再訪 大宮温泉神社 (2023年7月19日)(栃木県大田原市)
7月19日
7月19日から21日まで個人的な3連休。
その3連休を利用して栃木県に出かけました。
この日の宿泊は那須塩原市。
メインは八溝七福神巡り。y
八溝七福神の北向きコース(?)のスタート地点は那珂川町。
那珂川町の乾徳寺からスタートして、国道293号線、国道294号を経由して
北上しますが、その国道294号線に向かう途中に走っている県道沿いに
大宮温泉神社が鎮座しています。
昨年、両郷東小学校跡に訪れた時、この道を走り
この看板を目にしました。
今年も、この看板を見かけると、ついつい立ち寄ってしまいます。
神社社頭。
一の鳥居に掲げられた神額。
石段を上ると........
二の鳥居。
その先に朱色の三の鳥居。
三の鳥居に掲げられた神額。
下野那須郡の惣社と言うことらしい。
惣社(総社)とは、国・郡・郷など一定地域内にある神社の祭神を
1ヵ所に勧請し祀った神社と言うことらしい。
さらに石段を上ると、その先がある。
左側には手水舎。
四の鳥居。
その先の石段を上がって現れるのが拝殿。
石段を上がった先の狛犬。
苔の生え具合が微妙に良い味わいを出している。
この対の狛犬の表情が何とも言えない。
可愛いと言っては失礼になりそう。
拝殿。
別アングルからの拝殿。
そして、こちらが本殿。
境内社の天満宮。
こちらは授与所。
いただいた御朱印はこちら。
自宅から遠いから、再訪することは無いかもしれないと思っていたけれど
今年も参拝することが出来ました。
また訪れる機会が有れば良いですね。
7月19日から21日まで個人的な3連休。
その3連休を利用して栃木県に出かけました。
この日の宿泊は那須塩原市。
メインは八溝七福神巡り。y
八溝七福神の北向きコース(?)のスタート地点は那珂川町。
那珂川町の乾徳寺からスタートして、国道293号線、国道294号を経由して
北上しますが、その国道294号線に向かう途中に走っている県道沿いに
大宮温泉神社が鎮座しています。
昨年、両郷東小学校跡に訪れた時、この道を走り
この看板を目にしました。
今年も、この看板を見かけると、ついつい立ち寄ってしまいます。
神社社頭。
一の鳥居に掲げられた神額。
石段を上ると........
二の鳥居。
その先に朱色の三の鳥居。
三の鳥居に掲げられた神額。
下野那須郡の惣社と言うことらしい。
惣社(総社)とは、国・郡・郷など一定地域内にある神社の祭神を
1ヵ所に勧請し祀った神社と言うことらしい。
さらに石段を上ると、その先がある。
左側には手水舎。
四の鳥居。
その先の石段を上がって現れるのが拝殿。
石段を上がった先の狛犬。
苔の生え具合が微妙に良い味わいを出している。
この対の狛犬の表情が何とも言えない。
可愛いと言っては失礼になりそう。
拝殿。
別アングルからの拝殿。
そして、こちらが本殿。
境内社の天満宮。
こちらは授与所。
いただいた御朱印はこちら。
自宅から遠いから、再訪することは無いかもしれないと思っていたけれど
今年も参拝することが出来ました。
また訪れる機会が有れば良いですね。
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2023/10/25 Wed. 00:00 |
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父さんの七福神巡り 《八溝七福神⑥ 布袋尊・不動院 》 (2023年7月19日)(栃木県那大田原市)
7月19日
7月19日から21日まで個人的な3連休。
その3連休を利用して栃木県に出かけました。
この日の宿泊は那須塩原市。
メインは八溝七福神巡り。
八溝七福神の北向きコース(?)のスタート地点は那珂川町。
那珂川町の乾徳寺からスタートして、国道293号線、国道294号を経由して
国道沿いの那珂川町、大田原市、那須町の寺院を巡ると言う七福神巡り。
八溝七福神巡りは通年行われている七福神巡りです。
福禄寿 乾徳寺(那珂川町)
弁財天 光照寺(那珂川町)
大黒天 法輪寺(大田原市)
寿老尊 威徳院(大田原市)
恵比須尊 明王寺(大田原市)
布袋尊 不動院(大田原市)
毘沙門天 三光寺(那須町)
と言った構成で3つの市町村にまたがっている七福神巡りです。
大田原市の法輪寺をあとにして、
向かったのは、大田原市の布袋尊・不動院
不動院は、真言宗智山派の寺院です。
山号を『明王山 』、院号を『不動院』 、寺号を『大聖寺』と称します。
本来は大聖寺と呼ぶのが正しいのかも知れませんが
やはり、八溝七福神のリストには『不動院』と掲載されています。
創建は、天文2年(1533年)とされますが、
文政元年(1818年)に焼失してしまったそうです。
県道27号線を那須町方面に北上していると、赤い幟が目に留まる。
そう、ここが八溝七福神 布袋尊の不動院。
大田原市の指定文化財の木造の十一面観音菩薩像もあるようです。
石段を上れば山門。
山門には『不動院』の扁額が掲げられている。
手水舎。
本堂への参道。
お地蔵さんがお出迎え。
本堂。
本堂正面に掲げられた扁額。
本堂内部。
本堂脇には、八溝七福神の赤い幟。
こちらが八溝七福神の布袋尊。
何故か、一緒に弁財天も祀られている。
七福神の脇には、榧(かや)の木。
大田原市の天然記念物に指定されている。
こちらが観音堂。
観音堂正面に掲げられた扁額。
観音堂の前には説明板。
その十一面観音立像。
こちらが納経所。
御朱印はこちらでいただけます。
いただいた御朱印がこちら。
八溝七福神 布袋尊の御朱印。
御本尊の御朱印。
八溝七福神巡り、残すはあと一つです。
7月19日から21日まで個人的な3連休。
その3連休を利用して栃木県に出かけました。
この日の宿泊は那須塩原市。
メインは八溝七福神巡り。
八溝七福神の北向きコース(?)のスタート地点は那珂川町。
那珂川町の乾徳寺からスタートして、国道293号線、国道294号を経由して
国道沿いの那珂川町、大田原市、那須町の寺院を巡ると言う七福神巡り。
八溝七福神巡りは通年行われている七福神巡りです。
福禄寿 乾徳寺(那珂川町)
弁財天 光照寺(那珂川町)
大黒天 法輪寺(大田原市)
寿老尊 威徳院(大田原市)
恵比須尊 明王寺(大田原市)
布袋尊 不動院(大田原市)
毘沙門天 三光寺(那須町)
と言った構成で3つの市町村にまたがっている七福神巡りです。
大田原市の法輪寺をあとにして、
向かったのは、大田原市の布袋尊・不動院
不動院は、真言宗智山派の寺院です。
山号を『明王山 』、院号を『不動院』 、寺号を『大聖寺』と称します。
本来は大聖寺と呼ぶのが正しいのかも知れませんが
やはり、八溝七福神のリストには『不動院』と掲載されています。
創建は、天文2年(1533年)とされますが、
文政元年(1818年)に焼失してしまったそうです。
県道27号線を那須町方面に北上していると、赤い幟が目に留まる。
そう、ここが八溝七福神 布袋尊の不動院。
大田原市の指定文化財の木造の十一面観音菩薩像もあるようです。
石段を上れば山門。
山門には『不動院』の扁額が掲げられている。
手水舎。
本堂への参道。
お地蔵さんがお出迎え。
本堂。
本堂正面に掲げられた扁額。
本堂内部。
本堂脇には、八溝七福神の赤い幟。
こちらが八溝七福神の布袋尊。
何故か、一緒に弁財天も祀られている。
七福神の脇には、榧(かや)の木。
大田原市の天然記念物に指定されている。
こちらが観音堂。
観音堂正面に掲げられた扁額。
観音堂の前には説明板。
その十一面観音立像。
こちらが納経所。
御朱印はこちらでいただけます。
いただいた御朱印がこちら。
八溝七福神 布袋尊の御朱印。
御本尊の御朱印。
八溝七福神巡り、残すはあと一つです。
2023/10/24 Tue. 00:00 |
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父さんの七福神巡り 《八溝七福神⑤ 恵比須尊・明王寺 》 (2023年7月19日)(栃木県大田原市)
7月19日
7月19日から21日まで個人的な3連休。
その3連休を利用して栃木県に出かけました。
この日の宿泊は那須塩原市。
メインは八溝七福神巡り。
八溝七福神の北向きコース(?)のスタート地点は那珂川町。
那珂川町の乾徳寺からスタートして、国道293号線、国道294号を経由して
国道沿いの那珂川町、大田原市、那須町の寺院を巡ると言う七福神巡り。
八溝七福神巡りは通年行われている七福神巡りです。
福禄寿 乾徳寺(那珂川町)
弁財天 光照寺(那珂川町)
大黒天 法輪寺(大田原市)
寿老尊 威徳院(大田原市)
恵比須尊 明王寺(大田原市)
布袋尊 不動院(大田原市)
毘沙門天 三光寺(那須町)
と言った構成で3つの市町村にまたがっている七福神巡りです。
ちょっと寄り道して(マンホールカード集め)七福神巡りの再開。
向かった先は、大田原市の恵比須尊・明王寺。
明王寺は、真言宗智山派の寺院です。
山号を『高巌山』、院号を『密蔵院』と称し、別称を『高巌不動尊』と称するようです。
室町時代後期の天文2年(1533年)に僧・興定法印が石井沢(現・黒羽町築地)に創建し、
天正4年(1576年)に黒羽藩領主・大関高増が黒羽城築城の際、
現在の地に移転したと伝えられています。
八溝七福神の霊場(恵比寿尊)ですが、那須三十三観音の1番札所、
奥の細道関東路三十三ヶ所霊場の31番札所でもあるようです。
山門。
門前には八溝七福神の赤い幟が立つ。
山門正面に掲げられた扁額。
山門から一歩足を踏み入れれば境内。
手水舎。
本堂。
本堂正面に掲げられた扁額。
香炉。
明王寺の由緒書き。
こちらは観音堂。
脇仏本尊として聖観世音が祀られています。
ちなみに、本堂には御本尊の不動明王が祀られています。
こちらに八溝七福神の恵比寿尊が祀られています。
扉は閉まっているけれど、隙間から覗き込むと.............
そこには、恵比寿さんが居ました。
境内に並ぶ石仏群。
こちらが納経所。
こちらで御朱印をお願いしました。
いただいた御朱印がこちら。
八溝七福神 恵比寿尊の御朱印。
そして、明王寺御本尊の御朱印。
八溝七福神、残すはあと2つです。
7月19日から21日まで個人的な3連休。
その3連休を利用して栃木県に出かけました。
この日の宿泊は那須塩原市。
メインは八溝七福神巡り。
八溝七福神の北向きコース(?)のスタート地点は那珂川町。
那珂川町の乾徳寺からスタートして、国道293号線、国道294号を経由して
国道沿いの那珂川町、大田原市、那須町の寺院を巡ると言う七福神巡り。
八溝七福神巡りは通年行われている七福神巡りです。
福禄寿 乾徳寺(那珂川町)
弁財天 光照寺(那珂川町)
大黒天 法輪寺(大田原市)
寿老尊 威徳院(大田原市)
恵比須尊 明王寺(大田原市)
布袋尊 不動院(大田原市)
毘沙門天 三光寺(那須町)
と言った構成で3つの市町村にまたがっている七福神巡りです。
ちょっと寄り道して(マンホールカード集め)七福神巡りの再開。
向かった先は、大田原市の恵比須尊・明王寺。
明王寺は、真言宗智山派の寺院です。
山号を『高巌山』、院号を『密蔵院』と称し、別称を『高巌不動尊』と称するようです。
室町時代後期の天文2年(1533年)に僧・興定法印が石井沢(現・黒羽町築地)に創建し、
天正4年(1576年)に黒羽藩領主・大関高増が黒羽城築城の際、
現在の地に移転したと伝えられています。
八溝七福神の霊場(恵比寿尊)ですが、那須三十三観音の1番札所、
奥の細道関東路三十三ヶ所霊場の31番札所でもあるようです。
山門。
門前には八溝七福神の赤い幟が立つ。
山門正面に掲げられた扁額。
山門から一歩足を踏み入れれば境内。
手水舎。
本堂。
本堂正面に掲げられた扁額。
香炉。
明王寺の由緒書き。
こちらは観音堂。
脇仏本尊として聖観世音が祀られています。
ちなみに、本堂には御本尊の不動明王が祀られています。
こちらに八溝七福神の恵比寿尊が祀られています。
扉は閉まっているけれど、隙間から覗き込むと.............
そこには、恵比寿さんが居ました。
境内に並ぶ石仏群。
こちらが納経所。
こちらで御朱印をお願いしました。
いただいた御朱印がこちら。
八溝七福神 恵比寿尊の御朱印。
そして、明王寺御本尊の御朱印。
八溝七福神、残すはあと2つです。
2023/10/23 Mon. 15:00 |
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マンホールカードを集めよう 《栃木県・大田原市編》 (2023年7月19日)(栃木県大田原市)
7月19日
7月19日から3日間の休み。
その3日間で栃木県に出かけました。
メインの目的は、八溝七福神巡り。
栃木県の那珂川町、大田原市、那須町と北上し(又は南下し)7つの寺院を巡ります。
その七福神巡りで訪れた大田原市。
昨年の7月に大田原市に来た時に、
市内中心部のトコトコ大田原と言う施設が
大田原市のマンホールカード配布場所だったので訪れてみたんだけど、
残念ながら在庫が無くなって配布終了となっていました。
約一年後、ネットでチェックをしたら配布場所を変更して、
配布が再開されている。
何と、八溝七福神のコースのすぐそばになる。
これは素通り出来ません。
と言う事で、向かった先は大田原市役所黒羽庁舎内の
大田原市観光交流センター。
黒羽城のすぐ近く。
昨年もこの近くを車で走っていたんだよなぁ。
こちらが市役所の黒羽庁舎。
観光交流センターの前には配布中の案内板。
はい、大田原市のマンホールカードをゲットしました。
カードのモデルとなった実際に設置されているマンホールカードは
以前の配布場所、『トコトコ大田原』のすぐ近く。
『トコトコ大田原』の駐車場脇の道路に設置されていました。
確かに道路の真ん中にありますね。
カラーマンホール蓋とマンホールカードのコラボ。
こちらがマンホールカード。
デザインは、平安時代末期の武将、那須与一。
源平合戦・屋島の戦いで波に揺れる平家の船に掲げられた扇を
一矢で射落とした弓の名手。
後にその子孫が大田原の地を治めることになったことから
大田原市には那須与一に関わる社寺、史跡が多く残っているそうです。
1年前に在庫が無くなって手に入れることが出来なかった
大田原市のマンホールカード。
やっと手に入れることが出来ました。
関係者の皆様、再発行・再配布ありがとうございました。
日光市もマンホールカードを再発行、再配布してくれないかなぁ。
7月19日から3日間の休み。
その3日間で栃木県に出かけました。
メインの目的は、八溝七福神巡り。
栃木県の那珂川町、大田原市、那須町と北上し(又は南下し)7つの寺院を巡ります。
その七福神巡りで訪れた大田原市。
昨年の7月に大田原市に来た時に、
市内中心部のトコトコ大田原と言う施設が
大田原市のマンホールカード配布場所だったので訪れてみたんだけど、
残念ながら在庫が無くなって配布終了となっていました。
約一年後、ネットでチェックをしたら配布場所を変更して、
配布が再開されている。
何と、八溝七福神のコースのすぐそばになる。
これは素通り出来ません。
と言う事で、向かった先は大田原市役所黒羽庁舎内の
大田原市観光交流センター。
黒羽城のすぐ近く。
昨年もこの近くを車で走っていたんだよなぁ。
こちらが市役所の黒羽庁舎。
観光交流センターの前には配布中の案内板。
はい、大田原市のマンホールカードをゲットしました。
カードのモデルとなった実際に設置されているマンホールカードは
以前の配布場所、『トコトコ大田原』のすぐ近く。
『トコトコ大田原』の駐車場脇の道路に設置されていました。
確かに道路の真ん中にありますね。
カラーマンホール蓋とマンホールカードのコラボ。
こちらがマンホールカード。
デザインは、平安時代末期の武将、那須与一。
源平合戦・屋島の戦いで波に揺れる平家の船に掲げられた扇を
一矢で射落とした弓の名手。
後にその子孫が大田原の地を治めることになったことから
大田原市には那須与一に関わる社寺、史跡が多く残っているそうです。
1年前に在庫が無くなって手に入れることが出来なかった
大田原市のマンホールカード。
やっと手に入れることが出来ました。
関係者の皆様、再発行・再配布ありがとうございました。
日光市もマンホールカードを再発行、再配布してくれないかなぁ。
2023/10/23 Mon. 00:00 |
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父さんの七福神巡り 《八溝七福神④ 寿老尊・威徳院 》 (2023年7月19日)(栃木県大田原市)
7月19日
7月19日から21日まで個人的な3連休。
その3連休を利用して栃木県に出かけました。
この日の宿泊は那須塩原市。
メインは八溝七福神巡り。
八溝七福神の北向きコース(?)のスタート地点は那珂川町。
那珂川町の乾徳寺からスタートして、国道293号線、国道294号を経由して
国道沿いの那珂川町、大田原市、那須町の寺院を巡ると言う七福神巡り。
八溝七福神巡りは通年行われている七福神巡りです。
福禄寿 乾徳寺(那珂川町)
弁財天 光照寺(那珂川町)
大黒天 法輪寺(大田原市)
寿老尊 威徳院(大田原市)
恵比須尊 明王寺(大田原市)
布袋尊 不動院(大田原市)
毘沙門天 三光寺(那須町)
と言った構成で3つの市町村にまたがっている七福神巡りです。
大田原市の大黒天・法輪寺をあとにして、
向かったのは、大田原市の寿老尊・威徳院
威徳院は、大治5年(1130年)に創建された真言宗智山派の寺院です。
山号を『霊牛山』。院号を『威徳院』、寺号を『極楽寺』と称します。
通常は極楽寺と呼ぶんでしょうか?
何故か、八溝七福神のリストには『威徳院』として登録されているようです。
威徳院の門前。
ユニークな形をした院号標。
って言うか、コレはもうモニュメントですね。
参道。
境内(駐車場)には、こんな看板。
七福神の4ヶ所目。
確かに、上から巡っても、下から巡っても丁度、真ん中になる。
こちらは、那須三十三観音の霊場でもあるようです。
参道を進み、石段を上ります。
石段の先には山門。
こちらは不動堂。
こちらに八溝七福神 寿老尊が安置されています。
鐘楼。
こちらが本堂。
別アングルから。
本堂正面に掲げられた扁額
そして、本堂正面。
安置されている虚空菩薩坐像(御本尊)。
その説明板。
本堂前の傘堂。
この時は、てっきり香炉だと思っていました。
後日、威徳院について調べていたら、日本で唯一のお堂(傘堂)と言うことらしい。
説明板も近くに立っていたけれど
しっかり読んでいなかったみたい...........(笑)。
こちらが御朱印。
八溝七福神 寿老尊の御朱印。
御本尊の御朱印。
そして、傘堂の御朱印。
八溝七福神もコレで4ヶ所目完了。
順調に巡っています。
7月19日から21日まで個人的な3連休。
その3連休を利用して栃木県に出かけました。
この日の宿泊は那須塩原市。
メインは八溝七福神巡り。
八溝七福神の北向きコース(?)のスタート地点は那珂川町。
那珂川町の乾徳寺からスタートして、国道293号線、国道294号を経由して
国道沿いの那珂川町、大田原市、那須町の寺院を巡ると言う七福神巡り。
八溝七福神巡りは通年行われている七福神巡りです。
福禄寿 乾徳寺(那珂川町)
弁財天 光照寺(那珂川町)
大黒天 法輪寺(大田原市)
寿老尊 威徳院(大田原市)
恵比須尊 明王寺(大田原市)
布袋尊 不動院(大田原市)
毘沙門天 三光寺(那須町)
と言った構成で3つの市町村にまたがっている七福神巡りです。
大田原市の大黒天・法輪寺をあとにして、
向かったのは、大田原市の寿老尊・威徳院
威徳院は、大治5年(1130年)に創建された真言宗智山派の寺院です。
山号を『霊牛山』。院号を『威徳院』、寺号を『極楽寺』と称します。
通常は極楽寺と呼ぶんでしょうか?
何故か、八溝七福神のリストには『威徳院』として登録されているようです。
威徳院の門前。
ユニークな形をした院号標。
って言うか、コレはもうモニュメントですね。
参道。
境内(駐車場)には、こんな看板。
七福神の4ヶ所目。
確かに、上から巡っても、下から巡っても丁度、真ん中になる。
こちらは、那須三十三観音の霊場でもあるようです。
参道を進み、石段を上ります。
石段の先には山門。
こちらは不動堂。
こちらに八溝七福神 寿老尊が安置されています。
鐘楼。
こちらが本堂。
別アングルから。
本堂正面に掲げられた扁額
そして、本堂正面。
安置されている虚空菩薩坐像(御本尊)。
その説明板。
本堂前の傘堂。
この時は、てっきり香炉だと思っていました。
後日、威徳院について調べていたら、日本で唯一のお堂(傘堂)と言うことらしい。
説明板も近くに立っていたけれど
しっかり読んでいなかったみたい...........(笑)。
こちらが御朱印。
八溝七福神 寿老尊の御朱印。
御本尊の御朱印。
そして、傘堂の御朱印。
八溝七福神もコレで4ヶ所目完了。
順調に巡っています。
2023/10/22 Sun. 00:00 |
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父さんの七福神巡り 《八溝七福神③ 大黒天・光丸山 法輪寺 》 (2023年7月19日)(栃木県大田原市)
7月19日
7月19日から21日まで個人的な3連休。
その3連休を利用して栃木県に出かけました。
この日の宿泊は那須塩原市。
メインは八溝七福神巡り。
八溝七福神の北向きコース(?)のスタート地点は那珂川町。
那珂川町の乾徳寺からスタートして、国道293号線、国道294号を経由して
国道沿いの那珂川町、大田原市、那須町の寺院を巡ると言う七福神巡り。
八溝七福神巡りは通年行われている七福神巡りです。
福禄寿 乾徳寺(那珂川町)
弁財天 光照寺(那珂川町)
大黒天 法輪寺(大田原市)
寿老尊 威徳院(大田原市)
恵比須尊 明王寺(大田原市)
布袋尊 不動院(大田原市)
毘沙門天 三光寺(那須町)
と言った構成で3つの市町村にまたがっている七福神巡りです。
那珂川町の弁財天・光照寺をあとにして、
向かったのは、大田原市の大黒天・法輪寺。
法輪寺は山号を正覚山、院号を実相院と称する天台宗の寺院です。
およそ1000年前に、慈覚大師の開基と伝えられ、
初院・中の院・奥の院の三院と大日堂(光丸山)からなります。
寺号標。
参道口。
参道口には、法輪寺の説明板。
参道口の脇には板碑が並ぶ。
参道の狛犬。
手水舎。
参道。
こちらが大日堂。
鬼瓦には、二種の寺紋。
別アングルからの大日堂。
正面に掲げられた扁額。
山号が刻まれている。
大日堂正面。
大日堂の脇に掲げられている由緒書き。
こちらは天狗堂。
日本一と言われる天狗の面が祀られている。
土曜日曜祝日であれば、天狗堂は扉が開けられて
大天狗面が公開されています。
この日は平日でガラス越しに中を覗くことになります。
こちらが大黒天堂。
八溝七福神の大黒天はこちらに祀られています。
八溝七福神 大黒天。
大黒天堂脇の説明板。
こちらは掲示板。
中の院への参道。
勅額門
中の院釈迦堂。
無量堂。
観音堂。
こちらの祠は、(左)日吉神社、(右)天満宮。
鐘楼。
そして、こちらが西行桜。
法輪寺の名を広める『とちぎ名木100選』にも選べれている枝垂れ桜。
寺務所に張り出されている御朱印の見本。
多くの種類の御朱印があるようです。
その中から2種の御朱印を頂きました。
こちらが、その御朱印。
八溝七福神、大黒天の御朱印。
法輪寺の御本尊の御朱印。
八溝七福神、3つ目のお詣りも出来ました。
7月19日から21日まで個人的な3連休。
その3連休を利用して栃木県に出かけました。
この日の宿泊は那須塩原市。
メインは八溝七福神巡り。
八溝七福神の北向きコース(?)のスタート地点は那珂川町。
那珂川町の乾徳寺からスタートして、国道293号線、国道294号を経由して
国道沿いの那珂川町、大田原市、那須町の寺院を巡ると言う七福神巡り。
八溝七福神巡りは通年行われている七福神巡りです。
福禄寿 乾徳寺(那珂川町)
弁財天 光照寺(那珂川町)
大黒天 法輪寺(大田原市)
寿老尊 威徳院(大田原市)
恵比須尊 明王寺(大田原市)
布袋尊 不動院(大田原市)
毘沙門天 三光寺(那須町)
と言った構成で3つの市町村にまたがっている七福神巡りです。
那珂川町の弁財天・光照寺をあとにして、
向かったのは、大田原市の大黒天・法輪寺。
法輪寺は山号を正覚山、院号を実相院と称する天台宗の寺院です。
およそ1000年前に、慈覚大師の開基と伝えられ、
初院・中の院・奥の院の三院と大日堂(光丸山)からなります。
寺号標。
参道口。
参道口には、法輪寺の説明板。
参道口の脇には板碑が並ぶ。
参道の狛犬。
手水舎。
参道。
こちらが大日堂。
鬼瓦には、二種の寺紋。
別アングルからの大日堂。
正面に掲げられた扁額。
山号が刻まれている。
大日堂正面。
大日堂の脇に掲げられている由緒書き。
こちらは天狗堂。
日本一と言われる天狗の面が祀られている。
土曜日曜祝日であれば、天狗堂は扉が開けられて
大天狗面が公開されています。
この日は平日でガラス越しに中を覗くことになります。
こちらが大黒天堂。
八溝七福神の大黒天はこちらに祀られています。
八溝七福神 大黒天。
大黒天堂脇の説明板。
こちらは掲示板。
中の院への参道。
勅額門
中の院釈迦堂。
無量堂。
観音堂。
こちらの祠は、(左)日吉神社、(右)天満宮。
鐘楼。
そして、こちらが西行桜。
法輪寺の名を広める『とちぎ名木100選』にも選べれている枝垂れ桜。
寺務所に張り出されている御朱印の見本。
多くの種類の御朱印があるようです。
その中から2種の御朱印を頂きました。
こちらが、その御朱印。
八溝七福神、大黒天の御朱印。
法輪寺の御本尊の御朱印。
八溝七福神、3つ目のお詣りも出来ました。
2023/10/21 Sat. 00:00 |
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黒羽城址 (2022年9月15日)(栃木県大田原市)
9月15日
9月14日〜16日。
県民割引(ブロック割)を利用して栃木県の那須地区へ出かけました。
その2日目。
この日は那須塩原市から大田原市→那須町→那須塩原市と
城址と廃校を求めて車で徘徊します。
鹿子畑翠桃邸跡から向かった先は...............黒羽城址。
黒羽城は、天正4年(1576年)に大関高増が白旗城から本拠を遷した事から始まりました。
天正18年(1590年)の小田原征伐の際、主家の那須氏の那須資晴は、
小田原へ参陣しなかった為に改易されたものの、大関氏の当主である高増は、
弟である大田原氏の当主・大田原綱清の息子・大田原晴清と共にいち早く参陣して、
所領を安堵(1万3000石)されました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて大関氏は、
東軍に与したので、戦後に徳川家康から加増されて1万9200石の大名となりました。
また、関ヶ原の戦いのとき、徳川家康が会津の上杉景勝に対する備えとして大規模な改修が行われました。
寛文4年(1664年)に江戸幕府4代将軍・徳川家綱からの領知朱印状によって、
大関氏の石高は1万8000石に確定となり、その後、幕末まで続きました。
江戸時代の関東では珍しく外様大名の大関氏の支配が続き
明治4年(1871年)の廃藩置県により廃城となりました。
黒羽城跡は現在、黒羽城址公園となっていて空堀・土塁などが良好な状態で保存されています。
また、元禄2年(1689年)に、松尾芭蕉が奥の細道の旅行中に4月3日から4月16日まで
最長の14日間、城下に滞在しました。
その経緯もあって現在、三の丸には黒羽芭蕉の館があります。
こちらが、黒羽城の縄張り図。
( 余湖さんのHPよりお借りしました )
縄張り図で言うところの『う』エリア。
ここは、黒羽城の会所跡。
そして、現在の黒羽城址公園の駐車場でもある。
駐車場に建つ案内板。
建てられてからかなりの年月が経っているようで
色褪せてよく読めない。
駐車場の奥には土塁も確認出来る。
その土塁の先は水堀。
それでは、黒羽城を攻城いたしましょう。
登城路に建つ、小さな城址碑。
城址碑の脇を進みます。
登城路に建つ説明板。
暗くて見にくいけれど、土塁。
こちらは、本丸手前の空堀。
土塁。
元々の登城路なのか?
はたまた、公園整備時に造られた遊歩道なのか?
この先を進めば、本丸となる。
本丸虎口。
こちらが本丸。
本丸に建つ説明板と城址碑。
江戸時代、この本丸には黒羽藩の藩庁となった御本城御住居と呼ばれる居館が建っていたようです。
現在の本丸には、それに模した建物が建てられています。
そして、本丸西側には、疑似櫓台。
江戸時代にこのような櫓台が建てられていたかは不明ですが、
公園整備の際に建てられたのでしょう。
いわゆる、公園施設としての展望台ですね。
せっかくだから、その展望台に上りその眺望を堪能しましょう。
展望台(櫓台)から見下ろす本丸。
木々が茂って見づらいけれど、本丸の櫓台(展望台)裏手の土塁。
西側の土塁は高さが5m近くあり、それなりに見応えがある。
本丸から中丸を通って、二の丸へと移動します。
二の丸虎口。
二の丸には旧・黒羽町の体育館が建てられていて、その隣には城郭を意識した
それっぽい建物も建てられているけれど、現在は閉館中のようです。
二の丸の空堀。
二の丸の土塁。
先ほどの空堀は長く、こんな形で伸びている。
再び本丸に戻り、本丸から馬出し曲輪へ。
その手前の空堀。
馬出し曲輪には、四阿も建つ。
しっかり、公園と化しています。
馬出し曲輪から三の丸へと移動。
馬出しと三の丸を隔てる空堀。
三の丸の土塁。
三の丸には『芭蕉の館』と言う観光施設が建っています。
何せ、この黒羽の地に芭蕉が14日間滞在したから
芭蕉の足跡を残す記念館として建てられたのでしょう。
こちらが『芭蕉の館』。
三の丸の下には腰曲輪。
遊歩道を進みながら、その腰曲輪に降り立ちます。
この先は、大雄寺。
じっくり時間をかければ、もっともっと見る所はある黒羽城。
事前の下調べ不足で、二重土塁のある稲荷神社も見過ごしてしまった。
でも、この黒羽城は見応えのある城郭でした。
9月14日〜16日。
県民割引(ブロック割)を利用して栃木県の那須地区へ出かけました。
その2日目。
この日は那須塩原市から大田原市→那須町→那須塩原市と
城址と廃校を求めて車で徘徊します。
鹿子畑翠桃邸跡から向かった先は...............黒羽城址。
黒羽城は、天正4年(1576年)に大関高増が白旗城から本拠を遷した事から始まりました。
天正18年(1590年)の小田原征伐の際、主家の那須氏の那須資晴は、
小田原へ参陣しなかった為に改易されたものの、大関氏の当主である高増は、
弟である大田原氏の当主・大田原綱清の息子・大田原晴清と共にいち早く参陣して、
所領を安堵(1万3000石)されました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて大関氏は、
東軍に与したので、戦後に徳川家康から加増されて1万9200石の大名となりました。
また、関ヶ原の戦いのとき、徳川家康が会津の上杉景勝に対する備えとして大規模な改修が行われました。
寛文4年(1664年)に江戸幕府4代将軍・徳川家綱からの領知朱印状によって、
大関氏の石高は1万8000石に確定となり、その後、幕末まで続きました。
江戸時代の関東では珍しく外様大名の大関氏の支配が続き
明治4年(1871年)の廃藩置県により廃城となりました。
黒羽城跡は現在、黒羽城址公園となっていて空堀・土塁などが良好な状態で保存されています。
また、元禄2年(1689年)に、松尾芭蕉が奥の細道の旅行中に4月3日から4月16日まで
最長の14日間、城下に滞在しました。
その経緯もあって現在、三の丸には黒羽芭蕉の館があります。
こちらが、黒羽城の縄張り図。
( 余湖さんのHPよりお借りしました )
縄張り図で言うところの『う』エリア。
ここは、黒羽城の会所跡。
そして、現在の黒羽城址公園の駐車場でもある。
駐車場に建つ案内板。
建てられてからかなりの年月が経っているようで
色褪せてよく読めない。
駐車場の奥には土塁も確認出来る。
その土塁の先は水堀。
それでは、黒羽城を攻城いたしましょう。
登城路に建つ、小さな城址碑。
城址碑の脇を進みます。
登城路に建つ説明板。
暗くて見にくいけれど、土塁。
こちらは、本丸手前の空堀。
土塁。
元々の登城路なのか?
はたまた、公園整備時に造られた遊歩道なのか?
この先を進めば、本丸となる。
本丸虎口。
こちらが本丸。
本丸に建つ説明板と城址碑。
江戸時代、この本丸には黒羽藩の藩庁となった御本城御住居と呼ばれる居館が建っていたようです。
現在の本丸には、それに模した建物が建てられています。
そして、本丸西側には、疑似櫓台。
江戸時代にこのような櫓台が建てられていたかは不明ですが、
公園整備の際に建てられたのでしょう。
いわゆる、公園施設としての展望台ですね。
せっかくだから、その展望台に上りその眺望を堪能しましょう。
展望台(櫓台)から見下ろす本丸。
木々が茂って見づらいけれど、本丸の櫓台(展望台)裏手の土塁。
西側の土塁は高さが5m近くあり、それなりに見応えがある。
本丸から中丸を通って、二の丸へと移動します。
二の丸虎口。
二の丸には旧・黒羽町の体育館が建てられていて、その隣には城郭を意識した
それっぽい建物も建てられているけれど、現在は閉館中のようです。
二の丸の空堀。
二の丸の土塁。
先ほどの空堀は長く、こんな形で伸びている。
再び本丸に戻り、本丸から馬出し曲輪へ。
その手前の空堀。
馬出し曲輪には、四阿も建つ。
しっかり、公園と化しています。
馬出し曲輪から三の丸へと移動。
馬出しと三の丸を隔てる空堀。
三の丸の土塁。
三の丸には『芭蕉の館』と言う観光施設が建っています。
何せ、この黒羽の地に芭蕉が14日間滞在したから
芭蕉の足跡を残す記念館として建てられたのでしょう。
こちらが『芭蕉の館』。
三の丸の下には腰曲輪。
遊歩道を進みながら、その腰曲輪に降り立ちます。
この先は、大雄寺。
じっくり時間をかければ、もっともっと見る所はある黒羽城。
事前の下調べ不足で、二重土塁のある稲荷神社も見過ごしてしまった。
でも、この黒羽城は見応えのある城郭でした。
2022/12/03 Sat. 00:00 |
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鹿子畑翠桃邸跡 (2022年9月15日)(栃木県大田原市)
9月15日
9月14日〜16日。
県民割引(ブロック割)を利用して栃木県の那須地区へ出かけました。
その2日目。
この日は那須塩原市から大田原市→那須町→那須塩原市と
城址と廃校を求めて車で徘徊します。
白旗城址から向かった先は...............鹿子畑翠桃邸跡。
鹿子畑翠桃邸跡を語る前に、大田原市についてちょっぴり触れましょう。
大田原市は、平成17年に那須郡湯津上村・黒羽町を編入しました。
この地は、以前は那須郡黒羽町であり、
その黒羽町には江戸時代の俳聖・松尾芭蕉が奥の細道で
黒羽の地に13泊14日しています。
その松尾芭蕉を黒羽の地でもてなしたのが、鹿子畑翠桃(です。
鹿子畑翠桃は、鹿子畑左内の二男で、名を豊明といいます。
翠桃は俳号です。
左内の長男高勝は、母の実家である浄法寺)家を継ぎ、
黒羽藩城代家老となり、図書と称しました。
俳号は、桃雪・秋鴉です。
父・左内は、故あって黒羽を退き、家族と共に江戸に住むこと12年。
その間に高勝・豊明兄弟は、松尾芭蕉のもとで俳諧を学びました。
後に左内は帰藩を許され、兄弟も黒羽に戻り、はばかって岡姓に改めました。
元禄2年(1689年)に江戸を発った俳聖・松尾芭蕉は、
弟子の曾良と共に「奥の細道」行脚の途中に黒羽の地を訪れ、
旅程中最も長い14日間逗留し、知人や多くの史跡を訪ね、
次に向かう「みちのく」の地への準備期間をここで過ごしました。
宿泊先は、江戸において芭蕉の門人であった黒羽藩城代家老・浄法寺図書(桃雪)宅と、
その弟鹿子畑豊明(翠桃)宅でした。
翠桃宅のあった余瀬地区は、律令制により全国に設置された七道のひとつである
「東山道}(平安時代においては関街道又は秀衡街道)が通り、
その宿駅(粟野宿)として栄え、また室町時代から戦国期にかけては、
大関氏(のちの黒羽藩主)の居城(白旗城)があり、交通・軍事の要衝の地でもありました。
芭蕉は翠桃宅に5泊逗留する中で,歌仙の興行を行ったり、
ここを起点に犬追物の跡や、篠原の玉藻の古墳、金丸八幡宮(那須神社)などを訪れ、
多くの句を残しています。
現在でも道路の方向や経路は、芭蕉が訪ねた当時の状況とほぼ変わらない面影を残しながら、
南は大田原、佐久山に通じ、北は次に向かった那須や白河へと通じており、
往時の俳聖が辿った軌跡を訪ねることのできる地でもあります。
白旗城の近くに、道路沿いにこんな標柱が建てられています。
やはり、7月にこの前の道路を車で走っていて(蜂巣小学校へと向かっていた)
この標柱には気づいていたけれど、次の機会にでもと考えていました。
白旗城址の駐車場に車を置いて300mほど歩けば
この標柱に辿り着けます。
標柱のさき、民家の中へ入って行くような感じで未舗装の道を進みます。
やがて現れる標柱。
そこには、『史蹟・鹿子畑翠桃墓地』とある。
あれ?
確か、道路沿いの標柱には『鹿子畑翠桃邸跡』とあった筈。
墓石群。
説明板も建てられている。
どうやら、この辺りに鹿子畑翠桃邸も在ったらしい。
かつての邸跡も、今では田圃の一画。
松尾芭蕉が5泊した地がこの場所になるのだろうか?
7月に大田原市に訪れてその時に大田原市(旧・黒羽町)と
松尾芭蕉の深い関係を初めて知った。
芭蕉が何日も掛けて歩いて来た道を、現代の馬車でもある自動車で
あっという間に走り去ってしまっている。
いつか、時間があれば、元禄2年(1689)年に芭蕉が歩いた道を
330年の時を超えて歩いてみるのも面白いかもしれないなぁ.................
9月14日〜16日。
県民割引(ブロック割)を利用して栃木県の那須地区へ出かけました。
その2日目。
この日は那須塩原市から大田原市→那須町→那須塩原市と
城址と廃校を求めて車で徘徊します。
白旗城址から向かった先は...............鹿子畑翠桃邸跡。
鹿子畑翠桃邸跡を語る前に、大田原市についてちょっぴり触れましょう。
大田原市は、平成17年に那須郡湯津上村・黒羽町を編入しました。
この地は、以前は那須郡黒羽町であり、
その黒羽町には江戸時代の俳聖・松尾芭蕉が奥の細道で
黒羽の地に13泊14日しています。
その松尾芭蕉を黒羽の地でもてなしたのが、鹿子畑翠桃(です。
鹿子畑翠桃は、鹿子畑左内の二男で、名を豊明といいます。
翠桃は俳号です。
左内の長男高勝は、母の実家である浄法寺)家を継ぎ、
黒羽藩城代家老となり、図書と称しました。
俳号は、桃雪・秋鴉です。
父・左内は、故あって黒羽を退き、家族と共に江戸に住むこと12年。
その間に高勝・豊明兄弟は、松尾芭蕉のもとで俳諧を学びました。
後に左内は帰藩を許され、兄弟も黒羽に戻り、はばかって岡姓に改めました。
元禄2年(1689年)に江戸を発った俳聖・松尾芭蕉は、
弟子の曾良と共に「奥の細道」行脚の途中に黒羽の地を訪れ、
旅程中最も長い14日間逗留し、知人や多くの史跡を訪ね、
次に向かう「みちのく」の地への準備期間をここで過ごしました。
宿泊先は、江戸において芭蕉の門人であった黒羽藩城代家老・浄法寺図書(桃雪)宅と、
その弟鹿子畑豊明(翠桃)宅でした。
翠桃宅のあった余瀬地区は、律令制により全国に設置された七道のひとつである
「東山道}(平安時代においては関街道又は秀衡街道)が通り、
その宿駅(粟野宿)として栄え、また室町時代から戦国期にかけては、
大関氏(のちの黒羽藩主)の居城(白旗城)があり、交通・軍事の要衝の地でもありました。
芭蕉は翠桃宅に5泊逗留する中で,歌仙の興行を行ったり、
ここを起点に犬追物の跡や、篠原の玉藻の古墳、金丸八幡宮(那須神社)などを訪れ、
多くの句を残しています。
現在でも道路の方向や経路は、芭蕉が訪ねた当時の状況とほぼ変わらない面影を残しながら、
南は大田原、佐久山に通じ、北は次に向かった那須や白河へと通じており、
往時の俳聖が辿った軌跡を訪ねることのできる地でもあります。
白旗城の近くに、道路沿いにこんな標柱が建てられています。
やはり、7月にこの前の道路を車で走っていて(蜂巣小学校へと向かっていた)
この標柱には気づいていたけれど、次の機会にでもと考えていました。
白旗城址の駐車場に車を置いて300mほど歩けば
この標柱に辿り着けます。
標柱のさき、民家の中へ入って行くような感じで未舗装の道を進みます。
やがて現れる標柱。
そこには、『史蹟・鹿子畑翠桃墓地』とある。
あれ?
確か、道路沿いの標柱には『鹿子畑翠桃邸跡』とあった筈。
墓石群。
説明板も建てられている。
どうやら、この辺りに鹿子畑翠桃邸も在ったらしい。
かつての邸跡も、今では田圃の一画。
松尾芭蕉が5泊した地がこの場所になるのだろうか?
7月に大田原市に訪れてその時に大田原市(旧・黒羽町)と
松尾芭蕉の深い関係を初めて知った。
芭蕉が何日も掛けて歩いて来た道を、現代の馬車でもある自動車で
あっという間に走り去ってしまっている。
いつか、時間があれば、元禄2年(1689)年に芭蕉が歩いた道を
330年の時を超えて歩いてみるのも面白いかもしれないなぁ.................
2022/12/02 Fri. 15:00 |
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白旗城址 (2022年9月15日)(栃木県大田原市)
9月15日
9月14日〜16日。
県民割引(ブロック割)を利用して栃木県の那須地区へ出かけました。
その2日目。
この日は那須塩原市から大田原市→那須町→那須塩原市と
城址と廃校を求めて車で徘徊します。
大田原城址から向かった先は...............白旗城址。
白旗城は、応永年間に大関増清が築いた山城で黒羽城と関係の深い城とされています。
大関家は、那須家に属した武将集団、那須七騎の旗頭で、
近世大名として安定する前の室町期まで、この城を拠点としていました。
白旗城の名は源頼義が阿部頼時を討伐に出かける際、
この山頂に白幡をひるがえし、軍を揃えたことにはじまり、
源義経も奥州の藤原秀衡のもとから、鎌倉の兄頼朝の旗上げに、
はせ参じる時に、祖先の例にならってこの山に立ち寄ったといわれています。
天文11年(1542年)大関増次は同僚の大田原資清と不和になり、
資清軍に急襲され自害しました。
増次には子供がなかったので、小舎の資清が子供の高増に跡目を継がせ、
大関高増となりました。
高増によって天正4年、黒羽城に移城されました。
当時の城郭は、土塁、堀等で原形をしのぶことができますが、
現在は杉林におおわれています。
こちらが白旗城の縄張り図。
(余湖さんのHPよりお借りしました)
実は、7月に大田原市の廃校巡りをしているときに
この白旗城の前を通り、白旗城の説明板に目が止まり
Uターンして説明板に目を通して、攻略しようか悩んだ末に
先を急ぐからと攻城を断念した城址です。
今回は、攻城目的で訪れました。
道路沿いから見る白旗城址。
7月にこの説明板に気付き、Uターンしたんだよなぁ。
説明板の近くに駐車場も整備されていて
普通車ならば、2台は楽に停められます。
さすが、大田原市の史跡に指定されているだけはありますね。
駐車場に車を入れて、白旗城への攻城です。
登城路の入口には石仏が並ぶ。
石仏の横を通るように登場路が導いてくれる。
残念ながら、白旗城は大田原市の史跡に指定されているものの
整備はイマイチ。管理もしっかりされていないようで
攻城は大変でした。
登城路を進み森の中に入ると、左側に削平地。
虎口と思われる先は墓石が並び、その先へは進めない。
再び、先ほどの登場路に戻り、先へと進むけれど藪状態。
おそらく、堀底道と思われる登城路。
右側に三郭を意識しながら進みますが
三郭へのアプローチする進路が見つからない。
三郭を右手にしながら進めば、空堀へと突き当たる。
空堀を右方向に進み、三郭を右側に意識しながら進みます。
三郭と主郭を隔てる空堀を発見。
その空堀を進みます。
空堀を進んでいるんだけど、あまりにも雑草(下草)が多くて
空堀を進んでいるようには見えない(笑)。
余湖さんの縄張り図を見ながら進軍しているんだけれど
本当に主郭に向かっているのか?
少し、不安になって来ます。
しばらくすると、愛宕神社の参道の標柱を見つけ、一安心。
白旗城の主郭に鎮座する愛宕神社。
すなわち、ここが白旗城の主郭になる。
杉の木が生い茂り、長い間人に手が入っていないことが分かる。
縄張り図を参考に二郭へと足をすづめるけれど
そ雑草や生い茂った木々がその行く手を遮ってくれる。
昨夜の夜半に降った雨で、多少のぬかるみも有る。
これ以上の進軍は無理と判断。
まぁ、主郭への攻略出来たのだから、潔く撤退しましょう。
主郭と二郭を隔てる空堀を進みます。
愛宕神社への参道ではあるけれど、訪れる人も居ないのか?
雑草の生い茂った荒れた道を進みます。
森から抜け出し、振り返れば............
画面真ん中の空間が、主郭への登城路であり、
愛宕神社への参道口であるけれど、とてもそんな風には見えない。
田圃の脇の舗装を駐車場の方に歩きます。
大田原市の史跡と言うことですが、大田原城が見応えあっただけに
生い茂った木々と雑草だらけの白旗城には
ちょっぴり残念としか言いようがない、
このまま放置されてしまうのか?
はたまた、いずれしっかりと整備されていくのか?
どうなっていくんでしょうね?
9月14日〜16日。
県民割引(ブロック割)を利用して栃木県の那須地区へ出かけました。
その2日目。
この日は那須塩原市から大田原市→那須町→那須塩原市と
城址と廃校を求めて車で徘徊します。
大田原城址から向かった先は...............白旗城址。
白旗城は、応永年間に大関増清が築いた山城で黒羽城と関係の深い城とされています。
大関家は、那須家に属した武将集団、那須七騎の旗頭で、
近世大名として安定する前の室町期まで、この城を拠点としていました。
白旗城の名は源頼義が阿部頼時を討伐に出かける際、
この山頂に白幡をひるがえし、軍を揃えたことにはじまり、
源義経も奥州の藤原秀衡のもとから、鎌倉の兄頼朝の旗上げに、
はせ参じる時に、祖先の例にならってこの山に立ち寄ったといわれています。
天文11年(1542年)大関増次は同僚の大田原資清と不和になり、
資清軍に急襲され自害しました。
増次には子供がなかったので、小舎の資清が子供の高増に跡目を継がせ、
大関高増となりました。
高増によって天正4年、黒羽城に移城されました。
当時の城郭は、土塁、堀等で原形をしのぶことができますが、
現在は杉林におおわれています。
こちらが白旗城の縄張り図。
(余湖さんのHPよりお借りしました)
実は、7月に大田原市の廃校巡りをしているときに
この白旗城の前を通り、白旗城の説明板に目が止まり
Uターンして説明板に目を通して、攻略しようか悩んだ末に
先を急ぐからと攻城を断念した城址です。
今回は、攻城目的で訪れました。
道路沿いから見る白旗城址。
7月にこの説明板に気付き、Uターンしたんだよなぁ。
説明板の近くに駐車場も整備されていて
普通車ならば、2台は楽に停められます。
さすが、大田原市の史跡に指定されているだけはありますね。
駐車場に車を入れて、白旗城への攻城です。
登城路の入口には石仏が並ぶ。
石仏の横を通るように登場路が導いてくれる。
残念ながら、白旗城は大田原市の史跡に指定されているものの
整備はイマイチ。管理もしっかりされていないようで
攻城は大変でした。
登城路を進み森の中に入ると、左側に削平地。
虎口と思われる先は墓石が並び、その先へは進めない。
再び、先ほどの登場路に戻り、先へと進むけれど藪状態。
おそらく、堀底道と思われる登城路。
右側に三郭を意識しながら進みますが
三郭へのアプローチする進路が見つからない。
三郭を右手にしながら進めば、空堀へと突き当たる。
空堀を右方向に進み、三郭を右側に意識しながら進みます。
三郭と主郭を隔てる空堀を発見。
その空堀を進みます。
空堀を進んでいるんだけど、あまりにも雑草(下草)が多くて
空堀を進んでいるようには見えない(笑)。
余湖さんの縄張り図を見ながら進軍しているんだけれど
本当に主郭に向かっているのか?
少し、不安になって来ます。
しばらくすると、愛宕神社の参道の標柱を見つけ、一安心。
白旗城の主郭に鎮座する愛宕神社。
すなわち、ここが白旗城の主郭になる。
杉の木が生い茂り、長い間人に手が入っていないことが分かる。
縄張り図を参考に二郭へと足をすづめるけれど
そ雑草や生い茂った木々がその行く手を遮ってくれる。
昨夜の夜半に降った雨で、多少のぬかるみも有る。
これ以上の進軍は無理と判断。
まぁ、主郭への攻略出来たのだから、潔く撤退しましょう。
主郭と二郭を隔てる空堀を進みます。
愛宕神社への参道ではあるけれど、訪れる人も居ないのか?
雑草の生い茂った荒れた道を進みます。
森から抜け出し、振り返れば............
画面真ん中の空間が、主郭への登城路であり、
愛宕神社への参道口であるけれど、とてもそんな風には見えない。
田圃の脇の舗装を駐車場の方に歩きます。
大田原市の史跡と言うことですが、大田原城が見応えあっただけに
生い茂った木々と雑草だらけの白旗城には
ちょっぴり残念としか言いようがない、
このまま放置されてしまうのか?
はたまた、いずれしっかりと整備されていくのか?
どうなっていくんでしょうね?
2022/12/02 Fri. 00:00 |
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大田原城址 (2022年9月15日)(栃木県大田原市)
9月15日
9月14日〜16日。
県民割引(ブロック割)を利用して栃木県の那須地区へ出かけました。
その2日目。
朝9時に『塩原温泉 八汐荘』をチェックアウトし、
那須塩原市から大田原市へと移動。
向かった先は.................大田原城址。
大田原城は、天文14年 (1543年)に大田原資清によって下野国大田原の蛇尾川西岸、
比高約25メートルの龍体山に築かれた平山城です。
明治4年(1871年)の廃藩置県にいたるまでの326年間、大田原氏の居城でした。
江戸時代には奥州への備えとして重視され、
戊辰戦争の際には、大田原藩は新政府軍についたため、
本城は対会津攻めの重要拠点となりました。
城址には本丸の土塁や堀切、空堀、三日月堀などの遺構が残っており、
現在は龍城公園として花見の名所になっています。
また、城の周辺には鍵型に曲がった道など、城下町の面影が残っています。
こちらが、大田原城の縄張り図。
( 余湖さんのHPからお借りしました )
昭和36年に大田原市の史跡に指定されている大田原城址。
県道沿いに大きな看板も建てられている。
無料駐車場から眺める大田原城。
駐車場に車を停めて、いざ! 攻城!!
龍城公園の遊歩道に建つ説明板。
ちょうど本丸の城塁になる位置には、この説明板の他にも
標柱や碑が建てられている。
こちらは、二の丸下の千石倉跡(米倉跡)。
二の丸の空堀。
こちらが、二の丸。
二の丸の土塁。
先ほどの二の丸の空堀に架かる土橋。
土橋上からの空堀。
土橋を渡れば、本丸虎口。
立派な土塁の虎口。
その先は、本丸台門跡。
この辺りに本丸台門が在ったらしい。
大田原城の本丸は、東西80m×南北120mほどの広さ。
諸役所や武器庫、納戸倉が本丸の中に在ったようです。
周囲は高さ3〜4mの分厚い土塁で囲まれている。
本丸跡の碑(?)
大田原城には、このタイプの碑(?)が説明板や標柱の代わりに
各遺構に建てられているようです。
大田原城は別名が『龍城』
城址は龍城公園として開放されている。
本丸。
犬の散歩に訪れる人も多いのか?
本丸にはこんな看板が.............
芝生でなないけれど、適度に草も生えていて
本丸広場は犬の散歩には良さそう。
こちらは、諸役所跡。
こちらは武庫跡。
本丸をぐるっと囲むように設けられた土塁に上がってみましょう。
土塁の高さは3〜5mほど。
本丸の土塁はそれなりに見応えがある。
高さが3〜5mあるのでそれなりに眺望に長ける。
土塁の上から見下ろす本丸。
本丸から北の丸へと移動します。
こちらは、北の丸。
北の丸にはちょっとした遊具も置かれ、まさに龍城公園。
でも城址としての遺構も残る。
そして、説明板(?)の碑も建てられている。
その遺構の一つがこの土塁。
土塁の上から。
北の丸の奥に進めば................
こんな窪みがある。
その先の麓から進軍してくる敵をこの窪みが待ち受け
一気に敵を矢の標的にして一網打尽にするのだろう。
逆方向に進軍する敵は、本丸の城塁が行く手を遮り
二の丸の空堀へと進むしかない。
結局、二の丸の空堀上から弓矢の攻撃を受けるのか..............
そんな防御機能を勝手に想像しながら
城址を探索するのも面白い。
7月に道一本隔てた隣の台地に鎮座する大田原神社に来たけれど
その時は、時間が押していたから攻城をパスしちゃったけれど
その時に攻城すればよかった。
小雨上がりのこの日と違って、天気は良かったから
また違った雰囲気を感じたことでしょうね................
9月14日〜16日。
県民割引(ブロック割)を利用して栃木県の那須地区へ出かけました。
その2日目。
朝9時に『塩原温泉 八汐荘』をチェックアウトし、
那須塩原市から大田原市へと移動。
向かった先は.................大田原城址。
大田原城は、天文14年 (1543年)に大田原資清によって下野国大田原の蛇尾川西岸、
比高約25メートルの龍体山に築かれた平山城です。
明治4年(1871年)の廃藩置県にいたるまでの326年間、大田原氏の居城でした。
江戸時代には奥州への備えとして重視され、
戊辰戦争の際には、大田原藩は新政府軍についたため、
本城は対会津攻めの重要拠点となりました。
城址には本丸の土塁や堀切、空堀、三日月堀などの遺構が残っており、
現在は龍城公園として花見の名所になっています。
また、城の周辺には鍵型に曲がった道など、城下町の面影が残っています。
こちらが、大田原城の縄張り図。
( 余湖さんのHPからお借りしました )
昭和36年に大田原市の史跡に指定されている大田原城址。
県道沿いに大きな看板も建てられている。
無料駐車場から眺める大田原城。
駐車場に車を停めて、いざ! 攻城!!
龍城公園の遊歩道に建つ説明板。
ちょうど本丸の城塁になる位置には、この説明板の他にも
標柱や碑が建てられている。
こちらは、二の丸下の千石倉跡(米倉跡)。
二の丸の空堀。
こちらが、二の丸。
二の丸の土塁。
先ほどの二の丸の空堀に架かる土橋。
土橋上からの空堀。
土橋を渡れば、本丸虎口。
立派な土塁の虎口。
その先は、本丸台門跡。
この辺りに本丸台門が在ったらしい。
大田原城の本丸は、東西80m×南北120mほどの広さ。
諸役所や武器庫、納戸倉が本丸の中に在ったようです。
周囲は高さ3〜4mの分厚い土塁で囲まれている。
本丸跡の碑(?)
大田原城には、このタイプの碑(?)が説明板や標柱の代わりに
各遺構に建てられているようです。
大田原城は別名が『龍城』
城址は龍城公園として開放されている。
本丸。
犬の散歩に訪れる人も多いのか?
本丸にはこんな看板が.............
芝生でなないけれど、適度に草も生えていて
本丸広場は犬の散歩には良さそう。
こちらは、諸役所跡。
こちらは武庫跡。
本丸をぐるっと囲むように設けられた土塁に上がってみましょう。
土塁の高さは3〜5mほど。
本丸の土塁はそれなりに見応えがある。
高さが3〜5mあるのでそれなりに眺望に長ける。
土塁の上から見下ろす本丸。
本丸から北の丸へと移動します。
こちらは、北の丸。
北の丸にはちょっとした遊具も置かれ、まさに龍城公園。
でも城址としての遺構も残る。
そして、説明板(?)の碑も建てられている。
その遺構の一つがこの土塁。
土塁の上から。
北の丸の奥に進めば................
こんな窪みがある。
その先の麓から進軍してくる敵をこの窪みが待ち受け
一気に敵を矢の標的にして一網打尽にするのだろう。
逆方向に進軍する敵は、本丸の城塁が行く手を遮り
二の丸の空堀へと進むしかない。
結局、二の丸の空堀上から弓矢の攻撃を受けるのか..............
そんな防御機能を勝手に想像しながら
城址を探索するのも面白い。
7月に道一本隔てた隣の台地に鎮座する大田原神社に来たけれど
その時は、時間が押していたから攻城をパスしちゃったけれど
その時に攻城すればよかった。
小雨上がりのこの日と違って、天気は良かったから
また違った雰囲気を感じたことでしょうね................
2022/12/01 Thu. 00:00 |
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御朱印巡り 《大田原神社》 (2022年7月11日)(栃木県大田原市)
7月11日
この日は、廃校巡りで栃木県の大田原市にやって来ました。
千葉県から栃木県って、そんなに近くはない。
だから、そんなにちょくちょく来れる場所でもない。
せっかく大田原市に来たんだから、廃校だけじゃなく
御朱印もいただきに行きましょう。
と言うことで、向かった先は.....................大田原神社。
大田原神社は、大田原市山の手に鎮座する神社です。
創建は平安時代初期の大同2年(807年)に勧請され、
当初は温泉神社と称していたと伝えられています。
伝承によれば、近衛天皇の御代(1142年〜1155年)に那須温泉に巣食う
白面金毛九尾の狐(殺生石)が、当地で悪事をはたき荒廃すると
朝廷から討伐隊として派遣された三浦介義純と上総介弘経が、
温泉神社で祈願を行い、見事悪狐を討伐した事に感謝し、
社殿の造営が行われたとされています。
また、戦国時代の天文14年(1545年)、大田原資清が大田原城築城の際、
城内の鎮守社として遷座し、代々の崇敬社としています。
その後、金田村中原に遷座し、更には現在地近い場所に遷座して
中田原湯泉大明神から大田原神社と改称しました。
明治37年に現在地に遷座し、大田原の総鎮守となっています。
御祭神は、大己貴神、少彦名神。
表参道の社号標。
一の鳥居。
こちらは、車用参道の社号板。
その入口に建つ社号標。
こちらには『大田原護国神社』とある。
この地(大田原)は旧奥州街道の大田原宿でもある。
近年になって建てられた標柱でしょう。
ニの鳥居。
参道。
参道に建つ由緒書き。
手水舎。
三の鳥居。
三の鳥居に掲げられた神額。
参道を進めば、2組の狛犬と拝殿。
1組目の狛犬。
2組目の狛犬。
拝殿。
拝殿正面。
拝殿正面に掲げられた扁額。
別アングルからの拝殿。
そして、こちらが本殿。
本殿背後。
小柄な狛犬と手水鉢。
そして、小さな狐が並べられている。
境内社・大田原伏見稲荷神社。
その由緒書き。
境内社。
左から三峰神社、龍城稲荷神社、大田原護国神社。
その脇には碑も並ぶ。
聖徳太子像。
建築の神として、大田原神社では聖徳太子が祀られています。
神輿庫。
参道脇の土塁。
『おっ! ココは城址か?』とおもったら、
大田原神社の鎮座する台地は龍体山。
県道を挟んだ台地にあるのが大田原城。
大田原城とは陸並び。
大田原城と並ぶように鎮座しているのが大田原神社になる。
それらしい遺構が残っているのか?
時間があれば、大田原城も攻城したいけれど
今回は先を急ぐにで断念します。
社務所(授与所)。
御朱印はこちらで頒布されています。
この日、太田和神社で拝受した御朱印。
いずれも、コロナ禍のため書置き対応。
現在、御朱印帳への直書きはなされていないそうです。
この日は、廃校巡りで栃木県の大田原市にやって来ました。
千葉県から栃木県って、そんなに近くはない。
だから、そんなにちょくちょく来れる場所でもない。
せっかく大田原市に来たんだから、廃校だけじゃなく
御朱印もいただきに行きましょう。
と言うことで、向かった先は.....................大田原神社。
大田原神社は、大田原市山の手に鎮座する神社です。
創建は平安時代初期の大同2年(807年)に勧請され、
当初は温泉神社と称していたと伝えられています。
伝承によれば、近衛天皇の御代(1142年〜1155年)に那須温泉に巣食う
白面金毛九尾の狐(殺生石)が、当地で悪事をはたき荒廃すると
朝廷から討伐隊として派遣された三浦介義純と上総介弘経が、
温泉神社で祈願を行い、見事悪狐を討伐した事に感謝し、
社殿の造営が行われたとされています。
また、戦国時代の天文14年(1545年)、大田原資清が大田原城築城の際、
城内の鎮守社として遷座し、代々の崇敬社としています。
その後、金田村中原に遷座し、更には現在地近い場所に遷座して
中田原湯泉大明神から大田原神社と改称しました。
明治37年に現在地に遷座し、大田原の総鎮守となっています。
御祭神は、大己貴神、少彦名神。
表参道の社号標。
一の鳥居。
こちらは、車用参道の社号板。
その入口に建つ社号標。
こちらには『大田原護国神社』とある。
この地(大田原)は旧奥州街道の大田原宿でもある。
近年になって建てられた標柱でしょう。
ニの鳥居。
参道。
参道に建つ由緒書き。
手水舎。
三の鳥居。
三の鳥居に掲げられた神額。
参道を進めば、2組の狛犬と拝殿。
1組目の狛犬。
2組目の狛犬。
拝殿。
拝殿正面。
拝殿正面に掲げられた扁額。
別アングルからの拝殿。
そして、こちらが本殿。
本殿背後。
小柄な狛犬と手水鉢。
そして、小さな狐が並べられている。
境内社・大田原伏見稲荷神社。
その由緒書き。
境内社。
左から三峰神社、龍城稲荷神社、大田原護国神社。
その脇には碑も並ぶ。
聖徳太子像。
建築の神として、大田原神社では聖徳太子が祀られています。
神輿庫。
参道脇の土塁。
『おっ! ココは城址か?』とおもったら、
大田原神社の鎮座する台地は龍体山。
県道を挟んだ台地にあるのが大田原城。
大田原城とは陸並び。
大田原城と並ぶように鎮座しているのが大田原神社になる。
それらしい遺構が残っているのか?
時間があれば、大田原城も攻城したいけれど
今回は先を急ぐにで断念します。
社務所(授与所)。
御朱印はこちらで頒布されています。
この日、太田和神社で拝受した御朱印。
いずれも、コロナ禍のため書置き対応。
現在、御朱印帳への直書きはなされていないそうです。
2022/09/02 Fri. 00:00 |
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廃校訪ねて...................寒井小学校 (2022年7月11日)(栃木県大田原市)
7月11日
この日は、栃木県の大田原市の廃校巡り。
佐久山小学校藤沢分校
福原小学校
片田小学校
須佐木小学校
川上小学校
旧・須賀川小学校
北野上小学校
蜂巣小学校
両郷西小学校
両郷東小学校と巡り、
この日11校目に訪れたのは...............................大田原市立寒井小学校。
寒井小学校は、
明治7年 川西町与楽寺を仮校舎とし誠明舎と称し開校する。
明治12年 学区改正により鍋掛村日新館の分教室となる。
明治22年 町村制実施と共に川西町分教室となる。
明治25年 小学校令改正実施に付寒井尋常小学校と改称する。
昭和22年 学制改革により、川西町立寒井小学校と改称する。
昭和30年 川西町が黒羽町、須賀川村、両郷村と合併し
新たな黒羽町となる。
黒羽町立寒井小学校となる。
昭和45年 刑務所誘致にともない現在地に新校舎建設起工。
昭和46年 新校舎落成移転。
平成17年 黒羽町が大田原市に合併される。
大田原市立寒井小学校と改称する。
平成25年 寒井小学校、蜂巣小学校、川西小学校が統合し、
新たな大田原市立川西小学校が開校。
寒井小学校は廃校となる
と、このような沿革となっています。
特筆すべきは、刑務所を誘致して、刑務所が出来るから小学校を移転する。
何とも豪快な話です。
さすが、昭和と言ったところでしょうか。
さて、話は戻り、寒井小学校に触れて参りましょう。
正門跡。
コンクリート製のごつい門柱。
門柱には、寒井小学校の表札が未だ掲げられている。
正門の先は正面玄関。
正面にも、寒井小学校の表札が掲げられている。
正面玄関脇には二宮像。
校舎をぐるっと回って校庭へ移動してみます。
校庭。
校庭からの校舎。
校舎は2棟横並びに建てられている。
別アングルからの校舎。
校庭に残された遊具類。
バスケットボールのゴール。
何故か、転がっていた野球のボール。
少年野球のグランドとして、利用されているのだろうか?
校庭の片隅には朝礼台。
こちらは、卒業制作のオブジェ。
いつまでも『なかよく』して下さいね。
朽ちかけた百葉箱。
こちらはブール。
この荒れっぷり、汚れが廃校から10年の時の流れを感じさせる。
正面玄関脇。
二宮像の近くに建つ『創立百周年記念碑』。
まさか、この碑を建立した時には、
廃校になるなんて思いもしなかったんでしょうね。
この日は、栃木県の大田原市の廃校巡り。
佐久山小学校藤沢分校
福原小学校
片田小学校
須佐木小学校
川上小学校
旧・須賀川小学校
北野上小学校
蜂巣小学校
両郷西小学校
両郷東小学校と巡り、
この日11校目に訪れたのは...............................大田原市立寒井小学校。
寒井小学校は、
明治7年 川西町与楽寺を仮校舎とし誠明舎と称し開校する。
明治12年 学区改正により鍋掛村日新館の分教室となる。
明治22年 町村制実施と共に川西町分教室となる。
明治25年 小学校令改正実施に付寒井尋常小学校と改称する。
昭和22年 学制改革により、川西町立寒井小学校と改称する。
昭和30年 川西町が黒羽町、須賀川村、両郷村と合併し
新たな黒羽町となる。
黒羽町立寒井小学校となる。
昭和45年 刑務所誘致にともない現在地に新校舎建設起工。
昭和46年 新校舎落成移転。
平成17年 黒羽町が大田原市に合併される。
大田原市立寒井小学校と改称する。
平成25年 寒井小学校、蜂巣小学校、川西小学校が統合し、
新たな大田原市立川西小学校が開校。
寒井小学校は廃校となる
と、このような沿革となっています。
特筆すべきは、刑務所を誘致して、刑務所が出来るから小学校を移転する。
何とも豪快な話です。
さすが、昭和と言ったところでしょうか。
さて、話は戻り、寒井小学校に触れて参りましょう。
正門跡。
コンクリート製のごつい門柱。
門柱には、寒井小学校の表札が未だ掲げられている。
正門の先は正面玄関。
正面にも、寒井小学校の表札が掲げられている。
正面玄関脇には二宮像。
校舎をぐるっと回って校庭へ移動してみます。
校庭。
校庭からの校舎。
校舎は2棟横並びに建てられている。
別アングルからの校舎。
校庭に残された遊具類。
バスケットボールのゴール。
何故か、転がっていた野球のボール。
少年野球のグランドとして、利用されているのだろうか?
校庭の片隅には朝礼台。
こちらは、卒業制作のオブジェ。
いつまでも『なかよく』して下さいね。
朽ちかけた百葉箱。
こちらはブール。
この荒れっぷり、汚れが廃校から10年の時の流れを感じさせる。
正面玄関脇。
二宮像の近くに建つ『創立百周年記念碑』。
まさか、この碑を建立した時には、
廃校になるなんて思いもしなかったんでしょうね。
2022/09/01 Thu. 00:00 |
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廃校訪ねて...................両郷東小学校 (2022年7月11日)(栃木県大田原市)
7月11日
この日は、栃木県の大田原市の廃校巡り。
佐久山小学校藤沢分校
福原小学校
片田小学校
須佐木小学校
川上小学校
旧・須賀川小学校
北野上小学校
蜂巣小学校
両郷西小学校と巡り、
この日10校目に訪れたのは...........旧・黒羽町立両郷東小学校小学校。
両郷東小学校は、
明治15年 亭毒館と称し開校する。
大正9年 現在地に移転。
昭和22年 学制改革により両郷村立両郷東小学校と改称する。
昭和30年 両郷村が黒羽町、須賀川村、川西町と合併し
新たな黒羽町となる
黒羽町立両郷東小学校と改称する。
昭和52年 両郷中央小学校に統合されて廃校となる。
と、このような沿革となっています。
石段の先が正門。
石造りの門柱。
廃校から既に45年。
校舎は解体され、敷地に建てられた地域の集会所。
その建物もそれなりの年季を醸し出している。
校庭。
残念ながら遊具類は残っていない。
唯一校庭の隅に埋められた古タイヤが
それらしい遺構になるんでしょうか?
公民館。
その建物前に建つ学校跡碑。
開校から閉校まで95年。
1024年の子供たちを送り出した学び舎でした。
この日は、栃木県の大田原市の廃校巡り。
佐久山小学校藤沢分校
福原小学校
片田小学校
須佐木小学校
川上小学校
旧・須賀川小学校
北野上小学校
蜂巣小学校
両郷西小学校と巡り、
この日10校目に訪れたのは...........旧・黒羽町立両郷東小学校小学校。
両郷東小学校は、
明治15年 亭毒館と称し開校する。
大正9年 現在地に移転。
昭和22年 学制改革により両郷村立両郷東小学校と改称する。
昭和30年 両郷村が黒羽町、須賀川村、川西町と合併し
新たな黒羽町となる
黒羽町立両郷東小学校と改称する。
昭和52年 両郷中央小学校に統合されて廃校となる。
と、このような沿革となっています。
石段の先が正門。
石造りの門柱。
廃校から既に45年。
校舎は解体され、敷地に建てられた地域の集会所。
その建物もそれなりの年季を醸し出している。
校庭。
残念ながら遊具類は残っていない。
唯一校庭の隅に埋められた古タイヤが
それらしい遺構になるんでしょうか?
公民館。
その建物前に建つ学校跡碑。
開校から閉校まで95年。
1024年の子供たちを送り出した学び舎でした。
2022/08/30 Tue. 00:00 |
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御朱印巡り 《大宮温泉神社》 (2022年7月11日)(栃木県大田原市)
7月11日
この日は、栃木県の大田原市に出かけました。
廃校巡りです訪れたの大田原市ですが
廃校以外にも見所はいっぱいあります。
そんな中で、御朱印拝受に訪れたのは.................大宮温泉神社。
大宮温泉神社は、大田原市中野内に鎮座する神社です。
創建時期は不詳ながら、『神社名鑑』には、
舒明天皇の御宇、郡司狩野行応の創建され、
延喜式内社下野十一社の一つである温泉神社の論社とされています。
また、平安時代末期の治承・寿永の乱(=源平合戦)から帰ってきた那須余一が
那須の温泉神社を分霊し、高館城内に建立したと言う伝承もあり、
その後、黒羽藩主大関信濃守増栄が高尾森より現在地に遷座し、
明治四年まで領主・大関氏が代々修繕や祭典を執行したそうです。
御祭神は、大己貴命、少彦名命。
県道沿いに建つ看板。
神社社頭。
一の鳥居に掲げられた神額。
石段の先にはニの鳥居。
石段を上がれば、狛犬のお出迎え。
ニの鳥居。
さらに石段は続き、朱色の三の鳥居が見える。
ニの鳥居に掲げられた神額。
そして、三の鳥居。
三の鳥居に掲げられた神額。
手水舎。
なんと、四の鳥居まで現れた。
四の鳥居をくぐり、石段を上って..........
やっぱり、ココでも狛犬がお出迎え。
もう一つの手水舎。
その先には、拝殿。
拝殿正面。
拝殿正面に掲げられた扁額。
別アングルからの拝殿。
拝殿には奉納額が幾つも掲げられている。
そして、こちらが本殿。
境内社・天満宮。
神楽殿。
神輿庫。
板碑。
こちらが社務所。
平日の午後1時から4時まで、社務所が開いている。
そんな情報を、以前HPを覗いて知っていたけれど、
何と、この日は休業。
何と言う運の悪さ。
でも、こう言う人間のために書置きの御朱印が準備されていました。
ありがとうございます。
社務所からの境内全景。
こちらが、この日拝受した御朱印。
たまたま運悪く、宮司さんにはお会い出来なかったけれど
御朱印を拝受できて良かった。
大田原市ってなると、
そんなに頻繁には行けないから助かりました。
まぁ、地方も神社に参拝に訪れて、
御朱印を頂くことが出来ないことも多々有ります。
それも御縁だと思うことにしています。
そう言う意味では、こちらの神社には少なからずとも
御縁があったと言うことでしょう。
この日は、栃木県の大田原市に出かけました。
廃校巡りです訪れたの大田原市ですが
廃校以外にも見所はいっぱいあります。
そんな中で、御朱印拝受に訪れたのは.................大宮温泉神社。
大宮温泉神社は、大田原市中野内に鎮座する神社です。
創建時期は不詳ながら、『神社名鑑』には、
舒明天皇の御宇、郡司狩野行応の創建され、
延喜式内社下野十一社の一つである温泉神社の論社とされています。
また、平安時代末期の治承・寿永の乱(=源平合戦)から帰ってきた那須余一が
那須の温泉神社を分霊し、高館城内に建立したと言う伝承もあり、
その後、黒羽藩主大関信濃守増栄が高尾森より現在地に遷座し、
明治四年まで領主・大関氏が代々修繕や祭典を執行したそうです。
御祭神は、大己貴命、少彦名命。
県道沿いに建つ看板。
神社社頭。
一の鳥居に掲げられた神額。
石段の先にはニの鳥居。
石段を上がれば、狛犬のお出迎え。
ニの鳥居。
さらに石段は続き、朱色の三の鳥居が見える。
ニの鳥居に掲げられた神額。
そして、三の鳥居。
三の鳥居に掲げられた神額。
手水舎。
なんと、四の鳥居まで現れた。
四の鳥居をくぐり、石段を上って..........
やっぱり、ココでも狛犬がお出迎え。
もう一つの手水舎。
その先には、拝殿。
拝殿正面。
拝殿正面に掲げられた扁額。
別アングルからの拝殿。
拝殿には奉納額が幾つも掲げられている。
そして、こちらが本殿。
境内社・天満宮。
神楽殿。
神輿庫。
板碑。
こちらが社務所。
平日の午後1時から4時まで、社務所が開いている。
そんな情報を、以前HPを覗いて知っていたけれど、
何と、この日は休業。
何と言う運の悪さ。
でも、こう言う人間のために書置きの御朱印が準備されていました。
ありがとうございます。
社務所からの境内全景。
こちらが、この日拝受した御朱印。
たまたま運悪く、宮司さんにはお会い出来なかったけれど
御朱印を拝受できて良かった。
大田原市ってなると、
そんなに頻繁には行けないから助かりました。
まぁ、地方も神社に参拝に訪れて、
御朱印を頂くことが出来ないことも多々有ります。
それも御縁だと思うことにしています。
そう言う意味では、こちらの神社には少なからずとも
御縁があったと言うことでしょう。
2022/08/29 Mon. 00:00 |
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廃校訪ねて...................両郷西小学校 (2022年7月11日)(栃木県大田原市)
7月11日
1泊2日で出かけた栃木県大田原市の廃校巡り。
佐久山小学校藤沢分校
福原小学校
片田小学校
須佐木小学校
川上小学校
旧・須賀川小学校
北野上小学校
蜂巣小学校と巡り、
この日9校目に訪れたのは...........旧・黒羽町立両郷西小学校。
両郷西小学校は、
明治9年 川西開達分校と称し創立される。
その後、黒羽作新館分校となる
明治18年 独立して大輪小学西校となる。
明治25年 両郷尋常小学西校と改称する。
昭和22年 学制改革により両郷村立両郷西小学校と改称する。
昭和30年 両郷村が黒羽町、須賀川村、川西町と合併し
新たな黒羽町となる
黒羽町立両郷西小学校と改称する。
昭和46年 黒羽小学校に統合され廃校となる。
と、このような沿革となっています。
正門跡。
石造りの古い門柱。
廃校から49年。
半世紀近く、時は流れている。
校舎はすでに解体され、敷地には地域の公民館と食品加工場が建てられている。
その敷地内に残る遊具類。
昭和40年代の大輪地区は80戸足らずの集落だった。
子供も少なくなって閉校と言う歴史から
新たに遊具は設置されなかったのでは.............?
おそらく往時のモノなんでしょう。
こちらは、公民館(集会所)
こちらが、農産物加工場。
校庭跡。
そして、敷地の片隅に置かれた防災倉庫。
廃校のお約束ですね。
ちょうど時刻はお昼となり、
食品加工場で働いている女性に話しをしてみたけれど
ココが学校跡だと言うことを知らなかったようです。
二宮像も閉校記念碑、学校跡碑もないから
単に公民館としか思わなかったようですね。
1泊2日で出かけた栃木県大田原市の廃校巡り。
佐久山小学校藤沢分校
福原小学校
片田小学校
須佐木小学校
川上小学校
旧・須賀川小学校
北野上小学校
蜂巣小学校と巡り、
この日9校目に訪れたのは...........旧・黒羽町立両郷西小学校。
両郷西小学校は、
明治9年 川西開達分校と称し創立される。
その後、黒羽作新館分校となる
明治18年 独立して大輪小学西校となる。
明治25年 両郷尋常小学西校と改称する。
昭和22年 学制改革により両郷村立両郷西小学校と改称する。
昭和30年 両郷村が黒羽町、須賀川村、川西町と合併し
新たな黒羽町となる
黒羽町立両郷西小学校と改称する。
昭和46年 黒羽小学校に統合され廃校となる。
と、このような沿革となっています。
正門跡。
石造りの古い門柱。
廃校から49年。
半世紀近く、時は流れている。
校舎はすでに解体され、敷地には地域の公民館と食品加工場が建てられている。
その敷地内に残る遊具類。
昭和40年代の大輪地区は80戸足らずの集落だった。
子供も少なくなって閉校と言う歴史から
新たに遊具は設置されなかったのでは.............?
おそらく往時のモノなんでしょう。
こちらは、公民館(集会所)
こちらが、農産物加工場。
校庭跡。
そして、敷地の片隅に置かれた防災倉庫。
廃校のお約束ですね。
ちょうど時刻はお昼となり、
食品加工場で働いている女性に話しをしてみたけれど
ココが学校跡だと言うことを知らなかったようです。
二宮像も閉校記念碑、学校跡碑もないから
単に公民館としか思わなかったようですね。
2022/08/28 Sun. 00:00 |
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廃校訪ねて...................蜂巣小学校 (2022年7月11日)(栃木県大田原市)
7月11日
この日は、栃木県の大田原市へ廃校巡りに出かけました。
佐久山小学校藤沢分校
福原小学校
片田小学校
須佐木小学校
川上小学校
旧・須賀川小学校
北野上小学校と巡り、この日8校目に訪れたのは...........大田原市立蜂巣小学校。
蜂巣小学校は、
蜂巣小学校
明治8年 蔵針舎と称して創立される(開達校分校)。
明治14年 校舎新築移転、蜂巣小学校と改称する。
明治20年 学制改正により鍋掛尋常小学校分校教室となる。
その後、黒羽尋常小学校西校の分教室となり、
黒羽尋常小学西校蜂巣分教室と称する。
明治25年 蜂巣尋常小学校と改称。
昭和7年 校舎老朽のため現在地に新築移転。
昭和22年 学制改革により川西町立蜂巣小学校と改称する。
昭和30年 川西町が黒羽町、須賀川村、両郷村と合併し新たな黒羽町となる
黒羽町立蜂巣小学校と改称する。
平成17年 黒羽町が大田原市に合併される。
大田原市立蜂巣小学校と改称する。
平成25年 蜂巣小学校、寒井小学校、川西小学校が統合し、
新たな大田原市立川西小学校が開校。
蜂巣小学校は廃校となる。
と、このような沿革となっています。
蜂巣小学校正門。
正門越しに綺麗な平屋の木造校舎が見える。
右側の門柱。
門柱には、蜂巣小学校の表札が掲げられている。
左側の門柱脇には看板。
廃校後、施設は蜂の巣珈琲(カフェ)として活用されているようです。
いつもならそれなりにお客さんが来ているのでしょうか?
この日は、月曜日で定休日。
カフェの駐車場にも車はなく、落ち着いて廃校を見学できる。
木造校舎玄関。
現在はカフェの入り口になる。
ドアもアルミサッシのモノに改装されたみたいです。
こちらのテラスは、カフェに改装したときに設置されたのでしょう。
カフェに改装するために手を加えられているものの
外観は往時の校舎のまま。
横に3棟の平屋の木造校舎が並んでいる。
往時の雰囲気は、よく伝わって来る。
国旗掲揚ポールの基部。
昭和12年に建てられたもののようです。
校庭のシンボルツリー。
その脇には、カフェが設置したオブジェ。
校庭からの校舎。
やっぱり、木造校舎は良いなぁ。
表通りからの校舎。
校舎裏側。
カフェは休日でも、敷地内に珈琲工場があるから、出勤している人もいる。
カフェの事務所? それとも工場?
かつての特別教室棟(理科室等)だったんでしょうか?
こちらは、体育館。
校舎から体育館に至る渡り廊下。
いかにも学校っていう雰囲気が好きだなぁ。
カフェは定休日でも事務方の方々は出勤されているみたいなので
あまりうろちょろしていてもご迷惑だし、怪しく思われるのも嫌なので
早々にこの場から引き上げることにしました。
またいつか、カフェに訪れてお茶でもできれば良いな..............
この日は、栃木県の大田原市へ廃校巡りに出かけました。
佐久山小学校藤沢分校
福原小学校
片田小学校
須佐木小学校
川上小学校
旧・須賀川小学校
北野上小学校と巡り、この日8校目に訪れたのは...........大田原市立蜂巣小学校。
蜂巣小学校は、
蜂巣小学校
明治8年 蔵針舎と称して創立される(開達校分校)。
明治14年 校舎新築移転、蜂巣小学校と改称する。
明治20年 学制改正により鍋掛尋常小学校分校教室となる。
その後、黒羽尋常小学校西校の分教室となり、
黒羽尋常小学西校蜂巣分教室と称する。
明治25年 蜂巣尋常小学校と改称。
昭和7年 校舎老朽のため現在地に新築移転。
昭和22年 学制改革により川西町立蜂巣小学校と改称する。
昭和30年 川西町が黒羽町、須賀川村、両郷村と合併し新たな黒羽町となる
黒羽町立蜂巣小学校と改称する。
平成17年 黒羽町が大田原市に合併される。
大田原市立蜂巣小学校と改称する。
平成25年 蜂巣小学校、寒井小学校、川西小学校が統合し、
新たな大田原市立川西小学校が開校。
蜂巣小学校は廃校となる。
と、このような沿革となっています。
蜂巣小学校正門。
正門越しに綺麗な平屋の木造校舎が見える。
右側の門柱。
門柱には、蜂巣小学校の表札が掲げられている。
左側の門柱脇には看板。
廃校後、施設は蜂の巣珈琲(カフェ)として活用されているようです。
いつもならそれなりにお客さんが来ているのでしょうか?
この日は、月曜日で定休日。
カフェの駐車場にも車はなく、落ち着いて廃校を見学できる。
木造校舎玄関。
現在はカフェの入り口になる。
ドアもアルミサッシのモノに改装されたみたいです。
こちらのテラスは、カフェに改装したときに設置されたのでしょう。
カフェに改装するために手を加えられているものの
外観は往時の校舎のまま。
横に3棟の平屋の木造校舎が並んでいる。
往時の雰囲気は、よく伝わって来る。
国旗掲揚ポールの基部。
昭和12年に建てられたもののようです。
校庭のシンボルツリー。
その脇には、カフェが設置したオブジェ。
校庭からの校舎。
やっぱり、木造校舎は良いなぁ。
表通りからの校舎。
校舎裏側。
カフェは休日でも、敷地内に珈琲工場があるから、出勤している人もいる。
カフェの事務所? それとも工場?
かつての特別教室棟(理科室等)だったんでしょうか?
こちらは、体育館。
校舎から体育館に至る渡り廊下。
いかにも学校っていう雰囲気が好きだなぁ。
カフェは定休日でも事務方の方々は出勤されているみたいなので
あまりうろちょろしていてもご迷惑だし、怪しく思われるのも嫌なので
早々にこの場から引き上げることにしました。
またいつか、カフェに訪れてお茶でもできれば良いな..............
2022/08/27 Sat. 00:00 |
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御朱印巡り 《那須神社》 (2022年7月11日)(栃木県大田原市)
7月11日
この日は、栃木県の大田原市へ出かけました。
主たる目的は廃校巡りですが、廃校を巡るだけじゃつまらない。
大田原市の神社を巡って御朱印も手に入れましょう。
立ち寄った道の駅のお隣が那須神社。
こちらは、御朱印を拝受できる神社なので、
いそいそと参拝に向かいます。
那須神社は、大田原市南金丸に鎮座する神社です。
当初は金丸八幡宮と称し、仁徳天皇の時代(313~399年)に建立されたと伝えられ、
さらに延暦年中(782~806年)に征夷大将軍坂上田村麻呂が
応神天皇を祀って八幡宮にしたと伝えられています。
その後、那須氏の崇敬が篤く、那須与一が源平屋島の戦いで
扇の的を弓矢で射落とす際、「南無八幡大菩薩・・・」と、
心に念じた神社とも伝えらています。
那須氏没落の後は、黒羽城主大関氏の代々の氏神として信仰され、
天正5年(1577年)には大関氏によって本殿・拝殿・楼門が再興されたと
社記に伝えられているそうです。
明治六年に金丸八幡宮から那須神社へと改称しました。
御祭神は、応神天皇。
社号標。
参道。
社号標の立つ場所から、長い参道が続く。
参道沿いに建つ軍馬慰霊碑。
一の鳥居。
鳥居の注連縄。
ニノ鳥居。
境内に建つ由緒の記された説明板。
視界の先には楼門が見える。
狛犬。
こちらが由緒書き。
手水舎。
定番の龍の吐出口。
那須神社は奥の細道の景勝地らしい。
そう言えば、ココに来る前に大田原市の数ヶ所で
松尾芭蕉や奥の細道に関する看板や句碑を見かけたような気がする。
後で(那須神社の禰宜さんと話をして)知ったのですが
江戸時代、旧・黒羽町に松尾芭蕉が奥の細道の旅中14日もの間滞在し
数々の句を残したことから、大田原市(特に旧・黒羽町)は芭蕉の里と呼ばれているらしい。
神橋。
楼門。
那須神社の楼門と本殿は国の重要文化財に指定されている。
楼門の随身像。
向かって右側の左大臣。
向かって左側、弓大臣。
拝殿。
向拝。
拝殿正面。
拝殿正面に掲げられた扁額。
そこには『惣社八幡宮』と記されている。
別アングからの拝殿。
そして、こちらが本殿。
本殿背後(北側)には、金丸塚。
どうやら、古墳のようですね。
境内社。
こちらが、社務所。
御朱印は、こちらで頒布されています。
こちらが、拝受した御朱印。
那須与一のキャラが可愛いいですね。
まさに、今時の御朱印になるんでしょうね。
この日は、栃木県の大田原市へ出かけました。
主たる目的は廃校巡りですが、廃校を巡るだけじゃつまらない。
大田原市の神社を巡って御朱印も手に入れましょう。
立ち寄った道の駅のお隣が那須神社。
こちらは、御朱印を拝受できる神社なので、
いそいそと参拝に向かいます。
那須神社は、大田原市南金丸に鎮座する神社です。
当初は金丸八幡宮と称し、仁徳天皇の時代(313~399年)に建立されたと伝えられ、
さらに延暦年中(782~806年)に征夷大将軍坂上田村麻呂が
応神天皇を祀って八幡宮にしたと伝えられています。
その後、那須氏の崇敬が篤く、那須与一が源平屋島の戦いで
扇の的を弓矢で射落とす際、「南無八幡大菩薩・・・」と、
心に念じた神社とも伝えらています。
那須氏没落の後は、黒羽城主大関氏の代々の氏神として信仰され、
天正5年(1577年)には大関氏によって本殿・拝殿・楼門が再興されたと
社記に伝えられているそうです。
明治六年に金丸八幡宮から那須神社へと改称しました。
御祭神は、応神天皇。
社号標。
参道。
社号標の立つ場所から、長い参道が続く。
参道沿いに建つ軍馬慰霊碑。
一の鳥居。
鳥居の注連縄。
ニノ鳥居。
境内に建つ由緒の記された説明板。
視界の先には楼門が見える。
狛犬。
こちらが由緒書き。
手水舎。
定番の龍の吐出口。
那須神社は奥の細道の景勝地らしい。
そう言えば、ココに来る前に大田原市の数ヶ所で
松尾芭蕉や奥の細道に関する看板や句碑を見かけたような気がする。
後で(那須神社の禰宜さんと話をして)知ったのですが
江戸時代、旧・黒羽町に松尾芭蕉が奥の細道の旅中14日もの間滞在し
数々の句を残したことから、大田原市(特に旧・黒羽町)は芭蕉の里と呼ばれているらしい。
神橋。
楼門。
那須神社の楼門と本殿は国の重要文化財に指定されている。
楼門の随身像。
向かって右側の左大臣。
向かって左側、弓大臣。
拝殿。
向拝。
拝殿正面。
拝殿正面に掲げられた扁額。
そこには『惣社八幡宮』と記されている。
別アングからの拝殿。
そして、こちらが本殿。
本殿背後(北側)には、金丸塚。
どうやら、古墳のようですね。
境内社。
こちらが、社務所。
御朱印は、こちらで頒布されています。
こちらが、拝受した御朱印。
那須与一のキャラが可愛いいですね。
まさに、今時の御朱印になるんでしょうね。
2022/08/26 Fri. 00:00 |
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道の駅に立ち寄ろう 《那須与一の郷》 (2022年7月11日)(栃木県大田原市)
7月11日
7月14日まで延長された県民割引(7月10日現在)。
その県民割引が地域ブロック割引と称して、
栃木県内の旅行に千葉県民も割引対象になる。
コレは使わない手はない。
と言うことで、那須塩原温泉に宿を取り
この日は栃木県の廃校巡り。
主に大田原市近辺を巡ります。
勿論、廃校だけでなく御朱印拝受の神社巡りや丸ポストも探したりもします。
元来、旅行や遠出をしたら休憩がてら、道の駅に立ち寄ることが多い。
今回も目的地の神社の隣に、道の駅がある。
コレは立ち寄らないわけにはいかない。
と言うことで、立ち寄ったのが....................道の駅 那須与一の郷。
駐車場。
大型車12台、普通車294台(身障者用11台)が停められるそうです。
敷地内にの『与一伝承館』。
大田原市は、中世から近世にかけて那須氏の拠点であった地であり、
那須与一が生まれ、成長したと伝えられるなど、与一や那須氏とゆかりが深い地です。
その那須与一の活躍を映像で紹介しているらしい。
こちらは、竹のギャラリー。
竹工芸品のお店です。
手打ち蕎麦処『扇亭』。
こちらは情報館。
入口にはカラーマンホール蓋が展示されている。
情報館の中へ入ります。
道の駅のスタンプはこちら。
道の駅の切符は直売所で購入できます。
近年、道の駅カードなるモノが登場しました。
カードの発行は好感持てますが、有料っていうのが気に入らない。
私は引き続き、道の駅の切符を集めることにしています。
情報館と言うだけあって、大田原市の情報が豊富です。
こちらは、農産物直売所
この辺りは、言わずと知れた那須地区。
お隣は那須塩原市に那須町、南那須町。
農産物も豊富で特にこの時期には茄子が多く採れるのか?
夏のこの時期の果物も豊富。
那須と胡瓜が安かったので思わず、お買い上げ。
その隣は加工・物産品館。
敷地内の歩道に何かある。
近づいてみると、カラーマンホール蓋。
太田原市のカラーマンホール蓋。
大田原市はマンホールカードを発行してしていましたが
予定数の配布を終了してしまい、現在は配布されていないそうです。
実はこの日の夕刻、マンホールカードを貰うために
大田原市内中心部にある配布場所に行ったのですが、
『現在は配布していません』と言われてしまいました。
こちらが道の駅の切符。
道の駅のスタンプ。
隣接する那須神社のスタンプも置かれている。
道の駅も観光資源ですが、那須神社も観光資源。
共存共栄で成り立っているんでしょうね。
当然、この後参拝に向かいました。
参拝記はまたの機会に.....................
7月14日まで延長された県民割引(7月10日現在)。
その県民割引が地域ブロック割引と称して、
栃木県内の旅行に千葉県民も割引対象になる。
コレは使わない手はない。
と言うことで、那須塩原温泉に宿を取り
この日は栃木県の廃校巡り。
主に大田原市近辺を巡ります。
勿論、廃校だけでなく御朱印拝受の神社巡りや丸ポストも探したりもします。
元来、旅行や遠出をしたら休憩がてら、道の駅に立ち寄ることが多い。
今回も目的地の神社の隣に、道の駅がある。
コレは立ち寄らないわけにはいかない。
と言うことで、立ち寄ったのが....................道の駅 那須与一の郷。
駐車場。
大型車12台、普通車294台(身障者用11台)が停められるそうです。
敷地内にの『与一伝承館』。
大田原市は、中世から近世にかけて那須氏の拠点であった地であり、
那須与一が生まれ、成長したと伝えられるなど、与一や那須氏とゆかりが深い地です。
その那須与一の活躍を映像で紹介しているらしい。
こちらは、竹のギャラリー。
竹工芸品のお店です。
手打ち蕎麦処『扇亭』。
こちらは情報館。
入口にはカラーマンホール蓋が展示されている。
情報館の中へ入ります。
道の駅のスタンプはこちら。
道の駅の切符は直売所で購入できます。
近年、道の駅カードなるモノが登場しました。
カードの発行は好感持てますが、有料っていうのが気に入らない。
私は引き続き、道の駅の切符を集めることにしています。
情報館と言うだけあって、大田原市の情報が豊富です。
こちらは、農産物直売所
この辺りは、言わずと知れた那須地区。
お隣は那須塩原市に那須町、南那須町。
農産物も豊富で特にこの時期には茄子が多く採れるのか?
夏のこの時期の果物も豊富。
那須と胡瓜が安かったので思わず、お買い上げ。
その隣は加工・物産品館。
敷地内の歩道に何かある。
近づいてみると、カラーマンホール蓋。
太田原市のカラーマンホール蓋。
大田原市はマンホールカードを発行してしていましたが
予定数の配布を終了してしまい、現在は配布されていないそうです。
実はこの日の夕刻、マンホールカードを貰うために
大田原市内中心部にある配布場所に行ったのですが、
『現在は配布していません』と言われてしまいました。
こちらが道の駅の切符。
道の駅のスタンプ。
隣接する那須神社のスタンプも置かれている。
道の駅も観光資源ですが、那須神社も観光資源。
共存共栄で成り立っているんでしょうね。
当然、この後参拝に向かいました。
参拝記はまたの機会に.....................
2022/08/25 Thu. 00:00 |
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廃校訪ねて...................北野上小学校 (2022年7月11日)(栃木県大田原市)
7月11日
この日は、廃校巡りで栃木県の大田原市に出かけました。
旧・須賀川小学校跡地をあとにして、向かった先は.............北野上小学校
北野上小学校は、
明治8年 廃寺泉蔵院の敷地建物を払い下げ修理を加えて校地校舎として創立。
開達校(現:川西小学校)の分校「登校舎」となる。
明治13年 那須郡第二十八番学区「登校舎」となる。
明治15年 本県制定小学校規則により、北野上小学校と改称する。
明治18年 学区改正により第十三番学区、北野上小学校と改称す。
明治20年 那須郡第三番学区、黒羽尋常小学校北野上分教室となる。
明治25年 小学校令改正により黒羽第一尋常小学校と改称する
大正10年 黒羽尋常小学校と改称す。
昭和22年 学制改革により、黒羽町立第三小学校と改称する。
昭和30年 黒羽町が川西町、須賀川村、両郷村と合併して
新たな黒羽町となる。
黒羽町立北野上小学校と改称する。
昭和58年 黒羽小学校に統合されて廃校となる。
と、このような沿革となっています。
県道沿いのちょっとした台地に北野上小学校跡は在りました。
校舎は既に解体されていて、いかにも学校跡とい言った空間が広がっています。
その一角に石碑類がまとめられています。
門柱と学校跡碑、そして神社にあるような旗杭(?)。
こちらが、『北野上小学校跡碑』。
裏面には簡略化された沿革が刻まれている。
一段高い位置に、何やら建物が建っている。
確認してみましょう。
最初は校舎かと思いましたが、近づいてみると違っている。
体育館と言うか講堂ですね。
おそらく、校舎はこの辺りに建てられていたのでしょう。
それらしく空間が残されている。
その空間の奥には、年代物の倉庫。
講堂(体育館)の前から校庭を見下ろしてみます。
再び、校庭に降りてみましょう。
校庭の桜の木。
そして、廃校のお約束とも言える防災倉庫。
やっぱり、ココは廃校跡なんですね。
この日は、廃校巡りで栃木県の大田原市に出かけました。
旧・須賀川小学校跡地をあとにして、向かった先は.............北野上小学校
北野上小学校は、
明治8年 廃寺泉蔵院の敷地建物を払い下げ修理を加えて校地校舎として創立。
開達校(現:川西小学校)の分校「登校舎」となる。
明治13年 那須郡第二十八番学区「登校舎」となる。
明治15年 本県制定小学校規則により、北野上小学校と改称する。
明治18年 学区改正により第十三番学区、北野上小学校と改称す。
明治20年 那須郡第三番学区、黒羽尋常小学校北野上分教室となる。
明治25年 小学校令改正により黒羽第一尋常小学校と改称する
大正10年 黒羽尋常小学校と改称す。
昭和22年 学制改革により、黒羽町立第三小学校と改称する。
昭和30年 黒羽町が川西町、須賀川村、両郷村と合併して
新たな黒羽町となる。
黒羽町立北野上小学校と改称する。
昭和58年 黒羽小学校に統合されて廃校となる。
と、このような沿革となっています。
県道沿いのちょっとした台地に北野上小学校跡は在りました。
校舎は既に解体されていて、いかにも学校跡とい言った空間が広がっています。
その一角に石碑類がまとめられています。
門柱と学校跡碑、そして神社にあるような旗杭(?)。
こちらが、『北野上小学校跡碑』。
裏面には簡略化された沿革が刻まれている。
一段高い位置に、何やら建物が建っている。
確認してみましょう。
最初は校舎かと思いましたが、近づいてみると違っている。
体育館と言うか講堂ですね。
おそらく、校舎はこの辺りに建てられていたのでしょう。
それらしく空間が残されている。
その空間の奥には、年代物の倉庫。
講堂(体育館)の前から校庭を見下ろしてみます。
再び、校庭に降りてみましょう。
校庭の桜の木。
そして、廃校のお約束とも言える防災倉庫。
やっぱり、ココは廃校跡なんですね。
2022/08/24 Wed. 00:00 |
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廃校訪ねて...................旧・須賀川小学校 (2022年7月11日)(栃木県大田原市)
7月11日
この日は、栃木県大田原市の廃校巡りに出かけました。
川上小学校をあとにして、
向かった先は......................旧黒羽町立 旧・須賀川小学校跡。
※ 須賀川小学校は廃校ではありませんが、
校地移転に伴い、旧校地には木造校舎が残されています。
須賀川小学校は、
明治8年 須賀川村字大久保真福寺を校舎として小学校創立。
明治19年 公立須賀川小学校となる。
明治24年 須賀川尋常高等小学校東校と改称する
明治28年 火災により校舎並びに一切の書類焼失。
明治32年 高等科を併置し須賀川尋常高等小学校と改称する
昭和2年 校地移転
昭和22年 学制改革により須賀川村立須賀川小学校と改称する。
昭和30年 須賀川村が黒羽町、川西町、両郷村と合併し黒羽町となる。
黒羽町立須賀川小学校と改称する。
平成17年 黒羽町が大田原市に合併される。
大田原市立須賀川小学校と改称する。
平成18年 須佐木小学校と統合し校地移転。
新たな大田原市立須賀川小学校としてスタートする。
と、このような沿革となっていて、
平成18年まで使用されていたのが、今回訪れ木造校舎です。
大田原市の旧黒羽町須佐木地区から須賀川集落へと
車を走らせていると、いきなり視界に現れる木造校舎。
実は、事前の情報不足(あまり意識していなかった)で
笠石神社の宮司さんに
『大田原市の廃校を巡るのなら、是非、須賀川小学校に行ってください』
と言われ、場所も詳しく知らないまま訪れたのが、こちらの須賀川小学校。
目の前に現れた木造校舎はインパクトが強かったぁ。
まずは、正門跡から。
石造りの古い門柱。
川上小学校や須佐木小学校で見かけたモノと同じデザインですね。
門柱脇に置かれた石碑。
『忍』の文字だけと言うのも時代を物語る。
門中の先は体育館。
体育館っぽく見えないので、それらしいアングルから。
体育館手前にも平屋建の木造校舎。
こちらも、立派な学校遺構。
こちらが、二階建ての木造校舎。
二階建ての美しい校舎。
様々なアングルから眺めてみましょう。
校舎の正面玄関。
ちょっとピンぼけ。
校庭。
校庭には、カラーマンホールが設置されていました。
朝礼台。
朽ちた百葉箱。
校舎前には『和』と刻まれた碑。
こちらは『創立九十周年記念碑』。
二宮像。
子供たちの卒業制作のオブジェ。
山間部の旧校地。
急斜地崩壊危険地区であるハザード地区。
素敵な木造校舎に出会えて良かった。
笠石神社の宮司さんに感謝しなければ。
そして、いつまでもこのまま何事もなく、
後世に残されていくことを切に願います。
この日は、栃木県大田原市の廃校巡りに出かけました。
川上小学校をあとにして、
向かった先は......................旧黒羽町立 旧・須賀川小学校跡。
※ 須賀川小学校は廃校ではありませんが、
校地移転に伴い、旧校地には木造校舎が残されています。
須賀川小学校は、
明治8年 須賀川村字大久保真福寺を校舎として小学校創立。
明治19年 公立須賀川小学校となる。
明治24年 須賀川尋常高等小学校東校と改称する
明治28年 火災により校舎並びに一切の書類焼失。
明治32年 高等科を併置し須賀川尋常高等小学校と改称する
昭和2年 校地移転
昭和22年 学制改革により須賀川村立須賀川小学校と改称する。
昭和30年 須賀川村が黒羽町、川西町、両郷村と合併し黒羽町となる。
黒羽町立須賀川小学校と改称する。
平成17年 黒羽町が大田原市に合併される。
大田原市立須賀川小学校と改称する。
平成18年 須佐木小学校と統合し校地移転。
新たな大田原市立須賀川小学校としてスタートする。
と、このような沿革となっていて、
平成18年まで使用されていたのが、今回訪れ木造校舎です。
大田原市の旧黒羽町須佐木地区から須賀川集落へと
車を走らせていると、いきなり視界に現れる木造校舎。
実は、事前の情報不足(あまり意識していなかった)で
笠石神社の宮司さんに
『大田原市の廃校を巡るのなら、是非、須賀川小学校に行ってください』
と言われ、場所も詳しく知らないまま訪れたのが、こちらの須賀川小学校。
目の前に現れた木造校舎はインパクトが強かったぁ。
まずは、正門跡から。
石造りの古い門柱。
川上小学校や須佐木小学校で見かけたモノと同じデザインですね。
門柱脇に置かれた石碑。
『忍』の文字だけと言うのも時代を物語る。
門中の先は体育館。
体育館っぽく見えないので、それらしいアングルから。
体育館手前にも平屋建の木造校舎。
こちらも、立派な学校遺構。
こちらが、二階建ての木造校舎。
二階建ての美しい校舎。
様々なアングルから眺めてみましょう。
校舎の正面玄関。
ちょっとピンぼけ。
校庭。
校庭には、カラーマンホールが設置されていました。
朝礼台。
朽ちた百葉箱。
校舎前には『和』と刻まれた碑。
こちらは『創立九十周年記念碑』。
二宮像。
子供たちの卒業制作のオブジェ。
山間部の旧校地。
急斜地崩壊危険地区であるハザード地区。
素敵な木造校舎に出会えて良かった。
笠石神社の宮司さんに感謝しなければ。
そして、いつまでもこのまま何事もなく、
後世に残されていくことを切に願います。
2022/08/23 Tue. 00:00 |
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