廃校を訪ねて...........湯ヶ島小学校 (2015年9月30日)(静岡県伊豆市)
9月30日 公休日
9月30日〜10月2日まで個人的な3連休。
この3連休を利用して2泊3日で伊豆へ出かけました。
船山小学校をあとにして、向かった先は...............伊豆市立湯ヶ島小学校
湯ヶ島小学校は
明治6年 弘道寺に狩野小学校の分校として、導蒙舎と称して開校。
明治7年 分校から独立して、狩野上小学校と改称する。
明治9年 湯ヶ島村台70番小学校と改称する。
明治12年 湯ヶ島村天城小学校と改称する。
明治14年 公立天城学校と改称する。
明治25年 小学校令施行に伴い、上狩野村湯ヶ島尋常小学校と改称する。
明治30年 高等科を併設し、上狩野村湯ヶ島尋常高等小学校と改称する。
昭和22年 学制改革により上狩野村立湯ヶ島小学校と改称する。
昭和35年 上狩野村と中狩野村が合併して、天城湯ヶ島町が発足。
天城湯ヶ島町立湯ヶ島小学校と改称する。
平成16年 天城湯ヶ島町、土肥町、修善寺町、中伊豆が合併して伊豆市発足。
伊豆市立湯ヶ島小学校と改称する。
平成25年 湯ヶ島小学校、月ヶ瀬小学校、狩野小学校が合併して天城小学校が開校。
(校舎は狩野小学校を流用)
湯ヶ島小学校は廃校となる。
と、このような沿革となっています。
こちらが、湯ヶ島小学校の正門。

門柱らしきモノがないから正門っぽく見えません。

でも、すぐ脇にこんな看板が掲げられているから、正門なんでしょう。


正門から足を踏み入れると
いきなりこんなオブジェ7?)が現れます

井上靖の『しろばんば』の像のようです。

実は、著名な作家である井上靖はこの湯ケ島小学校の出身らしい。
、そしてその奥には、立派な玄関とシンボルツリー。

シンボルツリーの前には湯ケ島小学校の位置を示した
緯度、経度の記された標柱が建っています。

しろばんばの像の脇から眺める校舎

ここにもありました、二ノ宮像。


やっぱり廃校にはこれがなくっちゃ!!

校庭の方に足を向けてみましょう
校舎脇にある鉄棒。
逆上がりの補助道具も残っていました。

校庭から眺める校舎。


校舎の前には国旗掲揚のポール、
そして、こちらもシンボルとなっていたと思われる木。

狂って30分ほど進んでいる時計の下には
湯ケ島小学校の校章。

校庭の一画には石碑群。
いずれも 井上靖 に関連する記念碑です。



校庭に残された遊具類。






こちらが校庭側の通学路。
この坂を上った先に古い門柱があります。

こちらが、その門柱。

木の陰になって見にくいですが
昔は木の表札が掲げられていたのでしょう。
じっくり見てみると...........
大正13年に建てられたモノのようです。

校庭から校舎をぐるっと回って、中庭を通って正門に戻ります。
こうやって中庭から見ても落ち着いた雰囲気のある学校のような気がします。

校舎の前にある体育館

体育館の前に、なぜか銅像。

銅像脇の説明版によれば、足立顕治氏の銅像です。
昭和11年に、この体育館の前身である講堂を寄贈したり、
湯ヶ島小学校の子供たちの教育に尽力された方らしい。

体育館の窓ガラスから見えた立て看板。

閉校記念式典に使用されたモノですね。
文豪 井上靖 の母校でもありますが、
解剖学ど世界的に名を覇した足立丈太郎博士の母校でもあるようです。
体育館脇に建つ「懸命不動」の文字を刻んだ顕彰碑


伊豆半島の中央部、山深きいで湯の里にあった小学校ですが
著名な方を輩出した歴史のある小学校だったんですね..............................。
9月30日〜10月2日まで個人的な3連休。
この3連休を利用して2泊3日で伊豆へ出かけました。
船山小学校をあとにして、向かった先は...............伊豆市立湯ヶ島小学校
湯ヶ島小学校は
明治6年 弘道寺に狩野小学校の分校として、導蒙舎と称して開校。
明治7年 分校から独立して、狩野上小学校と改称する。
明治9年 湯ヶ島村台70番小学校と改称する。
明治12年 湯ヶ島村天城小学校と改称する。
明治14年 公立天城学校と改称する。
明治25年 小学校令施行に伴い、上狩野村湯ヶ島尋常小学校と改称する。
明治30年 高等科を併設し、上狩野村湯ヶ島尋常高等小学校と改称する。
昭和22年 学制改革により上狩野村立湯ヶ島小学校と改称する。
昭和35年 上狩野村と中狩野村が合併して、天城湯ヶ島町が発足。
天城湯ヶ島町立湯ヶ島小学校と改称する。
平成16年 天城湯ヶ島町、土肥町、修善寺町、中伊豆が合併して伊豆市発足。
伊豆市立湯ヶ島小学校と改称する。
平成25年 湯ヶ島小学校、月ヶ瀬小学校、狩野小学校が合併して天城小学校が開校。
(校舎は狩野小学校を流用)
湯ヶ島小学校は廃校となる。
と、このような沿革となっています。
こちらが、湯ヶ島小学校の正門。

門柱らしきモノがないから正門っぽく見えません。

でも、すぐ脇にこんな看板が掲げられているから、正門なんでしょう。


正門から足を踏み入れると
いきなりこんなオブジェ7?)が現れます

井上靖の『しろばんば』の像のようです。

実は、著名な作家である井上靖はこの湯ケ島小学校の出身らしい。
、そしてその奥には、立派な玄関とシンボルツリー。

シンボルツリーの前には湯ケ島小学校の位置を示した
緯度、経度の記された標柱が建っています。

しろばんばの像の脇から眺める校舎

ここにもありました、二ノ宮像。


やっぱり廃校にはこれがなくっちゃ!!

校庭の方に足を向けてみましょう
校舎脇にある鉄棒。
逆上がりの補助道具も残っていました。

校庭から眺める校舎。


校舎の前には国旗掲揚のポール、
そして、こちらもシンボルとなっていたと思われる木。

狂って30分ほど進んでいる時計の下には
湯ケ島小学校の校章。

校庭の一画には石碑群。
いずれも 井上靖 に関連する記念碑です。



校庭に残された遊具類。






こちらが校庭側の通学路。
この坂を上った先に古い門柱があります。

こちらが、その門柱。

木の陰になって見にくいですが
昔は木の表札が掲げられていたのでしょう。
じっくり見てみると...........
大正13年に建てられたモノのようです。

校庭から校舎をぐるっと回って、中庭を通って正門に戻ります。
こうやって中庭から見ても落ち着いた雰囲気のある学校のような気がします。

校舎の前にある体育館

体育館の前に、なぜか銅像。

銅像脇の説明版によれば、足立顕治氏の銅像です。
昭和11年に、この体育館の前身である講堂を寄贈したり、
湯ヶ島小学校の子供たちの教育に尽力された方らしい。

体育館の窓ガラスから見えた立て看板。

閉校記念式典に使用されたモノですね。
文豪 井上靖 の母校でもありますが、
解剖学ど世界的に名を覇した足立丈太郎博士の母校でもあるようです。
体育館脇に建つ「懸命不動」の文字を刻んだ顕彰碑


伊豆半島の中央部、山深きいで湯の里にあった小学校ですが
著名な方を輩出した歴史のある小学校だったんですね..............................。
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2015/10/16 Fri. 00:00 |
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廃校を訪ねて...........船原小学校跡 (2015年9月30日)(静岡県伊豆市)
9月30日 公休日
9月30日〜10月2日まで個人的な3連休。
この3連休を利用して2泊3日で伊豆へ出かけました。
伊豆市立土肥南小学校をあとにして、向かった先は...............旧・天城湯ヶ島町立 船原小学校
船原小学校は
明治6年 大四大区十小区狩野学校分校船原舎と称して開校。
明治22年 本校が中狩野村立中狩野尋常小学校と改称しその分校となる。
昭和35年 中狩野村が上狩野村と合併して天城湯ヶ島町が発足。
天城湯ヶ島町立船原小学校と改称する。
昭和50年 狩野小学校に統合され、廃校となる。
と、このような沿革となっています。
船原小学校跡地はR136の船原温泉近くの
東海バス 船原保育園バス停付近にあります。

バス停脇の坂を上って行けば、船原小学校。
バス停脇の階段を上って行けば、船原保育園のようです。



こちらが船原小学校の正門。

往時の校門がしっかり残っていました。

門柱には、往時の表札。

所々擦れていて、見辛くはありますが
しっかりと
『静岡県田方郡天城湯ケ島町立船原小学校』 と記されています。
もう片方の門柱はと言えば...........................

船原小学校跡地 と記されています。

この門柱を学校跡地の碑として流用しているようです。
裏面には、沿革も刻まれています。

校門〜中に足を踏み入れてみると、
そこは、広い空き地。
考えてみれば、昭和50年に廃校。
廃校から既に40年。とっくに校舎は解体されています。


校庭跡地(?)の奥に石垣とスロープ。


ひょっとしたら、このスロープの奥に校舎が建っていたのかもしれません。
敷地内には何やら建物が建っています。

建物には、上船原公民館 と看板が掲げられています。

バス停から見上げた時に見えた建物は保育園かと思っていたら
どうやら保育園も廃園となり、公民館が建てられたようです。

バス停が船原保育園となっているから
まさか閉園になっているとは思いませんでした。
むしろ『旧・船原小学校』とか『船原小学校跡』とかにすれば良いのに。
そして、隣接するように消防倉庫も建てられています。

廃校跡に消防倉庫が建てられるってパターンも多いんだよなぁ。
ぐるっと一回りしてみましたが、二ノ宮像や遊具類、
いわゆる学校遺構らしきものは見当たりませんでした。
保育園の園庭だったと思われる場所は
ゲートボール場となっています。
t="298" />
そして、ゲートボール場脇には藤棚。
錆び具合きから言って、往時のモノでしょう。

無造作に置かれたローラー。

金具も錆びてしまい、使われなくなってかなりの年数が経っているんでしょう。
R136に掛けられた歩道橋。

船原小学校と船原保育園に通う子供たちの専用の歩道橋だったようで
直接、小学校・保育園の敷地内に入れるようになっています。

もっとも、今やこの歩道橋を利用する子供たちも居ないことになりますが...............
田舎の小学校、山間部の小学校では敷地内に保育園を併設するって言うパターンが多いけれど
こちらもそのパターンだったようですね。
歩道橋からまっすぐに来ても、バス停脇の階段を上って来ても
こちらに合流します。

合流地点には大きな桜の木。

毎年、子供たちの成長を見守って来たのでしょう。
帰り際にもう一度、船原小学校跡地を眺めてみた。


確かに何もないけれど
なぜか、この廃校跡地が気に入ってしまいました。
ひょっとしたら、Wikipediaにも載らず、人に知れ渡ることのない廃校。
地元の人しか知らない廃校跡。
そんな廃校跡地であるから気に入ってしまったのかもしれません..............................。
9月30日〜10月2日まで個人的な3連休。
この3連休を利用して2泊3日で伊豆へ出かけました。
伊豆市立土肥南小学校をあとにして、向かった先は...............旧・天城湯ヶ島町立 船原小学校
船原小学校は
明治6年 大四大区十小区狩野学校分校船原舎と称して開校。
明治22年 本校が中狩野村立中狩野尋常小学校と改称しその分校となる。
昭和35年 中狩野村が上狩野村と合併して天城湯ヶ島町が発足。
天城湯ヶ島町立船原小学校と改称する。
昭和50年 狩野小学校に統合され、廃校となる。
と、このような沿革となっています。
船原小学校跡地はR136の船原温泉近くの
東海バス 船原保育園バス停付近にあります。

バス停脇の坂を上って行けば、船原小学校。
バス停脇の階段を上って行けば、船原保育園のようです。



こちらが船原小学校の正門。

往時の校門がしっかり残っていました。

門柱には、往時の表札。

所々擦れていて、見辛くはありますが
しっかりと
『静岡県田方郡天城湯ケ島町立船原小学校』 と記されています。
もう片方の門柱はと言えば...........................

船原小学校跡地 と記されています。

この門柱を学校跡地の碑として流用しているようです。
裏面には、沿革も刻まれています。

校門〜中に足を踏み入れてみると、
そこは、広い空き地。
考えてみれば、昭和50年に廃校。
廃校から既に40年。とっくに校舎は解体されています。


校庭跡地(?)の奥に石垣とスロープ。


ひょっとしたら、このスロープの奥に校舎が建っていたのかもしれません。
敷地内には何やら建物が建っています。

建物には、上船原公民館 と看板が掲げられています。

バス停から見上げた時に見えた建物は保育園かと思っていたら
どうやら保育園も廃園となり、公民館が建てられたようです。

バス停が船原保育園となっているから
まさか閉園になっているとは思いませんでした。
むしろ『旧・船原小学校』とか『船原小学校跡』とかにすれば良いのに。
そして、隣接するように消防倉庫も建てられています。

廃校跡に消防倉庫が建てられるってパターンも多いんだよなぁ。
ぐるっと一回りしてみましたが、二ノ宮像や遊具類、
いわゆる学校遺構らしきものは見当たりませんでした。
保育園の園庭だったと思われる場所は
ゲートボール場となっています。

そして、ゲートボール場脇には藤棚。
錆び具合きから言って、往時のモノでしょう。

無造作に置かれたローラー。

金具も錆びてしまい、使われなくなってかなりの年数が経っているんでしょう。
R136に掛けられた歩道橋。

船原小学校と船原保育園に通う子供たちの専用の歩道橋だったようで
直接、小学校・保育園の敷地内に入れるようになっています。

もっとも、今やこの歩道橋を利用する子供たちも居ないことになりますが...............
田舎の小学校、山間部の小学校では敷地内に保育園を併設するって言うパターンが多いけれど
こちらもそのパターンだったようですね。
歩道橋からまっすぐに来ても、バス停脇の階段を上って来ても
こちらに合流します。

合流地点には大きな桜の木。

毎年、子供たちの成長を見守って来たのでしょう。
帰り際にもう一度、船原小学校跡地を眺めてみた。


確かに何もないけれど
なぜか、この廃校跡地が気に入ってしまいました。
ひょっとしたら、Wikipediaにも載らず、人に知れ渡ることのない廃校。
地元の人しか知らない廃校跡。
そんな廃校跡地であるから気に入ってしまったのかもしれません..............................。
2015/10/15 Thu. 00:00 |
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