御朱印巡り...................野津田神社 (2018年12月8日)(東京都町田市)
12月8日
この日は、町田市に出かけました。
飯守神社をあとにして、向かった先は.....................野津田神社。
野津田神社は、町田市野津田町に鎮座する神社です。
創建年代等は不詳ながら、元禄13年(1700年)に湯花神事が行われたとされ、
五社明神と称していたと言われています。
明治21年(1888年)御霊神社と改称し、
明治42年(1909年)には上ノ原の春日神社本村の幸山神社、
並木の伊勢神社、川嶋の御嶽神社を合併して、
野津田神社と改めたとされています。
御祭神は、伊邪那岐命、伊邪那美命、国常立尊、天照大神、天津児屋根命、日本武尊。
こちらが社号標。

野津田神社社頭。

参道口の狛犬。


なぜか、赤い前掛けが似合っている。
こちらは二の鳥居。

二の鳥居の奥は社殿ではなく社務所。
社殿は二の鳥居の左奥。
一段高い位置になる。
由緒書き。

手水鉢。

こちらが拝殿。

拝殿正面。

向拝の彫刻と注連縄。

別アングルからの拝殿。


そして、こちらが本殿。

境内社。


神楽殿。

神楽殿の裏手は授与所。

神輿庫。

梵字が刻まれている庚申塔(?)。


神仏習合の濃さを改めて実感。
こちらが、野津田神社の御朱印。

本務社の菅原神社にて拝受しました。
これで、一応菅原神社が兼務されている9社(鶴川9社)も全て参拝して
御朱印も拝受いたしました。
結局、菅原神社には、何回通ったんだろう?(笑)
この日は、町田市に出かけました。
飯守神社をあとにして、向かった先は.....................野津田神社。
野津田神社は、町田市野津田町に鎮座する神社です。
創建年代等は不詳ながら、元禄13年(1700年)に湯花神事が行われたとされ、
五社明神と称していたと言われています。
明治21年(1888年)御霊神社と改称し、
明治42年(1909年)には上ノ原の春日神社本村の幸山神社、
並木の伊勢神社、川嶋の御嶽神社を合併して、
野津田神社と改めたとされています。
御祭神は、伊邪那岐命、伊邪那美命、国常立尊、天照大神、天津児屋根命、日本武尊。
こちらが社号標。

野津田神社社頭。

参道口の狛犬。


なぜか、赤い前掛けが似合っている。
こちらは二の鳥居。

二の鳥居の奥は社殿ではなく社務所。
社殿は二の鳥居の左奥。
一段高い位置になる。
由緒書き。

手水鉢。

こちらが拝殿。

拝殿正面。

向拝の彫刻と注連縄。

別アングルからの拝殿。


そして、こちらが本殿。

境内社。


神楽殿。

神楽殿の裏手は授与所。

神輿庫。

梵字が刻まれている庚申塔(?)。


神仏習合の濃さを改めて実感。
こちらが、野津田神社の御朱印。

本務社の菅原神社にて拝受しました。
これで、一応菅原神社が兼務されている9社(鶴川9社)も全て参拝して
御朱印も拝受いたしました。
結局、菅原神社には、何回通ったんだろう?(笑)
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2019/01/21 Mon. 15:00 |
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御朱印巡り...................飯守神社 (2018年12月8日)(東京都町田市)
12月8日
この日は、町田市に出かけました。
広衿神明社をあとにして、向かった先は......................飯守神社。
飯守神社は、町田市真光寺町に鎮座する神社です。
領主である飯田次郎右衛門高家・観泉寺法印俊誉が飯森明神と称して、
慶安3年(1650年)に創建、文化7年(1810年)に遷座再建、
明治4年に飯守神社と改めたとされ、大正2年に境内社の神武天皇神明社、
諏訪神社、金毘羅神社、秋葉大権現、道了大権現、八雲神社、八坂神社、
日吉神社、東照宮を合祀したとされています。
なお、社号の「いいもり」は、武蔵国総社大国魂神社の例大祭時の献饌之儀に
御食を司って居たことによるとされています。
御祭神は、興津彦命。
飯守神社社頭。

鳥居。

鳥居に掲げられた神額。

拝殿前の参道。

小さな手水鉢。

こちらが拝殿。

拝殿正面。

拝殿正面に掲げられた扁額。

別アングルからの拝殿。


そして、こちらが本殿。

拝殿側面には由緒書き。

こちらは社務所ですが、平素は無人。

神社の板碑かと思ったら、詩碑でした。

作者はよく分かりません。
境内にど〜んとそびえる御神木。



そして、こちらが飯守神社の御朱印。

本務社の菅原神社にて拝受いたしました。
この日は、町田市に出かけました。
広衿神明社をあとにして、向かった先は......................飯守神社。
飯守神社は、町田市真光寺町に鎮座する神社です。
領主である飯田次郎右衛門高家・観泉寺法印俊誉が飯森明神と称して、
慶安3年(1650年)に創建、文化7年(1810年)に遷座再建、
明治4年に飯守神社と改めたとされ、大正2年に境内社の神武天皇神明社、
諏訪神社、金毘羅神社、秋葉大権現、道了大権現、八雲神社、八坂神社、
日吉神社、東照宮を合祀したとされています。
なお、社号の「いいもり」は、武蔵国総社大国魂神社の例大祭時の献饌之儀に
御食を司って居たことによるとされています。
御祭神は、興津彦命。
飯守神社社頭。

鳥居。

鳥居に掲げられた神額。

拝殿前の参道。

小さな手水鉢。

こちらが拝殿。

拝殿正面。

拝殿正面に掲げられた扁額。

別アングルからの拝殿。


そして、こちらが本殿。

拝殿側面には由緒書き。

こちらは社務所ですが、平素は無人。

神社の板碑かと思ったら、詩碑でした。

作者はよく分かりません。
境内にど〜んとそびえる御神木。



そして、こちらが飯守神社の御朱印。

本務社の菅原神社にて拝受いたしました。
2019/01/21 Mon. 00:00 |
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御朱印巡り...................広袴神明社 (2018年12月8日)(東京都町田市)
12月8日
この日は、東京都下の町田市、そして神奈川県の相模原市へと出かけました。
まずは、町田市。
町田市に鎮座する菅原神社。
その兼務社は9社あり、鎮座している場所から
『 鶴川9社 』と呼ばれたりしています。
その『鶴川9社』を順に巡った参拝しているわけですが
今までに6社を巡り終え、残すは3社となりました。
その内の1社が、広袴神明社になります。
広袴神明社は、町田市広袴町に鎮座する神社です。
創建の年代は明らかではないが、嘉永7年(1854年)の「村差出明細帳」に神明社とあり、
『風土記稿』に小社の儀故旧来より神主無く、村内妙全院(別当)で守護していたとあります。
昭和22年氏子の労力奉仕により山を切り開き、現在の地に本殿覆宮、幣殿(洗心舎)、拝殿を建立して、
昭和24年十11月に遷宮祭並竣功奉祝祭が斎行されたそうです。
御祭神は、天照大御神。
駐車場がなく、車を停める場所を探すのが大変。
こちらが、社号標。

社号標の近くには庚申供養塔。

かなり、神仏の習合は色濃かったようです。
町田市指定の緑地の中に神明社は鎮座しているようです。

裏を返せば、神明社が鎮座していたから、
あまり手の入らない緑地が残されていたのかもしれない。
畑の脇を通る参道。

参道と言うよりは農道(畑の畦道)。
鳥居が先に見えてきました。

鳥居が見えてくると、参道っていう感じがしますね。

こちらが、鳥居。

鳥居の先は石段。
その石段を上がれば社殿です。

境内の狛犬。


拝殿。

拝殿正面。

別アングルからの拝殿。


拝殿背後の幣殿。

そして、本殿覆宮。

拝殿脇には石祠も建ち並ぶ。


拝殿壁面には由緒書き。

そして。境内の御神木。


こちらが、広袴神明社の御朱印。

本務社の菅原神社にて拝受しました。
この日は、東京都下の町田市、そして神奈川県の相模原市へと出かけました。
まずは、町田市。
町田市に鎮座する菅原神社。
その兼務社は9社あり、鎮座している場所から
『 鶴川9社 』と呼ばれたりしています。
その『鶴川9社』を順に巡った参拝しているわけですが
今までに6社を巡り終え、残すは3社となりました。
その内の1社が、広袴神明社になります。
広袴神明社は、町田市広袴町に鎮座する神社です。
創建の年代は明らかではないが、嘉永7年(1854年)の「村差出明細帳」に神明社とあり、
『風土記稿』に小社の儀故旧来より神主無く、村内妙全院(別当)で守護していたとあります。
昭和22年氏子の労力奉仕により山を切り開き、現在の地に本殿覆宮、幣殿(洗心舎)、拝殿を建立して、
昭和24年十11月に遷宮祭並竣功奉祝祭が斎行されたそうです。
御祭神は、天照大御神。
駐車場がなく、車を停める場所を探すのが大変。
こちらが、社号標。

社号標の近くには庚申供養塔。

かなり、神仏の習合は色濃かったようです。
町田市指定の緑地の中に神明社は鎮座しているようです。

裏を返せば、神明社が鎮座していたから、
あまり手の入らない緑地が残されていたのかもしれない。
畑の脇を通る参道。

参道と言うよりは農道(畑の畦道)。
鳥居が先に見えてきました。

鳥居が見えてくると、参道っていう感じがしますね。

こちらが、鳥居。

鳥居の先は石段。
その石段を上がれば社殿です。

境内の狛犬。


拝殿。

拝殿正面。

別アングルからの拝殿。


拝殿背後の幣殿。

そして、本殿覆宮。

拝殿脇には石祠も建ち並ぶ。


拝殿壁面には由緒書き。

そして。境内の御神木。


こちらが、広袴神明社の御朱印。

本務社の菅原神社にて拝受しました。
2019/01/20 Sun. 15:00 |
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御朱印巡り...............三輪熊野神社(2018年10月7日)(東京都町田市)
10月7日
この日は、午前中は相模原市の神社の御朱印巡り。
午後からは町田市の神社の御朱印巡りです。
三輪椙山神社をあとにして、向かった先は...............三輪熊野神社。
三輪熊野は、町田市三輪に鎮座する神社です。
伝承によれば、元慶元年(877)大和國の城上郡三輪の里より勧請したとされ、
明和4年(1767年)に社殿造営され、鎮守の神、氏子の崇敬の的となりました。
その後一時荒廃しましたが、嘉永7年(1854年)石像の三尊仏(社宝として現存)を造立して、
再建を図ったとされています。
御祭神は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと) 伊邪那美命(いざなみのみこと)
こちらが、社号標。

鳥居。

鳥居に掲げられた神額。

社号標脇に建つ説明板。

こちらによれば、熊野神社の本殿は
町田市の文化財に指定されているようです。
そして、その隣には由緒書き。

再び、鳥居周辺。

鳥居の先には、手水舎。

定番の龍の吐出口。

拝殿前には、狛犬。


こちらが、拝殿。

拝殿正面。


別アングルからの拝殿。


こちらが、本殿。

本殿脇にも、小さな狛犬と大黒天?
(小槌が無いから違うかも?)

こちらは、神輿庫。

中には神輿が奉納されています。

かつての御神木の跡でしょうか?

この一画は神聖化されたような雰囲気。
こちらが、現在の御神木。



記念碑群。

神仏習合時代の名残りの庚申塔群。



こちらが、社務所。

普段は無人の神社で、原町田の菅原神社の兼務社となっています。
菅原神社にて兼務する旧・鶴川村9社の1社です。
こちらが、三輪熊野神社の御朱印。

本務社の菅原神社にて拝受しました。
この日は、午前中は相模原市の神社の御朱印巡り。
午後からは町田市の神社の御朱印巡りです。
三輪椙山神社をあとにして、向かった先は...............三輪熊野神社。
三輪熊野は、町田市三輪に鎮座する神社です。
伝承によれば、元慶元年(877)大和國の城上郡三輪の里より勧請したとされ、
明和4年(1767年)に社殿造営され、鎮守の神、氏子の崇敬の的となりました。
その後一時荒廃しましたが、嘉永7年(1854年)石像の三尊仏(社宝として現存)を造立して、
再建を図ったとされています。
御祭神は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと) 伊邪那美命(いざなみのみこと)
こちらが、社号標。

鳥居。

鳥居に掲げられた神額。

社号標脇に建つ説明板。

こちらによれば、熊野神社の本殿は
町田市の文化財に指定されているようです。
そして、その隣には由緒書き。

再び、鳥居周辺。

鳥居の先には、手水舎。

定番の龍の吐出口。

拝殿前には、狛犬。


こちらが、拝殿。

拝殿正面。


別アングルからの拝殿。


こちらが、本殿。

本殿脇にも、小さな狛犬と大黒天?
(小槌が無いから違うかも?)

こちらは、神輿庫。

中には神輿が奉納されています。

かつての御神木の跡でしょうか?

この一画は神聖化されたような雰囲気。
こちらが、現在の御神木。



記念碑群。

神仏習合時代の名残りの庚申塔群。



こちらが、社務所。

普段は無人の神社で、原町田の菅原神社の兼務社となっています。
菅原神社にて兼務する旧・鶴川村9社の1社です。
こちらが、三輪熊野神社の御朱印。

本務社の菅原神社にて拝受しました。
2018/11/16 Fri. 15:00 |
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御朱印巡り...............三輪椙山神社(2018年10月7日)(東京都町田市)
10月7日
この日は、午前中は相模原市の神社の御朱印巡り。
午後からは町田市の神社の御朱印巡りです。
金井八幡神社をあとにして、向かった先は...............三輪椙山神社。
三輪椙山神社は、町田市三輪に鎮座する神社です。
元慶元年(877年)、大和国の三輪の里(現奈良県磯城郡大三輪町)に鎮座する
大神三輪神社の御神体である秀麗な三輪山に、この附近の山容がよく似ているところから
勧請したとの伝承があるとされています。
武相地区に数多く鎮座する杉山社の中でも「椙」の字を使う杉山社は
この椙山神社だけだといわれています。
御祭神は、日本武尊、大物主命、意富斗能地神。
こちらが、椙山神社の社号標。

一の鳥居。

一の鳥居に掲げられた神額。

参道口(一の鳥居脇)には庚申塔。

神仏習合の名残が強し。
参道の由緒書き。

参道の狛犬。



こちらは、二の鳥居。

二の鳥居先には手水舎。

定番の龍の吐出口。

こちらが、拝殿。

拝殿正面。

別アングルからの拝殿。


そして、こちらが本殿。

本殿脇には、古い手水鉢。

こちらは、神楽殿。

神輿庫。

境内社・西谷戸稲荷社。

境内社の神額。

近くには、石祠。

誰も居ない、静かな境内。


社務所は無人。

原町田の菅原神社が本務社となっています。
こちらが、美輪杉山神社の御朱印。

本務社の菅原神社にて拝受しました。
この日は、午前中は相模原市の神社の御朱印巡り。
午後からは町田市の神社の御朱印巡りです。
金井八幡神社をあとにして、向かった先は...............三輪椙山神社。
三輪椙山神社は、町田市三輪に鎮座する神社です。
元慶元年(877年)、大和国の三輪の里(現奈良県磯城郡大三輪町)に鎮座する
大神三輪神社の御神体である秀麗な三輪山に、この附近の山容がよく似ているところから
勧請したとの伝承があるとされています。
武相地区に数多く鎮座する杉山社の中でも「椙」の字を使う杉山社は
この椙山神社だけだといわれています。
御祭神は、日本武尊、大物主命、意富斗能地神。
こちらが、椙山神社の社号標。

一の鳥居。

一の鳥居に掲げられた神額。

参道口(一の鳥居脇)には庚申塔。

神仏習合の名残が強し。
参道の由緒書き。

参道の狛犬。



こちらは、二の鳥居。

二の鳥居先には手水舎。

定番の龍の吐出口。

こちらが、拝殿。

拝殿正面。

別アングルからの拝殿。


そして、こちらが本殿。

本殿脇には、古い手水鉢。

こちらは、神楽殿。

神輿庫。

境内社・西谷戸稲荷社。

境内社の神額。

近くには、石祠。

誰も居ない、静かな境内。


社務所は無人。

原町田の菅原神社が本務社となっています。
こちらが、美輪杉山神社の御朱印。

本務社の菅原神社にて拝受しました。
2018/11/16 Fri. 11:00 |
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御朱印巡り...............金井八幡神社(2018年10月7日)(東京都町田市)
10月7日
この日は、午前中に相模原市の神社の御朱印巡り。
午後からは、町田市の神社の御朱印巡りです。
成瀬杉山神社をあとにして、向かった先は.....................金井八幡神社。
金井八幡神社は、町田市金井に鎮座する神社です。
創建時期は不詳ですが、古くから旧・金井村の鎮守として、
この地域の人々の信仰を集め、現在も金井地区の唯一の氏神として、
信仰を集めているとされています。
また、金井の文化史跡のひとつとして継承もされています。
御祭神は、八幡神=応神天皇(第15代天皇)。
こちらが、社頭。
ここから参道が始まります。

参道口には、何故かお地蔵さん(子育て地蔵堂)。

石段を上がり、参道を進みます。

気になる看板。

犬の散歩の禁止ではないようです。
ホッとひと安心。
マナーはしっかり守りましょう。
由緒案内板。

こちらは、一の鳥居。

鳥居に掲げられた神額。

参道を進めば、二の鳥居。

表参道の手水鉢。

この先に社殿があります。

社殿が見えてきました。

狛犬。

拝殿正面。



拝殿にて、二礼 二拍 一礼 のお詣りをします。
せっかくだから、 びいすけ もお詣りして下さい。

別アングルからの拝殿。


そして、こちらが本殿。

境内社の秋葉神社。

御神木。

まだまだ幼い木。
長い時間をかけて、じっくり育っていくのでしょう。
叶い石。

一つ持ち帰って、願いを込めるそうです。
こちらは、西参道の手水鉢。

境内には、土俵。

奉納相撲が執り行われるのでしょう。
神楽殿。

神楽殿の左側部は社務所ですが、普段は無人。
毎月、第一日曜日のみ社殿が開き、氏子さんたちが集まります。
この日が、その第一日曜日。
『金井はやし連』と記された舞台。

金井八幡神社に伝わる『金井獅子舞』は、
町田市の無形民俗文化財に指定されていて
『金井はやし連』の方々がそれを継承されているようです。
こちらが、金井八幡神社の御朱印。

普段は無人の神社で、菅原神社の兼務社ですが(旧・鶴川村9社の1社です)
毎月、第1日曜日のみ社殿が開き、氏子さんが集まります。
書き置き対応になりますが、この日に御朱印が授与所で拝受出来るようです。
これで、この日に町田市に来た二つ目の目的が達成出来ました。
この日は、午前中に相模原市の神社の御朱印巡り。
午後からは、町田市の神社の御朱印巡りです。
成瀬杉山神社をあとにして、向かった先は.....................金井八幡神社。
金井八幡神社は、町田市金井に鎮座する神社です。
創建時期は不詳ですが、古くから旧・金井村の鎮守として、
この地域の人々の信仰を集め、現在も金井地区の唯一の氏神として、
信仰を集めているとされています。
また、金井の文化史跡のひとつとして継承もされています。
御祭神は、八幡神=応神天皇(第15代天皇)。
こちらが、社頭。
ここから参道が始まります。

参道口には、何故かお地蔵さん(子育て地蔵堂)。

石段を上がり、参道を進みます。

気になる看板。

犬の散歩の禁止ではないようです。
ホッとひと安心。
マナーはしっかり守りましょう。
由緒案内板。

こちらは、一の鳥居。

鳥居に掲げられた神額。

参道を進めば、二の鳥居。

表参道の手水鉢。

この先に社殿があります。

社殿が見えてきました。

狛犬。

拝殿正面。



拝殿にて、二礼 二拍 一礼 のお詣りをします。
せっかくだから、 びいすけ もお詣りして下さい。

別アングルからの拝殿。


そして、こちらが本殿。

境内社の秋葉神社。

御神木。

まだまだ幼い木。
長い時間をかけて、じっくり育っていくのでしょう。
叶い石。

一つ持ち帰って、願いを込めるそうです。
こちらは、西参道の手水鉢。

境内には、土俵。

奉納相撲が執り行われるのでしょう。
神楽殿。

神楽殿の左側部は社務所ですが、普段は無人。
毎月、第一日曜日のみ社殿が開き、氏子さんたちが集まります。
この日が、その第一日曜日。
『金井はやし連』と記された舞台。

金井八幡神社に伝わる『金井獅子舞』は、
町田市の無形民俗文化財に指定されていて
『金井はやし連』の方々がそれを継承されているようです。
こちらが、金井八幡神社の御朱印。

普段は無人の神社で、菅原神社の兼務社ですが(旧・鶴川村9社の1社です)
毎月、第1日曜日のみ社殿が開き、氏子さんが集まります。
書き置き対応になりますが、この日に御朱印が授与所で拝受出来るようです。
これで、この日に町田市に来た二つ目の目的が達成出来ました。
2018/11/16 Fri. 00:00 |
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偶然見つけた学校跡....................南第二小学校跡 (2018年10月7日)(東京都町田市)
10月7日
この日は、東京都の町田市に出かけました。
町田市の神社の御朱印巡りをしていて、訪れた成瀬杉山神社。


その境内で意外モノを見つけてしまいました。
それが、こちら。

碑には、『 南第二小学校発祥の地 』と刻まれています。
碑の裏面には、その沿革と言うべきか?
経緯が刻まれています。

町田市立南第二小学校は、
明治6年成瀬村に東雲寺に「成高学舎」として開校しました。
明治13年成瀬学校と改称。
明治22年成瀬村が金森村、高ヶ坂村、鶴間村、小川村と合併して南村が誕生します。
その後「南村尋常小学校」などの名称を経て,
明治43年校地を現在地に移転しました。
昭和29年南村は町田町と対等合併し新しく町田町となる。
昭和33年町田町、鶴川村、忠生村、堺村が対等合併し
町田市が誕生。町田市立南第二小学校と改称しました。
町田市立南第二小学校は、この地から約300m南側に校舎が建ち
現在も、子供達の学び舎として健在しています。
かつての校地は、現在の杉山神社の境内で, 東雲寺は杉山神社の東側に隣接しています。
一見すると明治期の神仏分離令によって、寺と神社が分かれたように見えますが、
実際には、かつての杉山神社はもっと西側に鎮座していて、
住宅地や道路開発のために、この地に遷宮されたものです。
すなわち、かつての学校跡が神社になったという、
非常に珍しい経緯となっています。
と言った経緯の中で、この地が南第二小学校発祥の地ということになります。
今から、106年前。
1世紀以上前の事だから、往時のモノは何も在りません。
あの碑が無ければ、誰もこの地が小学校跡地だとは気付かないだろう。

この辺りに、校舎が建っていたのだろうか?

さすがに100年以上も前となると、当日の事を知る人もいないだろう。
この場所が、かつての小学校跡地だと言うことも
ほとんど知られていない事だろう。
せめて私だけは、そんな事を覚えていておこう。
この日は、東京都の町田市に出かけました。
町田市の神社の御朱印巡りをしていて、訪れた成瀬杉山神社。


その境内で意外モノを見つけてしまいました。
それが、こちら。

碑には、『 南第二小学校発祥の地 』と刻まれています。
碑の裏面には、その沿革と言うべきか?
経緯が刻まれています。

町田市立南第二小学校は、
明治6年成瀬村に東雲寺に「成高学舎」として開校しました。
明治13年成瀬学校と改称。
明治22年成瀬村が金森村、高ヶ坂村、鶴間村、小川村と合併して南村が誕生します。
その後「南村尋常小学校」などの名称を経て,
明治43年校地を現在地に移転しました。
昭和29年南村は町田町と対等合併し新しく町田町となる。
昭和33年町田町、鶴川村、忠生村、堺村が対等合併し
町田市が誕生。町田市立南第二小学校と改称しました。
町田市立南第二小学校は、この地から約300m南側に校舎が建ち
現在も、子供達の学び舎として健在しています。
かつての校地は、現在の杉山神社の境内で, 東雲寺は杉山神社の東側に隣接しています。
一見すると明治期の神仏分離令によって、寺と神社が分かれたように見えますが、
実際には、かつての杉山神社はもっと西側に鎮座していて、
住宅地や道路開発のために、この地に遷宮されたものです。
すなわち、かつての学校跡が神社になったという、
非常に珍しい経緯となっています。
と言った経緯の中で、この地が南第二小学校発祥の地ということになります。
今から、106年前。
1世紀以上前の事だから、往時のモノは何も在りません。
あの碑が無ければ、誰もこの地が小学校跡地だとは気付かないだろう。

この辺りに、校舎が建っていたのだろうか?

さすがに100年以上も前となると、当日の事を知る人もいないだろう。
この場所が、かつての小学校跡地だと言うことも
ほとんど知られていない事だろう。
せめて私だけは、そんな事を覚えていておこう。
2018/11/15 Thu. 15:00 |
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御朱印巡り..............成瀬杉山神社(2018年10月7日)(東京都町田市)
10月7日
この日は、相模原市内の神社を巡った後に町田市へ移動。
この日の目的の一つ、成瀬杉山神社にやって来ました。

普段は無人の神社ですが、毎月、第一・第三日曜日が月次祭と言うことで
その日には、本務社の宮司さんや氏子さんが来てお祓いをしているということで
当日は、御朱印が拝受出来ると言うことで、やって来ました。
成瀬杉山神社は、町田市成瀬に鎮座する神社です。
創建は寛文8年(1668年)とされ、
当時の代官福井清兵衛と地頭井戸忠兵衛勝吉の寄進によって
社殿が創建されたそうです。
当初は、別な近隣地に鎮座していましたが、
都市計画道路整備と都営住宅建設のため、
昭和59年(1984年)に現在地に遷宮されました。
現在の社殿は相殿造りで、中央に主宰神の日本武尊、
右に天照皇大神、左に熊野大神を合わせ奉斎されています。
御祭神は、日本武尊、天照大神、五十猛命、熊野大神。
こちらが、成瀬杉山神社の社号標。

社頭。

鳥居。

鳥居の近くには由緒書き。

手水舎。

拝殿。

拝殿正面。

別アングルからの拝殿。


そして、こちらが本殿。

拝殿前の狛犬。


こちらが、授与所。

中に居たのは氏子さんでしょうか?
書き置き対応ですが、授与所にて御朱印を拝受する事が出来ます。
そして、成瀬杉山神社の御朱印がこちら。

月に2回しか拝受するチャンスがない成瀬杉山神社の御朱印。
何とか拝受してする事が出来ました。
実は、この杉山神社というのが曲者で
旧武蔵国における式内社の一社とされ、
その論社とされる神社は
現在の神奈川県横浜市を中心に川崎市、
東京都町田市、稲城市などに数十社存在すると言う。
先人の方には、この杉山神社巡りにハマってしまった人も言う。
かく言う私も、これで2社目。
ハマっちゃうかな........?(笑)
この日は、相模原市内の神社を巡った後に町田市へ移動。
この日の目的の一つ、成瀬杉山神社にやって来ました。

普段は無人の神社ですが、毎月、第一・第三日曜日が月次祭と言うことで
その日には、本務社の宮司さんや氏子さんが来てお祓いをしているということで
当日は、御朱印が拝受出来ると言うことで、やって来ました。
成瀬杉山神社は、町田市成瀬に鎮座する神社です。
創建は寛文8年(1668年)とされ、
当時の代官福井清兵衛と地頭井戸忠兵衛勝吉の寄進によって
社殿が創建されたそうです。
当初は、別な近隣地に鎮座していましたが、
都市計画道路整備と都営住宅建設のため、
昭和59年(1984年)に現在地に遷宮されました。
現在の社殿は相殿造りで、中央に主宰神の日本武尊、
右に天照皇大神、左に熊野大神を合わせ奉斎されています。
御祭神は、日本武尊、天照大神、五十猛命、熊野大神。
こちらが、成瀬杉山神社の社号標。

社頭。

鳥居。

鳥居の近くには由緒書き。

手水舎。

拝殿。

拝殿正面。

別アングルからの拝殿。


そして、こちらが本殿。

拝殿前の狛犬。


こちらが、授与所。

中に居たのは氏子さんでしょうか?
書き置き対応ですが、授与所にて御朱印を拝受する事が出来ます。
そして、成瀬杉山神社の御朱印がこちら。

月に2回しか拝受するチャンスがない成瀬杉山神社の御朱印。
何とか拝受してする事が出来ました。
実は、この杉山神社というのが曲者で
旧武蔵国における式内社の一社とされ、
その論社とされる神社は
現在の神奈川県横浜市を中心に川崎市、
東京都町田市、稲城市などに数十社存在すると言う。
先人の方には、この杉山神社巡りにハマってしまった人も言う。
かく言う私も、これで2社目。
ハマっちゃうかな........?(笑)
2018/11/15 Thu. 00:00 |
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再訪...............相原諏訪神社(2018年10月7日)(東京都町田市)
10月7日
この日は、町田市に予定がありましたが
その前に相模原市の神社の御朱印巡りをしていました。
相模原市のは意外に広く、緑区ともなると位置的に
東京の八王子市や町田市に隣接していたりします。
津久井中野神社をあとにして、向かった先は..........相原諏訪神社。
相原諏訪神社は、町田市相原町に鎮座する神社です。
実は、こちらの諏訪神社に訪れるのは2回目になります。
( 前回の訪問記事は こちら )
前回、宮司さんが不在だったため御朱印を拝受する事が出来ませんでした。
相模原市の緑区の神社を巡っていて、すぐ近くを通ったため
駄目もとを覚悟の上で、立ち寄ってみました。
相原諏訪神社は、養和元年(1181年)、信州(長野県)下諏訪大社を
丸山の地に勧請し、相原山大明神と称したのが始まりとされています。
社号標。

参道口の一の鳥居。

こちらは、二の鳥居。

拝殿。

拝殿正面

拝殿正面の扁額。

この日は、たまたま七・五・三のお詣りに来られた方が居て
宮司さんがお祓いをしていました。

別アングルからの拝殿。


こちらは、授与所。

七・五・三のお参りとお祓いが終わるのを待って
御朱印をお願いしました。
こちらが、社務所。

社務所の中では、宮司さんが墨書き中。

こちらが、相原諏訪神社の御朱印。

あまり、知れ渡っていないのか?
ネットで検索しても、こちらの神社の御朱印にはヒットしない。
ある意味、貴重な御朱印になるんだろうか...............?
この日は、町田市に予定がありましたが
その前に相模原市の神社の御朱印巡りをしていました。
相模原市のは意外に広く、緑区ともなると位置的に
東京の八王子市や町田市に隣接していたりします。
津久井中野神社をあとにして、向かった先は..........相原諏訪神社。
相原諏訪神社は、町田市相原町に鎮座する神社です。
実は、こちらの諏訪神社に訪れるのは2回目になります。
( 前回の訪問記事は こちら )
前回、宮司さんが不在だったため御朱印を拝受する事が出来ませんでした。
相模原市の緑区の神社を巡っていて、すぐ近くを通ったため
駄目もとを覚悟の上で、立ち寄ってみました。
相原諏訪神社は、養和元年(1181年)、信州(長野県)下諏訪大社を
丸山の地に勧請し、相原山大明神と称したのが始まりとされています。
社号標。

参道口の一の鳥居。

こちらは、二の鳥居。

拝殿。

拝殿正面

拝殿正面の扁額。

この日は、たまたま七・五・三のお詣りに来られた方が居て
宮司さんがお祓いをしていました。

別アングルからの拝殿。


こちらは、授与所。

七・五・三のお参りとお祓いが終わるのを待って
御朱印をお願いしました。
こちらが、社務所。

社務所の中では、宮司さんが墨書き中。

こちらが、相原諏訪神社の御朱印。

あまり、知れ渡っていないのか?
ネットで検索しても、こちらの神社の御朱印にはヒットしない。
ある意味、貴重な御朱印になるんだろうか...............?
2018/11/14 Wed. 00:00 |
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御朱印巡り...............南大谷天神社 (2018年8月9日)(東京都町田市)
8月9日
この日は、実家のある八王子周辺の神社巡り。
御朱印巡りです。
大蔵春日神社をあとにして、向かった先は...............南大谷天神社。
南大谷天神社は、町田市南大谷に鎮座する神社です。
南大谷天神社は正保2年(1745年)、五十嵐豊前守勝春の末男五十嵐次郎左衛門が
大谷村の村長となり、御神像を島山屋法春に造らせ、
天満宮を鎮守として奉安した事が始まりとされています。
享保5年(1720年)には、神像を修飾したとされ、
本町田菅原神社、町田天満宮と共に町田三天神の一つとされています。
境内には、別当寺であった南松寺の遺構の一つである観音堂が残されています。
御祭神は、菅原道真公、宇迦乃御魂命、大山咋命。
こちらが、社号標。

参道口には由緒書き。

鳥居。

鳥居に掲げられた神額。

参道を進みましょう。

この石段の先が社殿。

石段前には強面の狛犬。


石段を上がれば、手水舎。

こちらが、拝殿。

拝殿前の狛犬。


狛犬と言うより、猿に見えてしまうのは気のせい?
拝殿正面。

別アングルからの拝殿。


そして、こちらが本殿。


南大谷天神社の本殿は、町田市の文化財に指定されているようです。

こちらは、神楽殿。

境内社・稲荷神社。

稲荷神社には、古い手水鉢。

こちらが、観音堂。

南松寺の遺構の一つです。
南松寺について触れている説明板。

南松寺虚無僧の碑。

そして、虚無僧の墓。

参道の庚申塚と青面金剛像。

神仏習合の名残りがかなり残っています。
境内の記念碑。

宝物殿。


ひっそりとした境内。


こちらが、社務所。

普段は無人。
菅原神社にて兼務されています。
こちらが、南大谷天神社の御朱印。

書き置きの御朱印ですが、本務社の菅原神社にて拝受しました。
こちらの南大谷天神社も鶴川地区9社の1社となっています。
この日は、実家のある八王子周辺の神社巡り。
御朱印巡りです。
大蔵春日神社をあとにして、向かった先は...............南大谷天神社。
南大谷天神社は、町田市南大谷に鎮座する神社です。
南大谷天神社は正保2年(1745年)、五十嵐豊前守勝春の末男五十嵐次郎左衛門が
大谷村の村長となり、御神像を島山屋法春に造らせ、
天満宮を鎮守として奉安した事が始まりとされています。
享保5年(1720年)には、神像を修飾したとされ、
本町田菅原神社、町田天満宮と共に町田三天神の一つとされています。
境内には、別当寺であった南松寺の遺構の一つである観音堂が残されています。
御祭神は、菅原道真公、宇迦乃御魂命、大山咋命。
こちらが、社号標。

参道口には由緒書き。

鳥居。

鳥居に掲げられた神額。

参道を進みましょう。

この石段の先が社殿。

石段前には強面の狛犬。


石段を上がれば、手水舎。

こちらが、拝殿。

拝殿前の狛犬。


狛犬と言うより、猿に見えてしまうのは気のせい?
拝殿正面。

別アングルからの拝殿。


そして、こちらが本殿。


南大谷天神社の本殿は、町田市の文化財に指定されているようです。

こちらは、神楽殿。

境内社・稲荷神社。

稲荷神社には、古い手水鉢。

こちらが、観音堂。

南松寺の遺構の一つです。
南松寺について触れている説明板。

南松寺虚無僧の碑。

そして、虚無僧の墓。

参道の庚申塚と青面金剛像。

神仏習合の名残りがかなり残っています。
境内の記念碑。

宝物殿。


ひっそりとした境内。


こちらが、社務所。

普段は無人。
菅原神社にて兼務されています。
こちらが、南大谷天神社の御朱印。

書き置きの御朱印ですが、本務社の菅原神社にて拝受しました。
こちらの南大谷天神社も鶴川地区9社の1社となっています。
2018/09/30 Sun. 00:00 |
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御朱印巡り...............大蔵春日神社 (2018年8月9日)(東京都町田市)
8月9日
この日は、実家のある八王子周辺の神社巡り。
御朱印巡りです。
能ヶ谷神社をあとにして、向かった先は.............大蔵春日神社。
大蔵春日神社は、町田市大蔵町に鎮座する神社です。
大蔵春日神社は、蔵福寺法印頼盛が春日大社を勧請して、
宝永4年(1707年)に創建したとされています。
江戸時代には、幕府より社領8石の御朱印状を拝領したと言うことです。
明治43年に打越の白山神社、東方の八坂神社、中程の八幡神社、住吉の住吉神社、
東方の稲荷神社、諏訪神社、井ノ花の稲荷神社の七社を合祀したとされています。
御祭神は、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)
比売神(ヒメガミ)
参道口の一の鳥居。

由緒書き。

二の鳥居。

二の鳥居に掲げられた神額。

ニノ鳥居の奥には狛犬。


手水舎。

こちらが、拝殿。


拝殿正面。

拝殿正面の彫刻。

別アングルからの拝殿。


そして、こちらが本殿。

拝殿前には狛犬?
いや、違う。
これは随身像。


町田市で唯一現存する随身像らしい。
こちらは、震災モニュメント。

大正時代の関東大震災にて倒壊した石鳥居。
それまで手付かずになっていた壊れた鳥居を
平成25年に整備したらしい。
そのことに触れている説明板。

境内社・稲荷社。

境内社・弁天社。

境内社。



境内の石灯籠もかなりの年代モノ。
転倒防止の金網もしっかりとされている。


こちらが、授与所。

普段は無人の神社と聞いていましたが、今日は開いている。
そして、中には氏子総代さん(?)が居ました。
実は、この日氏子さん達か集まって境内の掃除、草取りをされていました。

なるほど、定期的にしっかりと管理されているから
荒れ果てた感が無い神社なんですね。
授与所にて拝受した御朱印。


いずれも書き置きのモノですが、
元々こちらの神社は書き置き対応となってます。
ちなみに、こちらの神社も鶴川地区9社の1社。
菅原神社の兼務社となっています。
この日は、実家のある八王子周辺の神社巡り。
御朱印巡りです。
能ヶ谷神社をあとにして、向かった先は.............大蔵春日神社。
大蔵春日神社は、町田市大蔵町に鎮座する神社です。
大蔵春日神社は、蔵福寺法印頼盛が春日大社を勧請して、
宝永4年(1707年)に創建したとされています。
江戸時代には、幕府より社領8石の御朱印状を拝領したと言うことです。
明治43年に打越の白山神社、東方の八坂神社、中程の八幡神社、住吉の住吉神社、
東方の稲荷神社、諏訪神社、井ノ花の稲荷神社の七社を合祀したとされています。
御祭神は、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)
比売神(ヒメガミ)
参道口の一の鳥居。

由緒書き。

二の鳥居。

二の鳥居に掲げられた神額。

ニノ鳥居の奥には狛犬。


手水舎。

こちらが、拝殿。


拝殿正面。

拝殿正面の彫刻。

別アングルからの拝殿。


そして、こちらが本殿。

拝殿前には狛犬?
いや、違う。
これは随身像。


町田市で唯一現存する随身像らしい。
こちらは、震災モニュメント。

大正時代の関東大震災にて倒壊した石鳥居。
それまで手付かずになっていた壊れた鳥居を
平成25年に整備したらしい。
そのことに触れている説明板。

境内社・稲荷社。

境内社・弁天社。

境内社。



境内の石灯籠もかなりの年代モノ。
転倒防止の金網もしっかりとされている。


こちらが、授与所。

普段は無人の神社と聞いていましたが、今日は開いている。
そして、中には氏子総代さん(?)が居ました。
実は、この日氏子さん達か集まって境内の掃除、草取りをされていました。

なるほど、定期的にしっかりと管理されているから
荒れ果てた感が無い神社なんですね。
授与所にて拝受した御朱印。


いずれも書き置きのモノですが、
元々こちらの神社は書き置き対応となってます。
ちなみに、こちらの神社も鶴川地区9社の1社。
菅原神社の兼務社となっています。
2018/09/29 Sat. 00:00 |
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御朱印巡り...............能ヶ谷神社 (2018年8月9日)(東京都町田市)
8月9日
この日は、実家のある八王子周辺の神社巡り。
御朱印巡りとなりました。
元八王子八幡神社前をあとにして、町田市へと向かいます。
向かった先は、...............能ヶ谷神社。
能ヶ谷神社は、町田市能ヶ谷に鎮座する神社です。
能ヶ谷神社は、東照宮と称して正保年間(1644年〜1647年)に創建されたとされています。
明治10年には村社に列格したとされ、大正3年に谷戸の住吉神社(文治六年創立)、
下能ヶ谷の天照大神社(応永二年創立)、上能ヶ谷の表谷神社(文明九年創立)、
並びに神明社(創立年代不詳)を合祀して、能ヶ谷神社と改称したとされています。
御祭神は、徳川家康公、天照大神、表筒男命、中筒男命、底筒男命、大山咋神。
参道口。
社号標は見当たらないけれど、由緒書き。

石段を上がって行くと、こんな碑も在りました。

堅牢地神(けんろうじしん)は、仏教における天部の神の1柱で大地を司るそうです。
通常は女神であるが密教では男神と一対とするらしい。
これは、完全に神仏習合の名残りでしょうね。
朱色の一の鳥居。

奥には二の鳥居もみえます。
こちらは、二の鳥居。

さらに石段は続きます。

石段途中にある手水舎。

手水舎の脇にはむき出しの手水鉢。

こちらが、拝殿。

拝殿前の狛犬。


拝殿正面。


拝殿正面に掲げられた扁額。

別アングルからの拝殿。


そして、こちらが本殿。

こちらは、西参道口。

鳥居の先には慰霊碑。

斜面には何やら記念碑も建てられている。

こちらが、社務所。

普段は無人の神社。
同じ町田市の菅原神社が兼務しているそうです。
こちらは、神輿庫でしょうか?

こちらが、能ヶ谷神社の御朱印。

本務社の菅原神社にて拝受しました。
町田市の鶴川地区には、9つの神社がありますが、
いずれも無人の神社。
菅原神社にて兼務しているそうです。
この日は、実家のある八王子周辺の神社巡り。
御朱印巡りとなりました。
元八王子八幡神社前をあとにして、町田市へと向かいます。
向かった先は、...............能ヶ谷神社。
能ヶ谷神社は、町田市能ヶ谷に鎮座する神社です。
能ヶ谷神社は、東照宮と称して正保年間(1644年〜1647年)に創建されたとされています。
明治10年には村社に列格したとされ、大正3年に谷戸の住吉神社(文治六年創立)、
下能ヶ谷の天照大神社(応永二年創立)、上能ヶ谷の表谷神社(文明九年創立)、
並びに神明社(創立年代不詳)を合祀して、能ヶ谷神社と改称したとされています。
御祭神は、徳川家康公、天照大神、表筒男命、中筒男命、底筒男命、大山咋神。
参道口。
社号標は見当たらないけれど、由緒書き。

石段を上がって行くと、こんな碑も在りました。

堅牢地神(けんろうじしん)は、仏教における天部の神の1柱で大地を司るそうです。
通常は女神であるが密教では男神と一対とするらしい。
これは、完全に神仏習合の名残りでしょうね。
朱色の一の鳥居。

奥には二の鳥居もみえます。
こちらは、二の鳥居。

さらに石段は続きます。

石段途中にある手水舎。

手水舎の脇にはむき出しの手水鉢。

こちらが、拝殿。

拝殿前の狛犬。


拝殿正面。


拝殿正面に掲げられた扁額。

別アングルからの拝殿。


そして、こちらが本殿。

こちらは、西参道口。

鳥居の先には慰霊碑。

斜面には何やら記念碑も建てられている。

こちらが、社務所。

普段は無人の神社。
同じ町田市の菅原神社が兼務しているそうです。
こちらは、神輿庫でしょうか?

こちらが、能ヶ谷神社の御朱印。

本務社の菅原神社にて拝受しました。
町田市の鶴川地区には、9つの神社がありますが、
いずれも無人の神社。
菅原神社にて兼務しているそうです。
2018/09/28 Fri. 00:00 |
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相原諏訪神社 (2018年8月9日)(東京都町田市)
8月9日
前日の8月8日から、八王子の実家に来ています。
この日は、16時に びいすけ の通院予定。
それまで時間があるから、八王子周辺の神社巡り。
向かった先は...............相原諏訪神社。
相原諏訪神社は、町田市相原町に鎮座する神社です。
養和元年(1181年)に信州(長野県)下諏訪大社を丸山の地に勧請し、
相原山大明神と称したのが始まりとされています。
元和元年(1615年)山火事のため社殿を焼失しましたが、
元和3年(1618年)再建したそうです。
明治44年に、七国の神明社、大谷神明社、橋本御嶽社、根岸日枝神社を合祀し、
大正2年に境山王社、橋本稲荷社、陽田疱瘡社を合祀したそうです。
御祭神は、建御名方命(たけみなかたのみこと)
天之御中主命
宇迦之御魂命
大巳貴命
少彦名命
安閑天皇。
電柱に一部が隠れていますが、こちらが社号標。

掲示板。

一の鳥居。

愛犬家には見たくはなかった看板。

でも境内立ち入り禁止とは書かれていない。
マナーを守って参拝させてもらいましょう。
参道に建つ由緒書き。

その近くには、説明板。

例祭で奉納される『丸山獅子舞』について触れています。
参道の手水舎。

定番の龍の吐出口。

参道から見上げる御神木。


1週間後に祭礼を控えているようで
境内には祭礼の提灯が飾られています。
こちらが、二の鳥居。

二の鳥居の先には獅子山。


獅子山の狛犬。


湧水を使った手水鉢。

こちらが、拝殿。

拝殿正面。

拝殿正面に掲げられた扁額。

別アングルからの拝殿。

こちらが、本殿。

拝殿前に立てられた例祭の案内。

1週間後に行われるようです。
拝殿前の.............?

これって何て言うんだろう?
まだまだ勉強不足です。
授与所。

社務所。

残念ながら、この日は無人。
以前、宮司さんと連絡を取ったら
普段はこちらに居るような話をでしたが
たまたまこの日は、留守でした。
境内社になるのか?
小さな祠もあります。


古い石灯籠。

拝殿側からの御神木。


御朱印をいただくことの出来る神社と聞いていましたが
残念ながら、宮司さんが不在のため、この日は断念。
まあ、御朱印巡りをしていると、こんな事は多々あります。
次回の訪問時に期待することにいたしましょう。
前日の8月8日から、八王子の実家に来ています。
この日は、16時に びいすけ の通院予定。
それまで時間があるから、八王子周辺の神社巡り。
向かった先は...............相原諏訪神社。
相原諏訪神社は、町田市相原町に鎮座する神社です。
養和元年(1181年)に信州(長野県)下諏訪大社を丸山の地に勧請し、
相原山大明神と称したのが始まりとされています。
元和元年(1615年)山火事のため社殿を焼失しましたが、
元和3年(1618年)再建したそうです。
明治44年に、七国の神明社、大谷神明社、橋本御嶽社、根岸日枝神社を合祀し、
大正2年に境山王社、橋本稲荷社、陽田疱瘡社を合祀したそうです。
御祭神は、建御名方命(たけみなかたのみこと)
天之御中主命
宇迦之御魂命
大巳貴命
少彦名命
安閑天皇。
電柱に一部が隠れていますが、こちらが社号標。

掲示板。

一の鳥居。

愛犬家には見たくはなかった看板。

でも境内立ち入り禁止とは書かれていない。
マナーを守って参拝させてもらいましょう。
参道に建つ由緒書き。

その近くには、説明板。

例祭で奉納される『丸山獅子舞』について触れています。
参道の手水舎。

定番の龍の吐出口。

参道から見上げる御神木。


1週間後に祭礼を控えているようで
境内には祭礼の提灯が飾られています。
こちらが、二の鳥居。

二の鳥居の先には獅子山。


獅子山の狛犬。


湧水を使った手水鉢。

こちらが、拝殿。

拝殿正面。

拝殿正面に掲げられた扁額。

別アングルからの拝殿。

こちらが、本殿。

拝殿前に立てられた例祭の案内。

1週間後に行われるようです。
拝殿前の.............?

これって何て言うんだろう?
まだまだ勉強不足です。
授与所。

社務所。

残念ながら、この日は無人。
以前、宮司さんと連絡を取ったら
普段はこちらに居るような話をでしたが
たまたまこの日は、留守でした。
境内社になるのか?
小さな祠もあります。


古い石灯籠。

拝殿側からの御神木。


御朱印をいただくことの出来る神社と聞いていましたが
残念ながら、宮司さんが不在のため、この日は断念。
まあ、御朱印巡りをしていると、こんな事は多々あります。
次回の訪問時に期待することにいたしましょう。
2018/09/26 Wed. 00:00 |
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御朱印巡り..................小野神社 (2018年7月9日)(東京都町田市)
7月9日
前日から八王子の実家に移動していたこの日は、
夕方からの予定があるため、実家を近くを車でお出かけ。
相模原市のマンホールカードをゲットしたあとは
お隣りの町田市へ移動。
向かった先は.............小野神社。
前日に府中市の小野神社に参拝しに行きました。
ネットで小野神社の事を調べていたら
町田市にも小野神社があり、そちらの御朱印も掲載されていた。
ならば、御参りに行かなきゃ!
小野神社は、町田市小野路町に鎮座する神社です。
古代から鎌倉街道の重要な中継点の一つとされた小野路に
天禄年間(972年頃)に武蔵国司として赴任した小野孝泰(小野篁の7代後の子孫)が、
祖先の小野篁を祀ったのが始まりとされています。
御祭神は、小野篁。
てっきり、多摩市の小野神社、府中市の小野神社と
何か所縁が有るのかな?と思っていましたが、
どうやら関係は無いようですね。
こちらが、小野神社の社号標。

社号標の裏手には、「地神」を祀った石塔。

参道の鳥居。

鳥居の先の石段を上がって社殿へと向かいます。

石段の途中には、由緒書き。

その脇には、手水舎。

石段を上がれば、社殿が目の前に現れます。

お出迎えは1対の狛犬。


こちらが、拝殿。

なぜか、すごいハレーション。
やっぱりカメラは難しい。
拝殿正面。

彫刻も素晴らしい。



拝殿正面に掲げられた扁額。

別アングルからの拝殿。

なぜか、拝殿側面には梵鐘。

こちらが、本殿。

こちらは、社務所のようですが閉まっています。

どうやら、普段は無人の神社のようです。
境内社。


拝殿から下がった場所が広場になっていて
そちらには神楽殿。

その広場の一角のプレハブ小屋。

中には神輿が奉納されています。

拝殿に貼り出されていた宮司さんの連絡先に電話をしてみると
菅原神社に繋がりました。
どうやら、現在は菅原神社の兼務社となっているようです。
こちらが、小野神社の御朱印。

電話応対していただいた菅原神社にて拝受しました。
関連はないけれど、南多摩地区に鎮座する3つの小野神社。
御朱印も無事揃いました。
前日から八王子の実家に移動していたこの日は、
夕方からの予定があるため、実家を近くを車でお出かけ。
相模原市のマンホールカードをゲットしたあとは
お隣りの町田市へ移動。
向かった先は.............小野神社。
前日に府中市の小野神社に参拝しに行きました。
ネットで小野神社の事を調べていたら
町田市にも小野神社があり、そちらの御朱印も掲載されていた。
ならば、御参りに行かなきゃ!
小野神社は、町田市小野路町に鎮座する神社です。
古代から鎌倉街道の重要な中継点の一つとされた小野路に
天禄年間(972年頃)に武蔵国司として赴任した小野孝泰(小野篁の7代後の子孫)が、
祖先の小野篁を祀ったのが始まりとされています。
御祭神は、小野篁。
てっきり、多摩市の小野神社、府中市の小野神社と
何か所縁が有るのかな?と思っていましたが、
どうやら関係は無いようですね。
こちらが、小野神社の社号標。

社号標の裏手には、「地神」を祀った石塔。

参道の鳥居。

鳥居の先の石段を上がって社殿へと向かいます。

石段の途中には、由緒書き。

その脇には、手水舎。

石段を上がれば、社殿が目の前に現れます。

お出迎えは1対の狛犬。


こちらが、拝殿。

なぜか、すごいハレーション。
やっぱりカメラは難しい。
拝殿正面。

彫刻も素晴らしい。



拝殿正面に掲げられた扁額。

別アングルからの拝殿。

なぜか、拝殿側面には梵鐘。

こちらが、本殿。

こちらは、社務所のようですが閉まっています。

どうやら、普段は無人の神社のようです。
境内社。


拝殿から下がった場所が広場になっていて
そちらには神楽殿。

その広場の一角のプレハブ小屋。

中には神輿が奉納されています。

拝殿に貼り出されていた宮司さんの連絡先に電話をしてみると
菅原神社に繋がりました。
どうやら、現在は菅原神社の兼務社となっているようです。
こちらが、小野神社の御朱印。

電話応対していただいた菅原神社にて拝受しました。
関連はないけれど、南多摩地区に鎮座する3つの小野神社。
御朱印も無事揃いました。
2018/09/02 Sun. 00:00 |
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御朱印巡り...............《 菅原神社 》 (2017年12月21日)(東京都町田市)
12月21日
関東の富士見百景巡りをしようと、八王子の実家を出たものの
空がガスって来るのが意外に早く、急遽予定を変更して
町田市内の御朱印巡り。
その第三弾は...............菅原神社。
菅原神社は、学芸の神として広く知られる菅原道真公を主祭神としてお祀りしており、
古くより原町田の町田天満宮、南大谷の天神社とともに町田三天神の一社として
町田市及び周辺の多くの人々から崇敬されてきた神社です。
実は、何年か前に町田市の城址巡りと称して、この菅原神社に訪れた事があります。
菅原神社が鎮座する地は、東京都旧跡『井手の沢古戦場跡』。
十二世紀末、鎌倉に幕府が設置され鎌倉街道が整備されると、
北関東から鎌倉へ通ずる街道の中でも重要な地点となりました。
府中方面からは、丘陵地で起伏がありますが、ここから鎌倉までは
一気に兵が押し下れるからです。
土地の形状から砦の如き城が築かれていたであろうと推測されています。
鎌倉時代の末期、建武2年(1335年)に足利尊氏の弟直義は、
鎌倉幕府再興を図り信州から一路南下した北条時行の軍をこの地で迎撃し、
激しい戦いの末敗れました。
一時鎌倉を占拠した北条時行も20日にして尊氏に滅ぼされてしまいました。
やがて、室町時代にこの地に天神像が奉安され、
寛永7年(1630年)大沢玄藩により新たに天神像が奉安され、
菅原神社が建立されたとされています。
こちらが、菅原神社の社号標。

社号標近くに建つ看板。

祭礼や初詣など混んでいる時以外は、
ペットを連れての参拝は大丈夫のようです。
こちらが菅原神社の鳥居。

立派な朱色の鳥居。
鳥居に掲げられた神額。

社殿へと続く参道。

参道脇の由緒書き。

参道の先は石段。

石段左脇には、境内社の弁天社。

御神木。

歴史のある神社の割には、小さな御神木。
さあ、石段を上がってしゃでに向かいましょう。

石段途中にある手水舎。

こちらも、定番の龍。

石段を上がれば、狛犬がお出迎え。

こちらが拝殿。


拝殿に掲げられた扁額。

神紋は当然、梅の花。

拝殿を別アングルから。


こちらが、本殿。


本殿の鬼瓦。

神楽殿。

参集殿。

御朱印は、参集殿にある授与所でいただく事が出来ます。

何かの社殿かと思ったら、こちらは倉庫。

以前、訪れた時は社殿と参集殿が改築工事中だった。
その時には、授与所だったような気がするんだけど...............
記憶違いかなぁ?
参集殿の脇には、古戦場跡。
一応、菅原神社の境内の一部で境内社が多い。
こちらは、愛宕社。


境内社。

そして、井手の澤 古戦場跡の碑。

碑の脇には説明板。

そして、こちらが菅原神社の御朱印。

御朱印の書き手は女性でした。
シンプルな梅の花の御朱印に達筆な墨書き。
これはこれで、素敵な御朱印です。
関東の富士見百景巡りをしようと、八王子の実家を出たものの
空がガスって来るのが意外に早く、急遽予定を変更して
町田市内の御朱印巡り。
その第三弾は...............菅原神社。
菅原神社は、学芸の神として広く知られる菅原道真公を主祭神としてお祀りしており、
古くより原町田の町田天満宮、南大谷の天神社とともに町田三天神の一社として
町田市及び周辺の多くの人々から崇敬されてきた神社です。
実は、何年か前に町田市の城址巡りと称して、この菅原神社に訪れた事があります。
菅原神社が鎮座する地は、東京都旧跡『井手の沢古戦場跡』。
十二世紀末、鎌倉に幕府が設置され鎌倉街道が整備されると、
北関東から鎌倉へ通ずる街道の中でも重要な地点となりました。
府中方面からは、丘陵地で起伏がありますが、ここから鎌倉までは
一気に兵が押し下れるからです。
土地の形状から砦の如き城が築かれていたであろうと推測されています。
鎌倉時代の末期、建武2年(1335年)に足利尊氏の弟直義は、
鎌倉幕府再興を図り信州から一路南下した北条時行の軍をこの地で迎撃し、
激しい戦いの末敗れました。
一時鎌倉を占拠した北条時行も20日にして尊氏に滅ぼされてしまいました。
やがて、室町時代にこの地に天神像が奉安され、
寛永7年(1630年)大沢玄藩により新たに天神像が奉安され、
菅原神社が建立されたとされています。
こちらが、菅原神社の社号標。

社号標近くに建つ看板。

祭礼や初詣など混んでいる時以外は、
ペットを連れての参拝は大丈夫のようです。
こちらが菅原神社の鳥居。

立派な朱色の鳥居。
鳥居に掲げられた神額。

社殿へと続く参道。

参道脇の由緒書き。

参道の先は石段。

石段左脇には、境内社の弁天社。

御神木。

歴史のある神社の割には、小さな御神木。
さあ、石段を上がってしゃでに向かいましょう。

石段途中にある手水舎。

こちらも、定番の龍。

石段を上がれば、狛犬がお出迎え。

こちらが拝殿。


拝殿に掲げられた扁額。

神紋は当然、梅の花。

拝殿を別アングルから。


こちらが、本殿。


本殿の鬼瓦。

神楽殿。

参集殿。

御朱印は、参集殿にある授与所でいただく事が出来ます。

何かの社殿かと思ったら、こちらは倉庫。

以前、訪れた時は社殿と参集殿が改築工事中だった。
その時には、授与所だったような気がするんだけど...............
記憶違いかなぁ?
参集殿の脇には、古戦場跡。
一応、菅原神社の境内の一部で境内社が多い。
こちらは、愛宕社。


境内社。

そして、井手の澤 古戦場跡の碑。

碑の脇には説明板。

そして、こちらが菅原神社の御朱印。

御朱印の書き手は女性でした。
シンプルな梅の花の御朱印に達筆な墨書き。
これはこれで、素敵な御朱印です。
2018/02/21 Wed. 00:00 |
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御朱印巡り...............《 母智丘神社 》 (2017年12月21日日)(東京都町田市)
12月21日
関東の富士見百景巡りをしようと、八王子の実家を出たものの
空がガスって来るのが意外に早く、急遽予定を変更して
町田市内の御朱印巡り。
その第二弾は...............母智丘神社。
母智丘神社は、緑豊かな樹木と清らかな清水が
こんこんと湧き出し小川となって流れる町田市民憩いの公園・芹が谷公園に隣接していて
豊受姫大神と大歳神を御祭神として祀っている神社です。
社はくぬぎや楓などが茂る大樹に囲まれ静寂なただずまいの地にあり、
境内には七福神・芸術財福の福神様弁財天をお祀りしています。
由緒によれば...............
大正8年、日向国北諸県郡庄内町地内(現在の宮崎県都城市)の
石峰山山頂に鎮座せる母智丘大神の御神徳を感得せし黒木昇、黒木ハナの両人御分霊を勧請し
自宅に奉斎せしが家屋鳴動し畏懼(いく)の念に堪えず社殿を創建し奉鎮座した。
とされています。
実は、この母智丘神社。
今年(平成29年)の元旦に、原町田七福神巡り際に訪れています。
その時はまだ御朱印巡りに興味が無かったから
御朱印を頂くことは無かったんですが...............
今年(平成29年)の秋から、願を掛ける事があって
多くの神社を巡り、お参りして、御朱印を拝領して
無事、最近になって願いが叶ったこともあり、
最近は、御朱印巡りにハマっています。
こちらが、母智丘神社の社号標(?)

小さな鳥居の脇には、まだ年末なのに
もう初詣の幟が立っています。

まあ、神社やお寺にとって、初詣は年に1回の大きなイベントだから
準備に余念がないのでしょう。
こちらは、由緒書き。

手水舎。

こちらは、拝殿。

前回訪れた時は、元旦だったから茅の輪がどぉ〜んと置かれていました。

母智丘神社の提灯。

こちらが、本殿。

境内には、原町田七福神の弁財天。


こちらが、社務所ですが閉まってます。

御朱印は、本殿隣に住まれる宮司さん宅にて頂くことが出来ます。
こちらが、母智丘神社の御朱印。

小さな神社で社務所も閉まっていたから
ひょっとしたら、書き置きの御朱印かな?と思っていたら
御朱印帳に墨書きして頂きました。
関東の富士見百景巡りをしようと、八王子の実家を出たものの
空がガスって来るのが意外に早く、急遽予定を変更して
町田市内の御朱印巡り。
その第二弾は...............母智丘神社。
母智丘神社は、緑豊かな樹木と清らかな清水が
こんこんと湧き出し小川となって流れる町田市民憩いの公園・芹が谷公園に隣接していて
豊受姫大神と大歳神を御祭神として祀っている神社です。
社はくぬぎや楓などが茂る大樹に囲まれ静寂なただずまいの地にあり、
境内には七福神・芸術財福の福神様弁財天をお祀りしています。
由緒によれば...............
大正8年、日向国北諸県郡庄内町地内(現在の宮崎県都城市)の
石峰山山頂に鎮座せる母智丘大神の御神徳を感得せし黒木昇、黒木ハナの両人御分霊を勧請し
自宅に奉斎せしが家屋鳴動し畏懼(いく)の念に堪えず社殿を創建し奉鎮座した。
とされています。
実は、この母智丘神社。
今年(平成29年)の元旦に、原町田七福神巡り際に訪れています。
その時はまだ御朱印巡りに興味が無かったから
御朱印を頂くことは無かったんですが...............
今年(平成29年)の秋から、願を掛ける事があって
多くの神社を巡り、お参りして、御朱印を拝領して
無事、最近になって願いが叶ったこともあり、
最近は、御朱印巡りにハマっています。
こちらが、母智丘神社の社号標(?)

小さな鳥居の脇には、まだ年末なのに
もう初詣の幟が立っています。

まあ、神社やお寺にとって、初詣は年に1回の大きなイベントだから
準備に余念がないのでしょう。
こちらは、由緒書き。

手水舎。

こちらは、拝殿。

前回訪れた時は、元旦だったから茅の輪がどぉ〜んと置かれていました。

母智丘神社の提灯。

こちらが、本殿。

境内には、原町田七福神の弁財天。


こちらが、社務所ですが閉まってます。

御朱印は、本殿隣に住まれる宮司さん宅にて頂くことが出来ます。
こちらが、母智丘神社の御朱印。

小さな神社で社務所も閉まっていたから
ひょっとしたら、書き置きの御朱印かな?と思っていたら
御朱印帳に墨書きして頂きました。
2018/02/20 Tue. 15:00 |
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御朱印巡り...............《 町田天満宮 》 (2017年12月21日)(東京都町田市)
12月21日 町田天神社
この日は、町田市に出かけました。
当初は、快晴の中、富士山が見える場所を巡って行く予定でしたが
小山田緑地公園で、富士山が見えない事が判り、急遽、予定を変更。
町田市に居るんだから、町田市内にて御朱印巡りをすることにしました。
と言うことで、小山田緑地をあとにして
向かった先は...............町田天満宮。
町田天満宮は、町田三天神のうちの一つ(町田天満宮、菅原神社、南大谷天神社)。
天満宮と言う名の通り、菅原道真公を御祭神とする神社です。
いわゆる、学問の神様ですね。
町田村の分村により、原町田が誕生した天正10 年(1582年) 頃の創始と伝わっていますが、
1853年に京都白川殿より「町田天満威徳天神」の社号を賜り、
今日に至っているとされています。
町田駅から徒歩圏という近さもあり、町田市内では参拝客が多い神社の一つです。
昨年の正月の元旦に訪れようと鳥居の近くまで来たのですが、
初詣客が多く、中に入るのに行列が出来ていて、
かなりの時間が掛かりそうなので、諦めて帰った覚えがあります。
こちらが、町田天満宮の社号標。

こちらが鳥居。

見ての通り、町田駅からちょっと歩きますが
JRの跨線橋から天満宮に直接アクセス出来る遊歩道も完備されています。
鳥居をくぐれば、左側には手水舎。

定番の龍。

参道には由緒書き。

臥牛。
天神様と言ったら牛ですね。

菅原道真公と牛との関係は深くて、
『道真公の出生年は丑年である』
『大宰府への左遷時、牛が道真を泣いて見送った』
『道真公園は牛に乗り大宰府へ下った』
『道真公には牛がよくなつき、道真公もまた牛を愛育した』
『牛が刺客から道真を守った』
『道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた』
などと牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在するそうです。
牛は天満宮においては神使(祭神の使者)とされ、
臥牛の像が決まって置かれているそうです。
びいすけ の背後に見えるのが拝殿。

参道の狛犬。

足元にも小さな狛犬。
参道には狛犬が多く建ち並びます。

二対目の狛犬。

三対目の狛犬。

さらには別な臥牛。

こちらが、拝殿。

拝殿に掲げられた扁額。

拝殿には至る所に梅の神紋。



こちらは、町田天満宮恵比寿神。

原町田七福神の恵比寿です。
神楽殿。

神輿殿。

社務所はこちら。

社務所の一角の授与所にて御朱印をいただくことが出来ます。

境内社の出世稲荷。

同じく境内社の稲荷社。

こちらが、町田天満宮の御朱印。

天満宮と言うだけあって、梅の花をあしらった素敵な御朱印です。
この日は、町田市に出かけました。
当初は、快晴の中、富士山が見える場所を巡って行く予定でしたが
小山田緑地公園で、富士山が見えない事が判り、急遽、予定を変更。
町田市に居るんだから、町田市内にて御朱印巡りをすることにしました。
と言うことで、小山田緑地をあとにして
向かった先は...............町田天満宮。
町田天満宮は、町田三天神のうちの一つ(町田天満宮、菅原神社、南大谷天神社)。
天満宮と言う名の通り、菅原道真公を御祭神とする神社です。
いわゆる、学問の神様ですね。
町田村の分村により、原町田が誕生した天正10 年(1582年) 頃の創始と伝わっていますが、
1853年に京都白川殿より「町田天満威徳天神」の社号を賜り、
今日に至っているとされています。
町田駅から徒歩圏という近さもあり、町田市内では参拝客が多い神社の一つです。
昨年の正月の元旦に訪れようと鳥居の近くまで来たのですが、
初詣客が多く、中に入るのに行列が出来ていて、
かなりの時間が掛かりそうなので、諦めて帰った覚えがあります。
こちらが、町田天満宮の社号標。

こちらが鳥居。

見ての通り、町田駅からちょっと歩きますが
JRの跨線橋から天満宮に直接アクセス出来る遊歩道も完備されています。
鳥居をくぐれば、左側には手水舎。

定番の龍。

参道には由緒書き。

臥牛。
天神様と言ったら牛ですね。

菅原道真公と牛との関係は深くて、
『道真公の出生年は丑年である』
『大宰府への左遷時、牛が道真を泣いて見送った』
『道真公園は牛に乗り大宰府へ下った』
『道真公には牛がよくなつき、道真公もまた牛を愛育した』
『牛が刺客から道真を守った』
『道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた』
などと牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在するそうです。
牛は天満宮においては神使(祭神の使者)とされ、
臥牛の像が決まって置かれているそうです。
びいすけ の背後に見えるのが拝殿。

参道の狛犬。

足元にも小さな狛犬。
参道には狛犬が多く建ち並びます。

二対目の狛犬。

三対目の狛犬。

さらには別な臥牛。

こちらが、拝殿。

拝殿に掲げられた扁額。

拝殿には至る所に梅の神紋。



こちらは、町田天満宮恵比寿神。

原町田七福神の恵比寿です。
神楽殿。

神輿殿。

社務所はこちら。

社務所の一角の授与所にて御朱印をいただくことが出来ます。

境内社の出世稲荷。

同じく境内社の稲荷社。

こちらが、町田天満宮の御朱印。

天満宮と言うだけあって、梅の花をあしらった素敵な御朱印です。
2018/02/19 Mon. 00:00 |
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関東の富士見百景 《 小山田緑地 》 (2017年12月21日)(東京都町田市)
12月21日 公休日
前日(12月20日)夜に八王子の実家に用事があったため
この日は、八王子の実家で朝を迎えます。
実家のベランダなら西の空を見ると、
晴れ渡った空の先にちょっぴり富士山が見える。
12月の冬空。晴れ渡れば富士山の見頃となる。
ならば、実家近くの関東の富士見百景を回ってみよう!
と言うことで、向かった先は...............関東の富士見百景 小山田緑地
小山田緑地へは、以前来た事があるけれど
その時は、関東の富士見百景には、さほど興味はありませんでしたが
最近は、富士山の魅力にちょっぴり取り憑かれています。
でも、基本的には富士山とは相性が悪いからなぁ(笑)。
午前9時過ぎ、小山田緑地に到着。

公園案内図もしっかりチェック。

さあ、遊歩道を歩いて、富士山の景勝地へ向かいましょう。

みはらし広場が富士山の景勝地。

こちらは、運動広場。

みはらし広場、この先。
この道を上った所がみはらし広場です。

間もなくみはらし広場。

みはらし広場に到着。

何やら碑が見えます。

近寄ってみましょう。

見覚えのあるプレート。

統一規格の『関東の富士見百景』のプレート。

関東の富士見百景の碑です。
しかし、...............

富士山は見えない。
朝早くは、それほどでも無かったけど
午前9時を回ると、ガスってきて富士山も見えなくなってしまいました。
えっ〜!
残念。
やっぱり、富士山とは相性が悪い。
みはらし台と言うだけあって、眺望はそれなりにある。

空も青く澄み渡っている。
でも富士山の方向はガスっていて、肝心の富士山が見えない

かなり、ガッカリ感に浸かるものの
せっかくだから、小山田緑地を散策することにいたしましょう。
みはらし台地の芝生の匂い嗅ぎに夢中になる びいすけ 。

みはらし台地から緑地内の散策開始です。


枯れ落ち葉の積もる遊歩道。
こう言った道をサクサクと音を立てて歩くのが好き。

広い芝生のある公園ではありがちな看板。

芝生広場もいいけれど、せっかく枯れ落ち葉の散策路(遊歩道)が有るんだから
そっちを堪能しなくっちゃ!

じつは、 びいすけ も枯れ落ち葉の散策路は大好き。

枯れ落ち葉の散策路をしばらく歩くと、やがて池が現れます。

上池、下池と並んでいます。

池には木道。

木道の上を心地よく歩く びいすけ 。
そんなに急がなくても良いから、ゆっくり歩きましょう。

見た感じ、湿性植物が生えそうな感じ。
時期が来たら菖蒲とか咲くのだろうか?

池から駐車場に戻る道は石畳の道。

富士山が見えなかったのは残念でしたが
小山田緑地、枯れ落ち葉の散策路がやっぱり良い公園です。
前日(12月20日)夜に八王子の実家に用事があったため
この日は、八王子の実家で朝を迎えます。
実家のベランダなら西の空を見ると、
晴れ渡った空の先にちょっぴり富士山が見える。
12月の冬空。晴れ渡れば富士山の見頃となる。
ならば、実家近くの関東の富士見百景を回ってみよう!
と言うことで、向かった先は...............関東の富士見百景 小山田緑地
小山田緑地へは、以前来た事があるけれど
その時は、関東の富士見百景には、さほど興味はありませんでしたが
最近は、富士山の魅力にちょっぴり取り憑かれています。
でも、基本的には富士山とは相性が悪いからなぁ(笑)。
午前9時過ぎ、小山田緑地に到着。

公園案内図もしっかりチェック。

さあ、遊歩道を歩いて、富士山の景勝地へ向かいましょう。

みはらし広場が富士山の景勝地。

こちらは、運動広場。

みはらし広場、この先。
この道を上った所がみはらし広場です。

間もなくみはらし広場。

みはらし広場に到着。

何やら碑が見えます。

近寄ってみましょう。

見覚えのあるプレート。

統一規格の『関東の富士見百景』のプレート。

関東の富士見百景の碑です。
しかし、...............

富士山は見えない。
朝早くは、それほどでも無かったけど
午前9時を回ると、ガスってきて富士山も見えなくなってしまいました。
えっ〜!
残念。
やっぱり、富士山とは相性が悪い。
みはらし台と言うだけあって、眺望はそれなりにある。

空も青く澄み渡っている。
でも富士山の方向はガスっていて、肝心の富士山が見えない

かなり、ガッカリ感に浸かるものの
せっかくだから、小山田緑地を散策することにいたしましょう。
みはらし台地の芝生の匂い嗅ぎに夢中になる びいすけ 。

みはらし台地から緑地内の散策開始です。


枯れ落ち葉の積もる遊歩道。
こう言った道をサクサクと音を立てて歩くのが好き。

広い芝生のある公園ではありがちな看板。

芝生広場もいいけれど、せっかく枯れ落ち葉の散策路(遊歩道)が有るんだから
そっちを堪能しなくっちゃ!

じつは、 びいすけ も枯れ落ち葉の散策路は大好き。

枯れ落ち葉の散策路をしばらく歩くと、やがて池が現れます。

上池、下池と並んでいます。

池には木道。

木道の上を心地よく歩く びいすけ 。
そんなに急がなくても良いから、ゆっくり歩きましょう。

見た感じ、湿性植物が生えそうな感じ。
時期が来たら菖蒲とか咲くのだろうか?

池から駐車場に戻る道は石畳の道。

富士山が見えなかったのは残念でしたが
小山田緑地、枯れ落ち葉の散策路がやっぱり良い公園です。
2018/02/18 Sun. 00:00 |
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原町田七福神⑥ 大黒天 《 カリオン広場 》(2017年1月1日)(東京都町田市)
1月1日 公休日
毎年、個人的な1月の恒例行事である七福神巡り。
今年は原町田七福神巡りからスタートです。
「原町田七福神」は、平成21年に祀られた比較的新しいものですが、
既に都内・相模地区で人気の注目コースとなっているようです。
小田急線町田駅の南側に展開する原町田七福神は、
総距離約3キロと短く気軽に廻れ、中央商店街を通るため、
行き帰りにお食事や喫茶、買物が楽しめるのも魅力のひとつです。
しかしながら、犬連れで巡る際は、楽しみが半減しちゃいそうですが
ワンちゃんと一緒に散歩感覚で巡れるのも魅力の一つではないでしょうか...............?
原町田七福神は
弁財天 母智丘神社
毘沙門天 浄運寺
大黒天 カリオン広場
布袋尊 宗保院
福禄寿 町田商工会議所前
寿老人 勝楽寺
恵比寿 町田天満宮
と、このような構成となっています。
それでは、原町田七福神の第6弾。
カリオン広場の 大黒天です。
大黒天は、梵語で摩訶迦羅(マハーカーラ)。
マハー(大いなる)カーラ(黒)を漢訳して大黒天または大黒神といい、
仏教に採りいれられ、悪鬼と戦う勇猛な護法の軍神となる。
もともとは甲を付け、右手に鉾、左手に宝塔を持ち邪鬼か岩座の上にたっていた。
鎌倉時代から室町時代にかけて、字音が大黒と大国が同じ事から、
出雲大社の大国主命と結びつき、現在のような打ちでの小槌を持ち、
大きな袋を担ぎ、福徳円満な純和風な大黒天となったとされています
原町田七福神の大黒天が祀られている(設置されている)のはカリオン広場。
町田街道を小田急線の線路を渡った先、
すなわち、小田急線町田駅前の広場がカリオン広場です。

そんなに広くないカリオン広場。
原町田七福神の幟はすぐ目に入ります。

こちらが、原町田七福神 大黒天。



町田街道に面するカリオン広場。
広場の一角には、絹の道の説明板。

そして、絹の道の碑。

北は、八王子。
南は、横浜。

幕末に横浜が開港すると生糸の輸出が盛んとなり、
八王子に集められた生糸は、片倉・鑓水・を経て町田を通って横浜へ出荷されて行きました。
そして、明治には「絹の道」として栄えた八王子と横浜を結ぶ南北交通の要であったようです。
その絹の道が現在の町田街道です。
これで、原町田七福神の大黒天も制覇。
残すは、原町田七福神の恵比寿のみ。
原町田七福神の恵比寿は、町田天満宮に置かれています。
町田天満宮の前に来て、びっくり!
元旦の初詣客の長蛇の列。

五列横並びでも、かなりの行列。

さすがに犬連れでは無理があります。
町田天満宮で恵比寿を確認出来れば、
原町田七福神巡りは完了なのですが、
この人混みじゃ、それも無理っぽい。
ここは素直に撤退いたしましょう。
まあ、正月気分も抜けて落ち着いた頃にでも
また訪れることにいたしましょう。
毎年、個人的な1月の恒例行事である七福神巡り。
今年は原町田七福神巡りからスタートです。
「原町田七福神」は、平成21年に祀られた比較的新しいものですが、
既に都内・相模地区で人気の注目コースとなっているようです。
小田急線町田駅の南側に展開する原町田七福神は、
総距離約3キロと短く気軽に廻れ、中央商店街を通るため、
行き帰りにお食事や喫茶、買物が楽しめるのも魅力のひとつです。
しかしながら、犬連れで巡る際は、楽しみが半減しちゃいそうですが
ワンちゃんと一緒に散歩感覚で巡れるのも魅力の一つではないでしょうか...............?
原町田七福神は
弁財天 母智丘神社
毘沙門天 浄運寺
大黒天 カリオン広場
布袋尊 宗保院
福禄寿 町田商工会議所前
寿老人 勝楽寺
恵比寿 町田天満宮
と、このような構成となっています。
それでは、原町田七福神の第6弾。
カリオン広場の 大黒天です。
大黒天は、梵語で摩訶迦羅(マハーカーラ)。
マハー(大いなる)カーラ(黒)を漢訳して大黒天または大黒神といい、
仏教に採りいれられ、悪鬼と戦う勇猛な護法の軍神となる。
もともとは甲を付け、右手に鉾、左手に宝塔を持ち邪鬼か岩座の上にたっていた。
鎌倉時代から室町時代にかけて、字音が大黒と大国が同じ事から、
出雲大社の大国主命と結びつき、現在のような打ちでの小槌を持ち、
大きな袋を担ぎ、福徳円満な純和風な大黒天となったとされています
原町田七福神の大黒天が祀られている(設置されている)のはカリオン広場。
町田街道を小田急線の線路を渡った先、
すなわち、小田急線町田駅前の広場がカリオン広場です。

そんなに広くないカリオン広場。
原町田七福神の幟はすぐ目に入ります。

こちらが、原町田七福神 大黒天。



町田街道に面するカリオン広場。
広場の一角には、絹の道の説明板。

そして、絹の道の碑。

北は、八王子。
南は、横浜。

幕末に横浜が開港すると生糸の輸出が盛んとなり、
八王子に集められた生糸は、片倉・鑓水・を経て町田を通って横浜へ出荷されて行きました。
そして、明治には「絹の道」として栄えた八王子と横浜を結ぶ南北交通の要であったようです。
その絹の道が現在の町田街道です。
これで、原町田七福神の大黒天も制覇。
残すは、原町田七福神の恵比寿のみ。
原町田七福神の恵比寿は、町田天満宮に置かれています。
町田天満宮の前に来て、びっくり!
元旦の初詣客の長蛇の列。

五列横並びでも、かなりの行列。

さすがに犬連れでは無理があります。
町田天満宮で恵比寿を確認出来れば、
原町田七福神巡りは完了なのですが、
この人混みじゃ、それも無理っぽい。
ここは素直に撤退いたしましょう。
まあ、正月気分も抜けて落ち着いた頃にでも
また訪れることにいたしましょう。
2017/01/20 Fri. 00:00 |
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原町田七福神⑤ 毘沙門天 《 浄運寺 》(2017年1月1日)(東京都町田市)
1月1日 公休日
毎年、個人的な1月の恒例行事である七福神巡り。
今年は原町田七福神巡りからスタートです。
「原町田七福神」は、平成21年に祀られた比較的新しいものですが、
既に都内・相模地区で人気の注目コースとなっているようです。
小田急線町田駅の南側に展開する原町田七福神は、
総距離約3キロと短く気軽に廻れ、中央商店街を通るため、
行き帰りにお食事や喫茶、買物が楽しめるのも魅力のひとつです。
しかしながら、犬連れで巡る際は、楽しみが半減しちゃいそうですが
ワンちゃんと一緒に散歩感覚で巡れるのも魅力の一つではないでしょうか...............?
原町田七福神は
弁財天 母智丘神社
毘沙門天 浄運寺
大黒天 カリオン広場
布袋尊 宗保院
福禄寿 町田商工会議所前
寿老人 勝楽寺
恵比寿 町田天満宮
と、このような構成となっています。
それでは、原町田七福神の第5弾。
浄運寺の 毘沙門天です。
毘沙門天は、インド出身の神様。
仏教四天王の一人。多聞天とも言われており、
さらに金毘羅の別名もあり、
招福利財・融通招福の神として広く親しまれています。
町田駅からほど近い商店街沿いに浄運寺があります。
こちらが浄運寺。
山門前にて。

浄運寺は、法要山と号します。
日明が天正5年(1577)に開創したとされ、
矢部淡路(法善院日証、慶長5年1600年没)を開基とし、
淡路の後嗣として武藤佐次右衛門(浄運院日徳)とその母(法用院日運)が入寺、
寛永14年(1637)に一寺としたといいます。
山門脇に、原町田七福神の毘沙門天を見つけました。

こちらが、原町田七福神の毘沙門天。


実は、七福神の中では『毘沙門天』が一番好きです。
こちらの毘沙門天は『強さ』よりも『可愛いさ』が溢れています。

こちらが、浄運寺の本堂。

本堂の扁額には、山号の『法要山』の文字。

境内にある野盗塚(武藤塚)

町田市には、こんな民話があります。
野盗塚物語
これは武藤家が名主のときの話である。
ある日、武士の一隊が武藤家を訪ね、御用長持ちを預ってくれるよう申し入れ、
家の中に置いて立ち去った。
その夜半ごろ、下女が勝手にいた時、長持ちの蓋がギギーッと持ち上がった。
下女が主人にこのことを話すと、大石を運ばせ、長持ちの上に置かせたので、
隠れていた武士はなすこともなく、翌日空しく長持ちは運び出された。
しかし武藤家では、いつか必ず復讐に来ると思い、警備を厳重にしていた。
はたして数日の後に、五、六名の武士がのりこんできて主人に面会を求め、
いかめしい様子で金子の借用を申しいれた。
ものかげで待ちかまえていた家人や村役人、剣術指南の侍が、槍、刀を振るって突き入った。
野盗達も大いに防ぎ戦ったが、逃げ出した。
ところが路地や家の角は、大石をゆわえつけた梯子でふさがれていた。
そこへ竹槍を持った村人達も駆けつけ、戦に加わった。
戦はしばらく続いたが、野盗達は枕を並べて倒されてしまった。

野盗塚(武藤塚ともいう)は、この武士達の亡骸を弔い、
塚を築いて供養したものであると言われています。

その野盗塚の隣には、小さな二基の墓石。

一つは、大須賀明の墓。

明治二十年代に三多摩壮士により自由民権運動の政治活動が展開された頃、
政党の対立から鶴川村の壮士十余名により大蔵(鶴川村)の医師である大須賀明は襲撃され殺されました。
大須賀医院は明治の始め、原町田四丁目で開業していたこともあり、尊敬する有志一同により
墓が建てられたそうです。
この事件は、大須賀医師事件と言われています。
そして、もう一つは長岡織部の墓。

長岡織部は、弟子100人以上もいたという神道無念流の剣士だったそうで、
この墓は多くの門人達によって明治24年に建立されたそうです。
境内に置かれた鬼瓦。

そして、こちらが鐘楼。

この浄運寺の境内で、毎年暮れ近くに酉の市が開催されるらしい。
『まちだの酉の市』と言われ、それなりに地元では有名らしい。
知らなかったなぁ...............
毎年、個人的な1月の恒例行事である七福神巡り。
今年は原町田七福神巡りからスタートです。
「原町田七福神」は、平成21年に祀られた比較的新しいものですが、
既に都内・相模地区で人気の注目コースとなっているようです。
小田急線町田駅の南側に展開する原町田七福神は、
総距離約3キロと短く気軽に廻れ、中央商店街を通るため、
行き帰りにお食事や喫茶、買物が楽しめるのも魅力のひとつです。
しかしながら、犬連れで巡る際は、楽しみが半減しちゃいそうですが
ワンちゃんと一緒に散歩感覚で巡れるのも魅力の一つではないでしょうか...............?
原町田七福神は
弁財天 母智丘神社
毘沙門天 浄運寺
大黒天 カリオン広場
布袋尊 宗保院
福禄寿 町田商工会議所前
寿老人 勝楽寺
恵比寿 町田天満宮
と、このような構成となっています。
それでは、原町田七福神の第5弾。
浄運寺の 毘沙門天です。
毘沙門天は、インド出身の神様。
仏教四天王の一人。多聞天とも言われており、
さらに金毘羅の別名もあり、
招福利財・融通招福の神として広く親しまれています。
町田駅からほど近い商店街沿いに浄運寺があります。
こちらが浄運寺。
山門前にて。

浄運寺は、法要山と号します。
日明が天正5年(1577)に開創したとされ、
矢部淡路(法善院日証、慶長5年1600年没)を開基とし、
淡路の後嗣として武藤佐次右衛門(浄運院日徳)とその母(法用院日運)が入寺、
寛永14年(1637)に一寺としたといいます。
山門脇に、原町田七福神の毘沙門天を見つけました。

こちらが、原町田七福神の毘沙門天。


実は、七福神の中では『毘沙門天』が一番好きです。
こちらの毘沙門天は『強さ』よりも『可愛いさ』が溢れています。

こちらが、浄運寺の本堂。

本堂の扁額には、山号の『法要山』の文字。

境内にある野盗塚(武藤塚)

町田市には、こんな民話があります。
野盗塚物語
これは武藤家が名主のときの話である。
ある日、武士の一隊が武藤家を訪ね、御用長持ちを預ってくれるよう申し入れ、
家の中に置いて立ち去った。
その夜半ごろ、下女が勝手にいた時、長持ちの蓋がギギーッと持ち上がった。
下女が主人にこのことを話すと、大石を運ばせ、長持ちの上に置かせたので、
隠れていた武士はなすこともなく、翌日空しく長持ちは運び出された。
しかし武藤家では、いつか必ず復讐に来ると思い、警備を厳重にしていた。
はたして数日の後に、五、六名の武士がのりこんできて主人に面会を求め、
いかめしい様子で金子の借用を申しいれた。
ものかげで待ちかまえていた家人や村役人、剣術指南の侍が、槍、刀を振るって突き入った。
野盗達も大いに防ぎ戦ったが、逃げ出した。
ところが路地や家の角は、大石をゆわえつけた梯子でふさがれていた。
そこへ竹槍を持った村人達も駆けつけ、戦に加わった。
戦はしばらく続いたが、野盗達は枕を並べて倒されてしまった。

野盗塚(武藤塚ともいう)は、この武士達の亡骸を弔い、
塚を築いて供養したものであると言われています。

その野盗塚の隣には、小さな二基の墓石。

一つは、大須賀明の墓。

明治二十年代に三多摩壮士により自由民権運動の政治活動が展開された頃、
政党の対立から鶴川村の壮士十余名により大蔵(鶴川村)の医師である大須賀明は襲撃され殺されました。
大須賀医院は明治の始め、原町田四丁目で開業していたこともあり、尊敬する有志一同により
墓が建てられたそうです。
この事件は、大須賀医師事件と言われています。
そして、もう一つは長岡織部の墓。

長岡織部は、弟子100人以上もいたという神道無念流の剣士だったそうで、
この墓は多くの門人達によって明治24年に建立されたそうです。
境内に置かれた鬼瓦。

そして、こちらが鐘楼。

この浄運寺の境内で、毎年暮れ近くに酉の市が開催されるらしい。
『まちだの酉の市』と言われ、それなりに地元では有名らしい。
知らなかったなぁ...............
2017/01/19 Thu. 00:00 |
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