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び・び・びのびいすけ

御朱印巡り...............《 菅原神社 》 (2017年12月21日)(東京都町田市) 

12月21日

関東の富士見百景巡りをしようと、八王子の実家を出たものの
空がガスって来るのが意外に早く、急遽予定を変更して
町田市内の御朱印巡り。
その第三弾は...............菅原神社


菅原神社は、学芸の神として広く知られる菅原道真公を主祭神としてお祀りしており、
古くより原町田の町田天満宮、南大谷の天神社とともに町田三天神の一社として
町田市及び周辺の多くの人々から崇敬されてきた神社です。

実は、何年か前に町田市の城址巡りと称して、この菅原神社に訪れた事があります。

菅原神社が鎮座する地は、東京都旧跡『井手の沢古戦場跡』。
十二世紀末、鎌倉に幕府が設置され鎌倉街道が整備されると、
北関東から鎌倉へ通ずる街道の中でも重要な地点となりました。
府中方面からは、丘陵地で起伏がありますが、ここから鎌倉までは
一気に兵が押し下れるからです。
土地の形状から砦の如き城が築かれていたであろうと推測されています。
鎌倉時代の末期、建武2年(1335年)に足利尊氏の弟直義は、
鎌倉幕府再興を図り信州から一路南下した北条時行の軍をこの地で迎撃し、
激しい戦いの末敗れました。
一時鎌倉を占拠した北条時行も20日にして尊氏に滅ぼされてしまいました。
やがて、室町時代にこの地に天神像が奉安され、
寛永7年(1630年)大沢玄藩により新たに天神像が奉安され、
菅原神社が建立されたとされています。



こちらが、菅原神社の社号標。

      20171221菅原神社01


社号標近くに建つ看板。

      20171221菅原神社02

祭礼や初詣など混んでいる時以外は、
ペットを連れての参拝は大丈夫のようです。



こちらが菅原神社の鳥居。

      20171221菅原神社03

立派な朱色の鳥居。


鳥居に掲げられた神額。

      20171221菅原神社04



社殿へと続く参道。

      20171221菅原神社05


参道脇の由緒書き。

      20171221菅原神社06



参道の先は石段。

      20171221菅原神社07



石段左脇には、境内社の弁天社。

      20171221菅原神社08


御神木。

      20171221菅原神社09

歴史のある神社の割には、小さな御神木。



さあ、石段を上がってしゃでに向かいましょう。

      20171221菅原神社10



石段途中にある手水舎。

      20171221菅原神社11


こちらも、定番の龍。

      20171221菅原神社12



石段を上がれば、狛犬がお出迎え。

      20171221菅原神社13



こちらが拝殿。

      20171221菅原神社14


      20171221菅原神社15



拝殿に掲げられた扁額。

      20171221菅原神社16



神紋は当然、梅の花。

      20171221菅原神社17



拝殿を別アングルから。

      20171221菅原神社18


      20171221菅原神社19



こちらが、本殿。

      20171221菅原神社20


      20171221菅原神社21


本殿の鬼瓦。

      20171221菅原神社22



神楽殿。

      20171221菅原神社23



参集殿。

      20171221菅原神社24



御朱印は、参集殿にある授与所でいただく事が出来ます。

      20171221菅原神社25



何かの社殿かと思ったら、こちらは倉庫。

      20171221菅原神社26

以前、訪れた時は社殿と参集殿が改築工事中だった。
その時には、授与所だったような気がするんだけど...............
記憶違いかなぁ?



参集殿の脇には、古戦場跡。
一応、菅原神社の境内の一部で境内社が多い。


こちらは、愛宕社。

      20171221菅原神社27


      20171221菅原神社28



境内社。

      20171221菅原神社29



そして、井手の澤 古戦場跡の碑。

      20171221菅原神社30


碑の脇には説明板。

      20171221菅原神社31



そして、こちらが菅原神社の御朱印。

      20171221菅原神社32

御朱印の書き手は女性でした。
シンプルな梅の花の御朱印に達筆な墨書き。
これはこれで、素敵な御朱印です。







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2018/02/21 Wed. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit

犬掛古戦場跡&里見氏の墓  (2017年3月9日)(千葉県南房総市) 

3月9日  公休日

この日は、房総半島の南房総市に出かけました。

途中、富津市で寄り道をしながらも、向かった先は...............犬掛の里



戦国時代、関東制覇をもくろむ小田原・北条氏と激しく争ったのが安房・里見氏です。
その里見氏は里見義堯の代に最盛期をむかえ、房総半島に一大勢力を誇りました。

そもそも里見氏は贈鎮守府将軍・新田義重の庶長子・新田義俊(里見太郎)を初代とし、
里見の名は、新田義俊が上野国碓氷郡里見郷(現在の群馬県高崎市上里見町・中里見町・下里見町)に移り、
その地の名を苗字としたことに由来するそうです。

鎌倉時代になると、義俊の長子・里見義成が源頼朝に仕えて御家人となります。
義成は頼朝に重用され、頼朝の死後も代々の将軍に近侍しました。
元々は上野国・常陸国などに所領を与えられていましたが、
永享の乱、続いて結城合戦で里見家基が討たれ、里見氏は没落します。

家基の子・義実は安房国に落ち延び、のちに安房里見氏の祖となったとされています。

その里見氏も3代目当主、里見義通が危篤となった時、
嫡男・義豊はまだ5歳であったため、義通の弟である実堯が、
義豊が15歳になるまで陣代(後見人)として家督を預かる事になりました。

実堯は稲村城を居城とし、義豊は支城の宮本城を居城とし、
実堯の子・義堯は上総・金谷城を居城としました。
ところが、義豊が15歳になっても、実堯は北条氏綱の上総へ侵攻を理由に
家督移譲を延期し、里見氏の家督を維持していました。

義豊は二十歳になった天文2年に稲村城を襲って、
実堯とこれを補佐する正木通綱を殺害してしまいました。

里見義豊が叔父・里見実堯を殺して家督を奪ったため、
実堯の子・里見義堯が仇討の兵を起こして、義豊を討つことになります。

天文3年、上総にいた義堯は正木通綱の子である正木時茂・時忠兄弟と連絡を取って
敵討ちを図ろうとします。
義堯は仇敵である小田原の北条氏綱に同盟を依頼します。
義堯は北条氏綱らの援軍を受けて全軍を率いて上総を出発し、
義豊のいる稲村城を直接奇襲すべく進軍させ、犬掛の地(現在の千葉県南房総市)で
義堯軍と義豊軍が合戦になりました。

結果は義堯軍の勝利。義堯は義豊が籠城を図ろうとした稲村城内にまで突入し、
このため、義豊は稲村城を脱出したものの進退窮まって自害して果てたとされています。

これが『天文の内訌』(稲村の変)と言う、里見氏の内紛劇です。

こうして父の仇を討った里見義堯が非道な義豊に代わって、
里見氏の家督を継ぐことになったのです。


その合戦の地が、犬掛合戦場です。


犬掛の里山の路肩に車を停め
散策を兼ねて、合戦場跡に向かいます。

      20170309犬掛古戦城跡&里見氏の墓01




この台地の下で壮絶な合戦が繰り広げられたようです。

      20170309犬掛古戦城跡&里見氏の墓02


合戦場跡には碑が建てられているようなので
碑のある場所へと向かいます。


温暖な南房総市だから、梅の花は満開かと思いきや
ポツリポツリと咲き始めた状態。

      20170309犬掛古戦城跡&里見氏の墓03


      20170309犬掛古戦城跡&里見氏の墓04



こちらが、合戦場跡。

      20170309犬掛古戦城跡&里見氏の墓05

この場所に碑が建てられていたようですが、
碑は見当たりません。
比較的新しく見える説明板が建てられていました。
(基礎のコンクリートも新しく見える)

      20170309犬掛古戦城跡&里見氏の墓06



説明板から数百m離れた場所に
里見氏の墓が在ると言うことなので、
そちらに向かいましょう。

      20170309犬掛古戦城跡&里見氏の墓07



稲村城から北上して来た義豊軍を迎え撃った義堯軍は
この台地で待ち伏せしていたのでしょうか?

      20170309犬掛古戦城跡&里見氏の墓08

いずれにしても、後々の里見氏の家督を争う戦いがこの地で起こりました。



この石段先に、里見氏の墓が在るようです。

      20170309犬掛古戦城跡&里見氏の墓09


石段脇に建てられている説明板。

      20170309犬掛古戦城跡&里見氏の墓10




里見義通・義豊親子のお墓。もとは大雲院(廃寺)にありましたが、
明治42年(1909年)にこの場所に移設されました。
(説明板には里見義道・義豊親子と記されていますが、義通の間違いでは?)

      20170309犬掛古戦城跡&里見氏の墓11


      20170309犬掛古戦城跡&里見氏の墓12


北総の有力武家である千葉氏でも宗家(嫡流)と庶流が家督を争い内紛があったように
安房・上総の有力武家の里見氏でもやはり家督争いがあった...............。

一族の中で合戦をするとは、戦国時代は非常に儚いものです。



2017/04/02 Sun. 00:00 | trackback: -- | 本文: -- | edit