職および京都所司代として京都の治安を担当していた会津藩藩主・松平容保
および桑名藩藩主・松平定敬の兄弟は、京都見廻組および新撰組を用いて尊王攘夷派の弾圧を行い、
尊王攘夷派・のちの新政府(薩摩藩・長州藩)から恨みを買っていました。
また鳥羽・伏見の戦いにおいて会津藩と桑名藩は旧幕府軍の主力となり、
この敗北によって朝敵と認定されてしまいました。

江戸城は無血開城したものの、新政府軍は旧幕府軍を討伐するために上野の寛永寺で戦い、
宇都宮、白河と戦いの場を移動しながら会津城(鶴ヶ城)へとその陣を進めます。

二本松城を攻め、猪苗代城を陥落させた新政府軍は、
怒涛の勢いで十六橋に殺到します。
この橋は、戦略上非常に重要なポイントになっており、
ここを抜かれれば会津若松の城下は無防備な状態となります。
旧幕府軍は急いで橋の破壊を開始しましたが、
石橋だった為に容易には破壊出来ませんでした。
目前まで攻め込んだ敵に、短時間で橋を奪われてしまいまました。

その頃、藩境の母成口が破られたという知らせを受け、
予備軍だった白虎隊も集合を命じられていました。
藩主・松平容保のお供として滝沢村へ行く途中で、
戸ノ口原方面から応援を求められ、白虎隊は戸ノ口原に向かうことになりました。

白虎隊も加えた旧幕府軍は、進入してきた新政府軍と激戦を繰り広げました。
しかし、新政府軍が次々と戦力を増強する中、多くの兵が死傷した旧幕府軍は次々と退却します。
白虎隊も、身も心も疲れ果てた状態で、ちりぢりになりながら、
ただ一つの希望・鶴ヶ城を目指します。

このとき本体とはぐれた白虎士中二番隊の20名が、
戸ノ口堰洞穴を抜けて飯盛山に辿り着き、
城下を見下ろして鶴ヶ城が落ちたと錯覚します。
そして飯盛山で集団自刃に...................

戸ノ口原の戦いは白虎士中二番隊の最後の戦いであり、
戸ノ口原は最後の戦場でありました。



と世に語り継がれる白虎隊の悲しい物語ですが
白虎隊の最後の戦いの場であったのが、戸ノ口原です。

      20181029戸の口古戦場跡01


      20181029戸の口古戦場跡02


      20181029戸の口古戦場跡03


      20181029戸の口古戦場跡04



幾多の血がこの場所で流されたのだろう。

      20181029戸の口古戦場跡05



白虎隊奮戦の地 と言う碑文が何となくもの悲しい。

      20181029戸の口古戦場跡06

16歳から17歳の武家の男子によって構成された白虎隊。
年端もいかない子供達が刀を持って戦った。

動乱の時代とは言え、大きな歴史の渦に巻き込まれた会津の悲劇。



霧にけむる古戦場跡。

      20181029戸の口古戦場跡07


      20181029戸の口古戦場跡08

何とも言えない幻想的な雰囲気です。



近くには、戊辰戦争の戦死者の墓群が点在しています。

      20181029戸の口古戦場跡09


      20181029戸の口古戦場跡10


霧は晴れる気配はない。

      20181029戸の口古戦場跡12


      20181029戸の口古戦場跡13




往時からほとんど変わっていないと言われている旧・越後街道。

      20181029戸の口古戦場跡11


この道を新政府軍は進軍し、白虎隊は撤退した。

  
それから140年以上の時を過ぎ、
自動車と言う鉄の馬に乗って、私たちはこの道を進んで行く..........................。



 

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2018/12/18 Tue. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

犬掛古戦場跡&里見氏の墓  (2017年3月9日)(千葉県南房総市) 

3月9日  公休日

この日は、房総半島の南房総市に出かけました。

途中、富津市で寄り道をしながらも、向かった先は...............犬掛の里



戦国時代、関東制覇をもくろむ小田原・北条氏と激しく争ったのが安房・里見氏です。
その里見氏は里見義堯の代に最盛期をむかえ、房総半島に一大勢力を誇りました。

そもそも里見氏は贈鎮守府将軍・新田義重の庶長子・新田義俊(里見太郎)を初代とし、
里見の名は、新田義俊が上野国碓氷郡里見郷(現在の群馬県高崎市上里見町・中里見町・下里見町)に移り、
その地の名を苗字としたことに由来するそうです。

鎌倉時代になると、義俊の長子・里見義成が源頼朝に仕えて御家人となります。
義成は頼朝に重用され、頼朝の死後も代々の将軍に近侍しました。
元々は上野国・常陸国などに所領を与えられていましたが、
永享の乱、続いて結城合戦で里見家基が討たれ、里見氏は没落します。

家基の子・義実は安房国に落ち延び、のちに安房里見氏の祖となったとされています。

その里見氏も3代目当主、里見義通が危篤となった時、
嫡男・義豊はまだ5歳であったため、義通の弟である実堯が、
義豊が15歳になるまで陣代(後見人)として家督を預かる事になりました。

実堯は稲村城を居城とし、義豊は支城の宮本城を居城とし、
実堯の子・義堯は上総・金谷城を居城としました。
ところが、義豊が15歳になっても、実堯は北条氏綱の上総へ侵攻を理由に
家督移譲を延期し、里見氏の家督を維持していました。

義豊は二十歳になった天文2年に稲村城を襲って、
実堯とこれを補佐する正木通綱を殺害してしまいました。

里見義豊が叔父・里見実堯を殺して家督を奪ったため、
実堯の子・里見義堯が仇討の兵を起こして、義豊を討つことになります。

天文3年、上総にいた義堯は正木通綱の子である正木時茂・時忠兄弟と連絡を取って
敵討ちを図ろうとします。
義堯は仇敵である小田原の北条氏綱に同盟を依頼します。
義堯は北条氏綱らの援軍を受けて全軍を率いて上総を出発し、
義豊のいる稲村城を直接奇襲すべく進軍させ、犬掛の地(現在の千葉県南房総市)で
義堯軍と義豊軍が合戦になりました。

結果は義堯軍の勝利。義堯は義豊が籠城を図ろうとした稲村城内にまで突入し、
このため、義豊は稲村城を脱出したものの進退窮まって自害して果てたとされています。

これが『天文の内訌』(稲村の変)と言う、里見氏の内紛劇です。

こうして父の仇を討った里見義堯が非道な義豊に代わって、
里見氏の家督を継ぐことになったのです。


その合戦の地が、犬掛合戦場です。


犬掛の里山の路肩に車を停め
散策を兼ねて、合戦場跡に向かいます。

      20170309犬掛古戦城跡&里見氏の墓01




この台地の下で壮絶な合戦が繰り広げられたようです。

      20170309犬掛古戦城跡&里見氏の墓02


合戦場跡には碑が建てられているようなので
碑のある場所へと向かいます。


温暖な南房総市だから、梅の花は満開かと思いきや
ポツリポツリと咲き始めた状態。

      20170309犬掛古戦城跡&里見氏の墓03


      20170309犬掛古戦城跡&里見氏の墓04



こちらが、合戦場跡。

      20170309犬掛古戦城跡&里見氏の墓05

この場所に碑が建てられていたようですが、
碑は見当たりません。
比較的新しく見える説明板が建てられていました。
(基礎のコンクリートも新しく見える)

      20170309犬掛古戦城跡&里見氏の墓06



説明板から数百m離れた場所に
里見氏の墓が在ると言うことなので、
そちらに向かいましょう。

      20170309犬掛古戦城跡&里見氏の墓07



稲村城から北上して来た義豊軍を迎え撃った義堯軍は
この台地で待ち伏せしていたのでしょうか?

      20170309犬掛古戦城跡&里見氏の墓08

いずれにしても、後々の里見氏の家督を争う戦いがこの地で起こりました。



この石段先に、里見氏の墓が在るようです。

      20170309犬掛古戦城跡&里見氏の墓09


石段脇に建てられている説明板。

      20170309犬掛古戦城跡&里見氏の墓10




里見義通・義豊親子のお墓。もとは大雲院(廃寺)にありましたが、
明治42年(1909年)にこの場所に移設されました。
(説明板には里見義道・義豊親子と記されていますが、義通の間違いでは?)

      20170309犬掛古戦城跡&里見氏の墓11


      20170309犬掛古戦城跡&里見氏の墓12


北総の有力武家である千葉氏でも宗家(嫡流)と庶流が家督を争い内紛があったように
安房・上総の有力武家の里見氏でもやはり家督争いがあった...............。

一族の中で合戦をするとは、戦国時代は非常に儚いものです。



2017/04/02 Sun. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

石橋山古戦場跡     (2014年9月25日)(神奈川県小田原市) 

9月25日 公休日

9月25日〜26日は個人的な連休。

この連休を利用して、伊豆へ旅行に出掛けました。



明神分校をあとにして、向かった先は............

          石橋山古戦場跡


石橋山古戦場とは

平安時代の末期、地方には私有地である荘園が増え、
律令制度は徐々に崩壊していきました。
荘園を開発した地方の豪族すなわち武士たちは、東国の武蔵・相模に多く、
小田原地方には曽我氏、大友氏、小早川氏、中村氏、河村氏、松田氏などの一族がいました。

西国の武士を従えた桓武平氏は、
保元の乱(保元元年(1156))、平治の乱(平治元年(1159)) における朝廷内部の争いを利用して
勢力を広げ政権を握りました。
これに対し東国武士に信望のあった清和源氏は、
治承4 年(1180)高倉宮以仁王の平氏追討の令旨をかかげて、
源頼朝が伊豆で挙兵しました。

伊豆・相模の武将の援軍を得て300 余騎を従えた頼朝は、
鎌倉に向かう途中の石橋山で前方を大庭景親の3,000余騎に、
後方を伊東祐親の300騎に挟まれて大苦戦となりました。
これが「石橋山の合戦」です。

頼朝方の先陣・佐奈田与一義忠が敵将の俣野景久と対戦したのを発端として戦闘に入りましたが、
10倍を越える敵の軍勢に頼朝方は破れ、
箱根山中に逃れた後、真鶴から海路で安房(千葉県) へ向かいました。


石橋山の合戦で、頼朝方の佐奈田与一義忠は敵将の俣野五郎景久を組み伏せたが、
与一の刀は血糊がこびりついて抜けず、その間に敵の長尾新六に討ち取られてしまいました。

その与一の遺骸を葬ったのが与一塚で、
その傍らには、佐奈田霊社が建っています。
この霊社は、与一が景久と組み討ち中、
味方からの問いかけに対し「たん」がからんで声が出ず、
そうこうしているうちに、敵に討たれてしまったという伝承にちなんで、
たん、咳、ぜんそく、声に霊験があるとして知られます。
このため、芸能関係者の参詣も数多くあります。

与一が俣野五郎景久を組み伏せた畑が、
今でも「ねじり畑」として残っていますが、
戦の後この畑の作物はみなねじれてしまうということから、
この名になったといわれています。


              ( 小田原市HP より引用 )



小田原からR135を走り、西湘バイパスの早川ICを過ぎて
しばらく熱海方面へ走ると、右側に斜面を上がって行く細い道があります。

この細い道を走り、案内看板に導かれ、佐奈田霊社の駐車場に車を停めます。

      20140925石橋山合戦場01


実は、この佐奈田霊社こそが石橋山古戦場跡になります。

佐奈田霊社入口にある説明看板。


      20140925石橋山合戦場02



こちらは社号標。

      20140925石橋山合戦場03


石段を上がり、佐奈田霊社の境内に入ります。


こちらが、拝殿。

      20140925石橋山合戦場04



こちらは、観音堂。

      20140925石橋山合戦場05


観音堂の前にも、手書きの説明看板。
しっかりと石橋山古戦場の事や佐奈田与一について触れています。


      20140925石橋山合戦場06


こちらが、佐奈田与一の手附石。

      20140925石橋山合戦場07


なぜか、人の手の形の窪みがありますが
明らかに削ったような気がするんですが............(笑)。

      20140925石橋山合戦場08


      20140925石橋山合戦場09



こちらが、与一塚。

      20140925石橋山合戦場10


      20140925石橋山合戦場11



与一塚の前にも立派な説明看板。
しかも2枚。
かなり、小田原市もこの石橋山古戦場に力を入れているようです。

      20140925石橋山合戦場12


      20140925石橋山合戦場13


小降りになって来たものの、雨はまだ止まず
時折、レンズに雨が当たるようです。


      20140925石橋山合戦場14



佐奈田霊社の境内から参道を下って行きます。


      20140925石橋山合戦場15


      20140925石橋山合戦場16



参道を下った所に建つ案内板。
文三堂に向かいます。


      20140925石橋山合戦場17



こちらは、『ねじり畑』。
佐奈田与一が討ち取られてしまった場所です。


      20140925石橋山合戦場18

確かに、完全な畑。
この畑で採れる作物はねじれてしまうと言う伝承が有るらしい。



さらに、その先には『文三堂』


      20140925石橋山合戦場19


佐奈田与一の家来であり、
与一が討ち取られると敵方に突っ込み、
平家方に討ち取られてしまった文三家安を祀ったお堂です。

      20140925石橋山合戦場20



文三堂からは駐車場へと歩いて行きます。

ちょうど、この石橋山古戦場の真下を東海道線が走っています。


      20140925石橋山合戦場21


      20140925石橋山合戦場22



東海道線の電車と相模湾。
天気が良ければ、それなりのロケーションだと思うのですが............


      20140925石橋山合戦場23


      20140925石橋山合戦場24




トンネルの上の山の中腹にある古戦場の碑。


      20140925石橋山合戦場25


      20140925石橋山合戦場26


『源頼朝 挙兵の地』とありますが
治承4年(1180年)8月17日、頼朝の命で北条時政らが
韮山にある兼隆の目代屋敷を襲撃して兼隆を討ち取ったことから
流刑の地とされている伊豆国の蛭ヶ小島(ひるがこじま)が挙兵の地じゃないんだろうか.....?


そんな疑問を頭に浮かべながらも
小雨も上がり、ちょっぴり気持ちも晴れ、
次なる場所へと移動するのでありました..................。




2014/10/12 Sun. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廿里古戦場跡 (2013年12月16日)(東京都八王子市) 

12月16日 公休日


八王子城址の近く。
都道61号線から高尾街道に合流してJR高尾駅方面に向かう途中に
小田原北条氏と武田信玄が争った古戦場があります。

先日、愛川町にある 三増古戦場跡 に訪れた時に
武田信玄と小田原北条氏の因縁の争いが
幾度とこの地方であったことを知り、立ち寄ったのは………

廿里古戦場跡


廿里古戦場(とどりこせんじょう)は、

戦国時代の1569年(永禄12年)10月1日に武田軍と後北条軍とが戦った古戦場。十十里原古戦場、十々里古戦場とも書く。現在の八王子市廿里町、廿里山(戸取山・鳥取山とも)の南側。現在は、独立行政法人森林総合研究所・多摩森林科学園(サクラの遺伝子保存や森林・林業に関する試験研究機関)がある付近。

後北条氏の本拠・小田原城攻撃に向かう武田信玄率いる甲州勢2万は碓井峠を越え、北条方の支城を攻撃しながら南下し、滝山城の北、拝島に陣を敷いた。一方、武田軍の別動隊で岩殿城主・小山田信茂隊1千は小仏峠から侵入した。これに対し、北条氏照は、家臣の横地監物、中山勘解由、布施出羽守ら2千の兵を派遣し、1569年(永禄12年)10月1日、廿里防塁跡で小山田軍を迎撃したが、待ち伏せの奇計を謀った小山田隊に敗北を喫したとされる。この後、武田軍により、滝山城は三の丸まで攻め込まれたが、かろうじて落城は免れた。北条方は小仏峠からの侵入を予想しておらず、意表をつかれたという。また、加住丘陵を利用した滝山城は南からの攻撃に弱点があることが明らかとなり、小仏峠を睨んだ強力な防衛拠点の構築を急ぎ、急峻な深沢山に八王子城を築き、本拠を滝山城から移転したという。

                               (Wikipedia より引用)
                          




       20131216廿里合戦跡01


『廿里』と書いて『とどり』と読むそうです。

      0131216廿里合戦跡02



残念ながら、現在は独立行政法人森林総合研究所・多摩森林科学園の敷地となっているため
自由気ままに見学する訳にはいかないようです。

      0131216廿里合戦跡03


こちらが、多摩森林科学園。
この日は月曜日で休園日でした。

      0131216廿里合戦跡04

落ち葉の掃き掃除をさしていた、女性職員の方に聞いたら

園内に犬は入れない。
古戦場の事は何も知らない。

と、つれない返事でした。



この台地の奥が古戦場跡なんですけどねぇ………。

      0131216廿里合戦跡05




仕方ないので周辺を散策します。

道路を挟んだ反対側の台地にも、それらしい雰囲気は残ります。

とは、言っても中世の遺構ではなく
近世に改変されたものだとは思いますが………。

      0131216廿里合戦跡06


      0131216廿里合戦跡08


      0131216廿里合戦跡09



こちらは削平地。
住宅地に改変された時のものなのか?
はたまた、この地で『もののふ』たちが争った跡なのか?

      0131216廿里合戦跡07



かつて、この地で武田信玄と戦った北条氏照、そして小田原北条氏。
関東制覇を成し遂げたものの、秀吉によって滅亡された北条氏。
そして織田信長によって滅亡へと追いやられた甲斐・武田氏。

つわものどもの夢の跡

ともにこの地で天下を取ろうという野望を抱いた武者(むさ)が争った。
しかし、その野望はいずれも儚い夢だったようです..............。



 
 
 


2014/01/05 Sun. 06:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

三増合戦場跡 (2013年11月23日)(神奈川県愛甲郡愛川町) 

11月23日 公休日

この日は公休日。
神奈川県の愛川町に足を伸ばしてみました。


愛川町の三増地区には愛川町指定の史跡あります。
戦国時代にある時には同盟を結び、
またある時には敵対関係にあった相模国と甲斐国。
ご存知、小田原北条氏と甲斐・武田氏である。
その両氏が壮絶な戦いを行なったのが三増合戦。

三増合戦跡地 に訪れてみました。


三増から半原に向かう県道を走っていると
いきなり、広大な平地が広がります。
そこが三増合戦跡。

道路沿いに、いきなり大きな史跡碑が現れます。

      20131123三増合戦場跡02


      20131123三増合戦場跡03


合戦の陣立図も建てられています。

      20131123三増合戦場跡04


すぐ近くには、やはり愛川町が新たに建てた標柱も建てられています。

      20131123三増合戦場跡01

愛川町の史跡や文化財に対するこういう姿勢って好きだなぁ。


とは言いながらも、やたらと碑や説明看板の輩が多い(笑)。

      20131123三増合戦場跡05


      20131123三増合戦場跡06


      20131123三増合戦場跡07


      20131123三増合戦場跡08


      20131123三増合戦場跡09




そもそも、三増合戦とは

戦国期に領国を接する武田氏と北条氏は武田信虎・北条氏綱期には甲斐都留郡において抗争を続けていたが、やがて両者は和睦して甲相同盟が結ばれ、これに駿河今川氏との同盟を結び甲相駿三国同盟の締結に至り、武田氏は信濃侵攻を行い北信地域において越後の長尾景虎(上杉謙信)と抗争し、北条氏は北関東侵攻を行い同じく越後上杉氏と抗争し、両者は相互に協調して上杉氏に対抗していた。

武田氏の信濃侵攻は、5回の川中島の戦いを契機に収束し、武田氏は方針を転換し永禄11年(1568年)12月には同盟を破棄して駿河今川領国へと侵攻を行う(駿河侵攻)。武田氏の駿河侵攻は甲相同盟の破綻をも招き、北条氏は上杉氏と越相同盟を締結し、武田氏に対抗した。

翌永禄12年(1569年)1月に北条氏政は駿河薩埵峠へ着陣し、興津において武田勢と対峙している[2]。同年8月24日に武田信玄は2万の軍勢を率いて甲府を出立、滝山城などの北条方の拠点を攻撃したのち10月1日には北条氏康の小田原城を囲んだ。当時の小田原城は有名な惣構えが着工前であったが、かつて上杉謙信が10万以上の兵力で落とせなかった堅城であった為、城攻めはせず小田原城を包囲し3度にわたって挑発した。しかし北条側は小田原城を出ることはなかった。武田軍は包囲を開始して4日後の10月5日に城下に火を放ち軍勢を引き上げた。

北条氏は後詰めであった甲州街道守備軍の北条氏照、秩父方面守備軍の北条氏邦の軍勢2万[3]が要所である三増峠(相模原市緑区根小屋 - 愛甲郡愛川町三増)に着陣し、甲斐に帰国しようとする武田軍相手に有利に戦端を開いた。さらに北条氏政が2万余りを率いて氏照・氏邦の部隊と武田軍を挟撃、殲滅する作戦であった。10月6日には武田軍と北条軍が対陣することになった。


氏政本隊は到着前であったが、氏照・氏邦の部隊は先手を打って奇襲攻撃を仕掛けようとしていた。これを察知した信玄は部隊を3隊に分けた。北条軍の攻撃を正面に受けつつ他の2部隊は山中に隠れ北条軍を横から急襲する作戦であった。10月8日に両軍は本格的な交戦を開始する。緒戦では北条軍有利に合戦は経過した。そのため武田軍は損害を受け、北条綱成が指揮する鉄砲隊の銃撃により左翼の浅利信種や浦野重秀が討ち死にしている[4]。

しかし、志田峠 (三増峠南西約1km) に機動した山県昌景率いる武田の別働隊が、より高所から奇襲に出ると戦況は一気に武田に傾いた。北条軍は背後の津久井城守備隊の内藤隊などの予備戦力が、武田軍別働隊に抑えられて救援に出なかったこともあり、大きな被害を受けている。大将である浅利が戦死した左翼では、軍監であった曽根昌世が代わりに指揮をとり、綱成の軍勢を押し戻すことに成功している。緒戦では苦戦したものの、終わってみれば武田軍の大勝であった。

また、武田軍が千葉氏が在陣しているところに向かって「千葉氏と言えばかつて北条と対し、互角に渡り合った衆であろう。それが北条に僕として扱われることに不満はござらんのか」と大声で呼びかけ、これにより千葉氏が勢いを鈍らせたとも言われている。

合戦が終わる頃、小田原から追撃してきた氏政の北条本隊2万は荻野(厚木市)まで迫っていたが自軍の敗戦を聞きつけ進軍を停止、挟撃は実現しなかった。もし氏政の部隊が到着していた場合、武田軍は挟撃されて逆に大敗していた可能性もあった。

自軍の勝利を見た信玄は軍勢を反畑(相模原市緑区)まで移動させ、そこで勝ち鬨を挙げた。その後武田軍は甲斐に撤退した。

(Wikipedia より引用)



こちらが志田峠。
武田方の総大将、武田信玄が陣をとったと言われています。

      20131123三増合戦場跡10


牧場跡?とも勘違いしそうな平原。

      20131123三増合戦場跡11


数百年前、戦国時代に兵(つわもの)どもが争った地を
平和な平成の時代に臭いを嗅ぐ びいすけ 。

      20131123三増合戦場跡12


志田峠を背後に立つ びいすけ 。

      20131123三増合戦場跡13


いにしえの古戦場跡の草の匂いを嗅いで
びいすけ は何を感じるのだろうか?

      20131123三増合戦場跡14


      20131123三増合戦場跡15


壮絶であったであろう戦から450年近く経った今、
時代は戦国時代から、平和な平成になった。

こうやって、 びいすけ と古城や古戦場を巡ることが出来るのは
この平和な世のおかげだと思っています。

この時代に生まれ、この時代に育ち、
この時代を生きていることに改めて感謝しなくっちゃ………。



2013/12/12 Thu. 17:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit