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び・び・びのびいすけ

ぼく と 父さん と時々 もっちゃん

大宝城址  (2020年2月10日)(茨城県下妻市) 

2月10日

この日は、茨城県の下妻市に出かけました。


この日、参拝に訪れた大宝八幡宮。
実は、大宝八幡宮を含む台地一帯が、
南北朝時代の大宝城跡になります。

大宝城は、貞永元年(1232年)に小山氏の一族である下妻長政が築城しました。
以後、代々下妻氏の持ち城でした。
南北朝時代、下妻政泰は南朝方に与し、
小田城・関城・下妻城と共に南朝方の拠点の城となりました。
このため、足利尊氏の重臣である高師冬にしばしば攻められていました。
そして康永2年(1343年)、小笠原貞宗の大軍によって攻められ、
大宝城は落城し、下妻氏も滅亡してしまいました。

城域は広く、大宝小学校の敷地~大宝八幡宮の境内にかけての台地一帯が
その城域にあたります。
宅地化がすすみ、また小学校の建設などにより、
城の遺構はかなり隠滅し、大宝保育園や大宝八幡宮の裏手に残る土塁を
微かに確認できるほど、遺構は少なくなってしまいました。




こちらが、大宝城の概略図。

     大宝城址縄張り図

    ( 余湖さんのHPよりお借りしました )





大宝八幡宮の社号標の奥に建つ標柱。

     20200210大宝城址01

  

『大宝城跡』の標柱です。

     20200210大宝城址02



社号標の奥、一の鳥居脇の土塁。
鳥居に向かって右側の土塁になります。

     20200210大宝城址03


見事な土塁。

     20200210大宝城址04



郭内から見る土塁。

     20200210大宝城址06



その土塁は長く伸びている。

     20200210大宝城址07



反対側の土塁。

     20200210大宝城址05



大宝小学校の手前。
縄張り図(概略図)でHの位置あたり。

     20200210大宝城址08


     20200210大宝城址09



大宝城跡の説明板も建つ。

     20200210大宝城址10


台地下部にも建つ標柱。

     20200210大宝城址11

こちらの標柱はかなり古いもの。



大宝駅前から、大宝八幡宮へ向かう道沿いの民家の庭先に建つ城址碑。

     20200210大宝城址12



こちらは、大宝八幡宮本殿裏手に建つ小さな看板。

     20200210大宝城址14


大宝八幡宮の本殿裏手に建つ、『下妻政康公』の碑。

     20200210大宝城址15

昭和18年(1943年)に建立されたモノ。


その近くには、『贈正四位下妻政康忠死之地』の碑

     20200210大宝城址16

こちらは、昭和6年(1931年)に建立されました。


康永2年(1343)11月22日に大宝城は落城し、
城主・下妻政康は討死したと言われています。



こちらは、大宝八幡宮の本殿裏手の最奥。
あじさい園のある辺り。

     20200210大宝城址17


この辺りが、大宝城址で遺構が多い場所になる。

     20200210大宝城址18



大宝保育園の裏手の土塁。

     20200210大宝城址19


     20200210大宝城址20


     20200210大宝城址21


     20200210大宝城址22


     20200210大宝城址23


     20200210大宝城址24
  

     20200210大宝城址25


少し気になったのは、
昨年の台風の影響だったのか?
重機が入って整備をした直後なのか?
ひょっとしたら、整備と言う名の元に
城址の一部が改変されてしまっているのでは...............?

あじさい園辺りをかなりいじっていたんじゃないか?
そんな風に感じてしまったのは、気のせいだろうか............?



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2020/03/25 Wed. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

駒城址  (2020年2月10日)(茨城県下妻市) 

2月10日

この日は、茨城県の下妻市に出かけました。

大木分教場をあとにして、向かった先は...............駒城址。


駒城は、南北朝時代に中御門少将・藤原実寛により築城されたとされています。
東西120メートル、南北180メートルの方形で、
周囲は沼に囲まれていたとされています。
藤原実寛は小田氏や結城氏らとともに南朝方に属しました。
つくば市の小田城、関城町の関城、下妻市の大宝城とともに、
南朝側の常陸国における重要な戦略的拠点でしたが、
1340年、北朝側の高師冬の猛攻にあって落城しました。

現在、城跡の大部分が宅地や耕地となっています



こちらが、駒城址の概略図。

     駒城址縄張り図

    ( 余湖さんのHPよりお借りしました )



城址の脇をアスファルトの道路が走る。

     20200210駒城址01



鎖に囲まれた一環に一際目立つ説明板。

     20200210駒城址02



駒城址の説明板です。

     20200210駒城址03


近くには、標柱も建つ。

     20200210駒城址04

文言は、『茨城県指定文化財 史跡 駒城跡』



鎖を越えて中に入れば、城址碑。

     20200210駒城址05


     20200210駒城址06



東西120メートル、南北180メートルの方形てあるが
現存する部分はそれよりも狭い。

     20200210駒城址07



遺構も少ない。

     20200210駒城址10


     20200210駒城址11





こちらが土塁のようにも見える土壇。

     20200210駒城址8


     20200210駒城址12



北側の空堀。

     20200210駒城址09



城跡と言うよりは、単なる森と言ったほうが適切か?

     20200210駒城址13

説明板や標柱、城址碑が無ければ、とても城址には見えない。
残念と言うか、今一歩、満足感が無い。
まあ、こればっかりは仕方が無いんだけど.............



2020/03/23 Mon. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

多賀谷城址  (2020年2月10日)(茨城県下妻市) 

2月10日

この日は、茨城県の下妻市に出かけました。

宗任神社をあとにして、、向かった先は.............多賀谷城址。

多賀谷城は、常陸国関郡下妻庄に在ったことから別名を下妻城と称しますが、
多賀谷氏の居城であったことから多賀谷城と呼ぶのが一般的なようです。

康正元年(1455年)から多賀谷氏家が下妻荘に築城を開始し、
6年後の寛正2年(1461年)完成したとされ、
下妻荘を含む関三十三郷と大名の地位を得ました。

15世紀中頃は東西両館からなり、
東館を本丸とする2廓の単純な構造でした。
その後、多賀谷氏の勢力拡大に伴い城を北方向へ拡張していき、
16世紀から17世紀初頭の多賀谷氏7代・多賀谷重経の頃には、
城は館沼によって東西に分断され、
沼の東側に本城(本丸)・中城(二の丸)・三の丸・北城・南館(姫曲輪)を、
沼の西側に西城を置き、城域は南北1500m×東西900mと言う広大なモノでした。

この時代の下妻は常陸国西部最大の都市であり、
城郭・城下町の規模や充実度の面でも優れ、
その下妻に君臨する多賀谷氏は、常陸国屈指の存在でもあったようです。



こちらが、多賀谷城の縄張り図。

     多賀谷城址縄張り図

   ( 余湖さんのHPからお借りしました。 )



広大な広さを誇った多賀谷城址。
城郭は広大で旧・真壁郡下妻町の領域がすっぽりと収まるほどであり、
1950年代までは曲輪・濠・土塁跡が残っていたと言う事です。
1961年(昭和36年)に始まった都市計画事業を経て、
現在では、多賀谷城跡公園内にわずかに痕跡を残すのみとなってしまいました。


こちらが、その多賀谷城跡公園。

     20200210多賀谷城址01


     20200210多賀谷城址02



せめてもと、多賀谷城跡公園でその痕跡を探します。

     20200210多賀谷城址03


 
さすがに市街地に整備されて出来た公園。
なかなか、城跡の痕跡は見つかりません。
    
     20200210多賀谷城址04


     20200210多賀谷城址05


     20200210多賀谷城址06


     20200210多賀谷城址07


     20200210多賀谷城址08



公園の隅っちょ。
ちょっとした土壇があります。

     20200210多賀谷城址09



土壇の前には『多賀谷城本丸跡』と記された標柱。

     20200210多賀谷城址10



石段を挟んだ先には、『多賀谷城本丸跡』の説明板。

     20200210多賀谷城址11


     20200210多賀谷城址12



この土壇周辺が僅かに痕跡を残す場所のようです。

     20200210多賀谷城址13


     20200210多賀谷城址14


     20200210多賀谷城址15


     20200210多賀谷城址16


土壇の脇には平和塔。

     20200210多賀谷城址17

第二次世界大戦の戦没者慰霊の塔ですね。
かつての下妻の城郭は昭和の時代になっても
この地区のランドマークだったんですね。





2020/03/22 Sun. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

上勝田城址   (2020年2月4日)(千葉県佐倉市) 

2月4日

この日は、月詣で富里市、東金市と足を伸ばして、その帰り道。
東金市から八街市と車は移動。
そう言えば、佐倉市の八街市寄りに確か未訪の城郭があったのを思い出した。

せっかくだから、立ち寄って帰りましょう。
と言うことで、向かった先は...............上勝田城址。


上勝田城の歴史など、詳細については不明です。
ただ、土豪の城と言うよりは、番手城といった性格の城であったと推測され
そのけっか、千葉氏の本城である本佐倉城の出城と1つと推測されているようです。
100m四方ほどの単郭の城であったようです。


こちらが、上勝田城の縄張り図。

      20200204上勝田城址縄張り図

     (余湖さんのHP よりお借りしました)


JR総武本線の踏み切りを渡ります。

      20200204上勝田城址01

踏み切り名に注目。
『城内第二踏切』。


畑の中の道の先の森が上勝田城址。

      20200204上勝田城址02


如何にも!って言う感じ。

      20200204上勝田城址03



中に進めば、そこは荒れた城郭跡でした。


空堀跡。

      20200204上勝田城址04

藪状態で、空堀も画像では良く見えない。



虎口。

      20200204上勝田城址05



内部から見た虎口。

      20200204上勝田城址06

とりあ、2〜3mほどの高さの虎口の土塁は確認出来ます。



しかし、郭内はかなり荒れています。
倒木も何本か有り、行手を阻む。

      20200204上勝田城址07


      20200204上勝田城址08


さすがに、こうなっていては.........

      20200204上勝田城址09


      20200204上勝田城址10

この先の進軍は諦めます。



一度戻って(外に出て)、側面からの侵入口を探しますが
見つかりません。

      20200204上勝田城址11



周りはすっかり耕作地になり、畑中をうろつく訳にも行きません。

      20200204上勝田城址12

畑は完全な私有地ですからね。



史跡として管理されているメジャーな城郭と違って
マイナーな城郭は個人の私有地って言うことが多いから
この辺が難しいですね。


2020/03/14 Sat. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

村田城址   (2020年1月30日)(千葉県成田市) 

1月30日

この日は、成田市に出かけました。

村田集落にある大須賀小学校第二分教場から
向かって先は..................村田城址。


村田城の築城時期等は不詳ですが、
村田城跡とされるこの地は、中世には大戸庄村田郷と呼ばれ、
国分一族の所領であり、国分氏一族の村田氏の居城と言われています。

村田郷の国分一族が文献史料に見られるのは15世紀初め(応永年間)までであり、
現在見ることの出来る遺構は、戦国末期のものと思われるため、
戦国期には大須賀氏が自己の領域を守るために築いた境目の城であったと考えられます。
大須賀保の北に接する大戸庄を領して大きな勢力を持っていた国分氏に対する城郭として
重要視されたとものと思われるそうです。


成田市の村田集落。
村田城址への目標は、集落に鎮座する妙見神社。


こちらが、村田城の縄張り図。

      20200130村田城址縄張り図

( 余湖さんのHPよりお借りしました )



集落奥の小高い台地。
この台地が村田城址。

      20200130村田城址01


いざ、村田城址へ出陣です。

      20200130村田城址02



民家の脇に建つ城址の標柱。

      20200130村田城址03


以前は無かったようですが、大栄町が成田市と統合して
成田市に変わってから建てられたようです。

      20200130村田城址04


      20200130村田城址05


標柱の先を進みます。

      20200130村田城址06


堀底道が、否が応でも雰囲気を醸し出します。

      20200130村田城址07


久々に戦国時代の土の城に訪れたと言う感が広がります。

      20200130村田城址08

 

こちらが三郭。
   
      20200130村田城址09


削平地ではあるけれど、成長した木々に覆われ、下草も多い。

      20200130村田城址20



堀底道は三郭から右に曲がり二郭へと繋がっている。

      20200130村田城址21



二郭の虎口。

      20200130村田城址22



虎口の土塁。

      20200130村田城址23


二郭の土塁。

      20200130村田城址24


二郭には、妙見神社が鎮座しています。

      20200130村田城址25



こちらが妙見神社。

      20200130村田城址26


      20200130村田城址27


そもそも城主であった村田氏は国分一族。

平安時代末期の惣領である千葉常胤には7人の男子がおり、
庶子にもそれぞれ所領を分与しました。
五男の千葉胤通は、下総国葛飾郡国分寺領(現在の千葉県市川市国分)を分与され、
国分氏を称しました。

胤通、及びその子孫は、下総北部香取郡を中心に発展し、
大戸氏、村田氏、矢作氏などの有力庶流を分出しました。

要するに村田氏も広い意味で言えば千葉一族。
千葉一族の城郭には鬼門である北東に妙見神社を置く事が多い。
この村田城も鬼門として妙見社を置いたようです。


妙見神社の手前には土壇。

      20200130村田城址28


土壇(土塁?)の上には、祠が数基鎮座する。

      20200130村田城址29



土壇の上から眺める妙見社。

      20200130村田城址30

ひょっとしたら、この土壇は見張り台のような役目をしていたのでしょうか?



主郭も削平地ではあるが、木々が繁り、下草も多く
その先に進軍する気にはなれない。

      20200130村田城址31


現在は、成田市ではあるけれど、
旧・大栄町域には、国分氏系統の家臣たちの城郭が
ネットワークのように点在されているらしい。

一気には無理だけど、少しづつそんな城郭を訪れてみたいモノです。




2020/03/11 Wed. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

水戸城址 (2020年1月25日)(茨城県水戸市) 

1月25日

この日は、水戸市に出かけました。

吉田神社をあとにして、向かった先は...............水戸城址。


水戸城は、建久年間(1190年 〜1198年)に馬場資幹によって築かれたとされ、
以後、大掾氏の(馬場氏)の居城となりました。
このため、佐竹氏が入城するまで「馬場城」と呼ばれていたそうです。

江戸氏、佐竹氏、徳川氏と城主が変わる毎に拡張が繰り返され
陸路・水運の要衝に立地し、また天然の要害であったことから、
いずれも地域支配の中核的城館として利用され、
近世には水戸藩の居城となるなど、相応の歴史的意義を有しています。

主郭部分は、上市台地の地形を利用し3箇所に堀切を設け、
四つの曲輪を構築しました。
東から下の丸、本丸(現:水戸第一高等学校)、
二の丸(現:第二中学校、水戸第三高等学校、茨城大学附属小学校)、
三の丸(現:弘道館、三の丸小学校、県庁三の丸庁舎他)と呼称され、
それぞれの曲輪には土塁が設けられています。
とりわけ本丸・二の丸・三の丸土塁と堀切は壮大で、
土造りの平山城としては、国内最大級の規模を有しています。





こちらが、水戸城の縄張り図。

     20200125水戸城址51

     ( 余湖さんのHPよりお借りしました )


三の丸は、県庁の庁舎や小学校が建っているけれど
散策路もあり、ちょっとした公園。

      20200125水戸城址09


こちらは、三の丸小学校。

      20200125水戸城址12


      20200125水戸城址13



こちらが、弘道館。
水戸藩の藩校でした。

      20200125水戸城址03



残念ながら、ゲートの先は びいすけ は入れません。

      20200125水戸城址04



暫し、びいすけ には、待機してもらってゲートの先へ。


弘道館正門。

      20200125水戸城址08



正門脇の碑。

      20200125水戸城址05



説明板。

      20200125水戸城址06


さらに別な碑も建っていました。

      20200125水戸城址07


実は、弘道館は有料の見学施設。
確かに、歴史的な価値のある建造物だとは思うけれど
ゲート脇に びいすけ を繋ぎ留めているから
今回はパス。

塀沿いに弘道館の周りを散策します。

      20200125水戸城址02



こちらは、弘道館の孔子廟。

      20200125水戸城址10



どうやら、弘道館では儒教も教えていたようですね。

      20200125水戸城址11



弘道館前に建つ碑。

      20200125水戸城址01

碑には『徳川慶喜向学の地』とある。

徳川幕府最期の将軍・徳川慶喜は、水戸徳川家の出身で、
子供の頃にここ弘道館に通っていたと言うことです。

徳川慶喜が水戸藩の出身とは知らなかったなぁ。




大手門へと続く道沿いに徳川斉昭の像。

      20200125水戸城址14

水戸藩の第9代藩主であり、
江戸幕府第15代の将軍・徳川慶喜の実父です。

藩校である弘道館を開校したり、下士層から広く人材を登用することに努め
藩政を改革した名君とされています。



三の丸から二の丸に架かる大手橋。

      20200125水戸城址15

この橋の下は、かつては堀がありました。
現在は、道路となっています。



その先に見えるのは、復元工事中の大手門。

      20200125水戸城址16


当初の予定では昨年の秋に完成予定だったみたいだけど
かなり遅れてるみたいですね。

※ 訪問した時はまだ工事中だったようですが
工事も完了し、2月4日から通行できるようになったそうです。



二の丸大手の土塁。

      20200125水戸城址17


      20200125水戸城址18



土塁の脇を歩き、二の丸へと進みます。


振り返れば、工事のバリケードの先には大手門。

      20200125水戸城址21



この日通行が出来なかった大手門から来れば、右側は師範学校跡。

      20200125水戸城址19


      20200125水戸城址20



現在は、茨城大学附属小学校が建つ。

      20200125水戸城址22



左側には、水戸市立第二中学校。
ここは、かつての水戸彰考館跡。

      20200125水戸城址23



水戸藩が『大日本史』を編纂するために置いた修史局(史局)です。

      20200125水戸城址24


それに因んでいるんでしょうか?
第二中学校の敷地の一部は、『水戸城 二の丸展示館』になっています。

      20200125水戸城址25

残念ながら、この日は閉館日。


展示館前には安積澹泊の像。

      20200125水戸城址26

55年の長期にわたって彰考館で修史事業に精力を傾けた人物です。



第二中学校のフェンス。

      20200125水戸城址27

さすが、城郭跡に建つ学校。
フェンスの代わりに城郭を模した塀とは、やりますなぁ。


塀の隙間から覗いた第二中学校の校庭。

      20200125水戸城址28



こちらは、水戸城三階櫓跡。

      20200125水戸城址34


      20200125水戸城址37


徳川頼房は三の丸や外堀の整備拡張を行い、
二の丸に御殿を造営し、併せて三階物見と呼ばれる櫓を建設しました。
しかしこの三階物見は明和元年(1764年)の火災で焼失、
後に再建された際に屋根を銅瓦葺とし、
天守らしく鯱を上げ三階櫓(御三階櫓)と呼びました。
しかし、昭和20年の空襲で焼失してしまい、
以後再建されていません。

      20200125水戸城址36

水戸市の計画では、大手門同様、寄付を募り再建する予定です。



こちらは、二の丸御殿跡。

      20200125水戸城址30


      20200125水戸城址31

二の丸と言っても、実際はこちらが本丸のようなもの。
水戸藩の時代には、二の丸に御殿があり、本丸は倉庫だったようです。


今は、県立水戸第二高校が建ってます。

      20200125水戸城址33



二の丸に残る大シイ。

      20200125水戸城址39
      20200125水戸城址40


      20200125水戸城址38



水戸城の案内図。

      20200125水戸城址41

いわゆる縄張り図ですね。



この坂が杉山坂。

      20200125水戸城址42


      20200125水戸城址43


復元された杉山門。

      20200125水戸城址44




いよいよ、水戸城址の本丸跡へと向かいます。


この橋の先が本丸跡。

      20200125水戸城址45



橋の下はかつての堀跡。
今は、JR水郡線の線路が敷設されています。

      20200125水戸城址46



本丸虎口の土塁。

      20200125水戸城址47


本丸跡地は、水戸第一高校の敷地となっています。
本来は学校関係者以外は立ち入り禁止になっていますが
こんな看板が建てられています。

      20200125水戸城址49

一部の場所だけですが、見学者に限り立ち入ることが出来ます。
何とも太っ腹。
まあ、これが本来の文化財に対する対応だと思います。
私有地しゃなくて、一応公共施設でもあるから
こう言った配慮は嬉しいモノです。



敷地内入口近くには、碑と説明板が建っています。

      20200125水戸城址52



こちらが説明板。

      20200125水戸城址5



文字が読みづらいけれど、水戸城址の碑。

      20200125水戸城址54



土塁。

      20200125水戸城址55


      20200125水戸城址59



現存する水戸城の遺構、薬医門。

      20200125水戸城址56



安土桃山時代末期の建造物と推測されています。
本丸から二の丸に通じる橋詰門だったとされ、
この場所に移築されました。

      20200125水戸城址57


      20200125水戸城址58



 
今回訪れた水戸城址。
何と、日本100名城の一つらしい。

100名城と言う事で、スタンプを貰って来ました。

      20200125水戸城址50

弘道館の受付にスタンプは置いてありました。
日本100名城のスタンプも集めちゃおうかな?(笑)




2020/03/03 Tue. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

笠間城址 (2020年1月4日)(茨城県笠間市) 

1月4日

この日は、茨城県の笠間市に出かけました。

香取小原神社をあとにして、向かった先は...............笠間城址。

以前、笠間市に来た時に、茨城百景の包括地として
笠間城址の一部に立ち寄りましたが、山城である笠間城の麓の部分。
家臣たちの屋敷が広がる笠間城の一部でした。
(その時の記事は  こちら  )

あの時は、急いでいたと言うこともあって
足早にその場をあとにしましたが、今回は時間をかけて、笠間城址を攻略します。


笠間城は、鎌倉時代に笠間時朝(1203~1265)が築城しました。

当時、この地域は真言宗の正福寺と徳蔵寺の勢力争いが盛んであり、
両寺院の僧兵たちが争っていました。
劣勢であった正福寺勢が下野守護宇都宮頼綱に援軍を求めたところ、
頼綱は甥の笠間時朝(塩谷時朝)を派兵しました。
時朝は元久2年(1205年)、徳蔵寺の僧兵と戦うための拠点として
佐白山山麓に麓城を築城し、徳蔵寺を討ちました。
ところが、麓城の規模があまりにも大きかったため、
味方のはずの正福寺の僧兵までも時朝に敵対してしまいます。
結局、時朝は正福寺と徳蔵寺を滅ぼすことになります。
そして、承久元年(1219年)堅固な城を佐白頂上に築城しました。
これが、笠間城の始まりです。
その後、笠間氏は18代にわたって笠間の地を治めます。
天正18年(1590年)の小田原征伐の際、18代笠間綱家が宗家の宇都宮氏に逆らい、
宇都宮氏に攻められ落城、替わって宇都宮氏の支配するところとなりました。
文禄元年(1592年)、宇都宮国綱の家臣・玉生勝昌が笠間城主として入城。
慶長3年(1598年)、蒲生郷成が3万石で封じられ笠間城に入城。
慶長6年松平康重が替わって入城した。
その後、諸氏が封じられて城主は目まぐるしく入れ替わり
永享4年(1747年)、牧野貞通が8万石で封じられ、
以後、牧野氏が明治の廃藩まで笠間の地を治めます。、

明治6年(1873年)の廃城令により廃城処分とされ、
建物は取り壊されました。





こちらが、笠間城の縄張り図。

      20200104笠間城址01



本来なら麓から攻略するのがセオリーですが、何せ山城ですから
車で行けるところまで行きましょう。


笠間百坊の近くにある大黒石の近くに車が10台ぐらい停められるスペースがあるので
そちらを起点とします。


こちらが大黒石

      20200104笠間城址02

正福寺と徳蔵寺の争いの際、佐白山の頂辺りから転がり込み落ちて、
優勢だった徳蔵寺の増兵は下じきになったり、
つぶされそうになったりして逃げ回ったそうです。



多黒石のちょっと先。
山の中に入っていく道がある。

      20200104笠間城址03


      20200104笠間城址04


笠間城関連だと思うのだが、本丸とは明後日の方向へ行っちゃうので
この先の進軍は諦めます。

      20200104笠間城址05




こちらが、千人溜り跡。

      20200104笠間城址06



別名、的場曲輪とも呼ばれ、かつての兵の溜まり場だったようです。
以前は、この場所が駐車場になっていたのですが
倒木などにより、駐車場は閉鎖されてしまいました。

      20200104笠間城址07


さあ、笠間城への攻略です。



大手門前の土橋。

      20200104笠間城址08



土橋の架かる空堀。

      20200104笠間城址09



大手門の在った場所には碑が建っています。

      20200104笠間城址10



大手門脇の石垣。

      20200104笠間城址11



城内には、観光用の道路(車両進入禁止)も整備されているけれど
旧来のものと思われる登城路を進みます。

      20200104笠間城址12


      20200104笠間城址13



本丸はもう少し。
この辺りにも石垣は残る。

      20200104笠間城址14


      20200104笠間城址15



本丸虎口。

      20200104笠間城址16



こちらが本丸。

      20200104笠間城址17



いきなり、転がり本丸の土の感触を味わう びいすけ 。

      20200104笠間城址18


本丸跡には、コレと言って特に何も無い。

      20200104笠間城址20



本丸奥に土塁(土壇)がある。

      20200104笠間城址30



ここから、上がって行けるようです。

      20200104笠間城址21



上がった先が八幡櫓。

      20200104笠間城址22



櫓と言ってもちょっとした曲輪(郭)になっている。

      20200104笠間城址23



八幡櫓から本丸を見下ろしてみます。

      20200104笠間城址24



再び、本丸に降りて行きます。

      20200104笠間城址25


本丸奥には笠間城址の碑。

      20200104笠間城址26


      20200104笠間城址27



さらに、ちょっと離れた場所に別な碑も建っています。

      20200104笠間城址28



そして、その脇には大きな案内板。

      20200104笠間城址29



本丸の土塁。

      20200104笠間城址31


      20200104笠間城址32



こちらは、ちとせまつ。

      20200104笠間城址33

おそらく、『千歳松』と言う意味だと思うけれど
碑文は平仮名で『ちとせまつ』。
碑は建っているものの、その名の由来は不明。



本丸から天守曲輪へと向かいます。



本丸奥の土橋。

      20200104笠間城址34


竪堀が天守への行く手を阻みます。

      20200104笠間城址35



この先ぐ天守跡。

      20200104笠間城址36



石段を登っていけば、石垣がお出迎え。

      20200104笠間城址37



天守跡には、佐志能神社が鎮座します。

      20200104笠間城址38



笠間城の天守は佐白山の頂部。
元々は佐志能神社が鎮座していましたが
笠間城築城の際に麓に遷座したと言うことですが
笠間城の廃城後、再び佐白山の頂部に遷座したそうです。

      20200104笠間城址39


さすが、佐白山の頂部。
見晴らしは良い。

      20200104笠間城址40



再び石段を下り、本丸へと戻ります。

      20200104笠間城址41



本丸西奥にも土塁が残る。

      20200104笠間城址42


本丸西郭にも櫓が在ったそうで、
この辺りに櫓が建っていたらしい。

      20200104笠間城址43


天守閣のような建築物は遺っていないけれど
立派な石垣が何ヶ所も遺る笠間城址。
続・日本の100名城に選ばれたらしい。

続・日本の100名城って言うのも如何なモノか?
と個人的には思ったりするんだけどねぇ。




2020/02/07 Fri. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

大台城址  (2019年12月25日) (千葉県印旛郡栄町) 

12月25日

この日は、栄町の駒形神社にやって来ました。

駒形神社の鎮座する台地は、かつての大台城址だと言う事です。


大台城の詳細は不明ですが、『印旛郡誌』によれば
弘治2年(1556年)、依田因幡守が大台城を築き、
弟の兵助に守らせたが天正2年に落城したということです。。

また『東国闘戦見聞私記』によれば、龍台合戦の項に、
天正9年、栗林義長を迎え撃つために、
織田方の武将たちが安食に陣取ったということになっているそうです。



こちらが、大台城の縄張り図。

      20191225大台城址01

( 余湖さんのHP よりお借りしました。)



駒形神社へと向かう道には土塁跡らしき土壇も残る。

      20191225大台城址02


この竹藪の奥も土塁っぽく見えたりする。

      20191225大台城址03


こちらが駒形神社社頭。

      20191225大台城址04



神社の境内にもそれっぽい土壇が残る。

      20191225大台城址05



駒形神社境内の石碑。

      20191225大台城址06

以前、何処のHPで、この石碑が大台城で戦があった時の碑だと言うような記事を見た事があったけど
どこのHPだったか記憶が定かでない。


その石碑の前の道。

      20191225大台城址07

いかにも城郭の大手に至る道のようにも見える。



進んだ先は、栄町立栄中学校。

      20191225大台城址08



中学校の奥は一部が耕地化されていて
城郭遺構は残っていない。

      20191225大台城址09

あくまでも伝承でしか、その存在を知る術はなく、
遺構も残されていない大台城址。

中世の無名の小さな城郭は、こんなモノなんでしょうね。




2020/02/02 Sun. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

宍戸城址 (2019年11月16日)(茨城県笠間市) 

11月16日

この日は、茨城県の笠間市に出かけました。

第二分校をあとにして、向かった先は...................宍戸城址。


宍戸城は、宍戸氏により、建仁3年(1203年)築城されました。

小田城主・八田知家の四男、家政が常陸国宍戸荘地頭職となり、
宍戸氏を称し、建仁3年(1203年)築城したのが宍戸城です。

宍戸氏は当初、小田氏に従っていましたが、佐竹氏の勢力が拡大し、
小田氏が衰退すると、佐竹氏の配下となります。
天正18年(1590年)小田原征伐に参陣した佐竹氏は、
秀吉より常陸大半の領有権を安堵されます。

関ヶ原合戦後の慶長7年(1602年)、佐竹氏は出羽国秋田へ転封となり
宍戸氏も帯同し、変わって秋田(安東)実李が五万石に減封され宍戸城に移されます。

この実季によって近世宍戸城が築かれたものとされています。

その後、秋田俊季が正保2年(1645年)に三春へ転封されると幕府直轄領となり、
さらに天和2年(1682年)に水戸藩主・徳川頼房の七男で、
徳川光圀の弟である松平頼雄が一万石を与えられると、城を陣屋に改めて支配しました
以後、松平氏が代々続き、元治元年(1864年)9代頼徳の時、天狗党の乱の鎮圧に失敗し、
藩主自ら幕府より責任を問われて切腹を言いわたされ、廃藩となります。




こちらが、中世の宍戸城の縄張り図。

      宍戸城址縄張り図15

              ( 余湖さんのHPからお借りしました )




末廣稲荷神社が鎮座する一帯が、宍戸城の本丸(主郭)跡となるようです。

      20191116宍戸城址01


平城であった宍戸城。
土塁と堀に守られた城でした。

城址は宅地へと開発され、
遺構は本丸跡に土塁が僅かに残るだけと言われています。

      20191116宍戸城址02


      20191116宍戸城址03


      20191116宍戸城址14



本丸跡の末広稲荷神社。

      20191116宍戸城址04


社号標。

      20191116宍戸城址05


鳥居。

      20191116宍戸城址06


由緒書き。

      20191116宍戸城址07



拝殿。


      20191116宍戸城址08


本殿。

      20191116宍戸城址09



本殿裏手に残る土塁。

      20191116宍戸城址12


      20191116宍戸城址13




土塁跡には、『宍戸の歴史』と称した説明板。

      20191116宍戸城址10

冒頭に綴ったような、宍戸の歴史が記されてている。


広大な宍戸城の縄張り図も記されている。

      20191116宍戸城址11



末廣稲荷神社の隣は、『旧陣屋コミュニティセンター』。
その奥は、民家となっているけれど
フェンスの向こうの民家の庭にも土塁が確認できる。

      20191116宍戸城址15


本丸跡地であるこの周辺にしか土塁跡と言う遺構しか残っていない。
宍戸城、その全貌が見たかった...............。



2020/01/11 Sat. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

春日部氏館跡 (2019年11月3日)(埼玉県春日部市) 

11月3日

この日は、埼玉県の春日部市にやって来ました。

春日部市に鎮座する春日部八幡神社、並びに隣接する春日部稲荷神社。
この二つの神社に隣接するのが八幡公園。
裏を返せば、神社のある一帯が八幡公園となっていて
そこは、かつての春日部氏の城館跡と言われています。


春日部氏は、かつて現在の埼玉県春日部市周辺を拠点とした武家です。
鎌倉幕府の御家人であり、春日部市の市名の由来となりました。

長谷雄の流れを汲む紀氏一族(長谷雄流)の実直が、
12世紀始め、国衙の関係者として武蔵国に土着したのが始まりです。
実直の子である実高は、春日部氏の始祖になります。
現在の春日部市浜川戸地区周辺を拠点とし、春日部氏を名乗りました。
そして、その孫にあたる実景が伏見稲荷大社から勧請し屋敷神として祀ったものが
春日部稲荷神社になります。
さらに実景の孫になる春日部重行が鶴岡八幡宮より勧請して
創建したのが隣に鎮座するのが春日部八幡神社になります。

重行は、新田義貞に随い、南朝方として戦い名を馳せます。
この事から春日部市では、重行が「春日部の市祖」とも称されているようです。



こちらが、春日部氏館の縄張り図。

      20191103春日部氏館縄張り図

( 余湖さんのHPよりお借りしました。)



八幡公園の案内図。

      20191103春日部氏館01



公園なのに、犬の散歩禁止。

      20191103春日部氏館02

隣接するの八幡神社は犬の散歩可なのに、おかしくない?
と思わず突っ込みたくなります。



びいすけ を連れて公園に入れないので、
入口近くで公園の雰囲気を味わいます。

      20191103春日部氏館03


      20191103春日部氏館04



八幡公園の裏手、春日部稲荷神社の奥から散策を開始です。

この辺りは、八幡公園との微妙な境界線。
この辺りなら犬連れでも問題なさそうな感じです。

    20191103春日部氏館05



この先は、古墳と言われている場所。
台地になっています。
バカじゃ無いし、煙でも無いけれど高いところを目指します(笑)。

      20191103春日部氏館06



頂部には鳥居があって、なにやら祀られています。

      20191103春日部氏館07



『不弐大神』ときされています。

      20191103春日部氏館08

  
不弐大神=不二大神=富士山。
すなわ富士山信仰の象徴である浅間神社ですね。



台地頂部の木がポッキリと折れている。
先日の台風の影響でしょうね。

      20191103春日部氏館09

こんな所にも台風の爪痕は残っていました。



神社として整備されているからなのか?
はたまた公園化によって隠滅してしまったのか?

はっきりと分かる遺構は残されていないようです。

微妙に土壇が土塁っぽく見えたりするし
遊歩道が空堀跡見えたりもしなくはない。

どちらとかと言えば、八幡神社の境内社が点在する台地が
一番、城館跡っぽく感じてしまいます。

      20191103春日部氏館10


      20191103春日部氏館11


      20191103春日部氏館12


      20191103春日部氏館13


      20191103春日部氏館14


あくまでも伝承でしか無いのですが
この地は春日部氏の居館跡だと言われてきた。

その言葉を信じることにしよう...................




2019/12/19 Thu. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

新府城址 (2019年10月24日)(山梨県韮崎市) 

10月24日


10月24日〜25日の1泊2日で清里方面へ旅行に出かけました。

初日の24日。
この日は、韮崎市を中心に巡ります。


祖母石分校をあとにして、向かった先は.............新府城址。


新府城は、韮崎市中田町にかつてあった日本の城郭です。
昭和48年(1973年)に『新府城跡』として国の史跡に指定されており、
保存のため公有地化されました。
本丸跡地には藤武稲荷神社が建立されています。

武田氏最後の城。武田勝頼が築いた戦国時代末期の城郭跡で築城するも、
織田勢に攻められ、わずか68日で勝頼自らが火を放った悲運の城と言われています。
釜無川を直下に見下ろす断崖の独立した丘陵上に石垣を用いず、
土塁と堀により築城されていた武田氏を代表する甲州流築城術の集大成となる城です。

築城は、天正9年(1581年)から開始され、穴山信君(穴山梅雪)が築城を提案し、
普請をしたのは真田昌幸とされています。
また、その補佐として原貞胤(原隼人祐貞胤)が担当したとされています。
石垣は使われない平山城で、本曲輪・二の曲輪・東の三の曲輪・西の三の曲輪・
帯曲輪などにより構成され、丸馬出し・三日月堀・枡形虎口などの防御施設を持っていたとされています。
その年の年末には勝頼が躑躅ヶ崎館から新府城へ移住しています。

翌、天正10年(1582年)、勝頼は信濃での木曾義昌の謀反を鎮圧するため諏訪へ出兵しますが、
織田・徳川連合軍に阻まれて帰国します。織田軍はさらに甲斐国へ進軍し、
勝頼は3月には小山田信茂の岩殿城に移るために、新府城に火をかけてしまいます。
勝頼は岩殿城に向かう途中に笹子峠(大月市)で信茂の謀反にあい、
天目山(甲州市)へ追い詰められ自害。武田一族は滅亡してしまいます。

武田氏滅亡の後、甲斐国は徳川氏と小田原北条氏との領地争いの舞台となり
徳川勢は新府城を本陣に能見城など七里岩台上の城砦に布陣し、
対して北条氏は都留郡を制圧し、若神子城に本陣を置くと同様に周辺の城砦に布陣し
徳川勢と対峙しますが、徳川・北条同盟が成立し北条氏は甲斐から撤兵することになります。
こうして甲斐は徳川氏が領することになります。
徳川氏は甲府の躑躅ヶ崎館を本拠とし、やがて甲府城が築城されます。
甲府城下町が形成されますが、秀吉の命により徳川氏は関東に移封されてしまいます。
その後、関が原の戦いを経て甲斐は再び徳川氏が領し、
甲府城が甲斐の政治的中心地となり、新府城は廃城となってしまいます。


まぁ、なんとも悲しい歴史と言うか、やっぱりたった68日間と言えども
新府城は武田の城、勝頼の城だと思います。



新府城の縄張り図。

      新府城縄張り図
 
          (余湖さんのHPよりお借りしました。)



県道沿いに建つ『新府城跡』の碑。

      20191024新府城址01




社号標と付いでは無いけれど、近くに建つ案内板。

      20191024新府城址02



案内板にも縄張り図が記載されています。

      20191024新府城址03



本来は、いきなり本丸に向かうのではなく
三の丸、二の丸と巡っていくのが攻城のセオリーですが
今回は時間の関係本丸へと向かいます。

神社へと続く石段を上って行きます。
意外に急傾斜の石段。
結構、脚にきます。

      20191024新府城址04


石段半ばにある朱の鳥居。

      20191024新府城址05


鳥居に掲げられた神額。

      20191024新府城址06

本丸に鎮座するのは藤武神社と称するようです。



びいすけ は、元気一杯。

      20191024新府城址07



一緒に石段を上がる人間は、息が上がります。

      20191024新府城址08



石段の先には藤武神社の社殿。

      20191024新府城址09

でも今回の目的は神社ではない。
軽くお詣りをしたら、拝殿と神楽殿の間の虎口へと向かいます。



本丸虎口。

      20191024新府城址10


      20191024新府城址11



本丸には、新府城の説明板。

      20191024新府城址12


      20191024新府城址13


      20191024新府城址14



説明板を読みふけっていると、足元に居たはずの びいすけ が居ない。

あれっ、、、、!


本丸広場で背中を擦り付け
『うげっ、うげっ』と奇声を発しています。

      20191024新府城址15



本丸広場の標柱前にて。

      20191024新府城址16



実は、この本丸広場で、静岡県から来た城好きのオジさんに出会い

『どちらから?』           「私は千葉の佐倉から。」
『佐倉って、佐倉城の佐倉?』     「そうです、佐倉城址のある佐倉市です。」
『本佐倉城もあるんですよね? いつか行って見たいんですよね』と、
地元佐倉城の話で盛り上がり、話し込んでしまいした。

今まで小さな城郭を含め300以上の城郭に訪れましたが
こんな感じで人と会って話すことなどありませんでした。
城好きには各々が贔屓にしているHPがあるようで
私の場合は 余湖さんのHP ですが、このオジさんは ちえぞーさんのHP と言う事でした。





本丸の土塁。

      20191024新府城址17



本丸をぐるっと一周するように土塁が張り巡らされている。

      20191024新府城址18


この本丸は思ってたいじょうに広い。
二の丸、三の丸は今回見ていないから、言い切れないけれど
勝頼が織田・徳川の甲斐侵攻に備えて、
武田の本拠地を甲府の躑躅ヶ崎館から移した背景には
やはり、多くの兵を収容できる城である必要があったのでしょうね。

      20191024新府城址19


      20191024新府城址20



この広大な城をたった68日間しか居城とする事が出来なかった武田氏の悲運。
戦国時代は如何に激動だったかを思い知らされる。

      20191024新府城址21


駐車場の車に戻るには、この急な石段を下って行きます。

      20191024新府城址22

転け無いように気をつけましょう。



今回、時間の関係で本丸周辺しか見る事ができなかったけれど
またいつか、時間を作って訪れることにしよう。
そのときは、白山城址、能見城址を合わせて訪れたいものです。


2019/12/09 Mon. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

那珂西城址 (2019年10月2日)(茨城県東茨城郡城里町) 

10月2日

この日は、茨城県の城里町に出かけました。

城里町の城址巡り、続いては那珂西城址です。


那珂西城は、南北朝時代の平山城です。
那珂通辰の居城と言われて来ましたが、
最近では大中臣氏の子孫である時久が那珂氏と称し、
この地に居城したという説が有力となっています。
貞治4年(1365)那珂宗泰の代に足利尊氏に従って丹波に移り、
当地に残った一族は佐竹氏の勢力下に入ったされています。
佐竹氏の秋田移封によって廃城になりました

広さ約4㏊と広大な城郭です。
城内は本城、中城、兵庫坪の三郭から構成されていたとされ
城域内の本城の位置には、宝幢院がありますが、
これは元禄9年(1696)、徳川光圀の発願によりここに移されたものだそうです。
宝幢院の周囲及び国道123号線沿いに土塁の一部と堀跡が残っています。




こちらが、那珂城の縄張り図。

      那珂西城址縄張り図

( 余湖さんのHPよりお借りしました )




宝幢院入口。

      20191002那珂西城址01



国道沿いに建つ、城址入口の標柱。

      20191002那珂西城址02



そのすぐ近くに残る土塁。

      20191002那珂西城址03

この辺りは、兵庫坪。


土塁の上には社もあります。

      20191002那珂西城址04


      20191002那珂西城址05



土塁上から見た宝幢院山門付近。

      20191002那珂西城址06

山門の両脇の森のように見えるのは土塁跡。


山門右側の土塁前にて。

      20191002那珂西城址07




那珂西城址の説明板。

      20191002那珂西城址08



説明板脇の石段を上った先には城址碑。

      20191002那珂西城址09



城址碑の前から眺める土塁は、尾根のように連なっている。

      20191002那珂西城址10



土塁前の空堀跡。

      20191002那珂西城址11

かなり埋め戻されているようです。



山門右側の土塁前には、宝幢院の説明板。

      20191002那珂西城址12



山門内側からの土塁。

      20191002那珂西城址13


      20191002那珂西城址14



境内奥にも土塁が一部残っている。

      20191002那珂西城址15


      20191002那珂西城址16


      20191002那珂西城址17


      20191002那珂西城址18



広大な敷地を誇る那珂西城址。
今回は主郭に当たる宝幢院周辺がメインなってしまいますが、
逆に遺構らしきモノが宝幢院の周辺にしか残っていないのが
残念と言えなくもない。



2019/11/13 Wed. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

石塚城址 (2019年10月2日)(茨城県東茨城郡城里町) 

10月2日

この日は、茨城県の城里町に出かけました。

城里町の中心と言っていいのか?
現在の城里町役場のある旧・常北町域。
城里町役場から1kmほどの場所にある石塚城址に向かいます。



石塚城は、南北朝時代の1362年に石塚宗義が築いたとされています。


石塚城は足利尊氏に味方して常陸守護となった佐竹氏9代・佐竹義篤の三男、宗義によって
南北朝時代の1362年に築かれた城とされています。
宗義は石塚氏を称し、石塚城は石塚氏代々の居城となりました。
文禄4年(1595年)、第10代当主・佐竹義宣によって家臣団の所領が再編されると、
石塚氏は片野城に移され、佐竹宗家の蔵入地となったこの城には、
佐竹東家の東義久・義賢父子が城代として入りましたが、
慶長7年(1602年)の佐竹氏の秋田移封に伴い廃城となりました。


足利尊氏に味方し常陸守護になった佐竹家9代の佐竹義篤の3男ですが
長兄は佐竹義宣。他にも小場義躬、大山義孝、藤井義貫と称し、それぞれ分家した兄弟がいます。




こちらが、石塚城の縄張り図。

      石塚城址縄張り図

( 余湖さんのHPよりお借りしました )


県道沿いに建つ標柱。

      20191002石塚城址01


      20191002石塚城址02



この奥が石塚城址になるようです。

      20191002石塚城址03



広大な敷地を誇る石塚城址。
その一部は宅地化され民家になっていたり
耕地化されて畑になっていたりする。

こんな看板も建てられています。

      20191002石塚城址04



私有地だから仕方ない。

      20191002石塚城址05



部分的に埋められていたりするが、
民家の庭先にはこんな堀跡もある。

      20191002石塚城址06



しばらく進むと、説明板が見えてきました。

      20191002石塚城址07



石塚城址の説明板です。

      20191002石塚城址09



説明板の建っている辺り三郭。

      20191002石塚城址08  

この先が二郭。
位置的には北方向になります。


二郭へ進む左方向には空堀が走ってますが、
写真ではよく分からない。

      20191002石塚城址10


      20191002石塚城址12



この辺りの植物を持ち帰る輩が多いのか?
こんな看板も立てられています。

      20191002石塚城址11



土橋。

      20191002石塚城址13



土橋の先がニ郭になります。
縄張り図で言う東ニ郭になります。

      20191002石塚城址15




土橋の上から左方向の空堀。

      20191002石塚城址14

やはり、木が茂っていて、その全容が分かりづらい。




こちらが、二郭(東ニ郭)。

      20191002石塚城址16




耕地化されていて、完全な畑。

      20191002石塚城址17



ニ郭の空堀もブッシュ状態。

      20191002石塚城址18

本来なら主郭へと足を伸ばしたいのですが
10月とは言え、まだまだ下草が多く、進軍する気には慣れない。
とにかく、蜘蛛の巣だけはご勘弁願いたい。

やっぱり、藪の多い城址巡りは、冬に限りますね。




2019/11/12 Tue. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

烟田城址  (2019年9月15日)(茨城県鉾田市) 

9月15日

この日は、茨城県の鉾田市に出かけました。
鉾田市ては廃校を巡っていましたが、
訪れた新宮小学校は烟田城址の主郭だったようです。

烟田城は、徳宿氏の庶流である烟田氏の居城です。
大掾氏の庶流で鹿島氏の一族の更に分流に当たります。
烟田氏の祖である烟田幹秀は徳宿秀幹の次男であるとされています。

鎌倉時代に徳宿氏2代秀幹の次男である朝秀は、
烟田村他3ヶ村に分封されて烟田氏の祖となりました。

その後、烟田氏は鹿島郡北部の有力豪族となり、
南北朝の動乱や小山の乱(14世紀末)に活躍しました
室町時代には、鹿島氏を惣領家とする一門として鹿島氏に従って活躍しましたが
1486年に、徳宿氏が水戸城主・江戸通雅に攻められ、
徳宿城は落城して徳宿氏は滅び、援軍として参戦した烟田入道父子も討死しました。

大正18年(1590年)小田原の役の際、城主・烟田通幹は佐竹氏に従って小田原へ参陣。
しかし、翌1591年の「南方三十三館の仕置き」により、
他の鹿行地区の領主共々、佐竹義宣に誘殺されてしまいます。
その直後、烟田城は佐竹勢に攻められ、徹底抗戦するも落城してしまいます。
こうして、鎌倉時代より続く烟田氏は滅亡してしまいました。




こちらが、烟田城の縄張り図。

      20190915烟田城址01

( 余湖さんのHPにてお借りしました。)



小学校正門へと続く道。
かつての登城路だったのだろうか?

      20190915烟田城址02


この辺りから、城址の雰囲気を感じ取れる。

      20190915烟田城址0



横矢がった曲がり角には、社が残る。

      20190915烟田城址26


縄張り図によれば、権天神と言うらしいが
祠も草と同化しちやいそうな状態。

      20190915烟田城址27




こちらは、台地下から氷川神社へ続く道。

      20190915烟田城址04


主郭へと続くから搦手口の登城路かも知れない。

      20190915烟田城址05


少し登れば削平地。

      20190915烟田城址06


氷川神社裏手に出ました。

      20190915烟田城址07



氷川神社裏手の空堀。

      20190915烟田城址08


      20190915烟田城址09


祠のあるこの辺りは崖近く。

      20190915烟田城址10


眺望は良い。
ひょっとしたら、物見台だったかも知れない。

      20190915烟田城址11



氷川神社の裏手から、新宮小学校の体育館にかけて
わずかであるが土塁が残っています。

      20190915烟田城址13



その土塁の近くに立つ説明板。

      20190915烟田城址14



こちらが、その土塁。

      20190915烟田城址15


      20190915烟田城址16



      20190915烟田城址19


      20190915烟田城址20





主郭に鎮座するのは氷川神社。

      20190915烟田城址17


      20190915烟田城址18




こちらは、西光院。

      20190915烟田城址21



新宮小学校に隣接する寺院。
こちらの境内奥にも土塁や空堀が残ると言う事です。

      20190915烟田城址22



墓地奥の土塁。

      20190915烟田城址23



この先に空堀があるのですが、薮状態で進めません。

      20190915烟田城址24




境内の土塁。

      20190915烟田城址25



城址の中心部である主郭が新宮小学校になった際に
かなり改変されてしまったようで、遺構そのものは少なくて
見所はそう多くはない。
でも、鹿行地区の歴史を語る上で、重要な位置付けになる烟田氏。
その烟田氏の居城として見逃せない城郭だと思います。





2019/10/27 Sun. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

徳宿城址 (2019年9月15日)(茨城県鉾田市) 

9月15日

この日は、茨城県の鉾田市に出かけました。
鉾田市には、この数年で12校の小学校が廃校になってしまいました。
その廃校になった小学校を廻るべく、車で移動していると
こんな案内看板が目に留まりました。

      20190915徳宿城址01

『徳宿城址...........? 知らないなぁ........』

400mの距離なら、すぐそこでしょう?
多分この森、この台地が城址になるんでしょう。

      20190915徳宿城址02

ならば、目の前の城を攻めちゃいましょう。


急いで、余湖さんのHPをチェック。
規模と縄張りを確認します。

こちらが、徳宿城の縄張り図。

      20190915徳宿城址29

       ( 余湖さんのHP からお借りしました )


徳宿城は、平安時代末期に常陸大掾氏の一族である鹿島成幹の子・徳宿親幹によって築かれました。
文明18年(1486年)、第9代の徳宿道幹の頃に水戸城の江戸通雅から攻撃を受け、
激しい攻防戦の末に敗れ、徳宿氏は滅亡し、徳宿城は廃城となったそうです。




縄張り図で言うところの 虎口2近く。
車道沿いになりますが、ここには城址碑が建てられています。

      20190915徳宿城址03


      20190915徳宿城址04


説明板もありました。

      20190915徳宿城址05



この先が、徳宿城址。

      20190915徳宿城址06

いざ、進軍いたしましょう。



狭い上り坂。

      20190915徳宿城址07


この先が主郭虎口。


そして、主郭が現れます。

      20190915徳宿城址12



主郭には、稲荷神社が鎮座しています。

      20190915徳宿城址08

以前は鳥居も建てられていたようですが
倒壊してしまったんでしょうか?


神社脇。
縄張り図で言うところの 虎口3 辺り。

      20190915徳宿城址09



虎口の奥には、宝篋院塔と『徳宿氏事績考碑』。

      20190915徳宿城址10



その碑文。

      20190915徳宿城址11



主郭の古木。

      20190915徳宿城址13
      20190915徳宿城址14
      20190915徳宿城址15



縄張り図で言うところの 虎口1 辺り。

      20190915徳宿城址16

この先は二重空堀。



一つ目の土橋。

      20190915徳宿城址17



土橋から主郭を振り返ってみた虎口。

      20190915徳宿城址19



一つ目の空堀は草木が茂り、藪状態。

      20190915徳宿城址18



さらにその先は、二つ目の土橋。

      20190915徳宿城址20



土橋の先は、倒木や倒竹の難所。

      20190915徳宿城址22



それらを避けて進みます。

      20190915徳宿城址23


      20190915徳宿城址24



抜け出た先は耕作地。
さらに、その先は民家になります。

      20190915徳宿城址25


振り返ってみると、こんな感じ。

      20190915徳宿城址26

ここは、三郭の虎口になるのか?



その場所から右方向へ移動すると、新たな侵入路?
しかし、この藪の中に入っていく勇気はありません。

      20190915徳宿城址27



その近くに祀られている小さな社。

      20190915徳宿城址28

徳宿氏に関するモノなんだろうか?


当初の予定にはなかった徳宿城址。
偶然、現地で知り訪れた城址ですが、久々の城址巡り。

やっぱり城址巡りも楽しいモノです。






2019/10/15 Tue. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

東條太田城址 (2019年8月26日)(茨城県稲敷市) 

8月26日

この日は、千葉県の利根川の対岸、川向こうの茨城県に出かけました。
茨城県と言っても県南にあたる稲敷市に出かけました。


向かった先は..................東條太田城址。
.

常陸大掾平氏の平国香から6代後の平直幹には長男・義幹、四男・弘幹、五男・忠幹、六男長幹が居ました。
残念ながら次男・三男は居ましたが早世されてしまいました。
直幹は平安後期に長男を除く3子へ順次常陸国内の領地を割譲していき、この一帯は五男・忠幹が譲り受けました。
忠幹は永暦元年(1160)頃、この地に東條城を築いて東條五郎左衞門尉忠幹と名乗り東條氏の始祖となりました。



天正18年(1590年)、秀吉の関東攻めの際、芦名盛重に当主の東條弾正が討たれて落城。
東條氏族の生き残った者は各地へ敗走したとされ、その際に『太田』と改性したとされています。


こちらが、東條太田城の縄張り図。

      20190826東条城址01

                     ( 余湖さんのHP よりお借りしました )


太田小学校背後の大地が東條大田城址ですが、
その太田小学校は数年前に廃校になり、校舎も解体されてしまいました。

      20190826東条城址02




小学校の敷地沿いに沿って、城内へと続く道があります。

      20190826東条城址03



以前、太田小学校訪れた事がありましたから(その時の記事は こちら
更地になった状態を見て、驚きました。

      20190826東条城址04


その昔(昭和22年)、畑であった東條城址に大田中学校が建てられましたが
中学校は統合され昭和37年に廃校となりました。
その後、中学校跡地(東條城址)に建材会社の(株)東海の建材工場が建てられました。

いつの頃か?建材工場も操業を停止してしまい
現在は太陽光発電場として多くのソーラーパネルが並べられているようで
立入禁止となっています。

      20190826東条城址05


      20190826東条城址06

残念ながら、こちらからはこれ以上の進軍は不可。


ならば、別のルートがあるかも?
ぐるっと台地の周りを巡ります。

      20190826東条城址07


目指す台地は、すぐそこなんだけどねぇ。

      20190826東条城址08



見事なまでに更地と化した太田小学校。

      20190826東条城址10



小学校跡地の裏手から、台地へと上る道を発見。

      20190826東条城址11


この道を進軍いたしましょう。

      20190826東条城址12



ネットで東條太田城を調べていると、東條一族の末裔の方のHPに遭遇しました。
いつもは余湖さんの縄張り図を参考にしているのですが
その方は、余湖さんの縄張り図に加筆されたモノをアップされていました。
大変参考になるので、お借りいたします。

      20190826東条城址16




こちらが中段の郭。
共同墓地です。

      20190826東条城址13


      20190826東条城址14


      20190826東条城址15


墓地の先は城塁になっていて、やはりこれ以上の進軍は不可能。

結局、中段の郭までしか行けませんでしたが
私有地だから仕方がない。
しかしながら、紛れもなく東條城址にその一歩を残して来たつもり。
城址巡りも難しいものです。






2019/09/30 Mon. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

猪苗代城址 (福島県摩耶郡猪苗代町)(2019年4月22日) 

4月22日

この日は、1泊2日で福島県に出かけました。
猪苗代湖のある猪苗代町を中心に会津方面への旅行です。

猪苗代町のマンホールカードを手に入れた後に向かった先は.................猪苗代城址。



猪苗代城は、別名を亀ヶ城とも呼ぶそうです。
奥州合戦によって会津を与えられた相模国の御家人佐原義連の孫・経連が
鎌倉時代初期に築城したとされていますが、どうも真偽は不明のようです。
しかしながら、経連の子孫は代々猪苗代氏を名乗り、地頭として一帯を治めていたため、
猪苗代氏が築城されたのは間違いないとされています。

小高い丘に築かれた平山城で南北250メートル、東西200メートル、
比高差30メートルの規模をもつ中世から近世にかけて長い歴史を持つ城郭でした。

会津盆地を治めていた蘆名氏も佐原義連の血統で、猪苗代氏とは同族であり、
本家筋にあたる蘆名氏に対しては、反逆と従属を何度も繰り返し
天正17年(1589年)の摺上原の戦いの直前に、当時の当主・猪苗代盛国が伊達政宗に内応し、
蘆名氏を滅亡に追い込むこととなりました。
豊臣秀吉の奥州仕置によって伊達氏が会津を離れると、盛国も猪苗代を離れ、
約400年にも及ぶ猪苗代氏の支配が終焉しました。


その後、会津領主は蒲生氏郷、上杉景勝、蒲生秀行、蒲生忠郷、加藤嘉明、加藤明成と続きますが、
猪苗代城は会津領の重要拠点として、江戸幕府の一国一城令発布の際もその例外として存続が認められ、
それぞれの家中の有力家臣が城代として差し置かれていました。
寛永20年(1643年)に保科正之が会津藩主となると、猪苗代城には城代が置かれ、
また、正之の死後はその墓所(正之は城の北、土津神社に葬られた)の守護という重要な役目も担いました。

しかし、幕末を迎え、慶応4年(1868年)の戊辰戦争の際には、母成峠の戦いで西軍(薩摩藩・長州藩など)が
東軍(会津藩・新撰組など)を破って、会津領へ侵入すると、往時の城代・高橋権大夫は城と土津神社を焼き払い、
鶴ヶ城へ撤退し、猪苗代城は廃城となりました。



こちらが、猪苗代城の縄張り図。

      猪苗代縄張り                    

         ( 余湖さんのHPよりお借りいたしました )



城址入口(登城口)付近には、数枚の案内板が建ち並ぶ。

その中の1枚。

      20190422猪苗代城址01


こちらも、その1枚。

      20190422猪苗代城址02


登城口脇の井戸跡。

      20190422猪苗代城址03


こちらが登城路。
石段を元気良く上がっていく びいすけ 。

      20190422猪苗代城址04



この辺りから、猪苗代城の見所である虎口。
両側に石垣のある石段。
その先はT字になっていて、突き当たりは主郭(本丸)の城壁。

      20190422猪苗代城址05


その右側。

      20190422猪苗代城址06


こちらは左側。

      20190422猪苗代城址07


左側に進路を取り、進みます。
この先は、大手側の二郭虎口。

      20190422猪苗代城址08


こちらが二郭。

      20190422猪苗代城址09


土塁もしっかりと確認出来ます。

      20190422猪苗代城址11


      20190422猪苗代城址12



こちらも二郭の虎口。
三郭から胴丸側への登城路の虎口。
すなわち、三郭からの東側の登城路。

      20190422猪苗代城址10
 
登城路にしては、狭い道だから往時にはなかったのかもしれない。
亀ヶ城公園として整備された時に作られた道かもしれません。 


こちらも二郭虎口。

      20190422猪苗代城址19

石垣が見事。


この場所に門が建ち、櫓も建てられていたそうです。

      20190422猪苗代城址18



こちらが、主郭(本丸)。

      20190422猪苗代城址13


      20190422猪苗代城址17





本丸の背後には磐梯山も見える。

      20190422猪苗代城址14


本丸広場には桜の木が植えられ、花見の名所となっているようです。
残念ながら、この日はまだ蕾の状態。
GW直前の4月27日辺りが満開と言う事らしいが
今年は10連休。
きっと多くの人が桜の花を目当てに訪れる事でしょう。



本丸土塁の上から眺める城塁。

      20190422猪苗代城址15


      20190422猪苗代城址16


かなりの防御力を持ったしろだった筈なのだが
戊辰戦争における新政府軍の力の前には、
城代である高橋権大夫も城を焼き払って
会津若松の鶴ヶ城に逃げる事しか出来なかったのだろう。



こちらは、三郭。

      20190422猪苗代城址20


三郭もぐるっと郭を土塁が巡っている。

      20190422猪苗代城址22



眼下には立派な大堀切。

      20190422猪苗代城址21

この大堀切も猪苗代城の見所の一つだと言われています。


    


会津藩の鶴ヶ城の支城として存在した猪苗代城。
廃城後は、しばらくそのままの状態で放置され荒れ果てていたそうです。

こちらも、悲しい会津の歴史を知る城郭だったようですね。


かなり急ぎ足で、巡っちゃったから、見落とした見所な場所もあるようです。
本来は、じっくり時間をかけて見るべき城郭のようですね。
鶴ヶ城とセットで丸一日かけて見るべき城郭なのかもしれない..................。


2019/06/25 Tue. 00:03 | trackback: -- | 本文: -- | edit

父さんの都内散歩・城址巡り.............(伝) 道灌山城 (2019年3月24日)(東京都荒川区) 

3月24日

この日は、都内・豊島区巣鴨に出かけました。

巣鴨に向かう途中、京成線から山手線に乗り換えるターミナル駅の日暮里で
何ヶ所かのスポットにちょっと寄り道します。

富士見坂から向かった先は.........道灌山城。


道灌山はその名の通り、太田道灌の砦跡だと『江戸志』には記されているそうです。
その一方では、『新編武蔵国風土記稿』には、小田原北条氏家臣の関道閑の屋敷跡とされていると、
日本城郭大系は説明しているようです。

現在『道灌山』と伝わる一帯は、JR西日暮里駅の西側の丘陵地になり、
西日暮里公園から諏方神社にかけての一帯が太田道灌の砦跡だと伝えられています。

そもそも道灌山の名の由来として、中世、新堀(日暮里)の土豪、関道閑が屋敷を構えたとか、
江戸城を築いた太田道灌が出城を造ったなどの伝承によるものです。



こちらが、諏方神社。

      20190324道灌山城01

諏訪神社ではなく、諏方神社と言うことですが何故か社号標は『諏訪神社』。


諏方神社の境内。

      20190324道灌山城02

削平地。
郭跡と言ってもおかしくはない。



この削平地は『諏訪台』と言うらしい。

      20190324道灌山城03


諏訪台から東方面への視界は拓けている。

      20190324道灌山城04

高い建物は日暮里駅前の高層住宅。



諏方神社の先には西日暮里公園。

      20190324道灌山城05



公園中央には、いくつかの説明板。

      20190324道灌山城06



その中には、道灌山と砦跡について触れています。

      20190324道灌山城07



確かに、ここも削平地。

      20190324道灌山城08


郭跡に見えなくも無い。

      20190324道灌山城09

残念ながら、遺構は全く無い。


しかしながら、伝承の域を出ない道灌山城。
何となく、城址に訪れた感が無く、満足感も得られない。

単に遺構が無いからだけではなく、
伝承の域を出ないからなんだろうなぁ..................


2019/05/29 Wed. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

名古屋城址 (2019年3月10日)(千葉県成田市) 

3月10日

この日は、成田市に出かけました。

この日、成田市に来た目的の一つである城址巡り。
以前から訪れたかった名古屋城址にやって来ました。


愛知県生まれの私にとって、名古屋城と言えば
金の鯱鉾の尾張名古屋城なのですが、
千葉県成田市にも名古屋城が在りました。


名古屋城は、その築城時期等は不詳ですが、
千葉氏の庶流である大須賀氏の本城である松子城の支城と言われています。
しかしながら、その傍流の助崎大須賀氏の居城である助崎城に近く
実際には助崎大須賀氏の支城であったものと推測されます。

城址は、山林や畑になっており、曲輪や土塁、空堀が残存していて、
約500m四方の城域を擁する城であったと推測されています。



こちらが、名古屋城の縄張り図。

      20190310名古屋城址 縄張り図

( 余湖さんのHP よりお借りしました。 )



余湖さんも、ご自身のHPにて記載されていますが
分かりづらい場所に在りました。

      20190310名古屋城址01


      20190310名古屋城址02


この場所に辿り着くまで、かなり遠回りをして
あさっての場所を徘徊していました(笑)。

      20190310名古屋城址03

民家の左脇を進みます。


この先が二郭へと続きます。

      20190310名古屋城址04



倒木が侵入を拒んでいるのか?

      20190310名古屋城址05



縄張り図のA部。
空堀と土塁。

      20190310名古屋城址06


      20190310名古屋城址07


      20190310名古屋城址08


      
二郭虎口。

      20190310名古屋城址11



とにかく、二郭は広い。

      20190310名古屋城址12



そして、その耕地化されて畑となったようですが
一部は休耕しているようです。

      20190310名古屋城址13


      20190310名古屋城址14



遠くに何かがあります。

      20190310名古屋城址15



280mmの望遠レンズで確認。

      20190310名古屋城址16

縄張り図にも載っていますが、廃バスですね。



この辺りが、二郭と主郭を隔てる空堀跡。

      20190310名古屋城址17

埋め戻されているけど、堀幅は50m近くあったらしい。



主郭虎口。

      20190310名古屋城址18


      20190310名古屋城址19



虎口の土塁。

      20190310名古屋城址20



主郭にも土塁が張り巡らされている。

      20190310名古屋城址21


金の鯱鉾も、復興天守閣も無いけれど、これでも立派な名古屋城址。

そもそも、城郭用語である『根古屋』がナマって
『 根古屋.........ねこや......ネコヤ.........なごや.........名古屋.........』と転じたとも言われている。
( おいおい、本当かよ?)

やっぱり、城址巡りは面白い。



2019/05/04 Sat. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

大野城址   (2019年3月9日)(千葉県いすみ市) 

3月9日

この日は、いすみ市に出かけました。


松尾神社をあとにして、向かった先は...............大野城址。



大野城は、1400年代に伊北荘を支配した上総狩野氏の居城と言われてます。
上総狩野氏は伊豆の豪族で、狩野城主であった狩野氏の一族です。
安土桃山時代に画壇を牛耳ることとなった狩野派の始祖である狩野正信を輩出したとされます。

戦国時代には、この地域は大多喜城主である正木氏の支配下になったと考えられます。
従って、大野城も大多喜城の支城となったと推測されているようです。

こうした背景から、大野城には狩野氏の居城としての時代と
正木氏の城郭として戦国末期に取り立てられた時代と二つの時代が存在しており、
現存する大野城の遺構からは、戦国末期に築城、
又は大幅な改修を受けた城とされているようです。



こちらか、大野城の縄張り図。

      20190309大野城縄張り図

( 余湖さんのHP よりお借りしました )





先人さんたちのブログを拝見すると、以前には無かった説明板が
公民館の近くに建っています。

      20190309大野城址01


その近くには、『狩野派始祖 狩野正信 生誕地』 の碑。

      20190309大野城址02


大野城址は台地の上に鎮座する八幡神社を目指せば良い。


こちらが、八幡神社への参道口。
この石段を上がって行けば、八幡神社になります。

      20190309大野城址24

でも、それじゃツマらない。


ここは敢えて、こちらから登城いたしましょう。

      20190309大野城址03



大野城址の見所の一つである堀切。

      20190309大野城址04


      20190309大野城址05


堀切の先は、堀ノ田。

      20190309大野城址06

水堀跡になります。



堀ノ田の右側。
四郭になります。

      20190309大野城址07


耕地化されて、果樹園跡のようですが、
奥にはソーラーパネルが設置されています。

      20190309大野城址08

最近、城跡にソーラーパネルってパターンも多いんだよね。



さらに進んで行きましょう。
右手に三郭を眺めながら進んで行きます。

      20190309大野城址09



そして、鳥居がお出迎え。
先程の八幡神社への石段を上がった所に合流します。

      20190309大野城址10



八幡神社への参道。

      20190309大野城址11



八幡神社への参道は自然の土壇か?
はたまた人工的な土塁なのか?
城址の雰囲気は満載。

      20190309大野城址12


      20190309大野城址13



こちらが、八幡神社。

      20190309大野城址14


八幡神社の先は、二郭への登城路。

      20190309大野城址15



二郭虎口。

      20190309大野城址16


こちらが、二郭。

      20190309大野城址17


耕地化されているけれど、見た感じ休耕中のように感じてます。

      20190309大野城址18


      20190309大野城址19



二郭と主郭を隔てる空堀跡。

      20190309大野城址20



そして、こちらが主郭。

      20190309大野城址21



台地麓から眺める大野城址。

      20190309大野城址22



この真上が二郭になるようです。

      20190309大野城址23


      
こちらは、根古屋地区。

      20190309大野城址25

土塁の跡のような土壇が確認出来ます。



3月も中旬となると、随分と暖かくなって
少しずつ緑も増えてきた。
これから先は下草も増えてきて、城址、城郭巡りには辛くなる季節になりますね。

最近は、城址巡りも機会が減ってきちゃったけれど、
やっぱり、城址・城郭巡りは楽しいものです。




2019/04/29 Mon. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit