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び・び・びのびいすけ

小川城址 (2018年5月22日)(茨城県小美玉市) 

5月22日

この日は、茨城県の小美玉市に出かけました。


小美玉市の素鵞神社に参拝をいたしました。
実は、素鵞神社が鎮座している台地は、
かつての小川城の城跡でした。


小川城は、別名を園部城とも呼ばれています。
築城時期は定かではありませんが、建久年間(1190年~1199年)に
下河辺政平によって築かれたと言われています。

下河辺氏は藤原秀郷の後裔で下総国葛飾郡下河辺荘の発祥と言い、
政平の嫡男であり政義は、小川氏を名乗り代々と続きます。
室町時代になると小川氏は衰退してしまい、
やがてこの地は、常陸国筑波郡小田邑(現在の茨城県つくば市小田)を本拠とした
小田政治によって、享禄元年(1528年)に家臣の薗部兼泰を小川城主として置き、
対立する大掾氏への備えとしました。

天正年間(1573年~1592年)末期には、佐竹氏の城となり
茂木治良が在城しましたが、
慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いで勝利を収めた徳川家康の命により
佐竹氏が秋田に転封されると茂木氏もこの地を去りました。
その後、戸沢氏の領地てたなりましたが、最終的には水戸藩領となりました。

小川城は現在の小川小学校一帯に築かれていたと言われます。
文献によれば、小学校の南東側に本丸を配し、
北西側に二の丸、北東の小川公民館側に三の丸があったようです。
残念ながら、遺構はほぼ消滅しているようです。




こちらが、小川城の縄張り図。

      20180522小川城址

( 余湖さんのHP よりお借りしました )



こちらが、小川城の大手口。

      20180522小川城址01

碑か何かがあれば良いんだけど、そう言った類いのモノは無い。



びいすけ の背後に見えるのが、小川公民館。

      20180522小川城址02

小川城の三の丸にあたります。


こちらが、公民館入口。

      20180522小川城址03

この奧が三の丸だったんですね。



こちらは、小川小学校正門。

      20180522小川城址04

小川小学校の建つ場所が、小川城の本丸跡。
平日の午後、門扉は閉ざされ中へ入ることは出来ません。
まさしく、攻略不能の本丸です。


正面玄関のロータリーの植え込みの中に
『小川城址』の碑が在るようですが、
残念ながら確認出来ず.............



小学校の裏手に回ってみました。

      20180522小川城址05

授業の最中に、校庭を怪しい男が犬連れで歩いている.........
そんな通報をされても困るから、フェンス越しに眺めるだけ。


かつては校庭の中央には土塁と堀があって
本丸と二の丸とを区画していたようです。
因みに、校舎側が二の丸、校庭側が本丸だったと言う事です。



学校の下。
ちょうど、二の丸の切岸。

      20180522小川城址06


      20180522小川城址07


      20180522小川城址08



素鵞神社脇。

      20180522小川城址09

隣に車道がありますが、ここは本丸と三の丸を隔てる堀跡。


こちらが、その車道。

      20180522小川城址10

何となく、堀跡っぽく見えなくもない。



冒頭の縄張り図で言うところの、台の坊。
土塁らしき土壇が残っています。

      20180522小川城址11


      20180522小川城址12



台の坊の下。
堀跡がのこっています。

      20180522小川城址13



縄張り図で言うところの上宿。

      20180522小川城址14

素鵞神社の社号標が建っています。



廃城になった城郭が神社になっていたり、学校になっていたりするパターンは多い。
この小川城は、完全にそのパターン。
城郭が宅地化されて遺構が無くなってしまった事は残念だけど
城郭跡を示す碑は、もうちょっと考えて建てて欲しかったな。

せめて、校門脇の敷地外(公道上)だったら良かったのに.............



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2018/07/13 Fri. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

小峰城址 (2018年4月27日)(福島県白河市) 

4月27日

1泊2日の福島県への旅行。

その2日目は、白河市が舞台です。
白河市では、丸ポスト探し、マンホールカード、城址巡り、
御朱印巡り、廃校巡りと予定はてんこ盛り。

丸ポスト探し、マンホールカードに続いて城址巡り。

白河市の城址と言えば、何と言っても小峰城址。


小峰城は、阿武隈川と谷津田川の間に位置する、
小峰ヶ岡という丘陵にあった平山城です。
東北地方では珍しい総石垣造りの城で、盛岡城、若松城と共に
「東北三名城」の1つにも数えられているそうです。

小峰城は南北朝時代の興国元年/暦応3年(1340年)に
結城親朝が小峰ヶ岡に築城して小峰城と名づけたのが始まりとされています。
天正18年(1590年)、城主の白河結城氏が豊臣秀吉の奥州仕置により改易されると、
この地は会津領となり、蒲生氏、続いて上杉氏、再度蒲生氏が支配しましたが、
寛永4年(1627年)に丹羽長重が10万石で棚倉城(福島県棚倉町)から移封されると、
幕命により寛永6年(1629年)より城郭の大改築に着手をしました。
それから3年の歳月を費やして、寛永9年(1632年)に完成しました。

その後丹羽氏、榊原氏、本多氏、奥平松平氏、越前松平氏、久松松平氏、阿部氏と、
7家21代の城主の交代がありましたが、
慶応3年(1867年)に最後の阿部氏が棚倉藩に移封された後、
白河藩は幕領となり城郭は二本松藩丹羽氏の預かるところとなります。
翌、慶応4年(1868年)、白河小峰城は戊辰戦争で
奥羽越列藩同盟軍と新政府軍との激しい攻防の舞台となり、
5月1日、大半を焼失し落城してしまいました。




こちらが、小峰城の縄張り図。

      小峰城址縄張り図

( 余湖さんのHP からお借りしました )



こちらが、小峰城址の入口。
かつての藤門跡。

      20180427小峰城址01

門構えが、かなり観光地化されているのは否めません。



小峰城跡と記された表札。

      20180427小峰城址02



こちらは、小峰城の説明板。

      20180427小峰城址03



それでは小峰城に進軍いたしましょう。

     
藤門跡の先は二の丸。
ちょうど、小学生が遠足に来ていて、子供たちがいっぱい。

      20180427小峰城址05



子供たちを避けるように二の丸を移動します。

      20180427小峰城址04



こちらは、堀跡。

      20180427小峰城址06

埋め戻されていますが、堀跡だと容易に分かります。




二の丸に建つ城址碑。

      20180427小峰城址07

背後に見えるは三重櫓。



掘りと石垣。

      20180427小峰城址08

小峰城の見所は、この堀と石垣の美しい調和。

でも残念ながら、東日本大震災でこの石垣が崩壊してしまい
復旧作業にて修復されました。
(現在も一部は修復作業中です)

      20180427小峰城址09



所々、石垣の石の色が違うのは、復旧作業によるものです。

      20180427小峰城址10



こちらは、清水御門跡。

      20180427小峰城址11

この石垣も崩壊しちゃいましたが
見事に復旧しています。



清水御門跡には、古い城址碑も建っています。

      20180427小峰城址12



それにしても見事な石垣。

      20180427小峰城址13



こちらは竹之丸跡。

      20180427小峰城址14



竹之丸跡から眺める前御門と三重櫓。

      20180427小峰城址15



三重櫓は平成3年(1991年)に本丸跡に、
前御門は平成6年(1994年)に当時の史料に基づいて復元されたそうです。

      20180427小峰城址16



前御門。

      20180427小峰城址17



前御門の屋根瓦。
鯱鉾です。

      20180427小峰城址18



前御門をくぐれば、そこは本丸跡。

      20180427小峰城址19



本丸広場の芝生で戯れる びいすけ 。

      20180427小峰城址20


      20180427小峰城址21



三重櫓。

      20180427小峰城址22



三重櫓の鯱鉾。

      20180427小峰城址23



本丸広場の一部は修復作業のため、立ち入り禁止。

      20180427小峰城址24

大きなクレーンで石垣を修復しているんですね。



本丸広場に建つ石碑群。

      20180427小峰城址25

立入禁止エリアのため近寄って確認が出来ません。


      20180427小峰城址26


      20180427小峰城址27




再び、三重櫓。

      20180427小峰城址28



こちらは、『おとめ桜』。

      20180427小峰城址29

おとめ桜には、こんな伝説が残っています。

寛永年間に、城の大改修を行った際、本丸の石垣が何度も崩壊したため、
人柱を立てることになり、人柱にするのはその日、最初に城に来た者ということに決まった。
すると、最初に来たのは作事奉行の娘「おとめ」だった。
父は必死に「来るな」と手で合図をしたが、
逆に「来い」という合図と勘違いしたおとめは人柱にされてしまった。
その後、石垣は無事完成し、おとめが埋められた場所には桜の木が植えられ、
「おとめ桜」と呼ばれるようになったという。


悲しい話しですね。
この『おとめ桜』は2代目で、初代の『おとめ桜』は、
戊辰戦争の時に消失してしまったそうです。


『おとめ桜』の前から本丸を眺めてみます。

      20180427小峰城址30

白河の市街地もぼんやり見える。
きっと、城下を見下ろす事が出来るこの場所に
おとめ桜が植えられたのは、そんな理由なんだろう。




本丸から清水門へと続くもう一つの導線。
桜門跡。

      <20180427小峰城址32


      


名前の通り、門跡の近くには数本の桜の木。

      20180427小峰城址31



時間の関係と遠足の子供たちや観光客が多かったので
細部まで探索しきれていませんでしたが、
小峰城址、なかなか見所がありました。

さすが、日本の100城に選ばれているだけがある。
やっぱり日本の100城は侮れません。



2018/06/12 Tue. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

鴫山城祉   (2018年4月26日)(福島県南会津郡南会津町) 

4月26日

1泊2日の南会津への旅行の初日。

旧・田島町に在る 鴫山城址に立ち寄ってみました。


鴫山城址は、南会津町田島地区に聳える愛宕山の山頂部の急斜面や
山麓部の緩斜面や尾根、谷間等に土塁や門、堀等が構築された
自然の地形を利用し築かれた山城です。

鴫山城の築城年代は不明ですが、
長禄3年(1459年)に山内越中と白川氏が
「南山しき山の城」を攻め落としたことが記録として残っていて、
この頃すでに存在していたことは確実であるようです。

鴫山城一帯は、長沼氏が支配しており、鴫山城を築城したものも長沼氏と推定され、
天正17年(1589年)の摺足原の戦いで蘆名氏が滅亡すると、
鴫山城主・長沼盛秀は伊達政宗に臣従し、伊達勢力ととも河原田盛次が守る久川城を攻撃しています。
長沼氏は天正18年(1590年)の豊臣秀吉の定めによって伊達氏に従い鴫山城を去ります。
長沼氏が去った鴫山城には蒲生氏郷の家臣である小倉作左衛門が6300石で城代となり入城します。

慶長3年(1598年)には上杉景勝の会津移封に伴い、
上杉家の執政である直江兼続の実弟・大国実頼が2万1000石で城代となりましたが
その後、寛永4年(1627年)に元和の一国一城令により廃城となりました。



こちらが、鴫山城の縄張り図。

      鴫山城址縄張り図

( 余湖さんのHP よりお借りしました )




こちらが、鴫山城址の入口。

      20180426鴫山城址01

この先が登城路となります。


鳥居の先が鴫山城址。

      20180426鴫山城址02

この鳥居は、愛宕山の山頂に鎮座する愛宕神社の鳥居。
残念ながら、山頂の愛宕神社の社殿は落雷により焼失してしまったらしい。



鳥居の側には、鴫山城址の説明板。

      20180426鴫山城址03



案内図も用意されています。

      20180426鴫山城址04

どうやら、ハイキングコースになっているようです。



鳥居の先には、石碑群。

      20180426鴫山城址05

それなりに風化して文字の判読は難しい。
かなりの年代物のようです。




鳥居の先の削平地は侍屋敷跡。

      20180426鴫山城址06



      20180426鴫山城址07


      20180426鴫山城址08

家臣団の屋敷が置かれる場所となっていたのでしょう。


侍屋敷跡から鳥居を振り返ってみます。

      20180426鴫山城址09



この辺りでは、まだ城址の雰囲気は高くない。

      20180426鴫山城址10



登城路をさらに進むと、目の前に現れる土塁。
そして、大きな説明板。

      20180426鴫山城址11



こちらにも、鴫山城の説明板。

      20180426鴫山城址12



土塁に近づいてみましょう。

      20180426鴫山城址13



土塁に上がってみましょう。

      20180426鴫山城址14



土塁の奥には見事な空堀。

      20180426鴫山城址15



びいすけ は、土塁の上で草の匂いをクンクンと匂い嗅ぎ。

      20180426鴫山城址16



空堀の上は下千畳。
高さもあり、容易には上がれない。

      20180426鴫山城址17



再び、登城路。
空堀の土橋も確認できる。

      20180426鴫山城址18



土橋辺りからの空堀。

      20180426鴫山城址19


      20180426鴫山城址20



土橋の先には、見事な石垣(石塁)。

      20180426鴫山城址21

かつての大門跡。
この石垣を見ただけでも、頑丈な門であったのが計り知れます。


対の石垣。

      20180426鴫山城址22



石垣の脇には石段があり、下千畳に上がることが出来る。

      20180426鴫山城址30



下千畳から場内を眺めます。


      20180426鴫山城址24

見事な石垣。


      20180426鴫山城址25


広い郭は御平庭。

      20180426鴫山城址23



びいすけ は、御平庭でも匂い嗅ぎ。

      20180426鴫山城址26


      20180426鴫山城址28



この御平庭は、城内の役所があった場所とされているようです。

      20180426鴫山城址27



御平庭の井戸跡。

      20180426鴫山城址29


      

御平庭の先には、城址の標柱。

      20180426鴫山城址31



その傍らには小さな祠。

      20180426鴫山城址32



近くには、こんな石仏も鎮座しています。

      20180426鴫山城址33



こちらが、上千畳。
鴫山城の本丸にあたります。

      20180426鴫山城址36


      20180426鴫山城址35



  
こちらが、土門跡。    

      20180426鴫山城址37


      20180426鴫山城址38



画面右側の高台が上千畳。
左が舌千畳。

      20180426鴫山城址39



久しぶりの山城巡り。
心なしか びいすけ も土と草の香りを思い切り嗅いで
テンションも上がっているみたい。

      20180426鴫山城址40



久しぶりに本格的な中世の城郭を見たと言う気がします。
関東ではよく見かける土塁と空堀。土の城の代表的な遺構と
関東の中世の城郭では、なかなかお目にかかれない石垣。
まさしく、ここは関東ではなく会津の地なんだと実感させる鴫山城址でした...............。







2018/06/04 Mon. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

布佐城址 (2018年3月17日)(千葉県我孫子市) 

3月17日

この日は、成田市近郊の神社巡りで出掛けていました。
成田市近郊と言いながらも我孫子市真で足を伸ばし竹内神社にも立ち寄りました。
竹内神社の近くには、その昔には布佐城が在りました。


布佐城は、別名を和田城と言われていました。
手賀沼と利根川に挟まれた標高20m前後の舌状台地に在り、
常陸川、衣川などを繋ぐ要衝にあり、航行する船を監視するのに絶好の地でした。

鎌倉幕府の初代侍所別当・和田義盛と関係があるという伝承から和田城とも呼ばれていて、
戦国時代には布川城の豊島氏の属城でありましたが、延徳5年(1493)布佐合戦、
永正18年古河公方方の豊島氏等と小弓公方勢との戦いか有り、
元亀3年(1572)にも戦いがありました。

城址の在った台地は、明治時代に削平されて鉄道(JR成田線)が敷設され、
またその沿線は住宅地と化しており、遺構はほとんど残されていないそうです。





こちらが布佐城の縄張り図


      布佐城址縄張り図
                                 余湖さんのHP  よりお借りしました                                


布佐城址は、住宅街となり
城郭遺構はほとんど残っていないとされています。

しかしながら、わずかにその遺構が確認出来る場所。
それが、わだ幼稚園。

      20180317布佐城址01

土曜日で閉園のためか、門扉は閉められ中に入ることは出来ません。

送迎用バスの車庫の裏手に土塁が残っているとの事です。



車庫の裏手の土壇。

      20180317布佐城址02

フェンスの向こうに土壇(土塁)に上がる石段があるようです。


敷地内には入れないので、フェンス前にて。

      20180317布佐城址03


      20180317布佐城址04



左側が土塁。

      20180317布佐城址05

すぐ側まで住宅街。


右側が土塁。

      20180317布佐城址06

完全に周辺は宅地となり、布佐城址の遺構はわた幼稚園の敷地内に残る土塁のみ。
そう言えば、布佐城は別名を和田城と言う。
幼稚園の名称は『わだ幼稚園』。
単なる偶然だろうか..................?


成田線の線路を挟んで、布佐城址を眺めてみます。

      20180317布佐城址07

幼稚園の赤い三角屋根の左側の木のある辺りが土塁跡。



真ん中辺りの茂みが土塁跡になるのでしょう。

      20180317布佐城址08



土塁跡には、僅かながら木も生えているようです。

      20180317布佐城址09


辛うじて残っている布佐城址の遺構の土塁。
敷地内には入れなかったので、
直接正面からは確認出来なかったけれど
その存在を確認出来ただけ、良しといたしましょう。






2018/05/01 Tue. 13:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

椎津城址 (2018年3月4日)(千葉県市原市) 

3月4日

この日は袖ヶ浦市に出かけ、その帰りに市原市の神社を巡っていました。
市原市の椎津にある八坂神社の裏山には、
兼ねてから攻略したいと思っていた椎津城址があります。

誰かのブログを拝見したら、椎津城址は私有地の為
フェンスが設けられて、立ち入り禁止になっているとの情報だったから
訪城(登城)は諦めていました。

今回、八坂神社に訪れた際に八坂神社の近くで、こんな幟を見かけました。

       20180304椎津城址01


これって、史跡案内用の幟だよね?
って言うことは、一般に解放されたの?

詳しい情報は無いけれど、とりあえず向かってみましょう。
八坂神社の宮司さんとの待ち合わせには、まだ1時間近くあるからね。




椎津城は築城については諸説があるようです。

千葉氏の一族の椎名胤仲が1319年~1330年頃に椎津三郎と称して居城し、
有木城 、小野山城、海保城、要害山城、万台城、高坂城を勢力下に置いていたと言う説。

建武2年(1335年 )三浦高継が椎津を所領し、
応仁年間(1467〜1469)に三浦定勝が築城したと言う説。

明応年間(1492〜1501)に甲斐武田氏の一族である真里谷武田氏が
上総の北方の備えとして築城とする説。

と、このような諸説がありますが、いずれにしても、1456年(康正2年)に甲斐武田氏の一族・武田信長が
上総国に真里谷城(現在の千葉県木更津市)を築城し本拠とすると、
椎津も上総武田氏(真里谷氏)が治めることになります。


中世の上総及び、東京湾の水上交通にとって要衝の地であり、
小弓公方・足利義明と古河公方・足利高基の対立、
そして小田原北条氏と安房・里見氏の争いにおいても重要な地となりました。
第二次国府台合戦で里見氏に大勝した北条氏は、余勢をかって上総に侵攻し、
椎津城を攻略して奪い、城代として白幡六郎を置きましたが
天正十八(1590)年の小田原の役で、浅野長政率いる別働隊の攻撃を受け
椎津城は落城したそうです。




椎津城の縄張り図

      椎津城址縄張り図

                               ( 余胡さんのHPよりお借りしました。 )



前方の山が椎津城址。

       20180304椎津城址02



この場所は主郭の北側。
八坂神社の裏手になります。
主郭への登城路のようです。
確かに、フェンスが在って立ち入り禁止。
なのに、その先には案内板(説明板)が建っている。
かつては、中に入れたようですね。

       20180304椎津城址03



270mmのズームをフル活用。

       20180304椎津城址04

説明板には、縄張り図も記されているようです。



仕方ないので、別な登城路を探し西側へと移動します。

       20180304椎津城址05


この台地が主郭。

       20180304椎津城址06



下から眺めるだけの史跡なのか?
この時点では半分くらい諦めていました。

      20180304椎津城址07


主郭を左手側に、移動します。

      20180304椎津城址08



怪しげな道を発見。
でもコンクリート敷き。
どこかの民家の庭先が玄関に入るのかな?

      20180304椎津城址09


そんな事を思いながら、進んで行くと..................


土塁らしき土壇。

      20180304椎津城址10


そして、目の前に現れた説明板。

      20180304椎津城址11


      20180304椎津城址12



まさしく、ここが椎津城址。

      20180304椎津城址13


以前は立ち入り禁止だったはずだけど
土地の所有者が開放してくれたみたいですね。

調べてみたら、椎津城址は宅地化がすすみ消滅の危機にあり、
市原市は、平成27年7月3日に市の指定文化財史跡に指定したそうです。
(城の主要部である「主郭」を中心とする約1万1千平方メートルを指定範囲とした)
その後、平成28年3月28日、椎津城跡主郭部北側 1,623.13 ㎡について追加指定を行い、
さらには平成29年2月15日、千葉県指定史跡へ昇格したそうです。

なるほど、そう言うことだったのね。



余分なたけが伐採されて、はっきりと確認出来る土塁。

      20180304椎津城址14


      20180304椎津城址15


      20180304椎津城址16



主郭中央部には、先ほど(主郭下で見た)と同じ説明板。

      20180304椎津城址17

縄張り図も確認出来ます。


そして、その近くには城址の標柱。

      20180304椎津城址18



下部の錆具合から、昨日今日建てられたモノじゃない。

      20180304椎津城址19

と言うことは、以前から在る標柱。

椎津城を攻略した先人ブロガーさんたちは
この標柱をみていたんですね。



主郭は、余分な木々がきれいに伐採されていて
しっかり管理されている感じがします。

      20180304椎津城址20



主郭虎口。

      20180304椎津城址21



虎口の先は、フェンスで立ち入り禁止となり諦めていた登城路。

      20180304椎津城址22



せっかくだから、降りてみます。

      20180304椎津城址23


説明板も確認出来ます。

      20180304椎津城址24


必至になって後を追いて来た びいすけ 。

      20180304椎津城址25


振り返ってみると.........
そこには主郭の虎口。

      20180304椎津城址26



さて、そろそろ八坂神社の宮司さんとの待ち合わせ時間。
椎津城址をあとにいたしましょう。


立ち入り禁止と聞いていて諦めていた椎津城址。
攻略することが出来て、本当に良かった。

史跡を保護しようとした市原市。
そしてその活動に賛同していただいた土地の所有者。
千葉県の指定文化財に向けて御尽力いただいた関係者に感謝です。









2018/04/21 Sat. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

大戸城址 (2018年2月19日)(千葉県香取市) 

2月19日

この日は、香取市に出かけました。

大戸神社をあとにして、向かった先は...............大戸城址。


大戸神社に大戸城址。
いずれも旧・大戸村域にあります。
大戸神社から距離にして400ほど離れた、
旧・佐原市立第五中学校跡地の
道を挟んだ向かいの台地の上奥に大戸城址は在りました。



大戸城は、国分氏の祖である国分胤通の四男・大戸四郎大夫親胤が城主であったと言われています。
大戸親胤は大戸六ヶ郷の領主となっていたようです。

千葉家中興の祖ともいえる下総国主・千葉宗家で千葉氏五代当主の千葉介常胤。
その千葉介常胤の五男であるのが国分胤通。
国分胤通は、頼朝に随って平家との戦いにも従軍しました。

その国分胤通の四男である大戸四郎大夫親胤が
利根川沿いの香取郡大戸庄内の「大戸郷(香取市大戸)」を領していました。


また、別説ですが.................
天正年間には、やはり千葉一族である大須賀氏の城だったという説もあるようです。



こちらが、大戸城の縄張り図。

      大戸城址縄張り図

( 余胡さんのHPよりお借りしました。)



こちらが、大戸城址への入り口。

      20180219大戸城址01

この奥の森が大戸城址になります。


森の中に入ってすぐにある土塁。

      20180219大戸城址02


      20180219大戸城址03



しばらく歩くと、現れる土壇。

      20180219大戸城址04



この土壇には、小さな祠が建てられています。

      20180219大戸城址05



かつては、ほこらの脇に大きな五輪塔がありましたが
東日本大震災の影響か?
倒壊して草に埋もれています。

      20180219大戸城址06



この祠の建つ土壇は、かつての櫓台だったのかもしれない。

      20180219大戸城址07



尾根沿いに展開している大戸城址。

      20180219大戸城址08


      20180219大戸城址09



周りに木々のある台地が、いつしか竹林の台地へと変貌していきます。

      20180219大戸城址10


      20180219大戸城址11



明らかに人の手が加えられた跡が見える横堀。

      20180219大戸城址12


逆アングルから。

      20180219大戸城址20

さらに先へと進みます。

      20180219大戸城址13


      20180219大戸城址14


竹藪の竹を交わしながら、台地先端部を目指します。

      20180219大戸城址15



台地先端部からの眺め。

      20180219大戸城址16

視界の先は坂東太郎(利根川)。



台地先端部から、戻り始めると視界の先に何かある。

      20180219大戸城址17


どうやら四阿のようです。

      20180219大戸城址18


建設が整備途中で頓挫した公園かと思っていたら
どうやら違うみたい。
四阿へは、すぐ下の民家から上って来れる道がある。
どうやら、城址のある台地(山林)の所有者(地権者、管理者)が
麓に住まれているのでしょう。

      20180219大戸城址19

使われている感が強い四阿です。




      
竹藪の竹を交わしながら戻りましょう。

      20180219大戸城址21


      20180219大戸城址22


竹藪を抜け、登城路に戻ります。
これと言った見所は余り無く、
ちょっぴり面白味に欠ける大戸城址。

まあ、 びいすけ との森の中の散歩と思えば良い。
超マイナーな城址って、こんなモノなんだろうなぁ。






2018/04/06 Fri. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

仲島城址 (2018年1月29日)(千葉県旭市) 

1月29日

この日は、千葉県の旭市に出かけました。



旭市の袋公園の近くにある浅間神社のある辺りが仲島城址とされています。
平野に置かれた水城で、正中元年(1324)に大須賀尾張守によって築かれ、
後に大須賀八左衛門の居城となったとされています。
永禄年間に加瀬肥後守が移封され、天正年間には正木左近の攻撃を受けたが、
撃退したということです。
しかし、天正18年に小田原の役で徳川軍の攻撃を受けて落城し、廃城となりました。
本丸の物見台と思われる所に浅間神社が建ち、城址碑もありますが
その周囲は宅地化され、遺構のほとんどは失われてしまっています。



こちらが、仲島城の縄張り図。

      nakajimaasazu

                              余胡さんのHP よりお借りしました。



本丸跡とされる、浅間神社の入り口。

      20180129仲島城址01



鳥居脇に建つ説明板。

      20180129仲島城址02


説明板の正面には石碑があります。

      20180129仲島城址03

てっきり城址碑かと思ったら違っていました。
千葉県立海上郡農学校の碑でした。


現在の千葉県立旭農業高等学校が、この地で開校したようです。

      20180129仲島城址04




肝心の仲島城址はと言えば、
遺構らしきモノがほとんどない。

      20180129仲島城址05



ちょっとした土壇が土塁に見えなくもない。

      20180129仲島城址06



台地頂部の浅間神社。

      20180129仲島城址07



浅間神社の奥は、かつての椿海に落ち込むようになっている。

      20180129仲島城址08


      20180129仲島城址09



以前は、堀跡っぽく見えて、城址の標柱が建てられていた場所は
太陽光発電のモジュールが置かれて立ち入り禁止。

      20180129仲島城址10


浅間神社のあるちょっとした台地だけが残り、
周辺は宅地化され、かなり改変してしまったのでしょう。
鳥居の脇にある説明板が無ければ、誰もこの地が
かつての城跡とは思わないだろうなぁ。






2018/03/23 Fri. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

椎名内城址 (2018年1月29日)(千葉県旭市) 

1月29日

この日は、千葉県の旭市に出かけました。

潮騒ふれあい広場をあとにして、向かった先は...............椎名内城址


椎名内城は、中世にこの地域で一大勢力を誇った椎名氏の発祥の地であると言われています。
現在の長禅寺境内付近に築かれていたようです。
日本城郭大系によれば、「長禅寺の西に隣接するようにあり、
鬼門(北東)に琴平神社が祀られている。」と記されているそうです。



椎名内城の縄張り図

      椎名内城縄張り図

                                余胡さんのHP よりお借りいたしました



こちらが長禅寺の入り口。
寺号標の前。

      20180129椎名内城址01


山門前の土塁。

      20180129椎名内城址02



土塁の左奥には空堀。

      20180129椎名内城址03

以前は、この空堀もそれなりに広かったようですが、
墓地の拡張工事で一部が埋められているようです。



こちらが、長禅寺の山門。

      20180129椎名内城址04



山門をくぐって、長禅寺の境内に入ります。

こちらも土塁っぽく見える。

      20180129椎名内城址05



こちらは鐘楼。

      20180129椎名内城址06



本殿前の説明板。

      20180129椎名内城址07

説明板には、椎名内城については、全く触れていない。


こちらが、本堂。

      20180129椎名内城址08


      20180129椎名内城址09



この奥が墓地になります。

      20180129椎名内城址10


北側の土塁前に立ち並ぶ墓石群。

      20180129椎名内城址11



本堂裏手も削平地。

      20180129椎名内城址12



堀跡も残っています。

      20180129椎名内城址13


      20180129椎名内城址14



こちらは、水堀跡。

      20180129椎名内城址15



水堀跡と言いながらも、現在もチョロチョロと水は流れ
堀としての 機能を有している。

      20180129椎名内城址16



本堂の建つ削平地(郭)を主郭とすれば
こちらは二郭になるのだろうか?

わずかばかりであるが、土塁も残っています。

      20180129椎名内城址17


      20180129椎名内城址18


      20180129椎名内城址19



椎名内城の鬼門とされる北東に鎮座する琴平神社。

      20180129椎名内城址20



長禅寺の敷地内に僅かばかりに土塁が残っているけれど
すっかり様変わりして、城址を感じとることは中々難しい。
まぁ、城跡がお寺に変わると言うパターンも多々あるから
こんなモノかもしれない。





2018/03/22 Thu. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

小御門城址 (2018年1月9日)(千葉県成田市) 

1月9日

御朱印巡りで訪れた小御門神社。
その小御門神社の裏の畑の奥に小御門城址があります。
せっかく近くまで来たんだから、そのまま帰ってしまうのは芸がない。

と、言うことで 小御門城址 を攻城してみました。


小御門城址は、『藤原氏館』とも呼ばれ、
元弘の変で後醍醐天皇の身代わりとなり、
この地に流された藤原師賢公が居住したところだと言われています

藤原師賢公は内大臣師信公の御子として生まれ、
花山院師賢と号し和歌・管弦に長じておられました。
若くして後醍醐天皇の側近に奉侍し、元亨以来の重大事に参与し
元弘元年には尹大納言に任ぜられました。
元弘の変(1331年)では天皇の御身代わりとなり、
比叡山に登り、鎌倉幕府軍を討伐なされましたが、
志遂げざるまま下総国に流されました。
公は「主憂ふる時は臣辱められ、主辱めらられる時は臣死す。
縦ひ骨をひしびしおにせられ、身は車裂にせらるるとも傷むべきに非ず」と
慷慨悲憤の思いを詞歌に託され、
元弘2年御齢32歳で建武の中興の礎として名古屋の里(千葉県成田市)に薨去されました。
元弘3年、後醍醐天皇は公の功績を称え、
文貞公の諡を賜い太政大臣を贈られたそうです。



こちらが、小御門城の縄張り図。

      20180109小御門城址21

                         余胡さんのHPからお借りしました。



小御門神社の裏手。
この畑の奥の森が小御門城址。

      20180109小御門城址01


畑の脇の道を進軍し、いざ小御門城址へ。

      20180109小御門城址02



小御門神城址の虎口。

      20180109小御門城址03


虎口手前左側の土塁。

      20180109小御門城址04


      20180109小御門城址05


虎口右手の土塁。

      20180109小御門城址06



その奥には空堀。

      20180109小御門城址07



単郭の小御門城址。
所々に土塁が残っています。

      20180109小御門城址08



基本的に50mほどの三角形状の単郭の小御門城址。
長い間、手付かずの状態だから、藪状態。
でも冬場だから、多少はマシ。

郭中央部に、石碑のようなモノが見えます。

      20180109小御門城址09


少しづつ近寄ってみましょう。

      20180109小御門城址10

どうやら、碑に間違いありません。


明治7年に地元の有志によって建てられた碑。

      20180109小御門城址11



南朝に属した藤原師賢を記念したものらしい。

      20180109小御門城址12


      20180109小御門城址17


      20180109小御門城址13



碑のある辺りから郭内を眺めてみます。

      20180109小御門城址14


      20180109小御門城址15


      20180109小御門城址16




元々は、藤原師賢の居住地と言うことだから
戦国期の山城のような遺構は少ない。   

      20180109小御門城址18


後々は、砦のようなものとして利用されていたのかもしれない。

      20180109小御門城址19



小御門神社の周りにも土塁は残っているけれど
こちらは、小御門城址とは関係ないのだろう。

      20180109小御門城址20


最近、すっかりご無沙汰してしまった城址巡り。
下草が枯れて探索しやすくなったこの時期、
やっぱり城址巡りも忘れないようにしなくっちゃ。





2018/02/28 Wed. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

館山城址 (2017年11月25日)(千葉県館山市) 

11月25日

この日は、館山市に出かけました。

予定外の北条海岸に立ち寄ったりしましたが
当初の目的地である 館山城址 に到着です。


館山城は、1580年(天正8年)に里見義頼によって築城されました。
館山城主である里見氏は清和源氏の流れをくむ名族で、
戦国時代、里見氏六代義尭の代には安房・上総・下総の三国57万石を
所領とするほどの全盛期を迎えました。

しかし、1538年(天文7年)里見義尭は小田原の北条氏康と国府台で戦って敗れ、
里見氏七代義弘も1564年(永禄7年)北条氏康・氏政父子と再び国府台で戦って敗れました。
 
里見氏八代義頼の本拠地は岡本城でしたが北条軍に攻められ、
支城の久留里城・佐貫城なども危うくなったため、
1588年(天正16年)新たに館山城の築城工事に着工しました。
1590年(天正18年)に完成すると同時に館山城に本拠を移しました。
しかし、里見氏の宿敵である小田原の北条氏が豊臣秀吉によって滅亡し、
里見義康は小田原への参陣が遅かったことを責められ、
秀吉によってその領地は安房一国9万2千石に減封されてしまいました。

里見義康は1600年(慶長5年)の関ヶ原の合戦で東軍の徳川秀忠に加勢したため3万石を加増。
里見氏十代忠義も当初は徳川幕府に重んじられていましたが、
1614年(慶長19年)妻の祖父である小田原城主大久保忠隣の改易に巻き込まれ、
徳川幕府の外様大名取り潰し政策の犠牲となって
里見氏は改易され、館山藩は取り潰しとなり安房一国を没収されてしまいます。
館山城は廃城となり、破却されてしまいました。

後の1781年(天明元年)に、稲葉正明が館山藩主となって館山に入りましたが
城を再建することはなく、2代正武が城の麓に館山陣屋を構えて、
そこを新たな政庁としました。


館山城は標高72mの城山(根古屋山)の岩壁を切り削って築かれた要害堅固な城で、
山麓には堀をめぐらしていました。
現在、館山城跡は城山公園として整備され、
山頂広場には昭和57年に三層四階の模擬天守が建てられました。
天守内部は館山市立博物館の分館と模擬天守なり、
館内には江戸時代の文豪である滝沢馬琴がその半生をかけて書き上げた
『南総里見八犬伝』に関する多くの資料を展示しているそうです。



駐車場から遊歩道を歩くと、すぐ目に留まる標柱。

      20171125館山城址01


      20171125館山城址02


城山の麓は公園整備に伴い、かなり改変されています。
そのため、城郭遺構はあまり残っていないようです。


駐車場近くの鹿島堀跡。

      20171125館山城址03

堀は廃城の際に埋め戻されてしまったそうです。


それでも城下の御霊山と呼ばれる場所には、
このような空堀と土塁が残っています。

      20171125館山城址04



公園造成時に造られた遊歩道を上がって行くと、二郭(二の丸)。

      20171125館山城址05




そして、この先は主郭(本丸)。

      20171125館山城址06



主郭(本丸)に建つ復興天守閣。

      20171125館山城址07

実は、館山市立博物館の分館。


城址碑のオブジェ。

      20171125館山城址08

復興天守閣と言えども、こう言うモノがあると様になる。


山城だけあって、眺望に長ける。
眼下に広がる館山の城下。

      20171125館山城址10

数百年前も、こんな感じで城下町が広がっていたんでしょう。


そして、海原の先には富士山。

      20171125館山城址09

里見の歴代の城主もこの富士山を眺めていたのだろう。



本丸の復興天守閣。
      
      20171125館山城址12

澄み渡った青空に白亜の天守閣が映えます。


本丸の標柱。

      20171125館山城址11



そして、本丸に建つ城址碑。

      20171125館山城址13



しかし、疑問が...............

      20171125館山城址14

館山城跡なら分かるが、なぜ里見城跡?


城址碑の前には、狛犬ならぬ里見の千力猿。

      20171125館山城址15



本丸の一角には、浅間神社。

      20171125館山城址16


      20171125館山城址17




本丸のピーク削平の残土で埋め立てられたとされる二郭(二の丸)の通称『千畳敷』。

      20171125館山城址18


所々に土塁も残っています。

      20171125館山城址19



尾根沿いに降って行けば、里見家八遺臣の墓。

      20171125館山城址20


里見氏十代忠義が倉吉で病死すると、
倉吉の大岳院にある主君の墓前で8人の家臣が殉死しました。
その遺骨は館山城の麓に分骨され、この地に眠っています。

      20171125館山城址21



この八遺臣が『南総里見八犬伝』のモデルになったそうです。

      20171125館山城址22



二の丸から八遺臣の墓に至る尾根沿いの登城路。

      20171125館山城址23



この登城路が一番、中世の山城の雰囲気を醸し出しているような気がします。

      20171125館山城址24


数年前から、『訪れよう! いつか訪れよう! 』と思っていた館山城址。
南総里見八犬伝の所縁の城でもあり、
安房の戦国大名里見氏の最後の城でもある。

遺構が少なくて残念な気もするけれど
雄大な富士山の姿も見ることが出来る。
戦国時代には、立派な城だったんだろうなぁ...............。



2018/01/03 Wed. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

長倉城址 (2017年9月14日)(茨城県常陸大宮市) 

9月14日 公休日

この日は、茨城県の常陸大宮市に出かけました。

長倉小学校をあとにして、次なる廃校を目指して
車を走らせた直後に、こんな案内標識を見つけました。

      20170914長倉城址01

『長倉城址...............?』
標識の色合いから言って新しい。
ましてや、城址と聞いたら城好きは素通り出来ません。
当初の予定にはありませんでしたが、
急遽立ち寄ったのは...............長倉城址


長倉城は、

佐竹宗家八代・行義の第二子・義綱が文保元年(1317年)に
この地に築城して初代長倉氏と称しました。
以来十四代・義興までの二百八十年間、
佐竹の門閥として興亡の歴史に刻まれた城です。

文禄四年(1595年) 義興が柿岡に移封され廃絶後、
斉昭の命により天保9年(1838年)松平頼位が本丸下の館に居住し、
代々城址を治めて明治維新を迎えました。
城跡は東西約330メートル、南北約300メートル、
本丸跡の標高約130メートル、四囲に天険を利用した山城でした。


さすがに、茨城県の県央から北部になると佐竹氏の名を耳にします。
佐竹氏と言うと『南方三十三館の仕置き』や、秀吉の小田原征伐の際
いち早く参陣したと言う経緯もあり、小田原北条家のファンとしては
何と無く好きになれない武家でした。
とは言え、城郭好きなら戦国時代の佐竹氏は切り離せられないんだよなぁ。


こちらが、長倉城の縄張り図

      長倉城縄張り図

                           ( 余胡さんのHPからお借りしました )




蒼泉寺の駐車場に車を置き、境内脇の登城路を進みます。

      20170914長倉城址02



案内標識をもあり、道を間違えることはない。

      20170914長倉城址03

この案内標識の背後が長倉陣屋跡のようです。


この先が長倉城址。

      20170914長倉城址04



説明板と標柱が見えて来ました。

      20170914長倉城址05



以前は無かったらしい説明板。
平成15年に建てられたらしい。

      20170914長倉城址06




御前山村が合併で無くなる前に慌てて建てたとも言われています(笑)。

      20170914長倉城址07


実は、この辺りは長倉城址の入口と言っても良い。
この先の比高40mほどの台地(山)が主郭になるらしい。

いくらか涼しくなって来たとは言え、9月の中旬。
まだまだ残暑を危惧する時期。
当然、山には雑草が生い茂り、行く手をはばみます。

      20170914長倉城址08


      20170914長倉城址09



この奥に竪堀があるらしいが
とても確認出来る状態ではありません。

      20170914長倉城址10


とにかく、城址巡りにはまだまだ不向きな季節。
早々に撤収することにいたしました。



蒼泉寺の境内から眺める長倉城址。

      20170914長倉城址11


残念ですが、遺構に近づくことも無理って言うか
雑草の生い茂る中を びいすけ を引き連れて
藪漕ぎしながら進軍する勇気はありません(笑)

雑草が枯れる時期に、いつかリベンジマッチしなくっちゃ!







2017/10/09 Mon. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

滝田城址  (2017年3月9日)(千葉県南房総市) 

3月9日 公休日

この日は、南房総市に出かけました。

増間七滝の『前蔵引の滝』の滝をあとにして、
向かった先は...............滝田城址

今回、南房総市の来た最たる目的は、この滝田城址の攻略。
実は過去2回、近くに来て居ながら時間が足りなくなって
断念したことがあります。
山城だと言うこと、かなり広い城域だとネットで調べてはいましたか
実際に自分の足で歩いて、かなり広い城址だと改めて実感しました。


滝田城の築城年代は定かではありませんが、
里見義豊の妹婿である一色九郎が城主をつとめた記録があります。
里見氏の内部分裂である『天文の内訌』により、義豊が里見義尭によって安房を追われると、
義豊の妹婿である一色氏の滝田城も攻められ落城してしまいました。
諸説があるようですが、落城後に廃城となったと言う説と、
落城後、里見義堯が本拠としたとする説があるようです。

また滝田城は、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』で里見義実の居城のモデルとなった城としても有名です。
そのため城址には『伏姫と八房の像』が建てられています。



こちらが、滝田城の縄張り図。

      滝田城址縄張り図

( 余胡さんのHP からお借りしました。)



県道88号線を走っていると、案内標識が出ていて
迷わずに滝田城址へと来ることが出来ます。

      20170309滝田城址64


実は、コレが曲者だったりします。
と言うのは、滝田城の登城路は2ヶ所あります。

一つは、城好き、城マニアにとっては王道とでも言うべきか?
定石とでも言うべきか?
大手口からの登城。
こちらは遺構を確認しながら、登城出来ます。

もう一つは、搦め手口側の登城路。
こちらが曲者です。
県道からの案内では、こちらに辿り着いてしまいます。


実は、そのことを知らずに、案内標識に導かれるまま
駐車場に来てしまいました。
駐車場にはトイレも完備。

しっかりとした説明板、案内図もあります。

      20170309滝田城址02


      20170309滝田城址01
  

      20170309滝田城址03

滝田城址として整備されている割には、案内図が簡素化されていて
縄張り図もない。
結果的には、ハイキングコースの案内板と言った感じです。


大手口から登城するのが、本来の意味では正解ですが
そんなことも知らずに、『いざ!登城!』と張り切ります。

      20170309滝田城址04


山城だから、仕方がないけれど、イキナリの上り。

      20170309滝田城址05


ちょっぴり息を切らしながら、上って行きます。

      20170309滝田城址06


城郭の遺構らしきモノもないまま、尾根に到着。
尾根伝いに移動します。

      20170309滝田城址07


尾根に切られた堀切。

      20170309滝田城址08

ここで、搦め手口からの進入を阻止するのでしょう。


さらに、尾根伝いに進みます。

      20170309滝田城址09


      20170309滝田城址10



主郭虎口だと思い切り勘違い。

      20170309滝田城址11

この時はまだ、登城路が二つあって、
搦め手口から登城しているとは知りませんでした。


主郭かと思ったら、そこは展望台跡。
以前は展望台が在って、見晴らしが良かったようですが
現在は撤去されてしまったようです。


展望台の一角には、伏姫と八房の像。

      20170309滝田城址12


この像も見たかったモノの一つ。

      20170309滝田城址13


像の台座には『翔天』の文字。

      20170309滝田城址14


      20170309滝田城址15



一見、天守台跡のように見えるけれど、
ここが展望台跡。

      20170309滝田城址16


滝田城の説明板。

      20170309滝田城址17


木製の滝田城址の標柱は朽ちて倒れているのを
展望台の基礎には立て掛けてありました。

      20170309滝田城址18


      20170309滝田城址19


ここで引き返して駐車場に戻ってしまう人もいるようですが
滝田城址の真骨頂はこの先。
尾根伝いにさらに先へと進みます。

なだらかな上り勾配の尾根を200mほど進むと
やがて上り階段。

      20170309滝田城址20


この階段の向こうには何がある?

       20170309滝田城址21


上りきった先は、ちょっとした削平地。
そこは台地頂部。
そんなに広くはなく、居住性はありません。

櫓台でした。

       20170309滝田城址22


櫓台には、小さな祠が祀られています。

       20170309滝田城址23

( 鉄塔もあるけどね。)


櫓台と言うだけあって、見晴らしは良い。

       20170309滝田城址24


櫓台は『八幡台』とも言うらしい。

      20170309滝田城址25

あの小さな祠は八幡宮なんですね。


八幡台から一段下ったところが主郭(本丸)。

      20170309滝田城址26


      20170309滝田城址30


それなりの広さを有する削平地。

      20170309滝田城址27


主郭には礎石が残されており、居館が在ったことを推測させます。

      20170309滝田城址28



こちらが、主郭の虎口。

      20170309滝田城址29


      
主郭から登城路を根古屋まで下って行きましょう。

ここからが、滝田城址の真骨頂です。

      20170309滝田城址31



主郭のすぐ下には曲輪。

      20170309滝田城址32

一瞬、二郭かと思ったら、二郭は別な場所に...............



こちらが二郭(二の丸)。

      20170309滝田城址33


      20170309滝田城址34


二郭には、土壇のような土塁もあります。

      20170309滝田城址35



二郭からさらに下って行くと、幾つもの曲輪があります。

      20170309滝田城址36



こちらは武者溜

      20170309滝田城址37


書いて字のごとく、兵が居留できるような削平地。
と言っても、それなりの広さ。
とても数百人の兵が居留できるわけではありません。

      20170309滝田城址38


      20170309滝田城址39


      20170309滝田城址40


      20170309滝田城址41



武者溜の奥には見晴台。

      20170309滝田城址42



さらに下って行けば、虎口。

      20170309滝田城址43



下(大手口)から上がって来ると、右カーブの虎口。

      20170309滝田城址44

なかなか、防御性も兼ねた虎口です。



さらに下って行けば、腰曲輪。

      20170309滝田城址45

本当に登城路の脇に曲輪が多い。


腰曲輪から下を覗くと、更に別な腰曲輪があるのが分かります。

      20170309滝田城址46



一段下った先の腰曲輪。

      20170309滝田城址47



主郭から、数多くの曲輪、腰曲輪を眺めながら
馬場まで降りきりました。

      20170309滝田城址48


馬場の登城路側の土塁。

      20170309滝田城址53


馬場から登城路を振り返ってみます。

      20170309滝田城址49

いかにも山城って言う感じの登城路です。




馬場は、本当に広い削平地。

      20170309滝田城址50


この広さであれば、それなりの数の兵が居留出来そうです。

      20170309滝田城址51


そして、馬場の奥には物見台。

      20170309滝田城址52

平群川沿いの街道を監視していたのでしょう。

      

馬場から一気に根古屋まで下って行きます。

こちらが、大手口の登城路の入口。

      20170309滝田城址54


やはり、害獣対策でフェンスが張られ、
出入りする扉にはロープで簡易的に施錠しています。

      20170309滝田城址55

要は、大手口から登城する人は、勝手にロープを解いて、
出入りしたら、また結び直して下さいって言うことです。


一応、大手口にも車が5〜6台停められるスペースはありますが
フェンスの関係なんでしょう、
表向きにはこちらの登城口を案内していないみたいです。

      56



こちらは根古屋地区。

      20170309滝田城址57


畑には菜の花が満開の時期を過ぎて、ちょっぴり枯れ始めています。

      20170309滝田城址58


      20170309滝田城址59



さて、駐車場に戻るにはどうしょう?

もう一度、大手口から登城して主郭まで行き
尾根伝いに移動して、展望台跡から搦め手口を下って行く元気はありません。

さすがに、この山の頂部まで行って、反対側に降りる気力もありません。

      20170309滝田城址60



県道をトボトボ歩きながら、案内標識を探しましょう。

      20170309滝田城址61


15分ほど歩いて、駐車場はもうすぐそこ。


駐車場手前には、里見桜。

      20170309滝田城址62

上総・安房の国に栄華を誇った里見氏ですが、
江戸時代になると徳川家康に里見氏10代当主、里見忠義は安房を没収され、
伯耆倉吉3万石に転封となりました。
その8年後、29歳の若さで亡くなりました。

里見氏の所縁の地と言うことで交流のある倉吉市の有志が苗木を育て、
館山に送られ、南房総市の有志らにより植えられたそうです。

      20170309滝田城址63


無事、駐車場に戻り一息つきましたが
滝田城址に1時間半以上居たことになります。
思った以上に疲れたけれど、見応えのある城址でした。






     
2017/04/07 Fri. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

高月城址  (2017年3月9日)(千葉県南房総市) 

3月9日  公休日

この日は、房総半島の南房総市に出かけました。

犬掛の八房生誕の地をあとにして、向かった先は...............高月城址



上滝田地区の龍喜寺が高月城址とされているようですが、
高月城については、詳細は不明です。

高月城の近く(北側)に犬掛の古戦場があり、また滝田城からも近いこの位置から考えて、
滝田城の出城の1つと考えられているようです。
また、犬掛の合戦の際に陣城が置かれたところであるかもしれません。
しかしながら、龍喜寺は里見義通が開基した寺院で、
里見義通の位牌も納められているということです。



こちらが、高月城の縄張り図

      高月城址縄張り図


(余胡さんのHP よりお借りしました)



龍喜寺に至る道は狭く、途中にゲートもあって車では通れません。
仕方ないので、県道の路肩に車を停めて歩きましょう。


びいすけ の背後にあるのが高月城址。

      20170309高月城址01


龍喜寺への案内板を頼りに歩きます。

      20170309高月城址02


      20170309高月城址03


狭い道を上って行くと、フェンスの向こうに又々イノシシ捕獲用の檻。

      20170309高月城址04

本当に害獣の被害は深刻なんですね。


ダラダラと上り坂を上がって行けば、龍喜寺

      20170309高月城址05



城塁と削平地。

      20170309高月城址06


こちらが龍喜寺の説明板。

      20170309高月城址07

由緒ある寺院のようですが、現在は無住の寺のようです。



龍喜寺の本堂。

      20170309高月城址08



境内には、なぜか鳥居。

      20170309高月城址09



萬勢稲荷と言う稲荷神社のようです。

      20170309高月城址10


      20170309高月城址11



萬勢稲荷の社が建つのは土塁上。

      20170309高月城址12



龍喜寺の三方を取り巻くように土塁が残されています。

      20170309高月城址13


      20170309高月城址14


龍喜寺の本堂の建っている辺りは、さしずめ居館跡でしょうか?

      20170309高月城址15



萬勢稲荷の背後には、尾根伝いにさらに台地の奥に行けそうですが
害獣避けのフェンスがあって立ち入り禁止。

      20170309高月城址16


さらに、フェンスの先にはイノシシ捕獲用の檻。

      20170309高月城址17


遺構らしきモノは土塁ぐらいしか無いようです。
滝田城の支城とするならば、ちょっぴり拍子抜け。
やはり、犬掛合戦の際の陣城だったのだろうか...............?

城巡りの割には、今一歩テンションが昂まりませんでした。




2017/04/03 Mon. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

岡城址 (2017年1月31日)(茨城県取手市) 

1月31日 公休日

この日は、茨城県の取手市の廃校巡りに出かけました。

廃校巡りのついでに、取手市内に在る城址にも立ち寄ることにしました。
白山西小学校をあとにして、向かった先は...............岡城址


小貝川の近く、取手市の岡地区には『岡の台地』と呼ばれる高台があります。
その『岡の台』の一角に『岡神社』があり、その岡神社のある辺りが岡城址とされています。


岡城の城主等歴史については不詳ですが、
岡神社のある高台には、茨城県指定史跡である『大日山古墳』があり
その『大日山古墳』が中世に岡城の櫓台として用いられていたようです。



これは中世から近世に盛んになった大日信仰の名残で、大日山の名もそこからきていると考えられています。


こちらが、岡神社の鳥居。

     20170131岡城址01


鳥居の神額。

      20170131岡城址02



この石段を上がった先が岡神社の境内であり、岡城址とされています。

      20170131岡城址03



びいすけ の背後に建つ拝殿。

      20170131岡城址04

拝殿の建つ高台が『大日山古墳』。


こちらが、拝殿。

      20170131岡城址05



この位置からだと、拝殿のある土壇(高台)が古墳なのが良く分かります。

      20170131岡城址06

土壇脇に建つ説明板。

『大日山古墳』については触れていますが
岡城址については触れていない。

      20170131岡城址07



中世から近世にかけて、盛んになった大日信仰の名残りで
岡神社の境内には石塔が多い。
大日山の名も大日信仰からきていると考えられています。

      20170131岡城址08


      20170131岡城址09



こちらは、祭礼記念碑。

      20170131岡城址10


      20170131岡城址12



実は、岡城址のある一帯は『朝日御殿跡』といい、
平将門の妾桔梗の御殿の跡と伝えられているそうです。

祭礼記念碑の碑文にも記されています。

      20170131岡城址11



こちらが、その『朝日御殿跡』
岡城址の郭ともされている。

      20170131岡城址13


      20170131岡城址14


      20170131岡城址15



『岡の台』は平将門の所縁の地で、将門伝説の残る所。
この『岡の台』の地に将門が城を造ったとも言われています。

台地には、こんな感じで城址の雰囲気満載の場所も多い。

      20170131岡城址16


先ほどのばしょから上がって行くと、削平地。
畑と改変されています。
      20170131岡城址17




『岡の台』の外れには、こんな標柱も建っています。

      20170131岡城址18


      20170131岡城址19


『岡台地と平将門』と表題の付いた標柱には
『将門伝説が残り』『平将門にまつわる史跡として
朝日御殿跡(城跡)、延命寺、仏島山古墳』 と記されています。

ひょっとしたら、岡城は朝日御殿の事を言うんのだろうか?


良く分からない...............謎です(笑)。

2017/02/28 Tue. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

宮本城址  (2017年1月26日)(千葉県南房総市) 

1月26日  公休日

この日は、南房総市に出かけました。


岡本城址をあとにして、向かった先は...............宮本城址


宮本城は、房総里見氏の二代目成義(近年の研究によると、その存在が疑問視されています。)が
延徳3年(1491年)に稲村城の支城として築いたものです。 
城域は、山頂一帯を主郭とし、東へ延びた尾根と南北に派生する支尾根に、
連続して竪堀、土橋、掘切を組み合せ、敵の取り付きを困難にする技巧的な構造になっています。
特に、城の北側の防御に力が注がれているのを見ると、
当時の里見氏が、上総方面を意識していたことがよく解ります。
成義の三男・実堯(現在では、初代・義実の子という説が主流です。)が初代城主となり、
宮本城は、天文2年(1533年)に起こった里見氏一族の内紛(天文の内乱)で当主の義豊が敗死した後、
稲村城とともに廃城となったと伝えられていますが、遺構の形式から見て、従来考えられていた年代よりも後まで使用されていたことが伺えます。 当時の文献からも、義豊を滅ぼした義堯が宮本城を居城としたことが明らかになっています。





こちらが宮本城の縄張り図

      宮本城縄張り
                     ( 余胡さんのHP  よりお借りしました )



宮本城址のアプローチは、道の駅『おおつの里花倶楽部』を目指します。
道の駅の駐車場に車を置いて100ほど歩けば、この案内板。

      20170126宮本城址01



案内通りに進んで行けば、曲がり角には矢印に案内。

      20170126宮本城址02


親切この上ない。

      20170126宮本城址03

実は、道の駅にパンフレットが置いてありましたが
宮本城址へのハイキングも道の駅がお勧めするコースらしい。
ただ、難所コースだから、それなりの装備(靴、上着)が必要って書かれています。


矢印の案内に混じって、こんな立て札。

      20170126宮本城址04

何だか怖そう。


とにかく登城路に至るまでが長い。
再び曲がり角。

      20170126宮本城址05



左に枇杷畑を眺めながら進軍します。

      20170126宮本城址06



アスファルト(コンクリート)の地面がなくなった辺りから
宮本城址への登城路となります。

      20170126宮本城址07



この辺りから道幅も狭くなり、いかにも山城への登城路って感じです。

      20170126宮本城址08


なかなか、上り勾配もキツく、ついつい息が上がってしまいますが
根性で進軍いたしましょう。

      20170126宮本城址09



主郭虎口。

      20170126宮本城址10



ちょっぴり、額に汗を浮かべながら主郭に到着。

      20170126宮本城址16


      20170126宮本城址17


主郭に建っている説明板。

      20170126宮本城址15


そして、主郭に建つ石碑と城址の標柱。

      20170126宮本城址11



標柱。

      20170126宮本城址12


石碑は二基ありました。

こちらの石碑は判読不明。

      20170126宮本城址13


こちらも判読不明と思ったら...............

      20170126宮本城址14


反対側を覗いたら、読みづらいですが、
『宮本城址』と刻まれています。

      20170126宮本城址21



宮本城址の碑になります。

      20170126宮本城址22    



説明板の傍らには、以前に建てられていた四阿だろうか?
朽ち果てて倒壊していました。

      20170126宮本城址18



主郭の片隅に建てられた小さな句碑。

      20170126宮本城址19

戦国を勝ち抜く夢の
若武者の
恋もまじわる 宮本の城

う〜む、なかなか良い句ですね。
きっと、里見氏当主を夢見た義豊の事を詠んでいるんですね。




そして、句碑の傍らには、小さな看板。

      20170126宮本城址20

確かに、房総半島には高い山がないけれど、
183mの山でも登るのはキツかった...............。




主郭からの眺め。

      20170126宮本城址30
     
この景色は、数百年前の義豊の時代から変わらないんだろう。



主郭東部にある井戸跡。

      20170126宮本城址23


主郭から東側にも尾根が伸びていて、宮本城の城域は広がっているようですが
縄張り図を持って来なかったため、東側に尾根の先を探索するのは諦め
一気に下山しました。

 

麓に辿り着くと、そこには菜の花畑。
    
      20170126宮本城址24


まだ1月の下旬なのに、菜の花が咲いている。

      20170126宮本城址25



道の傍らには、小さなタンポポの花。

      20170126宮本城址26

南房総市って、本当に暖かいんだ。
ちょっぴり驚き。



道の駅に戻り、疲れた体を癒すソフトクリームのじかんです。

      20170126宮本城址27

大人しく『待て!』をして、ソフトクリームを貰おうとする びいすけ 。


仕方ないなぁ〜! とダメ飼い主はついつい甘くなります。

      20170126宮本城址28


まぁ、ソフトクリームだから、甘いのは当然か(笑)。

      20170126宮本城址29


  
本当は、このあともう一つ山城へチャレンジする予定でしたが
さすがに宮本城址の攻略は疲れました。

鋸南町を抜けて、帰ることにいたしましょう。



    
2017/02/21 Tue. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

岡本城址  (2017年1月26日)(千葉県南房総市) 

1月26日 公休日

この日は、南房総市に出かけました。


岡本桟橋をあとにして、向かった先は...............岡本城址


岡本城は、元々は里見氏家臣であるの岡本豊前守氏元の居城でした。
元亀元年(1570年)に佐貫城に在城していた里見義弘に召し上げられ、
安房の守りとして後の里見氏8代当主である里見義頼に与えられ、
大修復され、居城とされたと言うことです。

里見氏は戦国時代から江戸時代まで10代、約170年にわたって房総半島南部を拠点とした一族です。
『里見氏代々記』、『房総里見軍記』などの軍記物によると、
水軍を編成し敵対する後北条氏を攻めるため相模へ侵攻したと伝えられ、
関東では数少ない水軍を擁した一族としても知られています。

天正8年(1580年)、弟の梅王丸との後継者争いに勝利した里見義頼が
東京湾を望む丘陵上に造られ、城の規模は東西600m、南北300mにも及び、
この地域の城としては非常に大きな規模と複雑な構造を誇っています。
中心部分は3つの郭から構成され、斜面下から海に向かって広がる郭は
港としての機能を持っていたとされています。



こちらが、岡本城の縄張り図。

      岡本城縄張り

( 余胡さんのHP からお借りしました )



こちらの台地が岡本城址。

      20170126岡本城址01

国道127号にも案内板が建っているからわかりやすい。

ただし、駐車場は無いから、路駐覚悟で訪れましょう。


岡本城址のアプローチはこちらから。

      20170126岡本城址02

トンネル手前右手の狭い登り道が登城路。


実は、この登城路と案内板に気付かず、
トンネルの先をぐるぐると回って探しまくってました(笑)。

      20170126岡本城址03



狭い登り道を上がって行きます。
右手側には枇杷畑。
立ち入り禁止のネットがしっかり張られています。

      20170126岡本城址04


斜面には埋もれかけているけど、房総半島に多いやぐら(横穴墳墓)跡。

      20170126岡本城址05



登城路を上りきった先は、主郭虎口。

      20170126岡本城址06



こちらが主郭。

      20170126岡本城址07



主郭は里見公園として整備されたようですが
公園といっても何も無く、ベンチが一脚あるのみ。
訪れる人も余りいないのでしょう。

      20170126岡本城址08



主郭に建てられた説明板。

      20170126岡本城址09

知らなかったんだけど、岡本城址って国指定の史跡だったんですね。


主郭の一角には岡本城址の碑。

      20170126岡本城址10


      20170126岡本城址11


城址碑の隣には、それなりの月日を経た石碑。

      20170126岡本城址12

碑文は風化していて、判読不明。


城址碑の奥に尾根沿いへと続く道がある。

      20170126岡本城址13


どうやら、この先にも郭があるみたい(?)です。

      20170126岡本城址14



しばらく行くと、岩の高台。
物見台の跡かもしれない。

      20170126岡本城址15


その場所からの眺望。

      20170126岡本城址16

大房岬もはっきりと見える。

この場所なら、浦賀水道を船で渡ってくる北条軍も確認できるだろう。
やっぱり里見氏の要の城なんですね。


さらに尾根伝いに道は続いていそうだけど...............

      20170126岡本城址17


縄張り図を持ってきていないから、この先は不明。
このあとにも、もう一つ山城にチャレンジするつもりだから
無理はいたしません。

里見氏って軽く見ていたけれど、しっかりした山城を構築しているから
意外に侮れない。
北条びいきの身ですが、ちょっぴり見直しました。






2017/02/20 Mon. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

鎌原城址 (2016年12月7日)(群馬県吾妻郡嬬恋村) 

12月7日 公休日

軽井沢旅行の2日目。

ブロードウェイを9時半にチェックアウトして、向かった先は...............鎌原城址


実は、今回の旅行で城址巡りは全く考えていませんでした。
当然、事前の下調べもしていません。
折しも、時代は『真田丸』の影響で真田ブーム。
鎌原城址が嬬恋村の指定文化財であり、
村を挙げて真田ブームに乗っかろうとしているのか?
ブロードウェイの案内の周辺紹介にもしっかり載っていて、

『せっかくだから、近くに居るんだから寄ってみれば?』

と、 もっちゃん からも背中を押してもらい、いざ蒲原城へ!


鎌原城は、吾妻川に断崖をめぐらす要害で、
岩櫃城、羽根尾城との攻防戦は、加沢記によって知られています。
応永4(1397)年の築城と伝えられており、
元和元年(1615)徳川幕府の「一国一城令」による破却まで、
鎌原氏の居城として、戦国の歴史を秘めています。

南北400m・幅150mの城域があり、
堀切りと城主墓地を残す他、
附近に城に関係ある地名が残っています。
鎌原氏は滋野源氏、海野氏の一族で、下屋氏の末裔にあたり、
戦国時代には真田氏とともに甲州武田信玄の武将となり、
江戸時代には沼田城真田氏の家老でした。


こちらが鎌原城の縄張り図。

      20161207鎌原城址00

(現地案内板より)



場所が全く分かりませんでしたが、現在はNET時代。
iPhoneで検索して、大まかな場所をチェックして、
あとは近くになったら誰かに聞こう!
そんな思いで現地に向かうと、しっかり案内が出ているから
迷わずに辿り着けるようです。

      20161207鎌原城址01


      20161207鎌原城址02


駐車場も完備。
確か以前は無かったような事が誰かのBlogに書かれていたけど
これも真田丸効果?(笑)

      20161207鎌原城址03


駐車場奥には立派な説明板。

      20161207鎌原城址04

これも近年建てられたもののようです。


駐車場からは少し戻りますが、鎌原城の三の丸から攻略いたしましょう。


こちらが三の丸。
今や耕地化され、その殆どが畑と化しています。

      20161207鎌原城址05



追手口(大手口)手前にある城址碑。

      20161207鎌原城址06



鎌原城は、別名 霊城 とも言うらしい。

      20161207鎌原城址07

真田氏関連の城らしく、しっかりと六文銭が描かれています。



こちらが、追手門跡の碑。

      20161207鎌原城址08


      20161207鎌原城址09


以前は、石碑ではなく、木製の標柱だったようで
近くの木に朽ちかけた標柱が立て掛けられていました。

      20161207鎌原城址10


実は、この鎌原城址、三の丸だけでは無く
二の丸もキャベツ畑と化しています。

      20161207鎌原城址11

嬬恋村は高原キャベツで有名ですが、その役割を鎌原城址も幾許かは担っているようです。


三の丸から二の丸へと進軍します。
先陣は、近藤下総守びいすけ(笑)。

      20161207鎌原城址14

お屋形様である びいすけ父さんは後方からの進軍です。


こちらは二の丸。
進軍は続きます。

      20161207鎌原城址12


二の丸の堀切。

      20161207鎌原城址15

鎌原城址で数少ない遺構の一つ。

堀切の先が二の丸。
二の丸から堀切越しに三の丸を眺めてみます。

      20161207鎌原城址13

やっぱり三の丸は広大なキャベツ畑。
    

二の丸側から堀切を見ても、やはり大きい。
      
      20161207鎌原城址16


さらに進めば、視界の先には本丸が見えて来ます。

      20161207鎌原城址17



こちらが本丸。

      20161207鎌原城址18

以前は、標柱と小さな説明板だけがポツンと在り、
草茫々の状態だったようですが 、綺麗に整地されているようです。



こちらが説明板。

      20161207鎌原城址19


そして標柱。

      20161207鎌原城址20


真新しい、木製の本丸跡の碑。

      20161207鎌原城址21


本丸は整地されて広い。

      20161207鎌原城址22


本丸から二の丸、三の丸を眺めると...............

      20161207鎌原城址23

やっぱり、キャベツ畑。


本丸に掲げられた幟。

      20161207鎌原城址24

嬬恋村の本気度が伺えられます。


戦国武将の中で、真田一族ってノーマーク。
まさか、真田氏関連の城址に訪れるなんて思ってもみなかった。

ブームに乗るのも、追いかけるのも好きじゃないけれど
真田氏関連の城址巡り、私の中では アリ かも...............?




2017/01/06 Fri. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

関宿城址  (2016年11月20日)(千葉県野田市) 

11月20日 公休日

この日は、埼玉県の春日部市に用事があったので
春日部市周辺に出かけました。

野田市にある旧・関宿小学校の近くに城址がある事は知っていましたが
旧・関宿小学校の前にこんな案内板がありました。

      20161120関宿城址 縄張り図02

800mって完全な徒歩圏内。
10分も歩けば行ける距離。
こんなに近いんじゃ行かない理由がない。

と言うことで、向かった先は...............関宿城址


関宿城は、室町時代に簗田満助または簗田成助によって築かれたとされ、
関宿簗田家の居城になったと伝わっています。
江戸時代には関宿藩の藩庁が置かれ、江戸川をさえぎるような縄張りを持っていました。
利根川水系等の要地であり、関東の水運を押さえる拠点でありました。

戦国時代には関東の中心部における最重要拠点であり、
関東の制圧を目論む北条氏康は、
「この地を抑えるという事は、一国を獲得する事と同じである」
と評したとされています。

戦国時代末期には、北条方と上杉方の間で激しい争奪戦が繰り広げられ(関宿合戦)、
北条氏康・氏政・氏照父子が、上杉謙信・佐竹義重の援助を受けた簗田晴助の守る関宿城を3度に渡り攻撃し、
最終的には北条氏がこれを制し、北関東進出の拠点としました。

小田原北条氏のファンである身としましては、いつかは訪れたい城址の一つでありました。



こちらが関宿城の縄張り図( 現地説明板板より )

      20161120関宿城址 縄張り図

確かに、利根川の流れを上手く利用した縄張りとなっていたようです。



この辺りが武家屋敷跡。

      20161120関宿城址02

関宿藩の家臣たちが居を構えていたのでしょう。


      20111206関宿城址03



こちらが三郭。

      20161120関宿城址04


      20161120関宿城址05

この辺りは牛舎が多く、牛舎独特の匂いが鼻先に漂ってきます。



三郭に土塁。

      20161120関宿城址06

右側は堀跡のようです。


三郭から二郭に至る動線には横矢が掛かっています。

      20161120関宿城址07


こちらが二郭。

      20161120関宿城址08

この辺りにも牛舎が多い。

びいすけ の背後の水田は、かつての堀跡。
さらに奥の森のある台地が主郭にあたります。


主郭に向かいましょう。

      20161120関宿城址09



主郭前には石碑が見えます。

      20161120関宿城址10



関宿城址の碑。

      20161120関宿城址11


      20161120関宿城址12



千葉県下ではお馴染みの『房総の魅力500選』の碑。

      20161120関宿城址13



そして、説明板。

      20161120関宿城址15


      20161120関宿城址16




こちらが主郭。

      20161120関宿城址14

意外に広い。
    


びいすけ の背後に見えるのは天守閣?     

      20161120関宿城址17


      20161120関宿城址18


実は、コレは模擬天守閣。

      20161120関宿城址19

その実態は平成7年に建てられた千葉県立関宿城博物館。
そして、本来は主郭(本丸)にあるはずの天守閣(模擬天守閣)が
何故か?主郭とは、かけ離れた場所に建っています。


主郭の城塁。

      20161120関宿城址20

堀跡がハッキリと確認出来ます。


別アングルから。

      20161120関宿城址21

城塁に横矢が掛かっているのが分かります。



主郭から堀(跡)越しに眺める二郭。

      20161120関宿城址22

主郭と二郭を隔てる堀が大きかったのが分かります。




こちらは、大手門跡。

      20161120関宿城址23


      20161120関宿城址24


かすかに残っている堀跡が確認出来ます。

      20161120関宿城址25



そして、こちらが関宿関所跡。

      20161120関宿城址26


利根川の要地であり、上州や常陸からの陸路を抑える拠点であった事が窺えます。

      20161120関宿城址27

関宿城址は堀も埋められ、宅地や耕地と化し
かなり改変されていますが、それでも主郭周辺はまだまだ見応えがあります。
広大な城域ではありますが、かなり急ぎ足で巡ったため
見逃した箇所もあったりします。

しかしながら、小田原北条氏(北条氏康)が
この地を羨望した理由が、利根川の地形を生かした広大な城域を見て
何となくわかるような気がします...............。


2016/12/15 Thu. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

宮ヶ崎城址  (2016年9月16日)(茨城県東茨城郡茨城町) 

9月16日  公休日

この日は、茨城県の茨城町に出掛けました。

茨城町の廃校を巡るついでに、涸沼周辺の景勝地を巡っていました。
親沢の鼻(親沢公園)をあとにして、対岸の『弁天の鼻』に向けて
クルマを走らせていると、一瞬大きな看板が視界に入って、すぐに消えた。
なんの看板だろう?とUターン。


畑へと誘う道に入り、目にした看板がこちら。

      20190916宮崎城址01


えっ! こんな所に城址があるの?
ついつい、この大きな看板の文面をじっくり読んでしまいます。


宮崎(宮ヶ崎)城は...............


鎌倉時代初期1220年代、鹿島郡領、鹿島三郎成幹の孫、三郎家幹はこの地に土着し宮崎氏を名乗り
領地は宮崎郷の内、五十町と当麻津(鉾田市)を支配していた。
特に水運を押さえる水軍として活躍した初代家幹は
これより南方「きゅうでん掘」と呼ばれている150メートル×100メートルの方形を呈した館に居住していた。
その後、南北朝から室町初期には吉田郡河崎村(水戸市)から、
用次、飯岡、菅谷、瀬落(小美玉市、鉾田市)までも領有し、鹿島氏本宗家に並ぶ勢力を持ち、
茨城町一番の豪族となった、また鹿島大使役として幹親(文永 年中)幹詮(建式)、
(暦応から康永)が三度鹿島神社七月大祭の際使を務めている。
南北朝期には北朝方として北畠親房方の神宮寺城、阿波崎城の攻撃戦闘に参加をしている。
宮崎城は戦乱の時、詰めの城として使用した二本の堀と土塁で別けられた五つの曲輪から構成され、
江戸氏の時代(1550年頃)に再整備されてものである。
1416年(応永二十三年)十月上杉禅秀の乱に加担した宮崎氏は、烟田氏、江戸氏らに敗れ、
九代200年の永きに渡った茨城町一円の支配を終わる事となった。
この地の北宮、定光院跡地は宮崎氏一族の墓地があり、
多数の五輪塔、層塔、宝篋印塔と共に静かな眠りについている。
   平成二十六年七月       茨城町文化財保護審議委員 井坂英嗣
                  宮ヶ崎城跡保存会


と看板に記載されていました。

      20190916宮崎城址02


元々予定には有りませんでしたが、偶然見つけた城址。
この大きな看板には、縄張り図もあるし...............

      20160916宮ケ崎城縄張り


ここは、進軍しない訳にはいきません(笑)。


と、言うことで 宮ヶ崎城址 へいざ参らん!



この辺りは二郭。

      20190916宮崎城址03



完全な畑。

      20190916宮崎城址05



二郭の虎口。

      20190916宮崎城址04


     
畑の畦道をまっすぐ進めば、やがて主郭。


      20190916宮崎城址06
      


主郭虎口。

      20190916宮崎城址07



主郭奥には、宮ヶ崎(宮崎)城址の碑。

      20190916宮崎城址08


碑分によれば、以前は畑になったと言えども、主郭辺りは竹が生い茂り
荒地で手もつけられない状態だったと言うことですが
地元の保存会の有志(ほとんどが高齢な方々だったと言うことです)の方々が
整備、管理、保全されてきたらしい。

      20190916宮崎城址09

その奉仕者の苦労と努力に敬意を表して城址碑が建てられたと言うことです。


城址碑な脇には標柱。

      20190916宮崎城址10

おそらく以前は、この標柱だけだったんでしょう。



標柱と城址碑の背後には土塁。

      20190916宮崎城址11


往時の宮ヶ崎城は、この土塁がぐるっと主郭を取り囲むような形になっていたようです。

      20190916宮崎城址13



そして、土塁の先には空堀。

      20190916宮崎城址14

しかし、空堀には雑草が生い茂り、進軍は諦めます。


管理されているとは言え、夏期の雑草の生い茂るスピードには勝てません。


空堀は諦め、主郭から三郭へと移動します。
城址碑のある辺りから、主郭虎口へと戻ります。

      20190916宮崎城址15


再び、主郭虎口。

      20190916宮崎城址16

主郭から二郭へは畦道がらありますが
二郭から三郭へは畦道がない。
畑の中を踏み荒らして行くのは失礼だし、せっかく地権者が
城址を解放してくれているんだから、迷惑は掛けられません。

三郭へは、香取神社からぐるっと回ります。


鹿島神社前。

あの看板も確認出来ます。

      20190916宮崎城址17

奥の森が主郭辺り


主郭から5分、いや10分近く歩いて、やっと三郭に到着。

こちらが、三郭の虎口。

      20190916宮崎城址18



三郭に建っている標柱。

      20190916宮崎城址19


三郭は宮崎氏に所縁のある宮崎氏寺の跡らしい。

      20190916宮崎城址20



寺の跡形もなく、一面の畑。

      20190916宮崎城址21



偶然、遭遇した宮ヶ崎城址。
空堀が雑草に覆われていて、進軍に逸る気持ちを抑えてくれましたが
何となく中途半端。
冬場の雑草のない時期にリベンジで訪れようかな...............?




2016/10/11 Tue. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

小幡城址  (2016年7月1日)(茨城県行方市) 

7月1日 公休日

この日は、茨城県の行方市に出かけました。

行方市へは、廃校を巡るのが目的でしたが
訪れた要小学校に隣接するお寺が城址と言うことで
訪れたのは...............小幡城址


茨城県の小幡城址と言えば、茨城町の小幡城址が有名なようですが
そちらとは違い、こちらは行方市(旧・北浦町)の小幡城址です。


小幡城は
玉造城主3代景政の子、辰幹がこの地に分地され小幡氏を名乗り、
居館を営んだことに始まると言われているようです。



こちらが、小幡城の縄張り図

      小幡城址縄張り図


余胡さんのHP(余胡くんのお城のページ)からお借りしました。



小幡城の主郭である観音寺。
紫陽花の花が綺麗に咲いていました。

      20160701小幡城址01


      20160701小幡城址02


      20160701小幡城址03



観音寺の本堂。

      20160701小幡城址04



本堂脇に、近年建てられたと言う城址碑。

      20160701小幡城址05


      20160701小幡城址06


      20160701小幡城址07

小幡城については詳しい文献等が無く、不明な部分が多いようですが
城址碑の碑文によれば...............

1464年に完成した小幡城ですが、1578年に佐竹軍に敗れ
1591年に佐竹軍、武田軍、行方軍に攻められ落城したとされているようです。



かつてこの観音寺には三本松と言う松の巨木があり
茨城百景にも選ばれた景勝地でもあったようです。

      20160701小幡城址08

残念ながら、巨木の松は昭和39年に枯れ、伐採されてしまったそうです。



観音寺は小幡城の主郭でありましたが、すっかり改変し
遺構もほとんど無くなり、かろうじて城郭を彷彿させるのは
境内にある鐘楼の建つ土壇と二郭である要小学校との境界にある土塁ぐらいらしい。


こちらが、鐘楼の建つ土壇。

      20160701小幡城址09



物見台の跡だと言われているようです。

      20160701小幡城址10



境内にある大シイの樹。

      20160701小幡城址11

行方市の天然記念物に指定され、樹齢は約500年とされています。


大シイのある辺りも土壇となっています。

      20160701小幡城址12

こちらは土塁跡の名残りかもしれません。



こちらは、主郭と二郭を隔てる土塁。

      20160701小幡城址13


二郭虎口(?)

      20160701小幡城址14

虎口と言うよりは、観音寺から要小学校へ抜ける通用口となってます。



こちらは、三郭。
観音寺の観音堂のあるエリア。
観音寺の墓地でもあり、土塁のような土壇が幾つか確認出来ますが
墓地造成時に造られた後世のモノかもしれません。


      20160701小幡城址15


      20160701小幡城址16


      20160701小幡城址18



こちらが観音堂。

      20160701小幡城址19



背後には立派な土塁が確認出来ます。

      20160701小幡城址17

      

こちらのお堂には、茨城県指定文化財の如意輪観音坐像が祀られています。

      20160701小幡城址20




実は、観音寺は縦に長い敷地となっていて
さらにこの先に仁王門がらあるらしい。
知らなくて、この観音堂辺りが観音寺の最奥だと思い、
主郭である本堂に引き返してしまいました。
仁王門から本堂へと続く道は観音馬場と呼ばれ、桜の名所でもあるらしい。

桜の季節にまた来ようかな?



2016/07/24 Sun. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit