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び・び・びのびいすけ

ぼく と 父さん と時々 もっちゃん

羽生城址  (2015年9月21日)(茨城県行方市) 

9月21日 公休日

この日は、茨城県の行方市に出かけました。


行方市立 玉造城址をあとにして、
向かった先は...............羽生城址


玉造城址からR355を北上すると、2年前に廃校となった羽生小学校があります。
羽生小学校に隣接する萬福寺の建つ台地一帯が羽生城址と言われています。

そもそもこの辺りは、平安時代の荘園「橘郷」の地であり、
承安4年(1174)佐衛門佐兼押領使高階朝臣(経仲)が宰吏安穏、国土豊饒を祈願して
鹿島社大称宣中臣則親に橘郷を寄進したといい、
中臣氏の一族がこの地に来て、城を築き、羽生氏を名乗ったと言われています。

戦国時代になると、羽生氏は近隣の芹沢氏などと領地を巡り抗争していたようです。
しかしながら、常陸国を掌握しようと画作する佐竹氏により秀吉の小田原の役の功労もあり
常陸国を領有することを認められると鹿島・行方地区の南方三十三館と同様に
天保19年(1590年)佐竹氏の侵攻により、羽生城は落城し廃城となりました。







こちらが羽生城の縄張り図。

      羽生城縄張り図


            (  余胡くんのお城のページ  よりお借りしました  )



実は羽生小学校には、今年の2月に訪れていますし、
城址の一部である萬福寺にも訪れています。
( その時の記事 羽生小学校訪問記は こちら
( 萬福寺の訪問記は こちら


こちらが萬福寺。


山門の仁王門と阿弥陀堂は茨城県の指定文化財となっています。


こちらが仁王門。

      20150921羽生城址01


      20150921羽生城址02


そして、阿弥陀堂。

      20150921羽生城址03


萬福寺の奥にある墓地。

      20150921羽生城址04

こうやって眺めてみるとそれらしい雰囲気はあります。


墓地から台地先端(主郭となる城山)を目指しますが
墓地の先は果樹園となり、墓地の奥へは進軍できません。

      20150921羽生城址05



仕方ないので、墓地の脇から台地を下り、途中から藪の切れ間を探して
台地奥へと進軍をチャレンジしてみます。

      20150921羽生城址06


木々の切れ目を進軍しますが、やはり行く手には藪が待ち構え
やむなく断念。

      20150921羽生城址07


      20150921羽生城址08

台地伝いに主郭(城山制覇)は諦め、台地を下って谷津伝いに台地をぐるっと回ってみることにします。


台地先端部。
この台地の頂部か主郭である城山にあたります。

      20150921羽生城址09


      20150921羽生城址10


何やら看板らしき白い物体。
近づいてみると羽生城址(羽生館跡)の説明板でした。

      20150921羽生城址11


説明板なんて建っているなんて事前情報では知らなかったから
この説明板を見つけた時は嬉しかったなぁ...............。

      20150921羽生城址12


結局、主郭(城山)へのアプローチはできず
いわゆる本丸(主郭)へは辿り着くことは出来ませんでした。

台地をぐるっと回って、萬福寺に戻ります。


お彼岸のど真ん中の9月21日。
萬福寺に墓参りに来られる方々も多い。

その方々を受け入れるかのように咲き誇る彼岸花(曼珠沙華)。

偶然にも彼岸花に飛び交う黒アゲハ。

      20150921羽生城址14


やっぱり秋の仏閣には彼岸花が似合いますなぁ...............。


主郭である城山にアプローチ出来ずに
遺構らしきものを確認ことができなかった羽生城址ですが
平成21年に玉造郷土文化研究会の名のもとに
新たな説明看板も設置されたことを良しといたしましょう。










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2015/10/03 Sat. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

玉造城址  (2015年9月21日)(茨城県滑川市) 

9月21日  公休日

この日は、茨城県の行方市に出かけました。


行方市立 旧・玉造小学校をあとにして、
向かった先は...............玉造城址



玉造城は大掾氏一族の玉造氏の居城でありました。
城主である玉造氏は、大掾氏の分家吉田氏の流れを汲む行方景幹の四男四郎幹政が
玉造の地に居を構えたことに始まります。
玉造城は1170頃に築いたとされています。

そもそも行方の地を領したのは行方氏です。
行方氏を語る上で、行方一族の四頭を記せばなりません。

大掾忠幹の子景幹は行方太郎刑部大輔と称して、
平安末期から鎌倉初期にかけて活動しました。
景幹は行方郡地頭に任じられ、中世を通じて行方郡内に一大勢力を誇りました。
すなわち、行方氏の基盤を確立した人物です。

景幹の四子は長男行方太郎為幹、次男島崎太郎高幹、
三男麻生三郎家幹、四男玉造四郎幹政でありました。
それぞれ、行方・島崎・麻生・玉造の各氏の祖となりました。

長男為幹は行方氏の惣領を継ぎ、のちに、小高へ築城して移動したので、
小高氏を称するようになりました。
  ( 小高城址攻城記は  こちら )

次男島崎太郎高幹は、島崎城を築き、島崎氏を称しました。
  ( 島崎城攻城記は こちら  )

三男麻生三郎家幹は、麻生城を築き、麻生氏を称しました。
  ( 麻生城攻城記は  こちら  )

四男玉造四郎幹政は、玉造城を築き、玉造氏を称しました。

すなわち、行方氏(のちの小高氏)、麻生氏、島崎氏、玉造氏は「行方四頭」と呼ばれ
そして、この四子は景幹の開発地や特権を分割譲与されて、
行方郡内の諸郷村の地頭として発展していきます。

しかし、天正十九年(1591)、大掾氏一族の領地は佐竹義重・義宣父子に与えられ、
玉造重幹ら行方・鹿島両郡のいわゆる「南方三十三館」と呼ばれる諸領主が
太田城に招かれ、殺害されてしまいます。(南方三十三館の謀殺)
玉造城は佐竹氏家臣に攻められ、城主なき城はまもなく落城し、
そのまま廃城となりました。





こちらが玉造城の縄張り図。

      玉造城縄張り図

          (  余胡くんのお城のページ  よりお借りしました  )






行方市の玉造地区(旧・玉造町)の中心部に近い茨城県指定文化財の大塲家住宅の背後にある台地が
玉造城址となります。

大塲家住宅が休館日だったので、ちゃっかり駐車場に車を停めさせていただきました。
ついでだから、大塲家の門の前で記念撮影。
どうせなら犬連れは中に入れないから休館日の方が良いかも?

      20150921玉造城址01


      20150921玉造城址02


      20150921玉造城址03

大塲家は桓武平氏の流れをくみ、常陸大掾氏の支族である玉造氏の家老として仕えました。
佐竹氏支配の時代を経て、江戸時代には玉造近郷の村々を統括し、
水戸藩有林御立山を管理する「大山守」職を世襲し、代々水戸藩の大山守を務め、
二十数か村の藩有林を管理するとともに広域にわたる藩行政に携わってきました。
また光圀が巡見の時に宿泊所としたと言われています。



大塲家の脇を通り、裏山である玉造城址を目指します。


主郭手前の腰曲輪にあたる辺りが、かつての水戸藩校である
『玉造郷校』の跡らしい。

      20150921玉造城址04


      20150921玉造城址05

水戸藩主・徳川斉昭は、藩政改革の一環で、
水戸城内に藩校「弘道館」を設置しました。
そして、水戸藩領地の各所に、「郷校」を設置したそうです。
この玉造郷校(文武館)は、1858(安政5)年、水戸藩領で一番最後に設置された郷校です。
郷校では尊王攘夷主義の教育と武術の訓練が中心だったそうです。

この玉造郷校が後々の玉造小学校へと変遷していきました。
要するに、この地が玉造小学校発祥の地になるんですね。




説明板の裏手の石段を上がっていくと、こんな標柱も建っています。

      20150921玉造城址06


      20150921玉造城址07


ちょうど畑と化している郭で野良作業をしていたご老人に聞いたら、
この郭に郷校があったようです。

      20150921玉造城址08



二郭下の腰曲輪に建っている神社。
玉造城の守護神か何かだったのでしょうか?

      20150921玉造城址09



腰曲輪の下の空堀は埋められ、通路と化しているようです。
裏を返せば、通路が空堀跡だと分かります。

      20150921玉造城址10


こちらは三郭。
耕作地と化しています。

      20150921玉造城址12


      20150921玉造城址13


こちらは二郭。
ちょうど神社の真裏辺り。
こちらは果樹園と化しているようです。

      20150921玉造城址14


主郭の城塁。
一画に石像類が建ち並んでいます。

      20150921玉造城址15



主郭城塁に建つ玉造城址説明板。

      20150921玉造城址16


      20150921玉造城址17


      20150921玉造城址18



主郭と二郭を隔てていた空堀は、私道となっているようですが
主郭の城塁は見事に尽きる。

      20150921玉造城址19



主郭虎口辺りに無造作に転がっていた看板。

      20150921玉造城址20


近くの木に立て掛けて記念撮影、パチリ☆。

      20150921玉造城址21



おそらく、この辺りが主郭虎口。

しかしながらら、凄い藪状態。

      20150921玉造城址24

さすがにこの先に進軍する勇気はありません。


以前は下草も刈られ、管理が行き届いていたらしいのですが
平成の大合併で玉造町が行方市になり、自治体が大きく、広くなるに従って
文化財を含め管理するための予算は以前に比べて少なくなってくるらしい。
玉造町から行方市になって良くなったこともあるとは思うけれど
ここにも町村合併の弊害が現れているようです。

合理化の名の下に、玉造町域にあった6つの小学校も一つになっちゃったし...............


行方市はどうなっちゃうんだろう..............................?










2015/10/02 Fri. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて..........旧・玉造小学校  (2015年9月21日)(茨城県行方市) 

9月21日  公休日

この日は、茨城県の行方市に出かけました。


鳥名木館跡をあとにして、向かった先は...............行方市立 旧・玉造小学校



玉造小学校の詳しい沿革は不明ですが
平成26年に旧玉造町域にあった6つの小学校が統合して
新たに出来た玉造小学校のHPniよれば

明治7年 玉造村に水戸藩郷校文武場をもって開校。
明治22年  玉造村が玉造町になる
昭和22年  玉造町立玉造小学校と改称する
昭和30年  玉造町が手賀村・立花村・玉川村・現原村と合併し、
       改めて玉造町が発足。
平成17年  麻生町、玉造町、北浦町が合併し行方市が発足。
       行方市立玉造小学校と改称する
平成26年  旧・玉造町域の6つの小学校(玉造、玉造西、手賀、羽生、現原、玉川)が統合し
       新たに玉造小学校として開校する、


小学校の統廃合の際、旧校地を利用して新たな校舎を建設したり
旧校舎をそのまま利用するということも多いのですが
玉造小学校は新たな地に新たな校舎を建てたそうです。



こちらが、平静26年3月まで子供たちが通った旧・玉造小学校の正門。

      20150921旧玉造小学校01



門柱には、まだ校名の看板が掲げられています。

      
20150921旧玉造小学校02


      20150921旧玉造小学校03




校門をくぐれば、ガランとした校庭。

      20150921旧玉造小学校04


      20150921旧玉造小学校05



そして、その校庭に残された遊具類。

      20150921旧玉造小学校06


      20150921旧玉造小学校11


      20150921旧玉造小学校13


      20150921旧玉造小学校14


      20150921旧玉造小学校15


そして、築山

      20150921旧玉造小学校12




こちらが校舎。

      20150921旧玉造小学校07


      20150921旧玉造小学校08



校舎の玄関の庇に掲げられた校章。

      20150921旧玉造小学校20



校舎の前に建つ玉造小学校の校歌の碑。

      20150921旧玉造小学校09

こちらは創立百周年の記念に建てられました。



校庭の隅にひっそりと建つ、創立五十周年の記念碑。

      20150921旧玉造小学校10




もう一つの校門。
駐車場へと続くから通用門として使われていたのでしょう。

      20150921旧玉造小学校16


さすがに、この張り紙を見るとドキッとしますが
もう廃校だから、関係ないでしょう。

      20150921旧玉造小学校17



見渡す限り、体育館が無いから、以前はここに体育館が建っていたのでしょうか?
解体されて駐車場になっているようです。

      20150921旧玉造小学校18



校舎の二階の屋根から滑り台?

      20150921旧玉造小学校19

これも遊具の一生だったのでしょうか?



小学校の敷地内には教材として廃丸ポストが置かれている事が多い。
こちらの玉造小学校にもありました。

      20150921旧玉造小学校21



そして、やっと見つけました!

      20150921旧玉造小学校22


      20150921旧玉造小学校23


やっぱり小学校には、これがなくっちゃ!

雑草に埋もれるかのように、校庭の隅にあった二ノ宮像。

      20150921旧玉造小学校24


学校は新天地に移転したのに
この二ノ宮像は置いていかれちゃったんですね。

      20150921旧玉造小学校25



地域の人がこの二ノ宮像を忘れてしまっても
私と びいすけ だけは忘れないようにしよう。

      20150921旧玉造小学校26


      20150921旧玉造小学校27



新天地に移転してしまった玉造小学校。
6つの小学校が統合して新しい場所に移転しました。
とは言いながら、名前だけ継承して実質は廃校のようなもの。
どうせなら統合後の新小学校は玉造小学校ではなく
別な名前の小学校にした方が良かったのかも...............?






2015/10/01 Thu. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

鳥名木館跡   (2015年9月21日)(茨城県行方市) 

9月21日  公休日

この日は、茨城県の行方市へ出かけました。

養徳寺をあとにして、向かった先は...............鳥名木館跡



鳥名木館は常陸大掾氏の流れを汲む鳥名木氏である。
平貞盛の子、岡田太郎貞政が鳥名木氏を名乗ったのが始まりだと言われています。
鳥名木家は、桓武平氏、常陸大椽氏の一族、手賀氏の分流といわれ、
特に鎌倉時代中期から室町時代にかけて、鳥名木の地を本拠地に勢力を張っていました。
残念ながら戦国時代の天正19年(1582)、佐竹義宣によって「南方三十三館」の城主たちと共に謀殺され、
滅ぼされてしまいました。
その子孫は麻生藩新庄氏に仕えたとされています。

鳥名木館よりも、『鳥名木家文書』なるものが茨城県指定文化財とされているため
そちらの方が知名度が高いかもしれません。
鳥名木家文書は、鳥名木家伝来のものであり、永仁5年(1297年)の「ちゃうあ譲状」から
江戸時代初期に至る文書41点を含んでいるそうです。



こちらが鳥名木館の縄張り図。

      鳥名木館縄張り図

         (  胡くんのお城のページ  よりお借りしました  )



鳥名木館跡も標識が建ってはいるものの、県道から農道へと入り込み
未舗装の狭い道を標識は指しているため、県道の路肩に車を停めて
散策と探索を始めます。

      201250921鳥名木館跡01


この道で良いのか?
そんな不安を胸に抱きながら進軍します。

      201250921鳥名木館跡02



やがて、説明板が目の前に現れます。

      201250921鳥名木館跡03



こちらが鳥名木館跡と鳥名木家文書の説明板。

      201250921鳥名木館跡04

説明板には縄張り図も記されていますが、擦れてほとんど読めない状態です。


こちらが、説明板の縄張り図に記されていた現在の鳥名木家。

      201250921鳥名木館跡05

鳥名木家の子孫の方が現在もこの地に住まれているようです。


このお宅の裏の高台に城址碑があるようですが
個人の敷地内のため勝手には入れません。
一応、声をかけてみたのですが、留守のようなので
正面から城址碑へ行くのは諦めました。



こちらが、鳥名木館跡への登城口。
とにかく雑草が生い茂り、荒れている。

      201250921鳥名木館跡06


館跡は耕作地となり、畑と化しています。
おそらく、この辺りは二郭にあたる場所になるのでしょう。

      201250921鳥名木館跡07


      201250921鳥名木館跡08



この先が主郭にあたる場所。

      201250921鳥名木館跡09



こちらが、その虎口。

      201250921鳥名木館跡10



主郭は10m四方ほどの削平地。
周りを土塁が囲み、奥に祠が祀られています。

      201250921鳥名木館跡11


      201250921鳥名木館跡12


主郭の奥、台地先端の土塁の上に城址碑があるとの事らしいが、
祠の先は竹藪の斜面。
悔しいけど、こちら側からの進軍も諦めざるを得ない。
城址碑に辿り着くことは出来ませんでした。

鳥名木家の子孫の方が建てたとされる『鳥名木城址』鳥名木記された城址碑。
う〜ん、この目で見たかったなぁ...............。








2015/09/30 Wed. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

手賀小学校発祥の地   (2015年9月21日)(茨城県行方市) 

9月21日  公休日

この日は、茨城県の行方市に出かけました。


手賀城址から手賀城主の菩提寺である養徳寺へと立ち寄ってみました・


養徳寺の門前からの手賀城址。

      20150921手賀小学校発祥の地01

確かに、養徳寺のすぐ目の前に手賀城址があります。


こちらが養徳寺

      20150921手賀小学校発祥の地02


      20150921手賀小学校発祥の地03




養徳寺の境内に入って、いきなりこんな石柱が目に入りました。

      20150921手賀小学校発祥の地04

手賀小学校は平成26年に廃校となってしまいましたが
どうやらここが手賀小学校の発祥の地のようです。
( 廃校となった手賀小学校の訪問記は こちら  )


明治7年より明治10年3月までと
明治35年9月から明治36年8月までの2回、
この地に手賀小学校があったようです。

      20150921手賀小学校発祥の地07


      20150921手賀小学校発祥の地05


この石碑は、平成4年に手賀小学校創立115周年記念事業の一環で
建てられたモノのようです。

      20150921手賀小学校発祥の地06


そう言えば、廃校になった手賀小学校の場所に小学校が移る前に
もう一箇所、手賀小学校跡地というのがありました。
( そちらの旧・手賀小学校跡地の訪問記は こちら )


      20150921手賀小学校発祥の地08



時期的にちょうどお彼岸。
先祖の墓参りに来られている方もおられました。

お彼岸の時期に咲くから彼岸花というのか?
石柱の周りには真っ赤に色付いた彼岸花(曼珠沙華)が彩りを添えています。

      20150921手賀小学校発祥の地09


      20150921手賀小学校発祥の地10


      20150921手賀小学校発祥の地11



おそらく、境内の一角に、手賀小学校はあったのでしょう。

      20150921手賀小学校発祥の地12


思えば、明治7年より明治10年3月までは、この地にあり
再び、明治35年9月から明治36年8月までがこの地にあった。
そして明治36年9月に2代前の跡地に移ったようです。
と、言うことは明治10年から35年までは何処にあったのだろう?
台風が何かで校舎が壊れ、一時時に養徳寺に戻ってきたのだろうか?
興味が尽かない手賀小学校のようです。




2015/09/29 Tue. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

手賀城址  (2015年9月21日)(茨城県行方市) 

9月21日 公休日

この日は茨城県の行方市へ出かけました。

稲荷館跡をあとにして向かった先は............手賀城址


手賀城は、常陸大掾氏系の玉造氏初代幹政の次子正家が手賀を領し
手賀氏を称したとされています。
ただ、手賀城の築城時期については不明とされ、周辺の行方一族と同様に
天正十九年(1591)二月、佐竹氏の居城である太田城にて城主・手賀高幹は謀殺され
手賀氏は滅亡し、手賀城も廃城になったとされています。




こちらが手賀城の縄張り図

      行方手賀城縄張り図

         (  余胡くんのお城のページ  よりお借りしました  )




実は、手賀城址も辿り着くまでにかなりの時間がかかってしまいました。



R355に並行して旧市街地を走る県道183号線を走り養徳寺を目指します。
養徳寺の手前でこんな標識を見かけたので、先に進みます。

      20150921手賀城址01


すると今度は、こんな標識。

      20150921手賀城址02

どうやら、来過ぎたようでUターン。

結局、この二枚の標識以外は目印らしきモノが無く
周辺を車でひたすら徘徊。
結局解らず、ちょうどお孫さんを連れて虫捕り網を持って
虫捕りに出ていたご老人に尋ねたら、なんのことはない。
目の前の山(台地)が手賀城址でした。

      20150921手賀城址03


台地を車で大回りにぐるっと回ってみましたが
それらしい入り口がない。
仕方ないので、先ほどのご老人を探し(お孫さんと虫捕りをしていました)
再び尋ねてら、『牛小屋の先に山に入って行く道があるから、
それを進めばいい』と教えてもらいました。


車を路肩の草むらに停めて攻城開始です。

      20150921手賀城址04


かつての登城口か?
はたまた、近年になってからの農道なのかは不明ですが
それらしい雰囲気はあります。

      20150921手賀城址05


どうやら、この奥が手賀城址へと導いてくれる道のようです。

      20150921手賀城址06


さらに進めば、やがて半径10mほどの広場。
そして、そこは粗大ゴミ置場?
空きカンも大量に捨てられています。

      20150921手賀城址07


さらにその奥は竹藪。

      20150921手賀城址08

竹藪の奥に掘りらしきモノが見えるのですが
潔くよく撤収。
先ほどの農道(?)に戻ります。


再び、農道を進むと、竹藪に入って行く小径を発見。
小径を進軍しますが、すぐさま竹藪が行く手を遮ります。

      20150921手賀城址09


      20150921手賀城址10

10mほど竹藪を進みますが、蜘蛛の巣がやたらと頭にくっ付き
これ以上の進軍は断念。


一度、農道を下り台地を下山。
今度は反対側、谷津側からの進入口を探します。

何とか見つけた進入口。
こちらも以前耕作地化した時に作られたものなのか?
今では人の往来もないようで、やはり蜘蛛の巣がやたらと頭に当たります。

蜘蛛の巣を避けながら進んでいくと、ちょっとした削平地。
おそらく以前は畑か何かの耕作地だったのでしょう。

      20150921手賀城址11



さらに先に進んでみると、竹藪となり行く手を遮ります。

      20150921手賀城址12


      20150921手賀城址14


結局、竹藪の先への進軍は諦め、潔く撤収することに相成りました。


重ね重ね残念ではありますが、これも致し方ないこと。

訪城記念に一枚写真をパチリ☆。

      20150921手賀城址13



自宅に帰ってから、手賀城址のことを色々と調べたら
やはり、多くの人が竹藪で断念しているようです。

そして、最初に断念した粗大ゴミ置場の先の竹藪に
見事な三重の空堀があるらしい。

やっぱり残念でした...............。




2015/09/28 Mon. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

稲荷館跡   (2015年9月21日)(茨城県行方市) 

9月21日 公休日

この日は茨城県の行方市へ出かけました。


生形城址をあとにして向かった先は................稲荷館跡


行方市の旧・玉造町域にある手賀小学校。
今では廃校になってしまいましたが、その手が小学校のある小高い台地。
手賀小学校に隣接するようにあるさらに一段高い台地に稲荷神社が有り
その一帯が稲荷館跡と言うことです。




こちらが稲荷館の縄張り図

       稲荷感縄張り図

       (  余胡くんのお城のページ  よりお借りしました  )



実は、今年の2月に手賀小学校へは訪れたのですが
その時は稲荷館跡のことは知りませんでした。

手賀小学校脇の台地へこの石段を上がった先に稲荷神社があります。

      20150921稲荷感跡01


蜘蛛の巣が所々に張っていて、あまり人の往来がない石段を上がっていくと稲荷神社です。

      20150921稲荷感跡02


      20150921稲荷感跡03


神社のあるあたりが削平地となっていて、周りより一段高くなっています。

      20150921稲荷感跡04


そして周りは一面の竹やぶ。

      20150921稲荷感跡05


竹やぶの隙間から堀跡らしきものも見えますが
竹やぶの中に入って下っていく勇気はありません。

      20150921稲荷感跡07


稲荷神社から一度台地を下り、道沿いに台地を回ってみます。

余胡さんの縄張り図では、配水場脇から台地奥へ入って行けそうなので
配水場へと足を進めます。

      20150921稲荷感跡08



こどうやら、この先を進めば台地奥へと行けそうです。

      20150921稲荷感跡09


しかしながら50mも進めば、やがて耕作地となり
さらにその先は、藪状態。

      20150921稲荷感跡10


      20150921稲荷感跡11

さすがに、藪の中を進軍する勇気はありません。
稲荷館跡探索もこれ以上は断念となります。


車を停めた手賀小学校へ戻る途中
道端に咲いていた彼岸花。

      20150921稲荷感跡12


今年も彼岸花の季節になてきたんですね。

      20150921稲荷感跡13


偶然にも彼岸花に黒アゲハが飛んできました。

      20150921稲荷感跡14


城郭遺構は全く確認できませんでしたが
彼岸花に飛び交う黒アゲハの姿を確認できたから、
これで良しとすることにしよう。








2015/09/27 Sun. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて............玉造西小学校      (2015年2月11日)(茨城県行方市) 

2月11日 公休日

この日は、茨城県行方市の廃校巡りに出かけました。


手賀ふれあいの森をあとにして、向かった先は..............
旧・玉造町域にある    行方市立玉造西小学校


玉造西小学校の沿革を調べてみましたが
詳しいことはわかりませんでした。

この小学校のある旧・玉造町域の小学校は6校ありましたが
平成26年に玉造小学校に統合して1校となってしまいました。
その際、この玉造西小学校も廃校となってしまいました。


普段は門扉が閉ざされ、敷地内には入れないとのことでしたが
この日は近くにある寺院で大きな葬儀があったようです。
その葬儀の臨時駐車場として校庭が利用され、門扉は解放されていました。


こちらが正門。

      20150211玉造西小学校15

葬儀の案内看板が立っていましたので
個人情報だし、なるべく画像に入らない構図に苦労します。


こちらが、裏門になるのか?
校舎脇の通用門。

      20150211玉造西小学校05


表札の校名は消されています。

      20150211玉造西小学校04





廃校の記念碑かと思ったら違っていました。
『頌徳』の碑でした。


      20150211玉造西小学校01



校舎の正面玄関。

      20150211玉造西小学校02



逆アングルからの校舎。

      20150211玉造西小学校19



この校舎は、昭和47年に建てられたモノのようです。

      20150211玉造西小学校20

そして、校舎の壁面に掲げられた校章。

      20150211玉造西小学校03



校庭に残された遊具類。

      20150211玉造西小学校06



ブランコや滑り台は良く見かけるけれど、
この遊具は最近見かけないなぁ。

      20150211玉造西小学校07


      20150211玉造西小学校08


      20150211玉造西小学校09


      20150211玉造西小学校11


      20150211玉造西小学校12





校舎前には、葬儀に参列、焼香に来られた方の臨時駐車場。
ガードマンがしっかりと誘導しています。


      20150211玉造西小学校10


    
こちらも廃校の記念碑かと思ったら、やっぱり違ってました。

      20150211玉造西小学校13



この地域の学校に貢献した大和田翁の碑でした。

      20150211玉造西小学校14

碑文によれば、この玉造西小学校や浜小学校に多額の寄付をされた方のようです。


いつ頃に廃校になったのかは知りませんが
この近くに浜小学校と言う学校があったようです。





こちらは、体育館。
カマボコ型の屋根が懐かしい。
っつ言うか、この形の体育館が行方市には多いような気がします。

      20150211玉造西小学校16


体育館の脇。
こちらが本来の校舎の玄関になるのかな?

      20150211玉造西小学校17



そして、その玄関脇に建つ校歌の碑。

      20150211玉造西小学校18


石碑は3つほどあるのだけれど、肝心の廃校の記念碑はない。
そして、沿革を刻まれた物もない。

今はまだ校舎があるけれど、
いずれ時が経てば校舎も取り壊されてしまうだろう。

そして数十年経った時、ここが玉造西小学校跡地だったことが
語り継がれていくのだろうか............................?




2015/03/07 Sat. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて............手賀小学校      (2015年2月11日)(茨城県行方市) 

2月11日 公休日

この日は、茨城県行方市の廃校巡りに出かけました。


玉造地区にある旧・手賀小学校跡地から向かった先は............................

行方市立手賀小学校


手賀小学校の詳しい沿革は良くわかりません。
残念なことにHPは既に閉鎖されてしまったようです。


旧跡地にあった石碑から推測すれば............

明治10年    手が小学校が創設される
明治22年    手賀村発足。
昭和22年    学校教育法施行により、手賀村立手が小学校と改称する。
昭和30年    手賀村が玉造町・立花村・玉川村・現原村とともに合併し玉造町が発足。
          玉造町立手が小学校と改称する。       
平成17年    玉造町が麻生町、北浦町と合併し、行方市が誕生。
          行方市立手が小学校と改称する。
平成26年    玉造小学校と統合して廃校となる。

と、このような沿革となっているようです。




こちらが、手賀小学校の正門。

      20150211手賀小学校01



門柱には、表札がしっかりと残っています。

      20150211手賀小学校02


門扉は閉められていますが、門柱の脇から敷地内に入れます。
田舎の学校の良さって言うのは、こう言った大らかさでしょうね。


正門脇には、二ノ宮像。

      20150211手賀小学校25


      20150211手賀小学校26

この時期だから枯れ草で済んでいるけれど
夏場だったら草が茫々状態でしょう。



そして、さらにその脇には手作りの緯度・経度の表示板。

      20150211手賀小学校23


      20150211手賀小学校24

どうやら、近くには城館跡がそれなりにあるみたいです。
う〜ん、食指をそそられるなぁ(笑)。




こちらが、校庭。

      20150211手賀小学校03


そして、校庭から眺める校舎。

      20150211手賀小学校06


      20150211手賀小学校18



こちらは、プール。

      20150211手賀小学校04




校庭に残る遊具類。

      20150211手賀小学校05


      20150211手賀小学校11


      20150211手賀小学校12


      20150211手賀小学校13


      20150211手賀小学校14


      20150211手賀小学校15


      20150211手賀小学校20


      20150211手賀小学校21




校舎の前には、手賀小学校の校歌の碑。

      20150211手賀小学校07



そして、手賀小学校の校訓の碑。

      20150211手賀小学校08







校舎の玄関。

      20150211手賀小学校10



玄関の庇に掲げられた校章。

      20150211手賀小学校09





こちらは、体育館。      

      20150211手賀小学校16



敷地内にあった、幼稚園跡。

      20150211手賀小学校17

この地区(行方市)の特色特色言うか、小学校の敷地内に
幼稚園が併設されることが多い。



再び、校庭にて。

      20150211手賀小学校19


      20150211手賀小学校22


     


再び、正門前にて。

      20150211手賀小学校27

桜並木の背後には霞ヶ浦。

春には満開の桜の花が咲き、きっと風光明媚な景色になるんだろうなぁ............................。




2015/03/05 Thu. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて............旧・手賀小学校跡      (2015年2月11日)(茨城県行方市) 

2月11日 公休日

この日は、茨城県行方市の廃校巡りに出かけました。


玉川小学校をあとにして、向かった先は..............
旧・玉造町域にある 手賀小学校 の筈でしたが
手賀小学校へ行く道を曲がり損ねてしまい、慌ててUターンしようと
JA関連の施設の駐車場に車を突っ込みました。
何気にバックをしていると、目の前にこんな石柱(石碑)がありました。

      20150211旧・手賀小学校跡01


『ムッムム?』

手賀小学校跡って?
じゃあ、これから向かう手賀小学校って何?


慌てて車を降り、石柱を確認します。

      20150211旧・手賀小学校跡03

碑文によれば..............

明治36年9月より昭和46年1月までこの地に手賀小学校があったようです。

ちなみに、この石碑は平成4年に
手賀小学校創立115年記念事業で建立されたもののようです。




そうです。
ここが、行方市立手賀小学校 旧跡地 になります。


      20150211旧・手賀小学校跡02


と言うことは.............
平成4年(1992年)の115年前、
すなわち、1877年(明治10年)に創立されたことになるようです。

手賀小学校そのもほは、平成26年(2014年)に廃校となりました。
創立から137年の歴史の幕を下ろしています。

その137年の歴史の中の68年はこの地での歴史でもあります。


    
確かにこの雰囲気は、遠い昔に学校があった場所に見える。

      20150211旧・手賀小学校跡04


近づいてみましょう。

      20150211旧・手賀小学校跡05

まさに、昔の小学校と思ったら
実はこちらは小学校に隣接していた幼稚園跡とのことです。

現在は『手賀地区学習センター』となっています。


じゃあ、小学校はどこにあったの?
単純な疑問です。



JA関連の施設の方にお話しをさせていただき、
この倉庫のある辺りに、校舎があったそうです。

      20150211旧・手賀小学校跡08


      20150211旧・手賀小学校跡11
  

    

現在、小学校跡地はJA関連施設として活用されているようです。

      20150211旧・手賀小学校跡12



おそらく、この辺りに校門があったのでしょう。

      20150211旧・手賀小学校跡07


      20150211旧・手賀小学校跡10

びいすけ の背後のプレハブの建物が、JA関連施設の事務所。



これがJA関連施設の事務所。

      20150211旧・手賀小学校跡09



事務所の背後は、現在は公園となっています。

      20150211旧・手賀小学校跡14


おそらく、事務所のある場所あたりから
かつての校庭だったのでしょう。

      20150211旧・手賀小学校跡06


これらの遊具は、小学校の移転後に設置されたモノでしょう。

      20150211旧・手賀小学校跡13



予想外の場所で思わぬ発見。
ちょっとだけ、得した気分になりました............................。






2015/03/05 Thu. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて............玉川小学校      (2015年2月11日)(茨城県行方市) 

2月11日 公休日

この日は、茨城県行方市の廃校巡りに出かけました。


行方市の廃校巡りシリーズ、その第三弾。

行方小学校をあとにして、向かった先は..............

旧・玉造町域にある 行方市立玉川小学校


玉川小学校も詳しい沿革は不明です。


県道(?)沿いに案内板も出ているから
迷わずに辿り着けました。

      20150211玉川小学校01



この坂を上った先が、玉川小学校。

      20150211玉川小学校02



正門前に掲げられたアーチ。

      20150211玉川小学校03

『今日も明るく元気よく』

そうです。子供は明るく、元気が一番です。




廃校となって間もなく1年が経とうとしていますが
時計は正しい時刻を刻んでいました。

      20150211玉川小学校04



こちらが、正門。

      20150211玉川小学校05

門には玉川小学校の表札が掲げられています。




珍しい形の緯度・経度の表示板。

      20150211玉川小学校06



こちらは、集落から上がって来る細い道側にある門柱。

      20150211玉川小学校07

かつては、こちら側が正規の通学路だったようです。



その門柱の前から校舎を眺めてみます。

      20150211玉川小学校08



こちらは、プール。

      20150211玉川小学校10



プールの前に建つ記念碑。

      20150211玉川小学校09

『玉川村立玉川小学校跡地』と記されています。


碑の裡面に記されていた沿革によれば

明治36年に玉川村字根古屋から、この地に小学校が移転してきたそうです。

昭和22年   玉川村立玉川小学校と改称する。
昭和30年   玉川村が玉造町・手賀村・立花村・・現原村と合併し玉造町が発足。
         玉造町立玉川小学校と改称する。
昭和41年   旧・玉川村立玉川中学校跡地に新校舎を建設する

とこのような沿革が刻まれています。

この石碑は玉川小学校の開校110周年記念事業で
昭和59年に建てられたもの。
と言うことは昭和59年(1984年)の110年前、
すなわち1874年、明治7年に玉川村の根古屋地区に
玉川小学校は創設されたことになるようです。

その後、玉川小学校は

平成17年    玉造町が麻生町、北浦町と合併し行方市が誕生。
          行方市立玉川小学校と改称する
平成26年    旧・玉造町域の小学校5校が玉造小学校に統合し閉校となる。
          玉川小学校もこの時に廃校となる。

と、このような沿革を歩むことになります。





旧・玉川村の人たちって、意外に玉川村が好きだったみたい。

と言うのも、校庭の隅にもう一つ石碑がありました。

      20150211玉川小学校26

こちらには『玉川村立玉川中学校跡地』と記されています。

この敷地には、かつては小学校と中学校があったようです。


ちなみに、玉川村立玉川中学校の沿革は

昭和22年     玉川小学校の校舎を借用して開校
昭和22年     新校舎完成
昭和40年     玉造中学校と統合し、廃校となる    

となっていたようです。





校庭に目を移しましょう。


校庭に残された遊具類。

      20150211玉川小学校11


      20150211玉川小学校13


      20150211玉川小学校14


      20150211玉川小学校15


      20150211玉川小学校27





校庭に転がっていたサッカーボールで遊ぶかな?って思ったけれど
遊ぶことはありませんでした。

      20150211玉川小学校16



こちらは体育館。
カマボコ型の屋根がなぜか懐かしい。

      20150211玉川小学校12


      20150211玉川小学校22




     

校舎前にあった二ノ宮像。

      20150211玉川小学校17

やっぱり小学校には、これが無くっちゃ!


      20150211玉川小学校18



そして、その脇には玉川小学校の校歌の碑。

      20150211玉川小学校19




校庭から眺める玉川小学校の校舎。

      20150211玉川小学校23




校舎の玄関の庇に掲げられた校章。

      20150211玉川小学校21



この校舎は、昭和41年に建てられたモノらしい。

      20150211玉川小学校20     

実は、この校舎が建っている辺りが、かつての玉川中学校があった場所。
     
玉川中学校の校舎を解体して、玉川小学校の新校舎を建てたようです。




校庭に佇む びいすけ 。

      20150211玉川小学校24



校庭の朝礼台。

      20150211玉川小学校25


     



こちらは、敷地内にあった幼稚園跡。

      20150211玉川小学校28


実は、玉川村立玉川小学校の時には
こちらの場所が小学校の敷地だったそうです。


      20150211玉川小学校29


      20150211玉川小学校30



たまたま、近所の人が様子を見に来たのか?
はたまた、犬連れの見かけない(怪しい?)男が居たから
声をかけたのでしょうか?
その男性と色々と話をさせてもらって、
かつて(玉川村)の小学校や中学校のことを聞くことができました。

何となく、玉川村の時代は本当に古き良き時代だったのだろう。

そんなことを感じさせる玉川小学校でした............................。






2015/03/04 Wed. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit