父さんの廃校巡り 《雑司ヶ谷小学校》 (2023年7月8日)(東京都豊島区)
7月8日
この日は夜勤明け。
定時の10時に仕事を終えて、都内豊島区の廃校巡りに行きました。
池袋と雑司ヶ谷の周辺の学校跡を巡ります。
高田小学校(跡)をあとにして、向かった先は................. 雑司ヶ谷小学校
雑司ヶ谷小学校の沿革は不明です。
ネットで調べてみたのですが、沿革に関する情報は得られませんでした。
平成13年に、雑司ヶ谷小学校、高田小学校、日出小学校の3校が統合して
新たに、豊島区立南池袋小学校が開校。
雑司ヶ谷小学校が廃校となりました。
廃校後、敷地内には有料老人福祉施設が建設されました。
見た感じは病院施設にも見えなくはない。

廃校後、老人福祉施設(いわゆる老人ホーム)になると言うパターンも多い。


でも、高層エリアもあって、高級な老人ホームって言う感じです。


地方自治体も学校跡地を民間に売却してしまう場合も多い。
この老人ホームって言うやつも曲者。
とにかく私有地だから、簡単には敷地に入れない。
フェンス沿いにぐるっと廻ってみましょう。

この桜の木は小学校跡っぽい雰囲気を出している。

その脇には通用門。

雑司ヶ谷小学校の正門跡?

今は、老人福祉施設に出入りする車の通用門のようです。
門扉は固く閉ざされているので、中には入れない。
手前側は幼稚園。
建物の1階部分の一部が幼稚園として利用されているようです。

画像の真ん中のガラスの窓の部分が幼稚園。

そして、さらに進むと雑司ヶ谷小学校を思い出させるエリア。

桜の木の奥に何かがある。

近づいてみると、それはフェンスに囲まれた二宮像。
そしてフェンスに掲げられた航空写真。

こちらが二宮像。



そして、航空写真。

すでに校舎も解体されてしまって、雑司ヶ谷を彷彿させるモノは無いけれど
こうやって、狭いエリアながらも後世に記憶と記録を残そうとしている。
卒業生にとっては、二宮像も航空写真も忘れられない記録であり
忘れることの出来ない記憶になっていくのだろう...............
この日は夜勤明け。
定時の10時に仕事を終えて、都内豊島区の廃校巡りに行きました。
池袋と雑司ヶ谷の周辺の学校跡を巡ります。
高田小学校(跡)をあとにして、向かった先は................. 雑司ヶ谷小学校
雑司ヶ谷小学校の沿革は不明です。
ネットで調べてみたのですが、沿革に関する情報は得られませんでした。
平成13年に、雑司ヶ谷小学校、高田小学校、日出小学校の3校が統合して
新たに、豊島区立南池袋小学校が開校。
雑司ヶ谷小学校が廃校となりました。
廃校後、敷地内には有料老人福祉施設が建設されました。
見た感じは病院施設にも見えなくはない。

廃校後、老人福祉施設(いわゆる老人ホーム)になると言うパターンも多い。


でも、高層エリアもあって、高級な老人ホームって言う感じです。


地方自治体も学校跡地を民間に売却してしまう場合も多い。
この老人ホームって言うやつも曲者。
とにかく私有地だから、簡単には敷地に入れない。
フェンス沿いにぐるっと廻ってみましょう。

この桜の木は小学校跡っぽい雰囲気を出している。

その脇には通用門。

雑司ヶ谷小学校の正門跡?

今は、老人福祉施設に出入りする車の通用門のようです。
門扉は固く閉ざされているので、中には入れない。
手前側は幼稚園。
建物の1階部分の一部が幼稚園として利用されているようです。

画像の真ん中のガラスの窓の部分が幼稚園。

そして、さらに進むと雑司ヶ谷小学校を思い出させるエリア。

桜の木の奥に何かがある。

近づいてみると、それはフェンスに囲まれた二宮像。
そしてフェンスに掲げられた航空写真。

こちらが二宮像。



そして、航空写真。

すでに校舎も解体されてしまって、雑司ヶ谷を彷彿させるモノは無いけれど
こうやって、狭いエリアながらも後世に記憶と記録を残そうとしている。
卒業生にとっては、二宮像も航空写真も忘れられない記録であり
忘れることの出来ない記憶になっていくのだろう...............
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2023/09/21 Thu. 00:00 |
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父さんの廃校巡り 《高田小学校》 (2023年7月8日)(東京都豊島区)
7月8日
この日は夜勤明け。
仕事帰りに都内散策(探索)。
この日は、都内豊島区の廃校跡を巡ってみました。
東京駅の地下と言うか地下鉄の大手町駅から地下鉄を乗り継ぎ
有楽町線の雑司ヶ谷駅で下車。
向かった先は...............豊島区立高田小学校。
高田小学校。
その詳細な沿革は不明ですが、
明治11年、『東京府豊島郡高田村高田小学校』として開校したのが始まりです。
その後、幾多の変遷を経たようですが、
平成13年(2001年)に近隣の雑司ヶ谷小学校、日出小学校と統合すると
豊島区立南池袋小学校が開校します。
そして、高田小学校は閉校となりました。
廃校後、豊島区は高田小学校の敷地を公園とし、
校舎は他の転用(地域のコミュニティセンター)にと検討していたようですが
耐震検査を行った所、想定外の耐震強度であったため
校舎は解体され、公園整備が行われ、
2020年春にその敷地は雑司ヶ谷公園になっています。
今から3年前に出来た新しい公園ですね。

雑司ヶ谷公園と言いながらも
地下鉄の雑司ヶ谷駅からはそれなりに離れている。
都内の住宅地の廃校跡を公園にするとはなかなか良い。

ただ、敷地内に学校跡らしき雰囲気が乏しい。

公園の案内板はあるけれど、なかなか高田小学校の遺構が見つからない。

こちら側の入り口のテニスコート手前を注目、

自転車が数台置いてあるけれど、これは公園利用者の自転車。

その自転車の奥に碑が建っている。


近付いてみると、高田小学校跡とある。

創立百周年記念と刻まれた碑。

公園の花壇。

そこには、こんな小さな案内板。

この辺りは、元々は高田小学校の花壇だったようです。
校舎は残っていないけれど、公園の遊歩道がある。

遊歩道に沿って公園内を歩いてみます。

多少の起伏はあるけれど、この辺りが校庭だったのでしょうか?



テニスコートの脇には管理事務所。

ひょっとしたら、この辺りに校舎が建っていたのでしょうか.........?
今日は土曜日。仕事が休みの人も多い。
この公園でテニスに興じる人々。

何ヶ所か在る公園の入り口。

正門の場所が何処にあったのか? 不明ではあるけれど、
ひょっとしたら、この辺りだったかもしれない。
先ほどの碑以外に全く遺構が残っていない高田小学校跡。
おそらく、ここが小学校跡だと言うことを
しらないわかものも多いんだろうなぁ..................
この日は夜勤明け。
仕事帰りに都内散策(探索)。
この日は、都内豊島区の廃校跡を巡ってみました。
東京駅の地下と言うか地下鉄の大手町駅から地下鉄を乗り継ぎ
有楽町線の雑司ヶ谷駅で下車。
向かった先は...............豊島区立高田小学校。
高田小学校。
その詳細な沿革は不明ですが、
明治11年、『東京府豊島郡高田村高田小学校』として開校したのが始まりです。
その後、幾多の変遷を経たようですが、
平成13年(2001年)に近隣の雑司ヶ谷小学校、日出小学校と統合すると
豊島区立南池袋小学校が開校します。
そして、高田小学校は閉校となりました。
廃校後、豊島区は高田小学校の敷地を公園とし、
校舎は他の転用(地域のコミュニティセンター)にと検討していたようですが
耐震検査を行った所、想定外の耐震強度であったため
校舎は解体され、公園整備が行われ、
2020年春にその敷地は雑司ヶ谷公園になっています。
今から3年前に出来た新しい公園ですね。

雑司ヶ谷公園と言いながらも
地下鉄の雑司ヶ谷駅からはそれなりに離れている。
都内の住宅地の廃校跡を公園にするとはなかなか良い。

ただ、敷地内に学校跡らしき雰囲気が乏しい。

公園の案内板はあるけれど、なかなか高田小学校の遺構が見つからない。

こちら側の入り口のテニスコート手前を注目、

自転車が数台置いてあるけれど、これは公園利用者の自転車。

その自転車の奥に碑が建っている。


近付いてみると、高田小学校跡とある。

創立百周年記念と刻まれた碑。

公園の花壇。

そこには、こんな小さな案内板。

この辺りは、元々は高田小学校の花壇だったようです。
校舎は残っていないけれど、公園の遊歩道がある。

遊歩道に沿って公園内を歩いてみます。

多少の起伏はあるけれど、この辺りが校庭だったのでしょうか?



テニスコートの脇には管理事務所。

ひょっとしたら、この辺りに校舎が建っていたのでしょうか.........?
今日は土曜日。仕事が休みの人も多い。
この公園でテニスに興じる人々。

何ヶ所か在る公園の入り口。

正門の場所が何処にあったのか? 不明ではあるけれど、
ひょっとしたら、この辺りだったかもしれない。
先ほどの碑以外に全く遺構が残っていない高田小学校跡。
おそらく、ここが小学校跡だと言うことを
しらないわかものも多いんだろうなぁ..................
2023/09/20 Wed. 00:00 |
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おまかせ丼@寿司食堂 ときわ町屋 (2023年7月4日) (東京都荒川区)
7月4日
この日は夜勤明け。
千代田区(大手町)でマンホールカードを手に入れ
そのマンホールカードのモデルになったカラーマンホール蓋を探しに
荒川区までやって来ました。
無事、旧・三河島汚水処分場喞筒場施設のデザインに用いたカードと
施設の中に設置されたカラーマンホールカードを確認してほっと一息。
『孤独のグルメ』の井ノ頭五郎さんじゃ無いけれど
ほっと安心したら、お腹が空いてきた。
そう言えば、最寄り駅って言うか、
自宅に帰るのに利用する京成線町屋駅近くに
以前食べに行った事のあるお店かある。
と言う事で、向かった先は.......... 寿司食堂 ときわ町屋。
一見、とても飲食店には見えそうもない建屋。

まるで、昭和のアパートのような出で立ち。
壁に貼られたメニューが何かのお店って言う雰囲気を出している。

文字が流れ動く電光看板が寿司食堂だと伝えている。

表(店外)に貼られたメニュー(お品書き)。

ランチメニューも数種類ある。

でも、気になるのは『おまかせ丼』ですね。
店内は、テーブル席がが4つ。

時刻は11時半過ぎ。
お昼ちょっと前だから先客は1人。
フライングしたサラリーマンでしょうか........?
おまかせ丼を大盛りでオーダー。
この棚の奥が厨房。
板さん(寿司職人)がオーダーをこなしています。

5分ほど待つと、テーブルに運ばれてきました。

本日のおまかせ丼です。(大盛り)


ランチメニューだから、小鉢付き。
この日は温泉たまごでした。

当然、味噌汁付き。

では、いただきましょう。

おまかせ丼と言いながら、中身はほぼ海鮮丼。

海鮮好きな身としては、思わず笑みが浮かんでくる。

ましてや、寿司屋のネタだから間違いは無い。

おまけに、ご飯は酢飯だから美味さは、この上無い。
大盛りだってペロリと完食。

大盛りで注文したけれど、会計は値段変わらず。
すなわち大盛り無料。
我々庶民にとって、嬉しい味方。
本日も美味しくいただきました。
ご馳走様でした。
この日は夜勤明け。
千代田区(大手町)でマンホールカードを手に入れ
そのマンホールカードのモデルになったカラーマンホール蓋を探しに
荒川区までやって来ました。
無事、旧・三河島汚水処分場喞筒場施設のデザインに用いたカードと
施設の中に設置されたカラーマンホールカードを確認してほっと一息。
『孤独のグルメ』の井ノ頭五郎さんじゃ無いけれど
ほっと安心したら、お腹が空いてきた。
そう言えば、最寄り駅って言うか、
自宅に帰るのに利用する京成線町屋駅近くに
以前食べに行った事のあるお店かある。
と言う事で、向かった先は.......... 寿司食堂 ときわ町屋。
一見、とても飲食店には見えそうもない建屋。

まるで、昭和のアパートのような出で立ち。
壁に貼られたメニューが何かのお店って言う雰囲気を出している。

文字が流れ動く電光看板が寿司食堂だと伝えている。

表(店外)に貼られたメニュー(お品書き)。

ランチメニューも数種類ある。

でも、気になるのは『おまかせ丼』ですね。
店内は、テーブル席がが4つ。

時刻は11時半過ぎ。
お昼ちょっと前だから先客は1人。
フライングしたサラリーマンでしょうか........?
おまかせ丼を大盛りでオーダー。
この棚の奥が厨房。
板さん(寿司職人)がオーダーをこなしています。

5分ほど待つと、テーブルに運ばれてきました。

本日のおまかせ丼です。(大盛り)


ランチメニューだから、小鉢付き。
この日は温泉たまごでした。

当然、味噌汁付き。

では、いただきましょう。

おまかせ丼と言いながら、中身はほぼ海鮮丼。

海鮮好きな身としては、思わず笑みが浮かんでくる。

ましてや、寿司屋のネタだから間違いは無い。

おまけに、ご飯は酢飯だから美味さは、この上無い。
大盛りだってペロリと完食。

大盛りで注文したけれど、会計は値段変わらず。
すなわち大盛り無料。
我々庶民にとって、嬉しい味方。
本日も美味しくいただきました。
ご馳走様でした。
2023/09/19 Tue. 00:00 |
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マンホールカードを集めよう 《東京都千代田区編②》 (2023年7月4日)(東京都千代田区・荒川区)
7月4日
この日は夜勤明け。
定時の10時に仕事を終え、その足で職場近くの銭瓶町ビルへと向かいます。
目的はマンホールカード。
銭瓶町ビルの1階にある、『ぜにがめプレイス』で
第17弾として発行された東京都(23区D101)のマンホールカードか配布されているらしい。
2022年の8月から配布されているようですが、知らなかった。
職場近くなんだけどねぇ
こちらが、銭瓶ビル。

確か、隣にいずれ日本一の高さになるビルが建設されるんじゃなかったかな?
その1階。


こちらが、ぜにがめプレイス。

大学生が運営するお土産のセレクトショップみたいなお店。
カフェも併設しているようです。

店内の若い女性(おそらく大学生の運営スタッフ)に声を掛けて
マンホールカードをいただきました。


カードのモデルになったカラーマンホールですが
てっきり配布場所に近い大手町、あるいは丸の内、
いわゆる東京駅周辺だと思っていたら、全然違っていました。
カードに印刷されたグリッド番号(緯度経度)で調べると
ちょっと遠い。
でも帰り道の途中に近い。
京成線町屋駅から徒歩圏内。
電車の窓からも見える、旧三河島の下水処理場の中に設置されているようです。
京成町屋駅から、額に汗を流しながら徒歩15分。
正式には、旧・三河島汚水処分場喞筒場施設と言うらしい。
一応、国指定の重要文化財らしい。
その正門。

正門入ってすぐ右に在る石碑。

国の重要文化財に指定されていますが、管轄は東京都。

東京都下水道局の事務所でカラーマンホール蓋の場所を確認。
親切な職員さんで、カラーマンホール蓋の場所まで案内してくれました。

こちらが、マンホールカードの見本となったカラーマンホール蓋。

大手町で貰ったカードと一緒にパチリ☆。

こちらがマンホールカード。

カードのデザインは、
国指定の重要文化財である旧・三河島汚水処分場喞筒場施設。

実は、こちらの旧・三河島汚水処分場喞筒場施設でも別なマンホールカードを配布しています。
でも、こちらの施設を見学した人が貰える記念品。
いわゆる入手の難しいカード。
そのカードを手に入れるために、施設見学の予約を入れなくっちゃ!
この日は夜勤明け。
定時の10時に仕事を終え、その足で職場近くの銭瓶町ビルへと向かいます。
目的はマンホールカード。
銭瓶町ビルの1階にある、『ぜにがめプレイス』で
第17弾として発行された東京都(23区D101)のマンホールカードか配布されているらしい。
2022年の8月から配布されているようですが、知らなかった。
職場近くなんだけどねぇ
こちらが、銭瓶ビル。

確か、隣にいずれ日本一の高さになるビルが建設されるんじゃなかったかな?
その1階。


こちらが、ぜにがめプレイス。

大学生が運営するお土産のセレクトショップみたいなお店。
カフェも併設しているようです。

店内の若い女性(おそらく大学生の運営スタッフ)に声を掛けて
マンホールカードをいただきました。


カードのモデルになったカラーマンホールですが
てっきり配布場所に近い大手町、あるいは丸の内、
いわゆる東京駅周辺だと思っていたら、全然違っていました。
カードに印刷されたグリッド番号(緯度経度)で調べると
ちょっと遠い。
でも帰り道の途中に近い。
京成線町屋駅から徒歩圏内。
電車の窓からも見える、旧三河島の下水処理場の中に設置されているようです。
京成町屋駅から、額に汗を流しながら徒歩15分。
正式には、旧・三河島汚水処分場喞筒場施設と言うらしい。
一応、国指定の重要文化財らしい。
その正門。

正門入ってすぐ右に在る石碑。

国の重要文化財に指定されていますが、管轄は東京都。

東京都下水道局の事務所でカラーマンホール蓋の場所を確認。
親切な職員さんで、カラーマンホール蓋の場所まで案内してくれました。

こちらが、マンホールカードの見本となったカラーマンホール蓋。

大手町で貰ったカードと一緒にパチリ☆。

こちらがマンホールカード。

カードのデザインは、
国指定の重要文化財である旧・三河島汚水処分場喞筒場施設。

実は、こちらの旧・三河島汚水処分場喞筒場施設でも別なマンホールカードを配布しています。
でも、こちらの施設を見学した人が貰える記念品。
いわゆる入手の難しいカード。
そのカードを手に入れるために、施設見学の予約を入れなくっちゃ!
2023/09/18 Mon. 00:00 |
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父さんの御城印巡り 《中峠城》 (2023年6月30日)(千葉県我孫子市)
6月30日
この日は公休日。
千葉県の御城印が発売される度に、
酒々井町の『まるごとしすい』で御城印を手に入れています。
本来なら、御城印は訪城の記念、そして私にとっては攻城の証。
と、自分なりのルールを決めてはいるけれど
なかなか訪城・攻城しないうちに随分と御城印が溜まって来た。
これはマズイ。
と、言うことで我孫子市の中峠城に行って来ました。
中峠城の縄張り図。

( 余湖さんのHP よりお借りしました )
御城印は、昨年の8月に発売され、昨年の9月3日に入手済み。

気が付いたら入手してから1年近くになる。
コレって、ある意味ヤバイよね。
中峠城は、別名を芝原城とも称し、
北条氏の家臣である河村氏の居城として知られています。
河村氏はもともと相模の在地土豪で、北条氏の勢力伸張に従いこの地に移ってきました。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、
下総方面は浅野長政らが侵攻し小金城などとともに攻略され、廃城となりました。
利根川南部の河岸段丘上に築かれた城で、
現在は宅地化されていますが一部が自然公園「自然観察の森」として整備されており、
空堀や土塁などの遺構を確認することができます。
実は、中峠城(芝原城)へは、以前に びいすけ と訪れたことがあります。
(その時の攻城記は こちら )
では、中峠城(芝原城)へ攻城いたしましょう。
古利根沼畔の空き地に車を停めて進軍です。


沼近くの森は土壇があって、城址っぽい雰囲気。

この石段の先に祠が鎮座する。

まるで、櫓跡のように見えるのは気のせい?
祠の背後は崖となり、竹林に覆われている。


堀跡のようにも見える。

この高さは、やっぱり物見台のように感じてしまう。

上から見た堀跡のような所。

近隣の方が管理されているようで、立ち入り禁止。

この細い切り通しの道を上って行きます。

切り通しの道も城址の雰囲気満載。

切り通しの坂道を上り切ると、民家と竹林の間を抜けていく。

この辺りが主郭になるんだけれど
とにかく竹が多い。
竹に覆われて見づらいけれど、土塁。

土塁とその前の空堀。

目の前の森が古利根公園 自然観察の森。
中峠城の二郭にあたります。

その手前は民家が建ち、二郭は宅地化が進んでいる。
古利根公園 自然観察の森の入り口。

古利根公園 自然観察の森の奥に、中峠城(芝原城)の説明板が建つ。

説明板には、縄張り図も記載されている。

縄張り図には二郭の空堀も載っているけれど
かなり埋まっていて空堀と判別するのが難しい。
辛うじて、空堀っぽく見える。
、

三郭は完全に宅地化されていて、見所は殆ど無いみたい。
こちらが、中峠城の御城印。

あいも変わらず、家紋がカラフル。
折角の九曜紋。
朱色であれば、御城印もグッとしまってくると思うんだけどね..........
この日は公休日。
千葉県の御城印が発売される度に、
酒々井町の『まるごとしすい』で御城印を手に入れています。
本来なら、御城印は訪城の記念、そして私にとっては攻城の証。
と、自分なりのルールを決めてはいるけれど
なかなか訪城・攻城しないうちに随分と御城印が溜まって来た。
これはマズイ。
と、言うことで我孫子市の中峠城に行って来ました。
中峠城の縄張り図。

( 余湖さんのHP よりお借りしました )
御城印は、昨年の8月に発売され、昨年の9月3日に入手済み。

気が付いたら入手してから1年近くになる。
コレって、ある意味ヤバイよね。
中峠城は、別名を芝原城とも称し、
北条氏の家臣である河村氏の居城として知られています。
河村氏はもともと相模の在地土豪で、北条氏の勢力伸張に従いこの地に移ってきました。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、
下総方面は浅野長政らが侵攻し小金城などとともに攻略され、廃城となりました。
利根川南部の河岸段丘上に築かれた城で、
現在は宅地化されていますが一部が自然公園「自然観察の森」として整備されており、
空堀や土塁などの遺構を確認することができます。
実は、中峠城(芝原城)へは、以前に びいすけ と訪れたことがあります。
(その時の攻城記は こちら )
では、中峠城(芝原城)へ攻城いたしましょう。
古利根沼畔の空き地に車を停めて進軍です。


沼近くの森は土壇があって、城址っぽい雰囲気。

この石段の先に祠が鎮座する。

まるで、櫓跡のように見えるのは気のせい?
祠の背後は崖となり、竹林に覆われている。


堀跡のようにも見える。

この高さは、やっぱり物見台のように感じてしまう。

上から見た堀跡のような所。

近隣の方が管理されているようで、立ち入り禁止。

この細い切り通しの道を上って行きます。

切り通しの道も城址の雰囲気満載。

切り通しの坂道を上り切ると、民家と竹林の間を抜けていく。

この辺りが主郭になるんだけれど
とにかく竹が多い。
竹に覆われて見づらいけれど、土塁。

土塁とその前の空堀。

目の前の森が古利根公園 自然観察の森。
中峠城の二郭にあたります。

その手前は民家が建ち、二郭は宅地化が進んでいる。
古利根公園 自然観察の森の入り口。

古利根公園 自然観察の森の奥に、中峠城(芝原城)の説明板が建つ。

説明板には、縄張り図も記載されている。

縄張り図には二郭の空堀も載っているけれど
かなり埋まっていて空堀と判別するのが難しい。
辛うじて、空堀っぽく見える。
、

三郭は完全に宅地化されていて、見所は殆ど無いみたい。
こちらが、中峠城の御城印。

あいも変わらず、家紋がカラフル。
折角の九曜紋。
朱色であれば、御城印もグッとしまってくると思うんだけどね..........
2023/09/17 Sun. 00:00 |
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偶然の丸ポスト 《茨城・那珂市編》 (2023年6月26日)(茨城県那珂市)
6月26日
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
その2日目。
この日は大子町の廃校巡りを行い、
常陸大宮市では神社の御朱印巡りを行い
千葉県へと自宅へ向けてハンドルを握ります。
そう言えば、茨城県の那珂市ではマンホールカードを配布している。
時間的にまだ間に合いそう。
急いで、配布先の一ノ関ため池親水公園の中にある『曲がり屋』へと向かいます。

この時点では、『曲がり屋』は売店か何かと思っていました。

説明板。

曲がり屋とは、住居と馬小屋、物置が一体となった東北地方と茨城県の一部にみられる
寒さの厳しい地方の代表的な民家の形式のことらしい。
那珂市曲がり屋は、市内に残った最後の茅葺屋根の民家を解体保存し、
一の関ため池親水公園内へ移設復原した物らしい
那珂市の有形文化財に指定され、広く市民に公開されています。

ただし、毎週月曜日は休館日。
すなわち、係りの者も居ない。
当然マンホールカードも貰えない...........
ふと、『曲がり屋』の正面を見ると、
入口前に赤い丸ポストが立っている。

入口は閉まっていても、入口脇の外に立つ赤い丸ポストは関係ない。

いっしゅん、小学校などによく置かれている教材用の丸ポストか?
と思ったけれど................
どうやら、現役の丸ポストのようです。

ポストの側面には秋hs位予定の時刻表も貼られている。


ラッキーとでも言うべきか.........
マンホールカードは手に入れられなかったけれど
偶然にも赤い丸ポストを見つけて、画像に収めることが出来ました。
これまでに茨城県の丸ポストは
桜川市(真壁) 2基
石岡市 4基
稲敷市 2基
土浦市 6基
龍ヶ崎市 8基
かすみがうら市 1基
行方市 2基
取手市 6基
鹿嶋市 2基
大洗町 9基
茨城町 1基
つくば市 4基
常陸大宮市 1基
小美玉市 1基
城里町 2基
笠間市 3基
水戸市 1基
古河市 2基
常陸大宮市② 3基
大子町 5基
本日、那珂市町の丸ポストを1基制覇。
合計66基を制覇したことになります。
茨城県には68基(2023年7月4日現在)の丸ポストが
現存しているとされています。
数の上ではあと2基と言うことになりますが、
丸ポスト探しを始めた頃から撤去されてしまったモノもあるので
一概にはあと幾つ? ってはっきりしないところもありますが、
ポストマップなるサイトで調べてみると...............
未攻略市町村として
北茨城市に2基
常陸太田市に4基
常総市に2基丸ポストが現存しているようです。
と言うことは、あと8基になるようです。
いつ撤去されるかも予測できないので
現存する丸ポストの情報を集めて、
茨城県内の丸ポスト制覇目指して頑張りましょう!!
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
その2日目。
この日は大子町の廃校巡りを行い、
常陸大宮市では神社の御朱印巡りを行い
千葉県へと自宅へ向けてハンドルを握ります。
そう言えば、茨城県の那珂市ではマンホールカードを配布している。
時間的にまだ間に合いそう。
急いで、配布先の一ノ関ため池親水公園の中にある『曲がり屋』へと向かいます。

この時点では、『曲がり屋』は売店か何かと思っていました。

説明板。

曲がり屋とは、住居と馬小屋、物置が一体となった東北地方と茨城県の一部にみられる
寒さの厳しい地方の代表的な民家の形式のことらしい。
那珂市曲がり屋は、市内に残った最後の茅葺屋根の民家を解体保存し、
一の関ため池親水公園内へ移設復原した物らしい
那珂市の有形文化財に指定され、広く市民に公開されています。

ただし、毎週月曜日は休館日。
すなわち、係りの者も居ない。
当然マンホールカードも貰えない...........
ふと、『曲がり屋』の正面を見ると、
入口前に赤い丸ポストが立っている。

入口は閉まっていても、入口脇の外に立つ赤い丸ポストは関係ない。

いっしゅん、小学校などによく置かれている教材用の丸ポストか?
と思ったけれど................
どうやら、現役の丸ポストのようです。

ポストの側面には秋hs位予定の時刻表も貼られている。


ラッキーとでも言うべきか.........
マンホールカードは手に入れられなかったけれど
偶然にも赤い丸ポストを見つけて、画像に収めることが出来ました。
これまでに茨城県の丸ポストは
桜川市(真壁) 2基
石岡市 4基
稲敷市 2基
土浦市 6基
龍ヶ崎市 8基
かすみがうら市 1基
行方市 2基
取手市 6基
鹿嶋市 2基
大洗町 9基
茨城町 1基
つくば市 4基
常陸大宮市 1基
小美玉市 1基
城里町 2基
笠間市 3基
水戸市 1基
古河市 2基
常陸大宮市② 3基
大子町 5基
本日、那珂市町の丸ポストを1基制覇。
合計66基を制覇したことになります。
茨城県には68基(2023年7月4日現在)の丸ポストが
現存しているとされています。
数の上ではあと2基と言うことになりますが、
丸ポスト探しを始めた頃から撤去されてしまったモノもあるので
一概にはあと幾つ? ってはっきりしないところもありますが、
ポストマップなるサイトで調べてみると...............
未攻略市町村として
北茨城市に2基
常陸太田市に4基
常総市に2基丸ポストが現存しているようです。
と言うことは、あと8基になるようです。
いつ撤去されるかも予測できないので
現存する丸ポストの情報を集めて、
茨城県内の丸ポスト制覇目指して頑張りましょう!!
2023/09/16 Sat. 00:00 |
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甲神社 (2023年6月26日)(茨城県常陸大宮市)
6月26日
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
その2日目。
大子町の廃校を巡ると言う当初の目的をほぼ完遂したので
帰路につきますが、ただ真っ直ぐに自宅へ帰っても芸がない。
帰路の沿線上になる常陸大宮市や那珂市の気になる場所に立ち寄りながら帰りましょう。
と言うことで、廃校巡りから御朱印拝受の参拝へ。
岩崎春日神社をあとにして向かった先は..............甲神社。
甲神社は、常陸大宮市下町に鎮座する神社です。
社伝によれば、大同2年(807)に藤原良継が勅命を受けて
甲明神を祀ったのが始まりとされています。
社名は、佐竹初代 昌義が、源氏の祖である源経基の甲を
奉納したことに由来すると伝えられています。
かつては、部垂・宇留野・樫村・小倉・塩原・辰ノ口・岩崎
上根本・横瀬・八田・菅又・引田と、12ケ村の総鎮守でしたが、
近世水戸藩の一村一社制により、元禄年間以降は部垂村一村の鎮守となりました。
元々、この地は部垂(へたれ)という村名でしたが、語呂が悪いとの理由から
村民から改名願いが出され、天保14年(1843年)に認められて、大宮村となりました。
この村名は、人々の尊崇の対象であった鎮守 甲大宮(甲神社)にちなんだものです。
現在の常陸大宮市の『大宮』はここから始まっているとされています。
御祭神は、武甕槌命、熯速日命、甕速日命。
社号標。

神社社頭。

なぜか、鳥居が二つ。
一つは、甲神社の一の鳥居。

鳥居脇の説明板(案内板)。

こちらは、二の鳥居ではなく(素鵞神社)の鳥居。

神門。

拝殿。

拝殿正面。

拝殿の向拝に掲げられた扁額。

こちらは拝殿正面に掲げられた扁額。

拝殿脇に掲げられた奉納額。


別アングルからの拝殿。


拝殿前の狛犬。


そして、こちらが本殿。

甲神社には境内社が多い。

大なり小なりの境内社。
多くの祠も並び、可能な限り画像に収めてみました。













境内社と慰霊碑。

御神木。



神門前の境内全景。



神輿庫。

こちらが社務所。

この日も閉まっていますが、平日は基本的には無人です。
摂社・素鵞神社の手水舎。

素鵞神社・拝殿。

拝殿正面。

別アングルからの拝殿。


そして、素鵞神社の本殿。

こちらが素鵞神社の御朱印。

甲神社の御朱印。

いずれも書き置き版ですが、日付けを書き入れていただきました。
本来、社務所に来られる予定では無かったのですが、
御朱印の対応ありがとうございました。
後日、甲神社について調べていたら、
この地は、佐竹氏の家臣の部垂(へだれ)氏の居城であった部垂城の一部であったらしい。
いつかきかいがあったら、部垂城も探索してみたいものです。
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
その2日目。
大子町の廃校を巡ると言う当初の目的をほぼ完遂したので
帰路につきますが、ただ真っ直ぐに自宅へ帰っても芸がない。
帰路の沿線上になる常陸大宮市や那珂市の気になる場所に立ち寄りながら帰りましょう。
と言うことで、廃校巡りから御朱印拝受の参拝へ。
岩崎春日神社をあとにして向かった先は..............甲神社。
甲神社は、常陸大宮市下町に鎮座する神社です。
社伝によれば、大同2年(807)に藤原良継が勅命を受けて
甲明神を祀ったのが始まりとされています。
社名は、佐竹初代 昌義が、源氏の祖である源経基の甲を
奉納したことに由来すると伝えられています。
かつては、部垂・宇留野・樫村・小倉・塩原・辰ノ口・岩崎
上根本・横瀬・八田・菅又・引田と、12ケ村の総鎮守でしたが、
近世水戸藩の一村一社制により、元禄年間以降は部垂村一村の鎮守となりました。
元々、この地は部垂(へたれ)という村名でしたが、語呂が悪いとの理由から
村民から改名願いが出され、天保14年(1843年)に認められて、大宮村となりました。
この村名は、人々の尊崇の対象であった鎮守 甲大宮(甲神社)にちなんだものです。
現在の常陸大宮市の『大宮』はここから始まっているとされています。
御祭神は、武甕槌命、熯速日命、甕速日命。
社号標。

神社社頭。

なぜか、鳥居が二つ。
一つは、甲神社の一の鳥居。

鳥居脇の説明板(案内板)。

こちらは、二の鳥居ではなく(素鵞神社)の鳥居。

神門。

拝殿。

拝殿正面。

拝殿の向拝に掲げられた扁額。

こちらは拝殿正面に掲げられた扁額。

拝殿脇に掲げられた奉納額。


別アングルからの拝殿。


拝殿前の狛犬。


そして、こちらが本殿。

甲神社には境内社が多い。

大なり小なりの境内社。
多くの祠も並び、可能な限り画像に収めてみました。













境内社と慰霊碑。

御神木。



神門前の境内全景。



神輿庫。

こちらが社務所。

この日も閉まっていますが、平日は基本的には無人です。
摂社・素鵞神社の手水舎。

素鵞神社・拝殿。

拝殿正面。

別アングルからの拝殿。


そして、素鵞神社の本殿。

こちらが素鵞神社の御朱印。

甲神社の御朱印。

いずれも書き置き版ですが、日付けを書き入れていただきました。
本来、社務所に来られる予定では無かったのですが、
御朱印の対応ありがとうございました。
後日、甲神社について調べていたら、
この地は、佐竹氏の家臣の部垂(へだれ)氏の居城であった部垂城の一部であったらしい。
いつかきかいがあったら、部垂城も探索してみたいものです。
2023/09/15 Fri. 00:00 |
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岩崎春日神社 (2023年6月26日)(茨城県常陸大宮市)
6月26日
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
その2日目。
大子町の廃校を巡ると言う当初の目的をほぼ完遂したので
帰路につきますが、ただ真っ直ぐに自宅へ帰っても芸がない。
帰路の沿線上になる常陸大宮市や那珂市の気になる場所に立ち寄りながら帰りましょう。
と言うことで、道の駅 常陸大宮かわばプラザ をあとにして
向かった先は..............岩崎春日神社。
岩崎春日神社は、常陸大宮市岩崎に鎮座する神社です。
創建は大同2年(807)、大和国三笠山の御分霊を奉遷し、
三つ山の霊域に鎮斎したのが始まりとされる。
明治八年(1875)に三つ山高所(現在地)に社殿を移し、
境内を整備拡張しました。
御祭神は、天児屋根命・武甕槌命・経津主命・姫大神。
神社社頭。

社号標。

一の鳥居。

二の鳥居。

朱色の鳥居が鎮守の森に映える。
二の鳥居に掲げられた神額。

参道からの拝殿。

手水舎。

参道の狛犬。


拝殿。

拝殿正面。

拝殿正面に掲げられた扁額。

別アングルからの拝殿。


そして、こちらが本殿。

本殿の背後には奥宮。


こちらは境内社・天満宮。

同じく境内社・稲荷神社。

小さな祠も並びます。

意外に祠の数も多い。



境内の記念碑。

こちらが御朱印。

神社手前の宮司さん宅にて御朱印帳に書き入れしていただきました。
「このあと、どこかの神社に寄られるのですか?」
と、宮司さんに訊かれ、『甲神社に行く予定です』と答えたら
甲神社の宮司さんと懇意にされているようで、
甲神社の宮司さんに連絡を取ってくれました。
この日は、神社の方へは行く予定がなかったそうですが
(基本的に土・日・祝日以外は無人の神社になるそうです)
春日神社の宮司さんが声を掛けていただき
甲神社の社務所で待ち合わせをすることになりました。
こう言う巡り合わせも『縁』って言うヤツなんですね。
このあと、急いで甲神社に向かいました。
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
その2日目。
大子町の廃校を巡ると言う当初の目的をほぼ完遂したので
帰路につきますが、ただ真っ直ぐに自宅へ帰っても芸がない。
帰路の沿線上になる常陸大宮市や那珂市の気になる場所に立ち寄りながら帰りましょう。
と言うことで、道の駅 常陸大宮かわばプラザ をあとにして
向かった先は..............岩崎春日神社。
岩崎春日神社は、常陸大宮市岩崎に鎮座する神社です。
創建は大同2年(807)、大和国三笠山の御分霊を奉遷し、
三つ山の霊域に鎮斎したのが始まりとされる。
明治八年(1875)に三つ山高所(現在地)に社殿を移し、
境内を整備拡張しました。
御祭神は、天児屋根命・武甕槌命・経津主命・姫大神。
神社社頭。

社号標。

一の鳥居。

二の鳥居。

朱色の鳥居が鎮守の森に映える。
二の鳥居に掲げられた神額。

参道からの拝殿。

手水舎。

参道の狛犬。


拝殿。

拝殿正面。

拝殿正面に掲げられた扁額。

別アングルからの拝殿。


そして、こちらが本殿。

本殿の背後には奥宮。


こちらは境内社・天満宮。

同じく境内社・稲荷神社。

小さな祠も並びます。

意外に祠の数も多い。



境内の記念碑。

こちらが御朱印。

神社手前の宮司さん宅にて御朱印帳に書き入れしていただきました。
「このあと、どこかの神社に寄られるのですか?」
と、宮司さんに訊かれ、『甲神社に行く予定です』と答えたら
甲神社の宮司さんと懇意にされているようで、
甲神社の宮司さんに連絡を取ってくれました。
この日は、神社の方へは行く予定がなかったそうですが
(基本的に土・日・祝日以外は無人の神社になるそうです)
春日神社の宮司さんが声を掛けていただき
甲神社の社務所で待ち合わせをすることになりました。
こう言う巡り合わせも『縁』って言うヤツなんですね。
このあと、急いで甲神社に向かいました。
2023/09/14 Thu. 00:00 |
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道の駅 常陸大宮かわばプラザ (2023年6月26日)(茨城県常陸大宮市)
6月26日
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
その2日目。
大子町の廃校を巡ると言う当初の目的をほぼ完遂したので
帰路につきますが、ただ真っ直ぐに自宅へ帰っても芸がない。
帰路の沿線上になる常陸大宮市や那珂市の気になる場所に立ち寄りながら帰りましょう。
と言うことで、西野内諏訪神社をあとにして、
向かった先は.............道の駅 常陸大宮かわばプラザ
見慣れたと言うか、道の駅の看板。

この看板を見かけると、ついつい立ち寄りたくなってしまいます。

見た感じ、新しくて綺麗な道の駅。

茨城県内で12番目となる道の駅。
茨城県内には、16ヶ所の道の駅があるから
比較的新しい道の駅になるようです。
調べてみたら、
平成28年(2016年)の開業になるようです。
今から7年前ですね。
駐車場も広く、第二駐車場、第三駐車場とあり
普通車130台、大型車18台が駐車可能。


見た感じ、高速道路のSAっぽく見えたりしなくもない。


案内板。


それでは、施設内の入ってみましょう。
情報コーナー。

近隣の観光案内のパンフレットも置かれている。

道の駅の登録証も掲げられている。

道の駅のスタンプもこちらに置かれている。

こちらは直売所。
主役は地元産の採れたて野菜。

新鮮な野菜が充実しているようです。





茨城といったらメロンだよねぇ。

加工食品。

地ビールに地酒。

もちろん旅のお土産も置いてある。

こちらはレストラン。

フードコートもある。


こちらは、デザート系の売店。

せっかくだから、ソフトクリームでもいただきましょう。

道の駅 常陸大宮かわプラザ と言うだけあって、すぐ近くを久慈川が流れている

久慈川沿いの道の駅。
河原に芝生の公園が広がる。

河原を犬連れで散歩するも良し。

あ〜、びいすけが生きている時に来れば良かった。
犬連れの人はテラス席もあるから、
フードコートで買って、テラス席を利用できるし...........

小さいながらもドッグランもあるから、犬連れには優しい施設かもしれない。

こちらが、道の駅の切符。


そして、道の駅のスタンプ。

2023年6月末現在、茨城県には18の道の駅があるらしい。
頑張れば、全部を巡ることも可能。
頑張っちゃおうかなぁ..........(笑)
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
その2日目。
大子町の廃校を巡ると言う当初の目的をほぼ完遂したので
帰路につきますが、ただ真っ直ぐに自宅へ帰っても芸がない。
帰路の沿線上になる常陸大宮市や那珂市の気になる場所に立ち寄りながら帰りましょう。
と言うことで、西野内諏訪神社をあとにして、
向かった先は.............道の駅 常陸大宮かわばプラザ
見慣れたと言うか、道の駅の看板。

この看板を見かけると、ついつい立ち寄りたくなってしまいます。

見た感じ、新しくて綺麗な道の駅。

茨城県内で12番目となる道の駅。
茨城県内には、16ヶ所の道の駅があるから
比較的新しい道の駅になるようです。
調べてみたら、
平成28年(2016年)の開業になるようです。
今から7年前ですね。
駐車場も広く、第二駐車場、第三駐車場とあり
普通車130台、大型車18台が駐車可能。


見た感じ、高速道路のSAっぽく見えたりしなくもない。


案内板。


それでは、施設内の入ってみましょう。
情報コーナー。

近隣の観光案内のパンフレットも置かれている。

道の駅の登録証も掲げられている。

道の駅のスタンプもこちらに置かれている。

こちらは直売所。
主役は地元産の採れたて野菜。

新鮮な野菜が充実しているようです。





茨城といったらメロンだよねぇ。

加工食品。

地ビールに地酒。

もちろん旅のお土産も置いてある。

こちらはレストラン。

フードコートもある。


こちらは、デザート系の売店。

せっかくだから、ソフトクリームでもいただきましょう。

道の駅 常陸大宮かわプラザ と言うだけあって、すぐ近くを久慈川が流れている

久慈川沿いの道の駅。
河原に芝生の公園が広がる。

河原を犬連れで散歩するも良し。

あ〜、びいすけが生きている時に来れば良かった。
犬連れの人はテラス席もあるから、
フードコートで買って、テラス席を利用できるし...........

小さいながらもドッグランもあるから、犬連れには優しい施設かもしれない。

こちらが、道の駅の切符。


そして、道の駅のスタンプ。

2023年6月末現在、茨城県には18の道の駅があるらしい。
頑張れば、全部を巡ることも可能。
頑張っちゃおうかなぁ..........(笑)
2023/09/13 Wed. 00:00 |
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西野内諏訪神社 (2023年6月26日)(茨城県常陸大宮市)
6月26日
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
その2日目。
大子町の廃校を巡ると言う当初の目的をほぼ完遂したので
帰路につきますが、ただ真っ直ぐに自宅へ帰っても芸がない。
帰路の沿線上になる常陸大宮市や那珂市の気になる場所に立ち寄りながら帰りましょう。
と言うことで、向かった先は...............西野内諏訪神社。
西野内諏訪神社は、常陸大宮市西野内に鎮座する神社です。
大同元年(806年)に創建されているとのことですが
詳細な由緒は不明。
ネットで調べても分かりませんでした。
御祭神は、建御名方命(たけになかたのみこと)。
神社社頭。

神社幟の旗杭が一際目立ちます。
参道入口の碑。

木々で見ずらいけれど、石造りの鳥居。

手水舎。

拝殿。


拝殿正面。


拝殿正面に掲げられた扁額。

『諏訪大明神』とある。
別アングルからの拝殿。


そして、こちらが本殿。

境内社。

中には別雷皇太神社、八幡神社、天神宮、稲荷神社、熊野神社、浅間神社、愛宕神社と
多くの祠が祀られています。
こちらも境内社(駒形神社)。

同じく境内社・疱瘡神社。


神輿庫。

境内には小さな祠も並ぶ。


神仏習合の名残りでしょうか?

庚申塔も境内にはありました。
忠魂碑。

どうやら、こちらの神社は西野内集落のランドマーク的な存在だったんですね。
社務所。

こちらが、西野内諏訪神社の御朱印。

神社の向かいにある宮司さん宅でいただきました。
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
その2日目。
大子町の廃校を巡ると言う当初の目的をほぼ完遂したので
帰路につきますが、ただ真っ直ぐに自宅へ帰っても芸がない。
帰路の沿線上になる常陸大宮市や那珂市の気になる場所に立ち寄りながら帰りましょう。
と言うことで、向かった先は...............西野内諏訪神社。
西野内諏訪神社は、常陸大宮市西野内に鎮座する神社です。
大同元年(806年)に創建されているとのことですが
詳細な由緒は不明。
ネットで調べても分かりませんでした。
御祭神は、建御名方命(たけになかたのみこと)。
神社社頭。

神社幟の旗杭が一際目立ちます。
参道入口の碑。

木々で見ずらいけれど、石造りの鳥居。

手水舎。

拝殿。


拝殿正面。


拝殿正面に掲げられた扁額。

『諏訪大明神』とある。
別アングルからの拝殿。


そして、こちらが本殿。

境内社。

中には別雷皇太神社、八幡神社、天神宮、稲荷神社、熊野神社、浅間神社、愛宕神社と
多くの祠が祀られています。
こちらも境内社(駒形神社)。

同じく境内社・疱瘡神社。


神輿庫。

境内には小さな祠も並ぶ。


神仏習合の名残りでしょうか?

庚申塔も境内にはありました。
忠魂碑。

どうやら、こちらの神社は西野内集落のランドマーク的な存在だったんですね。
社務所。

こちらが、西野内諏訪神社の御朱印。

神社の向かいにある宮司さん宅でいただきました。
2023/09/12 Tue. 00:00 |
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父さんの廃校巡り 《 上岡小学校》 (2023年6月26日)(茨城県久慈郡大子町)
6月26日
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
その2日目。
この日は大子町の廃校巡りを行います。
廃校巡りのついでに訪れた初原鹿嶋神社をあとにして、
向かった先は.............大子町立上岡小学校。
上岡小学校は、
明治12年 学校を創立する。
後に、大子町立大子小学校分教場となる。
明治25年 大子町立上岡小学校となる。
昭和22年 学制改革により大子町立上岡小学校となる。
平成13年 大子小学校、浅川小学校、池田小学校、矢田小学校と統合して
新たに大子町立だいご小学校が開校する。
上岡小学校は閉校となる。
と、このような沿革となっています。
上岡小学校には、明治から昭和初期にかけて建てられた、三棟からなる木造校舎が残り、
そのノスタルジックな佇まいから、NHKの連続テレビ小説「花子とアン」や「おひさま」をはじめ、
数々のドラマや映画のロケ地になっているそうです。
県道沿いに建つ看板。

国の有形文化財と、さりげなく書かれている。
こちらが正門跡。

正門の門扉は閉められているけれど
隣接している駐車場から敷地内に入れます。
卒業生でもある地元住民を中心に組織された「上岡小跡地保存の会」が維持管理されており、
敷地内は無料で一般開放されていて、土曜・日曜・祝日には校舎内部も見学出来ます。
この日は月曜日、校舎内部は見学出来ません。
では、上岡小学校を外からじっくりと見学いたしましょう。
駐車場脇に建つ説明板。

上岡小学校も平成30年に国の有形文化財に登録されました。

こちらは、3棟の木造校舎が登録指定されているようです。
実は、上岡小学校の校舎は、茨城県内の小学校校舎としては2番めに古く、
現地保存されているものでは茨城県で最古の校舎と言われています。
校庭越しに見る有形文化財の木造校舎。

別アングルから。


校庭側に2棟建っているのがわかる。

そして別アングルから見ると、奥にもう1棟在るのがわかります。

手前の校舎側、向かって右側の赤い屋根の木造校舎。

別アングルから。

逆アングルから。

その隣の校舎。

校庭から向かって左側に建つ校舎。

この校舎が現地に現存する茨城県最古の木造校舎。
こちらを上岡小学校の木造校舎第1棟と称しているようです
この辺りに下駄箱が置かれていたのでしょうか?

奥を覗けば、隣の校舎とは渡り廊下で繋がっているのが分かります。
校庭からの眺め。

正面玄関。

正面玄関に掲げられた往時の表札。

逆アングルから。

渡り廊下でさらに別の建物に繋がっている。

給食室に使われていた建物だろうか?
他の方のブログを拝見すると、一般開放日(土・日・祝日)には食堂として営業しているみたいです。
校庭側の2棟の奥に隠れるように建っていた建物。

どうやら。木造の体育館(講堂)と音楽室のようです。

残念ながら内部には入れないので詳細は不明。
第1棟とは屋根付きの渡り廊下で繋がっています。

同じ位置からのもう一つの木造校舎。

校庭。


校庭残る遊具類。




校庭の一角には藤棚。

この地区の小学校には校庭に藤棚が設けられていることが多い。
正門の先、駐車場脇に建つ二宮像。


そして、その傍には閉校記念碑。
表面には校歌が刻まれている。

小さく、簡略な沿革も刻まれている。

裏面には、碑の建立に尽力(寄付)された方々の名が連なる。

校舎に前に建つ碑。

『希望』と刻まれている。
校舎前のモニュメント。
小便小僧。

おそらく、子供たちの作であろう馬(?)

教材用の赤い丸ポストも置かれている。

さくじつから、西金小学校、浅川小学校、牧野地小学校、初原小学校、
そして、ここ上岡小学校と大子町の木造校舎の廃校を巡って来た。
5つの小学校を巡って、改めて木造校舎っていいなぁ! と
小学校4年生まで部分的に現存した我が母校(来迎寺小学校)、
そして中学1年で転校しちゃったけれど平屋建ての木造校舎が3棟、
2階建ての木造校舎が1棟建っていた中学校(知立中学校)を思い出してしまいました...............
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
その2日目。
この日は大子町の廃校巡りを行います。
廃校巡りのついでに訪れた初原鹿嶋神社をあとにして、
向かった先は.............大子町立上岡小学校。
上岡小学校は、
明治12年 学校を創立する。
後に、大子町立大子小学校分教場となる。
明治25年 大子町立上岡小学校となる。
昭和22年 学制改革により大子町立上岡小学校となる。
平成13年 大子小学校、浅川小学校、池田小学校、矢田小学校と統合して
新たに大子町立だいご小学校が開校する。
上岡小学校は閉校となる。
と、このような沿革となっています。
上岡小学校には、明治から昭和初期にかけて建てられた、三棟からなる木造校舎が残り、
そのノスタルジックな佇まいから、NHKの連続テレビ小説「花子とアン」や「おひさま」をはじめ、
数々のドラマや映画のロケ地になっているそうです。
県道沿いに建つ看板。

国の有形文化財と、さりげなく書かれている。
こちらが正門跡。

正門の門扉は閉められているけれど
隣接している駐車場から敷地内に入れます。
卒業生でもある地元住民を中心に組織された「上岡小跡地保存の会」が維持管理されており、
敷地内は無料で一般開放されていて、土曜・日曜・祝日には校舎内部も見学出来ます。
この日は月曜日、校舎内部は見学出来ません。
では、上岡小学校を外からじっくりと見学いたしましょう。
駐車場脇に建つ説明板。

上岡小学校も平成30年に国の有形文化財に登録されました。

こちらは、3棟の木造校舎が登録指定されているようです。
実は、上岡小学校の校舎は、茨城県内の小学校校舎としては2番めに古く、
現地保存されているものでは茨城県で最古の校舎と言われています。
校庭越しに見る有形文化財の木造校舎。

別アングルから。


校庭側に2棟建っているのがわかる。

そして別アングルから見ると、奥にもう1棟在るのがわかります。

手前の校舎側、向かって右側の赤い屋根の木造校舎。

別アングルから。

逆アングルから。

その隣の校舎。

校庭から向かって左側に建つ校舎。

この校舎が現地に現存する茨城県最古の木造校舎。
こちらを上岡小学校の木造校舎第1棟と称しているようです
この辺りに下駄箱が置かれていたのでしょうか?

奥を覗けば、隣の校舎とは渡り廊下で繋がっているのが分かります。
校庭からの眺め。

正面玄関。

正面玄関に掲げられた往時の表札。

逆アングルから。

渡り廊下でさらに別の建物に繋がっている。

給食室に使われていた建物だろうか?
他の方のブログを拝見すると、一般開放日(土・日・祝日)には食堂として営業しているみたいです。
校庭側の2棟の奥に隠れるように建っていた建物。

どうやら。木造の体育館(講堂)と音楽室のようです。

残念ながら内部には入れないので詳細は不明。
第1棟とは屋根付きの渡り廊下で繋がっています。

同じ位置からのもう一つの木造校舎。

校庭。


校庭残る遊具類。




校庭の一角には藤棚。

この地区の小学校には校庭に藤棚が設けられていることが多い。
正門の先、駐車場脇に建つ二宮像。


そして、その傍には閉校記念碑。
表面には校歌が刻まれている。

小さく、簡略な沿革も刻まれている。

裏面には、碑の建立に尽力(寄付)された方々の名が連なる。

校舎に前に建つ碑。

『希望』と刻まれている。
校舎前のモニュメント。
小便小僧。

おそらく、子供たちの作であろう馬(?)

教材用の赤い丸ポストも置かれている。

さくじつから、西金小学校、浅川小学校、牧野地小学校、初原小学校、
そして、ここ上岡小学校と大子町の木造校舎の廃校を巡って来た。
5つの小学校を巡って、改めて木造校舎っていいなぁ! と
小学校4年生まで部分的に現存した我が母校(来迎寺小学校)、
そして中学1年で転校しちゃったけれど平屋建ての木造校舎が3棟、
2階建ての木造校舎が1棟建っていた中学校(知立中学校)を思い出してしまいました...............
2023/09/11 Mon. 00:00 |
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初原鹿嶋神社 (2023年6月26日)(茨城県久慈郡大子町)
6月26日
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
その2日目。
この日は大子町の廃校巡り。
初原小学校をあとにして、次なる廃校を目指しますが
その前にちょっと寄り道。
立ち寄った先は...........初原鹿嶋神社,
初原鹿嶋神社は、大子町初原に鎮座する神社です。
創建については記録が残っておらず不詳となりますが、
神社明細書(昭和27年に神社本庁に提出した資料)によれば、
大同元年(806年)となっています。
延暦年間、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折、武甕槌大神に戦勝を 祈願し、
本願を達成したので、常陸国を始め陸奥にまで鹿島大 神を奉斎しました。
その一社が当社であると言われているそうです。
茨城県の神社で四番目に多いのが鹿嶋神社(鹿島神社)。
たくさんある鹿嶋神社の中で
もっとも鹿島神宮(常陸国一宮)から離れているのが
こちらの鹿嶋神社になるそうです。
御祭神は、武甕槌大神。
看板(社号標?)。

幟。

神社社頭。

鳥居に掲げられた神額。

『鹿島宮』とある。
いつも思うんだけど、『鹿嶋神社』と『鹿島神社』。
『島』と『嶋』と字が違うけど、
御祭神も同じで鹿島神宮の流れを汲む神社。
何故、鹿島と鹿嶋が存在するんだろう?
鳥居の〆縄。

鳥居越しの拝殿。

手水鉢。

茅の輪の先に見えるのが龍神岩(左)と尾龍岩(右)。

拝殿。

拝殿正面に掲げられた扁額。

こちらには『鹿島神社』とある。
『鹿嶋神社』に『鹿島神社』、どっちが正しいの?
別アングルからの拝殿。

そして、こちらが本殿。

拝殿前にはスタンプ。

例の大子町41社巡りのスタンプです。
当然、台紙に押印いたしました。
近隣の神社も紹介しています。

境内社。




意外に境内社が多い。
ちょっとした驚きです。
拝殿脇に積まれた御神酒。

境内の記念碑。

古い手水鉢。

御神木。


その御神木は、『だき灯籠の杉』と呼ばれている。

そして説明板。

説明板によれば、杉の木が成長する過程の長い年月の中で
灯籠を飲み込みでしまいました。
それが子どもを宿したお腹に例えられていて、
子授けや子育てのご利益があると言われ、大子町の天然記念物に指定されています。
社務所。

閉まっています。
普段は無人の神社のようですね。
こちらが、初原鹿嶋神社の御朱印。

社務所は無人ですが、拝殿前に書き置きの御朱印が置かれていて
初穂料を賽銭箱に入れると言うシステム。
宮司さんにお会いできない神社も多いので、
こういったシステムは助かります。
ありがたくいただきました。
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
その2日目。
この日は大子町の廃校巡り。
初原小学校をあとにして、次なる廃校を目指しますが
その前にちょっと寄り道。
立ち寄った先は...........初原鹿嶋神社,
初原鹿嶋神社は、大子町初原に鎮座する神社です。
創建については記録が残っておらず不詳となりますが、
神社明細書(昭和27年に神社本庁に提出した資料)によれば、
大同元年(806年)となっています。
延暦年間、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折、武甕槌大神に戦勝を 祈願し、
本願を達成したので、常陸国を始め陸奥にまで鹿島大 神を奉斎しました。
その一社が当社であると言われているそうです。
茨城県の神社で四番目に多いのが鹿嶋神社(鹿島神社)。
たくさんある鹿嶋神社の中で
もっとも鹿島神宮(常陸国一宮)から離れているのが
こちらの鹿嶋神社になるそうです。
御祭神は、武甕槌大神。
看板(社号標?)。

幟。

神社社頭。

鳥居に掲げられた神額。

『鹿島宮』とある。
いつも思うんだけど、『鹿嶋神社』と『鹿島神社』。
『島』と『嶋』と字が違うけど、
御祭神も同じで鹿島神宮の流れを汲む神社。
何故、鹿島と鹿嶋が存在するんだろう?
鳥居の〆縄。

鳥居越しの拝殿。

手水鉢。

茅の輪の先に見えるのが龍神岩(左)と尾龍岩(右)。

拝殿。

拝殿正面に掲げられた扁額。

こちらには『鹿島神社』とある。
『鹿嶋神社』に『鹿島神社』、どっちが正しいの?
別アングルからの拝殿。

そして、こちらが本殿。

拝殿前にはスタンプ。

例の大子町41社巡りのスタンプです。
当然、台紙に押印いたしました。
近隣の神社も紹介しています。

境内社。




意外に境内社が多い。
ちょっとした驚きです。
拝殿脇に積まれた御神酒。

境内の記念碑。

古い手水鉢。

御神木。


その御神木は、『だき灯籠の杉』と呼ばれている。

そして説明板。

説明板によれば、杉の木が成長する過程の長い年月の中で
灯籠を飲み込みでしまいました。
それが子どもを宿したお腹に例えられていて、
子授けや子育てのご利益があると言われ、大子町の天然記念物に指定されています。
社務所。

閉まっています。
普段は無人の神社のようですね。
こちらが、初原鹿嶋神社の御朱印。

社務所は無人ですが、拝殿前に書き置きの御朱印が置かれていて
初穂料を賽銭箱に入れると言うシステム。
宮司さんにお会いできない神社も多いので、
こういったシステムは助かります。
ありがたくいただきました。
2023/09/10 Sun. 00:00 |
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父さんの廃校巡り 《 初原小学校》 (2023年6月26日)(茨城県久慈郡大子町)
6月26日
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
その2日目。
この日は大子町の廃校巡りを行います。
槙野地小学校をあとにして、向かった先は..........大子町立初原小学校。
初原小学校は、
明治5年 初原小学校が創立。
明治23年 佐原尋常小学校初原分校となる。
明治25年 初原尋常小学校として独立する。
大正15年 佐原尋常高等小学校初原分校となる。
昭和22年 学制改革により佐原村立佐原小学校初原分校と改称する。
昭和30年 佐原村が大子町、上小川村、黒沢村、生瀬村、袋田村、宮川村、依上村、
上小川村の一部(西金・盛金の一部)と合併して新たな大子町が誕生。
大子町立佐原小学校初原分校と改称する。
昭和31年 独立して大子町立初原小学校となる。
平成7年 佐原小学校と統合して新たに大子町立さわら小学校が創立。
初原小学校は閉校となる。
と、このような沿革となっています。
県道沿いに立つ看板。

初原ぼっちの学校.............
地元の初原地区が大子町から管理を委託され、
『初原ぼっちの学校』として夏休みにキャンプをしたりして
活用されているようです。
学校名として使われている「ぼっち」ですが、
『ひとりぼっち』のぼっちではなく、
『わらぼっち』のぼっちを意味するそうです。
稲刈り後、籾を収穫した藁を積んで田んぼに置かれたものを
『わらぼっち』と言うそうです。
そういえば、子供の頃、稲刈りの終わった田んぼに置かれた藁の山で
良く遊んだいた覚えがあります。
そんな子供の頃を思い出すような、
楽しい思い出を作る場所になるんでしょうか?
では、中に入ってみましょう。

正門跡。

残念ながら、石造りの門柱には往時の表札は残っていませんでした。
校庭の片隅には、藤棚。

木造校舎の残る初原小学校。

3棟の木造校舎が平成30年に国の有形文化財に登録されています
説明板。

これらは、先に見学した浅川小学校、槙野地小学校と同じですね。
説明板の近くには閉校記念碑。

沿革も刻まれています。

木造校舎が残る初原小学校。
その木造校舎。

別アングルから。

平屋建ての校舎。

正面玄関。

玄関には往時の表札が掲げられている。

平屋建ての校舎に2階建ての校舎が繋がっている。

その2階建ての校舎。

別アングルから。


漆黒の木造校舎がなんとも言えない雰囲気を醸し出している。

校舎の内部もガラス越しにちょっぴり覗いちゃいましょう。


2階建て校舎から、講堂への渡り廊下。

こちらが講堂。


校庭。


校庭に置かれた朝礼台。

校庭のシンボルツリー。

ここ、初原小学校も木造校舎の残る雰囲気のある廃校でした。
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
その2日目。
この日は大子町の廃校巡りを行います。
槙野地小学校をあとにして、向かった先は..........大子町立初原小学校。
初原小学校は、
明治5年 初原小学校が創立。
明治23年 佐原尋常小学校初原分校となる。
明治25年 初原尋常小学校として独立する。
大正15年 佐原尋常高等小学校初原分校となる。
昭和22年 学制改革により佐原村立佐原小学校初原分校と改称する。
昭和30年 佐原村が大子町、上小川村、黒沢村、生瀬村、袋田村、宮川村、依上村、
上小川村の一部(西金・盛金の一部)と合併して新たな大子町が誕生。
大子町立佐原小学校初原分校と改称する。
昭和31年 独立して大子町立初原小学校となる。
平成7年 佐原小学校と統合して新たに大子町立さわら小学校が創立。
初原小学校は閉校となる。
と、このような沿革となっています。
県道沿いに立つ看板。

初原ぼっちの学校.............
地元の初原地区が大子町から管理を委託され、
『初原ぼっちの学校』として夏休みにキャンプをしたりして
活用されているようです。
学校名として使われている「ぼっち」ですが、
『ひとりぼっち』のぼっちではなく、
『わらぼっち』のぼっちを意味するそうです。
稲刈り後、籾を収穫した藁を積んで田んぼに置かれたものを
『わらぼっち』と言うそうです。
そういえば、子供の頃、稲刈りの終わった田んぼに置かれた藁の山で
良く遊んだいた覚えがあります。
そんな子供の頃を思い出すような、
楽しい思い出を作る場所になるんでしょうか?
では、中に入ってみましょう。

正門跡。

残念ながら、石造りの門柱には往時の表札は残っていませんでした。
校庭の片隅には、藤棚。

木造校舎の残る初原小学校。

3棟の木造校舎が平成30年に国の有形文化財に登録されています
説明板。

これらは、先に見学した浅川小学校、槙野地小学校と同じですね。
説明板の近くには閉校記念碑。

沿革も刻まれています。

木造校舎が残る初原小学校。
その木造校舎。

別アングルから。

平屋建ての校舎。

正面玄関。

玄関には往時の表札が掲げられている。

平屋建ての校舎に2階建ての校舎が繋がっている。

その2階建ての校舎。

別アングルから。


漆黒の木造校舎がなんとも言えない雰囲気を醸し出している。

校舎の内部もガラス越しにちょっぴり覗いちゃいましょう。


2階建て校舎から、講堂への渡り廊下。

こちらが講堂。


校庭。


校庭に置かれた朝礼台。

校庭のシンボルツリー。

ここ、初原小学校も木造校舎の残る雰囲気のある廃校でした。
2023/09/09 Sat. 00:00 |
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父さんの廃校巡り 《 槙野内小学校》 (2023年6月26日)(茨城県久慈郡大子町)
6月26日
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
その2日目。
この日は大子町の廃校巡りを行います。
浅川小学校をあとにして、向かった先は.........大子町立槇野内小学校
廃校となった木造校舎の小学校跡を観光資源にしている大子町。
その最も成功例と言えるのが、こちらの槙野地小学校ではないでしょうか......?
槙野地小学校は
明治7年 佐原村立佐貫小学校槙野地分校を正分、天神林に創立する。
明治15年 正分、高台に校舎新築する。
明治25年 独立して槙野地小学校と改称する。
大正14年 佐原村立佐原尋常高等小学校槙野地分校となる。
昭和2年 校舎老朽化により槙野地分校を岩崎に新築移転する。
昭和22年 学制改革により、佐原村立佐原小学校槙野地分校と改称する。
昭和30年 佐原村が大子町、上小川村、黒沢村、生瀬村、袋田村、宮川村、依上村、
上小川村の一部(西金・盛金の一部)と合併して新たな大子町が誕生。
大子町立佐原小学校槙野地分校と改称する。
昭和31年 独立して大子町立槙野地小学校となる。
平成8年 さわら小学校に統合され閉校となる。
と、このような沿革となっています。
木造校舎が残る槙野地小学校。
その校舎は、国の有形文化財に登録されています。

平成30年に登録されたようです。
説明板には、有形文化財の登録証(プレート)が掲げられている。


浅川小学校と同じですね。
槙野地小学校の正門。

コンクリート製の門柱。
向かって左側の門柱には『おやきの学校』の表札が掲げられている。
閉校後、その敷地、建物(木造校舎)は『おやきの学校』として再活用されています。

右側の門柱には往時の表札が今なお、残されています。


正門から中へ一歩足を踏み入れれば、
そこは管理の行き届いた芝生の校庭。

芝生の緑が鮮やか。


その芝生の緑に漆黒の木造校舎が映える。

木造校舎。

別アングルから。



校舎正面玄関。

正面玄関の反対側の校庭にはかつて使われていた門跡。

こちらがかつての正門だったんでしょうね。
民家の脇には、久しく使われていない通学路跡が残る。

正門脇の一角にはモニュメントや碑が並ぶ。




栃木県でよく見かけたアンテナ台(?)
その頂部には風向計が付けられていたようです。

その手前には記念碑(学校跡碑)

『この地に 槙野地小学校 ありき』とある。
大子町の学校跡碑ではお馴染みのフレーズですね。
こちらは沿革が刻まれた廃校記念碑。

槙野地小学校は廃校後、特産品の体験・販売施設のおやきの学校』として活用され、
観光名所となっている。
校舎内にも入れるようなので入ってみましょう。
昨年秋、教室の一部をカフェにして営業(土曜・日曜・祝日)。

テラス席も完備されて木造校舎と緑の芝生を楽しみながら
昭和の給食を彷彿させる食事も楽しめるようです。

テラス席から眺める校庭。

芝生の緑が鮮やかです。
校舎内部。
かなり改装されています。
校舎の右側奥がカフェ。

この日は月曜日でカフェは休み。
校舎の中央部は椅子が並べられて、ちょっとした休憩スポットになっている。

二宮像はこちらにありました。


人体模型も置いてあります。

理科室に置いてありましたよね。
未だに、この模型は苦手です(笑)。
校舎の中の左側は、『おやき』の販売所。

7種の『おやき』が販売されています。
せっかくだから、食べて行きましょう。

野沢菜を一個注文しました。
レジの奥が『おやき』の工場。
こちらで製造販売しています。
レジで会計して『おやき』を受け取り、セルフでレンチンします。

では、いただきます。

意外に美味しい。

『おやき』を食べたら、校舎をぐるっと一回り。
校舎裏側。

ちょうどおやき工場の裏手になるようです。
その向かいには、教材用の赤い丸ポスト。

廃校がこうやって色々な人が遠慮なく訪れることが出来、
木造校舎も手を加えられながらも大切に使われて行く............
廃校跡地を単に有休地としているのでは無く、
大子町の槙野地小学校の再活用の仕方を
全国の自治体も参考にしてみたらどうでしょう..........?
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
その2日目。
この日は大子町の廃校巡りを行います。
浅川小学校をあとにして、向かった先は.........大子町立槇野内小学校
廃校となった木造校舎の小学校跡を観光資源にしている大子町。
その最も成功例と言えるのが、こちらの槙野地小学校ではないでしょうか......?
槙野地小学校は
明治7年 佐原村立佐貫小学校槙野地分校を正分、天神林に創立する。
明治15年 正分、高台に校舎新築する。
明治25年 独立して槙野地小学校と改称する。
大正14年 佐原村立佐原尋常高等小学校槙野地分校となる。
昭和2年 校舎老朽化により槙野地分校を岩崎に新築移転する。
昭和22年 学制改革により、佐原村立佐原小学校槙野地分校と改称する。
昭和30年 佐原村が大子町、上小川村、黒沢村、生瀬村、袋田村、宮川村、依上村、
上小川村の一部(西金・盛金の一部)と合併して新たな大子町が誕生。
大子町立佐原小学校槙野地分校と改称する。
昭和31年 独立して大子町立槙野地小学校となる。
平成8年 さわら小学校に統合され閉校となる。
と、このような沿革となっています。
木造校舎が残る槙野地小学校。
その校舎は、国の有形文化財に登録されています。

平成30年に登録されたようです。
説明板には、有形文化財の登録証(プレート)が掲げられている。


浅川小学校と同じですね。
槙野地小学校の正門。

コンクリート製の門柱。
向かって左側の門柱には『おやきの学校』の表札が掲げられている。
閉校後、その敷地、建物(木造校舎)は『おやきの学校』として再活用されています。

右側の門柱には往時の表札が今なお、残されています。


正門から中へ一歩足を踏み入れれば、
そこは管理の行き届いた芝生の校庭。

芝生の緑が鮮やか。


その芝生の緑に漆黒の木造校舎が映える。

木造校舎。

別アングルから。



校舎正面玄関。

正面玄関の反対側の校庭にはかつて使われていた門跡。

こちらがかつての正門だったんでしょうね。
民家の脇には、久しく使われていない通学路跡が残る。

正門脇の一角にはモニュメントや碑が並ぶ。




栃木県でよく見かけたアンテナ台(?)
その頂部には風向計が付けられていたようです。

その手前には記念碑(学校跡碑)

『この地に 槙野地小学校 ありき』とある。
大子町の学校跡碑ではお馴染みのフレーズですね。
こちらは沿革が刻まれた廃校記念碑。

槙野地小学校は廃校後、特産品の体験・販売施設のおやきの学校』として活用され、
観光名所となっている。
校舎内にも入れるようなので入ってみましょう。
昨年秋、教室の一部をカフェにして営業(土曜・日曜・祝日)。

テラス席も完備されて木造校舎と緑の芝生を楽しみながら
昭和の給食を彷彿させる食事も楽しめるようです。

テラス席から眺める校庭。

芝生の緑が鮮やかです。
校舎内部。
かなり改装されています。
校舎の右側奥がカフェ。

この日は月曜日でカフェは休み。
校舎の中央部は椅子が並べられて、ちょっとした休憩スポットになっている。

二宮像はこちらにありました。


人体模型も置いてあります。

理科室に置いてありましたよね。
未だに、この模型は苦手です(笑)。
校舎の中の左側は、『おやき』の販売所。

7種の『おやき』が販売されています。
せっかくだから、食べて行きましょう。

野沢菜を一個注文しました。
レジの奥が『おやき』の工場。
こちらで製造販売しています。
レジで会計して『おやき』を受け取り、セルフでレンチンします。

では、いただきます。

意外に美味しい。

『おやき』を食べたら、校舎をぐるっと一回り。
校舎裏側。

ちょうどおやき工場の裏手になるようです。
その向かいには、教材用の赤い丸ポスト。

廃校がこうやって色々な人が遠慮なく訪れることが出来、
木造校舎も手を加えられながらも大切に使われて行く............
廃校跡地を単に有休地としているのでは無く、
大子町の槙野地小学校の再活用の仕方を
全国の自治体も参考にしてみたらどうでしょう..........?
2023/09/08 Fri. 00:00 |
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父さんの廃校巡り 《 浅川小学校》 (2023年6月26日)(茨城県久慈郡大子町)
6月26日
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
その2日目。
この日は大子町の廃校巡りを行います。
矢田小学校をあとにして、向かった先は.........大子町立浅川小学校。
木造校舎が残る廃校跡を文化財として保存し、
そして観光資源として活用している大子町。
浅川小学校も、木造校舎が残る国の登録有形文化財に指定された
大子町の観光資産でもあります。
浅川小学校の詳細な沿革は不明です。
創立は明治6年。
旧郷倉を仮校舎としていましたが、
明治12年(1879年)9月に災害に合って焼失し、
現在の地に移されたそうです。
平成13年 大子小学校、池田小学校、上岡小学校、矢田小学校と統合して
新たに大子町立だいご小学校が開校する。
浅川小学校は閉校となる。
と、このような沿革になるようです。
正門跡。

かつての門柱。

門柱に残る表札は判読が難しい。

辛うじて、大子町立 浅川小学校と読める。
校庭からの校舎。
浅川小学校には2棟の木造校舎が残る。
こちらはその1棟。

正門から校庭越しに見えるこの校舎は2号棟。

敷地の東側に2号棟が西面して建っています。
木造平屋建て。昭和12年に建築されたものです。

別アングルから。

浅川小学校に残る2棟の木造校舎は、国の有形文化財に登録されています。

平成30年に指定されました。
説明板。

真壁の町でよく見かけた有形文化財の登録票(プレート)も掲げられています。

校庭。

校庭越しの1号棟。

1号棟は敷地の北側に南面して建っています。
2号棟は敷地の東側に西面して建っているから
1号棟と2号棟はL字型の校舎配置になっています。

別アングルから。



1号棟正面玄関。

1号棟裏側。


1号棟と2号棟の接続部の渡り廊下。

2号棟裏側。

1号棟の周りには学校遺構が残る。
先ほどの説明板も1号棟の前。

校舎前(1号棟)のモニュメントと碑。

『努力』と刻まれたモニュメント。

リスの絵が手作りっぽい。
こちらは記念碑。

『この地に我が母校 浅川小学校ありき』とある。
大子町の廃校に建つ学校跡碑は、このようなフレーズになっているようです。
校舎(1号棟)前のモニュメント。


校庭。

消防倉庫(?)が建つ。
てっきり、消防倉庫と思ったら違っていた。

『浅川お祭り伝承館』とある。
おそらく、この中に神輿が入っているんでしょうね。
校庭の藤棚。

校庭のシンボルツリー。

通信制の高校として再活用していると聞いていたけれど
それらしき看板は立っていない。
敷地内に大子町の名の入った軽自動車(公用車)が2台停まっていた。
大子町関連の施設として使われているんでしょうか.........?
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
その2日目。
この日は大子町の廃校巡りを行います。
矢田小学校をあとにして、向かった先は.........大子町立浅川小学校。
木造校舎が残る廃校跡を文化財として保存し、
そして観光資源として活用している大子町。
浅川小学校も、木造校舎が残る国の登録有形文化財に指定された
大子町の観光資産でもあります。
浅川小学校の詳細な沿革は不明です。
創立は明治6年。
旧郷倉を仮校舎としていましたが、
明治12年(1879年)9月に災害に合って焼失し、
現在の地に移されたそうです。
平成13年 大子小学校、池田小学校、上岡小学校、矢田小学校と統合して
新たに大子町立だいご小学校が開校する。
浅川小学校は閉校となる。
と、このような沿革になるようです。
正門跡。

かつての門柱。

門柱に残る表札は判読が難しい。

辛うじて、大子町立 浅川小学校と読める。
校庭からの校舎。
浅川小学校には2棟の木造校舎が残る。
こちらはその1棟。

正門から校庭越しに見えるこの校舎は2号棟。

敷地の東側に2号棟が西面して建っています。
木造平屋建て。昭和12年に建築されたものです。

別アングルから。

浅川小学校に残る2棟の木造校舎は、国の有形文化財に登録されています。

平成30年に指定されました。
説明板。

真壁の町でよく見かけた有形文化財の登録票(プレート)も掲げられています。

校庭。

校庭越しの1号棟。

1号棟は敷地の北側に南面して建っています。
2号棟は敷地の東側に西面して建っているから
1号棟と2号棟はL字型の校舎配置になっています。

別アングルから。



1号棟正面玄関。

1号棟裏側。


1号棟と2号棟の接続部の渡り廊下。

2号棟裏側。

1号棟の周りには学校遺構が残る。
先ほどの説明板も1号棟の前。

校舎前(1号棟)のモニュメントと碑。

『努力』と刻まれたモニュメント。

リスの絵が手作りっぽい。
こちらは記念碑。

『この地に我が母校 浅川小学校ありき』とある。
大子町の廃校に建つ学校跡碑は、このようなフレーズになっているようです。
校舎(1号棟)前のモニュメント。


校庭。

消防倉庫(?)が建つ。
てっきり、消防倉庫と思ったら違っていた。

『浅川お祭り伝承館』とある。
おそらく、この中に神輿が入っているんでしょうね。
校庭の藤棚。

校庭のシンボルツリー。

通信制の高校として再活用していると聞いていたけれど
それらしき看板は立っていない。
敷地内に大子町の名の入った軽自動車(公用車)が2台停まっていた。
大子町関連の施設として使われているんでしょうか.........?
2023/09/07 Thu. 00:00 |
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父さんの廃校巡り 《 矢田小学校》 (2023年6月26日)(茨城県久慈郡大子町)
6月26日
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
その2日目。
この日は大子町の廃校巡りを行います。
池田小学校をあとにして、
向かった先は...............大子町立矢田小学校。
矢田小学校は
明治6年 冥賀村に冥賀小学校が創立される
明治19年 学区改正により下野宮尋常小学校分教場となる。
明治25年 分教場より独立して冥賀尋常小学校となる。
明治43年 現在地に移転し宮川尋常小学校と改称する。
昭和22年 学制改革により宮川村立宮川小学校と改称する。
昭和23年 宮川村立矢田小学校と改称する。
昭和30年 町村合併により大子町矢田小学校と改称する。
平成13年 大子小学校、池田小学校 浅川小学校、上岡小学校と統合して
新たに大子町立だいご小学校が開校する。
矢田小学校は閉校となる。
と、このような沿革となっています。
平成13年の閉校時、矢田小学校には明治43年(1910年)に建てられた
歴史のある木造校舎が在りました。
テレビドラマのロケなども行われていましたが、
残念ながら校舎は、火事により全焼してしまいました。
大子町と言えば、西金小学校、浅川小学校、槙野地小学校、初原小学校、
上岡小学校と木造校舎が残る廃校好きには聖地とも言える町で、
この矢田小学校も、一役担っていたと言える小学校でした。
かつての通学路。

この石段の先に正門が在る。
こちらが正門跡。

コンクリート製の門柱。

門柱には、禿げて読めない矢田小学校の表札が遺っていました。

敷地内に入って正門を振り返ってみます。

コンクリート製の門柱は寄贈された物だったんですね。

火災後、敷地は町営住宅(大子町営えのき台住宅)となりました。

かつて木造の校舎の学び舎は、住民の生活の場となりました。



それでも正門の近く一画には、小学校関連の碑が残されています。

沿革や校歌の刻まれた碑。

こちらは、『この地に矢田小学校ありき』と刻まれた碑。

さらに碑は並ぶ。



その脇には遊具も残る。

この古さは、矢田小学校時代のものでしょうね。


敷地の奥には薬師堂があり、その背後にはこんな虎口のようなものもある。

一瞬、ここは城郭遺構か? と思ったりして.............(笑)
こちらの遊具は新そうだから
町営住宅として整備したときに設置されたものでしょう。


残念なのは、敷地内に立派なけやきの木が残っていると言う事でしたが
見落としてしまったようです。
矢田小学校のシンボルツリー的な存在の木のようです。
考えてみれば、立派なけやきの木があるから、
『けやき台住宅』って名付けられたんでしょうね。
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
その2日目。
この日は大子町の廃校巡りを行います。
池田小学校をあとにして、
向かった先は...............大子町立矢田小学校。
矢田小学校は
明治6年 冥賀村に冥賀小学校が創立される
明治19年 学区改正により下野宮尋常小学校分教場となる。
明治25年 分教場より独立して冥賀尋常小学校となる。
明治43年 現在地に移転し宮川尋常小学校と改称する。
昭和22年 学制改革により宮川村立宮川小学校と改称する。
昭和23年 宮川村立矢田小学校と改称する。
昭和30年 町村合併により大子町矢田小学校と改称する。
平成13年 大子小学校、池田小学校 浅川小学校、上岡小学校と統合して
新たに大子町立だいご小学校が開校する。
矢田小学校は閉校となる。
と、このような沿革となっています。
平成13年の閉校時、矢田小学校には明治43年(1910年)に建てられた
歴史のある木造校舎が在りました。
テレビドラマのロケなども行われていましたが、
残念ながら校舎は、火事により全焼してしまいました。
大子町と言えば、西金小学校、浅川小学校、槙野地小学校、初原小学校、
上岡小学校と木造校舎が残る廃校好きには聖地とも言える町で、
この矢田小学校も、一役担っていたと言える小学校でした。
かつての通学路。

この石段の先に正門が在る。
こちらが正門跡。

コンクリート製の門柱。

門柱には、禿げて読めない矢田小学校の表札が遺っていました。

敷地内に入って正門を振り返ってみます。

コンクリート製の門柱は寄贈された物だったんですね。

火災後、敷地は町営住宅(大子町営えのき台住宅)となりました。

かつて木造の校舎の学び舎は、住民の生活の場となりました。



それでも正門の近く一画には、小学校関連の碑が残されています。

沿革や校歌の刻まれた碑。

こちらは、『この地に矢田小学校ありき』と刻まれた碑。

さらに碑は並ぶ。



その脇には遊具も残る。

この古さは、矢田小学校時代のものでしょうね。


敷地の奥には薬師堂があり、その背後にはこんな虎口のようなものもある。

一瞬、ここは城郭遺構か? と思ったりして.............(笑)
こちらの遊具は新そうだから
町営住宅として整備したときに設置されたものでしょう。


残念なのは、敷地内に立派なけやきの木が残っていると言う事でしたが
見落としてしまったようです。
矢田小学校のシンボルツリー的な存在の木のようです。
考えてみれば、立派なけやきの木があるから、
『けやき台住宅』って名付けられたんでしょうね。
2023/09/06 Wed. 00:00 |
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父さんの廃校巡り 《 池田小学校》 (2023年6月26日)(茨城県久慈郡大子町)
6月26日
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
その2日目。
この日は大子町の廃校巡りを行います。
宿泊先のホテル奥久慈館をチェックアウトして
向かった先は...............大子町立池田小学校。
池田小学校の詳細な沿革は不明ですが
現地に在った学校跡碑に刻まれていた沿革によれば........
明治7年に池田村の菊池宗右衛門先生宅に開校した池田小学校がその始まりとされています。
明治8年 現在地に校舎を新築して移転。
その後、幾多の変遷を経て大子町立池田小学校と改称する。
平成13年 大子小学校、浅川小学校、上岡小学校、矢田小学校と統合して
新たに大子町立だいご小学校が開校する。
池田小学校は閉校となる。
と、このような沿革であったようです。
プレハブ校舎が残り、大子町シルバー人材センターとして活用されていましたが、
平成30年(2018年)までに解体されてしまったようです。
かつての正門跡。

おそらくシンボルツリーであったのでしょう。

そのシンボルツリーの前には記念碑。

こちらは創立百周年記念碑。

沿革が刻まれています。
こちらが裏面のようです。
池田小学校の歴史を知る上で、この沿革が役に立ちました。
こちらが表面。

ピンボケですが、創立百年 池田小学校 とあります。
こちらは、閉校記念碑。

表面には、『この地に池田小学校ありき』と刻まれています。

閉校後、暫くはプレハブ校舎を利用して、
『シルバー人材センター』として活用されていたようですが、
プレハブ校舎は解体され、跡地には保育園(池田保育園)が建てられています。

新しい園舎。

廃校巡りをしていて、廃校跡地が再喝よされているケースが多いけれど
幼稚園とか保育園。あるいは児童園と言った幼児教育施設になっている場合も多い。
意外にそう言った場合が面倒と言うか、まず敷地内に入れない。
運良く日曜・祝日であったとしても、不審者扱いされてしまう事もありそうなので
個人的には、廃校後の幼稚園・保育園って言うパターンは歓迎しない。

結局は、駐車場から新たな園舎や園庭を眺め
画像に収め立ち去るしか無い。

園庭の奥に見える木々は、
池田小学校の校庭に生えていた桜の木々であったのだろう。

唯一の救いは、かつての正門跡近くに記念碑を遺してくれた事。
現存していたか? 否か? は不明だけど
二宮像も並んでいたら最高だったんけどなぁ。
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
その2日目。
この日は大子町の廃校巡りを行います。
宿泊先のホテル奥久慈館をチェックアウトして
向かった先は...............大子町立池田小学校。
池田小学校の詳細な沿革は不明ですが
現地に在った学校跡碑に刻まれていた沿革によれば........
明治7年に池田村の菊池宗右衛門先生宅に開校した池田小学校がその始まりとされています。
明治8年 現在地に校舎を新築して移転。
その後、幾多の変遷を経て大子町立池田小学校と改称する。
平成13年 大子小学校、浅川小学校、上岡小学校、矢田小学校と統合して
新たに大子町立だいご小学校が開校する。
池田小学校は閉校となる。
と、このような沿革であったようです。
プレハブ校舎が残り、大子町シルバー人材センターとして活用されていましたが、
平成30年(2018年)までに解体されてしまったようです。
かつての正門跡。

おそらくシンボルツリーであったのでしょう。

そのシンボルツリーの前には記念碑。

こちらは創立百周年記念碑。

沿革が刻まれています。
こちらが裏面のようです。
池田小学校の歴史を知る上で、この沿革が役に立ちました。
こちらが表面。

ピンボケですが、創立百年 池田小学校 とあります。
こちらは、閉校記念碑。

表面には、『この地に池田小学校ありき』と刻まれています。

閉校後、暫くはプレハブ校舎を利用して、
『シルバー人材センター』として活用されていたようですが、
プレハブ校舎は解体され、跡地には保育園(池田保育園)が建てられています。

新しい園舎。

廃校巡りをしていて、廃校跡地が再喝よされているケースが多いけれど
幼稚園とか保育園。あるいは児童園と言った幼児教育施設になっている場合も多い。
意外にそう言った場合が面倒と言うか、まず敷地内に入れない。
運良く日曜・祝日であったとしても、不審者扱いされてしまう事もありそうなので
個人的には、廃校後の幼稚園・保育園って言うパターンは歓迎しない。

結局は、駐車場から新たな園舎や園庭を眺め
画像に収め立ち去るしか無い。

園庭の奥に見える木々は、
池田小学校の校庭に生えていた桜の木々であったのだろう。

唯一の救いは、かつての正門跡近くに記念碑を遺してくれた事。
現存していたか? 否か? は不明だけど
二宮像も並んでいたら最高だったんけどなぁ。
2023/09/05 Tue. 00:00 |
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本日の宿 《ホテル奥久慈館》 (2023年6月25日)(茨城県久慈郡大子町)
6月25日
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
朝早く千葉県を出発。
常陸大宮市から大子町へと、丸ポストを探し、廃校に訪れ、
城址を攻め、滝を眺め、神社に参拝し、足湯に浸かり
茨城百景に碑を探し、ほぼ一日中動き回ってこの日の宿へと向かいます。
この日は、奥久慈大子温泉に泊まります。
宿は、伊東園グループのホテル奥久慈館。

到着したのは16時ごろ。
すでにホテル正面の駐車場は満車。

やはり、コスパの良いホテルなので宿泊者はみたい。
第2駐車場に車を停めてチェックインします。



フロントもすでに混雑。

チェックインにも時間が掛かります。

この日の部屋は別館の2階、『252号室』。


シングルの部屋。
ほぼ部屋のほとんどをベッド占有する。

什器や備品もそんなに無い。
でも文句は言いません。

まぁ、ビジネスホテルに毛の生えたようなものと思えば良い。


まぁ、夕食は食べ放題、飲み放題だし、
どうせ酔っ払って、寝るだけだからベッドがあれば良い。
まぁ贅沢言えば、和室で布団だったら最高なんだけどね(笑)。
夕食と朝食の食券。

本日の夕食は18時からと19時からの2部制
わざと遅い時間の19時の夕食を選んで、
その間に空いているお風呂でしっかり汗を流します。
こちらは、全国割引(全国旅行支援)のクーポン。

実は、終わってしまったと思っていた全国旅行支援の茨城県の枠が
少し残っていたみたいで、ネットでチェックした時に
「全国旅行支援適用」なんて載っていたから、
思わずポチッと予約をしてしまったと言うのが、
今回の奥久慈旅行になった訳なんですが.............
専用のアプリを立ち上げて...........

QRコードを読み込んで、2000Pointのチャージとなります。

これで、対応店で2000円分の買い物が出来ます。
では、お風呂に行きましょう。

男湯は地下1階。
男湯の暖簾をくぐります。

脱衣所。


洗面所。

脱衣所の壁に貼られた大子温泉の成分分析表などなど..........




大浴場。




こちらは露天風呂。


露天風呂の脇にはちょっとした涼み場所もある。

風呂上がりに館内を探索しちゃいます。
風呂上がりの休憩所。

売店。

ゲームコーナー。


自販機コーナー。

缶ビールはこちらで調達出来ます。
フロント前のロビー。

卓球場。

部屋に戻って..............
食事前ですが、風呂上がりはやっぱりビール。

持参したスナック類をつまみに、プシュー。

やはり持参したPCを部屋のテレビに繋げて『Tーver』でドラマを見ながら
グビッグビッとビールを味わいます。

さてさて、時刻は夕食タイム。
ウォーミングアップの缶ビールの酔いも心地よい。
バイキングの会場へと向かいます。

嬉しいことに、炙り寿司フェアだって............

あれ?
2部制だと思っていたら3部制だった。

まぁ、この時間で間違いないから食べ損ないことはないでしょう。
あと5分。

炙り寿司が待っている〜(笑)
バイキングの良さって言うのは
好きなものだけ好きなだけ持って来れる。

その結果が こちら。

刺身や寿司類を中心にチョイス。

やっぱり寿司は美味しい。

6種の炙り寿司、全種類いただきます。



肉系は極力パスして、好きなものだけ美味しくいただきます。




デザートのシュークリームと棒アイスも美味しくいただきましょう。

何気にシュークリームがコーヒーに合う。
ついつい、お代わりしちゃったりして..................

はい、大変満足した夕食となりました。
食後の散策。
館内を再び..........
ロビー。

カラオケルーム。
一瞬、スナックのようにも見える。
もう時間が遅いので、誰もいない。

こちらもカラオケルーム(大部屋)
大人数で歌って盛り上がるんでしょうか?

お腹もいっぱい、心地よい疲れと酔いを感じながら
この日は早々と眠りの底に.............
翌朝、5時過ぎにしっかりと朝風呂。
そして二度寝(笑)
朝食の時間には遅れず席をキープ。
朝食もしっかりいただきましょう。
茶碗2杯のご飯と焼きそば。

そしてシメのうどん。

食後のコーヒーもしっかりいただきます。

この日は、大子町の廃校巡りが主体で、それなりに動き回る予定です。
朝飯もしっかり食べたから、充実した1日になるよう頑張りましょう。
チェックアウトして、いざ大子町の廃校ツアーは始まります。
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
朝早く千葉県を出発。
常陸大宮市から大子町へと、丸ポストを探し、廃校に訪れ、
城址を攻め、滝を眺め、神社に参拝し、足湯に浸かり
茨城百景に碑を探し、ほぼ一日中動き回ってこの日の宿へと向かいます。
この日は、奥久慈大子温泉に泊まります。
宿は、伊東園グループのホテル奥久慈館。

到着したのは16時ごろ。
すでにホテル正面の駐車場は満車。

やはり、コスパの良いホテルなので宿泊者はみたい。
第2駐車場に車を停めてチェックインします。



フロントもすでに混雑。

チェックインにも時間が掛かります。

この日の部屋は別館の2階、『252号室』。


シングルの部屋。
ほぼ部屋のほとんどをベッド占有する。

什器や備品もそんなに無い。
でも文句は言いません。

まぁ、ビジネスホテルに毛の生えたようなものと思えば良い。


まぁ、夕食は食べ放題、飲み放題だし、
どうせ酔っ払って、寝るだけだからベッドがあれば良い。
まぁ贅沢言えば、和室で布団だったら最高なんだけどね(笑)。
夕食と朝食の食券。

本日の夕食は18時からと19時からの2部制
わざと遅い時間の19時の夕食を選んで、
その間に空いているお風呂でしっかり汗を流します。
こちらは、全国割引(全国旅行支援)のクーポン。

実は、終わってしまったと思っていた全国旅行支援の茨城県の枠が
少し残っていたみたいで、ネットでチェックした時に
「全国旅行支援適用」なんて載っていたから、
思わずポチッと予約をしてしまったと言うのが、
今回の奥久慈旅行になった訳なんですが.............
専用のアプリを立ち上げて...........

QRコードを読み込んで、2000Pointのチャージとなります。

これで、対応店で2000円分の買い物が出来ます。
では、お風呂に行きましょう。

男湯は地下1階。
男湯の暖簾をくぐります。

脱衣所。


洗面所。

脱衣所の壁に貼られた大子温泉の成分分析表などなど..........




大浴場。




こちらは露天風呂。


露天風呂の脇にはちょっとした涼み場所もある。

風呂上がりに館内を探索しちゃいます。
風呂上がりの休憩所。

売店。

ゲームコーナー。


自販機コーナー。

缶ビールはこちらで調達出来ます。
フロント前のロビー。

卓球場。

部屋に戻って..............
食事前ですが、風呂上がりはやっぱりビール。

持参したスナック類をつまみに、プシュー。

やはり持参したPCを部屋のテレビに繋げて『Tーver』でドラマを見ながら
グビッグビッとビールを味わいます。

さてさて、時刻は夕食タイム。
ウォーミングアップの缶ビールの酔いも心地よい。
バイキングの会場へと向かいます。

嬉しいことに、炙り寿司フェアだって............

あれ?
2部制だと思っていたら3部制だった。

まぁ、この時間で間違いないから食べ損ないことはないでしょう。
あと5分。

炙り寿司が待っている〜(笑)
バイキングの良さって言うのは
好きなものだけ好きなだけ持って来れる。

その結果が こちら。

刺身や寿司類を中心にチョイス。

やっぱり寿司は美味しい。

6種の炙り寿司、全種類いただきます。



肉系は極力パスして、好きなものだけ美味しくいただきます。




デザートのシュークリームと棒アイスも美味しくいただきましょう。

何気にシュークリームがコーヒーに合う。
ついつい、お代わりしちゃったりして..................

はい、大変満足した夕食となりました。
食後の散策。
館内を再び..........
ロビー。

カラオケルーム。
一瞬、スナックのようにも見える。
もう時間が遅いので、誰もいない。

こちらもカラオケルーム(大部屋)
大人数で歌って盛り上がるんでしょうか?

お腹もいっぱい、心地よい疲れと酔いを感じながら
この日は早々と眠りの底に.............
翌朝、5時過ぎにしっかりと朝風呂。
そして二度寝(笑)
朝食の時間には遅れず席をキープ。
朝食もしっかりいただきましょう。
茶碗2杯のご飯と焼きそば。

そしてシメのうどん。

食後のコーヒーもしっかりいただきます。

この日は、大子町の廃校巡りが主体で、それなりに動き回る予定です。
朝飯もしっかり食べたから、充実した1日になるよう頑張りましょう。
チェックアウトして、いざ大子町の廃校ツアーは始まります。
2023/09/04 Mon. 00:00 |
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偶然見つけた廃校跡 (2023年6月25日)(茨城県久慈郡大子町)
6月25日
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
この日訪れた、大子町の十二所神社、
その参道は、だいご小学校の脇を通る。

十二所神社の参拝後、参道を歩きながら
だいご小学校の体育館の脇を通ったら、石碑らしきモノが見えた。

近寄ってみると.......

茨城県立大子第二高等学校跡 とある。
この碑は、昭和60年に建てられたモノのようです。

調べてみると
昭和52年まで、この地は茨城県立大子第二高等学校の在った場所らしい。
大子第二高等学校は、
明治43年に開校した、私立大子女子技芸講習所がその前身となるようです。
金町の野内せき宅2階を仮教場とし、初年度の生徒は10人だったそうです。
その後、明治45年に本町の益子勝雄宅に教場を移転しました。
同年 大子町に移管して大子町立女子技芸補習学校に改称して
大子尋常高等小学校に併設する。
大正7年 大子町立女子技芸学校と改称する。
茨城県で11番目の独立した女子校となる。
昭和2年 組合立に移管して茨城県大子町外六ヶ村組合立大子女子技芸学校と改称する。
昭和18年 茨城県大子高等女学校に昇格。
昭和22年 茨城県に移管、茨城県立大子高等女学校と改称する。
昭和23年 茨城県立大子女子高等学校と改称する。
昭和24年 茨城県立大子第二高等学校と改称して
普通科と家庭科を設置。
昭和52年 校地を移転する。
その後、平成18年に茨城県立大子第一高等学校と統合して
新たに茨城県立大子清流高等学校が開校しました。
大子第二高等学校は閉校となりました。
このような沿革の大子第二高等学校。
昭和52年まで学び舎だった場所は、だいご小学校の体育館かありますが、
その敷地のほとんどが、大子幼稚園となっています。

廃校跡の再活用として公民館になる場合が多いけど
幼稚園や保育園、こどもセンターと言った幼児期の教育施設になる場合も多い。

こちらもその一例。

なかなか、そう言った施設になると不審者と勘違いされるのも嫌だから
あまり敷地内や敷地周辺をうろちょろ出来ない。
ましてやカメラを首から下げてうろちょろとは出来ません。
日曜日ではありますが、幼児は居ませんが早々に引き上げる事にいたしました。
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
この日訪れた、大子町の十二所神社、
その参道は、だいご小学校の脇を通る。

十二所神社の参拝後、参道を歩きながら
だいご小学校の体育館の脇を通ったら、石碑らしきモノが見えた。

近寄ってみると.......

茨城県立大子第二高等学校跡 とある。
この碑は、昭和60年に建てられたモノのようです。

調べてみると
昭和52年まで、この地は茨城県立大子第二高等学校の在った場所らしい。
大子第二高等学校は、
明治43年に開校した、私立大子女子技芸講習所がその前身となるようです。
金町の野内せき宅2階を仮教場とし、初年度の生徒は10人だったそうです。
その後、明治45年に本町の益子勝雄宅に教場を移転しました。
同年 大子町に移管して大子町立女子技芸補習学校に改称して
大子尋常高等小学校に併設する。
大正7年 大子町立女子技芸学校と改称する。
茨城県で11番目の独立した女子校となる。
昭和2年 組合立に移管して茨城県大子町外六ヶ村組合立大子女子技芸学校と改称する。
昭和18年 茨城県大子高等女学校に昇格。
昭和22年 茨城県に移管、茨城県立大子高等女学校と改称する。
昭和23年 茨城県立大子女子高等学校と改称する。
昭和24年 茨城県立大子第二高等学校と改称して
普通科と家庭科を設置。
昭和52年 校地を移転する。
その後、平成18年に茨城県立大子第一高等学校と統合して
新たに茨城県立大子清流高等学校が開校しました。
大子第二高等学校は閉校となりました。
このような沿革の大子第二高等学校。
昭和52年まで学び舎だった場所は、だいご小学校の体育館かありますが、
その敷地のほとんどが、大子幼稚園となっています。

廃校跡の再活用として公民館になる場合が多いけど
幼稚園や保育園、こどもセンターと言った幼児期の教育施設になる場合も多い。

こちらもその一例。

なかなか、そう言った施設になると不審者と勘違いされるのも嫌だから
あまり敷地内や敷地周辺をうろちょろ出来ない。
ましてやカメラを首から下げてうろちょろとは出来ません。
日曜日ではありますが、幼児は居ませんが早々に引き上げる事にいたしました。
2023/09/03 Sun. 15:00 |
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十二所神社 (2023年6月25日)(茨城県久慈郡大子町)
6月25日
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
大子町で『茨城百景 大子の史跡』の碑を探し終え
ついでだからと訪れた十二所神社。
『茨城百景 大子の史跡』の包括風景の一つでもねあるけれど
毎年の、ひな祭りの時期に、『百段雛飾り』と称して
参道の石段に雛人形を飾る事でも有名な神社。
そして、その時期にだけ、御朱印が頒布される神社と言う事で
以前から気になっていた神社でした。
ひな祭りの時期だけと言う御朱印。
ひょっとしたら、宮司さんに会えれば
この時期でもいただく事が出来ないか?
淡い期待を胸に参拝に訪れてみました。
十二所神社は、大子町大子に鎮座する神社です。
社伝では奈良時代の727年に創建され、
その後、戦国大名の佐竹義宣の寄進による社殿改築や、
水戸藩第2代藩主徳川光圀からの除地の供与などがされました。
祭神として神武天皇より前の日本神話の神々である天神七代、
地神五代と称される以下の12代17柱の神々を祀っています。
天神七代の神々(7代12柱)
国常立尊(クニトコタチノミコト)
豊斟渟尊(トヨクムヌノミコト)
泥土煮尊(ウヒジニノミコト)、沙土煮尊(ヌヒジニノミコト)
角杙神(ツヌグイノミコト)、活杙神(イククイノミコト)
大戸道尊(オオトジノミコト)、大苫尊(オオトマエノミコト)
面足尊(オモダルノミコト)、惶根尊(カシコネノミコト)
伊弉諾尊(イザナギノミコト)、伊弉冉尊(イザナミノミコト)
地神五代の神々(5代5柱)
天照大神(アマテラスオオミノカミ)
忍穗耳尊(オシホシノミコト)
瓊々杵尊(ニニギノミコト)
彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)
鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)
神社社頭。

社号標。

一の鳥居。

百段石段。

節句の季節には、この石段に雛人形が飾られます。
石段を上り、だいこ小学校の脇を通って参道が続きます。

再び石段。

その先には、二の鳥居。

狛犬。


手水舎。

拝殿。

向拝。

拝殿正面。

拝殿正面に掲げられた扁額。

別アングルからの拝殿。


こちらも扁額。

拝殿前の狛犬。


そして、こちらが本殿。

境内社 三峯神社。

石祠も並ぶ。

宝物庫?

板碑。

社務所。

授与所。

社務所も授与所も閉まっていました。
どうやら、普段は無人の神社のようですね。
例祭日とか特別な日でないと、やはり御朱印の授与は難しいようですね。
6月25日〜26日、1泊2日で茨城県の奥久慈方面へと出かけました。
大子町で『茨城百景 大子の史跡』の碑を探し終え
ついでだからと訪れた十二所神社。
『茨城百景 大子の史跡』の包括風景の一つでもねあるけれど
毎年の、ひな祭りの時期に、『百段雛飾り』と称して
参道の石段に雛人形を飾る事でも有名な神社。
そして、その時期にだけ、御朱印が頒布される神社と言う事で
以前から気になっていた神社でした。
ひな祭りの時期だけと言う御朱印。
ひょっとしたら、宮司さんに会えれば
この時期でもいただく事が出来ないか?
淡い期待を胸に参拝に訪れてみました。
十二所神社は、大子町大子に鎮座する神社です。
社伝では奈良時代の727年に創建され、
その後、戦国大名の佐竹義宣の寄進による社殿改築や、
水戸藩第2代藩主徳川光圀からの除地の供与などがされました。
祭神として神武天皇より前の日本神話の神々である天神七代、
地神五代と称される以下の12代17柱の神々を祀っています。
天神七代の神々(7代12柱)
国常立尊(クニトコタチノミコト)
豊斟渟尊(トヨクムヌノミコト)
泥土煮尊(ウヒジニノミコト)、沙土煮尊(ヌヒジニノミコト)
角杙神(ツヌグイノミコト)、活杙神(イククイノミコト)
大戸道尊(オオトジノミコト)、大苫尊(オオトマエノミコト)
面足尊(オモダルノミコト)、惶根尊(カシコネノミコト)
伊弉諾尊(イザナギノミコト)、伊弉冉尊(イザナミノミコト)
地神五代の神々(5代5柱)
天照大神(アマテラスオオミノカミ)
忍穗耳尊(オシホシノミコト)
瓊々杵尊(ニニギノミコト)
彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)
鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)
神社社頭。

社号標。

一の鳥居。

百段石段。

節句の季節には、この石段に雛人形が飾られます。
石段を上り、だいこ小学校の脇を通って参道が続きます。

再び石段。

その先には、二の鳥居。

狛犬。


手水舎。

拝殿。

向拝。

拝殿正面。

拝殿正面に掲げられた扁額。

別アングルからの拝殿。


こちらも扁額。

拝殿前の狛犬。


そして、こちらが本殿。

境内社 三峯神社。

石祠も並ぶ。

宝物庫?

板碑。

社務所。

授与所。

社務所も授与所も閉まっていました。
どうやら、普段は無人の神社のようですね。
例祭日とか特別な日でないと、やはり御朱印の授与は難しいようですね。
2023/09/03 Sun. 00:00 |
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