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び・び・びのびいすけ

びいすけとお父さんと時々もっちゃん

滝田城址  (2017年3月9日)(千葉県南房総市) 

3月9日 公休日

この日は、南房総市に出かけました。

増間七滝の『前蔵引の滝』の滝をあとにして、
向かった先は...............滝田城址

今回、南房総市の来た最たる目的は、この滝田城址の攻略。
実は過去2回、近くに来て居ながら時間が足りなくなって
断念したことがあります。
山城だと言うこと、かなり広い城域だとネットで調べてはいましたか
実際に自分の足で歩いて、かなり広い城址だと改めて実感しました。


滝田城の築城年代は定かではありませんが、
里見義豊の妹婿である一色九郎が城主をつとめた記録があります。
里見氏の内部分裂である『天文の内訌』により、義豊が里見義尭によって安房を追われると、
義豊の妹婿である一色氏の滝田城も攻められ落城してしまいました。
諸説があるようですが、落城後に廃城となったと言う説と、
落城後、里見義堯が本拠としたとする説があるようです。

また滝田城は、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』で里見義実の居城のモデルとなった城としても有名です。
そのため城址には『伏姫と八房の像』が建てられています。



こちらが、滝田城の縄張り図。

      滝田城址縄張り図

( 余胡さんのHP からお借りしました。)



県道88号線を走っていると、案内標識が出ていて
迷わずに滝田城址へと来ることが出来ます。

      20170309滝田城址64


実は、コレが曲者だったりします。
と言うのは、滝田城の登城路は2ヶ所あります。

一つは、城好き、城マニアにとっては王道とでも言うべきか?
定石とでも言うべきか?
大手口からの登城。
こちらは遺構を確認しながら、登城出来ます。

もう一つは、搦め手口側の登城路。
こちらが曲者です。
県道からの案内では、こちらに辿り着いてしまいます。


実は、そのことを知らずに、案内標識に導かれるまま
駐車場に来てしまいました。
駐車場にはトイレも完備。

しっかりとした説明板、案内図もあります。

      20170309滝田城址02


      20170309滝田城址01
  

      20170309滝田城址03

滝田城址として整備されている割には、案内図が簡素化されていて
縄張り図もない。
結果的には、ハイキングコースの案内板と言った感じです。


大手口から登城するのが、本来の意味では正解ですが
そんなことも知らずに、『いざ!登城!』と張り切ります。

      20170309滝田城址04


山城だから、仕方がないけれど、イキナリの上り。

      20170309滝田城址05


ちょっぴり息を切らしながら、上って行きます。

      20170309滝田城址06


城郭の遺構らしきモノもないまま、尾根に到着。
尾根伝いに移動します。

      20170309滝田城址07


尾根に切られた堀切。

      20170309滝田城址08

ここで、搦め手口からの進入を阻止するのでしょう。


さらに、尾根伝いに進みます。

      20170309滝田城址09


      20170309滝田城址10



主郭虎口だと思い切り勘違い。

      20170309滝田城址11

この時はまだ、登城路が二つあって、
搦め手口から登城しているとは知りませんでした。


主郭かと思ったら、そこは展望台跡。
以前は展望台が在って、見晴らしが良かったようですが
現在は撤去されてしまったようです。


展望台の一角には、伏姫と八房の像。

      20170309滝田城址12


この像も見たかったモノの一つ。

      20170309滝田城址13


像の台座には『翔天』の文字。

      20170309滝田城址14


      20170309滝田城址15



一見、天守台跡のように見えるけれど、
ここが展望台跡。

      20170309滝田城址16


滝田城の説明板。

      20170309滝田城址17


木製の滝田城址の標柱は朽ちて倒れているのを
展望台の基礎には立て掛けてありました。

      20170309滝田城址18


      20170309滝田城址19


ここで引き返して駐車場に戻ってしまう人もいるようですが
滝田城址の真骨頂はこの先。
尾根伝いにさらに先へと進みます。

なだらかな上り勾配の尾根を200mほど進むと
やがて上り階段。

      20170309滝田城址20


この階段の向こうには何がある?

       20170309滝田城址21


上りきった先は、ちょっとした削平地。
そこは台地頂部。
そんなに広くはなく、居住性はありません。

櫓台でした。

       20170309滝田城址22


櫓台には、小さな祠が祀られています。

       20170309滝田城址23

( 鉄塔もあるけどね。)


櫓台と言うだけあって、見晴らしは良い。

       20170309滝田城址24


櫓台は『八幡台』とも言うらしい。

      20170309滝田城址25

あの小さな祠は八幡宮なんですね。


八幡台から一段下ったところが主郭(本丸)。

      20170309滝田城址26


      20170309滝田城址30


それなりの広さを有する削平地。

      20170309滝田城址27


主郭には礎石が残されており、居館が在ったことを推測させます。

      20170309滝田城址28



こちらが、主郭の虎口。

      20170309滝田城址29


      
主郭から登城路を根古屋まで下って行きましょう。

ここからが、滝田城址の真骨頂です。

      20170309滝田城址31



主郭のすぐ下には曲輪。

      20170309滝田城址32

一瞬、二郭かと思ったら、二郭は別な場所に...............



こちらが二郭(二の丸)。

      20170309滝田城址33


      20170309滝田城址34


二郭には、土壇のような土塁もあります。

      20170309滝田城址35



二郭からさらに下って行くと、幾つもの曲輪があります。

      20170309滝田城址36



こちらは武者溜

      20170309滝田城址37


書いて字のごとく、兵が居留できるような削平地。
と言っても、それなりの広さ。
とても数百人の兵が居留できるわけではありません。

      20170309滝田城址38


      20170309滝田城址39


      20170309滝田城址40


      20170309滝田城址41



武者溜の奥には見晴台。

      20170309滝田城址42



さらに下って行けば、虎口。

      20170309滝田城址43



下(大手口)から上がって来ると、右カーブの虎口。

      20170309滝田城址44

なかなか、防御性も兼ねた虎口です。



さらに下って行けば、腰曲輪。

      20170309滝田城址45

本当に登城路の脇に曲輪が多い。


腰曲輪から下を覗くと、更に別な腰曲輪があるのが分かります。

      20170309滝田城址46



一段下った先の腰曲輪。

      20170309滝田城址47



主郭から、数多くの曲輪、腰曲輪を眺めながら
馬場まで降りきりました。

      20170309滝田城址48


馬場の登城路側の土塁。

      20170309滝田城址53


馬場から登城路を振り返ってみます。

      20170309滝田城址49

いかにも山城って言う感じの登城路です。




馬場は、本当に広い削平地。

      20170309滝田城址50


この広さであれば、それなりの数の兵が居留出来そうです。

      20170309滝田城址51


そして、馬場の奥には物見台。

      20170309滝田城址52

平群川沿いの街道を監視していたのでしょう。

      

馬場から一気に根古屋まで下って行きます。

こちらが、大手口の登城路の入口。

      20170309滝田城址54


やはり、害獣対策でフェンスが張られ、
出入りする扉にはロープで簡易的に施錠しています。

      20170309滝田城址55

要は、大手口から登城する人は、勝手にロープを解いて、
出入りしたら、また結び直して下さいって言うことです。


一応、大手口にも車が5〜6台停められるスペースはありますが
フェンスの関係なんでしょう、
表向きにはこちらの登城口を案内していないみたいです。

      56



こちらは根古屋地区。

      20170309滝田城址57


畑には菜の花が満開の時期を過ぎて、ちょっぴり枯れ始めています。

      20170309滝田城址58


      20170309滝田城址59



さて、駐車場に戻るにはどうしょう?

もう一度、大手口から登城して主郭まで行き
尾根伝いに移動して、展望台跡から搦め手口を下って行く元気はありません。

さすがに、この山の頂部まで行って、反対側に降りる気力もありません。

      20170309滝田城址60



県道をトボトボ歩きながら、案内標識を探しましょう。

      20170309滝田城址61


15分ほど歩いて、駐車場はもうすぐそこ。


駐車場手前には、里見桜。

      20170309滝田城址62

上総・安房の国に栄華を誇った里見氏ですが、
江戸時代になると徳川家康に里見氏10代当主、里見忠義は安房を没収され、
伯耆倉吉3万石に転封となりました。
その8年後、29歳の若さで亡くなりました。

里見氏の所縁の地と言うことで交流のある倉吉市の有志が苗木を育て、
館山に送られ、南房総市の有志らにより植えられたそうです。

      20170309滝田城址63


無事、駐車場に戻り一息つきましたが
滝田城址に1時間半以上居たことになります。
思った以上に疲れたけれど、見応えのある城址でした。






     
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2017/04/07 Fri. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

高月城址  (2017年3月9日)(千葉県南房総市) 

3月9日  公休日

この日は、房総半島の南房総市に出かけました。

犬掛の八房生誕の地をあとにして、向かった先は...............高月城址



上滝田地区の龍喜寺が高月城址とされているようですが、
高月城については、詳細は不明です。

高月城の近く(北側)に犬掛の古戦場があり、また滝田城からも近いこの位置から考えて、
滝田城の出城の1つと考えられているようです。
また、犬掛の合戦の際に陣城が置かれたところであるかもしれません。
しかしながら、龍喜寺は里見義通が開基した寺院で、
里見義通の位牌も納められているということです。



こちらが、高月城の縄張り図

      高月城址縄張り図


(余胡さんのHP よりお借りしました)



龍喜寺に至る道は狭く、途中にゲートもあって車では通れません。
仕方ないので、県道の路肩に車を停めて歩きましょう。


びいすけ の背後にあるのが高月城址。

      20170309高月城址01


龍喜寺への案内板を頼りに歩きます。

      20170309高月城址02


      20170309高月城址03


狭い道を上って行くと、フェンスの向こうに又々イノシシ捕獲用の檻。

      20170309高月城址04

本当に害獣の被害は深刻なんですね。


ダラダラと上り坂を上がって行けば、龍喜寺

      20170309高月城址05



城塁と削平地。

      20170309高月城址06


こちらが龍喜寺の説明板。

      20170309高月城址07

由緒ある寺院のようですが、現在は無住の寺のようです。



龍喜寺の本堂。

      20170309高月城址08



境内には、なぜか鳥居。

      20170309高月城址09



萬勢稲荷と言う稲荷神社のようです。

      20170309高月城址10


      20170309高月城址11



萬勢稲荷の社が建つのは土塁上。

      20170309高月城址12



龍喜寺の三方を取り巻くように土塁が残されています。

      20170309高月城址13


      20170309高月城址14


龍喜寺の本堂の建っている辺りは、さしずめ居館跡でしょうか?

      20170309高月城址15



萬勢稲荷の背後には、尾根伝いにさらに台地の奥に行けそうですが
害獣避けのフェンスがあって立ち入り禁止。

      20170309高月城址16


さらに、フェンスの先にはイノシシ捕獲用の檻。

      20170309高月城址17


遺構らしきモノは土塁ぐらいしか無いようです。
滝田城の支城とするならば、ちょっぴり拍子抜け。
やはり、犬掛合戦の際の陣城だったのだろうか...............?

城巡りの割には、今一歩テンションが昂まりませんでした。




2017/04/03 Mon. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

岡城址 (2017年1月31日)(茨城県取手市) 

1月31日 公休日

この日は、茨城県の取手市の廃校巡りに出かけました。

廃校巡りのついでに、取手市内に在る城址にも立ち寄ることにしました。
白山西小学校をあとにして、向かった先は...............岡城址


小貝川の近く、取手市の岡地区には『岡の台地』と呼ばれる高台があります。
その『岡の台』の一角に『岡神社』があり、その岡神社のある辺りが岡城址とされています。


岡城の城主等歴史については不詳ですが、
岡神社のある高台には、茨城県指定史跡である『大日山古墳』があり
その『大日山古墳』が中世に岡城の櫓台として用いられていたようです。



これは中世から近世に盛んになった大日信仰の名残で、大日山の名もそこからきていると考えられています。


こちらが、岡神社の鳥居。

     20170131岡城址01


鳥居の神額。

      20170131岡城址02



この石段を上がった先が岡神社の境内であり、岡城址とされています。

      20170131岡城址03



びいすけ の背後に建つ拝殿。

      20170131岡城址04

拝殿の建つ高台が『大日山古墳』。


こちらが、拝殿。

      20170131岡城址05



この位置からだと、拝殿のある土壇(高台)が古墳なのが良く分かります。

      20170131岡城址06

土壇脇に建つ説明板。

『大日山古墳』については触れていますが
岡城址については触れていない。

      20170131岡城址07



中世から近世にかけて、盛んになった大日信仰の名残りで
岡神社の境内には石塔が多い。
大日山の名も大日信仰からきていると考えられています。

      20170131岡城址08


      20170131岡城址09



こちらは、祭礼記念碑。

      20170131岡城址10


      20170131岡城址12



実は、岡城址のある一帯は『朝日御殿跡』といい、
平将門の妾桔梗の御殿の跡と伝えられているそうです。

祭礼記念碑の碑文にも記されています。

      20170131岡城址11



こちらが、その『朝日御殿跡』
岡城址の郭ともされている。

      20170131岡城址13


      20170131岡城址14


      20170131岡城址15



『岡の台』は平将門の所縁の地で、将門伝説の残る所。
この『岡の台』の地に将門が城を造ったとも言われています。

台地には、こんな感じで城址の雰囲気満載の場所も多い。

      20170131岡城址16


先ほどのばしょから上がって行くと、削平地。
畑と改変されています。
      20170131岡城址17




『岡の台』の外れには、こんな標柱も建っています。

      20170131岡城址18


      20170131岡城址19


『岡台地と平将門』と表題の付いた標柱には
『将門伝説が残り』『平将門にまつわる史跡として
朝日御殿跡(城跡)、延命寺、仏島山古墳』 と記されています。

ひょっとしたら、岡城は朝日御殿の事を言うんのだろうか?


良く分からない...............謎です(笑)。

2017/02/28 Tue. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

宮本城址  (2017年1月26日)(千葉県南房総市) 

1月26日  公休日

この日は、南房総市に出かけました。


岡本城址をあとにして、向かった先は...............宮本城址


宮本城は、房総里見氏の二代目成義(近年の研究によると、その存在が疑問視されています。)が
延徳3年(1491年)に稲村城の支城として築いたものです。 
城域は、山頂一帯を主郭とし、東へ延びた尾根と南北に派生する支尾根に、
連続して竪堀、土橋、掘切を組み合せ、敵の取り付きを困難にする技巧的な構造になっています。
特に、城の北側の防御に力が注がれているのを見ると、
当時の里見氏が、上総方面を意識していたことがよく解ります。
成義の三男・実堯(現在では、初代・義実の子という説が主流です。)が初代城主となり、
宮本城は、天文2年(1533年)に起こった里見氏一族の内紛(天文の内乱)で当主の義豊が敗死した後、
稲村城とともに廃城となったと伝えられていますが、遺構の形式から見て、従来考えられていた年代よりも後まで使用されていたことが伺えます。 当時の文献からも、義豊を滅ぼした義堯が宮本城を居城としたことが明らかになっています。





こちらが宮本城の縄張り図

      宮本城縄張り
                     ( 余胡さんのHP  よりお借りしました )



宮本城址のアプローチは、道の駅『おおつの里花倶楽部』を目指します。
道の駅の駐車場に車を置いて100ほど歩けば、この案内板。

      20170126宮本城址01



案内通りに進んで行けば、曲がり角には矢印に案内。

      20170126宮本城址02


親切この上ない。

      20170126宮本城址03

実は、道の駅にパンフレットが置いてありましたが
宮本城址へのハイキングも道の駅がお勧めするコースらしい。
ただ、難所コースだから、それなりの装備(靴、上着)が必要って書かれています。


矢印の案内に混じって、こんな立て札。

      20170126宮本城址04

何だか怖そう。


とにかく登城路に至るまでが長い。
再び曲がり角。

      20170126宮本城址05



左に枇杷畑を眺めながら進軍します。

      20170126宮本城址06



アスファルト(コンクリート)の地面がなくなった辺りから
宮本城址への登城路となります。

      20170126宮本城址07



この辺りから道幅も狭くなり、いかにも山城への登城路って感じです。

      20170126宮本城址08


なかなか、上り勾配もキツく、ついつい息が上がってしまいますが
根性で進軍いたしましょう。

      20170126宮本城址09



主郭虎口。

      20170126宮本城址10



ちょっぴり、額に汗を浮かべながら主郭に到着。

      20170126宮本城址16


      20170126宮本城址17


主郭に建っている説明板。

      20170126宮本城址15


そして、主郭に建つ石碑と城址の標柱。

      20170126宮本城址11



標柱。

      20170126宮本城址12


石碑は二基ありました。

こちらの石碑は判読不明。

      20170126宮本城址13


こちらも判読不明と思ったら...............

      20170126宮本城址14


反対側を覗いたら、読みづらいですが、
『宮本城址』と刻まれています。

      20170126宮本城址21



宮本城址の碑になります。

      20170126宮本城址22    



説明板の傍らには、以前に建てられていた四阿だろうか?
朽ち果てて倒壊していました。

      20170126宮本城址18



主郭の片隅に建てられた小さな句碑。

      20170126宮本城址19

戦国を勝ち抜く夢の
若武者の
恋もまじわる 宮本の城

う〜む、なかなか良い句ですね。
きっと、里見氏当主を夢見た義豊の事を詠んでいるんですね。




そして、句碑の傍らには、小さな看板。

      20170126宮本城址20

確かに、房総半島には高い山がないけれど、
183mの山でも登るのはキツかった...............。




主郭からの眺め。

      20170126宮本城址30
     
この景色は、数百年前の義豊の時代から変わらないんだろう。



主郭東部にある井戸跡。

      20170126宮本城址23


主郭から東側にも尾根が伸びていて、宮本城の城域は広がっているようですが
縄張り図を持って来なかったため、東側に尾根の先を探索するのは諦め
一気に下山しました。

 

麓に辿り着くと、そこには菜の花畑。
    
      20170126宮本城址24


まだ1月の下旬なのに、菜の花が咲いている。

      20170126宮本城址25



道の傍らには、小さなタンポポの花。

      20170126宮本城址26

南房総市って、本当に暖かいんだ。
ちょっぴり驚き。



道の駅に戻り、疲れた体を癒すソフトクリームのじかんです。

      20170126宮本城址27

大人しく『待て!』をして、ソフトクリームを貰おうとする びいすけ 。


仕方ないなぁ〜! とダメ飼い主はついつい甘くなります。

      20170126宮本城址28


まぁ、ソフトクリームだから、甘いのは当然か(笑)。

      20170126宮本城址29


  
本当は、このあともう一つ山城へチャレンジする予定でしたが
さすがに宮本城址の攻略は疲れました。

鋸南町を抜けて、帰ることにいたしましょう。



    
2017/02/21 Tue. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

岡本城址  (2017年1月26日)(千葉県南房総市) 

1月26日 公休日

この日は、南房総市に出かけました。


岡本桟橋をあとにして、向かった先は...............岡本城址


岡本城は、元々は里見氏家臣であるの岡本豊前守氏元の居城でした。
元亀元年(1570年)に佐貫城に在城していた里見義弘に召し上げられ、
安房の守りとして後の里見氏8代当主である里見義頼に与えられ、
大修復され、居城とされたと言うことです。

里見氏は戦国時代から江戸時代まで10代、約170年にわたって房総半島南部を拠点とした一族です。
『里見氏代々記』、『房総里見軍記』などの軍記物によると、
水軍を編成し敵対する後北条氏を攻めるため相模へ侵攻したと伝えられ、
関東では数少ない水軍を擁した一族としても知られています。

天正8年(1580年)、弟の梅王丸との後継者争いに勝利した里見義頼が
東京湾を望む丘陵上に造られ、城の規模は東西600m、南北300mにも及び、
この地域の城としては非常に大きな規模と複雑な構造を誇っています。
中心部分は3つの郭から構成され、斜面下から海に向かって広がる郭は
港としての機能を持っていたとされています。



こちらが、岡本城の縄張り図。

      岡本城縄張り

( 余胡さんのHP からお借りしました )



こちらの台地が岡本城址。

      20170126岡本城址01

国道127号にも案内板が建っているからわかりやすい。

ただし、駐車場は無いから、路駐覚悟で訪れましょう。


岡本城址のアプローチはこちらから。

      20170126岡本城址02

トンネル手前右手の狭い登り道が登城路。


実は、この登城路と案内板に気付かず、
トンネルの先をぐるぐると回って探しまくってました(笑)。

      20170126岡本城址03



狭い登り道を上がって行きます。
右手側には枇杷畑。
立ち入り禁止のネットがしっかり張られています。

      20170126岡本城址04


斜面には埋もれかけているけど、房総半島に多いやぐら(横穴墳墓)跡。

      20170126岡本城址05



登城路を上りきった先は、主郭虎口。

      20170126岡本城址06



こちらが主郭。

      20170126岡本城址07



主郭は里見公園として整備されたようですが
公園といっても何も無く、ベンチが一脚あるのみ。
訪れる人も余りいないのでしょう。

      20170126岡本城址08



主郭に建てられた説明板。

      20170126岡本城址09

知らなかったんだけど、岡本城址って国指定の史跡だったんですね。


主郭の一角には岡本城址の碑。

      20170126岡本城址10


      20170126岡本城址11


城址碑の隣には、それなりの月日を経た石碑。

      20170126岡本城址12

碑文は風化していて、判読不明。


城址碑の奥に尾根沿いへと続く道がある。

      20170126岡本城址13


どうやら、この先にも郭があるみたい(?)です。

      20170126岡本城址14



しばらく行くと、岩の高台。
物見台の跡かもしれない。

      20170126岡本城址15


その場所からの眺望。

      20170126岡本城址16

大房岬もはっきりと見える。

この場所なら、浦賀水道を船で渡ってくる北条軍も確認できるだろう。
やっぱり里見氏の要の城なんですね。


さらに尾根伝いに道は続いていそうだけど...............

      20170126岡本城址17


縄張り図を持ってきていないから、この先は不明。
このあとにも、もう一つ山城にチャレンジするつもりだから
無理はいたしません。

里見氏って軽く見ていたけれど、しっかりした山城を構築しているから
意外に侮れない。
北条びいきの身ですが、ちょっぴり見直しました。






2017/02/20 Mon. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

鎌原城址 (2016年12月7日)(群馬県吾妻郡嬬恋村) 

12月7日 公休日

軽井沢旅行の2日目。

ブロードウェイを9時半にチェックアウトして、向かった先は...............鎌原城址


実は、今回の旅行で城址巡りは全く考えていませんでした。
当然、事前の下調べもしていません。
折しも、時代は『真田丸』の影響で真田ブーム。
鎌原城址が嬬恋村の指定文化財であり、
村を挙げて真田ブームに乗っかろうとしているのか?
ブロードウェイの案内の周辺紹介にもしっかり載っていて、

『せっかくだから、近くに居るんだから寄ってみれば?』

と、 もっちゃん からも背中を押してもらい、いざ蒲原城へ!


鎌原城は、吾妻川に断崖をめぐらす要害で、
岩櫃城、羽根尾城との攻防戦は、加沢記によって知られています。
応永4(1397)年の築城と伝えられており、
元和元年(1615)徳川幕府の「一国一城令」による破却まで、
鎌原氏の居城として、戦国の歴史を秘めています。

南北400m・幅150mの城域があり、
堀切りと城主墓地を残す他、
附近に城に関係ある地名が残っています。
鎌原氏は滋野源氏、海野氏の一族で、下屋氏の末裔にあたり、
戦国時代には真田氏とともに甲州武田信玄の武将となり、
江戸時代には沼田城真田氏の家老でした。


こちらが鎌原城の縄張り図。

      20161207鎌原城址00

(現地案内板より)



場所が全く分かりませんでしたが、現在はNET時代。
iPhoneで検索して、大まかな場所をチェックして、
あとは近くになったら誰かに聞こう!
そんな思いで現地に向かうと、しっかり案内が出ているから
迷わずに辿り着けるようです。

      20161207鎌原城址01


      20161207鎌原城址02


駐車場も完備。
確か以前は無かったような事が誰かのBlogに書かれていたけど
これも真田丸効果?(笑)

      20161207鎌原城址03


駐車場奥には立派な説明板。

      20161207鎌原城址04

これも近年建てられたもののようです。


駐車場からは少し戻りますが、鎌原城の三の丸から攻略いたしましょう。


こちらが三の丸。
今や耕地化され、その殆どが畑と化しています。

      20161207鎌原城址05



追手口(大手口)手前にある城址碑。

      20161207鎌原城址06



鎌原城は、別名 霊城 とも言うらしい。

      20161207鎌原城址07

真田氏関連の城らしく、しっかりと六文銭が描かれています。



こちらが、追手門跡の碑。

      20161207鎌原城址08


      20161207鎌原城址09


以前は、石碑ではなく、木製の標柱だったようで
近くの木に朽ちかけた標柱が立て掛けられていました。

      20161207鎌原城址10


実は、この鎌原城址、三の丸だけでは無く
二の丸もキャベツ畑と化しています。

      20161207鎌原城址11

嬬恋村は高原キャベツで有名ですが、その役割を鎌原城址も幾許かは担っているようです。


三の丸から二の丸へと進軍します。
先陣は、近藤下総守びいすけ(笑)。

      20161207鎌原城址14

お屋形様である びいすけ父さんは後方からの進軍です。


こちらは二の丸。
進軍は続きます。

      20161207鎌原城址12


二の丸の堀切。

      20161207鎌原城址15

鎌原城址で数少ない遺構の一つ。

堀切の先が二の丸。
二の丸から堀切越しに三の丸を眺めてみます。

      20161207鎌原城址13

やっぱり三の丸は広大なキャベツ畑。
    

二の丸側から堀切を見ても、やはり大きい。
      
      20161207鎌原城址16


さらに進めば、視界の先には本丸が見えて来ます。

      20161207鎌原城址17



こちらが本丸。

      20161207鎌原城址18

以前は、標柱と小さな説明板だけがポツンと在り、
草茫々の状態だったようですが 、綺麗に整地されているようです。



こちらが説明板。

      20161207鎌原城址19


そして標柱。

      20161207鎌原城址20


真新しい、木製の本丸跡の碑。

      20161207鎌原城址21


本丸は整地されて広い。

      20161207鎌原城址22


本丸から二の丸、三の丸を眺めると...............

      20161207鎌原城址23

やっぱり、キャベツ畑。


本丸に掲げられた幟。

      20161207鎌原城址24

嬬恋村の本気度が伺えられます。


戦国武将の中で、真田一族ってノーマーク。
まさか、真田氏関連の城址に訪れるなんて思ってもみなかった。

ブームに乗るのも、追いかけるのも好きじゃないけれど
真田氏関連の城址巡り、私の中では アリ かも...............?




2017/01/06 Fri. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

関宿城址  (2016年11月20日)(千葉県野田市) 

11月20日 公休日

この日は、埼玉県の春日部市に用事があったので
春日部市周辺に出かけました。

野田市にある旧・関宿小学校の近くに城址がある事は知っていましたが
旧・関宿小学校の前にこんな案内板がありました。

      20161120関宿城址 縄張り図02

800mって完全な徒歩圏内。
10分も歩けば行ける距離。
こんなに近いんじゃ行かない理由がない。

と言うことで、向かった先は...............関宿城址


関宿城は、室町時代に簗田満助または簗田成助によって築かれたとされ、
関宿簗田家の居城になったと伝わっています。
江戸時代には関宿藩の藩庁が置かれ、江戸川をさえぎるような縄張りを持っていました。
利根川水系等の要地であり、関東の水運を押さえる拠点でありました。

戦国時代には関東の中心部における最重要拠点であり、
関東の制圧を目論む北条氏康は、
「この地を抑えるという事は、一国を獲得する事と同じである」
と評したとされています。

戦国時代末期には、北条方と上杉方の間で激しい争奪戦が繰り広げられ(関宿合戦)、
北条氏康・氏政・氏照父子が、上杉謙信・佐竹義重の援助を受けた簗田晴助の守る関宿城を3度に渡り攻撃し、
最終的には北条氏がこれを制し、北関東進出の拠点としました。

小田原北条氏のファンである身としましては、いつかは訪れたい城址の一つでありました。



こちらが関宿城の縄張り図( 現地説明板板より )

      20161120関宿城址 縄張り図

確かに、利根川の流れを上手く利用した縄張りとなっていたようです。



この辺りが武家屋敷跡。

      20161120関宿城址02

関宿藩の家臣たちが居を構えていたのでしょう。


      20111206関宿城址03



こちらが三郭。

      20161120関宿城址04


      20161120関宿城址05

この辺りは牛舎が多く、牛舎独特の匂いが鼻先に漂ってきます。



三郭に土塁。

      20161120関宿城址06

右側は堀跡のようです。


三郭から二郭に至る動線には横矢が掛かっています。

      20161120関宿城址07


こちらが二郭。

      20161120関宿城址08

この辺りにも牛舎が多い。

びいすけ の背後の水田は、かつての堀跡。
さらに奥の森のある台地が主郭にあたります。


主郭に向かいましょう。

      20161120関宿城址09



主郭前には石碑が見えます。

      20161120関宿城址10



関宿城址の碑。

      20161120関宿城址11


      20161120関宿城址12



千葉県下ではお馴染みの『房総の魅力500選』の碑。

      20161120関宿城址13



そして、説明板。

      20161120関宿城址15


      20161120関宿城址16




こちらが主郭。

      20161120関宿城址14

意外に広い。
    


びいすけ の背後に見えるのは天守閣?     

      20161120関宿城址17


      20161120関宿城址18


実は、コレは模擬天守閣。

      20161120関宿城址19

その実態は平成7年に建てられた千葉県立関宿城博物館。
そして、本来は主郭(本丸)にあるはずの天守閣(模擬天守閣)が
何故か?主郭とは、かけ離れた場所に建っています。


主郭の城塁。

      20161120関宿城址20

堀跡がハッキリと確認出来ます。


別アングルから。

      20161120関宿城址21

城塁に横矢が掛かっているのが分かります。



主郭から堀(跡)越しに眺める二郭。

      20161120関宿城址22

主郭と二郭を隔てる堀が大きかったのが分かります。




こちらは、大手門跡。

      20161120関宿城址23


      20161120関宿城址24


かすかに残っている堀跡が確認出来ます。

      20161120関宿城址25



そして、こちらが関宿関所跡。

      20161120関宿城址26


利根川の要地であり、上州や常陸からの陸路を抑える拠点であった事が窺えます。

      20161120関宿城址27

関宿城址は堀も埋められ、宅地や耕地と化し
かなり改変されていますが、それでも主郭周辺はまだまだ見応えがあります。
広大な城域ではありますが、かなり急ぎ足で巡ったため
見逃した箇所もあったりします。

しかしながら、小田原北条氏(北条氏康)が
この地を羨望した理由が、利根川の地形を生かした広大な城域を見て
何となくわかるような気がします...............。


2016/12/15 Thu. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

宮ヶ崎城址  (2016年9月16日)(茨城県東茨城郡茨城町) 

9月16日  公休日

この日は、茨城県の茨城町に出掛けました。

茨城町の廃校を巡るついでに、涸沼周辺の景勝地を巡っていました。
親沢の鼻(親沢公園)をあとにして、対岸の『弁天の鼻』に向けて
クルマを走らせていると、一瞬大きな看板が視界に入って、すぐに消えた。
なんの看板だろう?とUターン。


畑へと誘う道に入り、目にした看板がこちら。

      20190916宮崎城址01


えっ! こんな所に城址があるの?
ついつい、この大きな看板の文面をじっくり読んでしまいます。


宮崎(宮ヶ崎)城は...............


鎌倉時代初期1220年代、鹿島郡領、鹿島三郎成幹の孫、三郎家幹はこの地に土着し宮崎氏を名乗り
領地は宮崎郷の内、五十町と当麻津(鉾田市)を支配していた。
特に水運を押さえる水軍として活躍した初代家幹は
これより南方「きゅうでん掘」と呼ばれている150メートル×100メートルの方形を呈した館に居住していた。
その後、南北朝から室町初期には吉田郡河崎村(水戸市)から、
用次、飯岡、菅谷、瀬落(小美玉市、鉾田市)までも領有し、鹿島氏本宗家に並ぶ勢力を持ち、
茨城町一番の豪族となった、また鹿島大使役として幹親(文永 年中)幹詮(建式)、
(暦応から康永)が三度鹿島神社七月大祭の際使を務めている。
南北朝期には北朝方として北畠親房方の神宮寺城、阿波崎城の攻撃戦闘に参加をしている。
宮崎城は戦乱の時、詰めの城として使用した二本の堀と土塁で別けられた五つの曲輪から構成され、
江戸氏の時代(1550年頃)に再整備されてものである。
1416年(応永二十三年)十月上杉禅秀の乱に加担した宮崎氏は、烟田氏、江戸氏らに敗れ、
九代200年の永きに渡った茨城町一円の支配を終わる事となった。
この地の北宮、定光院跡地は宮崎氏一族の墓地があり、
多数の五輪塔、層塔、宝篋印塔と共に静かな眠りについている。
   平成二十六年七月       茨城町文化財保護審議委員 井坂英嗣
                  宮ヶ崎城跡保存会


と看板に記載されていました。

      20190916宮崎城址02


元々予定には有りませんでしたが、偶然見つけた城址。
この大きな看板には、縄張り図もあるし...............

      20160916宮ケ崎城縄張り


ここは、進軍しない訳にはいきません(笑)。


と、言うことで 宮ヶ崎城址 へいざ参らん!



この辺りは二郭。

      20190916宮崎城址03



完全な畑。

      20190916宮崎城址05



二郭の虎口。

      20190916宮崎城址04


     
畑の畦道をまっすぐ進めば、やがて主郭。


      20190916宮崎城址06
      


主郭虎口。

      20190916宮崎城址07



主郭奥には、宮ヶ崎(宮崎)城址の碑。

      20190916宮崎城址08


碑分によれば、以前は畑になったと言えども、主郭辺りは竹が生い茂り
荒地で手もつけられない状態だったと言うことですが
地元の保存会の有志(ほとんどが高齢な方々だったと言うことです)の方々が
整備、管理、保全されてきたらしい。

      20190916宮崎城址09

その奉仕者の苦労と努力に敬意を表して城址碑が建てられたと言うことです。


城址碑な脇には標柱。

      20190916宮崎城址10

おそらく以前は、この標柱だけだったんでしょう。



標柱と城址碑の背後には土塁。

      20190916宮崎城址11


往時の宮ヶ崎城は、この土塁がぐるっと主郭を取り囲むような形になっていたようです。

      20190916宮崎城址13



そして、土塁の先には空堀。

      20190916宮崎城址14

しかし、空堀には雑草が生い茂り、進軍は諦めます。


管理されているとは言え、夏期の雑草の生い茂るスピードには勝てません。


空堀は諦め、主郭から三郭へと移動します。
城址碑のある辺りから、主郭虎口へと戻ります。

      20190916宮崎城址15


再び、主郭虎口。

      20190916宮崎城址16

主郭から二郭へは畦道がらありますが
二郭から三郭へは畦道がない。
畑の中を踏み荒らして行くのは失礼だし、せっかく地権者が
城址を解放してくれているんだから、迷惑は掛けられません。

三郭へは、香取神社からぐるっと回ります。


鹿島神社前。

あの看板も確認出来ます。

      20190916宮崎城址17

奥の森が主郭辺り


主郭から5分、いや10分近く歩いて、やっと三郭に到着。

こちらが、三郭の虎口。

      20190916宮崎城址18



三郭に建っている標柱。

      20190916宮崎城址19


三郭は宮崎氏に所縁のある宮崎氏寺の跡らしい。

      20190916宮崎城址20



寺の跡形もなく、一面の畑。

      20190916宮崎城址21



偶然、遭遇した宮ヶ崎城址。
空堀が雑草に覆われていて、進軍に逸る気持ちを抑えてくれましたが
何となく中途半端。
冬場の雑草のない時期にリベンジで訪れようかな...............?




2016/10/11 Tue. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

小幡城址  (2016年7月1日)(茨城県行方市) 

7月1日 公休日

この日は、茨城県の行方市に出かけました。

行方市へは、廃校を巡るのが目的でしたが
訪れた要小学校に隣接するお寺が城址と言うことで
訪れたのは...............小幡城址


茨城県の小幡城址と言えば、茨城町の小幡城址が有名なようですが
そちらとは違い、こちらは行方市(旧・北浦町)の小幡城址です。


小幡城は
玉造城主3代景政の子、辰幹がこの地に分地され小幡氏を名乗り、
居館を営んだことに始まると言われているようです。



こちらが、小幡城の縄張り図

      小幡城址縄張り図


余胡さんのHP(余胡くんのお城のページ)からお借りしました。



小幡城の主郭である観音寺。
紫陽花の花が綺麗に咲いていました。

      20160701小幡城址01


      20160701小幡城址02


      20160701小幡城址03



観音寺の本堂。

      20160701小幡城址04



本堂脇に、近年建てられたと言う城址碑。

      20160701小幡城址05


      20160701小幡城址06


      20160701小幡城址07

小幡城については詳しい文献等が無く、不明な部分が多いようですが
城址碑の碑文によれば...............

1464年に完成した小幡城ですが、1578年に佐竹軍に敗れ
1591年に佐竹軍、武田軍、行方軍に攻められ落城したとされているようです。



かつてこの観音寺には三本松と言う松の巨木があり
茨城百景にも選ばれた景勝地でもあったようです。

      20160701小幡城址08

残念ながら、巨木の松は昭和39年に枯れ、伐採されてしまったそうです。



観音寺は小幡城の主郭でありましたが、すっかり改変し
遺構もほとんど無くなり、かろうじて城郭を彷彿させるのは
境内にある鐘楼の建つ土壇と二郭である要小学校との境界にある土塁ぐらいらしい。


こちらが、鐘楼の建つ土壇。

      20160701小幡城址09



物見台の跡だと言われているようです。

      20160701小幡城址10



境内にある大シイの樹。

      20160701小幡城址11

行方市の天然記念物に指定され、樹齢は約500年とされています。


大シイのある辺りも土壇となっています。

      20160701小幡城址12

こちらは土塁跡の名残りかもしれません。



こちらは、主郭と二郭を隔てる土塁。

      20160701小幡城址13


二郭虎口(?)

      20160701小幡城址14

虎口と言うよりは、観音寺から要小学校へ抜ける通用口となってます。



こちらは、三郭。
観音寺の観音堂のあるエリア。
観音寺の墓地でもあり、土塁のような土壇が幾つか確認出来ますが
墓地造成時に造られた後世のモノかもしれません。


      20160701小幡城址15


      20160701小幡城址16


      20160701小幡城址18



こちらが観音堂。

      20160701小幡城址19



背後には立派な土塁が確認出来ます。

      20160701小幡城址17

      

こちらのお堂には、茨城県指定文化財の如意輪観音坐像が祀られています。

      20160701小幡城址20




実は、観音寺は縦に長い敷地となっていて
さらにこの先に仁王門がらあるらしい。
知らなくて、この観音堂辺りが観音寺の最奥だと思い、
主郭である本堂に引き返してしまいました。
仁王門から本堂へと続く道は観音馬場と呼ばれ、桜の名所でもあるらしい。

桜の季節にまた来ようかな?



2016/07/24 Sun. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

百草城址 (2016年4月23日)(東京都日野市) 

4月23日 公休日

この日は、稲城市周辺の城址巡りに出かけました。


関戸城址をあとにして、向かった先は...............百草城址


百草城は、昭和62年(1987)郷土史研究家・宮田太郎氏によって発見された中世の山城です。
京王百草園の西側の丘陵地で曲輪跡、堀切などの遺構が発見されました。
鎌倉期~戦国時代の山城と考えられているそうです。
多摩丘陵の高台にあり、麓の鎌倉街道や多摩川を監視する要所として、
また狼煙台としての機能を担っていたと考えられています。
しかしながら、百草城はその歴史や城主等の詳細は不明な城とされています。


百草園周辺は道も狭く、駐車場も無く車を停める場所も無く
麓の空き地に停めて、台地へ上がって行きます。


百草園には犬連れでは入れそうもないので、
百草八幡神社の裏を目指し進みます。

      20160423百草城址01


百草八幡神社の裏手は朝日山緑地。

      20160423百草城址02



この辺りは既に城域に入っているようです。

      20160423百草城址03



看板の脇から緑地内に入ります。
ちょうど百草八幡神社の社殿の裏手になります。


馬場へと続く虎口。

      20160423百草城址04


      20160423百草城址05



こちらが、馬場と称される削平地。

      20160423百草城址06



土塁のような土壇も確認出来ます。

      20160423百草城址07


百草八幡神社の裏手が南郭になるらしい。

南郭の堀切。

      20160423百草城址08


      20160423百草城址09


百草八幡神社のある場所は、かつて奈良時代に創建された真慈悲寺があった場所らしい。
新田義貞の鎌倉攻め(分倍河原の戦い)で焼失してしまったそうです。
江戸時代になると、その跡地に徳川家康の長男・信康追悼のために松蓮寺が再建されましたが、
明治を迎えると廃されてしまったそうです。


      20160423百草城址10


      20160423百草城址11


とにかく、百草八幡神社の裏手は、スダジイの古木に囲まれ
城址の雰囲気は満ちあふれています。

      20160423百草城址12


      20160423百草城址13



お金(300円?)を払って入場する百草園の奥に北郭があり
物見台もあるらしい。(今回は びいすけ連れ なので未確認。)

フェンス越しに百草園側の城域を眺めます。
フェンスの向こうは北郭と称する本郭。

      20160423百草城址14

展望の長けた物見台もあるらしい。
中に入れないのは残念です。



百草八幡神社周辺はシイノキが群生していて、日野市の天然記念物に指定されています。

      20160423百草城址15

先ほどのスダジイの古木がそうなんですね。



百草八幡神社の鳥居。

      20160423百草城址16


松連禅寺の碑。

      20160423百草城址17

松連寺は明治六年(1873)に廃寺となったそうです。


こちらが百草八幡神社の拝殿。

      20160423百草城址18



百草八幡神社創建の年代は詳しく判っていません。
古くは古八幡宮と称され、社宝の石造狛犬に天平の文字があるので、
古い社であると推測されています。
康平5年(1062)源頼義が奥州征伐の折、この地をよぎられ再建されたといわれています。
建久3年(1192)には源頼朝武運長久を祈願した太刀一振の奉納があったそうです。

      20160423百草城址19



百草城址遠景。

      20160423百草城址20


実は、20代の頃、百草園近くに数年間住んでいました。
近くと言っても、台地麓の川崎街道を挟んだ多摩川に近い場所でしたが...............。

しかしながら、百草園には1度も入った事がなく
今回も断念。
ちょうど、百草城址が発見されて数年後に近くに住んでいたけど
その時は、そんな話題も出なかったような気がします。
まぁ、もっともその頃は城址には興味がなかったからねえ。



2016/05/16 Mon. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit