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び・び・びのびいすけ

ぼく と 父さん と時々 もっちゃん

御城印を求めて   《牛久城址》  (2020年2月12日)(茨城県牛久市) 

2月12日

この日は、茨城県牛久市に出かけました。

最近になって知ったのですが.........

牛久市内の城址の御城印が発行されていると知り、
この日は奔走しました。

小坂城、岡見城と御城印を手に入れ、
城址も攻略し更なる御城印を求めます。
JR牛久駅近くにある『芋千』にて、
牛久城、東林寺城の御城印を手に入れます。

     20200212牛久城址27




牛久城址、東林寺城址のいずれも訪れてはいますが
御城印を手にしたからには、城址も再攻略いたしましょう。

と言うことで、先ずは牛久城址へと向かいます。

牛久城址も以前訪れた事があり、これで2回目の訪問となります。
( その時の攻城記は こちら )



牛久城の城域も広く、主郭や二郭と大手門との距離はかなり有る。


こちらが、大手門跡。

     20200212牛久城址01


     20200212牛久城址02


     20200212牛久城址03



大手門近くに鎮座する社。

     20200212牛久城址04

古くから、この場所に鎮座していたようです。



大手門跡から根古屋を抜けて、三の丸近くまで車で侵入する事が出来ます。

     20200212牛久城址05



牛久城址の説明板。

     20200212牛久城址06


     20200212牛久城址29


ここから車を離れ、自分の足で進軍です。

     20200212牛久城址08


大きく口を開けるかのようには待ち構える空堀。

     20200212牛久城址07




空堀に掛かる土橋。
     
     20200212牛久城址09



土橋の先には虎口が待ち構える。
 
     20200212牛久城址11


虎口の土塁。

     20200212牛久城址12




さらに進みます。

     20200212牛久城址10

     20200212牛久城址13


二の丸と本丸を隔てる空堀。

     20200212牛久城址14


     20200212牛久城址15 



右側が二の丸、左側が本丸。

     20200212牛久城址25


     20200212牛久城址26



二の丸の空堀な掛かる土橋。

     20200212牛久城址16



竹藪の先が、二の丸の虎口。

     20200212牛久城址17



こちらが、二の丸曲輪。

     20200212牛久城址18



てっきり、こちらが本丸曲輪だと勘違いして
御城印のバックに写真撮り。

     20200212牛久城址19


     20200212牛久城址20


     20200212牛久城址21


こちらが、本丸虎口。

     20200212牛久城址22


虎口の土塁。

     20200212牛久城址23



自宅に帰ってくるまで、てっきりこちらは二の丸曲輪と勘違いしていました。


     20200212牛久城址24



こちらが、牛久城(址)の御城印。

     20200212牛久城址28


約6年振りに再訪した牛久城址。
連郭式、小田原北条氏の城の特徴を持つ牛久城址。
これぞ戦国時代の山城、関東の土の城。

やっぱり、『土の城は良い』と思うのは私だけ...............?





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2020/03/29 Sun. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

御城印を求めて   《小坂城址》  (2020年2月12日)(茨城県牛久市) 

2月12日

この日は、茨城県の牛久市に出かけました。

最近、ネットにて得た情報なのですが、
牛久市城跡めぐり運営委員会が主催して
『牛久市城跡めぐり』と称して、御城印を発行しているらしい。

御城印は、いわば城版の御朱印みたいなモノ。
城址巡りを趣味とし、また御朱印巡りを楽しむ物として
黙ってはいられません。

と言う事でこの日は、牛久市内の御城印を求めて奔走します。

最初に久野城の御城印を求めて、
落花生で有名な『味の老舗いしじま』に行くと、
何と定休日。

続いて向かったのは『ヤマイチ味噌』。
こちらで、小坂城と岡見城の御城印を手に入れます。

     20200212小坂城址01


小坂城も岡見城も訪れたことがありますが
せっかく御城印を手に入れたんだから
城址も再攻略いたしましょう。

と言う事で、向かった先は...............小坂城址。


小坂城址に訪れるのは、これで2回目。
( 前回の攻城記は こちら )。

稲敷市(旧・江戸崎町)からつくば市へと続く国道408号線沿いの台地に在る小坂城址。
整備が良くて、遺構も多く残り、土塁や空堀、空堀に架かる土橋、
郭の虎口など、城址巡りの初心者でも
それらの遺構をはっきりと認識出来る整備のされた城址。
マイナーな城址ではありますが、個人的にはお気に入りの城址の一つです。


城址入口に建つ城址碑。

     20200212小坂城址02


     20200212小坂城址03


     20200212小坂城址04


その脇には2枚の説明板。

     20200212小坂城址05


     20200212小坂城址06



こちらは、小坂城址にまつわる逸話の説明板

     20200212小坂城址07


では、小坂城を攻略いたしましょう。



こちらは、四郭。

     20200212小坂城址10



光の加減で見づらいですが、三郭の空堀。

     20200212小坂城址08


三郭の土塁。

     20200212小坂城址28


土塁の奥には、三郭と二郭を隔てる空堀。

     20200212小坂城址09


その空堀に架かる土橋。

     20200212小坂城址11



二郭の虎口。

     20200212小坂城址12



二郭内部。

     20200212小坂城址13


     20200212小坂城址15

  

二郭と主郭の間の空堀。

     20200212小坂城址14



その空堀に架かる土橋(主郭側より)。

     20200212小坂城址16



主郭の虎口。

     20200212小坂城址17



主郭内部。

     20200212小坂城址21



主郭に建つ説明板。

     20200212小坂城址19


この方角に、江戸崎土岐氏の支城である泉城がありました。

     20200212小坂城址20

岡見城との距離は直線でおよそ2kmほどで、
岡見氏はこの小坂城を最前線の守備の要として
土岐氏と幾度となく争っていたようです。



主郭土壇。

     20200212小坂城址23


     20200212小坂城址24

この場所は物見台(櫓台)。
小坂城址で一番高い場所になる。



その土壇から二郭を見下ろしてみます。

     20200212小坂城址22

かなり埋もれているけれど、しっかりと空堀の姿を見ることが出来ます。



その空堀。

     20200212小坂城址25


     20200212小坂城址26



三郭と主郭の間は部分的に空堀が並び、二重空堀になっている。

     20200212小坂城址27

これは見応えありますね。


国道408号線は、ちょくちょく走るから
小坂城址の前をちょくちょく通ってはいるんだけど
城址に立ち寄ったのは約6年振り。
6年前と変わらず、整備が行き届き、
しっかりと管理されている小坂城址。
     
たしか、小坂城址保存会って言うのがあったと思うけど
その活動にあたまが下がります。

     



こちらが、小坂城(址)の御城印。

     20200212小坂城址30

牛久市城跡めぐり運営委員会が主催して行われた『牛久市城跡めぐり』。
茨城県内で初めて御城印を発行したイベント。
イベント終了後も継続的に頒布している御城印。

私にとっても茨城県内の初御城印。
今後の展開に期待です。


2020/03/28 Sat. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

大宝城址  (2020年2月10日)(茨城県下妻市) 

2月10日

この日は、茨城県の下妻市に出かけました。


この日、参拝に訪れた大宝八幡宮。
実は、大宝八幡宮を含む台地一帯が、
南北朝時代の大宝城跡になります。

大宝城は、貞永元年(1232年)に小山氏の一族である下妻長政が築城しました。
以後、代々下妻氏の持ち城でした。
南北朝時代、下妻政泰は南朝方に与し、
小田城・関城・下妻城と共に南朝方の拠点の城となりました。
このため、足利尊氏の重臣である高師冬にしばしば攻められていました。
そして康永2年(1343年)、小笠原貞宗の大軍によって攻められ、
大宝城は落城し、下妻氏も滅亡してしまいました。

城域は広く、大宝小学校の敷地~大宝八幡宮の境内にかけての台地一帯が
その城域にあたります。
宅地化がすすみ、また小学校の建設などにより、
城の遺構はかなり隠滅し、大宝保育園や大宝八幡宮の裏手に残る土塁を
微かに確認できるほど、遺構は少なくなってしまいました。




こちらが、大宝城の概略図。

     大宝城址縄張り図

    ( 余湖さんのHPよりお借りしました )





大宝八幡宮の社号標の奥に建つ標柱。

     20200210大宝城址01

  

『大宝城跡』の標柱です。

     20200210大宝城址02



社号標の奥、一の鳥居脇の土塁。
鳥居に向かって右側の土塁になります。

     20200210大宝城址03


見事な土塁。

     20200210大宝城址04



郭内から見る土塁。

     20200210大宝城址06



その土塁は長く伸びている。

     20200210大宝城址07



反対側の土塁。

     20200210大宝城址05



大宝小学校の手前。
縄張り図(概略図)でHの位置あたり。

     20200210大宝城址08


     20200210大宝城址09



大宝城跡の説明板も建つ。

     20200210大宝城址10


台地下部にも建つ標柱。

     20200210大宝城址11

こちらの標柱はかなり古いもの。



大宝駅前から、大宝八幡宮へ向かう道沿いの民家の庭先に建つ城址碑。

     20200210大宝城址12



こちらは、大宝八幡宮本殿裏手に建つ小さな看板。

     20200210大宝城址14


大宝八幡宮の本殿裏手に建つ、『下妻政康公』の碑。

     20200210大宝城址15

昭和18年(1943年)に建立されたモノ。


その近くには、『贈正四位下妻政康忠死之地』の碑

     20200210大宝城址16

こちらは、昭和6年(1931年)に建立されました。


康永2年(1343)11月22日に大宝城は落城し、
城主・下妻政康は討死したと言われています。



こちらは、大宝八幡宮の本殿裏手の最奥。
あじさい園のある辺り。

     20200210大宝城址17


この辺りが、大宝城址で遺構が多い場所になる。

     20200210大宝城址18



大宝保育園の裏手の土塁。

     20200210大宝城址19


     20200210大宝城址20


     20200210大宝城址21


     20200210大宝城址22


     20200210大宝城址23


     20200210大宝城址24
  

     20200210大宝城址25


少し気になったのは、
昨年の台風の影響だったのか?
重機が入って整備をした直後なのか?
ひょっとしたら、整備と言う名の元に
城址の一部が改変されてしまっているのでは...............?

あじさい園辺りをかなりいじっていたんじゃないか?
そんな風に感じてしまったのは、気のせいだろうか............?



2020/03/25 Wed. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

駒城址  (2020年2月10日)(茨城県下妻市) 

2月10日

この日は、茨城県の下妻市に出かけました。

大木分教場をあとにして、向かった先は...............駒城址。


駒城は、南北朝時代に中御門少将・藤原実寛により築城されたとされています。
東西120メートル、南北180メートルの方形で、
周囲は沼に囲まれていたとされています。
藤原実寛は小田氏や結城氏らとともに南朝方に属しました。
つくば市の小田城、関城町の関城、下妻市の大宝城とともに、
南朝側の常陸国における重要な戦略的拠点でしたが、
1340年、北朝側の高師冬の猛攻にあって落城しました。

現在、城跡の大部分が宅地や耕地となっています



こちらが、駒城址の概略図。

     駒城址縄張り図

    ( 余湖さんのHPよりお借りしました )



城址の脇をアスファルトの道路が走る。

     20200210駒城址01



鎖に囲まれた一環に一際目立つ説明板。

     20200210駒城址02



駒城址の説明板です。

     20200210駒城址03


近くには、標柱も建つ。

     20200210駒城址04

文言は、『茨城県指定文化財 史跡 駒城跡』



鎖を越えて中に入れば、城址碑。

     20200210駒城址05


     20200210駒城址06



東西120メートル、南北180メートルの方形てあるが
現存する部分はそれよりも狭い。

     20200210駒城址07



遺構も少ない。

     20200210駒城址10


     20200210駒城址11





こちらが土塁のようにも見える土壇。

     20200210駒城址8


     20200210駒城址12



北側の空堀。

     20200210駒城址09



城跡と言うよりは、単なる森と言ったほうが適切か?

     20200210駒城址13

説明板や標柱、城址碑が無ければ、とても城址には見えない。
残念と言うか、今一歩、満足感が無い。
まあ、こればっかりは仕方が無いんだけど.............



2020/03/23 Mon. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて.............. 上妻小学校大木分教場  (2020年2月10日)(茨城県下妻市) 

2月10日

この日は、茨城県の下妻市に出かけました。

砂沼をあとにして、向かった先は.........上妻小学校大木分教場。

大木分教場は、明治6年に創設された大木小学校が
その始まりとされています。



明治6年     大木小学校創立。
明治34年    大木小学校を上妻尋常高等小学校の分教場とする。
昭和22年    学制改革により、上妻村立上妻小学校大木分教場と改称。
昭和34年    本校に統合して大木分教場は廃校となる。

と、このような沿革となっているようです。




大木集落の幹線道路沿いにある分教場跡地。

     20200210大木分校01


現在は、『大木農村集落センター』として地域の集会所のような施設となっています。

     20200210大木分校09



廃校から既に60年。
校舎はとっくに解体され、
赤い屋根の農村集落センターが建てられています。

     20200210大木分校02



最初は、分教場時の建物(校舎)かと思いましたが
考えたら60年前に廃校の分教場。
とても60年+αの建物には見えません。

     20200210大木分校03


     20200210大木分校04



廃校記念碑かと思ったら、大きく『大木農村集落センター』と刻まれた碑。

     20200210大木分校05



敷地内に残る桜の古木が2本。
分教場時代のモノでしょう。

     20200210大木分校06


     20200210大木分校07

アスファルトで固められてしまった敷地ですが
分校時は土の地面を子供達が走り回っていたのでしょう。



定番の消防倉庫は見当たりませんでしたが
古紙回収、保管用の倉庫が置かれていました。

     20200210大木分校08

地方の廃校跡だと、地域の資源ゴミの回収場所に利用されることも多い。
この大木分校も集会所としての顔を持ち、
資源ゴミの回収場所としての顔も持つ分教場跡地でした。  


   



2020/03/23 Mon. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

多賀谷城址  (2020年2月10日)(茨城県下妻市) 

2月10日

この日は、茨城県の下妻市に出かけました。

宗任神社をあとにして、、向かった先は.............多賀谷城址。

多賀谷城は、常陸国関郡下妻庄に在ったことから別名を下妻城と称しますが、
多賀谷氏の居城であったことから多賀谷城と呼ぶのが一般的なようです。

康正元年(1455年)から多賀谷氏家が下妻荘に築城を開始し、
6年後の寛正2年(1461年)完成したとされ、
下妻荘を含む関三十三郷と大名の地位を得ました。

15世紀中頃は東西両館からなり、
東館を本丸とする2廓の単純な構造でした。
その後、多賀谷氏の勢力拡大に伴い城を北方向へ拡張していき、
16世紀から17世紀初頭の多賀谷氏7代・多賀谷重経の頃には、
城は館沼によって東西に分断され、
沼の東側に本城(本丸)・中城(二の丸)・三の丸・北城・南館(姫曲輪)を、
沼の西側に西城を置き、城域は南北1500m×東西900mと言う広大なモノでした。

この時代の下妻は常陸国西部最大の都市であり、
城郭・城下町の規模や充実度の面でも優れ、
その下妻に君臨する多賀谷氏は、常陸国屈指の存在でもあったようです。



こちらが、多賀谷城の縄張り図。

     多賀谷城址縄張り図

   ( 余湖さんのHPからお借りしました。 )



広大な広さを誇った多賀谷城址。
城郭は広大で旧・真壁郡下妻町の領域がすっぽりと収まるほどであり、
1950年代までは曲輪・濠・土塁跡が残っていたと言う事です。
1961年(昭和36年)に始まった都市計画事業を経て、
現在では、多賀谷城跡公園内にわずかに痕跡を残すのみとなってしまいました。


こちらが、その多賀谷城跡公園。

     20200210多賀谷城址01


     20200210多賀谷城址02



せめてもと、多賀谷城跡公園でその痕跡を探します。

     20200210多賀谷城址03


 
さすがに市街地に整備されて出来た公園。
なかなか、城跡の痕跡は見つかりません。
    
     20200210多賀谷城址04


     20200210多賀谷城址05


     20200210多賀谷城址06


     20200210多賀谷城址07


     20200210多賀谷城址08



公園の隅っちょ。
ちょっとした土壇があります。

     20200210多賀谷城址09



土壇の前には『多賀谷城本丸跡』と記された標柱。

     20200210多賀谷城址10



石段を挟んだ先には、『多賀谷城本丸跡』の説明板。

     20200210多賀谷城址11


     20200210多賀谷城址12



この土壇周辺が僅かに痕跡を残す場所のようです。

     20200210多賀谷城址13


     20200210多賀谷城址14


     20200210多賀谷城址15


     20200210多賀谷城址16


土壇の脇には平和塔。

     20200210多賀谷城址17

第二次世界大戦の戦没者慰霊の塔ですね。
かつての下妻の城郭は昭和の時代になっても
この地区のランドマークだったんですね。





2020/03/22 Sun. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

江連用水旧溝宮裏両樋  (2020年2月10日)(茨城県下妻市) 

2月10日  

この日は、茨城県の下妻市に出かけました。

参拝に訪れた宗任神社。
そちらで、兼務社を含めた10社の御朱印を頂きましたが
さすがに10体の御朱印を書いて頂くのに
それなりの時間が掛かると言うことで、
宮司さんから、『待つ間に是非見て欲しい』とも言われ
ちょっぴり覗きに行ったのが............... 江連用水旧溝宮裏両樋。

江連用水旧溝宮裏両樋は、栃木県真岡市上江連を水源とし、
鬼怒川と小貝川に挟まれた地域のかんがい用として
明治33年に設けられた分水施設です。

かつて、江連用水には多数のレンガ水門が存在しましたが、
現存するのはこの水門のみとなってしまいました。

レンガ造りの東西二つの水門と、湾曲する擁壁が一体となっており、
上流からの水を等分して下流に流すことができる構造になっています

農業施設の文化財としては、かなり珍しいものだと言う事です。



宗任神社の裏参道口に建つ説明板。

     20200210江連用水旧溝宮03


     20200210江連用水旧溝宮04



こちらが、その『江連用水旧溝宮裏両樋』。

     20200210江連用水旧溝宮05



記念の顕彰プレートの碑も建ち並ぶ。

     20200210江連用水旧溝宮06


     20200210江連用水旧溝宮07



レンガ造りの水門。

     20200210江連用水旧溝宮13


     20200210江連用水旧溝宮11


このような水門が2基左右に並んで分水しています。

     20200210江連用水旧溝宮08


     20200210江連用水旧溝宮09



水門の上の びいすけ 。

     20200210江連用水旧溝宮12



ちょっぴり、びびり顔(笑)

     20200210江連用水旧溝宮10



やっぱり、この位置の方が びいすけ は、落ち着くみたい。

     20200210江連用水旧溝宮02



水門の下流。

     20200210江連用水旧溝宮01

穏やかな流れです。



実際に流れている水量が少なくて、今イチ感が否めない。
農繁期の水量が多い時であれば、それなりに凄さを感じるのだろうか.........?








2020/03/21 Sat. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて...............蚕養小学校   (2020年2月10日)(茨城県下妻市) 

2月10日

この日は、茨城県の下妻市に出かけました。

淡島神社をあとにして、向かった先は...............下妻市立蚕養小学校。



蚕養小学校は、

明治6年   豊田郡鯨村に呑舟学校が開設。
       鯨村華蔵院をもってこれに充てる。
明治22年   蚕養尋常小学校てなり華蔵院を仮校舎とする。
明治44年   現在地に移転する。
大正9年   蚕養尋常高等小学校と改称する
昭和22年   学生改革により、蚕養村立蚕養小学校と改称する。
昭和30年   宗道村、蚕飼村、大形村が合併して千代川村が発足。
       千代川村立蚕養小学校と改称する。
平成18年   千代川村が下妻市に編入される。
       下妻市立蚕養小学校と改称する。
平成26年   宗道小学校に統合され廃校となる。

と、このような沿革となっています。
 
  

淡島神社、甲神社からもいずれも徒歩圏内にある蚕養小学校。
淡島神社の狭い境内に車を停めて、徒歩で向かいます。


県道沿いの正門。

     20200210蚕養小学校01



コンクリート製の門柱には鋳鉄製の表札が残る。

     20200210蚕養小学校02



蚕養小学校校舎。

     20200210蚕養小学校03


     20200210蚕養小学校04



別アングルから。

     20200210蚕養小学校05


     20200210蚕養小学校06


     20200210蚕養小学校07


     20200210蚕養小学校08



校舎正面玄関。

     20200210蚕養小学校10



玄関の庇に掲げられた校章。

     20200210蚕養小学校11




校舎の前には、『蚕養小学校学び舎の碑』。

     20200210蚕養小学校15

いわゆる、廃校記念碑の類いになりますね。



裏面には校歌が刻まれています。

     20200210蚕養小学校14="450" height="298" />




こちらも校歌の碑。

     20200210蚕養小学校17

結果的に、校歌の碑がダブっちゃったんですね。




残念ながら二宮像はありませんでした。
その代わりにこんな像が校舎が前に残っています。

     20200210蚕養小学校16




     



鉄筋校舎とは別に、小さいながらも木造の校舎が残っていました。

     20200210蚕養小学校12


     20200210蚕養小学校13



校庭。

     20200210蚕養小学校18


     20200210蚕養小学校09



校庭に残された遊具類。

     20200210蚕養小学校19


     20200210蚕養小学校20


     20200210蚕養小学校21

 
     20200210蚕養小学校22


     20200210蚕養小学校23




校庭の隅には大イチョウ。

     20200210蚕養小学校24


     20200210蚕養小学校25

蚕養小学校の歴史を見届けてきた大イチョウ。



こちらも負けず劣らず立派な樹。
これこそ、シンボルツリーと呼ぶに相応しい。

     20200210蚕養小学校26
     20200210蚕養小学校27



敷地から細い道を一本挟んで体育館。

     20200210蚕養小学校28


     20200210蚕養小学校29


体育館の前には朽ちた百葉箱。

     20200210蚕養小学校30


そして、その脇には緯度経度な座標が刻まれたプレート。

      20200210蚕養小学校31
   
明治初期に創設された蚕養小学校。
歴史のある学校だった蚕養小学校。
廃校から既に5年の月日が流れてしまいました。
この緯度経度の示す場所には学び舎は無くなってしまいました。









2020/03/20 Fri. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

上勝田城址   (2020年2月4日)(千葉県佐倉市) 

2月4日

この日は、月詣で富里市、東金市と足を伸ばして、その帰り道。
東金市から八街市と車は移動。
そう言えば、佐倉市の八街市寄りに確か未訪の城郭があったのを思い出した。

せっかくだから、立ち寄って帰りましょう。
と言うことで、向かった先は...............上勝田城址。


上勝田城の歴史など、詳細については不明です。
ただ、土豪の城と言うよりは、番手城といった性格の城であったと推測され
そのけっか、千葉氏の本城である本佐倉城の出城と1つと推測されているようです。
100m四方ほどの単郭の城であったようです。


こちらが、上勝田城の縄張り図。

      20200204上勝田城址縄張り図

     (余湖さんのHP よりお借りしました)


JR総武本線の踏み切りを渡ります。

      20200204上勝田城址01

踏み切り名に注目。
『城内第二踏切』。


畑の中の道の先の森が上勝田城址。

      20200204上勝田城址02


如何にも!って言う感じ。

      20200204上勝田城址03



中に進めば、そこは荒れた城郭跡でした。


空堀跡。

      20200204上勝田城址04

藪状態で、空堀も画像では良く見えない。



虎口。

      20200204上勝田城址05



内部から見た虎口。

      20200204上勝田城址06

とりあ、2〜3mほどの高さの虎口の土塁は確認出来ます。



しかし、郭内はかなり荒れています。
倒木も何本か有り、行手を阻む。

      20200204上勝田城址07


      20200204上勝田城址08


さすがに、こうなっていては.........

      20200204上勝田城址09


      20200204上勝田城址10

この先の進軍は諦めます。



一度戻って(外に出て)、側面からの侵入口を探しますが
見つかりません。

      20200204上勝田城址11



周りはすっかり耕作地になり、畑中をうろつく訳にも行きません。

      20200204上勝田城址12

畑は完全な私有地ですからね。



史跡として管理されているメジャーな城郭と違って
マイナーな城郭は個人の私有地って言うことが多いから
この辺が難しいですね。


2020/03/14 Sat. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

村田城址   (2020年1月30日)(千葉県成田市) 

1月30日

この日は、成田市に出かけました。

村田集落にある大須賀小学校第二分教場から
向かって先は..................村田城址。


村田城の築城時期等は不詳ですが、
村田城跡とされるこの地は、中世には大戸庄村田郷と呼ばれ、
国分一族の所領であり、国分氏一族の村田氏の居城と言われています。

村田郷の国分一族が文献史料に見られるのは15世紀初め(応永年間)までであり、
現在見ることの出来る遺構は、戦国末期のものと思われるため、
戦国期には大須賀氏が自己の領域を守るために築いた境目の城であったと考えられます。
大須賀保の北に接する大戸庄を領して大きな勢力を持っていた国分氏に対する城郭として
重要視されたとものと思われるそうです。


成田市の村田集落。
村田城址への目標は、集落に鎮座する妙見神社。


こちらが、村田城の縄張り図。

      20200130村田城址縄張り図

( 余湖さんのHPよりお借りしました )



集落奥の小高い台地。
この台地が村田城址。

      20200130村田城址01


いざ、村田城址へ出陣です。

      20200130村田城址02



民家の脇に建つ城址の標柱。

      20200130村田城址03


以前は無かったようですが、大栄町が成田市と統合して
成田市に変わってから建てられたようです。

      20200130村田城址04


      20200130村田城址05


標柱の先を進みます。

      20200130村田城址06


堀底道が、否が応でも雰囲気を醸し出します。

      20200130村田城址07


久々に戦国時代の土の城に訪れたと言う感が広がります。

      20200130村田城址08

 

こちらが三郭。
   
      20200130村田城址09


削平地ではあるけれど、成長した木々に覆われ、下草も多い。

      20200130村田城址20



堀底道は三郭から右に曲がり二郭へと繋がっている。

      20200130村田城址21



二郭の虎口。

      20200130村田城址22



虎口の土塁。

      20200130村田城址23


二郭の土塁。

      20200130村田城址24


二郭には、妙見神社が鎮座しています。

      20200130村田城址25



こちらが妙見神社。

      20200130村田城址26


      20200130村田城址27


そもそも城主であった村田氏は国分一族。

平安時代末期の惣領である千葉常胤には7人の男子がおり、
庶子にもそれぞれ所領を分与しました。
五男の千葉胤通は、下総国葛飾郡国分寺領(現在の千葉県市川市国分)を分与され、
国分氏を称しました。

胤通、及びその子孫は、下総北部香取郡を中心に発展し、
大戸氏、村田氏、矢作氏などの有力庶流を分出しました。

要するに村田氏も広い意味で言えば千葉一族。
千葉一族の城郭には鬼門である北東に妙見神社を置く事が多い。
この村田城も鬼門として妙見社を置いたようです。


妙見神社の手前には土壇。

      20200130村田城址28


土壇(土塁?)の上には、祠が数基鎮座する。

      20200130村田城址29



土壇の上から眺める妙見社。

      20200130村田城址30

ひょっとしたら、この土壇は見張り台のような役目をしていたのでしょうか?



主郭も削平地ではあるが、木々が繁り、下草も多く
その先に進軍する気にはなれない。

      20200130村田城址31


現在は、成田市ではあるけれど、
旧・大栄町域には、国分氏系統の家臣たちの城郭が
ネットワークのように点在されているらしい。

一気には無理だけど、少しづつそんな城郭を訪れてみたいモノです。




2020/03/11 Wed. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて...............大須賀小学校第二分教場  (2020年1月30日)(千葉県成田市) 

1月30日  

この日は、成田市に出かけました。

磐裂神社をあとにして、向かった先は......... 旧・大栄町立大須賀小学校第二分教場。

大須賀小学校第二分教場は、明治24年に創立した村田小学校がその始まりとされています。

明治24年  村田耕田寺傍地に村田小学校設立。
明治41年  伊能小学校、桜田小学校、奈土小学校、
       村田小学校が統合され
       新たに大須賀尋常高等小学校が設立される。
       村田小学校は第三分教場となる。
大正2年   第一分教場(旧・伊能小学校)を廃止し、
       第三分教場は、第二分教場と改称する。
昭和22年  学制改革により、大須賀村立大須賀小学校第二分教場と改称する。
昭和30年  大須賀村が町村合併により大栄町となり、
       大栄町立大須賀小学校第二分教場と改称する。
昭和31年  第三分教場(旧・櫻田小学校)が分離独立して、大栄町立櫻田小学校となる
昭和40年  櫻田小学校に統合され、廃校となる。

と、このような沿革となっているようです。


この第二分教場については、大須賀小学校のHPでその存在を知りましたが詳細は不明。
学区が村田地区だったことから、村田集落にある『ふれあいセンター』に当たりを付けて訪れました。
公民館のような施設。
確かに学校跡の雰囲気はあるけれど、学校遺構がないから確証はない。
近くの民家の御婦人に訊いてみたら違っていました。

第二分教場は、離れた場所にある公園になっていました。



こちらが、第二分教場の正門跡。

      20200130村田分校01



門柱に表札が残っていれば良かったんですが
残念ながら外されていました。

      20200130村田分校02



裏面には、『昭和33 二分学区 城之内工』と刻まれています。

      20200130村田分校03

おそらく、第二分教場 学校区 と言う意味なんでしょう。
城の内 は、元々村田城が近くにあるから城の内とでも呼ばれていたのでしょうか?



こちらは、県道側の公園出入口。

      20200130村田分校04



現在は、村田街区公園と言うみたいです。

      20200130村田分校05



約55年前に廃校となった分教場跡。
当然、校舎は解体されています。

      20200130村田分校06


公園といっても小さな公園。

      20200130村田分校07


      20200130村田分校09


      20200130村田分校10

門柱以外に、学校跡だと彷彿させるモノはない。




遊具もブランコ1基。


さすがに55年以上も前の事ですから
このブランコは、分教場時代のモノではないでしょう。

      20200130村田分校08



公園に残る木々。

      20200130村田分校11


      20200130村田分校12

これらは、ここが分教場の頃から根付いていたモノでしょう。
これらの木々を懐かしむ人もいるんだろうなぁ。


2020/03/11 Wed. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

磐裂神社   (2020年1月30日)(千葉県成田市) 

1月30日

この日は、成田市に出かけました。

大須賀小学校第一分教場(奈土分校)の近くに神社があったので
立ち寄ってみました。


社号標には『磐裂神社』と刻まれています。

      20200130磐裂神社01



磐裂神社は、成田市奈土に鎮座する神社です。

松子城主の大須賀氏が城の鬼門除けのために、
伊勢国の朝熊山から勧請したとされています。

御祭神は、磐裂神。


石段の先に鳥居が見えます。

      20200130磐裂神社02


石段を上って、鳥居の真下の参道。

      20200130磐裂神社03


手水舎。

      20200130磐裂神社04


さらに、その先にも古い手水舎があります。

      20200130磐裂神社05



拝殿。

      20200130磐裂神社06

老朽化?
それとも、昨年秋の台風て傷んでしまったのか?
足場パイプで補強されています。


拝殿正面に掲げられた扁額。

      20200130磐裂神社07



別アングルからの拝殿。

      20200130磐裂神社08


      20200130磐裂神社09

やはり、足場パイプが痛々しい。


こちらが、本殿。

      20200130磐裂神社10



拝殿前の狛犬。

      20200130磐裂神社11


      20200130磐裂神社12



びいすけ も参拝。

      20200130磐裂神社13



意外に境内社も多い。

      20200130磐裂神社14


      20200130磐裂神社15


      20200130磐裂神社16


      20200130磐裂神社17




こちらは神輿庫でしょうか?

      20200130磐裂神社18


板碑。

      20200130磐裂神社19


この磐裂神社には、約150年前から
「奈土のおびしゃ(御武射)」と言う祭礼が行われていると言うことです。
毎年2月13日前後の日曜日に行われているようです。

当番の官主の家や三差路の路上で新官主と旧官主が盃を交わし、
神様の受け渡しの儀式を行う珍しい儀式です。
千葉県の記録選択無形民俗文化財に指定されているそうです。




2020/03/10 Tue. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて.............大須賀小学校第一分教場  (2020年1月30日)(千葉県成田市) 

1月30日

この日は、成田市に出かけました。

成田豊住熊野神社をあとにして、向かった先は......... 旧・大栄町立大須賀小学校第一分教場。

この日、成田市に向かった本命は、
ズバリ、こちらの分教場を訪れることでした。


大須賀小学校第一分教場は、明治15年に創立した奈土小学校がその始まりとされています。

明治15年     奈土昌福寺の敷地を借用して奈土小学校設立
明治41年     伊能小学校、桜田小学校、奈土小学校、村田小学校が統合され、
         新たに大須賀尋常高等小学校が設立される。
         奈土小学校は第二分教場となる。
大正2年     第一分教場(旧・伊能小学校)を廃止し、
         第二分教場は、第一分教場と改称する。
昭和22年    学制改革により、大須賀村立大須賀小学校第一分教場と改称する。
昭和30年    大須賀村が町村合併により大栄町となり、
        大栄町立大須賀小学校第一分教場と改称する。
昭和49年    本校に統合され、廃校となる。

と、このような沿革となっているようです。



こちらが、正門跡。

     20200130奈土分校01

石造りの古い門柱が残っています。



門柱には表札が掲げられています。

     20200130奈土分校02


よく見ると、『大須賀小学校第一分校』と刻まれています。

     20200130奈土分校03


大須賀小学校のHPを覗くと、沿革には『第一分教場』と記されています。
表札は『第一分校』。
どっちが正しいのか?

こちらでは、HPに重きを置いて、『第一分教場』と表記します。



昭和10年に作られた門柱のようです。

     20200130奈土分校04



今から約45年前に廃校となった第一分教場。
当然、往時の校舎は既に解体されています。

     20200130奈土分校05



跡地には、奈土公民館が建てられています。

     20200130奈土分校06


     20200130奈土分校07


     20200130奈土分校08


     20200130奈土分校09



お約束とでも言うべきか?
敷地の一角には、消防倉庫。

     20200130奈土分校10

廃校跡地の定番活用ですね。


地域の公民館であるから、リサイクルゴミの集積所にもなっているようです。

     20200130奈土分校11

成田市のHPを見ると、本校でもある成田市立大須賀小学校も少子化で
近い内に近隣の他校と統合して、小中一貫校に統合されるようです。
旧・大栄町域も小中一貫校が1校のみになってしまうようです。

寂しいものですね。


2020/03/10 Tue. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

飯綱神社   (2020年1月25日)(茨城県水戸市) 

1月25日

この日は、水戸市に出かけました。

別雷皇大神をあとにして、向かった先は...............飯綱神社。

飯綱神社は、水戸市東赤塚に鎮座する神社です。

文禄3年(1594年)に下妻大宝八幡神社の御分霊を奉鎮されたのが
その始まりとされています。
延宝6年(1978年)に奉納された鰐口には、
茨城郡赤塚村鎮守八幡宮と刻まれていることから
八幡神社であったとされています。
しかし、水戸光圀公の八幡改めの命令により破却されてしまいました。
その後、元禄9年(1696年)その跡へ新しく社殿を造り、
境内地にあった飯綱権現を新に御祭神として祀ることになり、
明治維新後、権現は相応しくないと、これを神社に改め、
飯綱神社と称するようになったそうです。

御祭神は、伊豆奈神。




社号標。

     20200125飯綱神社01



神社社頭。

     20200125飯綱神社02



手水舎。

     20200125飯綱神社03



拝殿。

     20200125飯綱神社04


拝殿正面。

     20200125飯綱神社05



拝殿正面に掲げられた扁額。

     20200125飯綱神社06


別アングルからの拝殿。

     20200125飯綱神社07


拝殿前の狛犬。

     20200125飯綱神社08


     20200125飯綱神社09


社頭に建てられた由緒書き。

     20200125飯綱神社10


境内社。

     20200125飯綱神社11


     20200125飯綱神社12



記念碑。

     20200125飯綱神社13


     20200125飯綱神社14


御神木。

       20200125飯綱神社15
      20200125飯綱神社16
     20200125飯綱神社17



こちらは社務所ですが閉まっています。

     20200125飯綱神社18

どうやら、宮司さんが常駐されている神社ではないようです。
神社のHPがあり、そちらを拝見すると
毎月1日、15日に宮司さんが来られるようで
その日であれば、御朱印も頂くことが出来るようです。

機会があれば、その時にでも再訪してみたいモノです。



2020/03/07 Sat. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

丸ポスト探し.........茨城県・水戸市編    (2020年1月25日)(茨城県水戸市) 

1月25日

この日は、水戸市に出かけました。

水戸市には、1基の丸ポストが現存しています。
今回、その丸ポストを探してみました。


水戸市に現存する現役の丸ポスト。
それは、水戸東照宮参道の宮下銀座入口前にありました。

      20200125丸ポスト01


      20200125丸ポスト02


      20200125丸ポスト03


      20200125丸ポスト04


      20200125丸ポスト05


      20200125丸ポスト06


本来なら赤くて目立つ丸ポストですが
東照宮の朱色の鳥居が一際目立っていると言うか、
鳥居と一体化、鳥居の一部のように見えたりもしちゃいます。




茨城県内には、73基の丸ポストが現存しているようです。
( 2020年1月25日現在 )

これまでに
桜川市(真壁)    2基
石岡市        4基
稲敷市        2基
土浦市        6基
龍ヶ崎市       8基
かすみがうら市   1基
行方市        2基
取手市        6基
鹿嶋市        2基
大洗町        9基
茨城町        1基
つくば市       4基
常陸大宮市      1基
小美玉市       1基
城里町         2基
笠間市        3基

そして本日、水戸市の1基を制覇して、合計55基の丸ポストに出会ってきました。

残すは、あと18基。

茨城県内の丸ポスト制覇に向けて頑張ってみましょう。



2020/03/04 Wed. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

水戸城址 (2020年1月25日)(茨城県水戸市) 

1月25日

この日は、水戸市に出かけました。

吉田神社をあとにして、向かった先は...............水戸城址。


水戸城は、建久年間(1190年 〜1198年)に馬場資幹によって築かれたとされ、
以後、大掾氏の(馬場氏)の居城となりました。
このため、佐竹氏が入城するまで「馬場城」と呼ばれていたそうです。

江戸氏、佐竹氏、徳川氏と城主が変わる毎に拡張が繰り返され
陸路・水運の要衝に立地し、また天然の要害であったことから、
いずれも地域支配の中核的城館として利用され、
近世には水戸藩の居城となるなど、相応の歴史的意義を有しています。

主郭部分は、上市台地の地形を利用し3箇所に堀切を設け、
四つの曲輪を構築しました。
東から下の丸、本丸(現:水戸第一高等学校)、
二の丸(現:第二中学校、水戸第三高等学校、茨城大学附属小学校)、
三の丸(現:弘道館、三の丸小学校、県庁三の丸庁舎他)と呼称され、
それぞれの曲輪には土塁が設けられています。
とりわけ本丸・二の丸・三の丸土塁と堀切は壮大で、
土造りの平山城としては、国内最大級の規模を有しています。





こちらが、水戸城の縄張り図。

     20200125水戸城址51

     ( 余湖さんのHPよりお借りしました )


三の丸は、県庁の庁舎や小学校が建っているけれど
散策路もあり、ちょっとした公園。

      20200125水戸城址09


こちらは、三の丸小学校。

      20200125水戸城址12


      20200125水戸城址13



こちらが、弘道館。
水戸藩の藩校でした。

      20200125水戸城址03



残念ながら、ゲートの先は びいすけ は入れません。

      20200125水戸城址04



暫し、びいすけ には、待機してもらってゲートの先へ。


弘道館正門。

      20200125水戸城址08



正門脇の碑。

      20200125水戸城址05



説明板。

      20200125水戸城址06


さらに別な碑も建っていました。

      20200125水戸城址07


実は、弘道館は有料の見学施設。
確かに、歴史的な価値のある建造物だとは思うけれど
ゲート脇に びいすけ を繋ぎ留めているから
今回はパス。

塀沿いに弘道館の周りを散策します。

      20200125水戸城址02



こちらは、弘道館の孔子廟。

      20200125水戸城址10



どうやら、弘道館では儒教も教えていたようですね。

      20200125水戸城址11



弘道館前に建つ碑。

      20200125水戸城址01

碑には『徳川慶喜向学の地』とある。

徳川幕府最期の将軍・徳川慶喜は、水戸徳川家の出身で、
子供の頃にここ弘道館に通っていたと言うことです。

徳川慶喜が水戸藩の出身とは知らなかったなぁ。




大手門へと続く道沿いに徳川斉昭の像。

      20200125水戸城址14

水戸藩の第9代藩主であり、
江戸幕府第15代の将軍・徳川慶喜の実父です。

藩校である弘道館を開校したり、下士層から広く人材を登用することに努め
藩政を改革した名君とされています。



三の丸から二の丸に架かる大手橋。

      20200125水戸城址15

この橋の下は、かつては堀がありました。
現在は、道路となっています。



その先に見えるのは、復元工事中の大手門。

      20200125水戸城址16


当初の予定では昨年の秋に完成予定だったみたいだけど
かなり遅れてるみたいですね。

※ 訪問した時はまだ工事中だったようですが
工事も完了し、2月4日から通行できるようになったそうです。



二の丸大手の土塁。

      20200125水戸城址17


      20200125水戸城址18



土塁の脇を歩き、二の丸へと進みます。


振り返れば、工事のバリケードの先には大手門。

      20200125水戸城址21



この日通行が出来なかった大手門から来れば、右側は師範学校跡。

      20200125水戸城址19


      20200125水戸城址20



現在は、茨城大学附属小学校が建つ。

      20200125水戸城址22



左側には、水戸市立第二中学校。
ここは、かつての水戸彰考館跡。

      20200125水戸城址23



水戸藩が『大日本史』を編纂するために置いた修史局(史局)です。

      20200125水戸城址24


それに因んでいるんでしょうか?
第二中学校の敷地の一部は、『水戸城 二の丸展示館』になっています。

      20200125水戸城址25

残念ながら、この日は閉館日。


展示館前には安積澹泊の像。

      20200125水戸城址26

55年の長期にわたって彰考館で修史事業に精力を傾けた人物です。



第二中学校のフェンス。

      20200125水戸城址27

さすが、城郭跡に建つ学校。
フェンスの代わりに城郭を模した塀とは、やりますなぁ。


塀の隙間から覗いた第二中学校の校庭。

      20200125水戸城址28



こちらは、水戸城三階櫓跡。

      20200125水戸城址34


      20200125水戸城址37


徳川頼房は三の丸や外堀の整備拡張を行い、
二の丸に御殿を造営し、併せて三階物見と呼ばれる櫓を建設しました。
しかしこの三階物見は明和元年(1764年)の火災で焼失、
後に再建された際に屋根を銅瓦葺とし、
天守らしく鯱を上げ三階櫓(御三階櫓)と呼びました。
しかし、昭和20年の空襲で焼失してしまい、
以後再建されていません。

      20200125水戸城址36

水戸市の計画では、大手門同様、寄付を募り再建する予定です。



こちらは、二の丸御殿跡。

      20200125水戸城址30


      20200125水戸城址31

二の丸と言っても、実際はこちらが本丸のようなもの。
水戸藩の時代には、二の丸に御殿があり、本丸は倉庫だったようです。


今は、県立水戸第二高校が建ってます。

      20200125水戸城址33



二の丸に残る大シイ。

      20200125水戸城址39
      20200125水戸城址40


      20200125水戸城址38



水戸城の案内図。

      20200125水戸城址41

いわゆる縄張り図ですね。



この坂が杉山坂。

      20200125水戸城址42


      20200125水戸城址43


復元された杉山門。

      20200125水戸城址44




いよいよ、水戸城址の本丸跡へと向かいます。


この橋の先が本丸跡。

      20200125水戸城址45



橋の下はかつての堀跡。
今は、JR水郡線の線路が敷設されています。

      20200125水戸城址46



本丸虎口の土塁。

      20200125水戸城址47


本丸跡地は、水戸第一高校の敷地となっています。
本来は学校関係者以外は立ち入り禁止になっていますが
こんな看板が建てられています。

      20200125水戸城址49

一部の場所だけですが、見学者に限り立ち入ることが出来ます。
何とも太っ腹。
まあ、これが本来の文化財に対する対応だと思います。
私有地しゃなくて、一応公共施設でもあるから
こう言った配慮は嬉しいモノです。



敷地内入口近くには、碑と説明板が建っています。

      20200125水戸城址52



こちらが説明板。

      20200125水戸城址5



文字が読みづらいけれど、水戸城址の碑。

      20200125水戸城址54



土塁。

      20200125水戸城址55


      20200125水戸城址59



現存する水戸城の遺構、薬医門。

      20200125水戸城址56



安土桃山時代末期の建造物と推測されています。
本丸から二の丸に通じる橋詰門だったとされ、
この場所に移築されました。

      20200125水戸城址57


      20200125水戸城址58



 
今回訪れた水戸城址。
何と、日本100名城の一つらしい。

100名城と言う事で、スタンプを貰って来ました。

      20200125水戸城址50

弘道館の受付にスタンプは置いてありました。
日本100名城のスタンプも集めちゃおうかな?(笑)




2020/03/03 Tue. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

笠原水道(2020年1月25日)(茨城県水戸市) 

1月25日

この日は水戸市に出かけました。

金山稲荷神社をあとにして、向かった先に辿り着く直前に、こんな説明板を見かけました。

      20200125笠原水道01



笠原水道?
何これ?


笠原水道とは、かつて水戸城下であった現在の茨城県水戸市において
飲料水を供給していた上水道とその水源地になります。

水戸藩の第2代藩主徳川光圀が1663年に完成させた日本で18番目の水道で、
その笠原水道の水源から湧き出る水は、現在も水道水源として利用しています。
現在、笠原水源地には竜頭共用栓が復元されて設置されており、
湧き水に塩素が注入された水道水を吐水しているそうです。

      20200125笠原水道02



こちらが、竜頭共用栓。

      20200125笠原水道03


      20200125笠原水道04



実は、ついさっきまでポリタンクを持参し
水を汲んでいた御夫婦が居ました。

よほど美味しい水なんでしょうか?



近くには、下る階段があって水辺に行けるようです

      20200125笠原水道05



こちらがその水辺。

      20200125笠原水道06


見た感じ、排水っぽく見えちゃうんだけど...............

      20200125笠原水道07

確かに、竜頭共用栓からの湧水は滅菌されているようですが
こちらの湧水は塩ビのパイプに導かれ、直接川に流れ落ちているから
飲料にはちょっと不適(?)

立てられている看板にも、
『この水は飲めません  水戸市水道局』と書かれている。

いずれにしても、『笠原水道』。
江戸時代から水戸の市民の生活用水であり
今尚、愛飲する人が多いようです。



2020/02/28 Fri. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

丸ポスト探し.........千葉県・習志野市編②    (2020年1月14日)(千葉県習志野市) 

1月14日

この日は、単発休み。

菊田神社から、ちょっと歩くけれど
大和八幡神社、菊田神社といずれも びいすけ連れ はNGだから
車の中で留守番していた びいすけ 。
さすがに車の中も飽きたでしょう。

散歩ついでに、京成津田沼駅界隈を歩きます。

     20200114丸ポスト01


     20200114丸ポスト02


     20200114丸ポスト03



実は、数年前に習志野市の丸ポストは全て制覇していました。
ところが、知らない内に黄色い丸ポストが習志野市に立っていると言う情報を得ました。
まあ、その情報も2年ほど前に知ったのですが
なかなか足がこちらにむきませんでした。

今回、その丸ポストを探しにやって来ました。


千葉県には、丸ポストが97基現存しているようです。
(2020年1月14日現在)
もっとも、以前はもっと多くの丸ポストがあったのですが
いつの間にか撤去されたりして、その数が減ってしまったようです。
ちなみに、2016年9月に東金市の八鶴亭前の丸ポストで
千葉県内で合計101基の丸ポストに出会いました。
( その時の記事は こちら )



今回102基目になる丸ポスト。
習志野郵便局駐車場の入口に建つ丸ポストです。

     20200114丸ポスト04


     20200114丸ポスト0109



丸ポストと言えば通常は赤いのが定番ですが、
こちらの丸ポストは黄色です。

     20200114丸ポスト05



箱型の赤い最新のポストと並んでいる。

     20200114丸ポスト06


     20200114丸ポスト07



一瞬、飾りのポスト?って思っちゃうけど
バリバリの現役の丸ポスト。

     20200114丸ポスト0108


集荷の時間のステッカーが貼られているのが
現役のポストの証しです。

     20200114丸ポスト0110



千葉県内の丸ポスト。
これまでに、

数多くの丸ポストに会いに行ってきました。
 

佐倉市①   13基制覇
佐倉市②   2基制覇
成田市    9基制覇
富里市    1基制覇
東金市    4基制覇
八街市    1基制覇
香取市   10基制覇
印西市    2基制覇
四街道市① 2基制覇
勝浦市    5基制覇
御宿町    2基制覇
山武市    3基制覇 
銚子市    3基制覇
茂原市    4基制覇
白井市①   1基制覇
白井市②   1基制覇
鎌ヶ谷市   5基制覇
習志野市   3基制覇
大多喜町   2基制覇
いすみ市   5基制覇
市原市    1基制覇
袖ヶ浦市   1基制覇
鴨川市    1基制覇  
南房総市   6基制覇
君津市    3基制覇
富津市    2基制覇
木更津市   1基制覇
野田市    2基制覇
我孫子市    1基制覇
柏市     1基制覇
四街道市②  1基制覇
大多喜町②  1基制覇
九十九里町    1基制覇
東金市②   1基制覇



そして本日、習志野市市②で1基追加。
合計102基制覇したことになります。

丸ポスト、千葉県内で今後増えることは考えにくいけれど
何処かで新たに丸ポストが移設されてくるなんて事もなくは無い。

その時はまた探しに行きたいモノです。



2020/02/24 Mon. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

道の駅 しもつま (2020年1月4日)(茨城県下妻市) 

1月4日

この日は、茨城県の笠間市、桜川市へと出かけました。

桜川市の門毛分校をあとにして、千葉県の自宅へと向けて車を走らせます。
自分の頭の中のイメージでは、旧岩瀬町から、国道50号線を走り、途中で左折。
真壁を抜けて、つくば、牛久と抜けていくイメージでしたが
車のナビは、50号線をまっすぐ走れと案内している。

頭の中に『?』が浮かぶまま、左手方向に筑波山を確認しながらも
国道50号線を走ります。

やがて、『下館』と言う文字が目立つようになります。
どう考えたっておかしいでしょ?
うちの車のナビは本当にお馬鹿さん。

下館から国道294号線を走らされ、今度は『下妻』とか『常総』と言う文字が目立ってきます。


そうこうしているうちに、こんな看板が目に留まりました。

      20200104道の駅しもつま01


全く予定外でしたが、せっかく道の駅に遭遇したんだから
立ち寄らない理由がない。

と言う事で、道の駅に立ち寄ります。

      20200104道の駅しもつま02


      20200104道の駅しもつま03


『しもつま』って、ずいぶん前に深田恭子主演の映画『下妻物語』の舞台の下妻だよね?
そんなことを自問自答で確認します。



駐車場は意外に広い。

      20200104道の駅しもつま04



こちらが、道の駅の施設。
横長の建物ですね。

      20200104道の駅しもつま05


向かって右側奥。
横長の建物とは別棟なりますが、
飲食店『下妻食堂 陽陽』。

      20200104道の駅しもつま08


      20200104道の駅しもつま06



その隣は、蕎麦店『そば打ちめいじん亭』。

      20200104道の駅しもつま07




別棟があるから、こちらは本館(?)になるのか?

      20200104道の駅しもつま09


本館(?)の農産物直売所の入口。

      20200104道の駅しもつま10

店内はペットNGだから、びいすけ は車で留守番してもらいましょう。



さすが、茨城県の道の駅。
農産物が豊富。

      20200104道の駅しもつま11


      20200104道の駅しもつま12


      20200104道の駅しもつま13

折角だから、白菜とキャベツとネギを買いました。


地元の名産品も置かれています。

      20200104道の駅しもつま14


      20200104道の駅しもつま15


      20200104道の駅しもつま16



道の駅のスタンプはこちら。

      20200104道の駅しもつま17

スタンプを情報コーナーに設置する道の駅が多いけれど
こちらは、農産物直売所の一角に置かれています。


ちなみに、道の駅の切符は、
併設されているコンビニのレジで購入出来ます。



本館(?)内の飲食店『しもん亭』。

      20200104道の駅しもつま18

別棟に飲食店が2軒有るんだけど、こちらでも飲食できます。





こちらが、情報コーナー。

      20200104道の駅しもつま19


思ったほど、パンフレット当然も無く
あまり、観光には力を入れていないんだろうか?

      20200104道の駅しもつま20

ちょっびり期待倒れ。
個人的には下妻市にも行きたいところ、見たい所は
結構有るんだけどなぁ。



こちらが、道の駅の切符。

      20200104道の駅しもつま21


      20200104道の駅しもつま22



こちらが、道の駅のスタンプ。

      20200104道の駅しもつま23



1月4日。まだまだ新年の休み期間中だからでしょうか?
意外に買い物に来ている人も多く、人気のある道の駅のようです。




2020/02/11 Tue. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて...............旧・岩瀬町立南飯田小学校門毛分校 (2020年1月4日)(茨城県桜川市) 

1月4日

この日は、茨城県の笠間市・桜川市へと出かけました。

二所神社をあとにして、向かった先は......... 旧・岩瀬町立 南飯田小学校門毛分校。




門毛分校は、明治6年12月に創設された門毛小学校がその始まりとされています。

明治6年     門毛村の洞源寺本堂に門毛小学校創立。
明治9年     亀岡村の亀岡小学校の分校となる。
明治19年     南飯田尋常小学校の分教場となる。
明治23年     北那珂尋常小学校の分教場となる。
昭和22年     学制改革により北那珂村立南飯田小学校門毛分校と改称する。
昭和30年     北那珂村が岩瀬町、東那珂村と合併し新たな岩瀬町が発足。
          岩瀬町立南飯田小学校門毛分校と改称する。
昭和60年     本校に統合されて廃校となる。

と、このような沿革となっています。




こちらが、正門跡。

      20200104門毛分校01

二所神社からはすぐそこ。
距離にしたら200mぐらいでしょうか?

実は、二所神社には駐車場がなかったので
こちらに車を停めて二所神社に参拝していました。




石造りの古い門柱。
残念ながら、表札は残っていません。

      20200104門毛分校02



この門柱は大正4年に建立されたモノのようです。

      20200104門毛分校03



正面に聳える古木。

      20200104門毛分校04

きっとシンボルツリーだったんでしょうね。




学校関連の石碑かと思ったら違っていました。

      20200104門毛分校05

集会所建築の寄付金の芳名碑でした。


門毛分校は廃校後、門毛多目的集会施設と称する施設となっています。
いわゆる、公民館ですね。
芳名碑が建立されたのは昭和61年。
分校の廃校は昭和60年。

つまり、廃校の翌年に校舎は解体されて
多目的集会所が建てられたんですね。


こちらの碑も学校とは関係ない碑。

      20200104門毛分校06

どうやら、正門の門柱以外には学校遺構は無いようですね。



多目的集会施設の建物。

      20200104門毛分校07



      20200104門毛分校11


      20200104門毛分校10

きっと、往時の分校の校舎もこんな感じで建っていたんでしょう。。




遊具もない校庭跡。

      20200104門毛分校08


勿論、二宮像や廃校記念碑などありません。

      20200104門毛分校09




昨年の秋の対台風で倒れたんでしょうか?
大きな木が切り刻まれています。

     20200104門毛分校12



集会所の前に置かれた錆びついた小さな椅子。

      20200104門毛分校13


      20200104門毛分校14

きっと分校時代の椅子なんでしょうね。


この椅子を見ると、遠い思い出、ここに在り。
そんな事を思ってしまう人がいるんだろうなぁ................



2020/02/10 Mon. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit