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び・び・びのびいすけ

ぼく と 父さん と時々 もっちゃん

御朱印巡り...................八雲神社 (2018年12月19日)(千葉県富津市) 

12月19日

この日は、館山市に向かいましたが
その前に富津市でちょっぴり寄り道を...............

前回、空振りに終わった富津市の神社の御朱印巡り。
再びのチャレンジです。

鶴峰八幡神社を出る前に、宮司さんの在宅を確認した後に
向かった先は................八雲神社。


八雲神社は富津市岩坂に鎮座する神社です。


八雲神社も今回で2回目。
( 前回の訪問記は こちら )




こちらが、社号標。

      20181219八雲神社01



神社社頭。

      20181219八雲神社02

背後に見えるのが鳥居。


こちらが鳥居。

      20181219八雲神社03



緩やかな参道を進み、やがて石段を上がります。

      20181219八雲神社04



石段途中の手水舎。

      20181219八雲神社05




石段を上がりきった先は社殿。

      20181219八雲神社06


こちらが、拝殿。

      20181219八雲神社07



びいすけ もしっかりと参拝。

      20181219八雲神社08


こちらが東照宮。

      20181219八雲神社09



今回は隙間から内部もじっくりと覗いちゃいました。

      20181219八雲神社10

なにせ、上総の地に東照宮があるのは珍しい。

八雲神社の宮司さんからお話を伺うと
徳川時代が始まった頃、とにかく家康が気にしたいたのは南総の里見氏。
そのために、鷹狩りと称して東金の地に出向いたり
有力家臣の本多忠勝を大多喜城に配し、佐貫城には内藤家長を配し
里見氏への監視を強化していました。
そんな経緯もあって、この地には家康を崇拝する文化が在ったそうです。

なるほど.................



という事で、こちらが八雲神社の御朱印。

      20181219八雲神社11

宮司さんの自宅にて拝受いたしました。
このあとに訪問した神社で、こちらの御朱印を見て
『よく八雲神社の宮司さんに会えたね ! 』と言われました。
どうやら、八雲神社の宮司さんは大学の教授もなされていて、
滅多に昼間は在宅していないという事らしい。

まぁ、これも縁。
2回目の訪問でお会い出来たのも、神様の思し召しでしょう。









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2019/01/31 Thu. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

御朱印巡り...................鶴峯八幡神社 (2018年12月19日)(千葉県富津市) 

12月19日

この日は、午前9時過ぎに、急に気が向いて館山市に出かけました。

遠出をするにはちょっと遅い時間になるけど
それもご愛嬌。国道16号を南下。
木更津市からは、国道127号を走ります。

富津市に入ったら、ちょっとだけ寄り道。
ぜんかい、御朱印を拝受し損なった神社に立ち寄ることにしました。

立ち寄った先は.................鶴峯八幡神社。


( 前回の 鶴峯八幡神社 の訪問記は こちら )



こちらが、社号標。

      20181219鶴峰八幡神社01



社頭の鳥居。

      20181219鶴峰八幡神社02



それでは、さくさく〜っとお詣りしちゃいましょう。

      20181219鶴峰八幡神社03



参道。

      20181219鶴峰八幡神社04



手水舎。

      20181219鶴峰八幡神社05



拝殿。

      20181219鶴峰八幡神社06



拝殿正面。

      20181219鶴峰八幡神社07



びいすけ も、しっかりと参拝しました。

      20181219鶴峰八幡神社08



鶴峰八幡神社の授与所脇には、鶴の像。

      20181219鶴峰八幡神社09

やっぱり、鶴峰八幡神社には、コレがなくっちゃね!!



この日は、しっかりと授与所も開いていました。
念願の御朱印も拝受出来ました。

こちらが、鶴峰八幡神社の御朱印。

      20181219鶴峰八幡神社10


社号標は鶴峯八幡神社、拝殿の扁額も鶴峯八幡神社。
千葉県の神社庁のHPを見ても鶴峯八幡神社で登録されているけれど
鳥居の神額や御朱印には、鶴峰八幡宮。

一体どっちが本当なの?





2019/01/30 Wed. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて......................関豊小学校 (2018年9月23日)(千葉県富津市) 

9月23日

この日は、房総半島の富津市に出かけました。


環南小学校をあとにして、向かった先は.............富津市立関豊小学校。


関豊小学校は、

明治6年    御代原村の東光院に豊岡小学校が設立される。
明治7年   小倉村に校舎を移転して、小倉小学校と改称する。
明治8年    豊岡小学校と改称する。
明治20年   村合併により、豊岡村立豊岡尋常小学校と改称する。
明治41年   豊岡尋常小学校と大川崎尋常小学校が合併して
         関豊岡組合村立峰上尋常小学校を設立する。
明治44年   関豊岡組合村立峰上高等尋常小学校と改称する。
大正15年   関村と豊岡村が合併して関豊村が誕生。
         関豊村立関豊尋常高等小学校と改称する。
昭和22年   学制改革により、関豊村立関豊小学校と改称する。
昭和30年   環村と関豊村が合併し峰上村が誕生。
         峰上村立関豊小学校と改称する。
昭和38年   峰上村が天羽町に吸収合併され、新たな天羽町が誕生。
         天羽町立関豊小学校と改称する。
昭和46年   天羽町、富津町、大佐和町が合併し、新たな富津町が誕生する。
         富津町立関豊小学校と改称する
         富津町が市制施行し、富津市誕生。
         富津市立関豊小学校と改称する。
平成27年   環小学校に統合され、廃校となる。


と、このような沿革となっています。



こちらが、関豊小学校の正門。

      20180923関豊小学校01

ゲートは閉められています。


門柱には、簡素な表札。

      0180923関豊小学校02


ゲートには鍵が掛けられ、中には入れそうにはありません。
ゲート越しに校内を眺めます。

鉄筋の校舎。

      0180923関豊小学校03

山間部の学校だったから、児童数も多くなかったのでしょう。
2階建ての校舎です。


校舎の前には百葉箱。

      0180923関豊小学校04


校舎前の国旗掲揚ポール。

      0180923関豊小学校05


校庭の隅に建つ記念碑。

      0180923関豊小学校06

280mmの望遠で寄って確認。
環南小学校と同じような造りの廃校記念碑(閉校記念碑)ですね。


校庭に残された遊具。

      0180923関豊小学校07


正門脇には、防災倉庫。

      0180923関豊小学校08


一応、富津市の避難所になっているようです。

      0180923関豊小学校09



こちらは、体育館。

      0180923関豊小学校10


先程の記念碑を確認してみたいから
敷地反対側に移動してみます。

以前は、教師・職員の通用口、車両通行口だったと思われけれど
今は金網で立ち入り規制。

      0180923関豊小学校11


金網には、工事中の看板。

      0180923関豊小学校12

どうやら、関豊小学校は社会福祉法人に売却されたのか?
はたまた長期に貸し出されているようです。


金網越しに眺める校舎。

      0180923関豊小学校13


そして、校庭。

      0180923関豊小学校14


視線を動かすと、先程の碑が見えます。

      0180923関豊小学校15



フェンス沿いに近寄ってみると、碑の背後に近寄ることが出来ました。

      0180923関豊小学校16

碑の裏面には、関豊小学校の沿革がしっかりと刻まれています。

残念ながら、碑の表側は敷地内からでしか見る事は出来ず、
碑文は確認出来ませんでした。


碑の背後から眺める校舎。

      0180923関豊小学校17


玄関には、『わかあゆの郷』と新しい表札が掲げられています。

      0180923関豊小学校18


敷地内に入れなかったのは残念ですが
校舎もこのまま再利用されているみたいだし
廃校記念碑もこのまま残されていくようです。

いつか碑文を確認出来る日がくればいいなぁ.............。



2018/11/03 Sat. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて..................環南小学校 (2018年9月23日)(千葉県富津市) 

9月23日

この日は、房総半島の富津市に出かけました。


地蔵堂の滝をあとにして、向かった先は...............富津市立環南小学校。


環南小学校は、

明治25年  山中小学校・志駒小学校を併合して駒山小学校を設立する。
昭和12年  駒山村が環村に編入合併して、環村立環第二尋常小学校と改称する。
昭和22年  学制改革により、環村立環第二小学校と改称する
昭和30年  環村と関豊村が合併して峰上村が発足
       峰上村立環南小学校と改称する
昭和38年  峰上村が天羽町と合併し、新たな天羽町が誕生する。
       天羽町立環南小学校と改称する
昭和46年  天羽町、富津町、大佐和町が合併し、新たな富津町が誕生する。
       富津町立環南小学校と改称する
       富津町が市制施行し、富津市誕生。
       富津市立環南小学校と改称する。
平成20年  環小学校に統合され、廃校となる。

と、このような沿革となっています。



県道182号線、通称「もみじロード」沿いに建つ看板。

      20180923環南小学校01

環南小学校は、地域の避難場所に指定されています。


こちらが、正門。

      20180923環南小学校02



門柱には、往時の表札がまだ残されています。

      20180923環南小学校03


ふと、目を凝らすと
門柱に手前に怪しげな電線。

      20180923環南小学校04


よく見ると...............

      20180923環南小学校05

危険と促す看板。
実は、野生動物の侵入のために電流を流した電線が張り巡られています。



びいすけ を抱きかかえて、ヒョイと電線を跨ぎ
校内へと入ります。


三角屋根の3階建ての鉄筋の校舎。
校門の先には、校舎竣工記念の碑。

      20180923環南小学校06


こじんまりとした鉄筋コンクリート造りの校舎。

      20180923環南小学校07


      20180923環南小学校08


      20180923環南小学校09



校舎の前には、国旗掲揚ポール。

      20180923環南小学校10





それなりの広さを持つ校庭。

      20180923環南小学校11



校庭の一角には、廃校記念碑(閉校記念碑)。

      20180923環南小学校12

やっぱり、廃校にはコレがなくっちゃ!


裏面には、詳しい沿革も記されています。

      20180923環南小学校13



校庭に残る遊具類。

      20180923環南小学校14


      20180923環南小学校15


      20180923環南小学校16


こちらご、体育館。

      20180923環南小学校17


残念ながら、二宮像は見当たらなかったけれど
校舎脇には、創立百周年記念碑。

      20180923環南小学校18

おそらく、この記念碑を建てた頃には
まさか廃校になるなんて、予想もしていなかったんでしょう。

それだけに、校舎と百周年記念碑が並んでいると
ちょっぴり残念な気がします。



2018/11/02 Fri. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

地蔵堂の滝 (2018年9月23日)(千葉県富津市) 

9月23日

この日は、房総半島の富津市に出かけました。


梨沢分校をあとにして、向かった先は...................地蔵堂の滝。


富津市の山間部、志駒川に 沿って延長約10kmに続く県道182号(上畑湊線)は、
通称「もみじロード」と呼ばれ、 県内屈指のもみじの名所として、
約1000本のもみじが生い茂ります。
地蔵堂の滝は、そんな『もみじロード』の途中にある滝です。

勇壮な滝の音を聞きながら、鮮やかに染まる紅葉を観ることができますが
紅葉の時期には、まだ早い。
でも、せっかく富津市に来ているし、
すぐ近くには、別な目的地もあるから、寄らない訳にはいきません。

地蔵堂の滝は、別名『白糸の滝』とも呼ばれ、
橋の上から観ることができます。


目標は、もみじロード沿いの上郷公会堂。
公会堂前の路肩に車を停めます。


公会堂の向かいに滝の看板。

      20180923地蔵堂の滝01


道路沿いに建ち、見逃すことはない。

      20180923地蔵堂の滝02


じっくり見ると、下の方に何やら書いてある。

      20180923地蔵堂の滝03


何、橋の下?

      20180923地蔵堂の滝04


橋の上にから上流を眺めると..................

      20180923地蔵堂の滝05


確かに、木々の葉の間から流れ落ちる滝が確認できる。

      20180923地蔵堂の滝06


思ったほどよりは、滝が小さいと言うか、
木々の葉に隠れて見えづらい。
びいすけ と滝のコラボも難しい。

      20180923地蔵堂の滝07


やっぱり、この位置、このアングルが一番滝っぽく見える。

      20180923地蔵堂の滝08


公会堂の裏手から川に降りて行く道があったらしいが
今は藪となり、行く手を阻んでいるようです。

橋の上から木々の葉の間からしか覗けない、
ちょっぴり残念な滝でした。





2018/11/01 Thu. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて......................天神山小学校梨沢分校 (2018年9月23日)(千葉県富津市) 

9月23日

この日は、房総半島の富津市に出かけました。

八雲神社をあとにして、向かった先は.........富津町立天神山小学校梨沢分校。



梨沢分校は、
明治7年    梨沢村の薬師堂に梨沢小学校が設立される。
明治8年    不入斗小学校の分校となる。
明治20年   分校から独立して梨沢簡易科小学校となる。
明治25年   天神尋常小学校(のちに天神尋常高等小学校と改称)の分校となる。
明治42年   天神山尋常高等小学校の分教場と改称する。
昭和22年   学制改革により天神山村立天神山小学校梨沢分校と改称する。
昭和30年   湊町、金谷町、竹岡村、天神山村が合併して天羽町が誕生。
        天羽町立天神山小学校梨沢分校と改称する。
昭和46年   天羽町が富津町、大佐和町と合併し、新たな富津町が誕生。
        本校に統合されて廃校となる。

と、このような沿革となっています。


富津市の山あいを進み、梨沢集落を目指します。
狭い道を進み、辿り着きました。

こちらが、かつての正門。

      20180923梨沢分校01


そして、門柱。

      20180923梨沢分校02


こちらが、かつての校舎。

      20180923梨沢分校03


木造平屋建ての小さな校舎。

      20180923梨沢分校04


      20180923梨沢分校05


      20180923梨沢分校06


現在は、梨沢公民館として活用されているようです。

      20180923梨沢分校07

この日も数台車が停まっていて、
地域の人がこちらに集合して、
集落を繋ぐ県道の草刈りをされていました。


かつての校舎前に建つ記念碑。

      20180923梨沢分校08

『天神山小学校梨沢分教場跡』と刻まれています。



裏面には簡略な沿革が刻まれています。

      20180923梨沢分校09


校舎の規模から分かるように、敷地もそんなに広くはない。

      20180923梨沢分校10

跡地の日は在るものの、二宮像は無く
遊具類も残っていない。


敷地の周りにある数本の桜の木。

      20180923梨沢分校11

春には綺麗な花が咲くことでしょう。
そして、その桜と木造校舎のライムグリーンのコントラスト。
是非、見てみたいなぁ。










2018/11/01 Thu. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

八雲神社 (2018年9月23日)(千葉県富津市) 

9月23日

この日は、房総半島の富津市に出かけました。


八幡分校をあとにして、向かった先は...............八雲神社。



八雲神社は、富津市岩坂に鎮座する神社です。

八雲神社の歴史は古く、景行天皇40年(110年)、日本武尊が東征の折、
この地に神籬磐境を立てて、『素盞鳴命』を祀ったそうです。

のちの景行天皇53年(123年)に、景行天皇が東国巡幸の際に、
この地に素盞鳴命を祭神とした社殿を造営し、八雲大神の神号を与え、
磐鹿六葛命に命じて祭祀を行わせ、天羽郡総鎮守と称したとされています。

時は流れ中世になると、源氏、上杉氏、真里谷武田氏、里見氏などの崇敬を受けたとされています。


御祭神は、素盞鳴命、奇稲田姫命、大巳貴命。



こちらが、八雲神社の社号標。

       20180923八雲神社01


ここから参道が始まります。

      20180923八雲神社02


社号標の先には鳥居。

      20180923八雲神社03


鳥居の先は石段。

      20180923八雲神社04


石段を上がれば、手水舎。

      20180923八雲神社05


社殿が見えてきました。

      20180923八雲神社06


石段の先には狛犬。

      20180923八雲神社07


      20180923八雲神社08



こちらが、拝殿。

      20180923八雲神社09


拝殿正面。

      20180923八雲神社10


拝殿正面に掲げられた扁額。

      20180923八雲神社11


拝殿正面の提灯。

      20180923八雲神社12


別アングルからの拝殿。

      20180923八雲神社13


      20180923八雲神社14


拝殿廊下の欄干には、絵馬が飾られています。

      20180923八雲神社15


そして、こちらが本殿。

      20180923八雲神社16


本殿裏手の参道口。

      20180923八雲神社17


鳥居の先には小さな祠が並ぶ。

      20180923八雲神社18


境内にある立て看板。

      20180923八雲神社19


この八雲神社の境内には東照宮が在ります。

      20180923八雲神社20

佐貫城も近いし、里見氏の崇拝も受けたと言うこともあるのに
家康公とは、ちょっと驚き。
この地では珍しいんじゃないのかなぁ?


こちらは、御神木のようですが管理はイマイチのような気がします。

      20180923八雲神社21


こちらは、社務所。

      20180923八雲神社22

普段は無人の社務所。
当然、閉まってます。

宮司さんと連絡を取ってみると、
この日は埼玉県に出かけているとの事で
御朱印は拝受することは出来ませんでした。

まあ、世の中3連休だし、
宮司さんも人の子。
連休で出かける用事もあるでしょう。

と、言いながらも富津市の神社の御朱印、連続して空振り。
ちょっとだけ残念です。






2018/10/31 Wed. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて...............天神山小学校八幡分校 (2018年9月23日)(千葉県富津市) 

9月23日

この日は、房総半島の富津市に出かけました。


富津市には、Wikipediaにも記載されていない廃校があります。
(正式には、廃校跡になりますが...............)

旧・富津町立佐貫小学校八幡分校と言う小学校の分校でした。

でも詳しい情報はネットでも確認出来ず、
その場所さえ分からない状態でした。
唯一の手掛かりは、八幡と言う地名。
明治期の八幡村、おそらく鶴峯八幡神社があるから八幡村ということになったのでは?
勝手な予想と推理。

鶴峯八幡神社の前で、地元の御老人に尋ねたら
大正解。意外に簡単に探し当てる事が出来ました。



八幡分校の詳しい沿革は分かりませんが
本校である佐貫小学校のHPの沿革を見ると、

明治6年   八幡村に小学校が設立される。

とあります。この小学校が八幡分校の始まりだと思われます。
幾多の町村合併をへて、変遷し
いつの時代に佐貫小学校の分校になったのかは不明ですが.........

昭和46年   本校に統合されて廃校となる   

と言った沿革になるようです。


鶴峯八幡神社から徒歩わずか。
一目で廃校跡だと分かる空き地がありました。

こちらが、かつての正門。

      20180923八幡分校01



門柱には、『鶴峯八幡宮 駐車場』(鶴峯八幡神社)の看板。

      20180923八幡分校02


コンクリート製の門柱。

      20180923八幡分校03

おそらく、昭和の初期あたりに作られた門柱でしょう。


門柱の裏には寄贈者の名が刻まれています。

      20180923八幡分校04

おそらく、当時の地元の有力者だったんでしょう。


昭和46年に廃校。
今から47年前の事だから、校舎は既に解体済み。

      20180923八幡分校05


何もない更地。
チェーンが掛けられて、普段は勝手に乗り入れ出来ませんが
鶴峯八幡神社の臨時の駐車場として利用されているようです。

      20180923八幡分校06


廃校記念碑や二宮像も、子供たちが遊んだ遊具もない。

      20180923八幡分校07



本当に学校遺構らしきモノが校庭には残されていない。

      20180923八幡分校08



敷地の片隅には、古井戸。

      20180923八幡分校09

分校時に使われていたモノだろうか?



門柱脇の楠の木。

      20180923八幡分校10

幹周りを見れば、それなりに立派だが
上部を伐採されて、見る影もない。
きっと、かつてのシンボルツリーだったと思うんだけど。


この場所を見て、かつての分校跡だと気付く人は何人いるのだろうか...............?






2018/10/30 Tue. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

鶴峯八幡神社 (2018年9月23日)(千葉県富津市) 

9月23日

この日は、房総半島の富津市に出かけました。

佐貫日枝神社をあとにして、向かった先は..................鶴峯八幡神社。


鶴峯八幡神社は、富津市八幡に鎮座する神社です。


社伝によれば、養老年間(717年〜724年)に創建とされる歴史のある神社です。

この辺りの海(八幡浦)は大風濤に見舞れ、いつなぎるともなく漁師は大変困窮しました。
この時、八幡大神の神助を祈願したところ、その御加護があって忽ち風濤が収まったと言う事です。
そこで土地の人々は、京都の岩清水八幡を勧請し、神社を創建し、御神徳に奉謝したのか始まりとされています。

また、源頼朝が安房から鎌倉へと北上する際に、上総のこの地にて篤く奉賽し、
武運長久を祈願したとされ、鎌倉時代初期に源頼朝・上総介広常による神領の寄進があったそうです。

中世には、歴代の佐貫城主である上総武田氏、里見氏の尊崇を受けたそうです。。

千葉県には鶴を冠する八幡神社が多く、他に館山市八幡の鶴谷八幡宮、市原市中高根の鶴峯八幡宮などがあります。
関東の三鶴、いわゆる三鶴八幡には諸説ありますが、
市原市中高根の鶴峯八幡宮ではなく、こちらの鶴峯八幡神社、館山市八幡の鶴谷八幡宮、
鎌倉の鶴岡八幡宮を三鶴八幡とする説もあるようです。


御祭神は、誉田別尊、玉依姫命、神功皇后



駐車場も何ヶ所も用意され、地域の鎮守としての位置付けが高いようです。
二の鳥居前の駐車場には、由緒書き。

      20180923鶴峯八幡神社 01


さらには、境内案内図も完備。

      20180923鶴峯八幡神社02


こちらが、社号標。

      20180923鶴峯八幡神社03


そして、二の鳥居。

      20180923鶴峯八幡神社04

この時点では、さらに海側に一の鳥居が有るとは知りませんでした。


二の鳥居の神額。

      20180923鶴峯八幡神社05

こちらは、『鶴峰八幡宮』

確か、社号標には『鶴峯八幡神社』と記されていたはず?

どうやら、鶴峯八幡神社が本来の社号のようですが
鶴嶺八幡宮とか、鶴峰八幡宮とも呼ばれているらしい。


参道口右手側の由緒書き。

      20180923鶴峯八幡神社06


参道口の左手側には、鶴の像。

      20180923鶴峯八幡神社07



そして、狛犬。

      20180923鶴峯八幡神社08


      20180923鶴峯八幡神社09


石段の先にも狛犬。

      20180923鶴峯八幡神社10


      20180923鶴峯八幡神社11


      20180923鶴峯八幡神社12


さらに、別な対の狛犬。

      20180923鶴峯八幡神社13


      20180923鶴峯八幡神社14

都合、参道には3対の狛犬が鎮座しています。



社殿が見えてきました。

      20180923鶴峯八幡神社15


こちらは、手水舎。

      20180923鶴峯八幡神社16


定番の龍の吐出口。

      20180923鶴峯八幡神社17


手水舎の脇には祓幣。

      20180923鶴峯八幡神社18

「手水舎で身を清め、祓幣で心を清めよ」と言うことでしょうか?



こちらが、拝殿。

      20180923鶴峯八幡神社19


      20180923鶴峯八幡神社20


拝殿正面。

      20180923鶴峯八幡神社21


拝殿正面口に掲げられた扁額。
こちらは、『鶴峯八幡神社』。

      20180923鶴峯八幡神社22


さらに、拝殿内にも別な扁額。
こちらは、『鶴峰八幡宮』。

      20180923鶴峯八幡神社23


別アングルからの拝殿。

      20180923鶴峯八幡神社24


      20180923鶴峯八幡神社25



拝殿前の提灯。

      20180923鶴峯八幡神社26


そして、こちらが本殿。

      20180923鶴峯八幡神社27


境内社の浅間神社。

      20180923鶴峯八幡神社28

鳥居の奥に富士塚があり、その両脇にも碑が建っています。



富士嶽大神。

      20180923鶴峯八幡神社29


富士◯◯神社。(◯が判別出来ませんでした)。

      20180923鶴峯八幡神社30


境内社・祖霊社。

      20180923鶴峯八幡神社34



境内社・粟島社。

      20180923鶴峯八幡神社35


境内社。

      20180923鶴峯八幡神社31


境内社。

      20180923鶴峯八幡神社32


境内の末社。

      20180923鶴峯八幡神社33



御神木。

      20180923鶴峯八幡神社36
      20180923鶴峯八幡神社37



境内には、大きな錨も奉納されています。

      20180923鶴峯八幡神社38

さすが、漁師の町の鎮守様。


こちらが、社務所。

      20180923鶴峯八幡神社39

なぜか閉まっていて、9時半を過ぎてもこの日は無人。


駐車場の脇、二の鳥居の近くに鎮座する厳島神社(弁天宮)。

      20180923鶴峯八幡神社40



浜辺(新舞子海岸)の方へ進めば、一の鳥居。

      20180923鶴峯八幡神社41

ら9時半過ぎまで社務所に人が現れるのを待ちましたが
結局、誰も現れず御朱印は断念。

まあ、御朱印巡りをしていれば、こんな事もあるでしょう。


2018/10/30 Tue. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

佐貫日枝神社 (2018年9月23日)(千葉県富津市) 

9月23日

この日は、房総半島の富津市に出かけました。

佐貫城址をあとにして、次なる目的地へと車を走らせると
すぐさま、説明板の建つ鳥居が目に留まった。

ひょっとしたら、何かの文化財?
ちょっと気になる.............

すぐさま、Uターン。
適当な路肩に車を停めて、立ち寄った先は.............佐貫日枝神社。


佐貫日枝神社は、富津市佐貫に鎮座する神社です。
御祭神は、誉田別尊・倉稲魂命・菅原道真。



こちらが、その説明板。

      20180923佐貫日枝神社01


富津市の教育委員会が設置したモノかと思ったら
氏子総代の個人の方が建てた説明板。
御祭神には触れているけれど、由緒には余り触れていない。


ネットで調べても詳しい由緒は不明。
明治四十三年に旧・城内に鎮座していた天神社を合祀したようです。
寛永七年の佐貫城古図に、本丸の東南に神社マークらしき印が見えるそうです。
一説だは、創建は1630年らしいとのことです。




佐貫日枝神社の鳥居。

      20180923佐貫日枝神社02


鳥居には立派な注連縄。

      20180923佐貫日枝神社03


手水舎の代わりに、小さな手水鉢。

      20180923佐貫日枝神社04



社殿もそんなに大きくはなく、意外に質素。

      20180923佐貫日枝神社05


正面の注連縄がなければ、社殿に見えないかもしれない。

      20180923佐貫日枝神社06



独特の表情の狛犬。

      20180923佐貫日枝神社07


石の風化具合いから見て、それなりの年代物のようにも見える。

      20180923佐貫日枝神社08


とりとめて、特徴のある神社ではないけれど
数百m先には、佐貫城が在り身近な存在として
歴代の佐貫城址の加護を受けていたのかもしれない。

おそらく、再び参拝に訪れる事はないかと思うけれど、
ここもまた、八百万の神の一つ。
佐貫城址に訪れなければ、その存在さえも知らなかった小さなお宮。
これも、一つの縁でしょう。





2018/10/29 Mon. 15:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

佐貫城址 (2018年9月23日)(千葉県富津市) 

9月23日

この日は、房総半島の富津市に出かけました。


富津岬をあとにして、向かった先は...............佐貫城址。



佐貫城は、応仁年間(1467年〜1468年)に武田義広により築城されたとされています。
(それより以前に関東管領上杉氏の家宰・長尾氏によって築かれていたとの説あるようです。)

天文6年(1537年)、真里谷氏に跡目争いが生じ、真里谷信隆の拠った佐貫城は、
真里谷信応を支援する足利義明・里見義堯等により攻められ落城します。

天文14年(1545年)、上総・安房の攻略を目指す北条氏康が佐貫城を占領します。
以後、佐貫城は上総・安房における要の地として、里見氏と後北条氏の争奪の舞台となります。

永禄5年(1562年)、上杉謙信に古河御所を追われた古河公方足利義氏が、
北条氏康の保護の下に佐貫城に仮の御所を置きます。

永禄6年(1563年)、里見義弘が再度佐貫城を奪還して、
足利義氏は鎌倉へと退避します。

天正6年(1578年)、里見義弘が佐貫城で病死すると、里見家の内紛が勃発します。
安房国にいた里見義頼が、嫡男・梅王丸と佐貫城城代・加藤信景を攻めて屈服させ、
里見家の家督を継承します。以後、里見氏の本拠は安房に移ります。

天正18年(1590年)、小田原征伐後、里見氏は安房一国に減封され、
関東を与えられた徳川家康の家臣である内藤家長が入城します。
徳川幕府成立後、佐貫藩は松平、柳沢、阿部と城主が変わり、廃藩と立藩を繰り返しながらも、
明治4年(1871年)、廃藩置県に伴い、佐貫城は廃城となりました。




明治4年(1871年)、廃藩置県に伴い佐貫城は廃止されました。


こちらは、佐貫城の縄張り図。

      佐貫城址縄張り図


(余湖さんのHPにてお借りしました。)



城址入口に建つ説明板。

      20180923佐貫城址01

こちらが、大手にあたります。



では、北条と里見の房総半島の覇権を巡っての争いの
要の地となった佐貫城を びいすけ と共に攻略いたしましょう。

      20180923佐貫城址02


城址碑の建つ三の丸虎口。

      20180923佐貫城址03


こちらが、三の丸。

      20180923佐貫城址04


以前は下草もキチンと刈られ、しっかりと管理されていたようですが
今は、雑草の宝庫。

      20180923佐貫城址05

藪化している曲輪内に入って行く勇気はありません。



大手櫓門。
      20180923佐貫城址06

千葉県内では唯一の石垣による虎口遺構ということですか、
雑草に覆われていて、その石垣が見えない。


三の丸から二の丸へと向かいます。

      20180923佐貫城址07


登城路は、数日前の雨でちょっとぬかるみ状態。

      20180923佐貫城址08

滑って転ばないように慎重に歩きたいんだけど
この子が先へ先へと行きたがるんだなぁ(笑)。



二の丸虎口。

      20180923佐貫城址09


二の丸も登城路はあるものの、一歩外れれば下草の中。

      20180923佐貫城址10


鬱蒼と木々も繁る。

      20180923佐貫城址11


二の丸から本丸への土橋。

      20180923佐貫城址12

綺麗に土橋が遺っています。


土橋とくれば、当然『空堀』。

      20180923佐貫城址13

見事な空堀です。


本丸虎口。

      20180923佐貫城址14


そして、本丸。

      20180923佐貫城址16



本丸も下草+雑木林状態。

      20180923佐貫城址15


まあ、廃城から140年の時が流れているんだから
雑木林にもなることでしょう。

      20180923佐貫城址21



本丸の土塁。

      20180923佐貫城址22



本丸の奥は尾根。

      20180923佐貫城址17


尾根伝いに進んで行けば...............

      20180923佐貫城址18



北の物見台。

      20180923佐貫城址19


なかなかの眺望です。

      20180923佐貫城址20

戦国時代、里見家の家臣は
この場所で北条家の侵略を見張っていたのでしょうか?
     


本丸から東へ進めば............

      20180923佐貫城址23


東の物見台。

      20180923佐貫城址24


こちらは、海がバッチリ見える。

      20180923佐貫城址25


相模の三崎半島からの北条水軍をこの場所で見張っていたのでしょうか?


久しぶりの城址攻略。
薮のような草さえなければ、三の丸、二の丸も
もっと探索できたのだか、仕方がない。

やっぱり城址攻略は、草の枯れた時期が良いですね。


でも、この佐貫城、なかなかの城だったのは
歩いてみて分かりました。


2018/10/29 Mon. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

関東の富士見百景 《 房総半島(富津市)からの富士 》 (2018年9月23日)(千葉県富津市) 

9月23日

この日は、房総半島の富津市へ出かけました。

個人的に富士山は好きで、
富士山の景勝地はなぜかテンションが上がります。

富士山への良好な眺望を得られる地点を選定し、
周辺の景観の保全や活用への支援を通じて、
美しい地域づくりの推進を目的として
平成17年に、国土交通省関東地方整備局が主催して選定したのが、
『関東の富士見百景』です。
百景と言いながらも、富士山への良好な眺望が得られる128景233地点となります。

その『関東の富士見百景』の一つか、富津市にもあります。


房総半島にニョイと突き出た富津岬。
その富津岬の先端が『関東の富士見百景』になります。


その富津岬の先端には、近代的(?)な構造の展望台が建っています。
その名もズバリ、『富津岬展望台』。

      20180923富津岬01



展望台前には案内看板。

      20180923富津岬02


この看板にも、『関東の富士見百景』に触れている。

      20180923富津岬03


そして、別な説明板。

      20180923富津岬04

こちらは、大平洋戦争の遺構になる『東京湾海堡』について触れています。



あらため、展望台前にて。

      20180923富津岬05


      20180923富津岬06


あいにくの曇り空で富士山は期待出来ないけれど、
展望台に上がってみましょう。

      20180923富津岬07


意外に風が強い。

      20180923富津岬08

びいすけ の耳も風にたなびいてます。


展望台頂部まで、あと少し。

      20180923富津岬09


頂部に到着。

      20180923富津岬11

残念ながら、完璧すぎる曇り空。
富士山は全く見えません。


展望台の手摺りには、例のプレート。

      20180923富津岬10

やっぱり、コレがなくっちゃ!!


      
おそらく、この方向に富士山が見えるはずなんだと思うだけど.........

      20180923富津岬12

厚い雲で影も形も確認できません。


東京湾の対岸。

      20180923富津岬13

横浜あたりでしょうか?



こちらが、東京湾第1海堡。

      20180923富津岬14

明治時代に富国強兵を目ざして建設された人工島。



こちらは、東京湾第2海堡。

      20180923富津岬15

太平洋戦争では、共に東京湾防備の要とされた海上砲台です。


そして、こちらは富津市側(背後側)。

      20180923富津岬16

そびえ立つ、東京湾観音。


東京湾観音は富士山を眺めながら
末長い日本の平和を願っているのだろうか.........?


しかし、この日も富士山を眺めることが出来ず、
富士山との相性の悪さを改めて思い知らされました............。




2018/10/28 Sun. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

竹岡海岸   (2017年3月9日)(千葉県富津市) 

3月9日 公休日

この日は、房総半島の南房総市に出かけました。

南房総市に向かう途中に立ち寄った、富津市の黄金井戸。
その黄金井戸から国道127号線を挟んだ反対側は海。

地区的に言えば、富津市竹岡だから、竹岡海岸になるのでしょうか?

東京湾越しに見える富士山をもっと見ようと
海岸へと向かいました。

とは言え、黄金井戸の前にあるのは、富津市の天羽漁協。
漁協の裏手は漁港になっていて、こちらに水揚げされているみたい。

漁協の裏手を周り、民家の間を抜けて、海辺へと向かいます。

やがて、ちょっとした岩場になります。

      20170309竹岡海岸01


晴れてはいるものの、少しづつ霞が掛かってきたようです。

肉眼では、うっすらと富士山が見えますが
カメラのレンズ越しだと、はっきり見えない。

      20170309竹岡海岸02


何と無く、ぼやけている富士山。

びいすけ の背後に富士山がうっすらと見えるのですが
レンズを通すと、ピント(焦点)が びいすけ に合っているから
どうしても、富士山がボヤけてしまいます。

      20170309竹岡海岸03


      20170309竹岡海岸04


      20170309竹岡海岸05


何と無く富士山が在るように見えるけど
無いようにも見える。

やっぱり相性なのか?

もう少し朝早い時間帯ならば、ハッキリとレンズ越しでも
富士山が確認出来るのだろうか?

まだまだ、富士山との相性は良くないみたいです...............(笑)。





2017/04/01 Sat. 16:16 | trackback: -- | 本文: -- | edit

黄金井戸  (2017年3月9日)(千葉県富津市) 

3月9日  公休日

個人的な連休初日。

この日は、房総半島の南部である南房総市に出かけました。

南房総市へ向かう途中で、立ち寄ったのは...............黄金井戸


黄金井戸は
国道127号線沿いの広さ3~4畳敷程、高さ約3メートル、
水深約70センチメートルの海蝕洞穴で、
海岸暖地のためか池水の氷結や枯渇がなく、
水面いっぱいに黄金色を現出します。
これは池の中に発生した光藻で、毎年3~5月頃、黄金色に輝き出し、 
池の水を黄金色にしているものです。^_^
国の天然記念物に指定されているそうです。


実は、海岸線の国道127号線を車で走る度に
この看板を見て、以前から気になっていました。

      20170309黄金井戸01

いつもは、看板に気づいた後にUターンしようか?、止めようか?
そんなことを悩みますが、この日は、最初から立ち寄る予定で
看板を見逃さないようにしていました。


敷地の一角に車を停め、黄金井戸の見学です。

敷地はそんなに広くないですが、
車は5台くらい停められそうです。

      20170309黄金井戸02



崖に祠やら鳥居が立ち並び、この一角が独特の雰囲気を醸し出しています。

      20170309黄金井戸03


神社でもないのに鳥居?

      20170309黄金井戸04

弁財天を祀っているらしいから、ある意味、鳥居は正解かも?


しかしながら、鳥居の扁額には『黄金井戸』。

      20170309黄金井戸05



そして、鳥居脇にはなぜか七福神?

      20170309黄金井戸06



説明板も、しっかり建てられています。

      20170309黄金井戸07

こちらは、『黄金井戸』ではなく、『竹岡のヒカリモ発生地』として説明されています。


『黄金井戸』に続く石段の手前には、天然記念物の標柱。

      20170309黄金井戸08


      20170309黄金井戸09



それでは、黄金井戸を覗いて見ましょう。

      20170309黄金井戸10



池と言う割には、そんなに大きくはない。

      20170309黄金井戸11


      20170309黄金井戸12



確かに、池は黄金色っぽく見える。

      20170309黄金井戸13

3月〜5月に黄金色になると言うことだから、
もうちょっと経ってから見れば、もっと黄金色に見えるのでしょう。



敷地の一角に在る井戸。

      20170309黄金井戸18

まさか、こちらを『黄金井戸』と勘違いする『うっかりさん』は居ないよねぇ(笑)。


敷地の一角にある石段。
石段の奥に社が見えます。

せっかくだから、上がって見ましょう。

      20170309黄金井戸14


『皇神社』(すめらじんじゃ)と言うらしい。

      20170309黄金井戸15



皇神社よりも、高台にあるから東京湾の眺望の方が気になります。

画面真ん中には、うっすらと富士山が見えます。

      20170309黄金井戸16



久しぶりの富士山。
思わず、ズーム。

      20170309黄金井戸17



最近は、富士山と相性が悪かったから
久しぶりに眺める事が出来た富士山にちょっぴり感動。

この後に、竹岡海岸に足を伸ばしたのは言うまでもありません...............。


2017/04/01 Sat. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

虚空蔵陣場跡  (2015年6月5日)(千葉県富津市) 

6月5日 公休日

この日は、富津市に出かけました。


小久保陣屋跡をあとにして、向かった先は...............虚空蔵陣場跡


虚空蔵陣場は
永禄10(1567)年の三舟山合戦で、三舟山に陣取った北条軍に対して、
里見義弘が陣を置いたのが、ここ虚空蔵山であったと言われています。
虚空蔵山は三舟山のすぐ南側に向かい合っていて、
泉汲寺のすぐ南側にそびえている山稜です。
その虚空蔵山に陣を置き、里見軍は障子谷の泥田地帯に北条軍をおびき寄せます。
地勢をわきまえた里見軍の攻撃に遭って北条軍は敗退します。
これによって里見氏は劣勢を回避し、再び上総での覇権を回復することができました。



こちらが虚空蔵陣場跡の縄張り図

      虚空蔵陣場縄張り図

          (  
余胡くんのお城のページ  よりお借りいたしました )




虚空蔵山の麓にある泉汲寺

      20150605虚空蔵陣場跡01


      20150605虚空蔵陣場跡02


泉汲寺の奥から虚空蔵山に上がって行く道があるものと思い
境内奥へと向かいますが、厳しい斜面に遮られます。

      20150605虚空蔵陣場跡03



仕方がないので、泉汲寺から反時計回りに虚空蔵山の麓を移動し
登城口(登城路)を探します。

      20150605虚空蔵陣場跡04

右手の民家の裏あたりから、山へ上って行けそうですが
庭先で飼っている犬に激しく吠えられ、やむなく諦めます。

びいすけ を連れているから、なおさら犬は吠えますね(笑)。


さらに先へと進みますが、畑となり鉄線が張られその先へは行けません。

この山の上が陣場跡なんだけど
行く手を阻まれてしまっています。

      20150605虚空蔵陣場跡05

仕方ないので、南側からの登城は諦めます。

      20150605虚空蔵陣場跡06



再び泉汲寺に戻り、登城路を探しますが見つかりません。

この台地の上が陣場跡なんですけどねぇ。

      20150605虚空蔵陣場跡07



結局、登城路は見つからず、虚空蔵陣場跡の要な部分には行くことが出来ず
時刻も15時を回ったので、やむなく撤収することに...............。

虚空蔵陣場跡の遠景。

      20150605虚空蔵陣場跡08

右端に見えるのが泉汲寺。



北条氏政率いる北条軍を敗北せしめた里見軍の陣跡。
遺構らしきものはあまり無いとのことですが
北条ファンとしては、敵ながら北条軍を破った里見軍に敬意を表して
その陣跡を見ておきたかったのだか、残念です。

三船山の合戦では、八幡山にも里見軍は陣を張ったと言われているので
機会があれば、そちらの陣場跡も見に行ってみたいものです。


2015/06/26 Fri. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

小久保陣屋跡  (2015年6月5日)(千葉県富津市) 

6月5日 公休日

この日は、富津市に出かけました。


飯野陣屋跡をあとにして、向かった先は...............小久保陣屋跡



小久保陣屋は
明治維新期の短期間、上総国に存在した小久保藩の藩庁です。
1868年に遠江相良藩の田沼家が移封され、小久保藩(1万石)を立藩しました。
1871年の廃藩置県まで存続しました。

小久保陣屋は、富津市中央公民館敷地一帯に築かれていました。 
この辺りは、少し高台になった地形で、公民館駐車場内には弁天山古墳があり、
この古墳を取り囲むように陣屋が築かれていました。

古墳上部への登り口脇に古墳の案内板と陣屋の石碑が立てられいます。 
また、藩庁の屋敷にあった庭園の一部が駐車場南側にあり、
その案内板が立てられています。



こちらが小久保陣屋跡の縄張り図

      小久保陣屋縄張り図

          ( 余胡くんのお城のページ  よりお借りいたしました )



まずは、お目当の『小久保陣屋跡』の碑。

      20150605小久保陣屋跡01


      20150605小久保陣屋跡02


碑の裏面には小久保陣屋について書かれています。

      20150605小久保陣屋跡04




そして、小久保藩邸と藩校についての説明看板。

      20150605小久保陣屋跡03



石碑の前は中央公民館と市役所支所の駐車場。

      20150605小久保陣屋跡05

なぜか、この日は駐車場が満車。
地元の人も車が停められず、驚いていました。
何か、特別な行事でもあったのでしょうか?



そして、こちら弁天山古墳。

      20150605小久保陣屋跡06


まるで土塁のような古墳。
古墳の一部が城塁を兼ねていたようです。

      20150605小久保陣屋跡07


弁天山古墳の碑。

      20150605小久保陣屋跡08



せっかくだから、古墳の上に上がってみましょう。

      20150605小久保陣屋跡09



古墳頂部にて

      20150605小久保陣屋跡11


      20150605小久保陣屋跡12


古墳と言うよりは土塁に見えてしまうのは
城郭ファンだからかな?

      20150605小久保陣屋跡13



駐車場の先には、東京湾が見えたりする。

      20150605小久保陣屋跡10



陣屋跡地に建つ中央公民館。

実は、この地には小久保藩の藩校も建っており
それが後々の大貫小学校へと変遷していきます。

すなわち、大貫小学校発祥の地と言うことです。

      20150605小久保陣屋跡14


      20150605小久保陣屋跡15



現在の中央公民館。

      20150605小久保陣屋跡16

おそらく、小久保藩の藩校も大貫小学校も
こんな感じで建っていたのだろうか?




駐車場の南側には、小久保藩庁と藩主邸があったようです。

      20150605小久保陣屋跡17


こちらが、その縄張り図。

      20150605小久保陣屋跡18


      20150605小久保陣屋跡19



古びた井戸も残っています。

      20150605小久保陣屋跡20



この辺りに藩主邸があったようです。

      20150605小久保陣屋跡21



なぜか、藩主邸のエリアまで車が停められています。

      20150605小久保陣屋跡22



動乱の幕末を経て、明治維新へと新しい時代を迎え
あらたに立藩した小久保藩と小久保陣屋。

たった3年と言う短い期間だったようですが
しっかりとその跡をこの地に残しているようです。



2015/06/25 Thu. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて........番外編   飯野中学校跡   (2015年6月5日)(千葉県富津市) 

6月5日 公休日

この日は、富津市に出かけました。

飯野陣屋跡を捜している時に偶然にも、ある石碑を見つけました。
石碑には、『飯野中学校跡』と刻まれています。

基本的には、小学校の廃校廃校跡地を巡るのが好きですが、
偶然見つけた廃校跡地(?)。
これも何かの縁でしょう。

と、言うわけで番外編にはなりますが.............
偶然見つけたのは、旧・飯野村立 飯野中学校




飯野中学校は
昭和23年 新学制6・3制実施に伴い飯野村立飯野中学校として開校する。
昭和30年 飯野村が富津町、青堀町と合併し、改めて富津町を新設。同日飯野村廃止。
富津町立飯野学校と改称する。
昭和42年 富津中学校に統合して廃校となる。

ざっと、このような沿革のようです。



目に入った石碑がこちら。

      20150605飯野中学校跡01

最初は飯野陣屋関連の石碑かと思っていたら、思い切り違ってました。



廃校時には、富津町立飯野中学校でしたが、
敢えて、『飯野村立飯野中学校跡』としたところに
旧・飯野村の地元の心意気を感じます。

      20150605飯野中学校跡02



こちらは、『飯野中学校記念誌発行記念』の碑。

      20150605飯野中学校跡03


似たような石材が2基でセットなっていると言うことは
ひょっとしたら、飯野中学校の門柱を記念碑にしているのだろうか?

      20150605飯野中学校跡04



これらは、昭和25年度の卒業生によって寄贈されたモノらしい。

      20150605飯野中学校跡06




石碑の背後に建つのは、公民館。

      20150605飯野中学校跡08


山王公民館原分館 と看板がありますが
果たして、現在も公民館として使われているのだろうか?

      20150605飯野中学校跡07




元々は、飯野陣屋の二郭(二の丸)に建てられた飯野中学校。
廃校からすでに48年の月日が流れ、校舎も無くなっています。

      20150605飯野中学校跡05



だだっ広い空き地状態。

      20150605飯野中学校跡09




これなら、飯野陣屋の二の丸跡と言う雰囲気は感じ取れます。

      20150605飯野中学校跡10


小学校と違い、中学校には遊具など最初からなく
学校遺構などと言うモノは皆無に等しい。
先ほどの碑がなければ、とても廃校跡地には見えない。


これらの木々が学校跡地を彷彿させてくれるのか?

      20150605飯野中学校跡11


      20150605飯野中学校跡16


先ほどの碑から10mほど離れた位置にあるコンクリートの残骸。
ひょっとしたら、かつての校門跡?
それとも何かの礎石跡だろうか?

      20150605飯野中学校跡15




逆に、城郭遺構として残っている堀

      20150605飯野中学校跡13


      20150605飯野中学校跡14



そして、二の丸の虎口や土橋が飯野陣屋を彷彿させてくれます。

      20150605飯野中学校跡12



 
中世や近世の城郭が廃城後、明治の学令以降に学校に改変した事例は数多くあり、
その学校が廃校になったという事例も多い。
この飯野中学校跡地もそんな歴史歩んできたようです..............................。




    




2015/06/24 Wed. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

飯野陣屋跡    (2015年6月5日)(千葉県富津市) 

6月5日 公休日

この日は、富津市に出かけました。

富津陣屋跡をあとにして、向かった先は...............飯野陣屋跡



飯野陣屋は、若狭敦賀陣屋・周防徳山陣屋と共に日本三大陣屋の一つに数えられ、
江戸時代の姿が完存している貴重な史跡でもあります。

基本的には横長の長方形で三条塚古墳を陣屋内に取り込み、
一部古墳の周濠を陣屋の濠として利用しています。 
陣屋を囲繞する濠と土塁が完存していて、北東隅辺りには折れの遺構が見られる。
虎口は、3ヶ所に開かれていいて、東側に開かれた大手口には内枡形の遺構も残っている。

かつては陣屋内には、「本丸」・「二の丸」・「三の丸」と土塁によって区分され、
まるで城そのもののようでした。 
西側の周濠の外側に「外邸」があり、その外側を狭いが濠が囲んでいたそうです。

そもそも飯野陣屋は、慶安2年に保科正貞によって築かれました。 
正貞は、高遠城主保科正直の三男(後に会津若松城主となる保科正之は兄正光の養子)です。
大坂定番となり加増されて17000石を領して大名に列しました。
正貞没後、2代正景が弟正英に2千石分与して15000石となりますが、
延宝5年に正景が大坂定番となり5千石加増され、以後8代続いて正益の時に明治を迎えました。

明治4年、廃藩置県によって飯野藩は消滅し、飯野県が成立します。
飯野陣屋は飯野県県庁となり陣屋は廃されました。




こちらが、飯野陣屋の縄張り図。

      飯野陣屋縄張り図

          ( 余胡くんのお城のページ よりお借りしました )



縄張り図を見ても分かるように、陣屋としてはその敷地はかなり広い。


実は郭内の入口が分からず、結果的には内邸を囲む外濠を
ほぼ一周する羽目になったのですが、車でぐるっと廻ってもかなりの距離があります。


こちらは、比較的新しく建てられた説明板。

      20150605飯野陣屋跡01



本丸西側の堀沿いに建てられています。

      20150605飯野陣屋跡02


こちらが、本丸西側の堀。

      20150605飯野陣屋跡03

流れが淀んでいるのか濁っていて、お世辞でも綺麗とは言えません。

      20150605飯野陣屋跡04



先ほどの説明板には、縄張り図も載っています。

      20150605飯野陣屋跡05




こちらが、大手口。

      20150605飯野陣屋跡18

大手口には、石碑が建ち並んでいます。


説明看板と飯野陣屋跡の石碑。

      20150605飯野陣屋跡16

説明看板の背後にある石碑は、飯野神社の石碑。



こちらが、『飯野陣屋跡』の碑。

      20150605飯野陣屋跡17
     


堀も健在。

      20150605飯野陣屋跡19





主郭跡(本丸跡)は宅地化されて、その名残りを探すのが難しい。

まるで普段の散歩のように闊歩する びいすけ 。

      20150605飯野陣屋跡14


      20150605飯野陣屋跡15



二郭(二の丸)は、現在は何もない空き地。
実は最初に、二の丸に車を乗り入れ、目に入った石碑を見たら
飯野陣屋の石碑ではなくて、学校跡地の石碑でした。
こちらの廃校については、明日にでもこのブログで触れることにいたしましょう。



三郭(三の丸)の一角は、飯野神社。

      20150605飯野陣屋跡06


こちらの境内にも飯野陣屋についての説明看板があります。

      20150605飯野陣屋跡07

こちらは、地元の飯野地区の有志によって建てられたようです。



由緒ある飯野神社。

その拝殿。

      20150605飯野陣屋跡08



そして、本殿。

      20150605飯野陣屋跡09


飯野神社の奥にある三条塚古墳の説明看板。

      20150605飯野陣屋跡10


三条塚古墳そのものは、6世紀末に造られたと推定される墳丘長122メートルの前方後円墳。

飯野陣屋があった時代には、物見台として活用されていたようです。

      20150605飯野陣屋跡11



そして、三条塚古墳前の平場(削平地)は、かつての飯野藩の藩校があったらしい。

      20150605飯野陣屋跡12



この辺りが藩校跡らしいが、これと言った案内板や石碑はないようです。

     20150605飯野陣屋跡13


日本3大陣屋跡と言うことで、かなり期待をしていましたが
正直名前負け、前触れに負けた!って言う感じです。
この『日本3大』って言ったのが微妙な表現で、
今回は面積(敷地)が3大と言うことだろう。

大きさ(外観)よりも中身(質)で3大と言う表現を用いて欲しいなぁと感じるのは、
はたして、私だけなんだろうか..............................?







    


     






2015/06/23 Tue. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

廃校を訪ねて...........番外編   富津中学校跡     (2015年6月5日)(千葉県富津市) 

6月5日 公休日

この日は、富津市に出かけました。

富津陣屋跡を捜している時に偶然にも、ある石碑を見つけました。

      20150605富津中学校跡01

石碑には、『富津中学校跡』と刻まれています。

基本的には、小学校の廃校や廃校跡地を巡るのが好きですが、
偶然見つけた廃校跡地(?)。
これも何かの縁でしょう。

と、言うわけで番外編にはなりますが.............
偶然見つけたのは、富津市立 旧・富津中学校跡



富津中学校は、

昭和23年 新学制6・3制実施に伴い飯野村立飯野中学校、
青堀町立青堀中学校、富津町立富津中学校として
三校それぞれ開校する。
昭和26年   富津射城旧兵舎跡に新校舎を建立。   
昭和30年 町村合併により富津町立飯野中学校、富津町立青堀中学校、
富津町立富津中学校と改称する。
昭和42年 三校を統合して富津町立富津中学校として開校する。
昭和45年   新校舎建設のため移転する。
昭和46年 三町(天羽、大佐和、富津)合併し、市制施行により富津市立富津中学校と改称する。

そして現在に至るという沿革になっています
(富津中学校は廃校ではありません)




すなわち、偶然見つけたこの地が
昭和26年から45年までの19年間、富津中学校があった場所になります。


学校跡地の碑の脇にあるのは、往時の校門でしょうか?

      20150605富津中学校跡02



往時のモノかは分かりませんが、校門前にて。

      20150605富津中学校跡03



学校跡地の碑の裏面には、富津中学校の校歌が刻まれています。

      20150605富津中学校跡14


      20150605富津中学校跡15



校門をくぐり、敷地内に入ってみます。

      20150605富津中学校跡04



昭和45年に校地が移転して、すでに45年の月日が流れ、
更地と言うか、空き地と言うか、広場になっています。

      20150605富津中学校跡06



さらに奥にはグランド(野球場)があるようです。

      20150605富津中学校跡05


    
ロングリードを装着しているから、この広場を走り回るかな?って、思っていたけれど 
どうやら びいすけ には、走り回る気は無いみたいです。 

      20150605富津中学校跡07


カメラの前でポーズ。

      20150605富津中学校跡08


モデル(?)に専念です(笑)。

      20150605富津中学校跡09


      20150605富津中学校跡10



さらに奥に進めば、こんな残骸も...............。

富津中学校の校舎か何かの一部だったのでしょうか?

      20150605富津中学校跡11



グランドのフェンスには、こんな看板が掲げられています。

      20150605富津中学校跡12

海に近い、漁業の盛んな町なんだなぁと実感します。



最近、ある程度の広さのある遊休地でよく見かける太陽光発電。
ここにも多くのソーラーパネルが並んでいました。

      20150605富津中学校跡13


昭和45年に中学校が移転した後、具体的に有効利用されずに月日だけが流れて行った...............
そんな感じの旧・富津中学校跡でした..............................。







2015/06/22 Mon. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

富津陣屋跡  (2015年6月5日)(千葉県富津市) 

6月5日 公休日

この日は、富津市に出かけました。

富津台場跡をあとにして、向かった先は...............富津陣屋跡



富津陣屋は、
文化7年(1810)白河藩主松平定信が幕府から江戸湾の防備を命じられると
文政5年(1822)館山の波佐間から陣屋が移され、新たに富津陣屋ができました。
以後富津村の領主は幕府代官、武蔵忍藩、陸奥会津藩、筑後柳河藩、
陸奥二本松藩、上野前橋藩、と引き継がれ領内の行政や
海防の拠点として使用されてきました。

幕末の慶応4(1868)年、前橋藩は上野へ領地替えとなり、
富津陣屋は飯野藩領となり富津陣屋は廃されました。




富津陣屋跡は、市街地の仲区公民館辺りだと聞いていたので
まずは、その公民館から探します。

車のナビでは、公民館が出てこないので中学校跡地に車を停めて
周辺を探します。

地元のご老人に道を尋ねると、この辺りらしい。

      20150605富津陣屋跡01


どうやら、奥の鉄筋の建物が公民館らしい。

      20150605富津陣屋跡16


こちらが公民館。

      20150605富津陣屋跡04

てっきり、公民館の敷地内に石碑とか説明板があるのかな?って思っていたら
何もない!。
と、言うよりも公民館の周りは完全な住宅地。
陣屋跡とは思えない。


確か、富津陣屋跡の石碑があるとのことなので
周辺を探索してみます。


確かに、それらしい雰囲気のある場所もある

土塁の一部か?

      20150605富津陣屋跡02

すぐ近くにも土塁の跡?のような土盛り。

      20150605富津陣屋跡03


      20150605富津陣屋跡05

でも、探している石碑はありません。


ロングリードの びいすけ を先に行かせ、視線は石碑探し。

      20150605富津陣屋跡14

画面右側の茂みが怪しい?


こちらが、その茂み。

      20150605富津陣屋跡13



茂みの奥に何かがあるようです。

      20150605富津陣屋跡12



説明看板と石碑があるようです。

      20150605富津陣屋跡11


探していた『富津陣屋跡』の碑と説明看板です。

      20150605富津陣屋跡07   



こちらが、説明看板。

      20150605富津陣屋跡06


石碑は3基。

まずは、『富津陣屋跡』の碑。

      20150605富津陣屋跡08



こちらは、『白井宣左衛門の自刃の地』の碑。

      20150605富津陣屋跡09


そして、こちらは『小河原多官自刃の地』の碑。

      20150605富津陣屋跡10



幕末の慶応4(1868)年、旧幕勢力の請西藩主林忠宗らが
前橋藩の富津陣屋を包囲しました。
前橋藩は旧幕勢に陣屋を明け渡し、兵士、武器、食料を与えてしまいました。
しかし、前橋藩廃の藩を免れるためにその責任を負って、
家老小河原多官、陣屋総括者白井宣左衛門は陣屋にて自刃いたします。
その両名の碑がしっかりと建っていました。



石碑の建っている場所の近くの用水。
往時の堀跡なのでしょうかか?

      20150605富津陣屋跡15


幕末の東京湾警備のために重要な位置づけであった富津陣屋。
その陣屋跡は、周辺が住宅地に変わってしまい、地元の方々が建立した石碑も
今では茂みの中に埋もれてしまっている。
民地なのか?公有地なのかは判りませんが
もうちょっと富津市にも保存に力を入れて欲しいところですが
以前には無かった説明看板が建てられているだけでも
良しとしなければいけないのかなぁ..................?




     



2015/06/21 Sun. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit