FC2ブログ

09 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 11

び・び・びのびいすけ

ぼく と 父さん と時々 もっちゃん

徳宿城址 (2019年9月15日)(茨城県鉾田市) 

9月15日

この日は、茨城県の鉾田市に出かけました。
鉾田市には、この数年で12校の小学校が廃校になってしまいました。
その廃校になった小学校を廻るべく、車で移動していると
こんな案内看板が目に留まりました。

      20190915徳宿城址01

『徳宿城址...........? 知らないなぁ........』

400mの距離なら、すぐそこでしょう?
多分この森、この台地が城址になるんでしょう。

      20190915徳宿城址02

ならば、目の前の城を攻めちゃいましょう。


急いで、余湖さんのHPをチェック。
規模と縄張りを確認します。

こちらが、徳宿城の縄張り図。

      20190915徳宿城址29

       ( 余湖さんのHP からお借りしました )


徳宿城は、平安時代末期に常陸大掾氏の一族である鹿島成幹の子・徳宿親幹によって築かれました。
文明18年(1486年)、第9代の徳宿道幹の頃に水戸城の江戸通雅から攻撃を受け、
激しい攻防戦の末に敗れ、徳宿氏は滅亡し、徳宿城は廃城となったそうです。




縄張り図で言うところの 虎口2近く。
車道沿いになりますが、ここには城址碑が建てられています。

      20190915徳宿城址03


      20190915徳宿城址04


説明板もありました。

      20190915徳宿城址05



この先が、徳宿城址。

      20190915徳宿城址06

いざ、進軍いたしましょう。



狭い上り坂。

      20190915徳宿城址07


この先が主郭虎口。


そして、主郭が現れます。

      20190915徳宿城址12



主郭には、稲荷神社が鎮座しています。

      20190915徳宿城址08

以前は鳥居も建てられていたようですが
倒壊してしまったんでしょうか?


神社脇。
縄張り図で言うところの 虎口3 辺り。

      20190915徳宿城址09



虎口の奥には、宝篋院塔と『徳宿氏事績考碑』。

      20190915徳宿城址10



その碑文。

      20190915徳宿城址11



主郭の古木。

      20190915徳宿城址13
      20190915徳宿城址14
      20190915徳宿城址15



縄張り図で言うところの 虎口1 辺り。

      20190915徳宿城址16

この先は二重空堀。



一つ目の土橋。

      20190915徳宿城址17



土橋から主郭を振り返ってみた虎口。

      20190915徳宿城址19



一つ目の空堀は草木が茂り、藪状態。

      20190915徳宿城址18



さらにその先は、二つ目の土橋。

      20190915徳宿城址20



土橋の先は、倒木や倒竹の難所。

      20190915徳宿城址22



それらを避けて進みます。

      20190915徳宿城址23


      20190915徳宿城址24



抜け出た先は耕作地。
さらに、その先は民家になります。

      20190915徳宿城址25


振り返ってみると、こんな感じ。

      20190915徳宿城址26

ここは、三郭の虎口になるのか?



その場所から右方向へ移動すると、新たな侵入路?
しかし、この藪の中に入っていく勇気はありません。

      20190915徳宿城址27



その近くに祀られている小さな社。

      20190915徳宿城址28

徳宿氏に関するモノなんだろうか?


当初の予定にはなかった徳宿城址。
偶然、現地で知り訪れた城址ですが、久々の城址巡り。

やっぱり城址巡りも楽しいモノです。






スポンサーサイト



2019/10/15 Tue. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

東條太田城址 (2019年8月26日)(茨城県稲敷市) 

8月26日

この日は、千葉県の利根川の対岸、川向こうの茨城県に出かけました。
茨城県と言っても県南にあたる稲敷市に出かけました。


向かった先は..................東條太田城址。
.

常陸大掾平氏の平国香から6代後の平直幹には長男・義幹、四男・弘幹、五男・忠幹、六男長幹が居ました。
残念ながら次男・三男は居ましたが早世されてしまいました。
直幹は平安後期に長男を除く3子へ順次常陸国内の領地を割譲していき、この一帯は五男・忠幹が譲り受けました。
忠幹は永暦元年(1160)頃、この地に東條城を築いて東條五郎左衞門尉忠幹と名乗り東條氏の始祖となりました。



天正18年(1590年)、秀吉の関東攻めの際、芦名盛重に当主の東條弾正が討たれて落城。
東條氏族の生き残った者は各地へ敗走したとされ、その際に『太田』と改性したとされています。


こちらが、東條太田城の縄張り図。

      20190826東条城址01

                     ( 余湖さんのHP よりお借りしました )


太田小学校背後の大地が東條大田城址ですが、
その太田小学校は数年前に廃校になり、校舎も解体されてしまいました。

      20190826東条城址02




小学校の敷地沿いに沿って、城内へと続く道があります。

      20190826東条城址03



以前、太田小学校訪れた事がありましたから(その時の記事は こちら
更地になった状態を見て、驚きました。

      20190826東条城址04


その昔(昭和22年)、畑であった東條城址に大田中学校が建てられましたが
中学校は統合され昭和37年に廃校となりました。
その後、中学校跡地(東條城址)に建材会社の(株)東海の建材工場が建てられました。

いつの頃か?建材工場も操業を停止してしまい
現在は太陽光発電場として多くのソーラーパネルが並べられているようで
立入禁止となっています。

      20190826東条城址05


      20190826東条城址06

残念ながら、こちらからはこれ以上の進軍は不可。


ならば、別のルートがあるかも?
ぐるっと台地の周りを巡ります。

      20190826東条城址07


目指す台地は、すぐそこなんだけどねぇ。

      20190826東条城址08



見事なまでに更地と化した太田小学校。

      20190826東条城址10



小学校跡地の裏手から、台地へと上る道を発見。

      20190826東条城址11


この道を進軍いたしましょう。

      20190826東条城址12



ネットで東條太田城を調べていると、東條一族の末裔の方のHPに遭遇しました。
いつもは余湖さんの縄張り図を参考にしているのですが
その方は、余湖さんの縄張り図に加筆されたモノをアップされていました。
大変参考になるので、お借りいたします。

      20190826東条城址16




こちらが中段の郭。
共同墓地です。

      20190826東条城址13


      20190826東条城址14


      20190826東条城址15


墓地の先は城塁になっていて、やはりこれ以上の進軍は不可能。

結局、中段の郭までしか行けませんでしたが
私有地だから仕方がない。
しかしながら、紛れもなく東條城址にその一歩を残して来たつもり。
城址巡りも難しいものです。






2019/09/30 Mon. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

猪苗代城址 (福島県摩耶郡猪苗代町)(2019年4月22日) 

4月22日

この日は、1泊2日で福島県に出かけました。
猪苗代湖のある猪苗代町を中心に会津方面への旅行です。

猪苗代町のマンホールカードを手に入れた後に向かった先は.................猪苗代城址。



猪苗代城は、別名を亀ヶ城とも呼ぶそうです。
奥州合戦によって会津を与えられた相模国の御家人佐原義連の孫・経連が
鎌倉時代初期に築城したとされていますが、どうも真偽は不明のようです。
しかしながら、経連の子孫は代々猪苗代氏を名乗り、地頭として一帯を治めていたため、
猪苗代氏が築城されたのは間違いないとされています。

小高い丘に築かれた平山城で南北250メートル、東西200メートル、
比高差30メートルの規模をもつ中世から近世にかけて長い歴史を持つ城郭でした。

会津盆地を治めていた蘆名氏も佐原義連の血統で、猪苗代氏とは同族であり、
本家筋にあたる蘆名氏に対しては、反逆と従属を何度も繰り返し
天正17年(1589年)の摺上原の戦いの直前に、当時の当主・猪苗代盛国が伊達政宗に内応し、
蘆名氏を滅亡に追い込むこととなりました。
豊臣秀吉の奥州仕置によって伊達氏が会津を離れると、盛国も猪苗代を離れ、
約400年にも及ぶ猪苗代氏の支配が終焉しました。


その後、会津領主は蒲生氏郷、上杉景勝、蒲生秀行、蒲生忠郷、加藤嘉明、加藤明成と続きますが、
猪苗代城は会津領の重要拠点として、江戸幕府の一国一城令発布の際もその例外として存続が認められ、
それぞれの家中の有力家臣が城代として差し置かれていました。
寛永20年(1643年)に保科正之が会津藩主となると、猪苗代城には城代が置かれ、
また、正之の死後はその墓所(正之は城の北、土津神社に葬られた)の守護という重要な役目も担いました。

しかし、幕末を迎え、慶応4年(1868年)の戊辰戦争の際には、母成峠の戦いで西軍(薩摩藩・長州藩など)が
東軍(会津藩・新撰組など)を破って、会津領へ侵入すると、往時の城代・高橋権大夫は城と土津神社を焼き払い、
鶴ヶ城へ撤退し、猪苗代城は廃城となりました。



こちらが、猪苗代城の縄張り図。

      猪苗代縄張り                    

         ( 余湖さんのHPよりお借りいたしました )



城址入口(登城口)付近には、数枚の案内板が建ち並ぶ。

その中の1枚。

      20190422猪苗代城址01


こちらも、その1枚。

      20190422猪苗代城址02


登城口脇の井戸跡。

      20190422猪苗代城址03


こちらが登城路。
石段を元気良く上がっていく びいすけ 。

      20190422猪苗代城址04



この辺りから、猪苗代城の見所である虎口。
両側に石垣のある石段。
その先はT字になっていて、突き当たりは主郭(本丸)の城壁。

      20190422猪苗代城址05


その右側。

      20190422猪苗代城址06


こちらは左側。

      20190422猪苗代城址07


左側に進路を取り、進みます。
この先は、大手側の二郭虎口。

      20190422猪苗代城址08


こちらが二郭。

      20190422猪苗代城址09


土塁もしっかりと確認出来ます。

      20190422猪苗代城址11


      20190422猪苗代城址12



こちらも二郭の虎口。
三郭から胴丸側への登城路の虎口。
すなわち、三郭からの東側の登城路。

      20190422猪苗代城址10
 
登城路にしては、狭い道だから往時にはなかったのかもしれない。
亀ヶ城公園として整備された時に作られた道かもしれません。 


こちらも二郭虎口。

      20190422猪苗代城址19

石垣が見事。


この場所に門が建ち、櫓も建てられていたそうです。

      20190422猪苗代城址18



こちらが、主郭(本丸)。

      20190422猪苗代城址13


      20190422猪苗代城址17





本丸の背後には磐梯山も見える。

      20190422猪苗代城址14


本丸広場には桜の木が植えられ、花見の名所となっているようです。
残念ながら、この日はまだ蕾の状態。
GW直前の4月27日辺りが満開と言う事らしいが
今年は10連休。
きっと多くの人が桜の花を目当てに訪れる事でしょう。



本丸土塁の上から眺める城塁。

      20190422猪苗代城址15


      20190422猪苗代城址16


かなりの防御力を持ったしろだった筈なのだが
戊辰戦争における新政府軍の力の前には、
城代である高橋権大夫も城を焼き払って
会津若松の鶴ヶ城に逃げる事しか出来なかったのだろう。



こちらは、三郭。

      20190422猪苗代城址20


三郭もぐるっと郭を土塁が巡っている。

      20190422猪苗代城址22



眼下には立派な大堀切。

      20190422猪苗代城址21

この大堀切も猪苗代城の見所の一つだと言われています。


    


会津藩の鶴ヶ城の支城として存在した猪苗代城。
廃城後は、しばらくそのままの状態で放置され荒れ果てていたそうです。

こちらも、悲しい会津の歴史を知る城郭だったようですね。


かなり急ぎ足で、巡っちゃったから、見落とした見所な場所もあるようです。
本来は、じっくり時間をかけて見るべき城郭のようですね。
鶴ヶ城とセットで丸一日かけて見るべき城郭なのかもしれない..................。


2019/06/25 Tue. 00:03 | trackback: -- | 本文: -- | edit

父さんの都内散歩・城址巡り.............(伝) 道灌山城 (2019年3月24日)(東京都荒川区) 

3月24日

この日は、都内・豊島区巣鴨に出かけました。

巣鴨に向かう途中、京成線から山手線に乗り換えるターミナル駅の日暮里で
何ヶ所かのスポットにちょっと寄り道します。

富士見坂から向かった先は.........道灌山城。


道灌山はその名の通り、太田道灌の砦跡だと『江戸志』には記されているそうです。
その一方では、『新編武蔵国風土記稿』には、小田原北条氏家臣の関道閑の屋敷跡とされていると、
日本城郭大系は説明しているようです。

現在『道灌山』と伝わる一帯は、JR西日暮里駅の西側の丘陵地になり、
西日暮里公園から諏方神社にかけての一帯が太田道灌の砦跡だと伝えられています。

そもそも道灌山の名の由来として、中世、新堀(日暮里)の土豪、関道閑が屋敷を構えたとか、
江戸城を築いた太田道灌が出城を造ったなどの伝承によるものです。



こちらが、諏方神社。

      20190324道灌山城01

諏訪神社ではなく、諏方神社と言うことですが何故か社号標は『諏訪神社』。


諏方神社の境内。

      20190324道灌山城02

削平地。
郭跡と言ってもおかしくはない。



この削平地は『諏訪台』と言うらしい。

      20190324道灌山城03


諏訪台から東方面への視界は拓けている。

      20190324道灌山城04

高い建物は日暮里駅前の高層住宅。



諏方神社の先には西日暮里公園。

      20190324道灌山城05



公園中央には、いくつかの説明板。

      20190324道灌山城06



その中には、道灌山と砦跡について触れています。

      20190324道灌山城07



確かに、ここも削平地。

      20190324道灌山城08


郭跡に見えなくも無い。

      20190324道灌山城09

残念ながら、遺構は全く無い。


しかしながら、伝承の域を出ない道灌山城。
何となく、城址に訪れた感が無く、満足感も得られない。

単に遺構が無いからだけではなく、
伝承の域を出ないからなんだろうなぁ..................


2019/05/29 Wed. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

名古屋城址 (2019年3月10日)(千葉県成田市) 

3月10日

この日は、成田市に出かけました。

この日、成田市に来た目的の一つである城址巡り。
以前から訪れたかった名古屋城址にやって来ました。


愛知県生まれの私にとって、名古屋城と言えば
金の鯱鉾の尾張名古屋城なのですが、
千葉県成田市にも名古屋城が在りました。


名古屋城は、その築城時期等は不詳ですが、
千葉氏の庶流である大須賀氏の本城である松子城の支城と言われています。
しかしながら、その傍流の助崎大須賀氏の居城である助崎城に近く
実際には助崎大須賀氏の支城であったものと推測されます。

城址は、山林や畑になっており、曲輪や土塁、空堀が残存していて、
約500m四方の城域を擁する城であったと推測されています。



こちらが、名古屋城の縄張り図。

      20190310名古屋城址 縄張り図

( 余湖さんのHP よりお借りしました。 )



余湖さんも、ご自身のHPにて記載されていますが
分かりづらい場所に在りました。

      20190310名古屋城址01


      20190310名古屋城址02


この場所に辿り着くまで、かなり遠回りをして
あさっての場所を徘徊していました(笑)。

      20190310名古屋城址03

民家の左脇を進みます。


この先が二郭へと続きます。

      20190310名古屋城址04



倒木が侵入を拒んでいるのか?

      20190310名古屋城址05



縄張り図のA部。
空堀と土塁。

      20190310名古屋城址06


      20190310名古屋城址07


      20190310名古屋城址08


      
二郭虎口。

      20190310名古屋城址11



とにかく、二郭は広い。

      20190310名古屋城址12



そして、その耕地化されて畑となったようですが
一部は休耕しているようです。

      20190310名古屋城址13


      20190310名古屋城址14



遠くに何かがあります。

      20190310名古屋城址15



280mmの望遠レンズで確認。

      20190310名古屋城址16

縄張り図にも載っていますが、廃バスですね。



この辺りが、二郭と主郭を隔てる空堀跡。

      20190310名古屋城址17

埋め戻されているけど、堀幅は50m近くあったらしい。



主郭虎口。

      20190310名古屋城址18


      20190310名古屋城址19



虎口の土塁。

      20190310名古屋城址20



主郭にも土塁が張り巡らされている。

      20190310名古屋城址21


金の鯱鉾も、復興天守閣も無いけれど、これでも立派な名古屋城址。

そもそも、城郭用語である『根古屋』がナマって
『 根古屋.........ねこや......ネコヤ.........なごや.........名古屋.........』と転じたとも言われている。
( おいおい、本当かよ?)

やっぱり、城址巡りは面白い。



2019/05/04 Sat. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

大野城址   (2019年3月9日)(千葉県いすみ市) 

3月9日

この日は、いすみ市に出かけました。


松尾神社をあとにして、向かった先は...............大野城址。



大野城は、1400年代に伊北荘を支配した上総狩野氏の居城と言われてます。
上総狩野氏は伊豆の豪族で、狩野城主であった狩野氏の一族です。
安土桃山時代に画壇を牛耳ることとなった狩野派の始祖である狩野正信を輩出したとされます。

戦国時代には、この地域は大多喜城主である正木氏の支配下になったと考えられます。
従って、大野城も大多喜城の支城となったと推測されているようです。

こうした背景から、大野城には狩野氏の居城としての時代と
正木氏の城郭として戦国末期に取り立てられた時代と二つの時代が存在しており、
現存する大野城の遺構からは、戦国末期に築城、
又は大幅な改修を受けた城とされているようです。



こちらか、大野城の縄張り図。

      20190309大野城縄張り図

( 余湖さんのHP よりお借りしました )





先人さんたちのブログを拝見すると、以前には無かった説明板が
公民館の近くに建っています。

      20190309大野城址01


その近くには、『狩野派始祖 狩野正信 生誕地』 の碑。

      20190309大野城址02


大野城址は台地の上に鎮座する八幡神社を目指せば良い。


こちらが、八幡神社への参道口。
この石段を上がって行けば、八幡神社になります。

      20190309大野城址24

でも、それじゃツマらない。


ここは敢えて、こちらから登城いたしましょう。

      20190309大野城址03



大野城址の見所の一つである堀切。

      20190309大野城址04


      20190309大野城址05


堀切の先は、堀ノ田。

      20190309大野城址06

水堀跡になります。



堀ノ田の右側。
四郭になります。

      20190309大野城址07


耕地化されて、果樹園跡のようですが、
奥にはソーラーパネルが設置されています。

      20190309大野城址08

最近、城跡にソーラーパネルってパターンも多いんだよね。



さらに進んで行きましょう。
右手に三郭を眺めながら進んで行きます。

      20190309大野城址09



そして、鳥居がお出迎え。
先程の八幡神社への石段を上がった所に合流します。

      20190309大野城址10



八幡神社への参道。

      20190309大野城址11



八幡神社への参道は自然の土壇か?
はたまた人工的な土塁なのか?
城址の雰囲気は満載。

      20190309大野城址12


      20190309大野城址13



こちらが、八幡神社。

      20190309大野城址14


八幡神社の先は、二郭への登城路。

      20190309大野城址15



二郭虎口。

      20190309大野城址16


こちらが、二郭。

      20190309大野城址17


耕地化されているけれど、見た感じ休耕中のように感じてます。

      20190309大野城址18


      20190309大野城址19



二郭と主郭を隔てる空堀跡。

      20190309大野城址20



そして、こちらが主郭。

      20190309大野城址21



台地麓から眺める大野城址。

      20190309大野城址22



この真上が二郭になるようです。

      20190309大野城址23


      
こちらは、根古屋地区。

      20190309大野城址25

土塁の跡のような土壇が確認出来ます。



3月も中旬となると、随分と暖かくなって
少しずつ緑も増えてきた。
これから先は下草も増えてきて、城址、城郭巡りには辛くなる季節になりますね。

最近は、城址巡りも機会が減ってきちゃったけれど、
やっぱり、城址・城郭巡りは楽しいものです。




2019/04/29 Mon. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

若森城祉   (2019年2月26日)(茨城県つくば市) 

2月26日


この日は、つくば市に出かけました。


一ノ矢八坂神社をあとにして、向かった先は................若森城址。


若森城は、下妻城主である多賀谷氏が築いた城と言われています。
元亀年間(1570~1573年)に多賀谷政経が築城し、
その家臣白井対馬守を城主としたとされています。

小田城が廃城となると、若森城も廃城となったようです。
江戸時代になり、徳川家の旗本である堀田氏の領地となり、
この地に若森陣屋を置きましたが、幕末の文久3年1863年に取り壊されました。

明治維新になって陣屋が廃された後、ここには県庁が置かれることになりました。
筑波、真壁、西茨城、東茨城、行方、稲敷、鹿島の7郡が統一され、
約28万石の若森県となり、その県庁が置かれたのがこの若森城址(若森陣屋跡)でした。
若森県庁が建てられた際には、郭内が改変されたと言われています。
しかし、設立からわずか2年9ヶ月で、若森県は新治県と茨城県に統合され消滅してしまいました。



こちらが、若森城の縄張り図。

      若森城縄張り図

                 ( 余湖さんのHP よりお借りしました )


城址入口(県道沿い)に建つ説明板。

      20190226若森城01

つくば市は、若森城よりも若森県庁跡を重要視として
史跡として文化財指定をしているようです。


実は、若森城址は個人の敷地のため、立入禁止。
現地にも立入禁止の看板も立っているし、
この先を進めば、民家の敷地となってしまう。

      20190226若森城02

とは言え、城郭遺構は見たい!!
欲望との闘いです。



本当はいけないのだろうが、敢えてさらに10mほど進んで
土塁をチェック。

      20190226若森城03


      20190226若森城04


  
民家がみえてきtsから、ここが限界点。

      20190226若森城05


速やかに戻ります。


と言いながら、郭内を覗き込みます。

      20190226若森城07


しっかりと確認出来た土塁。

      20190226若森城06


この際だから、びいすけ も1枚、パチリ☆。

      20190226若森城08



説明板の場所まで戻り、裏から回ってみましょう。


下草が残る中、うっすらと土塁が確認できる。

      20190226若森城09


      20190226若森城


      20190226若森城13



こちら郭内。

      20190226若森城11


全体を把握できていないから
縄張り図のどの位置にいるかも不明。

      20190226若森城12

じっくり回れないと、城郭探検の楽しさも半減しちゃいます。



天然の川? それとも堀?沿いに歩いて見ると
若森城はかなり広い敷地のようです。

      20190226若森城


堀?沿いに裏手に回った見ると、産廃の集積場のような施設があるのか?
犬連れで散歩に来るような場所には思えないから撤収。

ちょっぴり、不完全燃焼状態な若森城の攻略でした.........................。



2019/04/17 Wed. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

磯部館址   (2019年2月16日)(茨城県桜川市) 

2月16日

この日は、桜川市に出かけました。

御朱印拝受のために訪れた桜川磯部稲村神社。

実は、この桜川磯部稲村神社の鎮座する台地が、
かつての磯部館と言う城館跡になります。
(偶然、標柱を見つけて城館跡だと気づきました。)

磯部館は、笠間氏家臣磯部氏の居館とされています。
居館の在ったこの地は、下野国と常陸国の境目にあり、
富谷城の益子氏側に対して、磯部館は笠間氏側の最前線であったと言われています。

境内の説明板によれば...............

永享10年(1438年)、桜川磯部稲村神社の神主である磯部祐行は、
関東管領足利持氏に花見噺「桜児物語」1巻を献上した。
この物語をもとに将軍足利義教が世阿弥元清に作らせたのが、
謡曲「桜川」とされているそうです。




こちらが、磯部館の縄張り図。

      20190216磯部館磯部館縄張り図

( 余湖さんのHP より お借りしました。 )



磯部館の中心部とされるのが、桜川磯部稲村神社。

      20190216磯部館01



社頭に建つ『磯部館跡』の標柱。

      20190216磯部館02

旧・岩瀬町時代のモノ。
旧・岩瀬町は、この手の標柱を各城館、城郭の文化財に建てていたようです。
それなりの年季が入っているから、そろそろ更新時期?
富谷城跡の標柱は朽ちて倒れていたからなぁ。



どうしても、社殿のある場所が城館跡の中心かと思ってしまいますが
社殿周りよりも見所は別になるようです。


鳥居脇の土塁。

      20190216磯部館03



こちらが、社殿のある境内から宮司さん宅へと向かう途中にある空堀。

      20190216磯部館04


      20190216磯部館07


      20190216磯部館08



そして、土塁。

      20190216磯部館05


      20190216磯部館06


      20190216磯部館10



空堀先のを下って行きます。

      20190216磯部館09


      20190216磯部館11


      20190216磯部館12


      20190216磯部館13


いきなり現れた石垣。

      20190216磯部館14

見るからに新しい。
これは城郭に絡むものではなく、
この石垣の先に鎮座している社のもでしょう。


石垣の奥にも空堀。

      20190216磯部館15



石垣のある辺りは削平地。

      20190216磯部館16



まさに郭跡のようで、桜川磯部稲村神社の宮司さん宅も
この削平地に建っている。

      20190216磯部館17



かつての登城路になるのか?

      20190216磯部館19


この辺りは、虎口っぽく見えなくもない。

      20190216磯部館18


      

神社の周りの民家の先にも空堀は残っている。

      20190216磯部館20


      20190216磯部館21


逆に言えば、空堀が遺構の代表格とも言える磯部館跡。
元々、予定外の訪問の城郭・城館跡だけど、
やっぱり、城郭巡りも楽しいものです。


2019/04/10 Wed. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

墨竜崖城 (2019年2月7日)(千葉県印旛郡酒々井町) 

2月7日

富里香取神社の月詣の帰り道。
以前から行こう、行こうと思っていて
ついついそのままになっていた場所に立ち寄ることにしました。

立ち寄った先は..................墨竜崖城址。


墨竜崖城について、築城時期や城主については不詳です。
この地域を支配した地方領主の城館であったのではないだろうかと言うことです。


墨竜崖城の縄張り図。

      20190207墨龍崖城13

( 余湖さんのHPよりお借りしました。)



墨竜崖城の遠景。

      20190207墨龍崖城01


実は、以前すぐ近くに来たことがあります。
その時は、酒々井小学校墨分校跡を訪ねた訳ですが
墨分校跡地のすぐ上の台地が、墨竜崖城址になります。


以前は何もなく、台地には朽ち果てた民家があるだけと言うような情報でしたが
今は、『たんぽぽ』と言うビザハウスが出来ているようです。

      20190207墨龍崖城02


      20190207墨龍崖城03



以前は、看板も無く、店舗はもとより、来客用の駐車場もありませんでした。

      20190207墨龍崖城04

すっかり、様変わりしてしまったようです。


以前からある登城路。

      20190207墨龍崖城05


店舗の脇を抜けて、店舗奥にある削平地へと向かいます。

      20190207墨龍崖城06


こちらが削平地。
かつての郭跡?

      20190207墨龍崖城07


削平地の最奥から。

      20190207墨龍崖城08

見える建物はピザハウス。


削平地の西側が崖。

      20190207墨龍崖城09

その下には、かつての墨分校。



台地を下り、先ほどの削平地辺りを見上げます。

      20190207墨龍崖城10



虎口のように見えるけれど、墨分校跡地の入口。

      20190207墨龍崖城11


墨分校の跡碑。

      20190207墨龍崖城12

この碑の上の台地が墨竜崖城址。

遺構らしき物が殆ど無い墨竜崖城址。
せめて、ピザハウスができる前に来れば
もうちょっと台地の上も探索出来たかも知れない。



2019/04/01 Mon. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

父さんの都内散歩・城址巡り 平塚城址 (2019年2月2日)(東京都北区) 

2月2日

この日訪れた平塚神社。
この地は、平塚城の在った地として
後世にに伝えられています。


平塚城は、平安時代に豊島近義が築城したと伝えられています。
後三年の役の帰路に源義家、義光、義綱の兄弟がこの館に逗留し、手厚いもてなしを受けました。
そのもてなしに感謝した義家は鎧一領と十一面観音像を下賜しました。
後に、この鎧を城の守り本尊として埋めて塚を築き、鎧塚(甲冑塚)と呼んだそうです。
また、この塚が高くなく、『平だったことから「平塚」の地名が生まれた』ともされています。

豊島氏は秩父氏の一族であり、南武蔵で大いに栄えた一族でした。

1476年、山内上杉顕定の重臣長尾景春が謀反を起こすと、
平塚城の豊島泰明は、兄の豊島家の当主である石神井城主・豊島泰経とともに
長尾景春に同調して挙兵をします。

1478年、扇谷上杉氏の筆頭家老である太田道灌は平塚城を攻め、
これに対し豊島氏は平塚城救援のために石神井城と練馬城から出兵し、
豊島軍と太田軍は江古田・沼袋原で激突しました(江古田原の戦い)。
この戦いで豊島軍は大敗し、平塚城主・豊島泰明は討死にしてしまいます。
さらに、勢いに乗った太田道灌は石神井城、練馬城を攻め落とし、
豊島泰経は平塚城に逃れますが、平塚城も落城してしまいます。
こうして豊島氏は滅亡し、歴史の表舞台からその名を消す事になります。


そんな歴史的な背景を持つ平塚城跡は、現在の平塚神社とされています。




平塚神社の社号標。

      20190202平塚城址01



神社社頭、玉垣の前に建てられた説明板。

      20190202平塚城址02

平塚神社が平塚城跡の伝承地として記されています。



平塚神社社頭には、テレビドラマのロケで見かける甘味処があります。

      20190202平塚城址03

『平塚亭』。
おかしな刑事シリーズで伊東四朗と羽田美智子が団子を食べるシーンで
よく登場する場所ですね。


社殿へと続く参道は、かつての郭跡?

      20190202平塚城址04



こちらは、JR上中里駅から平塚神社(平塚城址)へと向かう坂道。

      20190202平塚城址05

『蝉坂』と呼ばれ、平塚城を攻略した太田道灌が攻め上った「攻め坂」から転訛したものとも言われています。



道灌のように蝉坂から平塚城へ進軍いたしましょう。

      20190202平塚城址06



『蝉坂』の途中にある石段。

      20190202平塚城址07

この石段を上がれば平塚神社。
すなわち、平塚城址です。



平塚神社の境内。

      20190202平塚城址08



都心のど真ん中。
郭跡になるけれど、遺構は残されていない。

      20190202平塚城址09



社殿裏手には、土壇が残っているように見えるけれど
フェンスの先は立ち入り禁止。

      20190202平塚城址10




この先に、平塚の名の由来となった鎧の埋められた塚があるのでしょうか?

      20190202平塚城址12

フェンスの向こうではその確認も出来ません。



同じく本殿背後の土手状の土盛り。

      20190202平塚城址11

土塁跡とも言われています。


都心の城郭跡の悲しい性(さが)。
残念ながら、遺構らしい遺構もないけれど
平塚城、ここに攻略いたしましたぁ!!



2019/03/26 Tue. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

長熊城址    (2019年1月30日)(千葉県佐倉市) 

1月30日

千葉神社からの帰り道。
千葉市内からは、国道51号線を北上して佐倉へと向かいます。

そう言えば、国道51号線沿いに以前から気になっていた場所がある。
なかなか、立ち寄る機会が無かったけれど、待っていても機会は訪れ無い。
やっぱり自分から足を向けなくっちゃね!

と、言うことで向かった先は..............................長熊城址。


長熊城址について、詳細は不明ですが
千葉氏の家臣に長熊氏と言う者がいたそうです。
おそらく、その長熊氏の居城跡だと言うことです。


こちらが、長熊城の縄張り図。

       長熊城址縄張り図

                     ( 余湖さんのHPよりお借りいたしました。 )



縄張り図より、二郭にあたる養福寺後は、この先。

       20190130長熊城址 01



縄張り図の公園にあたる場所。

      20190130長熊城址02

この小屋のような建物が養福寺の施設の一部だったようです。



小さなお堂も二ヶ所あり、墓石も建っている。

      20190130長熊城址03


      20190130長熊城址04

公園と言うよりは、この場所が養福寺の後のように感じる、


縄張り図における、養福寺跡の場所。

      20190130長熊城址05



確かに削平地。
二郭に間違いない(と思う)。

      20190130長熊城址06



奥は崖となっていて、おまけに竹藪状態で行く先を阻みます。

      20190130長熊城址07

この上に主郭があるようですが、ここからでは登城出来ない。


民家の脇を回って、道沿いに坂を上がって行きます。

      20190130長熊城址08



坂の頂部から、台地へと向かう獣道。

      20190130長熊城址09

実は、これが登城路。



主郭虎口。

      20190130長熊城址10


主郭は、細長い削平地。

その一角に小さな社が鎮座。

      20190130長熊城址11

おそらく、台地下の民家の方が祀っているのでしょう。


主郭の奥の方は杉の木が並ぶ森状態。

      20190130長熊城址12


手入れされていると言うか、とくに耕作地として活用されているようでも無いけれど
余分な杉は伐採されています。

      20190130長熊城址13



JR総武本線が城址南部を走り、城址に南側は眺望に長ける。

      20190130長熊城址14


      20190130長熊城址15


主郭南側の城塁。

      20190130長熊城址16


逆に北方面は鬱蒼とした木々の先に国道51号線。



この竹藪の先は、崖になっていて、二郭の削平地へと続いている。      

      20190130長熊城址17


よく見ると、竹藪の手前にも小さな祠。

      20190130長熊城址18



国道51号線が台地を寸断してしまっているけれど
きっと国道を造成するときに、主郭の一部も削られてしまったのでしょう。


遺構らしいものも残されていなくて、面白味に欠けるのは否めないけれど
たまには、こんな感じで城跡巡りも楽しいものです。
やっぱり、城址巡りは下草の枯れたこの時期ですね。



2019/03/23 Sat. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

鶴ヶ城 (2018年10月29日)(福島県会津若松市) 

10月29日

1泊2日の福島旅行。
その初日は会津若松市にやって来ました。


会津若松市と言えば、城下町。
昔、昔の戦国時代、会津地方は後の会津若松である黒川を本拠とする
戦国大名の蘆名家の領国でした。
蘆名氏は会津守護を自称して勢威を奮いましたが、
天正17年(1589年)、蘆名義広が摺上原の戦いで伊達政宗に大敗して
会津は伊達政宗の支配下に入り、政宗は黒川を新たな本拠としました。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉は会津黒川に入って奥州仕置を行ないます。
会津地方及び周辺地域を政宗から没収し、蒲生氏郷を42万石で入部させます。
(後に検地と加増で氏郷は92万石を領有することになります。)

氏郷は黒川を若松と改め、故郷の近江日野から商人や職人を呼び寄せて
武家屋敷を分離させた町割をして、新たな城下町を建設します。
また、黒川城を新たに7層の天守を持つ城を築いて、現在の会津若松の基盤を築きました。

その後、秀吉の命により上杉家(120万石)の領地となりますが
江戸幕府成立後は、再び蒲生家(60万石)の領地となります。

その後、加藤家(40万石)、保科家(23万石)と藩主は変わっていきますが
保科家が会津松平家と改姓し、徳川家と深い繋がりを持っていきます。

武家政治の終焉、徳川時代の終焉の象徴でもある戊辰戦争における
会津若松の悲劇は、こうした時代背景からくるものでしょう。





さて、その会津若松の象徴である鶴ヶ城。

地元では鶴ヶ城(つるがじょう)と言われていますが、
地元以外では会津若松城と呼ばれることが多いそうです。
文献では旧称である黒川城、または単に会津城とされることもあるそうです。
国の史跡としては、若松城跡の名称で指定されているそうです。

郭内(武家屋敷)と町屋敷が外濠で隔てられ、
さらには郭内の内側に内濠を有する梯郭式の平山城です。

1384年、蘆名氏7代当主の蘆名直盛が小田垣の館(東黒川館)という館を造ったのが
若松城のはじまりとされています。
諸説はありますが、15世紀半ば迄には黒川城、とその城下が成立していました。
以後、蘆名氏の城として戦国時代を迎え、蒲生、伊達、上杉、加藤、保科(後の松平)と
変わりゆく城主を見守ってきたのが鶴ヶ城です。


こちらが、鶴ヶ城の縄張り図。

      鶴ヶ城縄張り図

                      (余胡さんのHPよりお借りしました。)


著名な観光地でもあるから、案内板も完備されています。

      20181029鶴ヶ城01



西出丸は現在、有料駐車場。

駐車場と利用するのは勿体ない気もするし
城内に車が頻繁に出入りするのは.....?......と思うけれど
諸般の事情で仕方ない。


西出丸の石垣。

      20181029鶴ヶ城02



西出丸から本丸に向かう土橋。
正面は本丸枡形。

      20181029鶴ヶ城31




本丸枡形の石垣。

      20181029鶴ヶ城03





本丸の隅には、上杉謙信の仮廟所跡

      20181029鶴ヶ城04

      20181029鶴ヶ城05

戦国時代の武将・上杉謙信は天正6年(1578年)に亡くなり、
居城であったかすが春日山城(新潟県上越市)に埋葬されましたが
その後継者である上杉景勝が会津に移封するにあたり
上杉謙信の墓所も鶴ヶ城内のこの辺りの仮殿に安置したそうです。



鐘撞堂

      20181029鶴ヶ城06


時守を置いて昼夜時刻を城下に報じていたお堂。

      20181029鶴ヶ城07



こちらが、本丸天守閣。

      20181029鶴ヶ城08


残念ながら、この天守閣は復興天守閣・

      20181029鶴ヶ城09

現在の日本の城郭で築城時のオリジナルの天守閣が現存するのは12城のみ

弘前城(青森県)
松本城(長野県)
丸岡城(福井県)
犬山城(愛知県)
彦根城(滋賀県)
姫路城(兵庫県)
松江城(島根県)
備中松山城(岡山県)
丸亀城(香川県)
伊予松山城(愛媛県)
宇和島城(愛媛県)
高知城(高知県)

これら12城以外は、残念ながら戦火等により焼失、
あるいは明治6年(1873年)の廃城令で解体されてしまいました。

この鶴ヶ城も復興天守閣で、ないぶは資料館となっています。 



      20181029鶴ヶ城10



天守閣東側で鶴ヶ城のゆるキャラ(?)と記念写真。

      20181029鶴ヶ城11





せっかくだから、復刻天守閣に入場します。

      20181029鶴ヶ城12


天守閣内は資料館となっているため、写真撮影は禁止。

      20181029鶴ヶ城13


展示されている資料には目もくれず、天守閣の最上部を目指します。


天守閣から眺める会津若松市街。

      20181029鶴ヶ城14


      20181029鶴ヶ城15


      20181029鶴ヶ城16


      20181029鶴ヶ城17



天守閣直下。

びいすけ と もっちゃん が下で待っているはずだから
探してみましょう。

      20181029鶴ヶ城18



見~つけた!!

      20181029鶴ヶ城19


      20181029鶴ヶ城20


天守閣から眺める本丸御殿跡。

      20181029鶴ヶ城21



本丸御殿跡

      20181029鶴ヶ城22



その説明版。

      20181029鶴ヶ城23



こちらは、干飯櫓・南走長屋。

      20181029鶴ヶ城24



本丸御殿側からの天守閣。

      20181029鶴ヶ城25




おまけ。

こちらも鶴ヶ城の遺構の一つ。

      20181029鶴ヶ城26



マンホールカードを貰いに行った市役所第2庁舎の手前にあった郭門。

      20181029鶴ヶ城27



みごとな石垣が市街地に残っている。

      20181029鶴ヶ城28


      20181029鶴ヶ城29



こちらが、鶴ヶ城の登閣証。

      20181029鶴ヶ城30

個人的には御朱印と同じものだと扱うことにしています。
実は、これが欲しかったんだぁ。
天守閣前の観光案内所で求めることができます。
てっきり、天守閣内部の売店で求めるものだと思ってました。。

510円払って登らなくても良かったんだ.................

城の御朱印(正確には御朱印じゃ無いけれど)、城と御朱印好きには堪らない!!




鶴ヶ城、じっくりと見学したら、とても1時間程度の時間じゃ巡りきれない。
今回、急ぎ足で巡っちゃったから、いずれ時間をかけて
城下の遺構も含めて、じっくりと見学したいものです。





2018/12/20 Thu. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

江ヶ崎城祉  (2018年10月12日)(千葉県旭市) 

10月12日


この日は、旭市に出かけました。

御朱印巡りで訪れた江ヶ崎子安神社の在る辺りは、
かつての江ヶ崎城跡だと言われています。


江ヶ崎城の築城時期や城主等に付いては不詳です。


江ヶ崎城の縄張り図。

      20181012江ケ崎城址01

              ( 余湖さんのHPよりお借りしました。)



駐車場からの子安神社。

      20181012江ケ崎城址02



神社入り口の水路。

      20181012江ケ崎城址03


かつての水掘の名残りとされています。

      20181012江ケ崎城址04



この鬱蒼とした森が城郭の一部。

      20181012江ケ崎城址05



子安神社の本殿の裏手には、土塁。

      20181012江ケ崎城址06



その土塁の先には空堀。

      20181012江ケ崎城址07


その空堀が本殿裏手から、水路のある神社の社頭に向けて続いている。

      20181012江ケ崎城址08


      20181012江ケ崎城址09


      20181012江ケ崎城址10


空堀と平行するように走る土塁。

      20181012江ケ崎城址11


      20181012江ケ崎城址12


空堀と土塁ぐらいしか遺構としては、残っていないけれど
城郭の雰囲気は感じ取れる。

築城時期や城主等詳細の分からないマイナーな城だから
まあ、こんなものかもしれない......................



2018/11/25 Sun. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

父さんの都内散歩・城址巡り..................葛西城址 (2018年10月8日)(東京都葛飾区) 

10月8日

この日は、遅番勤務。
12時からの勤務だから、いつもより3時間の時間差がある。
その3時間の時間差を利用して、出勤前に都内の散歩。
当然、出勤日だから びいすけ はお留守番。
昼からは仕事ですが、ちょっぴり羽を伸ばして、都内散歩となります。

向かった先は....................葛西城址。



葛西城は、築城時期は不明ですが、
桓武平氏の流れをくむ葛西氏が鎌倉期に城館として築いたとされています。
中川の蛇行部を天然の堀として背後に持つ平城で、
戦国期には下総国への重要な進出拠点として、
扇谷上杉氏や小田原北条氏の支配下に置かれていました。

特に、小田原北条氏は国府台合戦に於いて最前線として重用され、
国府台城に陣取る小弓公方足利義明や里見氏らと激戦を繰り広げ、
勝利を掴みとる事が出来ました。


天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際に
戸田忠次らによって攻められ落城し廃城となりましたが
徳川家康が江戸に入府後は城跡に「青戸御殿(葛西御殿とも)」と呼ばれる陣屋が建てられ、
3代家光の頃まで鷹狩の宿舎として利用されたそうですが、
明暦3年(1657年)頃、大火で焼失した江戸城再建の資材のために破却されたと言うことです。

現在は、都心と言うこともあり、周辺はすっかり宅地となり、
中心部を南北に環七通りが横切っており、
わずかに東西に分断されて残った城郭跡がそれぞれ『御殿山公園』
『葛西城址公園』となっていますが遺構は無いそうです。


こちらが、葛西城の縄張り図。

      20181008葛西城址15

( 余湖さんのHPからお借りしました。)


環七(環状七号線)にて城域を分断された葛西城址。

環七から中川側は、葛西城址公園となっています。

     20181008葛西城址01


児童公園として整備されているため、遺構は全く無し。

      20181008葛西城址02


葛西城址公園と言うんだから、城址碑が在るかと思ったら
こちらには、城址碑すら無い。

さらには、こんな看板。

      20181008葛西城址03

犬の散歩も出来ない公園です。
びいすけ と一緒でなくて良かったぁ。



環七を挟んで反対側。

こちらは、『 御殿山公園 』となっています。

      20181008葛西城址05


残念ながら、こちらも遺構は無し。

      20181008葛西城址06


ただし、葛西城については触れている。

こちらが、説明板。

      20181008葛西城址07


光が反射して見づらいけれど
「葛西城を偲ぶ」と記された碑。

      20181008葛西城址08



こちらも葛西城に関するモノ。

      20181008葛西城址09


しっかりと葛西城の縄張り図まで描かれています。

      20181008葛西城址10


航空写真も付いてます。

      20181008葛西城址11


そして、『青砥史蹟復興之碑』。

      20181008葛西城址12


さらには、『青砥藤綱城跡』の碑。

      20181008葛西城址13

青砥藤綱は、執権北条時頼や北条時宗などに仕えた鎌倉時代の武士で、
この地を有していたという伝承があるそうです。


いやぁ、こちらの公園には葛西城址に関するモノがてんこ盛り。

環七を走る車の雑踏の中、遺構も無い城郭だけど
小田原北条氏が下総国へ進出するための要所だった地に立ち、
関東の覇権者だった小田原北条氏を偲ぶことにしよう。





     


2018/11/17 Sat. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

人見陣屋  (2018年9月23日)(千葉県君津市) 

9月23日

この日訪れた君津市の人見神社。

一の鳥居の先は、台地(通称:人見山)に上って行く300段以上の石段。
その石段の手前には土塁らしき土壇もあり、城郭っぽい雰囲気は満載。
ひょっとして? と思い、ググってみると.............
人見神社の周辺は、かつての人見陣屋後らしい。


人見陣屋は、天正18年(1590年)、徳川家康の関東入府に伴って、
家臣である小笠原氏によって築かれたもので、
以後、明治を迎えるまで小笠原氏の陣屋として続いたということです。
その陣屋跡は、君津市人見1丁目の青蓮寺の東側ということですが、
宅地化によって遺構は殆ど残されていないようです。


こちらが、人見陣屋の縄張り図。

      人見神社縄張り図

                        ( 余湖さんのHP  よりお借りしました。 )



遺構は殆ど残されていないと言うことですが
人見神社の一の鳥居近くに残る土塁。

      20180923人見神社06



人見神社の祭禮で馬が通る道ではあるようですが
城郭遺構の虎口に見えなくもない。

      20180923人見神社07


まあ、そもそも人見陣屋を目的に来たわけでもないし、
行き掛けの駄賃みたいなもの。

とは言え、人見神社そのものが両総六妙見と言う千葉氏の崇敬を集めた妙見の地。

その昔、千葉氏の居城の鬼門に当たる北東の地に
妙見宮を配置したと言うから、この地に陣屋が出来たのも何かの縁?
縄張り図を見ても、北東の位置に人見神社が鎮座している。

こんな事もあるんですね。


2018/11/05 Mon. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

佐貫城址 (2018年9月23日)(千葉県富津市) 

9月23日

この日は、房総半島の富津市に出かけました。


富津岬をあとにして、向かった先は...............佐貫城址。



佐貫城は、応仁年間(1467年〜1468年)に武田義広により築城されたとされています。
(それより以前に関東管領上杉氏の家宰・長尾氏によって築かれていたとの説あるようです。)

天文6年(1537年)、真里谷氏に跡目争いが生じ、真里谷信隆の拠った佐貫城は、
真里谷信応を支援する足利義明・里見義堯等により攻められ落城します。

天文14年(1545年)、上総・安房の攻略を目指す北条氏康が佐貫城を占領します。
以後、佐貫城は上総・安房における要の地として、里見氏と後北条氏の争奪の舞台となります。

永禄5年(1562年)、上杉謙信に古河御所を追われた古河公方足利義氏が、
北条氏康の保護の下に佐貫城に仮の御所を置きます。

永禄6年(1563年)、里見義弘が再度佐貫城を奪還して、
足利義氏は鎌倉へと退避します。

天正6年(1578年)、里見義弘が佐貫城で病死すると、里見家の内紛が勃発します。
安房国にいた里見義頼が、嫡男・梅王丸と佐貫城城代・加藤信景を攻めて屈服させ、
里見家の家督を継承します。以後、里見氏の本拠は安房に移ります。

天正18年(1590年)、小田原征伐後、里見氏は安房一国に減封され、
関東を与えられた徳川家康の家臣である内藤家長が入城します。
徳川幕府成立後、佐貫藩は松平、柳沢、阿部と城主が変わり、廃藩と立藩を繰り返しながらも、
明治4年(1871年)、廃藩置県に伴い、佐貫城は廃城となりました。




明治4年(1871年)、廃藩置県に伴い佐貫城は廃止されました。


こちらは、佐貫城の縄張り図。

      佐貫城址縄張り図


(余湖さんのHPにてお借りしました。)



城址入口に建つ説明板。

      20180923佐貫城址01

こちらが、大手にあたります。



では、北条と里見の房総半島の覇権を巡っての争いの
要の地となった佐貫城を びいすけ と共に攻略いたしましょう。

      20180923佐貫城址02


城址碑の建つ三の丸虎口。

      20180923佐貫城址03


こちらが、三の丸。

      20180923佐貫城址04


以前は下草もキチンと刈られ、しっかりと管理されていたようですが
今は、雑草の宝庫。

      20180923佐貫城址05

藪化している曲輪内に入って行く勇気はありません。



大手櫓門。
      20180923佐貫城址06

千葉県内では唯一の石垣による虎口遺構ということですか、
雑草に覆われていて、その石垣が見えない。


三の丸から二の丸へと向かいます。

      20180923佐貫城址07


登城路は、数日前の雨でちょっとぬかるみ状態。

      20180923佐貫城址08

滑って転ばないように慎重に歩きたいんだけど
この子が先へ先へと行きたがるんだなぁ(笑)。



二の丸虎口。

      20180923佐貫城址09


二の丸も登城路はあるものの、一歩外れれば下草の中。

      20180923佐貫城址10


鬱蒼と木々も繁る。

      20180923佐貫城址11


二の丸から本丸への土橋。

      20180923佐貫城址12

綺麗に土橋が遺っています。


土橋とくれば、当然『空堀』。

      20180923佐貫城址13

見事な空堀です。


本丸虎口。

      20180923佐貫城址14


そして、本丸。

      20180923佐貫城址16



本丸も下草+雑木林状態。

      20180923佐貫城址15


まあ、廃城から140年の時が流れているんだから
雑木林にもなることでしょう。

      20180923佐貫城址21



本丸の土塁。

      20180923佐貫城址22



本丸の奥は尾根。

      20180923佐貫城址17


尾根伝いに進んで行けば...............

      20180923佐貫城址18



北の物見台。

      20180923佐貫城址19


なかなかの眺望です。

      20180923佐貫城址20

戦国時代、里見家の家臣は
この場所で北条家の侵略を見張っていたのでしょうか?
     


本丸から東へ進めば............

      20180923佐貫城址23


東の物見台。

      20180923佐貫城址24


こちらは、海がバッチリ見える。

      20180923佐貫城址25


相模の三崎半島からの北条水軍をこの場所で見張っていたのでしょうか?


久しぶりの城址攻略。
薮のような草さえなければ、三の丸、二の丸も
もっと探索できたのだか、仕方がない。

やっぱり城址攻略は、草の枯れた時期が良いですね。


でも、この佐貫城、なかなかの城だったのは
歩いてみて分かりました。


2018/10/29 Mon. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

父さんの都内散歩・城址巡り..................石濱城址 (2018年8月11日)(東京都荒川区) 

8月11日

この日は、変則勤務。
12時出勤のいわゆる遅番勤務っていうやつ。

出勤前に訪れたのは荒川区の石濱神社。
御朱印巡りで訪れたんだけど、
石濱神社は御朱印に興味を持つ前から訪れたい場所でした。

と、言うのも石濱神社の鎮座する地は、
かつての石濱城の在った場所でした。


石浜城は、築城年次は不明ですが、中世には江戸氏一族の石浜氏が本拠を構えていました。
文和元年(1352年)には、新田義興の追撃を受けた足利尊氏がこの地で、
武蔵平一揆に迎えられて追撃を退けています。
室町時代中期の享徳の乱に伴って発生した千葉氏の内紛では、
宗家の生き残りである千葉実胤(千葉兼胤の孫)が下総国を追われて
扇谷上杉家の庇護下に入り、石浜城を拠点としました。
この時から武蔵千葉氏となりましたが、下総回復は達成できず、
扇谷上杉家の没落後は、後北条氏に従って同氏一族の千葉胤村を当主に迎えましたが、
豊臣政権の小田原征伐によって没落、石浜城も廃城となりました。



石濱城址とされる石濱神社。

       20180811石濱城址01


      20180811石濱城址02


参道入口には、城址の説明板。

      20180811石濱城址03


残念ながら、遺構は全く残されていない。

      20180811石濱城址04


      20180811石濱城址05


      20180811石濱城址06


      20180811石濱城址07


      20180811石濱城址08


千葉県に住んでいると、地元贔屓ではないけれど
どうしても千葉一族の歴史が気になります。

石濱神社の神紋がひょっとしたら、月星紋とか九曜紋じゃないか?と
秘かに期待していたけれど、花菱紋(?)だったから残念。



2018/10/02 Tue. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

高幡城址 (2018年6月27日)(東京都日野市) 

6月27日

この日に『あじさいまつり』で出かけた高幡不動尊。

実は、この高幡不動尊の『あじさいまつり』の山あじさいが咲いている
高幡不動尊の裏と言うか、脇になる高幡山は、高幡城址であります。



高幡城は、標高約130m、比高約50mの平山城です。
高幡不動尊(金剛寺)が麓にあり、その裏山が城址となっており、
「八十八ヶ所巡礼のお遍路コース」と言う散策路があり
紫陽花の花が群生し、紫陽花の名所としても知れています。。

高幡城の詳細は不明ですが、
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による「小田原征伐」の際には、
八王子城主・北条氏照の家臣である、高幡十右衛門が居城して、
前田利家や上杉景勝の軍勢と戦ったとも伝えられています。
氏照の時代には、高幡之郷は平山大学助が知行していたと言う記録があるため、
檜原城を本拠としていた平山氏が高幡城の城主であったという説もあります。
いずれにしろ、



こちらが、高幡城の縄張り図。

      takahatatyo

( 余湖さんのHPよりお借りしました )



高幡不動尊の五重の塔脇から裏山へ。
いざ、高幡城へ。

      20180627高幡城址01


この時期は、高幡山の山あじさいが見頃。

      20180627高幡城址02

『あじさいまつり』も開催されていて、訪れる人も多い。

山内八十八ケ所巡拝路と称し、石仏や俳人・歌人の句碑が
ちょっとしたハイキングコースになっています。


周りの人は紫陽花や石仏を見て巡りますが、
城好きは視点が変わってきます。

あまり、遺構は残されていないと言う事ですが
城郭の雰囲気を味わいます。

      20180627高幡城址03


      20180627高幡城址11



こちらは、二郭の虎口か?

      20180627高幡城址04


すぐ近くには、高幡城址の看板。

      20180627高幡城址05


こちらが、二郭。

      20180627高幡城址06



縦に伸びる細長い削平地。

      20180627高幡城址07



そして、こちらが主郭跡。

      20180627高幡城址08

それなりの来訪者が居ます。


頂部と言うこともあり、それなりに見晴らしも良い。

      20180627高幡城址09


      20180627高幡城址10



こちらは、三郭。
一部、土塁らしきモノもある。

      20180627高幡城址12



尾根沿いに移動しながら、馬場跡へと向かいます。

      20180627高幡城址13


こちらが、馬場跡。

      20180627高幡城址14


かなり人の手が入り、往時の馬場の雰囲気はない。    

      20180627高幡城址16

高幡不動尊の散策路の広場って言う感じ。


残念ながら、やはり遺構はほとんど残っていなくて
面白みに欠けるのは否めない。
でも、それも仕方ないことでしょう。






2018/08/22 Wed. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

小川城址 (2018年5月22日)(茨城県小美玉市) 

5月22日

この日は、茨城県の小美玉市に出かけました。


小美玉市の素鵞神社に参拝をいたしました。
実は、素鵞神社が鎮座している台地は、
かつての小川城の城跡でした。


小川城は、別名を園部城とも呼ばれています。
築城時期は定かではありませんが、建久年間(1190年~1199年)に
下河辺政平によって築かれたと言われています。

下河辺氏は藤原秀郷の後裔で下総国葛飾郡下河辺荘の発祥と言い、
政平の嫡男であり政義は、小川氏を名乗り代々と続きます。
室町時代になると小川氏は衰退してしまい、
やがてこの地は、常陸国筑波郡小田邑(現在の茨城県つくば市小田)を本拠とした
小田政治によって、享禄元年(1528年)に家臣の薗部兼泰を小川城主として置き、
対立する大掾氏への備えとしました。

天正年間(1573年~1592年)末期には、佐竹氏の城となり
茂木治良が在城しましたが、
慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いで勝利を収めた徳川家康の命により
佐竹氏が秋田に転封されると茂木氏もこの地を去りました。
その後、戸沢氏の領地てたなりましたが、最終的には水戸藩領となりました。

小川城は現在の小川小学校一帯に築かれていたと言われます。
文献によれば、小学校の南東側に本丸を配し、
北西側に二の丸、北東の小川公民館側に三の丸があったようです。
残念ながら、遺構はほぼ消滅しているようです。




こちらが、小川城の縄張り図。

      20180522小川城址

( 余湖さんのHP よりお借りしました )



こちらが、小川城の大手口。

      20180522小川城址01

碑か何かがあれば良いんだけど、そう言った類いのモノは無い。



びいすけ の背後に見えるのが、小川公民館。

      20180522小川城址02

小川城の三の丸にあたります。


こちらが、公民館入口。

      20180522小川城址03

この奧が三の丸だったんですね。



こちらは、小川小学校正門。

      20180522小川城址04

小川小学校の建つ場所が、小川城の本丸跡。
平日の午後、門扉は閉ざされ中へ入ることは出来ません。
まさしく、攻略不能の本丸です。


正面玄関のロータリーの植え込みの中に
『小川城址』の碑が在るようですが、
残念ながら確認出来ず.............



小学校の裏手に回ってみました。

      20180522小川城址05

授業の最中に、校庭を怪しい男が犬連れで歩いている.........
そんな通報をされても困るから、フェンス越しに眺めるだけ。


かつては校庭の中央には土塁と堀があって
本丸と二の丸とを区画していたようです。
因みに、校舎側が二の丸、校庭側が本丸だったと言う事です。



学校の下。
ちょうど、二の丸の切岸。

      20180522小川城址06


      20180522小川城址07


      20180522小川城址08



素鵞神社脇。

      20180522小川城址09

隣に車道がありますが、ここは本丸と三の丸を隔てる堀跡。


こちらが、その車道。

      20180522小川城址10

何となく、堀跡っぽく見えなくもない。



冒頭の縄張り図で言うところの、台の坊。
土塁らしき土壇が残っています。

      20180522小川城址11


      20180522小川城址12



台の坊の下。
堀跡がのこっています。

      20180522小川城址13



縄張り図で言うところの上宿。

      20180522小川城址14

素鵞神社の社号標が建っています。



廃城になった城郭が神社になっていたり、学校になっていたりするパターンは多い。
この小川城は、完全にそのパターン。
城郭が宅地化されて遺構が無くなってしまった事は残念だけど
城郭跡を示す碑は、もうちょっと考えて建てて欲しかったな。

せめて、校門脇の敷地外(公道上)だったら良かったのに.............



2018/07/13 Fri. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

小峰城址 (2018年4月27日)(福島県白河市) 

4月27日

1泊2日の福島県への旅行。

その2日目は、白河市が舞台です。
白河市では、丸ポスト探し、マンホールカード、城址巡り、
御朱印巡り、廃校巡りと予定はてんこ盛り。

丸ポスト探し、マンホールカードに続いて城址巡り。

白河市の城址と言えば、何と言っても小峰城址。


小峰城は、阿武隈川と谷津田川の間に位置する、
小峰ヶ岡という丘陵にあった平山城です。
東北地方では珍しい総石垣造りの城で、盛岡城、若松城と共に
「東北三名城」の1つにも数えられているそうです。

小峰城は南北朝時代の興国元年/暦応3年(1340年)に
結城親朝が小峰ヶ岡に築城して小峰城と名づけたのが始まりとされています。
天正18年(1590年)、城主の白河結城氏が豊臣秀吉の奥州仕置により改易されると、
この地は会津領となり、蒲生氏、続いて上杉氏、再度蒲生氏が支配しましたが、
寛永4年(1627年)に丹羽長重が10万石で棚倉城(福島県棚倉町)から移封されると、
幕命により寛永6年(1629年)より城郭の大改築に着手をしました。
それから3年の歳月を費やして、寛永9年(1632年)に完成しました。

その後丹羽氏、榊原氏、本多氏、奥平松平氏、越前松平氏、久松松平氏、阿部氏と、
7家21代の城主の交代がありましたが、
慶応3年(1867年)に最後の阿部氏が棚倉藩に移封された後、
白河藩は幕領となり城郭は二本松藩丹羽氏の預かるところとなります。
翌、慶応4年(1868年)、白河小峰城は戊辰戦争で
奥羽越列藩同盟軍と新政府軍との激しい攻防の舞台となり、
5月1日、大半を焼失し落城してしまいました。




こちらが、小峰城の縄張り図。

      小峰城址縄張り図

( 余湖さんのHP からお借りしました )



こちらが、小峰城址の入口。
かつての藤門跡。

      20180427小峰城址01

門構えが、かなり観光地化されているのは否めません。



小峰城跡と記された表札。

      20180427小峰城址02



こちらは、小峰城の説明板。

      20180427小峰城址03



それでは小峰城に進軍いたしましょう。

     
藤門跡の先は二の丸。
ちょうど、小学生が遠足に来ていて、子供たちがいっぱい。

      20180427小峰城址05



子供たちを避けるように二の丸を移動します。

      20180427小峰城址04



こちらは、堀跡。

      20180427小峰城址06

埋め戻されていますが、堀跡だと容易に分かります。




二の丸に建つ城址碑。

      20180427小峰城址07

背後に見えるは三重櫓。



掘りと石垣。

      20180427小峰城址08

小峰城の見所は、この堀と石垣の美しい調和。

でも残念ながら、東日本大震災でこの石垣が崩壊してしまい
復旧作業にて修復されました。
(現在も一部は修復作業中です)

      20180427小峰城址09



所々、石垣の石の色が違うのは、復旧作業によるものです。

      20180427小峰城址10



こちらは、清水御門跡。

      20180427小峰城址11

この石垣も崩壊しちゃいましたが
見事に復旧しています。



清水御門跡には、古い城址碑も建っています。

      20180427小峰城址12



それにしても見事な石垣。

      20180427小峰城址13



こちらは竹之丸跡。

      20180427小峰城址14



竹之丸跡から眺める前御門と三重櫓。

      20180427小峰城址15



三重櫓は平成3年(1991年)に本丸跡に、
前御門は平成6年(1994年)に当時の史料に基づいて復元されたそうです。

      20180427小峰城址16



前御門。

      20180427小峰城址17



前御門の屋根瓦。
鯱鉾です。

      20180427小峰城址18



前御門をくぐれば、そこは本丸跡。

      20180427小峰城址19



本丸広場の芝生で戯れる びいすけ 。

      20180427小峰城址20


      20180427小峰城址21



三重櫓。

      20180427小峰城址22



三重櫓の鯱鉾。

      20180427小峰城址23



本丸広場の一部は修復作業のため、立ち入り禁止。

      20180427小峰城址24

大きなクレーンで石垣を修復しているんですね。



本丸広場に建つ石碑群。

      20180427小峰城址25

立入禁止エリアのため近寄って確認が出来ません。


      20180427小峰城址26


      20180427小峰城址27




再び、三重櫓。

      20180427小峰城址28



こちらは、『おとめ桜』。

      20180427小峰城址29

おとめ桜には、こんな伝説が残っています。

寛永年間に、城の大改修を行った際、本丸の石垣が何度も崩壊したため、
人柱を立てることになり、人柱にするのはその日、最初に城に来た者ということに決まった。
すると、最初に来たのは作事奉行の娘「おとめ」だった。
父は必死に「来るな」と手で合図をしたが、
逆に「来い」という合図と勘違いしたおとめは人柱にされてしまった。
その後、石垣は無事完成し、おとめが埋められた場所には桜の木が植えられ、
「おとめ桜」と呼ばれるようになったという。


悲しい話しですね。
この『おとめ桜』は2代目で、初代の『おとめ桜』は、
戊辰戦争の時に消失してしまったそうです。


『おとめ桜』の前から本丸を眺めてみます。

      20180427小峰城址30

白河の市街地もぼんやり見える。
きっと、城下を見下ろす事が出来るこの場所に
おとめ桜が植えられたのは、そんな理由なんだろう。




本丸から清水門へと続くもう一つの導線。
桜門跡。

      <20180427小峰城址32


      


名前の通り、門跡の近くには数本の桜の木。

      20180427小峰城址31



時間の関係と遠足の子供たちや観光客が多かったので
細部まで探索しきれていませんでしたが、
小峰城址、なかなか見所がありました。

さすが、日本の100城に選ばれているだけがある。
やっぱり日本の100城は侮れません。



2018/06/12 Tue. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit